「……遅い」
 一人ごちて、空を見上げると闇が陽光を閉ざしつつあった。
 周囲を照らすものは、後ろから灯り背中を焼く屋台の光。
 甚平を着て腕を組み、一つ欠伸してから空を見上げる。
 雲間から覗く星々は地上の灯り何するものぞ、とでも言うように知らん顔をして煌々と輝いていた。
 もうこうして半刻以上も経つが、待ち人が来たる様子は一向に見受けられない。
 やれ普通はこう言うのは普通は男が遅れるものではないのかとか、やれ普通は男は待っても愚痴らないものだとか言う輩は居るのかもしれない。
 一度全く待ちあわせしたのに姿を見せず、いい加減2時間経って探しに行こうとして腕を引かれてから俺の無意識を弄られていたことに気付いた。
 しかも無意識を弄られていたのにも関わらず気付かなかった事に涙目になって怒られた。
 非常に納得がいかないが、俺が今待ちあわせしている相手はそのような事をたやすく行う妖怪である。
 ふー、と一つ息をついて軽く空を仰ぎ、宵の味がする風に身を任せる。
 しかしまあ、珍しく、本当に珍しくこの麓の神社に人が来たものだ――そう思わざるを得ない程の人間と、人妖の数だった。
 ある意味では普段の人里の延長とでも言うのだろうか、これだけの数が居ては巫女も守護者も管理が大変だろうに。
 妖怪が人を食らう訳でもなければ、妖怪から人が逃げる訳でもないあたりはその辺のけじめはしっかりとしているのかもしれない。

「だーれだっ」
 ふ、と目元が少し小さい手で覆われて、聞き覚えのある声が耳に触れる。
 人様待たせておいて悪びれた様子もない彼女に対して多少の苦情を申し立てるべきかと溜息を付きながら返答する。
「こいし」
 その手を開くように掴んで彼女の姉のようなジト目を向けてやれば。
「遅れちゃってごめんね?」
 悪びれた様子の無い彼女の、彩りに満ち溢れた浴衣を着た姿。
 一瞬だけ見惚れ、頭の中に抱いた綺麗だ、とか似合っている、とかありきたりな感情を否定して吹き飛ばすようにしながら呟く。
「ったく、遅れそうなら言って置けっての」
 自分の頭をがりがりと掻く事しか出来ず視線を逸らすと、こいしが腕に身体を押しつけて来た。
「だーかーらー、ごめんって言ってるでしょ? もー」
 笑いながら彼女はぐいぐいと腕を引いて行く。
 大して宜しい縫製では無いこの甚平では何時袖がもげるか解ったものではなく、内心ハラハラしながら付き合って歩いて行く。
 普段と違い、帽子を取ったこいしのウェーブが掛かった髪がゆらゆらと目の前で揺れて、俺を導いて行く。
 周囲の赤や黄色、色とりどりの光に照らされたそれはまるで俺を惑わすかのように誘う。
 湿った土の匂いが空気に混じり、身体に『これが祭りだ』と教え込んで来る。
「人いっぱーいっ」
 そんな事を知ってか知らずか、嬉しそうな声を上げながら彼女は人の波をかき分けるように屋台の方へ歩いて行きちゃりちゃりと小銭を鳴らす。
 やはり食い気か、祭りなんだし先に参拝してやろうぜ思い半ば呆れながら腕を引かれ、焼きヤツメウナギの屋台に到着すると一匹の妖怪が出迎えた。

「いらっしゃーい、妖怪と人間の取り合わせって珍しいね?」
「いよっとお二人さん、飲んでるかい? 素面じゃ酒の席はやってらんないよ?」
 笑顔を浮かべる女将姿の少女と、その席で杯を煽りにし、と笑みを浮かべる二本の角が頭から突き出た少女。
「あいにく満席だけどね。食べ歩く?」
「うんっ、二本お願いー! あ、タレもたっぷりお願いねー!」
 女将姿の妖怪にこいしが声をあげて
 大分盛況のようで、辺りには酒瓶と突っ伏した白黒の服の魔女が転がっていた。
「……ぁー……久しぶりに飲んだぁ……ぐにゃ」
「……鬼に付き合って馬鹿みたいに飲むからよね、生身の人間が」
 くい、と杯を傾けながら呟くのは青い服を着た金髪の少女。
「あなたも大変よね。相手が妖怪だと。潰されないようにしときなさいよ?」
「お気遣いどーも」
 生返事を返しながら視線を移すと、その傍らにこれまた突っ伏した白髪の少女ととても淡麗な笑顔を浮かべながら皿を積み重ねている女性の姿があった。
「そこらの人間や半霊みたいにならないように」
「あらあら、この子はまだ半人前だからねぇ、食べる量も飲む量も」
 白い髪の少女の頭を優しく撫でるその女性の様子と、既に意識を彼方へ吹き飛ばしたであろう銀髪少女の潰れ方の対比とが壮絶で、思わず反射的に目を逸らした。
「正解よ」
 そんな声が聞こえたが、声を上げた金髪の少女にも顔を向けずこいしの方に視線を移す。
 こちらを見ながら串を差し出して目をキラキラと輝かせながらただ笑顔を浮かべている様子を見て、何事かを理解し此処でそれをやれと言う羞恥プレイの酷さに軽く絶望した。
 更にニヤニヤしながら此方を見ているであろう周囲の人妖どもに更に絶望し、こいしはまだしも俺の反応は酒のツマミじゃないと叫びたくもなった。
「はい、あーん」
 目を細めてタレが落ちないように適度な高さに持ちあげるこいしの様子は確信犯にしか見えず、世の中一般で『はい、あーん』するものにしては随分とこってりとした味のついたものだなと何処か冷めた思考で考える。
 これで無意識と言い切るあたり恐れ入ると言うかもうどうしようもない。
「ほら、早く口を開けてよー」
 思わず二つの意味で閉口していた俺の唇を開けさせようとするその様子が、正直な所かなり憎らしい。
「冷めちゃうよ?」
「……お前な」
 溜息を一つついてから、口を開けて食むと香ばしい味が味覚中枢を刺激する。
 おぉ、とかひゅーひゅー、とか囃し立てる声は意識の外へと完全に追いやった。
「どう? 美味しい?」
「美味いが、強いて言うならそれをする食べ物じゃない」
 先程から考えていた言葉を口にすると、こいしが少し膨れっ面になって残りをぱくぱくと一本丸々口の中に押し込んだ。
「ほふぁ、ほふはひほひひひほひ」
「はいはい何言ってるのか解らんから」
 汗拭き代わりに持ってきていた手拭で口元を拭ってやると、途端に機嫌の良さそうな顔をして笑顔を浮かべる彼女の様子を見て、近くに居る誰かが呟いた。
「春ね。しかも重度の」
「あら、春告精の時期はまだ先よ?」
「春から溜まっているツケ、まだお支払して頂けないんですか?」
「まぁまぁ、野暮な事言いなさんなって。折角の祭りにこいしちゃんとその男の話って良いツマミさね」
 鬼が言い放った最後の一言の鬼畜さに、熱気の所為もあってか軽く目の前がくらりと揺れた。



 屋台で飲んで居た人妖達から離れて、またそぞろに歩き始める。
 正直先程の連中のおかげで、もう巫女の顔を見るのも面倒になって来た。
 屋台を出している妖怪が妙に多いのは気のせいでは無かろうが、それ以上に平素は閑古鳥すら来やしない程に閑散としている筈のこの神社にこれほどの人間が押し掛けると言うのは天変地異が起きなければ有り得そうもない。
 人里での評価は大体は以下の通りであった。
 酒屋の親父曰く、あそこの宴会の頻度は多いわ酒の量が壮絶だわで大量に入れる事が多い、良い客だ、と。
 近所を遊び回る子供曰く、あそこの神社に近づいたら妖怪に襲われて食べられるか妖精に悪戯されて迷子になって帰れなくなる、だから行くなと親に言われた、と。
 神社より多少マシな程度の客しか来ない古物店の店主曰く、あの巫女の性格故にひっきりなしに客に来られたら落ちつかない事請け合いだろう、と。
 人里でそれ相応にマトモな尊敬を得ている寺子屋の教師曰く、奈何せんあの巫女とあの周囲にべったりの妖怪相手にわざわざ近づかせる事は無いだろうから少々誇張している、と。
 頭から二本の角が飛び出た鬼曰く、お陰で私は昼寝し放題の場所が一つ増えた、と。
 手癖の悪い魔法使い曰く、巫女さえいなければ諸々の神様由来の珍しいものが借り放題、と。
 途中から聞く相手を間違えた気がして、他の連中に聞く気が失せたのをふと思い出して溜息を一つ付いた。
 とは言え、大体の評価は以上の通りでやはりこれだけの人数が人里から押し寄せると言う珍しい現象は、何か妖怪か妖精の悪戯でもなければ有り得そうもない。
「なぁ、こいし」
 視線をふと傍らのこいしに向けて、周囲を軽く見回す――と、見覚えのある浴衣の姿が近くに見えない。
 何処に一人でふらふらと歩いて行ったのやらと思うと彼女の浴衣とお面を被った姿が見えて、軽く手を挙げてこいし、と声を掛けてやるとそのお面を被った人影が俺の方へと視線を向けた。

 特徴のある、薄紫色とも桃色とも取れない癖っ毛が踊り、致命的な間違いをした事を、その瞬間理解した。

 くすり、とお面の下の少女が笑う。
 こいしにしては落ちつき払った珍しい様子だが、「彼女」であれば全く以ておかしい事では無い。
 赤い紐で彼女と繋がった第三の瞳が俺をじ、と睨みつけた。
「あら――こんばんは」
「……古明地、さとり」
 その名を呼び、一瞬だけ逃げ道を探そうかと迷い、首を横に振って無駄だと諦めたのは「覚」に伝わる伝承でも同様のものがあったからか。
 ――そもそも、何故彼女の姿を見て反射的に逃げ出そうと思ってしまったのか。
「賢明ですね」
 くすくす、と笑いながら彼女は俺から視線を逸らさないがその内心で、何をどう思っているのかまでは解らない。
「それにしても、酷い方。妹の想い人を嫉妬で虐めるような姉だとでも思いましたか?」
 考えてみればその通り、それどころかさとりが何の理由も無く他人を傷つけようとしたと言う事はこいしからも聞いた事が無い。
 緊張し、あまりにも礼を失していた事を考えていた事に我ながら軽い嫌悪を覚えつつ、一つ大きく息を吐き出した。
「……いや、すまない。一人で来たのか?」
「いえ。皆と来たのですがはぐれてしまって」
 ああ、なるほど、迷子か。
「迷子ではありません」
 一瞬納得しかけただけで鋭い反駁が帰って来て思わず口に苦笑が浮かぶ。
 随分前にこいしに連れられて地霊殿に行った際も、思っただけで答えられてしまう事で戸惑った事もあった。
「それに、貴方もでしょう。こいしは……。何時もの事ながら、ご迷惑おかけしますね」
 周囲を見回してこいしの姿が無い事に彼女が気付き、深い溜息をつきながら頭を下げた。
「慣れてる。折角だから一緒に探すか」
 そう返すと、きょと、とした顔をしてさとりは目を瞬せる。
「確かに顔を知っている方と一緒の方が、効率が良さそうですけれど」
「なら決定。行こうぜ」
 軽く指を何処とも知れず向けて、促すように先を歩くと後を追うようにぱたぱたとさとりは着いてくる。
 こうして、地上では珍しい妖怪と祭りを歩く事になった。



「ああ、ならやっぱりこいしの奴、一旦地底に帰ってたのか今日」
「ええ。浴衣を着て行くんだ、って。着付けを手伝わされましたよ」
 他愛も無い話をしながら、屋台の間を歩いて行く。
 ふと気付けば、先程よりも参道を歩く人数が増えて来ていた。
「それにしても本当に困った子ね。こう言うお祭りくらいは落ちついて居ても良いと思うのに」
「こう言う祭りだからこそ、落ちつかずあちこち行き回ってるんじゃないかとな。何処行ったのかは見当も付かないが」
 こいしの能力を考えると探そうとして見つかるものではないが、それでも探さなければ見つからないのも確かなのだ。
 探すのを止めようとは思わないし、探さずに一人で祭りを回ろうとも思わないのは、あれだけ内心半ば憎らしく思っていてもこいしが居ないと落ちつかないからか。
「……ふふ」
 さとりが笑いながら少し足早に歩いて一度振り返る。
「大切、なんですね」
 どきり、と一瞬だけ鼓動の音が大きく聞こえたのは、図星を突かれて再認識させられたからに違いない。 
「ああ」
 一度頷くと、ふわり、と目を細めてさとりは微笑んで――。
「出来るだけ、末永くあの子と一緒にあげてくださいね」
 そんな事を言いながら先を急ぐように前を向いた。
「それは妹を貰っても良いって言う宣言って事で良いのか?」
 なるほど、「人間」は「覚妖怪」のことが苦手な訳だ、ここまで見透かされるのなら――。
「さぁ、それはこいしが決める事ですから?」
 
 俺は、人間だ。
 人間として生きて、人間として死んで行く。
 それはつまり永劫に生きる存在では無い以上、別れが存在する事。
 そして勿論、妖怪と共に生きようとすると、人間の方が先に逝く事。
 全てを見透かした上で、彼女は永くこいしとともに居ろと言っているのだ。

「その通りだが一応姉のお墨付きをだな」
「きっと出さなくても、持って行くでしょう? ああ、それと」
 くすくす、と笑いながらさとりは茶化し、何か言いかけたところで。
「さとりさまーぁ……」
 遠くの方でふとさとりのことを呼ぶ声が聞こえて、視線を移す。
 すると遠方から突っ走――と言うか空を羽を広げて飛んでくる人影を見、そのまま急降下爆撃のような体勢になっているソレを見て背筋が凍りついた。
「何考えてるんだあのトリ頭ぁ!?」
 この無茶苦茶人が多い空間であんなものが空から飛び降りてきたらそれこそ大惨事を免れない。
「お空……!?」
 そのまま加速し始めようとしたところで、後ろから浴衣を着た赤い髪の少女が抑え込むようにしてそれを止め、一安心する事が出来た。
 彼女たちがふらふらと飛んできて、目の前で着地してから軽く手を上げる。
「よぉ、二人とも」
「久しいねお兄さん」
「うにゅ、この人誰?」
 他人様の顔を完全に忘れていた霊烏寺空とか言うトリ頭の事は忘れて置き、俺をおにーさんと呼んだ妖怪、火猫焔燐に声を掛けた。
 地底にこいしと共に行ったのは来て間もない頃の数度で、その後とんと行ってないものだから仕方がない。
「あなたたち、二人とも勝手な所に行っては――」
 さとりが指を立ててぴし、と指摘するものの、二人とも解っているのだか解っていないのだか良く解らない様子で頷いて居た。
 断言する、空は確実に理解していないと。
「ごめんなさいさとり様、…ところで」
 燐が視線を俺の方に移す。
「迷子連れて来ただけのただの通りすがりって事にしといてくれ」
 しれ、と手をひらひらとやって歩きだそうとすると、さとりが怒声を上げた。
「だからっ……!」
「ああ、それと何か言いかけてたな。アレ何だったんだ?」
 我ながら酷い対応だとは思うが、真面目だからからかわれる要素が彼女には絶対にあると思う。
 半ば憮然とした様子でさとりが腕を組み、指差した。
「……ここに里から来ている人間達の事です。『来よう』じゃなくて『いつの間にかに此処に来てるけどまぁ良いか』と思ってる人が半数以上、です。人妖は除きますが」
 その瞬間、パズルのピースがかちり、と嵌ったように一つの結論が導き出された。
「ありがとな。大体それでからくりが解った」
 本殿へと足を向けて歩き出す。
 ほぼ確実に、こいしとその人物は居る筈だ。



「アホか」
 この神社の巫女である、博麗霊夢の顔を見て開口一番俺は文句を投げつけた。
「また随分な物言いね」
 こいしが赤ら顔をして乱れ掛けた浴衣で縁側で仰向けに寝息を立てているのを見て大体の状況は推測が付いた。
「この子が溜めこんでるあなたへの惚気を延々と聞かされた身にもなって欲しいわ」
 しれっと視線を逸らしながらそんな事を嘯く巫女。
 彼女の所に居るであろうことは気付くべき事だった。
「それとこれとは話が違う。大体だな」
 己の頭をがしがしと軽く掻き、結論を導き出してやる。
「こいしの能力を使って何神社の祭りの宣伝してやがる」
 そう、『いつの間にかに』来ていると言う事は、それは無意識の範疇であること。
 つまり、こいしの能力が活用されて居た事も推測が付いた。
 じゃあ誰がこの祭りで人を呼んで儲かるのか――考えるまでもなく、一人だけだった。
「あんたとはぐれた後にこの子が来たからついでにお願いしただけよ。その前は確かに人里歩きながら無意識に祭りに来るようには仕向けたけど」
 謝る様子も悪いと思う様子も無く、心底面倒臭そうな様子で彼女は返答する。
「じゃああれか。こいしが待ち合わせに大層遅れたのもそれが理由か?」
 軽く詰問するような口調で言ってやれば、やれやれと諦めるように霊夢は首を横に振った。
「全くもう男らしくないわねぇ、ネチネチと。だからまだ手ェ出せないんでしょ?」
 そしてほくそ笑むように口元に手を当てながら、彼女は続ける。
「『本当につれないんだからあの人はぁー』とか『もっと色々して欲しいのになぁー』とか。私が知った事じゃないけれど」
「何話してやがんだ……」
 額に手を当てて深い溜息を付けど、こいしは目を覚ます様子がない。
「くー……かぁ……」
 浴衣でそんな格好をするものだから、裾からは白い足が覗いて鎖骨どころか肩くらいまで見えてしまうのではないかと言う程に肌蹴てしまっているこいしの姿を直視できず、視線を逸らした。
「ま、良い機会なんじゃないの。私はミスティアの屋台顔出して一杯やってくるから。3時間くらいは帰って来ないから詫び代わりに好きに使いなさい?」
 霊夢が立ちあがりながらもう一度嘯き、くすりと笑う。
「あーあ、全く妬ましい羨ましい。何処かの橋姫じゃないけどそう思いたくもなるわ」
「おいコラまだ話は」
 終わってない、と手を伸ばし腕を引っ掴もうとしたところで、甚平の裾にきゅ、と小さな指先がしがみついた。
 視線をふと落とせばこいしがふやけた表情で瞳を閉じたまま掴んで居る。
「そうそう。寝具は使ったら持ち帰りなさい?」
 巫女は話を聞いちゃ居ないどころか聞く気すら無い。
「じゃあ、留守番お願いねー」
「そのまま一遍死んでしまえ」
 紛うことなき本音をその背中に投げつけて、俺は彼女を見送った。

「……んーんぅ」
 縁側にただ何も無く寝転がってるだけだったので、起きた時に頭が痛そうだと思い軽く頭をもたげて俺の膝の上に載せてまくら代わりにしてやれば、嬉しそうにごろごろと頭を預けて来るこいし。
「ったく……」
 浴衣の裾を直し、肌蹴たのをきちんと肩にかけてやって深く溜息。
 全く、折角の祭りで浴衣もきちんと褒めてやろうとしてもこのザマでは話にもならない。
 酒の所為で真っ赤になった頬と、幼い寝顔とのギャップが少しだけ艶めかしく見えて頭を抱えた。
「んふふぅー……」
 大して酒に強くない俺は、こいしと一緒に飲めば確実に潰れる自信がある。
 大方あの巫女はこいしと飲んで居たのだろう、少し朱に染まっていた様子もあった。
 事実上二軒目か、良く呑む巫女だ。
 ごろごろ、何が嬉しいのか頭を転がして甘えるようなこいしの様子に少しだけ心臓の音が高鳴る。
「こいし」
 耳元にぽそり、と囁いてやるが目を覚ます様子は無い。
「起きないとキスすんぞ」
 普段の俺だったら絶対にこんなセリフ吐けないな――と顔が赤くなるのを感じながらもう一度囁いた。
 無論、反応が帰って来る訳でもなく口元からは良く解らない寝言だけが聞こえてくる。
「……良いんだな」
 そ、と囁いて口元に口づけを落とし。
「……っ。……?」
「ん、……んんっ」
 そっと離そうとすれば、俺の頭をがっしりとこいしが固定するように抱いて居た。
「……んーっ!?」
「……っ。んんっ」
 うっすらとぼやけた焦点のあっていない瞳で、唇を合わさせられている俺を見るこいしが。
「……んぅ……っちゅ」
 こつん。
 額を軽く額と合わせて、啄ばむような口づけを返して来た。
「……っ」
 ちゅ、と軽く返してやって頭を動かし、額と額を合わせたまま唇だけ離すと満面の笑みのこいしが視界いっぱいに飛び込んでくる。
「……えへー、大胆だねぇ」
 真っ赤な頬と、異常なビートを刻む鼓動が煩わしい。
「……起きてたのかよ」
「眠り姫は王子様のキスで目覚めるの」
「我ながら随分と貧相な王子様だな」
 こいしは頬に頬を寄せながら、軽く瞳を閉じた。
「……探しに来てくれた、王子様だよ。私の目には、キラキラ輝いているように見える」
 照れ臭い言葉を臆面も無く言われるものだから、心臓の音が煩くなって仕方がない。
「ごめんね、はぐれちゃって」
 瞳を閉じたままこいしが続けて、一瞬だけ胸が締め付けられるような感情を覚えた。
「これでも一応心配してんだぞ」
「ん」
 暖かな身体を膝の上にもう一度預けながら、こいしは瞳を閉じた。
「キスだけ?」
 くすり――笑みを浮かべて自分の唇を指して、彼女はうっすらと瞳を開く。
 まるで大人の色香のような様子を醸し出しているその姿に見惚れ、唾を飲みそっと抱きあげた。
「それ以上のものが欲しいか?」
「あなたの大切なもの、全部。私の大切なもの、全部あげるから――」
 ぎゅ、と胸元にしがみついてくるこいしをお姫様のように抱きあげながら。
「だから、ぎゅって、して?」
 二人きりしかいない、理性が飛んでしまいそうな瞬間が今目の前に――。 

(――おーおー、大胆だねぇ)
(当てられちゃいそうね、アレは)
(行きつく所まで行きつく前に見るの止めた方が良いと思うんですけれど……)
(愛の巣ですねぇ、素敵……)

 来たところで、この場所が『何処か』と言う事に気付いて額を抑えた。
「こいし、帰ってからな?」
「むー、つれないなぁ」
 くすくす、そうこいしが笑いながらそっと畳の上に降り立つと、腕をぎゅ、と抱き締めて来る。
「見せもんにすんなよ……」
 襖の奥の方に言いながら、立ち上がる。
 こいしの第三の瞳が、宙をゆらゆらと揺れて居た。



 ――静かな夜は、二人で共に居る事が唯一無二の幸せだから。
 永久不変の時でなかったとしても、それを願う事くらいは――。
 
 神へと祈り願う、祭りの夜に。


─────────────────────────────────────────────────────

「ほへぇー……」
 こいしがこの間の抜けた声を上げたのは、これでもう二十回目になるだろうか。
 新宿から乗って、まだ品川にも着いてない頃であるにもかかわらずにその回数だけ関心したらしい。
 渋谷でアフリカ系アメリカ人が乗って来て、その肌の色に目がくぎづけになってたが俺はもう気が気で無かった。
 ガタイも良く身体にタトゥーが入っている男の姿は少なくとも俺に威圧感を受け付けるのには十分だった。
 ジロジロと何度か此方の方を見たが、一駅で降りてくれて心底助かったと思う。
 最初のうちはある程度反応を返して居たが、そろそろ返さなくて良くなってきたんじゃないかと思う。
「ね、アレ何?」
 このやり取りも何度目か、新幹線高架が見えて来た当たりで視線をもう一度向け直す。
 一々説明しているのも面倒になりながら、『凄く早く走る今乗ってる奴が走る所』と答えてやると顔を綻ばせた。
「そっかぁ」
 言いながら、彼女はこてん、と頭を俺の肩に預けた。
 周囲からじろじろと見られるのが、非常に落ち着かなくて困る。
『――次は品川、品川です』
 アナウンスが聞こえ、電車の速度が少しだけ緩やかになって行った。
 ごろごろと肩に頭を乗せているこいしの姿はまるで猫のように気楽で、軽く苦笑する。

 正直な所、外の世界に戻りたいと思った事はこれまで皆無だった。
 理由は単純で、幻想郷に弾き飛ばされたのは八雲紫に妖怪のエサ扱いして連れて来られたからだろう。
 または、覚えている人間が誰ひとりとして居なくなったか。
 正直な所、何故迷い込んだかに関しては記憶が曖昧な所があり、よく覚えていない。
 その癖、幻想郷に迷い込むまでの記憶は覚えているものだから困ったものである。

『一度見てみたいの、あなたの生きて来た世界』
『つっても戻れるもんじゃ無いと思うんだが』
『じゃあお二人様ご案内、ね?』
 こいしが行きたいと言って俺を困らせた時に笑っていた紫。
 自分には策がある、と言った確信の表情。
 朗らかな笑顔を浮かべて紫の手を握るこいし。
 俺の目の前では、とてもいい茶番劇が繰り広げられていて呆れる事しかできない。
『確信犯だろお前ら』
 そして、俺は考える事を完全に諦めた。
  
 そろそろ到着するらしく、窓の外には数えるのが億劫になる程の線路が並んでいる。
「降りるぞ」
 それをひーふーみ、と数えていたこいしの腕を一度引いて立ち上がる。
 刹那、女性の機械的なアナウンスが響いた。
『急停車します』
「あ、うん――わ」
 頷いて後を続くようにしたこいしが腰を上げた瞬間、急に身体に掛かる重力が進行方向に揺さぶられた。
 ふらり、と揺らぎ掛けたこいしの身体を片手で抱きよせ、俺自身は吊革を必死で掴み取る。
 きぃぃぃぃ、と耳障りな音が響き、客車が急停車して揺れが収まった。
「っと、大丈夫か?」
「うん」
 呆けた様子でぎゅ、としがみついてるこいしの姿はまるで年相応の少女のものでしかなかった。
 肩までの髪がふわりと揺れて、彼女のフローラルの香りが一瞬だけ漂い鼻を擽る。
『申し訳ございません、列車非常停止装置が押されましたため急停車致しました。安全の確認が出来るまで今しばらくお待ち下さい――』
 定型文のアナウンスを男性の車掌が繰り返し、車内が一瞬だけざわついた。
「……だとさ」
 肩を竦め、そのままこいしを椅子に下ろしてやり自分も座って一つ溜息。
 人が多い時間帯ではあるが、扉の方へ歩き出さずに良かった。
「びっくりしたぁー……」
「こっちじゃ稀に良くある」
「どっち?」
「あまり無いものだし、あると面倒だからあって欲しくないけどあって欲しくない時に限ってある。……あー」
 この表現を的確に言い表す言葉がふと頭に過り、ぽん、と手を打った。
「妖怪にとっての巫女と魔女」
「ぷっ」
 こいしが思わず噴き出して笑いかけ、口元を押さえる。
「しかも何時現れるか解らないオマケ付きだ」
「あはははっ、それは本当に災難ねー」
『安全の確認がとれましたので、発車致します。吊革手すりにおつかまり下さい――』
 笑いながらこいしが俺の顔を覗きこんだところで、ゆっくりと電車が動き始めた。
「あ、動いた」
「だな。大体は何も無い事の方が多いな」
 軽く説明するが、何かあった場合は大体洒落になっていない事は黙っておく。
 怖がられたり悪趣味と思われる事は無いから構わないが、興味を持たれても真面目に困る。
「稀に良くあるから?」
「ああ、稀に良くあるから」
 どうもその言い回しが気に行ったのか、繰り返し使って彼女はもう一度笑うと再度ゆっくりと電車がホームの横で停止する。
 ぷしゅ、と扉が開く音が聞こえて、ぞろぞろと人が降りて行くのが見えた。
「行くか」
「うんっ」
 頷いて、彼女の手を取った。



 宿は先に紫に確認し、用意の手筈を整えて置いた。
 ビジネスホテルのツインを一室で、余計なモノが無い素泊まり用のプランだ。
『ねぇ。…本当にこんな安っぽい宿で良いのかしら?』
 紫に真顔でそう聞かれた時にはどうしたものかと思ったが、正直な所高級ホテルなんて想像が付かない。
 いや、逆にシングルは幻想郷の有力者のイメージを考えれば良いのかもしれないが、と少しだけ考え直し、部屋を確認し直す。
 安い宿だが便利さと夜の静けさを兼ね備えた宿である為、落ちつけるが奈何せんビジネスホテルだ。
 その時、どうやって紫が撮ってきたのかは知らないが、外の世界の高級ホテルの写真を見ていたこいしが呟いた。
『これだったら、私の部屋の方が落ち着きそうだなぁ』
 結論を言えば、そのお姫様の一言で安宿に決定した訳だ。

「ふぁー、っ」
 荷物を置いて寝転がるこいしのスカートが捲れ上がる。
「女の子がはしたないぞ」
「ぶー、もう兄妹旅行の振りは無しだって」
 膨れたままこいしが身体を起こしてベッドに腰掛ける。
 ホテルに入る時に兄と妹で同じ部屋を旅行で使う、と言う形でのチェックインを行った。
 出来るだけ無意識を操る程度の能力を使わせないようにさせるためだったが、こいしは不満そうに唇を尖らせていた。
「ったく、仕方ないだろうが……」
 割と冗談では無い、と言うか捕まった時に冗談抜きで言い訳が利かないし何より色々面倒臭い。
 人間社会と言うものは面倒臭いものであることを久しぶりに認識し、大きく溜息をついた。
「あ、ここ結構高い?」
 ひょこ、と8階の窓から見下ろして、こーなるんだぁと呑気な声を上げたこいしにもう一度溜息。
 二連続の溜息なんて久しぶりに付いた、と三度目の溜息を嘆く。
「こんな良い景色なのに溜息ばっかりついてちゃ勿体無いよー」
「残念ながら俺が昔住んでいた家は此処よりもう少し高かったから見慣れてる」
 団地の13階だかから見下ろす景色は此処よりも余程高かったが、余程味気無かった気がする。
 けれど、その景色にすらノスタルジーを感じるのは気の所為なのだろうか。
 夕焼けは沿線のビルをほの赤く、陽の色に染め上げながら夜の帳へと向かって行く。
「……良い景色だし、綺麗だけど、でも」
 ――滅びていくものの、美しさなんだね。
 こいしが呟いて、そっと肩を寄せて来た。
「滅びていくもの、の?」
 問い返し、軽く抱きよせてやると彼女はこくり、と頷いて少し寂しげな笑顔を浮かべた。
「これが数百年経ったら、きっとここの景色はこんな景色じゃなくなってるかもしれない」
 笑顔のまま、彼女は淡々と、それでいて残酷なまでの現実を語り続ける。
「少なくとも、幻想郷みたいに、何年見続けても変わらない、永遠じゃない。きっと、何世代も人の世代は経て、私が消えてしまうほどになってもあの里はあのままだし、人里に住む人は変わらないよ」
「きっと、永遠と言う言葉そのものが幻想入りしたんだろうよ」
 彼女の言わんとしていることは解らないでは無い。
 再開発、埋め立て、新道建設、新線開発、建て替えと――そもそも、世代を経て人がそこまで生き続けて居られるのか。
 俺には解らない事で、解る必要も無い事で、解る筈も有り得ないただの空想の出来事。
 けれど、彼女たちにとってはそれは全く別のシロモノに映ったのだろう。
 脆い、弱い、崩れそうで、歪で愚かで弱弱しい人の象徴。
「無意識に、悲しくなってきちゃった」
 呟いて、彼女は瞳を閉じ、帽子を真深に被り直す。
 彼女の姿を一瞥だけして、俺は首を軽く横に振って立ち上がった。
「こいし、お前の言ってる事は正しいよ。ただ一つだけ間違ってるけどな」
 そして、カーテンを閉める。
「さて、もう少ししたら夕飯を食いにでも行くか」
 そう、彼女の言う事は正しくて、でも致命的なまでに一つだけ間違って居る。
 彼女にはきちんとそれを教えてやらなければならないようだ。
「……うん」
 俯きながらも彼女が頷いたのをきちんと見て、さっきのように軽く手を引いた。



「お腹一杯だねぇ、ふぁー……」
「大分食ってたからな。オムライスだけならまだしもアレにまだ頼むか普通?」
 機嫌は良くなったらしいこいしが、少しだけ嬉しそうな口調で呟いて部屋の扉を開けた。
 古ぼけた洋食屋での、安くても家庭的な味付けの料理を食べて来た所だ。
 こちら側の食事はお姫様の気に召したようだが、酒に口を付けるのだけは遠慮して貰った。
 そのままこいしはベッドに転がり、天井を見上げる。
「……妖怪が居ないからなのかなぁ。やっぱり何だか変な感じ」
 溜息をついて、ベッドに沈むこいしの様子はやはり完全に何時もの通りとは言えないようであった。
「俺は踏み込んだ時は神様だの妖怪だのってのが居るって思ってなかったぞ」
「うん……」
 ぽけ、と天井を見上げたままのこいしは、もう一度呟いた。
「そう言えば――何を間違ってるって言ってたの?」
 何か喉元に魚の小骨が引っかかっていたような感じをきっと覚えて居たのかもしれない。
 こいしは、ころんと転がって俺の顔をじ、と見つめると瞳を閉じた。
「全く」
 ふぅ、と俺は一つ溜息をついて、お姫様抱っこのように彼女の体を抱き上げる。
「……ひゃ」
 溜まらず目を開けて白黒させているこいしが可愛らしく見えて困った。
 普段からきっと可愛らしいのかもしれないのだが普段はそれ以に上に憎らしく思える事の方が多いからだろうか。
「どうしたのー、もう」
 ぷぅ、と頬を膨らませるこいしの身体を、もう少し抱きあげて窓の近くに下ろした。
「開けてみろ、俺の言ってた意味、解るだろうから」
 カーテンを見て示すと、こいしが首を少し傾げて呆れたように呟いた。
「どーせ夜の景色なんて、見ても面白いものじゃないんじゃ――」
 嘯きながら、しゃっ、と彼女はカーテンを開け放つ。 

 ――眩しかった。
 俺にとっては久しぶりに、彼女にとっては初めてであろう『町全体が煌々と照っている』夜の姿だったから。
 ビル窓からたくさんの光が漏れて、そこでまだ人が働いている事を如実に示している。
 線路を挟んで反対側に立っているのはマンションだろうか、ところどころ暗闇が示しているものの、それの数倍の黄色や白の光が途切れること無く輝いている。
 見下ろした所には、動く痛いほどの白さを持つ灯りとぽつぽつと点在している薄い黄色の灯りの数々。
 動く灯りは、赤いラインをともに残しながら何処かへと消えて行く。
 その数は全く数えきれないほどになっていて、幻想郷で人里を遠くから見た景色とは考えようも付かない。
 
 こいしの瞳から涙が零れ落ちていた。
 その理由すら解らないからこその無意識だと言う事を、彼女はきっと知っている。
「……これ、全部、人?」
「ばかりじゃないけれどな。働いてる奴も居るだろうし」
 ふわり、少女が笑みを浮かべて一つ頷き、微かに首を傾げた。
「こんな夜中なのに?」
「ああ、こんな夜中でもな」
 その中に居た自身を見直すと、少しずつ心が削れていくのを感じていた。
 けれど、今は――。

「俺達一人一人の人間は、確かに妖怪程永く生きる事が出来ないけれどな。この光を継いで、生きてくんだ。だから、寂しくない」
 人は、これまでも代を継ぎながら生きて来た。
「永遠じゃない。例え今は永遠じゃなくても、きっと次の代が、またはその次の代が俺達が成し遂げられなかったことを成し遂げる。だから、それでいい」
 技術発展は、そのようにしてこれまで成り立ってきたものだ。
 無論、俺達の中に脈々と流れている血も。
 
 
「……ん」
 にこり、と今の俺にとって一番大事な存在が微笑んだ。
 あの時の自分自身と、今の自分自身はきっと彼女の存在で隔たれているのだろう。
 けれど、あの時の俺自身はあの灯りの一つ一つの何処かにまだ残っている。
 少しずつ心を削られて、少しずつ心を苛まれながら。
「……ね」
 こいしが、微笑みを浮かべたまま指を口元に当てて続ける。
「一つだけ、あなたのお願いごと、叶えてあげる。私に出来る範囲なら、だけど」
 無意識を操る妖怪は、そう口にしながら微笑んで居る。

 なら、人間である俺がこいしに乞い願い、請うことなんてただ一つなのだろう。

「なら。少しだけ、無意識に大切なものを、思い出せたら」 
 口元に笑みが浮かんだのを感じながら、こいしの肩にぽん、と手を置くと、こいしが瞳を閉じて顔を上げた。
「じゃ、お願いのキス、して?」
「ああ」
 眼下の宝石箱を無造作に散らかしたような、輝きの世界。
 部屋の電灯のスイッチを落とせば、外から漏れ入る光だけが俺とこいしを照らしだす。
 俺達を今照らしている世界が、少しでも優しくなるように――そう思いながら。
 
 暖かく、優しいキスをした。
─────────────────────


 目を覚ますと、こいしの寝顔が目の前にある日常。
 今日もまた、平穏な秋の一日が始まった。

「……すー……」
 たまにこいしが先に起きると、竈でご飯を炊いて居たりするが今日はそれは無いらしい。
 最初はそれこそ水に入った生の米が出て来てお世辞にも食えたものでなかった気がするが、今となってはそのような事は無く安心して美味いご飯を食べることが出来るようになった。
「……んにゅ、ぁー」
 俺の寝巻の裾を引っ掴んで寝言を言いながら幸せそうに眠るこいしはまぁ随分と気分良さそうなものである。
「朝だぞ」
 頬をふに、と突いてやり、しばし反応を楽しみたくなり待ってみようと思った。
 二度三度と、ふにふにとして張りのある肌の感覚を楽しんでいると、変化が起こる。
「……んんー……」
 目を覚ますかと思い指を離してやると、彼女は寝返りを打ってもう一度寝息を立て始めた。
 なるほど、こいしとしてはどうも秋の朝は早く起きたくないらしい。
 毛布に布団を被っていて程良く温く、足元に至っては少ししっとりと汗ばんでいるからか。
 いっそもう少し普段されているばかりでは溜まらないので悪戯してやるべきか。
 この幻想郷では滅多な事が無ければ早々用事なんてものは出来るもので無いし、そもそも本日の予定は――。
 
 来客が朝からある日だと言う事を思い出して覚醒し、こんな事やってる場合じゃないと布団から半ば飛びあがるように身体を起こした。
「なぁにー……寒い……」
 布団が乱れてこいしが目を擦りながらとぼけたような声を漏らしてうっすらと目を開いたのを横目にしながら、俺は食事の準備に取り掛かった。

「……むぅー、もう少し寝させてくれてもいいじゃない」
「来客ある日だっての知って言ってっか?」
 ぽり、とたくあんを噛むと塩の味が口の中に広がり、噛むのに心地よい堅さが脳を覚醒させて行く。
 なめこの味噌汁と炊きあがったご飯が湯気を立てて、やはり朝はこれに限ると思いながら一つ溜め息を付いた。
「お仕事?」
 あむあむ、とこいしが口元を動かしながら首を傾げた。
「その通り。白蓮が来るけど……多分誰かしら連れて来るんじゃないか」
 イワナの天日干しに手を付けながら返すと、こいしは少し首を傾げて問い返す。
「あの子かなぁ?」
 彼女はいつぞやの少女の事を思い出したらしい。
「どうだろうな。あと、慧音にも声を掛けてある」
 元気にはしているようなので一安心ではあるが、今回打合せをする話の内容から考えたら連れて来るとは正直思えなかったが。
 もう一名、話の筋を通しておく必要のある人物が来ることも伝えるとこいしが苦い薬を飲んだ後のような顔をした。
「う、またお説教されそう」
「そこまで酷く説教されることは無いだろ」
 無意識下の事だったりすれば尚更――そう続けて、ふっくらしたご飯を口に運んだ。
 人里に住む以上、上白沢慧音との付き合いは切っても切れないものになる。
 直接世話になった事もあり、また他の里に住まう人間から慕われている立場と言う事もあれば味方につけない道理が無い。
 多少打算的な話ではあるが、打算的であっても道理にかなう事であれば彼女は厭いはしないだろう。
「それに説教が本題じゃあない。仕事の話だ」
 言い切ってお茶を一口、朝食の締め代わりにゆっくりと味わう。
 こいしはまだ味噌汁を啜っていたが、この分ならば白蓮達が来るまでには余裕を持って洗いものまで終えることが出来る。
「はーいっ。いっそ無意識になってようかなぁ」
「説教聞く気が無くて聞いてないだけだろお前」
 朝食の終わりは、何とも間の抜けた俺達らしい会話であった。

 ふと、こんこんと扉を叩く音が聞こえて振り返る。
「はーい」
 こいしが声をあげて、扉の方へと歩いて行く。
 既に纏められた紙に筆を取り企画案を再検討していた所で、丁度来客があったようだ。
「お早う。ああ、そう言えばあなたもだったな、お早うだ、古明地こいし」
 引き締まった声音と、銀白の髪がふわりと揺れて人里の守護者が顔を覗かせる。
 彼女の真面目さ故か、堅い口調を崩す様子は全く見られない。
「おはよーございますっ」
 にこっ、とこいしが笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げた。
「慧音か、おはよう。適当に座って待っててくれ」
「ああ。しっかりと花嫁修業が身に付いているようだな」
 くすくすと笑いながら慧音が玄関に腰掛けて靴を脱ぐと、へへ、とこいしが少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「女の子ですからー」
「変わるものだな」
 俺を見やり、慧音がにやりと笑みを浮かべる。
 まるで何処か達観したようで、それでいて何処か苦笑したような表情で彼女は続けた。
「最初はそこまで愛想よく無かったけど、途中からそんなもんだぞ」
 肩を竦めて溜息をつくと、慧音が少し驚いたような表情で俺の顔をまじまじと見つめる。
「この果報者、なかなかに鈍感のようだ。君も大変だな」
 そしてこいしに視線を移し、一度苦笑するとこいしが同じような苦笑いを慧音に返した。
「ホントにねぇ。あ、お茶用意するから待っててー」
 とたたた、と軽い足音を立てて板の間を駆けるように踏んで行くこいしの足を見ながら、何処で床板突き破るのかと皮肉めいたこと考えるのは俺自身の歪んだ性根故だろうか。
 畳なんて言う豪華な物はこの家に一畳も存在しないし、何処かで床板が腐っててもおかしくは無い程度の家だった。
「……話を聞いた時にも思ったのだが、君自身が真っ先に婚儀を挙げた方が良いのではないだろうか」
 慧音が呆れたような声で呟いて、俺はもう一度溜息を付くしかなかった。
 
 現在、どうにも金が溜まらず、山から下りて来て食うや食わずで転がりこんだボロ家をもう少しマトモな家へと改善する必要があった。
 手伝いがてらで引く事が出来た風呂だけがしっかりとした作り過ぎて泣けてくる程には。
 そこで、冠婚葬祭を一手に引き受けてそのあたりの雑務だのを行おうと思った訳だ。
 正直な所、この里で食っていく為の方法としては聊か卑怯な気はしないでもないが、少なくとも肉体労働よりは向いていた。
 また、葬儀については各業務が完全に分業されている為、纏める人物が居ないことでの煩雑さや神式仏式の手順の違いなど、多岐に渡り手間を掛けているのが見えたからだ。
 檀家が増えたであろう命蓮寺ではあるが、奈何せんこう言った事に慣れて居るのは白蓮一人と言う有り様であった。
 考えてみれば御尤もである、水蜜はまだしも他の連中に関しては純粋培養の妖怪連中しか居ない。
 流石は超人、不眠不休の覚悟で数日間を乗り切ってけろりとした様子ではあったが、傍から見ていてこんな状態では数件の用事が重なっただけで破綻する。
 それに、この仕事に関しては俺にとっても余程油売りよりは向いていた。
 寒い中菜種油を売りに行くのだけは正直もう勘弁して欲しい所だ。
 それと共に、冠婚関連――要は、婚儀に関しても、余計な事かもしれないが一定の手順を整えて置いた方が良いのではないかと思った訳だ。
 最も、そちらに関しては葬祭関連程話はスムーズに進まないのが問題ではあるが。
 慧音はそこのところを突っついて来ている訳である。

「自分で自分の結婚演出してどうするんだよ一体」
「なるほど。婚儀を行いたくない訳では無いんだな?」
 慧音が揚げ足を取るように俺をからかったところで、もう一度こんこん、と戸が鳴った。
「はーいっ」
 こいしがお茶を淹れながら、玄関を見やるが手を止められる状態では無い。
 代わりに声を上げて、扉越しに居るであろう人物に向かって声を投げかけた。。
「白蓮か? 入って良いぞ。すまんがこいしが手を離せる状況でない」
「はい、では失礼しますね」
 がらり、と扉が開いてたおやかな笑みを浮かべながら現れる女性の姿。
 それと、傍らには羽のような良く解らないものを付けた黒い少女が付き添っていた。
「おはようございます、上白沢さん」
「聖殿か。おはよう。それに君は――」
 少女を見て、慧音が珍しいものを見たような顔をして首を傾げると、その少女はげ、と小さな呻き声を上げた。
「封獣ぬえ、か。君まで来るとは思わなかったが」
「……白蓮。帰っても良い?」
 白蓮の服の裾を掴み逃げ出そうとでも言うかのようにしているぬえの様子は何処か滑稽で笑いを誘うが、彼女にしてみれば必死なのだろう。
「ふふ、ダメですよ」
 そしてその希望をたおやかな笑顔とともに微塵と打ち砕く白蓮はまるで菩薩のようであったが、きっとぬえには修羅の如く見えたであろう。
「あ、ぬえも居るんだ。こっちまで来たのー?」
 こいしが顔を覗かせて、こっちこっちと言う風に手を振ると気を取り直したぬえが、べ、と舌を出した。

 以前、命蓮寺での事である。
 白蓮に仕事の話をしに行った俺は、「あっちで遊んでろ」とこいしを放っておいた。
 仕事内容を確認してから、先々人里でどういう形で企画を立てるか、というのが必要だったからだ。
 その時のことである、確か一つ問題を潰し終わった所だったと記憶していた。
『こんのぉぉーーーーっ!』
 と、突然の轟音と共に怒声が響き渡り、寺全体が振動で揺れた。
 何だと思って立ち上がると、座ったままで白蓮が首を傾げた。
「あら、ぬえの声ですね。何かあったのでしょうか……」
 動ずる様子も見せない白蓮に半ば呆れつつ、襖を開け放ち廓から空を見上げる。
 そこで黄と緑の蝶が舞いながら弾幕をかわし笑顔を浮かべていた。
『あはは、私を意識してると当てられないわ、正体不明の妖怪さん?』
『うるさい、黙れ、死ねっ!その余裕が一番気に食わないのよ!』
 笑顔のまま弾幕を撒いて両手を挙げるこいしと、完全に頭に血が昇ってしまった黒い少女、その弾幕戦が空中で繰り広げられている。
『そーれ、今度はこちらからよ!』
 こいしが幾何学的な模様を宙に描いたかと思えば、それにUFOが突撃し対消滅、黒の少女も負けてはいない。
 見とれる程の戦いに一瞬だけ目を奪われ、我を取り戻し大声で叫んだ。
「何やってるんだお前らーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」
 弾幕勝負はそこでお開きとなり、降りて来て名乗った黒の少女、封獣ぬえから事情を聞けばこいしが喧嘩を売ったのが原因だと言う。
 そこでこいし自身に聞いてみれば、
「そんなことはなかったんだけどなあ」
 と、認識していない様子なものだから何を言ったか問い詰めて見たところの回答は以下の通りだった。
「あ、もしかして『寂しがりやさん?』とか『ぼっちさんじゃないよ、大好きな人と一緒に来てるもん』とか『天邪鬼だからだよー、もっと素直になればいいのに』とかそのあたり?」

 以来、ぬえとこいしは弾幕を叩きつけ会う程に仲良くなったわけだ。
 白蓮は『ぬえにも仲が良さそうな友達が出来て良かったわねぇ』と言うような、ダメな母親状態であった。
 ついでにその時以来、こいしとぬえが出会った時に手の届かない所に放っておくつもりにもならなくなった。
「今日こそ決着を付けてあげるわ、こいし! 一週間前の恨みを晴らさずにおくべきかっ!」
 古文書にも記載がある程の妖怪にしては随分安い恨みだなと密かに思いながら、こいしを見やる。
「うん、解った! 弾幕勝負なら負けないよ?」
 こいしが笑顔で頷いたのをこほん、と咳払いをして抑止する存在が居た。
 無論、常ににこにことした笑みを浮かべて居る白蓮でも、止めるのが無駄だと解りきって諦めている俺でもない。
「人里の中での弾幕勝負は禁止するぞ?」
 にこり、と慧音が瞳の笑って居ない表情で笑い、俺は溜息をついて茶を啜り、白蓮はきちんと正座で座ってくすくすと笑みを浮かべる。
「……はーい」
「っ、解ってるわよっ……」
 二人が頷いたのを見て、書類を床に広げる。
「とりあえず、今回の件の打合せ、始めても構わないか?」
 ここまで行くとグダグダも良い所であるが、本題の打合せが始まった。

「この計画案そのものは良いと思うが、最初に掛かる費用はどうするんだ? 君の言う限りでは、この部分はどうやっても必須だろう」
「そうですね……それに、この人里で何処までこう言った事を求める人が居るか、と言う事でしょうか」
 慧音と白蓮それぞれの視点からの駄目出しに、うぅむ、と首を捻る。
 慧音が指しているのは根本的な運営資金、白蓮が指しているのは需要の面だ。
「費用的なことに関しては、それこそ少しずつ蓄えるしか無いだろうが…借りたいのは山々だが、相手が居ない」
「いいや、逆にこのような場合であれば一度多少借りて整えた方が良いだろう。少なくとも大店や旧家であれば話には乗ってくれる。稗田か、霧雨か」
 びしり、と厳しい意見が飛んでくる当たりは流石慧音と言ったところか、良く現実を見定めて居る。
「そうですね。余裕がある方は勿論そうですし、お話は聞いてくれるかもしれません。ですが、それ以外の方は如何でしょうか」
 反面、貧者へも施そうとする白蓮の考え方は里や人にとっては非常に理想的な考え方である。
 目下の問題は、それが現実的かつ金銭的に行うことが出来るかどうか、と言う事だ。
「無論俺としては金銭的な余裕のない中での話も行うべきだと思う。慧音、実際の所、そのあたりはどうなんだ?」
「私としては難しいとは思う。だが、君の立場からしても聖殿の意見も無碍には出来るまい。私もそうするつもりはないが、ここに関しては正直難しいだろうな。何せこれまではそのまま埋めて居る者が殆どだ」
 ふぅ、と溜息をついて慧音が火葬、と書かれた所を筆で指す。
「そうなるとやはり土葬なのか、この地域の風習は。現実的には火葬でないとどうやっても数が足りないだろうが」
 思っていた以上に此方の話もとんとん拍子では進まない。
「戒名くらいは授けることは出来ると思いますけれど……それ以上は、特に敷地の問題も有りますから無限に受け入れる、と言う訳には」
「だろうな。そんなものがあるとは思っては居ないが、どうしたものか」
「否定だけしていて済まないな。確かにこれそのものは魅力ある事だと思うが……」 
 三人で深く息を付き、議題が丁度詰まった所で慧音が首を傾げた。
「そういえば、彼女たちは?」
 こいしとぬえの姿が小さい家の中に見えない。
「先程、お二人が深く話しこんで居る間に外に出て行きましたけれど……何やら弾幕以外で勝負するとか」
 白蓮が戸の方に視線を移して呟いた。
「……放っておいて良いのか?」
 慧音が軽く俺を詰るような視線で見つめるが、ことここに至っては俺はこの言葉以外は口に出来ない。
「何も起きない事を祈ろう」
 俺と慧音は、同時に深く深く溜息を付いた。

 こいしとぬえが何処かに行っている事は死ぬほどさておきたくない事ではあるがさておいて、目の前の議題を考えなければまず話になるまい。
 そう考えて、変わらず三名で額を付き合わせている。
「……うむむ」
 とりあえず里で騒ぎになっている訳でもなく、慧音を呼びに駆けて来る人が居る訳でもないあたり本当に人里での弾幕勝負はしていないらしい。
 それ以上に現状の行き詰っているプランが問題で、打破するための方策は上手く見つからない。
 風習的な問題と、現実問題が折り合わないのが一番の原因なのだ。
「金銭的な要因がやはり大きいな。聖殿の考えに沿う形だと」
「一般的に一つの流れの葬儀を行うのは、一故人につき、ですからね。その為には、やはりそれ相応の費用が掛かるとは思いますけれど」
 白蓮が呟いた言葉に、ふと顔を上げて俺は呟いた。
「……待った、一故人について、その葬儀の日数、だろ?」
 つまり、『お一人様』について、一回の葬儀と言うプロセスそのものを取り払えば良い。
「え? あ、もしかして」
「そうなるだろうが、どうした? ――ああ」
 これだけで察した白蓮と慧音、二人の勘はやはり常人にはまず無いであろう凄まじいものがある。
 『一故人に付き一度の流れの葬儀』ではなく、『一故人でない複数の個人を悼む』葬儀。
 つまりは合葬である。
 これを行う事で、金額的な面についてはかなり削減する事が出来る。
 裕福な家であればそれこそ大がかりな葬儀を平素から行えば良いし、逆に貧しければ最低限の処置の上葬れば良い。
 ――けれど、これであればそれこそ裕福であろうが貧しかろうが、全て平等に扱う事が出来る。
 死の前に人は平等であることを知って、生きて行く――。
 これはどちらかと言うとキリスト教的な思想に近いだろうが、生きる限り当然の摂理でもあった。
「ああ、そう言う事だが、これは多分だけれども白蓮がかなり負担になると思うんだが……」
 抱えていた懸念を口にすると、白蓮が胸のつかえがとれたような笑みを浮かべながら首を横に振った。
「お彼岸の時だけでしたら、そこまで酷い事にはならないでしょう。皆にも協力をお願いしますから」
 それにお一人のお葬式が幾方も重なるのよりは余程やりやすいし楽ですものね、と白蓮は小さく舌を出す。
 普段の落ち着いた様子からすると、全く別モノでありこれでは惹かれる男も多いのだろうなぁと苦笑した。
 多分当人は全く意識をしていないのであろう、困ったものだ。
「私の方が里への周知に関しては私の方が上手く行く。命蓮寺での法会、と言う事を知っている里人はそう多く無いだろう」
 真面目な回答を最後の最後まで返す慧音も、何処か表情が晴れやかだ。
 解決の道が見えたが故に解決までの道筋が彼女の目にも見えて来たからに違いないだろう。
「……アレだな。寺で行われる訳だから、俺はそれまでに場を整えて後は何処まで便宜や手配を図ることが出来るか、かね。仏師はまだ良いが、石屋や専業の職人も含めてだな……いっそ俺が石屋兼業するか?」
 三者三様、それぞれの行うべき仕事内容が見えて来た。
 そこからは話がとんとんと進み、具体的な金銭プランまで見えて来ることとなり、話は一旦ここまでとなった。

「……ふぅ」
「良く、まあここまで纏まるものですねぇ」
 一息ついて、出てったこいしがそのままにしていた急須から茶を注ぐ。
 出涸らしだが、ここまで話を煮詰めて少し疲れているのもまた事実であった。
「ええ。そう言えばですがもう一つの方はどうなっているのですか? あなた方が行われるのが一番良いのではないかと思うのですが」
「それがだな聖殿、彼としてはまだなのだと。婚儀を挙げるのは」
「あらあら」
「茶の中に雑巾の絞り汁でも入れたろうか、お前ら」
 人が折角茶を入れていると言うのに勝手な事をほざく女連中は、こいし一人の時よりも余程タチが悪いと非常に良く理解した瞬間である。
 その口を叩いているのが真面目な表情だったりたおやかな笑顔だったりするものだからなお余計にタチが悪い。
「む。客をもてなす態度とは思えないな」
「なら家の主人を虐めるなと」
「まぁまぁ。虐めていた訳ではありませんし。こいしさんの様子も見れましたので安心出来ました」
 その気の無い皮肉に真面目な口調で返す二人だが、片や厳しく片や柔らかくなのでこれまた対応に困る。
「花嫁修業も板に付いて来たんじゃないか、彼女も」
 慧音がにやりと笑うと、白蓮もたおやかな笑みを浮かべながら話を回帰させる。
「いっそきちんと式を挙げてしまえば宜しいのに」
「そもそも婚約がまだなんだが」
 しれ、と言い切って会話を打ち切ろうとすると呆れたような声が二人から帰って来る。
「事実婚と言うものもあるからな。要は内縁だが」
「あなた方の場合は認められてしまいそうですけれどね?」
「ああもう、この話は置いとくぞ! ったく、何が悲しくて煽られなきゃならん」
 慧音が煽る、白蓮が頷く、俺がそれを茶碗を叩きつけるような勢いで置きながら必死こいて止める。
 いい加減この構図に飽きて来た所に、こんこん、と戸を叩く音が聞こえて来た。
「はいよっと。ったく、勝手なこと言いすぎんなよ」
 二人に再度釘を刺して置きながら扉を開けると、珍しい人物がそこに居た。
「あ、こんにちは。何だかとても人が多いですね……慧音さんと、白蓮さん? お二人が此処を知っているとは」
 蛙と蛇の髪飾りに巫女服の現人神、東風谷早苗。
「君は山の巫女か。彼を知っていたのか?」
「あら、早苗さん。こんにちは」
 守護者と尼僧はどちらも彼女の事を知っていたのか、むしろ俺が彼女の神社に居候していた事を知らないだけなのか。
 彼女たちは珍しいモノを見る様子で、早苗に視線を注視していた。
 早苗は早苗で、彼女たちの視線をしっかりと受け止めて微かな笑みを浮かべているあたり余程成長と言うか進化したのだろう。
「ええ。神奈子様、諏訪子様からの差し入れを。……それと」
 きらん、と早苗の瞳が輝いた気がしたのは比喩では無い。
 これは確実にこの話に巻き込む方向になるだろう、実際協力を依頼する事は検討されていた。
 だが――。
「結婚式を挙げるとあってはいてもたってもいられません。とてもおめでたいなので私も是非神様方の力とともに尽力させて頂きます!」
 俺は踏んではいけない人物の前で踏んではいけないスイッチを、盛大な音を立てて踏み抜いたような気がした。

 次からは早苗を呼ぶことも話の中に絡めておきながら、これはまたややこしいことになってきたと思いつつ話を終わらせた。
 多分テンションの上がりまくった早苗の状態では話にはならないだろう。
 普段はお淑やかを地で行く性格にも関わらず、どうしていきなり興が乗った瞬間にそんな事になるのか。
 落ちつかせなだめるのに十数分、何とか落ちついて貰って茶を飲ませ女性たちトーク、または信仰トークになってどれだけ時間が立ったほどか。
 気が付いたら外は既に夕方を超えて、暗くなり始めていた。
「……と、こんな時間ですか、もう」
「ぬえも何処行っちゃったのでしょうね、もしかしたら戻っているかもしれないですけれど」
 早苗と白蓮が立ち上がると、慧音も彼女たちに頷いて立ち上がった。
「そうだな。これ以上長居していても結論は変わらないだろうし、寺小屋に戻って纏めなければな」
 彼女のこう言った几帳面さと真面目さは非常に助けになってくれている。
 一人ではここまで纏まる事は無かったに違いない。
「では、私は失礼しますね」
「私も行こう。どちらにしても帰り道は途中まで変わらないだろう。またな」
「あら、でしたら私もご同行させて頂こうかと思います。それでは」
 三者三様、早苗も慧音も白蓮も振り返り挨拶をする。
「ああ。お疲れ様」
 全員を見送って、俺はこの先を思いやって安堵半分と先行き不安半分の息を深く深くついた。

 夕焼けは少しずつ部屋の中を朱色に焼いて行く。
 軽く筆を取って今日打ち合わせた事を軽く纏め始めると、部屋の中が薄暗く多少書き辛い。
「ったく。暗」
 灯を付けようとして、ふと思いとどまって古い家の中を見回した。
 影が闇となり、漏れた夕陽が障子格子の狭間から降って床を照らし上げる。
 ふと思い出すのは、こんな夕暮れ時だ。
 子供の頃迷子になって泣いていたこと、そして泣きながらも帰り付いた団地が暖かったこと。
 その時に叱りながらも安堵した様子で受け入れてくれた、健在だった両親と親族の姿だが、戻った所でそんなものはとうに無い。
 ああ、またどうしようもないノスタルジアに浸ってこいしを心配させるのかと軽く悪態を付く。
 ち、と軽く舌を打って、冷めきった茶を煽って口元を拭った。
 飲み干す前に見えた、茶に映った自分の顔は何処までも醒めている癖に泣きそうな、情けない顔。
 何故こんなにも情けない顔なのかと溜息を付きながら、部屋の中を見て実感した。
 
 俺は、一人でこの場所に居る――そう、孤独を感じた瞬間だった。
 それでいて、何かを求めるでもなく何かと話したい訳でもなく、ただその孤独を味わっていたいとすら感じた。
 きっと、それは人に囲まれ、人が居た場所に何にも囲まれず一人で居る為の孤独だった。
 まるで、外の世界に居た時に一人忘れ物をして夕暮れ時に教室に戻ったかのような。
 日常の中で感じる、静かで、心地よくて、何故か解らないが泣けて来るほどの孤独。
 
『ですから、白蓮さんも少しは神社に来て神奈子様達とお話して頂ければお考えも変わるかと――』
『いえいえ、今度伺わせて頂こうとは思いますけれど、山の妖怪にもお話は通して置きませんと』
『麓ほどやる気が無いのもどうかと思うが、ここまでやる気に満ち溢れているのも問題なのだな、巫女は』
 先程まで話をしていた三人の幻視が一瞬見えた気がして、影にうっすらと消えて行った。
 きっと彼女たちが先程まで居たからこそ、俺は今この瞬間に『一人』であることを感じるのかもしれない。
『お客さん一杯だと楽しいねー』
 お茶を人数分淹れて、嬉しそうな様子で持って行くこいしの幻視が見えて、それもまた薄暗い中に消えて行く。
 人と触れ合う彼女の様子が変わってきたように見えるのは気の所為ではないのだろうか、と言うことにふと思い当たる。
 複数の人妖の中で、屈託と裏表の無い笑顔を見せるこいし。
 何処か輪の中心のようにも見えて、けれど輪の中心になることはなくてあくまで流れるようにあちこちの人妖と触れ合っている。
 言葉の端々の無意識を全て感じ取り、隔絶した笑みを浮かべて視線を逸らしていたこいしとは違っていた。
 最初は、彼女が持っている特有の寂しさに惹かれていたのかもしれない。
 何処か人と線を引いているにも関わらず、半ば一方的に懐いて来て目を離せない存在になっていたこいし。
 けれど今は、無意識に人と線を引くこと無く分け隔てなく接して、幸せそうに笑顔を浮かべている。
 改めてその笑顔に惹きつけられて、目が離せなくなっていた。
 アイシテル、と言う五文字の言葉だけでは、とうに言い表すことの出来ない存在になっていたことに夕暮れ時に気付かされた。
 手を伸ばし、口づけ、キスして、抱きしめたい――身体で感じることができるこいしの姿も。
 話し、無意識に笑い、無意識に泣き、また笑う――心で感じることができるこいしの全ても。
 
 既にこの掌では抱えきれないほど、どうしようもないくらいに愛してしまっていたのだったから。
 それでいて、腕一杯でも抑えきれないこいしへの思いを、一つ一つ拾い集めては繋いで形にする。
 結局不器用過ぎて、出来あがったものは不細工で無作法なものでしかなかった。
 けれど、それを笑顔で嬉しそうに受け取っているこいしの笑顔が脳裏に過って、心が少しだけ高く弾んだ。
 
「……あー」
 口元が中途半端に歪んだような笑いしか最早出て来そうもない。
 自分の頭を軽くがしがしと掻いて、何処へこの感情をやろうか、と溜息を付きながら黄昏時に思い直す。
「また一人でたそがれてるー、もう夜になっちゃうよ?」
 後ろからぽふ、と抱きかかるようにこいしがのしかかって来て、全てがどうでも良くなってしまい現金なものだと一人ごちた。
 にしし、と笑いながら俺の首元に腕を回しているこいしの快活な様子が見えて、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「ああ、お帰り」
 その笑みを浮かべたまま呟けば、こいしが硬直したような様子で俺の顔を横から覗きこんでいた。
「……お説教の一つでも貰うかなって思ったのに。普段とは違う優しい顔してるし。何があったの?」
「何かがあった訳じゃないけどな」
 ただ、嬉しい事があったとも言わない。
 こいしが調子乗るのが目に見えていて、そのままだだ甘なセリフを延々とやりとりするだけで多分夜になっても止まらないだろうから。
「むぅ。まあ良いけど。あ、そだ、お土産」
 こいしが訝しむような様子は変わらないが、思いだしたように何か取りだすと俺の首元に掛けた。
「浮気したら、無意識で解っちゃうよ?」
 ふふ、と笑いながらこいしは笑い、その何かを掛けた俺の首元にしがみつく。
「しないっての。お前を好きになったのは俺くらいで、俺を好きになるのもこいしくらいだろ」
「外の世界では? ほらほら、正直に言わないと耳引っ張るよ?」
「そもそも色恋沙汰とは縁遠かったって――いってぇ!? って、これ」
 耳をぐいい、と引っ張り続けるこいしが俺の首元に掛けていたのは、チョーカーと言えば良いのだろうか。
 小さな閉じられた第三の瞳が、俺の首元で揺れていた。
「うん。作ったんだよ、装飾屋さんでぬえと」
 少し驚いたような様子でこいしに視線を送れば、こくりと頷くこいしの笑顔。
「結構大変だったんだよ? ぬえはもっと大変だったみたいだけど、羽根作りながら怒ってたもん」
 そして、何でまたこんなものを作るのに怒ったりしているのもいるのかと。
「ありがとな。けど、怒るって何でまた」
「『何だってこんな面倒な羽根してるのよ私』とか」
「それ、ただの自業自得だろ」
 ぬえの事はこの際非常にどうでもいい事だった。
 俺の胸の前にある、第三の閉じられた瞳――それは、こいしの象徴。
 淡く目の前にふわり、ふわりと揺れる彼女の髪が視界に移り、何処か嬉しげな声が耳に響いてくる。
「あ、えとね。何か特殊な能力がある、だとかじゃないんだけど、髪の毛を一本だけ紐の中に仕込んであるの。多分解らないだろうけど」
 手にとって触れてみれば、軽い肌触りと少しだけ湿った革の匂いが漂って来た。
「革製か?」
「うん。小さいけどね」
 ぎゅ、とこいしが背から俺を抱き締める力が強くなる。
「……いっしょ、だよ」
 ぽそぽそ、と耳元で呟く声が聞こえて、振り返るとこいしがぱっと離れて立ち上がっている所だった。
「さ、晩ご飯の支度しよ?」
 頬が真っ赤に染まっているように見えるのは、きっと夕陽の所為だけではないだろう。
「ああ、そうだな。ところでこいし」
 離れようとしているこいしの手をぱ、と掴み引き寄せる。
「わぁ!?」
 倒れかかったこいしの身体を強く引き寄せるようにしながら、唇に触れるだけのキスを落とした。
「――んっ……!?」
 ――数瞬だけ触れて、もう離れた時には夕陽は既に落ちきっていた。
  
「……うぅ」
 夕食時、食事を口に運ぶこいしの様子が何処か恥ずかしがっているのか視線をご飯にだけ向けたままただ無心に食べ続けて居た。
 会話の少ない食卓が進む。
 献立は朝と同じご飯に漬物だが、猟師から買った鹿肉と野菜の炒めものに麩の味噌汁と言った朝よりも少しだけしっかりしたものだ。
 久しぶりの肉は適度に脂が乗って美味かったが、それすらも会話を紡ぐことには繋がらない。
 それでいて、何処か空気が優しいものに感じられて余計な言葉を交わす必要をあまり感じなかった。
「こいし、塩使うか?」
「……ふぁ!? あ、うん」
 終始こんな様子で落ちつかなさそうに身体を微かに揺する姿は、普段の彼女からはきっと想像できないだろう。
 ちら、と俺に一度視線を向けて塩を受け取ったこいしは、ふるふるっ、と首を横に小さく振ってから、何処か上気した表情のまま食べ物を口に運んでいた。
 しかも、そんな事を何度も食事中にするものだから食べるペースが非常にゆっくりしたものになってしまっている。
 既にこうやって待ち始めて味噌汁が冷めてしまいそうな時間は経った筈だ。
 味わって食べてくれている考えれば嬉しいものではあるが。
 箸を置いて、ごちそうさま、とこいしが手を合わせたのは、それから大分経ってから。
「ね」
 囲炉裏に薪を放り、火がぱちり、と爆ぜた頃にこいしが何処か神妙にした様子で首を傾げた。
「何で、今日は優しいの?」
 問いかけようか、問わないべきかを迷うような様子で口にしたこいしが言葉を続ける。
「普段は皮肉ばっかりだったり、怒ったり、呆れたりそんなのばっかなのに」
「あー」
 否定のしようがない言葉を続けられて、軽く己の頭を掻く。
 こいしの言わんとすることは大体解らないではないのだが、これに関しては俺も理由が解らないからそれこそ本当に仕方が無い。
「俺自身にそんなつもりは無いんだが、何となく。優しいかどうかの実感すら湧かないけどな」
 ただ、何処か郷愁的な思いが彼女の言葉の端に皮肉を思おうとすることを否定しているだけである。
 きっと無意識の行動なのだろうけれど、彼女にとってはきっとそれも無意識として感じ取っているのだろう。
「そ、っか」
 少しはにかんだような笑みを浮かべたこいしが、くるっと振り返る。
「じゃあ、お風呂先に浴びちゃうね。覗いても良いよ?」
 悪戯っ子の笑みを気取った、言葉に出来ないほどに柔らかな笑みで。
「覗かないっての。ゆっくり浸かって来いよ」
 ――ああ、あの笑みは、俺だけが見ることが出来るものなんだな、と微かな優越感をそこに思える程だった。
 
 風呂を浴びて布団に転がろうとしたところで、こいしの髪がまだ濡れて居るのに気付いた。
「まだ乾いて無いぞ」
「もう、大丈夫だよ。風邪も引かないんだから」
 洗った綺麗な布でわしわしと拭ってやると、何処か擽ったそうに彼女は身体をよじらせる。
「駄目だ。大人しくしてろ」
 そ、と濡れた髪に一度口づけると、滴が口に触れて淡い匂いが鼻腔を擽る。
「……いつもと全然ペース違うー」
 普段がこいしに攻められて、振り回されるばかりでいるのでこう言う時くらいは俺がペースを握っても良いのではないのだろうか。
「いつも俺を振り回し過ぎだからだ」
 念入りに頭を拭いてやると、こいしが心地よさそうに瞳を閉じて微かな欠伸を漏らす。
「ふぁ……」
 濡れて居る様子は見当たらなくなったのでもう良いだろう、そう思いながらこいしの頭を軽く抱くと、布団の上に転がった。
 こいしの髪の匂いに一瞬だけ包まれてから、掛け布団を被ると互いの体温が少しずつ互いの体を温め始める。
「んー……」
 頭を俺の胸元に乗せて、全体重を俺の身体の上にこいしは預けている。
 砂を火に掛けて消してしまえば、目の前にあるものの八割以上が閉ざされ切ってしまった暗闇。
 窓から入る星月の灯りだけは、変わらずに淡く、優しく俺達を照らしていた。
「……ね」
 こいしがふと俺へと視線を向ければ、碧の輝きが目を細めて笑う。
「おやすみの、キス」
 彼女の甘えるような声は、淡く微かに。
 彼女の唇に人差し指を当てる様子は、そこはかとない健全さと不健全さが合い混じった様子で。
 こんなに落ち付いた、安らいだ心のままで、その全てを分かち合う為に――。

「……ん、っ」
 深く、甘い口づけを交わし、ゆっくりと、眠りの深海へと静かに溺れて行った。
──────────────────────────────────────────


 丁度収支の計算をしている時に、とある事に気付いて筆を動かす手を止めた。
「あ」
 最近の仕事だのの忙しさにかまけてすっかり忘れて居たものがあった。
 何とはなしに今日のカレンダーを見てこいしが嬉しそうな表情をしていたのを忘れた訳ではない。
「どしたの?」
 目を細めて何処か浮ついたような笑顔を浮かべたこいしがこちらを振り返った。
「いや」
 己の口元に手を当て考え、やはりそれ以外無いと言う結論に達した俺は多分人間として問題しか無い気がする。
「こいし、今日クリスマスイブだっけか」
 そんな所から、この話は始まった。

「ん、そだよー? 今頃再確認?」
 訝しげに首を傾げて、こいしは不思議そうな顔をする。
「まさか今気付いたの? 折角カレンダーも外の世界準拠にしてるのに」
「あー……」
 そう言えばそうだったか、と言うか今の今になるまで気付かないあたりどれだけ俺はダメ人間か。
 そうだと言うのも格好が付かず、まるで彼女の姉のようにじとっとした視線を向けて来るこいしから視線を逸らす事しかできない。
「忘れてた?」
 言い訳するなれば、外の世界のようにクリスマスムードで浮かれている様子が皆無の人里だから忘れてしまいこともさもありなんではある。
 『ところで兄ちゃん、正月の頭ァここいら一帯の集めて一杯やるんだけどよ、どうだい?』と言う発言が昨日手伝いに行った大工から飛び出す程度には、だ。
 やる仕事が地場密着型産業と言い換えれば良いが、寄合の会合はやはり外せないのが少しだけ辛い所である。
 ちなみに大工には『行くのは良いけれどあんた方より強いうちの妖怪が顔見せることになるけど良いのか?』と返しておいた。
「面目ない」
 そんな鬼が笑いそうな来年の事は今はどうでもいい。
 実際に鬼を知っていて彼女たちが爆笑しそうなところを見ればその諺は外れて居るようには感じられないが。
 とにもかくにも、不満そうな顔のこいしがこちらを睨んで居た。
「もー」
 ぷくぅ、と膨れた表情は彼女がどれほどか怒っている事を示している。
 まるで焼き餅みたいだな、と緊張感無い様子で連想すればこいしがもう一度唇を開いた。
「私、お姉ちゃんのところ行ってくる。プレゼント渡さないとダメだしね。って訳で、時間あげる」
 ぴっ、と俺に指を差したこいしは、くすりと笑みを浮かべてからこう言った。
「戻ってくるまでに、きちんと考えておくこと」

 相変わらずこの家に一人居残っていると少しだけ肌寒く感じる。
「さて、どうすっかねぇ」
 彼女は先程の台詞を吐いた後、空に浮かび上がってぶんぶんと手を振って山の方に行ってしまった。
 流石は無意識、行動が早いと言うか身勝手と言うか何と言うかいつものこいしである。
 一人取り残された俺はクリスマスの出迎えとして、やはり彼女に何かしてやらなければダメな気がする。
 しかし困ったことに全くイメージが浮かばないので、一人で考えて居ても仕方ないのではないかとも思い始めて来た。
「仕方無いか……」
 立ちあがり、コートを羽織る。
 友人連中ならきっと良い案が浮かぶかもしれない。
 こう言う時に話を聞くべきはやはり外の世界と言う誼だろうなあ、と思いながらコートを手に取った。
 少々面倒臭いが、やはりそこに行かなければならないだろう。
 立ちあがり、扉を閉めれば外の風は肌寒く身体を突き刺して来た。
 


「止まりなさい」
 山に入って早々、白狼天狗の少女に声を掛けられた。
 以前神社に居た時もそうだが、非常に真面目な仕事振りである。
 顔も互いに見知っているのもあり、彼女は一つ息をついて呆れたように言葉を口にした。
 犬走椛、山の天狗である。
「……って、あなたは。行き先は神社ですか?」
「ああ。早苗に至急の用があるんでな」
「なら、神社までは同行します。余計な寄り道をされては困りますから」
 ふ、と彼女は俺の少し前を歩き始め、道を先導するような素振りを見せる。
「それと、文さんがあなたが来たら神社まで誘導して欲しいと。根掘り葉掘り聞きたいそうですから」
「目的無ければ即座に帰りたい所だな」
 だが、困った事ではあるがそれこそ協力して貰わないと困るものなのだ。
 歩きながら椛の尾がふりふりと振れるのを見て、機嫌は悪く無いのだろうなと何とはなしに思った。
「ちなみに根掘り葉掘り聞かれる程の事は何もしていない」
「……里だろうが何処だろうが妖怪と一緒に歩いている時点で十分何もどころでは無いと思いますが。此処からでも十分見えますし」
 だんだんと山を登りながらそんな事を嘯けば、ふと気付いたように椛が口を開いた。
「そう言えば彼女は? 珍しく一人みたいですが」
「地底に行ってると思うけど、顔見てないのか」
 答えれば、椛がはぁっと一つ大きく息を付いて尻尾がしょげかえる。
「……またやられました」
 懲戒天狗を務める彼女にとってはどうもこいしを捕まえられないのが非常に悔しいらしく、どうにかして捕まえようとしているらしいのだが相手はこいしの無意識である。
 そんなもの、目の前に居ようが気付かず通り過ぎられる時点でもう最初から負けが決まってるとしか俺からは言えない。
「諦めなさんな。夢はきっと開ける」
「全くそう思っていない口調で言わないでくださいよぉ!?」
 そんなやりとりをしながら、山を登って行った。

「よぉ。……って本当に待ちかまえていやがるのな」
「あ。こんにちは」
「こんにちはー、待っていましたよ? ……って何で椛しかいないんですか」
「何でって理由を聞かれても困ります……お一人だったんですから」
 守矢神社に足を踏み入れた途端に飛んでくる天狗達の非常に間の抜けた会話を耳にしながら肩を竦める。
「もしかして、こいしさんと喧嘩でもされたんですか?」
 早苗が首を傾げ、心配そうに見つめ邪推して来るのがまた困ったもので、ここで『はいちょっとクリスマスイブ忘れてて呆れられました』とでも言ってしまったら最後、女心が解って無い、だの男はかくあるべき、だの説教の嵐である。
 正直彼女自身が説教される立場であるのにもかかわらずそんな事になったら確実に今晩食う飯が不味くなる。
 なので、此処は無難な発言で抑えることにした。
「なぁ。女の子が好きそうなプレゼントって何だと思う?」
「はい?」
 早苗が目を瞬かせ、微かに首を傾げて、言葉を紡ぎ出す。
「アロマですかねー……後はネックレスやリング何かも良いかもしれません。それに」
 そう、煩悩と言うかある意味ではその世代の外の世界の少女らしくかといって此処でどうしろと言うような物を。
「お前それ自分の欲望入ってんだろ」
 途中で言葉を切って溜息を付いて天狗の会話に耳を傾ける。
「ですからそこは椛の認識が欠けて居ますね」
「……そうは言っても文様ぁ」
 未だ、上下関係の会話を続けて居る二人に視線を向けた。
 そして、確信した。
「コイツ等に聞いても無駄か」
 簡単かつ非常にどうしようもない結論だった。
「とりあえず。こいしさんに何かプレゼントにしても……遅過ぎませんか、流石に。そんな様子では愛想尽かされちゃいますよ」
「煩いな、案が無いか聞きに来ただけだっての」
 剣呑な口調で返せば、早苗がむ、と眉を寄せる。
「文さん、椛さん。次の写真はこの人題材にしてあげてくださいな。きっと良い記事になります」
 俺を売り飛ばすと言う最もえげつない手段を的確かつ真っ先に使うこの東風谷早苗と言う人物は、敵に回す訳にはいかない人物だと再確認させられた。
「あーあー解ったから待てコラ俺が悪うござんした」
 半ば棒読みで謝ってから溜息を付いて、早苗を止めれば天狗組がこちらに視線を向けてその内の片方が此方に近寄ってくる。
 無論、尻尾の生えている方では無い。
「ところでこいしさんとのその後の甘々新婚生活をさあ!」
「生活費が常に危ういのでもう少々お待ち下さい」
 まるで生肉を放りこんだ所に食い付くピラニアのような勢いで此方に振ってくる天狗、射命丸文にしれ、と手を横に振った。
 不満そうな顔をして唇を尖らせる彼女に対して言葉を続ける。
「ついでに宣伝広告入れさせて貰えるんなら多少は譲って話さないでは無い」
「ジャーナリズムに対する横暴です!」
 鋭い反駁が帰って来た為、彼女と交渉する必要は無いな、と感じながら返答する。
「お前が今俺にやってるのは、ジャーナリズム精神では無くパパラッチ精神と外の世界では言うんだよ」
 もう一つ溜息をつくと、緊張感の欠片も無い会話の山にそろそろ頭が痛くなってきた。
「それで、プレゼント探し、贈り物探しですか? 人里の方で何か買ってあげるのとかが良いとは思いますけれど」
「それは俺も考えたんだがなぁ」
 文の発言に適当なものを考えようとはしたが、浮かばなかったため此方に来たと言うのもある。
 我ながら発想が貧弱で困るが、貧弱な発想でもきちんと思ってやらなきゃ男としては十分以上に問題だ。
「じゃあ、こいしさんの趣味とか」
「死体飾りとか言ってた気がするが」
 即答すると文が目を閉じてふーむ、と考え込むような表情をする。
 最も、半分くらいは嘘である、と言うか正確には俺も詳しい事は知らないし多分であるがそこらへんの行動は無意識で行っているのだろう。
 だから余計に困る訳だが、こう言う場合。
「じゃあ飾る為のパーツを」
「どうしてそうなったんですか、文様……」
「人里に住んで居る俺に人殺しをさせないで頂きたい」
 文の回答に再度即答、これも当然の出来事である。
 むしろ椛からも突っ込まれているあたり彼女もまた発想的にはそうアテに出来るとは思えなかった。
「ほらー、きちんと協力してあげたじゃないですか。だからこいしさんとの甘い甘いお話を――」
 また騒がしくなり始めた文にいい加減頭を抱え始めた所で、明るい声が響き渡る。
「やー、何か騒がしいと思ったら。早苗、参拝客が来たら教えてくれれば良いのに」
 童女のようにしか見えないその姿は、きっと神には見えないであろう、この神社に祀られた神様のうちの一柱。
「あ、諏訪子様」
「諏訪子様か。邪魔してるぜ」
「これはこれは。新年の参拝客を待てずに? ちょっと早過ぎる気がしますけれど」
「お早うございます」
 ただでさえ人がそう多くないこの神社で四名も固まって居れば騒がしく聞こえるか。
 のっけから神の精神を逆なでるような台詞を吐く文に呆れつつ、会釈をすればぴくり、と諏訪子様が身を硬直させた。
「ねぇ天狗、来年の事を言うと鬼が笑いながら戻ってくるんじゃないかい?」
 にぃ、と破顔し帽子のつばを深く下げた諏訪子様を見て、天狗二人組がびくぅ、と背を固まらせるのを見ながら諏訪子様はくっくっ、と笑いながら続ける。
「そうだねぇ、あの一本角の星熊童子。良い飲みっぷりだったよ。どうかな、今度山の方で騒がしくやる時があるなら私から呼んでおこうか?」
 地底の鬼の事を笑いながら語ると、それだけで震え始める天狗二人。
 星熊童子とはこの場合勇儀の事だろうが、以前見た限り鬼と言っても決して悪い存在には見えない筈ではあるのだが。
 最も、鬼である事そのものが悪いことではないか、と言われてしまえばそれで終いではある。
「いいえ遠慮して置きます!? 椛、失礼しますよっ」
「待ってください……って帰る時はきちんと来た道通って下さいね!?」
 半ば逃げ出すように天狗二人が飛び去って行くのを見ながらこれで助かったと一つ溜息、全く騒がしかった。

「さて」
 諏訪子様が一つ息を付く。
 神様二柱だけはきちんと様付けをしているのは神社に居候していた時の癖でもある。
 然し、何度見ても外見と内面のギャップが酷い存在だと思わせてくれるのが彼女であった。
「諏訪子様、良いんですか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。それよかどーしたんだい、一人だけとはまた珍しいねぇ」
 気軽な口調で話しかけて来る諏訪子様へと、どうしたものかなと迷いながら言葉を探す。
「いや、今日クリスマスイヴだからプレゼント買ってやろうと」
 結局口に出て来たのは、それくらいだった。
 そもそも早苗ですら気付いて居るのだから、諏訪子様が気付いて居ない訳もない。
「で、結局一人でうろうろしてるってことは『自分で考えて?』って言われた訳だ。やるねぇー、愛されてるねぇー」
 言わないでもそこまで察してくれるのがありがたいのか、それとも逆に困るのかは解らない。
 けれど、にししし、と口元を押さえながら諏訪子様が笑うのが、何処かこいしを彷彿とさせる。
 彼女たちは妙な所で縁があるのか似ているのか、それとも存在として似た所が何処かにあるのか。
「全く、こいしさんも大変ですよね。この方いつも何処か煮え切らない人だから」
 早苗が憮然としたような口調で唇を尖らせれば、諏訪子様が苦笑する。
「否定出来ないねぇ。鈍感、仏頂面、無愛想。子供の面倒見は良いのにねぇ」
 口元からアンタこそ子供だろと言いかけて思いとどまり、ふぅと一つ深く息を付いた。
 覚えたのは正直イジメも良い所の言葉の礫を乱打されたかのような感覚である。
「……そろそろ参考にならんのが解ったから帰って良いか?」
 何か色々な物に打ちのめされた感が漂うが、それでも探してやらなきゃならない。
 溜息をついて背を向けようと思った瞬間、声で引きとめられた。
「まあお待ちなさいな。一つだけヒントを上げようじゃない、迷える子羊の為に」
 ちっちっち、と諏訪子様は指先を突いて舌でリズムを刻みながら、まるで何でも無い事のように言葉を続ける。
「そうだね。一つだけ勘違いしている事があるよ、君がね。凄い単純な事なんだけど」
 はて、単純な事、と言われて考えてみたがどうにも思い当たる節が無い。
 そんな俺に対して諏訪子様が一つ深く溜息をついて、言葉を続ける。
「そのプレゼントは、誰の為に渡すんだい? 渡したくて渡すのかい? それとも、渡さなきゃならないから渡すのかい?」
 ――俯けて居た顔を上げて、その言葉を咀嚼して、一つの結論が見えた。
 ああ、そうだ、完全に忘れて居たことは、『探さなきゃならない』と思っていた事。
 つまり、心からの贈り物である前提条件を完全に失って、『クリスマスだからプレゼントを渡さなきゃならない』と言う強迫観念にとらわれていたと言う事。
 形式ばったプレゼントには、形骸以上の意味は存在しないのだ。
「……ああ」
「お、気付いたかい、その表情は」
 にぃ、と諏訪子様が破顔し、早苗もああ、と言ったように納得してぽんっと手を叩いた。
「なるほど、諏訪子様。それを気付かせたくて――」
「と言う訳で早苗。後は任せたよ」
 早苗がにこにこ顔で続けようとした所で、諏訪子様が深く帽子を被り直した。
「え?」
 言うが早いが諏訪子様の身体が土の中に沈んで行って、そのまま帽子だけがぴょこんと頭を出せば何処かへと帽子が動いて消え去って行く。
「え、あのー、諏訪子様ー……」
 それが消えた所に、ごうっ、と一瞬だけ風が強く吹き荒れれば、そこに立っていたのはこの神社のもう一柱の神様。
 八坂神奈子様が目の前で巨大な御柱を携え、少々剣呑な様子を微かに顕しながらそこに立っていた。
「全く、面倒事を作ってくれて……! 早苗。諏訪子を見なかったかい」
「え、えと。先程まで居られたのですが。神奈子様、何かあったのですか?」
 早苗の回答にちっ、と舌打ちをしながら彼女は吐きだすように言ってやれやれと肩をすくめる。
「天狗の親分からこっちに過干渉だから少し控えろって言う苦情だよ、全く」
 なるほど、先程文を追い払ったが為にどうも彼女たちの所でゴタゴタが出来てしまったらしい。
 これ以上此処に居るとまた厄介事に巻き込まれるだろうと思い、こちらも軽く手を上げた。
「じゃあ俺はこれで。神奈子様、どうも」
「え、あ。また、よいお年を……」
 まだ動転している早苗に背を向けて、石段を降り切ってから早苗の声が響いて来たのに振りかえることも無く足を進めた。
「って、せめて説明くらいして下さいよーっ!?」
 人を煽るだけ煽った罪だ、俺は知らん。
 そう思いながら石段を少しずつ降りて行った。


「で。僕の所かい。君は僕の店を銀細工店か何かと間違えていないかい?」
「間違っちゃいないが、此処以外外の世界のものが流れ着く場所も無いからな。どちらにしろ客なんか滅多に来やしないだろ?」
 香霖堂店主の皮肉混じりの溜息にこちらも多分に皮肉を込めて返答すれば、はぁ、と一つ溜息が帰ってきた。
「せめてきちんと買った物には代金を払ってくれるだけ良いお客様だと思う事にするよ」
「そらどーも」
 生返事しながらそれらしきものを見て探す。
 少し褪せた色の銀のネックレスに、くすんだ金色の指輪、埃が被って磨かれていないエメラルドが嵌められたブローチ。
 見事な女性向けと思えるものが揃っていたが、売れ残っているのが非常に怪しい。
「おい。これ売り物だよな?」
「一応ね」
 肩を竦めた店主から商品の値札に視線を移せば、桁がおかしい金額になっていて半ば唖然としながらそこに戻す。
「……本当に売るつもりあるのか?」
「一応ね」
 食えない、コイツは食えない奴だ。
 幻想郷と言うものは人間にしろ妖怪にしろその精神をひん曲げる程度には歪んでいるのか。
「ったく」
「おや、買わないのかい。どうも御贔屓に」
 交渉するのもアホらしくなり、店を出て行きながら人里の方にゆっくりと足を進める。
 そろそろ日は暗くなり、夕暮れに差し掛かろうとしていた。



 暮れて橙色の日差しが差し込んでいる人里の道へと通りかかる。
 市の店主達は各々が各々の荷をしまい、中には帰ってしまって空間がぽっかり空いてしまっている所もあった。
 それもそうか、時間が時間だし人間の時間はそろそろ終いだ。
 結局何も探せていない現状であるが、少なくとも香霖堂にあったものを渡したいとは思わなかった。
 値段的なものもあるのだが、それ以上に元は高かったであろう貴金属が完全に褪せたりした姿であると言うのが大きい。
 以前は豪奢だったのに、今は寂れてしまったものと言うイメージ。
 あれはきっと誰かが大事にしていて、それを忘れ去ってしまったが故に幻想郷に流れ着いたものなのだろう。
 忘れ去られていたものを、再度綺麗にして渡してもこいしは喜んだのかもしれないが、俺が釈然としなかった。
 プライドとも違うその何か釈然としないものは、きっと諏訪子様からの話を聞いたからなのだろう。
 
 ――そのプレゼントは、誰の為に渡すんだい?

 紛うことなく、こいしのために。
 迷うことなく、ただ一人の為に。
 こいしの笑顔が見たいから。
 俺が与えられる物を、彼女に渡したいから。

 本当に簡単な事を忘れているのに気付かされて、何処までも愚かな自分に溜息をついた。
 そうしていても何も始まらないのだから、動かない限りどうしようもない。
 焦燥感は全く感じないが、どうしたらいいのか解らないこの感情。
 何を本当に渡したら良いんだろうか、とも思い、また一つため息。
「あっ」
 どっ、と肩のあたりに身体がぶつかる感覚と、何かが往来にぶちまけられたような音が聞こえて我に返った。
「すみませんっ!?」
「すまない、大丈夫か?」
 目の前に十代前半くらいと思しき少女が尻もちを突いていて、目を白黒させていたのに気付く。
 彼女の周りに散らばっているのは、夕陽を浴びてキラキラ煌めいている何か小さなもの。
「すみません、すぐに片付けますから……!」
 ぺこぺこ、と周囲の往来に頭を下げている彼女に釣られて、一つそれをとって見れば小さな薔薇を象った銀細工のブローチ。
「これは……」
「あ。えと、お一つ如何ですか? 私が作ったものなんですが……」
 凄まじく間の抜けた商談と言うかやりとりが展開されて肩の力ががくりと抜ける。
 他にも一つ一つ、あやめにさくら、または雪の結晶を象ったそれが少女の周りに転がっていた。
「……ああ、それは良いんだが」
 とりあえず、周囲に散らばった物を片づける方が先だろうと思いながら、少女の手を取って立たせてやる。
「先に拾ってやらないと、踏まれたら大事だぞ」
「は、はいっ」
 純朴そうと表現すれば良い表現だが、トロそうなのが幻想郷に居たと言う事に微かな安堵と本当にコイツは生きていけるのかと言う疑念を抱く。
 必死扱いて、地面に散らばったのを渡してやりながら最後に手元に持っている薔薇を渡そうとしてふと気付いた。
 手に持っている薔薇のブローチは、薔薇にしてはとても花弁が多く同じ花とは全く思えない。
「……これ、薔薇じゃないのか?」
 彼女に問いかければ、はっと顔を上げたようにしてこくりと頷く。
「そう、ですね。薔薇じゃないんですけど、その。人里を歩いて居る子のスカートの柄に書かれてた、花のイメージが綺麗だったので……」
 
 ――そんな奴、一人しか居ない。
 俺は彼女の事を、とてもよく知っている、と口に出しかけて思いとどまり、何とか堪えるように絞り出す。

「そうか。これを貰えるか?」
 そのブローチにはただ茫洋と歩いて居るだけのこいしが、描かれていた。
 その姿は何処か寂しげにも見えて、手を伸ばしてしまいたくなる程。
 絵画としてあるのよりも、余程鮮明に彼女の姿をイメージ出来るそのブローチからの鮮明なイメージに、青天に霹靂が走った。
 そうか、これは、こいしの――。
「はい。……えーと」
 金額の札をはい、と手渡すような様子の彼女に苦笑しつつ、そのブローチをもう一度見直す。
 銀色の花弁は、落ちかけた橙色の夕陽に照らされて暗く鈍く、それでいて温もりを持って輝いていた。
 値段も余程手頃で、きっと香霖堂で飾られていた細工に比べれば玩具のような値段である。
 けれど、これが一番彼女に送りたいものだから。
「ありがとな」
「いえ、毎度ありがとうございます!」
 元気な少女の声に、口元に笑みが零れる。
 言うが早いが、往来を走り出して家へと、ただこいしの笑顔以外考えずに走り始める。



「こいしっ」
 ぜ、は、と息を切らしながら日没寸前に家の前に辿りつけば、茫洋とした様子のまま落ちる日を眺め続けているこいしの姿。
 屋根の上に乗って、何処か寂しげな様子に見えないでもない。
「あ、お帰りなさいー」
 ぼう、としたまま彼女は俺に視線を向けて、また夕陽に視線を戻す。
「どうしたんだ?」
「ん、見てたかったから」
 ぜ、はと荒い息を吐きながら、梯子を掛けて屋根の上に昇ろうとする。
「……もー、何で走ってきたりしちゃったの。風邪引いても知らないよ?」
「そんなの、早く帰って顔見たかったからに決まってるだろうが」
 こいしの窘めるような発言に、梯子の最上段に手を掛けながら返せば、珍しく彼女は帽子を抱えて恥ずかしそうに口元に寄せた。
「だから何でこう言う時だけー……」
 とっ、と梯子を登りきってからこいしの方に行けば、口元を帽子で覆いながら彼女は立っている俺を見上げた。
「照れてるのか?」
「そんな事聞くからデリカシー無いって言うの、もう」
 瞳を閉じた彼女は、つん、と言うように俺の方から顔を背ける。
 傍らに腰掛けて、夕陽が山の向こうに落ちて行く光景を眺めていれば、何もかもが陰りのある橙色に犯されて、それが少しずつ少しずつ影に塗りつぶされていく。
 細い肩を腕を伸ばして抱き寄せてやれば、こいしの頭がこちらにこてん、と揺れた。
「……ごめんね、意地悪したりして」
「いや。何て言ったら解らんが、俺としては良かったと思う、今日の事は」
 言うと、首をふるふると横に振って彼女は呟いた。
「一人きりの寂しさ、少しだけ再確認しておきたかったの。普段、一人じゃなくて、ずっと幸せだから」
 そして顔を俯けて、俺の服の裾を彼女はきゅ、と掴む。
「やっぱり、寂しくて、胸がきゅっとした。慣れてる、耐えられるって思ったのに、あなたのお陰でやっぱりダメだった」
 微かに彼女の肩が震えて、しゃくりあげるような声が聞こえ始める。
「……寂し、かった、よ……」
 俯いて、そのまま身体を震えさせるこいしの髪にそっと触れた。
「馬鹿」
 一度立ちあがり、座り静かに泣き続けるこいしの後ろからもたれかかるように抱き締める。
 とくん、とくんと暖かい鼓動が伝わって、冷えた身体は少しずつ少しずつ、互いの温もりで暖められていく。
 こいしから受け取っているものは、この暖かさ。
 こいしに与えているものは、俺の暖かさ。
 ならその一つに、華を添えて、そっと送ろう――。

 ぱちん。
 俯いたままのこいしの胸にあのブローチを嵌めてやると、ぱち、ぱち、と涙があふれる瞳がきょとんとした様子で俺の方を向く。
「自分で言った事、忘れたのかお前。プレゼント、きちんと探して来たぞ」
「……へへ、ありがと」
 彼女は笑い、それでいて瞳から涙を溢れさせていた。
 その涙が滴となり、もう地平線の彼方へと消え始めている橙色の光を吸ってキラキラと宝石のように輝く。
 ブローチにその滴が落ちて、鈍い銀色が輝きを増して星のように瞬いた。
「ねぇ」
 こいしが笑いながら、涙を流しながら瞳を閉じる。
 もう、言葉は要らない。
 今与えられる、一番大きな贈り物は、何でもないけれど、俺にしかきっと出来ない、きっとこいししか求めないもの。
 その答えは、一つしかない、簡単なもの。
 
 ――宵闇がゆるりと訪れる中、こいしの唇に口づける。
 陽が落ちるまでの僅かな瞬間、寒空の中、それでも暖かな瞬間だけでも、今と言う永遠が続く事を信じて――。
───────────────────────────────────────────────────────

「毎度ありがとうございましたぁー」
 屋台のおかみの声が響き渡る。
 やつめうなぎの屋台の暖簾を潜ると、ひゅう、と吹いた冬の風と急激な寒さが身体を硬直させた。
「うぉ、やっぱり冷え込むな」
 思わず口を突いて出た言葉に、俺より早く店を出ていた奴が振り返りにや、と笑みを浮かべた。
「こんなもんはまだまだ序の口だろ。ヤワだねお前さんも」
「うっせ。慣れてるから余裕って顔しやがって」
「実際慣れてるからな」
 肩を竦める目の前の男に、首を横に振って一つ溜息。
 ある程度気心の知れた友人ではあるが、こう言うところは全く解せない。
 ただの人間が寒さに弱い存在だという事は自覚して頂きたいものである。
 暖かいものを食べていた時にはそう寒くないと思えても、びゅう、と吹く外の風を身体で受けた瞬間身体を脳天から足下まで貫くように寒いと感じるのだ。
 仕方ない事ではあるがどうしようも無い事だ。
「あふぁ。……さって、そろそろ帰るかね。お前さんもコレを待たせ過ぎんなよ」
 目の前の輩が小指を立ててそうにやにやと笑ったのにはあ、と一つ息を吐くと白く濁って、うっすらと宵闇に溶けていった。
「今日は食ってくるつったから居ないかもな?」
 そう、今日は外で食うから家で食事は取らないと言って出てきたのだ。
 珍しく彼女は首を縦に振り、『男の人同士だもんねぇ。やっぱり語り合いたい事もあるよねぇ』と訳知り顔で仰いやがった。
「へーへー。どうせそう思ってないんだろお前さん」
「うっせ」
 再度の煽りにすげなく返して、肩を竦めて里へと足を進める。
「里の近くまでは着いてってやるよ。その方が安全だしな」
 俺の肩にぽん、と掌を置かれれば、その馬鹿が傍らを歩いて俺の首に腕を回す。
「え、何お前。そのケがあんの? 止してくれ、俺にはこいしがだな」
 冗談以外入ってない言葉を返してすす、と微かに離れようとしてやると、奴は首を横に振って深く息を吐いてから返答する。
「バーロ、死なれても寝覚め悪いんだよタコ」
 俺たちは間の抜けたアホ臭い会話をしながら、宵闇に落ちてしまった道を里の方へと騒ぎながら歩いていった。



 自宅のボロ屋に辿り着いて、扉をあけると囲炉裏に火が灯っていた。
 ほの暖かい部屋の空気を吸い込めば、んぅー、とか、うー、とかのどう考えても眠気に負けている声が聞こえてくる。
「……こいし?」
「お帰りぃー……」
 囲炉裏の奥には布団が既に敷かれていて、ごろんと転がって寝間着を着ているこいしが此方を見た。
「何だ、珍しく早いな」
「もう食べちゃったしきちんと干したしお掃除もしたからねぇー……へへ」
 ふにゃり、と表情を崩して枕に突っ伏すこいしの表情は安堵しきった、まるで抱きしめたくなるような笑顔。
 こう言った表情は普段とは違って無意識で浮かべる分、余計に反則だと思う。
 だがそんなことを気にするようなこいしかと言えば、そんな訳もなくおかまいなしに続けたのだ。
「最後にしてなかったのはー、布団を暖めることー……へへ。暖かいよ?」
 あれ、何この可愛い生き物。
 いやしかしあのこいしだぞ、と軽く首を横に振る。
 ふわふわの髪も彼女がもぞもぞと布団の中で動くとゆらゆらと形を変える。
 布団つむりと化した彼女は、身体を丸めて布団にすっぽりと包まれてから、頭だけを出して口を開いた。
「お風呂入って、出たら早く暖まろうよー」
「おい」
 普通は風呂に入って暖まるだろう、と肩を竦めてから脱衣所に向かう。
 俺が風呂から上がる時まで起きていればいいが、と微かな危惧だけ覚えたが寝ていたらその時はその時かとも思って一つ苦笑混じりの吐息を吐けば、家の中にも関わらずほう、と白く息が溶けた。



「くぅー……」
 風呂から出るとやはりと言うか予想通りと言うか、枕に突っ伏したまま寝息を立てるこいしの姿がそこにあった。
 布団を暖めるどころか自分がさっさと寝てしまうあたり彼女らしい。
 らしいが、俺が潜り込むには少々狭い眠り方をされていた。
「ったく」
 ぼやきながら頭の近くに座り込み、さわさわと髪に触れてやるが起きる様子は無さそうに頭を布団に預けて気持ち良さそうに彼女は眠っていた。
 やれやれ、と立ち上がりもう一組の布団を広げようか、と思うとふいに布団から伸びてきた腕が俺の手を掴む。
「……もっと」
 完全に寝ているように見えたこいしが、全く変わらず眠っているようにしか見えない様子で腕を伸ばしてきていた。
 恐るべきは髪に触れている事に気付いた無意識か、それともこいし自身の演技力か。
「……ん、すぅー」
 そのままさわさわと髪を撫でてやれば、まるで猫のように丸まったこいしがふにゃ、と溶けたような笑みを微かに浮かべた。
 もう一度二度と撫で続けてやれば、頭を深く枕に預けるように撫でるテンポに合わせて深く深く彼女は眠りに誘われていく。
 そして引き替えになるものがあった。
 やはり温もりである、と言うか寒い。
 裸足が板に付いている状態とか何かの修行としか思えない。
 足の感覚が少しずつじんじんと痺れるようなそれに変わってきたのを感じて、流石に布団の中に潜らないと拙いと思い始めてきた。
「そろそろ俺の寝場所開けてくれって」
「むぅ」
 軽く唸りながら、ころん、と転がってこいしは薄らと瞳を開く。
「とくべつ、なんだよ?」
 呂律の回っていない子供のような口調で、彼女は呟いた。
 何が特別なんだか解らんが、悠長な事をしていたお陰で足下から冷え始めてきていた俺は結構必死であった。
 特別の寒がりと言う自覚はないが、それでも寒いものは寒いし暖かいものを求めたがる。
 至極当然の反応と言えた。
「んじゃ、入るぞ」
「ん」
 こくん、とこいしが頷いたのを見て、足を滑り込ませればこいしが閉じかけていた瞳を見開いた。
 そして暖かい空気を裂くような、悲鳴に似た声を上げる。
「ひゃ、冷たっ」
 構わず布団の中に身体を潜り込ませて毛布を被れば、心地よい温もりが全身を包む。
 これは確かに眠気を誘う暖かさだな、と実感しながら目を覚ましてしまったこいしに呆れて返してやる。
 元より甘えた言葉言って俺の身体冷ましたのは誰だと思っている。
「遊んでるからだっての」
 元々一人で寝る為の布団なので、当然ながら二人が寝転がるには狭いものである。
 自然、身体を寄せるようにすればこいしから不満そうな声が上がる。
「心が冷たいから足も冷たいんだよー、冷血漢だからー」
「おいコラ自分が原因っての忘れて何言ってやがる」
 不適当な事を言うのに反駁すると、目の前の無意識はこう言い切りやがった。
「何の事ー?」
「んにゃろ、ならその暖かいのを寄越せ」
 ぐい、と抱き寄せてこいしの足を絡めるように自分の足へと重ねれば、彼女は瞳を瞑りながら喘ぐような声を上げた。
「ひゃあっ、だから冷たいんだってばーっ……!」
 軽く足でこいしの足の甲を擦るようにしながらすっぽりと包み込むと、笑い声が聞こえ始めた。
 勿論出所は一人しか居ない。
「もー、擽ったい……!」
 ころころと笑うと、こいしは俺の胸にぎゅ、としがみつくようにして瞳を閉じる。
「こーして動かないようにしてやるーっ……」
 腕を俺の身体に回したこいしは、自分が動かないようぎゅ、と俺の身体にしがみついているのだが、如何せん体格差が有るものだから必死に抱きついているようにしか見えないのだ。
 そんなこいしの頭へぽふ、と言う音とともに掌を乗せてやると、こいしの力が急にくったりと抜けた。
「ん……」
 そのまま胸元で俺の寝間着に頬擦りながら彼女は瞳を閉じた。
「少しお酒の臭いする……」
「外で食ってくるって行ったろ。……嫌か?」
 すると、ふるふるとこいしは首を横に振って呟いた。
「あなたは、暖かいから、何でも、良いよぉー……」
 凄まじく人を人とも思っていない発言であったが、そろそろこれも無意識だから仕方ない、と思える程度には俺も達観している。
 そも、こういう状態ではきっと彼女の眠りは遠くないのだろう。
「んぅ……」
 こいしがもう一度呻くような声を上げると、呼吸が少しずつ落ち着いて一定のテンポを刻み始める。
 寝付きが良すぎてまるで子供をあやしているようにも感じながら、彼女に恋してしまっている自分自身に微かに苦笑いが浮かんだ。
 あどけない表情で、まるで天使のように静かに眠る、と言う陳腐でありきたりな表現でも、今の彼女にはぴったりと似合う。
 その表情を見ていたら、何処か自分自身も温もりと微睡みの中に飲まれていくような気がしていた。
 きっと俺は今から幸せに眠りに落ちていけるのだろう。
 目の前の少女の髪にキスをすると、抜けてはいるのだろうが酒の所為もあってかどっと睡魔が襲いかかってきた。
「……おやす、み……」
 口にした言葉を、無意識を操る妖怪は夢の中で聞いていたのだろうか?
 黒に飲まれる意識の前に、ふと聞こえた言葉で、全てが解った気がした。
「おやす、み」

 ――無意識に彼女は聞いていたのだ。
 そして、無意識に今の言葉を返したのだ。
 そんな事にふと気付かされながら、睡魔と言う闇は全てを飲んでいった――。
────────────────────────────────────────

 お昼を過ぎて暫し経った頃、私は守矢神社の社務所の前に辿り着いた。
 今日は一人でここに来るって決めていた。
 あの人がここまで来ることは多分きっとないだろう、何せ今日はお寺に行きっ放しの筈だ。
 今日はお寺に着いてかないって行ったら訝しげな顔をしていた。
 確かにお寺に行くときは大体私も一緒に行くけれど、今日は用事があるからそちらを優先しただけだったのだ。
「おはようございます、お邪魔しまーす」
 戸の奥の方に声を投げかけると、がらりと音がして扉が開き、目玉のついた帽子とともにひょい、と諏訪子さんが顔を出す。
「おはよう、諏訪子さんっ」
 ……顔を合わせる度毎度思うんだけれど、部屋の中で帽子取らないのかなぁ。
「や、おはよう。上がっといで?」
 朗らかな笑みを浮かべながら、諏訪子さんは私を家の中へと通してくれた。

 靴を脱ぐと、甘い匂いが玄関まで立ちこめて来ていた。
「最近は君も彼も健勝かい?」
 諏訪子さんはそんなことを口にしながら此方を振り返る。
「相変わらず、ですねぇ。元気に皮肉ばっかり」
「やれやれ。成長しないと言うか、全く。もう少し優しくしてあげればいいのにね」
 苦笑しながら諏訪子さんが先を導くように歩き始める。
 ぎぃ、ぎし、と足で廊下を踏みしめながら歩き始めると、その甘い匂いが段々と濃くなっていく。
「早苗ー。来たよー」
 そして台所の扉を開けると、竈の前で三角巾とエプロンをした早苗さんの姿が見える。
 いつもの巫女服とは違う姿に少しだけどきっとする。
 その様子はとても家庭的で、何時もの姿と比べて全然違うものと思えてしまったからだ。
 ……たまに何にかぶれたのか、妖怪退治のことしか考えて無いことがあるからそう言うときは無意識を全力で弄るようにしているけど。
 私の所に来られたら溜まったものじゃないし……。
「はーい。おはようございます、こいしさん」
 ――そう、今日は早苗さんに手造りチョコレートの作り方を教えて貰いに、私一人だけでこの神社まで来たのだった。
 外の世界のお話で、去年は聞いたばっかりだったけど色々お話を聞いて、手造りのチョコレートを渡すのが一番良いのだ、と言うのを目の前に居る早苗さんから教えて貰ったのだ。
「おはようございます、早苗さんっ」
 私のイメージの中の家庭的な女性に、早苗さんがしっくり来すぎてしまい少しだけ嫉妬する。
 やっぱりこう言う人の方が普通の男の人は好きになるのかな。
 無言で早苗さんの胸元を見やり、自分の胸を見やり、一つ息を付く。
 とてもじゃないが、同じエプロンをつける事すら出来そうになかった。
「さ。エプロンは持ってきましたよね。手早く終わらせちゃいましょう!」
「はーいっ」
 早苗さんが明るく言ったのに私も一つ頷いた。
 そして風呂敷包みを開いて今日持ってきたものを確認し、強く、ぐ、と拳を握る。
 全てはこの為の準備なのだ。
 今日は頑張ろう、と心に決めたのだった。




 目の前にあるものを見て確認し、首を傾げる。
「チョコレートと、生クリーム……後はお酒……と、これは何?」
 目の前にある焦げ茶色の粉からもなんだか香ばしい匂いがしてくるけれど、何に使うのか解らなかったのだ。
 早苗さんはああ、と納得が行ったように頷いた。
「ココアパウダーですね。最後に使います。じゃあこいしさん、準備は良いですね?」
「はーいっ」
 早苗さんはなんだか、こう言うことを教えてくれる先生みたいだ。
 家庭科と言うかお料理と言うか、あんまりこう言う事は教わった事がないから、とても新鮮に感じる。
 頭にはきちんと三角巾をして、エプロンの帯もきちんと締めた。
 これで後はやることはただ一つ、目の前の食材を使ってお菓子を作ることだけだ。
「まずは、チョコレートを刻みましょうか」
 言われた私はまな板とその上に置かれた紙、板のチョコレートを前に少し考える。
「……えと、どれくらいにするの?」
「出来るだけ。後で生クリームに溶かすんです」
 出来るだけ、と言われて人差し指を立てられてちょっと戸惑う。
 とりあえず出来るだけ刻むしかないかなー、と思いながらチョコレートに刃を通し始めようとする。
 ……堅くて、紙を敷いてると言っても少し滑るものだから削るような形でしか切れない。
 刻むと言うよりも、削る、の方が正しいのかも。
「さあ、そんなペースだと夕飯の時間になっちゃいますよ?」
 早苗さんがにこ、と笑みを浮かべたのを見てこの人は妥協するつもりは無いんだろうな、と笑顔から無意識に気付いてしまった私なのだった。
 そんな横で早苗さんは竈の火を吹いている。
 チョコレートを溶かす、って言ってたから溶かすベースにするものを暖めるのだろう。
「じゃあこいしさん。これが沸騰するまでに刻み終えてくださいね」
 そして鍋に入れた生クリームを火に掛けながら早苗さんが此方に視線を移す。
「は、はーい……!」
 早苗さんがにこ、と笑いながら指示するのに私は頷く事しかできなかった。
 ……やる気になったときの早苗さんは理不尽と言うか、容赦ないと言うか、実は聞く相手を間違えたのかも、とこっそりと思ったのは私だけの秘密。
 とにもかくにも、私は必死で目の前のチョコレートを刻み続ける作業に暫し終始することとなった。

「……そう言えばなんですけど」
 何とか刻み終わった時には、鍋の中の白い液体はぐらぐらと煮えていた。
 多少余裕が出来たので、早苗さんに疑問に思っていた事を聞いてみることにする。
「はい?」
 手慣れた様子で、ボウルを水で洗っている早苗さんが首を傾げた。
「この食材、何処から手に入れられたんですか?」
 そもそも、ここに入る前からの疑問だった。
 チョコレートって幻想郷に転がってるようなものじゃないけれど、何処から入ってきたんだろう、と。
 すると早苗さんはふふん、と小さく笑みを浮かべてから教えてくれたのだった。
「チョコレートは八雲さんのところから。ですけど、生クリームは此方だけで入手出来ますよ」
 にこにこ、と笑いながら早苗さんは続ける。
「牛乳は牛を飼ってる人から頂く事が出来ます。後は分離の方法ですけれど、密封容器に入れて風車と組み合わせ、風を起こす。すると生クリームだけ分離する、っていう寸法です」
 早苗さんは、私ですら一瞬唖然とするほど豪快かつ他の人には出来ない方法で作っていた。
 いくらクリームを作るためと言っても、普通は考えも付かない気がするけれど前早苗さんはこう言っていたような気がする。
『この幻想郷では、常識に囚われてはいけないのですね』と。
 それにしても方法が方法じゃないかなあ、と思ってたら早苗さんが眉を顰めた。
「ほらこいしさん。早く溶かさないと冷めちゃいますよ」
 ボウルをこちらに渡しながら言ってくる早苗さんに、なんだか色々な意味で勝てない気がした私であった。
 きっとあの人も大変だったろうなあ。
「こいしさん!」
「ひゃいっ!?」
 一瞬だけ気を抜くと飛んでくる鋭い指摘……うん、本当に勝てない気がする。
 やっぱり、目の前の作業に集中しよう。

「えと、後は……」
 氷水をそっと当てて冷やしながら、ゆっくりと混ぜ合わせる。
 さっきチョコレートに少しだけ入れたお酒からは程良い良い匂いが漂ってきて、そのまま飲んでも美味しそうだった。
 あんなお酒がある場所なんて、一カ所しか私には思い当たらない。
「……あ。さっきのお酒、紅魔館から貰ったんですか?」
 ゆっくりと混ぜながら少しだけ首を傾げると、こくりと早苗さんが頷いた。
「ブランデーが欲しかったのですよね。西洋のお酒ならあそこで分けて貰えないかなぁ、と思って行ったのですが、目の前でブランデーが作られるとは思いませんでした」
 早苗さんは笑いながら続けると、瓶から香りを嗅ぐようにする。
「メイド長さんのお陰ですよね。あまり飲めないのが悔しい所です」
 何処か苦笑するような表情を早苗さんが浮かべると、台所の戸が開く。
「心配は要らないわよ、早苗。私が飲みきってしまうからね」
「あぁ、抜け駆けはいけないよ神奈子。私へのありがたい貢納品だよ」
 神奈子さんと諏訪子さんが台所の戸の前で立ちながら、にらみ合うようにして話しているが私はそれどころではなかった。
「ん、むむっ」
 何故なら、少しずつかき混ぜているスプーンが回らなくなってきたからだ。
 力を入れすぎるとそもそも何か壊してしまうかもしれないし、かといって力を入れないでは全然回らない。
 私はどうしたらいいのかが解らずそのまま回し続けていたのだった。
「お二方とも……って、あ、こいしさん、もういいんですって!」
「……あ、え、もう良かったの?」
 スプーンを抜いて一つ息を付くと、ゆっくり、ゆっくりと溶けたチョコレートが混ぜた軌跡を覆っていった。



「……ふぅ。目を離しちゃいけませんよね。ごめんなさい」
 早苗さんが深く溜息を付いて軽く瞑目する。
「ううん、大丈夫。……でも、思ってたのより余程大変なんですね」
 はー、と深く息を付いて、最後のチョコレートをスプーンで掬い上げる。
 まだ固まりきってないチョコレートを紙の上に置くと、早苗さんが大きく裏口の扉と窓を開け放った。
「後は私の仕事が半分くらい、ですね」
 そして外から吹いてくる寒風、きっと早苗さんが吹かせているのだろう。
 伴って、ひやり、と身体から体温が奪われるような感覚、水を被ったかのように意識が一瞬にして醒めてしまう。
 ずっとチョコレートを暖めているのもあって、冬にしては台所は暑くて三角巾に汗が吸われているのに気付いた。
「そうですね、大変ですよ。一人でやった時には全然やり方が解らなくて、チョコレートをそのまま火に掛けてしまった事もあります」
 そう言いながらもくすくす、と笑いながら早苗さんは続ける。
「むしろきっとこいしさんもやったんじゃないかな。教えてなかったら」
「……あー」
 苦笑いを一つ浮かべて誤魔化すことにしようと思った。
 多分早苗さんに言われるまでもなく、そうなっていたことは想像に難くない。
 ご飯を炊いた時、一番最初はただのお湯と生米、次はご飯が原料の炭、最後にお粥を作ってやっと炊くことが出来るようになったのを覚えているからだ。
 最初の二回についてはあの人が唖然としていたことは、良く覚えている。
 それはそうだ、ご飯と言う代物どころか口に入れる事すら出来ないようなものだったのだから。
 でも、きちんと出来た時にはあの仏頂面を綻ばせて、少し嬉しそうにご飯を食べてくれていた。
 今回も、きっと食べて優しい表情を浮かべてくれるのかな、と少しだけ下心。
「それにほら。材料が沢山余ってていつでも買えるって訳じゃないんだし、材料の無駄は良くありませんから」
「そうですねー、ここまで失敗しなかったから後は大丈夫かな、って」
「最後まで気を抜いちゃダメですよ。最後の最後まで、渡す人の事を思って作らなきゃ。気を抜いちゃ、気を抜いたのがバレちゃうような出来にしかなりませんから」
 一瞬だけ抜けかけた意識を、取り戻させるような早苗さんの言葉。
 あの人のことを思って、あの人のことを思って最後まで。

 ……とくん。
 そう思った途端、なんだか少しだけ大きく脈打った鼓動が嬉しく思える。
 こんな些細なことでも幸せって思える事が嬉しくて、人前だと言うのに口元がにやついてしまうのを隠せない。
「へへー……」
「本当に幸せそうな顔。私も恋の一つでも探そうかなぁ」
 早苗さんが窓から、遠くの空を見るようにして笑みを浮かべた。
 何処か寂しげにも見えて、何処か儚げにも見えるその表情は確かに人間のものだった。
「ふふーん、早苗さんでもあの人は渡さないよ」
 余裕を持った口調で言ってあげれば、早苗さんは目を瞬かせる。
「あの皮肉屋さんはこいしさん以外は見る事が出来ない不器用さんですよ。ついでに浮気出来るような甲斐性も無いですし。せめてチョコレート渡せるくらいのいい男の人が居れば、ですねぇ」
「あはははっ、確かにあの人の甲斐性無しは否定出来ないかも!」
 ころころと笑う早苗さんの様子を見ながら、ふと無意識に知ってしまったことがある。
 隠している訳でもなければ、ただ言わないだけだろうとは思うのだ。
 ――寂しい。
 けれど、外の世界から来た「人間」は何処かにこの感情を持って、生きているのだと言う事を、無意識に知ってしまったのだ。
 それは、外の世界から切り離されてしまった身を不幸と思っているからではなくて、ただの郷愁に近いものなのだろう。
 だから、きっとお姉ちゃんでは「読めない」のだ。
 何故かと言えば、心で思っているものではないのだから、意識しているのではないのだから。
「ほら、こいしさん。丁度良いくらいになってきましたから、丸めてココアパウダーを掛けましょう。後はラッピングですよ!」
「はーい!」
 けれど、それは私にはどうしようも出来ない事だ、あの人も早苗さんも、自分が幻想郷にあるのを認め、立ち、歩いているのだから。
 ――だから、きっと、それで良い。



「……よーしっ! 完成しましたーっ!」
「良くできましたーっ!」
 きゅ、とリボンを締めて、その手で早苗さんとハイタッチ。
 ぱちん、と乾いた良い音が台所に響いた頃には、太陽は橙色へと移り変わろうとしていた。
 ……本当は早苗さんもこう言うテンションの上がり方をするのが好きなんじゃないか、とふと思う。
 嬉々としながら妖怪退治を行ってテンションを上げているのは、霊夢や魔理沙とかと比べるとちょっと怖いところもある。
 片や義務的に目の前に出てきたものを全て吹き飛ばす、片や興味だけで首を突っ込んで荒らし回る性質と言うのがあるのかもしれない。
 そんなことはとにもかくにも、トリュフチョコレートは完成したのだ。
 台所に残るのは、チョコレートの残滓のような甘い甘い匂い。
 器具は片づけながらだったので、洗い物もなくなってしまっていた。
「ありがとうございました、早苗さん」
「どういたしまして。きっと喜んでくれると思いますよ」
 役目が無事に終わった、とでも言うような表情で優しく早苗さんが笑みを浮かべている。
 その表情は、何処か暖かくて安心出来る、まるでお姉ちゃんのようなもの。
 私もふと、お姉ちゃん、と言う言葉を思うと胸がきゅっとしてなんだかいっぱいになるのと、早苗さんがさっき無意識に感じたものは似ているのかもしれない。
 だから、この胸がきゅっとした気持ちも含めて、精一杯あの人に甘えてしまおう。
「……ちなみにあの人がまた皮肉を言ったりしたら」
 ふと早苗さんがにこ、と深い笑みを浮かべて私の耳元に囁いた。
「……、………、……! ……、……を、………ですよ?」
「……ふぇ、あ。……うん、頑張ってみる……」
 ……恥ずかしいことだから、これは私と早苗さんだけの秘密。
 かぁっと真っ赤になった顔をぶんぶんと横に振り、早苗さんにもう一度頭を深く下げると、早苗さんは笑いながら返してくれた。
「さ。早く帰った方が良いですよ、あの人がきっと待ってますから」
「うん、ありがとうっ、またねっ!」
 居ても立っても居られず、私は神社を飛び出すように人里へと向かって行った。

 胸にチョコレートを抱いて、山を降りていく。
 何処か暖かいものは、きっと私が名前をつけられないその思い。
 こんなにあの人が恋しい日だから、名前をつけてお祝いしよう。

 "あの人が大好きな記念日"って――。



───────────────

 朝から彼女は本を読み更けっていた。
 異様なまでの集中力で、飯を食ったら黙々とそれを読み始めたのだ。
『それ、何の本だ?』
 問いかけたが返答が帰ってこず、まあ良いかと思い収支の確認へと視線を移す。
 少なくとも俺の仕事の邪魔にならないのでそれで良いかと思っていた。
 その筈だった。 
「どうして、こうなった」
「どうしても、こうなった」
 に、と笑いながらこいしが俺の身体の上に覆い被さっていた。
 今は真っ昼間であり、遠くで子供の遊ぶ声が聞こえてくる。
「ねぇねぇ、試してみてよこういうの」
 ずい、とこいしが差し出してくる書のタイトルを見て、見るべきではなかったと心の底から後悔した。
 猛烈な勢いで視線を逸らすと、がっしり俺の頭をロックしたこいしがぐい、と正面に向かわせる。
 そんな無駄な所で妖怪の底力を発揮しないで頂きたい、切に。
 今日と言う日は、正面向いてこいしと顔を突き合わせる事から幕を開けた。

 誰だ。
 「キスの意味と作法について」とか言う本をこの無意識に貸し出した奴ァ――。

「ほらほら。こう言うの。だからキスしようよっ」
「お前今真っ昼間だって事解って言ってますか解って言ってるんですねコンチクショウ」
 こいしが喜び勇んで本を見せようとしてくるがその頭をこっちに来ないようにぐいぐいと押すことしか俺には出来なかった。
 息が掛かる距離で本を突き出さないで頂きたい。
 顔面が本に直撃してるわ文字がでかすぎて読み辛いわ古本臭いわで俺にとって良いことが何一つ無い。
 そもそも真っ昼間から何て体勢になっているんだ、と言うのもある。
 吸血鬼ならまだしも俺は一般人だしこいしも覚りだしで夜とは縁遠い。
 正直、非常に理性にとって危険であるのだが彼女はどうも解ってくれはしないようだ。
 流石は無意識である、意識しろよマジで。
 深く溜息を吐きながら、頭をぐい、と押さえつけるとこいしがむぅ、と小さなうなり声を上げた。
「せめてムードとかもう少し考えろと」
「あなたにだけは幻想郷中の誰もが言われたくないんじゃないかな」
 ぽろっと落ちた本音に対して、とても良い笑顔を浮かべたこいしから手厳しい発言が返される。
 我ながら鈍感を自覚しては居るのだが、こうも正面から言われると非常に困る所でもある。
 祝、幻想郷一ムードを考えない男認定の俺。
 溜息と阿呆臭さに彩られた幻想郷一は全く喜ばしい事では無く、やってられないと心の底から感じられる段階になってからこいしの肌の柔らかさを感じ取ってしまった。
「それにほら。あなたはキスをしたくなーるしたくなーる。でもそれ以上のことはしなーい」
 第三の瞳を振り子のように揺らしながら更に抱き掛かってくるこいしの身体が非常に邪魔である、邪魔であるのだが――。
「いい加減ひっつくなっての」
 心と身体とは全く因果なものである。
 胸は小さいし身体は細いしで触り心地は決して良くはないし、普段は言うのが癪だからあまり褒めたりはしない。
 だが、この身体は、こいしの物なのだ、と思うと得体のしれない感情が沸き上がってきて非常に困るのだ。
「大体そんな催眠術誰が掛かると」
「知ってる? 私もお姉ちゃんの妹なんだよ? ほらほら、想起催眠術ー」
 言葉を遮るようにしてこいしが口にしたそのスペルカード名は、姉のものだった。
 同時にゆらり、ゆらりと瞳が揺れる。
「ほら、キスをー。キスをあなたはー、したくなるー……」 
 どこかとろんとした瞳でこいしが此方を見やるのがどこか儚げにも見えて、仕方なく軽く身体を抱いてやって溜息を吐いたのだ。
 本当にこいしには勝てそうにない。
 抵抗するのを諦める事にすれば、こいしがにへらと笑みを浮かべた。

「それで?」
 こうなったらある程度は任せて置いた方が精神的にも楽だ。
 そう思い軽く問いかけてやる。
「へへ。こう言うの」
 にたり、と笑みを深くしたこいしが人差し指を伸ばしてつぅ、と俺の唇をなぞる。
 それを彼女は自分自身の口元に持って行って、あむ、と口に含んでどう? とでも言うように首を傾げた。
 結局こいしからしているじゃないか、と言うか、実質間接キスじゃないか、と言うか何とも言い切れない。
「ったく、結局やってるこたぁ変わらんだろうが」
 額に触れるだけのキスを落としてやると、こいしが目を瞬かせた。
「……あ、ん。んとね、それだったらこう言うのは、ダメ? んんっ」
 こいしが顔を近づけて来て、頬をちろちろと舐めるように戯れる。
 くすぐったいものだから振り解きたくもなるが、それでも健気な様子が愛しく感じられて心地良いからまた困る。
「嫌じゃない」
「っ、ん、ホント?」
 偶にこう言う事を口にするととても嬉しそうな笑顔を浮かべるのも困り物だ。
 天使のような、と言う比喩は決して間違っては居ないのだなぁ、とも思い自分の語彙力の無さに軽く絶望した。
 あまりにはまってしまって他の表現が出来そうにない。
 でも考えてみろ、これはあのこいしだ、天使とは程遠すぎるあのこいしだ。
「何か変な事考えてるでしょ!」
「痛ぇっ!?」
 がり、と少し強く頬を噛まれ飛び上がり掛ければ、憤懣やるかたなしと言った様子のこいしの表情が飛び込んでくる。
 本当に憎い奴である、一瞬前までにこにこと笑顔を浮かべていたのに急に機嫌を悪くしているのだから。
「……たく、噛むこた無いだろ」
 耳たぶを甘く噛んで、そのまま舌先で弾いてやる。
「くすぐったいんだよねぇ、それ」
 するところころと笑いながらこいしがいやいやと言う風に首を横に振るが、大体それが嫌でないことは解ってる。
 だから、更に悪戯するように唇を髪に続けて落とすのだ。
「もう、やめてって」
 少し髪に触れられるのは嫌なのか、軽く瞳を閉じたこいしがとっ、と頭を俺の胸に当てる。
「……何処に一番欲しいのか、解ってるんだよね?」
「解ってて素直にリクエストに答える人間だと思ってるのか、俺を?」
「この天邪鬼ー」
 ぶぅ、とこいしがまた頬を膨らませる。
 その頬が柔らかそうで、唇で啄むように食めば張りの良い肌が絹のようで、それでいて口に含んでいるものだからマシュマロのようにすら感じる。
 ありきたりな表現ではあるのかもしれないが、それが最も的確な表現なものだから仕方が無い。
 俺は詩人でも小説家でも無いただの平凡な表現しか出来ない人間である。
 
「……跡、残っちゃう」
「お前、さっき俺の頬噛んで置きながら言うかそれを?」
 軽く睨んでやれば、相好を途端に崩してえへへ、と小さく笑うこいしがやっぱり憎らしい。
 外に出かける予定の入って居ない日で良かったが、昼飯は嫌がおうでも家で食う羽目になるのを解っているのか解っていないのか。
 さて、外で買い物しないで済む程度の食糧は残っていたかね。
「ん、ちゅっ」
 思考を一瞬だけ明後日の方向にやった隙に、不意に唇が奪われる。
 緩く食まれて、すぐに離すとこいしがにぱ、と笑みを浮かべた。
「何時までもしてくれないから、こっちから貰っちゃう」
 そんな事を嘯きながら、猫がごろごろと甘えるように身体を擦り寄らせて来た身体を抱きかかえて聞いてやる。
「そんなに唇が好きか?」
「だってこれが一番してて心地良いんだもの。それに……んっ」
 何かを言いかけた彼女の唇を、己の唇で塞いで一度艶やかな唇を食めば、こいしの唇からふ、と少しだけ暖かな吐息が漏れた。
「んん、っ……」
 返すように重ね合わされた唇が先程のようにもう一度、唇を優しく食んで行けば彼女の方から唇を離す。
「へへ、これで、284回目」
「お前何数えてんだ」
 人差し指を唇に当てたこいしが数字をふと口にして、溜息混じりに呟けば彼女は首を傾げる。
「キスの回数。そのくらいは私だって数えてるんだよ?」
「普通数えないだろそんなもん」
 と言うか覚えてられる程一般人は頭が良くないし、更に言うならこいしが何処まで余裕があるのかも解らない。
 ついでに寝ている時にしたキスをカウントは出来ない筈だ。
「……多分今の、他の人だったら絶対ふざけるなって怒ってるよ」
 すると、こいしが真面目な表情でじ、と俺の瞳を見つめていた。
 真剣な瞳に呑まれるように、意識が彼女のそれに集中して行く。
 内に燃える翠の焔が、俺の瞳から脳髄を焼いて、痕を刻んで行くように。
「だって、キスの一つ一つが思い出だもの」
 耳に言葉がす、と入り、それを咀嚼して頭に刻み込む。
「一つ一つの思い出を、数えない訳が無い。後からキスを思い出して反芻して、次もあんな風にしてくれるのかな、って思う事もある」
 彼女は言いながら、俺の頬に手を添えてそ、っと顔を寄せて来た。
「それにね、あなたが人間で、私が妖怪だから」
 こいしはそれだけ言って、唇を閉ざした。
 そして――それだけで彼女の言いたい事を理解してしまった。
 人間として生きて死ぬ自分、妖怪として取り残されてしまう彼女。
 永遠では無い存在であるからこそ、永遠では無いものを見送る存在であることを知っているからこそ、一つ一つの思い出を大切にする。
 後で喪ったそれを想うために、思い出を忘れない。
 ……だからこそ彼女は今の発言を不快に抱き、本当に怒っているんだな、と理解した。
「……すまん」
 理解してしまったが故に、口にした言葉はそれだった。
 別に普段から詫びたり謝るようには見えないようでいて、けじめは付けなければならない。
 するとこいしは、微かに笑みを浮かべたのだ。
「お詫びはキスで。一銭たりとも負けてあげないよ?」
「馬鹿、値切りするのは値段が噛み合って無い時だけだろ」
 戯れるような言葉のやり取り。
 触れあっては居ないけれど、まるで口づけ合うような心地よさを覚えながら頬に手を添えてやる。
 先程唇で触れた肌触りが掌から伝わって来て、そっと顔を寄せるとこいしも瞳を閉じて、身体の力をすっかり抜いて居た。
 そ、と唇に唇で触れて、食まずにゆっくりと、けれど少し強く押し付けるようにすれば返すように、一つになろうとでもするように互いの体を寄せ合う。
「ん、……っ、ん」
 285回目のキスは、暖かく、互いの存在がここにあることを伝え合うかのようなそれだった。
 ――後俺は、何回彼女と唇を重ねあえるのか。
 多く見積もっても百万は有り得る数字ではないだろう、けれど。
「……っ」
 きっとそれでも、この285回目は、節目の口づけなのだ。
 これから先の期間、キス出来る瞬間を数えて行く節目の――。
 何時か忘れているのかもしれないけど、そうしたらこいしに聞いて呆れられながらも笑い合おう。
 そして、またそこから刻んでいけばいいのだ。
「……んんっ、……ん」
 軽い息継ぎがあって、また唇を重ね合わせて。
 思考が、段々と、キスを考える事だけに、焼き付いて行く――。
 
 ――ふと、がらりと扉が開き、硬直する間も無い。
 二度ある事は三度ある、と言う。
「こんにちはー、聖がお二人をお呼びになって……って昼間から何をしてるんですかぁあああああああああああああああああああああっ!!?」
「ご主人、ノックを忘れるからそうなるんだよ……」
 その言葉の通り、星の絶叫が響き渡った。
 
 ついでに、オチは無い。
 慧音にまで話が言って「昼間から破廉恥な事をしていては云々」と説教食らう羽目になったが語る事ではないだろう。

 どうして、こうなった。
  
──────────────
 雨の切れ間、日差しが覗いて強く照りつけたとき、こいしが何かに気づいたかのようにふと声を上げた。
「あ、あれ見て」
 こっちの袖を、くいくい、と引きながら視線を彼方へやってその方を指さしている。
 何事やら、と思って見やればその先には色が分かれた大きなアーチ。
 巨大な虹である。
「……おぁ。すげえなありゃ」
「でしょ? 久しぶりに見たわ、あんな虹。まるで飴細工みたい」
 嬉しそうな口調でこいしは嘯く。
 飴細工と表現したのは彼女なりの理屈でもあるのだろうか。
「最近雨続きだからな。梅雨だから仕方ないっちゃ仕方ないんだが」
 ロマンも幻想の欠片も無い返答をしながら肩を竦めれば、こいしが小さく唇を尖らせる。
「そこはせめて、飴より甘いものをあげるとか言ってくれるのが甲斐性っていうものじゃないの?」
 時期に併せて涼しげな、淡い青のワンピースといつもの帽子。
 ゆらゆらと揺れる帽子のリボンと、帽子の下にある何処と無く不満そうな表情に一つため息をついて、荷物を持ち替えながら一つ皮肉を返す。
「何処まで気障ったらしいキャラだ、それは」
「それも男の甲斐性なの」
 返してやったが、困った事に皮肉を全く聞きゃしない。
 それでいて、一緒に道を歩くだけなのに嬉しそうな表情を浮かべるのだ。
 俺もこいしを連れて行くことそのものは別に嫌ではない。
 半分くらいは一人で行っても仕方ないんで気を紛らわせるため。
 もう半分くらいは、困った時の荷物持ち。
 一緒に出かける話を聞いたこいしがデートだ、とか嬉しそうな表情を浮かべていたのも最初の頃だけ。
 今となっては、『仕方ないなあ』と言いながら付いてくるようなものである。
「甲斐性とは何だったのか……」
 こいしに返答せず、そんなことを呟いて荷物を持ち直せば腕に抱きついてくるこいしの体重が掛かって歩き辛い。
「こうやっても歩けることっ」
「それは甲斐性とは言わん。筋力だ」
 甲斐性とは筋力である、と言うよく解らない等号式が頭の中で作られる。
 つまり、筋力があれば甲斐性があるという事だ。
 具体的には身長が高くて筋肉ダルマが笑顔を浮かべながら己のスイートハートが腕にしがみつくのをHAHAHAと笑いながら上げ下げするようなのが甲斐性があると言う事になる。
 甲斐性とは本当に何だったのか。
「何か変な事考えてそうだけど、どうしたの?」
「いや、何でも」
 怪訝な表情を浮かべたこいしが此方を覗き込んでいるのに気付くまでに数瞬の時間を要した。
「本当に? 甲斐性無いとか言われたからって浮気して甲斐性あるのアピールとか無しよ?」
「なら言うなと」
 不穏当な事を言い始めたこいしの頭に、此方からこつん、と帽子越しに頭を緩くぶつけてやれば彼女は不満そうな表情を浮かべる。
「あなたがもう少し鈍感じゃなくなれば言わないの」
「へーへー、さよか」
 最後まで責任はこちらにあるらしい。
 我ながら、全く気の入っていない返事であった。

「よーし! 虹の足下まで競争だー!」
「待ってよぉっ!」
 大声を上げながら子供たちが往来を走り抜けて行く。
 ばたばたと大きい音を立てるので、解りやすいが些か五月蠅く感じた。
 男の子が五人ほど、二人の女の子がそれに合わせわせるように駆けて、最後に一人女の子が必死に後を追う。
 歩いてるのか走っているのか解らないくらいのスピードで、俺とこいしが歩くのと同じくらいのペースだ。
「置いてくぞー!」
 遠くで男の子が大声を上げる。
 子供は嫌いではないが時たま近くに寄られると鬱陶しく感じて追い払う事が多い。
 その癖たまに妙に懐かれるから困ったものである。
 そう言った場合、追い払っても無駄なので、相手をしないことにしていると悪戯して気を引いてくるからどうしようもない。
 ……ああこれどっかのこいしじゃないか、つまりそのレベルかこいつ。
 視線を少しだけやろうとする――前に、頬に痛みを感じ見やれば、こいしが俺の頬を抓り不満そうな表情を浮かべていた。
「絶対今変な事考えてた」
 確信を抱いた口調で言うこいしのジト目から反射的に視線を逸らす。
「心読めないんじゃないのかお前」
「そう言う事言うから抓るの。あと、表情に出過ぎ」
 そのまま抓られたままになるのも癪なもので、こいしの頬を引っ張りぐにぐにと遊んでやる。
「はなせー」
 間の抜けた声と不満そうな顔が覗き、放してやればこいしも俺の頬を放していた。
「もー、最低。女の子なんだから」
「はいはいそうですね――ってぇ!?」
「気の無い返事禁止!」
 むす、とした表情で今度は耳をぐい、と半ばツイストしながら引っ張られた。
 流石にこれは痛いし、理不尽も良いところだ。
「解った解った解った、きちんと答えてやるから!?」
「解ってないからまだ止めないわ」
「いつになく酷いなお前!?」
 ぐい、と更に耳が強く引っ張られたあたり、俺は苦情を申し立てたい。

 耳を引っ張るのを止めてもらい、また歩き始める。
「ほんっとうにお前はトロいよなあ」
「早すぎるんだもん、待ってよぉ……」
 遅れながら走っていた子の掌を、男の子が掴んで走って行った。
「外の世界じゃまずお目に掛かる事は出来ないな。ありゃ」
 複数の意味で。
 嗚呼懐かしき青春的な何かの記憶。
 いや、あんな事やった事すら無いのであこがれる気すら起きないのだが。
「走りづらそうだよねぇ。人ばっかり多すぎて」
「多少はそれもあるたぁ思うが」
 根本的にそう言う問題ではない。
「あんな無意識の中に誰もが抱くであろう光景を、外の世界では誰も考えやしないんだろう、ってな」
 そう、外の世界のあり方において、あれはきっと誰もが忘れ去ってしまった光景だ。
 子供たちでさえも。
「やっぱり歪んでない? 外の世界」
 呆れるような口調のこいしが、はぁ、と深くため息のような何かをつく。
「そんなだからあなたみたいに性格ひん曲がるのかな?」
「誰が性格ひん曲がってると」
 拳を額に当ててぐりぐりと押し込む。
「痛い痛い!?」
 たまには反省していただこう。
 少し強めにやったら涙目で見上げられたので、放したら足を踏まれたが割愛する。
 痛かった。

 
 遠く虹が見えて、その方に向かって歩いていく。
「しかし、さっきのガキどもは気付いてるのかね。虹は光の屈折の結果だから触れないと」
 いつしか、無意識に子供たちは悟る。
 あれは見えるけれど触る事の出来ない光の幻影なのだと。
「非幻想郷的な考え方だね。あまり好きじゃないわ、嫌いでもないけど」
 影踏みもいつか行わなくなり、人は成長していく。
 そう、成長していくにつれて人は幻想を忘れ、記憶の彼方へと忘却させゆく。
 触る事の出来ない虹。
 目に見えるけれども、手にとる事の出来ない何か。
 "幻想上の友達"は、いつしか幻想の中に消えてしまう。
 星灯りは、外の世界の常識ではもう何年も昔の光である。
 けれど、幻想郷に来てから目にする満天の星は果たしてそうなのだろうか。
 妖精の力だ、と聞いた覚えはあるが、俺はその妖精を見た覚えがないので解らない。
「あれも一種の幻想か」
 ふと頭に浮かんだそれを口にすれば、こいしが首を小さく横に振りながら歌うように言葉を紡いだ。
「『幻想郷は全てを受け入れる。それはとてもとても残酷な話ですわ』って紫さんが言ってたよ」
「胡散臭ぇぇぇ……」
 引用する相手が引用する相手である。
 一番信用が置けて、一番信頼を置く事が出来ない相手を引き合いに出されてももうね。
「紫さんがそう言った真意は解らないけれど、何となくだけど『ああ、そうだなあ』くらいには思うけれど。外の世界ちらっとだけ見たから余計にそう思うかなぁ」
「ほー」
 相変わらず、何も考えていないように見えて変な事を考えている奴だ。
 紫には同じように言われた事があるが、少なくともあの言葉の意味を俺は理解しきれていない。
「そうだよ、残酷。忘却されたものが渡ってくるっていうのは綺麗だけれど、それが必要とされなかったのだから、とっても残酷」
「必要とされなかったから、か」
 そこまで外の世界で無為に過ごしていたのか、とふと思い返す。
 小学校の頃はしゃぐように遊び回った記憶。
 受験のために必死扱いて勉強した記憶。
 そして、苦痛だと言いながらも必死で社会に食らい付こうとしていたあの頃。
 その場面で、俺は必要とされていなかったのだろうか。
「でも、あなたは外の世界にいる間はきっと気付かない。生きるのに必死だから」
 ちら、と此方を見て微かに笑みを浮かべたこいしの、吸い込まれそうな翠の瞳から目を離せない。
「記憶は、思い出に純化されるから。無意識に、思い出したくないエピソードを封じ込めてしまう。または逆に、悪い、辛い記憶ばかりを思い出してしまう」
「前者は懐古的にすぎて、後者は自罰的にすぎるな」
 自分が前者だという確信はあるが、それもきっと幻想郷に入ってから変わっただけなのだろう。
 その皮肉を自分自身に向けながら呟けば、こいしが苦笑する。
「人間のあり方だから仕方ないんだよ、多分」
 そしてこいしは先ほどのようにもう一度続けるのだ。
「昔を懐かしいと思うのも、自分が悪いと思い込むのも。または自信過剰になるのも、先へ進もうと思うのも。全部がきっと人間のあり方なんだよ」
「お前妖怪だろーが」
 呆れながらため息とともに呟く。
「だって、妖怪でもここらへんは変わらないもの」
 ふっふー、と嬉しそうにこいしは笑いながら答えを返す。
「同じ同じ。あなたと一緒なことが嬉しいなぁ」
 幸せそうに続けるこいしのようすに、己の頬がふと緩むのを自覚する。
 目を細めて柔らかい笑みを浮かべている彼女の様子は、何故かとても俺を安心させるのだ。
 愛している、って言う理由がそれなのか。
 それとも、それ以外のものも含めての「愛」なのか。
 俺にはそれは解らないし、こいしに直接甘い言葉を囁くことも多くない。
「ほら。こうやって無意識に手を繋いでいるのも一緒」
 そ、とこいしが握りしめている手を見えるようにすれば、小さな手を自分が握りしめているのに気付かされる。
 見つけだすのはこいしで、気付かされるのは俺。
「随分小さな幸せだな」
「そうだよ。小さくて、何てことなくて、誰でも得られるような、幸せ」
 するとぎゅっ、とこいしが手を強く握りしめて駆け始める。
「待て、おい」
 歩幅が違うものだからこちらも駆ければすぐに追いつくのだが、体勢を崩した状態からなものだから少し手間取った。
 そもそも普段走ったりなどしない人間に急に走らせないで欲しい。
「あははっ、ほら。幸せーっ!」
 手を引いてやれば、くるくる、と回るようにしながらこいしは俺の方に身体を預けてくる。
 少しだけ汗っぽくて、少しだけ花の香りが漂って、少しだけひやり、とした腕が俺の腕に絡み、少しだけ、けれど確かにその身体は暖かい。
「ね?」
「ね、じゃないだろお前。先言えよ」
 ぺちん、と痛くない程度に額を弾いてやれば、何を考えているのか解らない、とでも言うように、こいしはもう一度目を瞬かせるのだ。
「ええー。幸せじゃなかった?」
「今のをどう幸せと言えと」
 少なくとも手を引っ張られて身体を振り回されてただけである。
 それを幸せかどうか、を問うなど――。
「私は、幸せだよ」
 こいしの言葉が、耳から脳を灼く。
 しあわせ、と言う四文字の言葉は、心の芯を貫いていた。
「虹は見えているのに、その足下まで走っていく子供たちみたいに。あの子たちは、虹を追っているのが楽しいから。きっと、無意識に幸せだって解ってるからそうしてる」
 先ほどの子供たちの姿が、妙印象的に残ったのはそのためか。
「幸せって、何でも良いの。幸せだ、って当人たちが思えれば、それで良い」
 こいしの理屈では、そもそも幸せとは何か、を定義する必要がない。
 だから――。
「だから、あなたが側にいるから、ってだけじゃないけれど。ただ、今ここでこうしていることが、何となく幸せ。多分虹を追っているあの子たちが、それだけで幸せなのと同じだよ」
 何も無くとも、それで幸せだ、と。
 彼女は、そう言いきったのだ。
「お前、それ俺が横に居る時に良く吐ける台詞だなぁ、全く」
 しれっとこっちを言葉で牽制してきたこいしに投げやりに返せば、面白そうな、それで居て何処か優越感を得たような満足そうな表情の彼女が唇をもう一度開く。
「あ、妬いた? 何に妬いたのかなぁ?」
「お前もう一度デコ貸せ」
 言うが早いがぺしん、と額をさっきよりも少し強いくらいに弾けば、こいしが反射的に瞳を閉じてのけぞった。
「あぅ」
「あのガキどもと同じ、ってのも解らなくはないが、な」
 肩を竦め、手を握りしめて引いてやる。
 その繋いでいるのは、先ほど駆けていった子供たちと似ているのかもしれない。
 けれど、あの子等の方が幸せに近いのだとしたら、きっと真似てみればもっと幸せになるのかもしれない。
「あの虹まで走ってみるか」
 ふと口を突いて出た言葉は、いつもの自分とは考えようも付かないような、子供の真似をするようなもの。
 目を一度丸くしたこいしが、柔和な笑みを浮かべる。
 ああ、その答えを待ち望んでいた、とでも言うように。
「うん、いいよー! 二人で一緒にゴールしよっ!」
 こいしの元気な声が帰ってきて、二人ペースを合わせるようにして、虹の掛かる彼方の方へと駆けて行った――。



 結果。
 少し頑張って走った結果、次の日に足腰が半分立たない状態で仕事出る羽目になったのは自業自得でしかなかったのだがそれは別のお話。


───────────────────────────────

 空に上がった光筋は一瞬だけ光を見失い、宵闇に大輪の花を咲かせる。
 一拍遅れて、どぉん! と言う清々しい音が湖の空に響き渡った。

「……すげぇなあありゃ」
 傍らで草むらに座る彼女に語りかけるように呟く。
 ――今日は、湖を使った花火大会だった。
 幻想郷中での祭りと言う事もあり、湖の畔には沢山の人妖が集まっていた。
 やはり、集まって酒を飲んで騒ぐのが好きな連中ばかりだ。
 流石に今日は妖怪連中も人間を取って食おうとは思わないらしい。
 尤も、じゃれるように人間に絡んで居るのが居たりするのは気のせいでは無い。

「うん。見事だねぇ……」
 ぽけー、と見上げ続けるこいしは、珍しく浴衣姿。
 こう言う時には風情が大事、と言いながらちゃっかり竹うちわなぞ持っていやがる。
 紺色の布地に咲いた白い花と相まって、珍しく大人っぽく見えるのは気のせいではなかった。
 光の筋が上がって行き、もう一度爆ぜる。
 腹に響き身体の芯に訴えかけるような轟音と、色とりどりの火の花弁が散っていく。
 明後日の方向に光筋が飛び交いながら、ぱらぱらぱら、と何かが落ちるような音が響くのだ。

「やっぱり凄いよねぇ、花火」
「まあ、派手よな。此処まで大きな花火大会はそうそうお目にゃ掛かれない」
 空に瞬いた星々の灯りが、宵空に落とされたエッセンスのように空で存在を主張する。
 こんな綺麗な夜の景色が空にあることは解っていて慣れて来た筈だったが、それでもまじまじと見るとやはり引きこまれてしまう。
 引きこまれたところで、炎の花がぱぁ、と咲くのだから溜まらない。
 一種の芸術が夜空に描かれるのを味わいながら、ほう、と息をつけばこいしがくすくすと笑みを浮かべた。

「弾幕勝負もあーなってること多かったりするけどね。今度やってみる? 当たっても良いよ?」
「死ぬわ阿呆」
 しれっと恐ろしい事を抜かさないで頂きたいこいしさん。
 あなた方がやっている弾幕勝負とか言うアレ、一般の人間食らったら相当痛いし当たりどころ悪ければ死にますよ、と。

「もー、つれないなぁ」
 するとこいしは途端に唇を尖らせる。
 根本的につれないとかそう言う話ではない。
 二階の屋根から落ちても当たりどころ悪ければ死ぬ人間と、妖怪の遊びを同列に語られても困る。
 尤も、退魔の術を学んだ人間や魔法使いであればそう言った事は無いのだろうが。
 反駁しようと口を開こうとすれば、ひょこ、と地面から目玉付きの帽子が飛び出してきて反射的に飛びのきかけた。

「うおわ!?」
「や、楽しんでるかい?」 
 俺の驚きなど意に介さない様子で、その帽子の下から稲穂のような金色の髪をした飛び出して来た。
 守矢神社の祭神の片割れ、諏訪子様。
 人の不意を突いて驚かせるのが好きなのは解るのだが、せめてこう言う時はもう少し落ちついた登場をして頂きたいものだ。

「あ、諏訪子さん。こんばんはー。うん、楽しいよっ」 
 マイペースでこいしは諏訪子様に挨拶をする。
 何と言うか、驚きもしないあたり実にこいしであった。
 こちらもらしいと言えばらしく、俺一人が振り回されるような形になる。

「そうかいそうかい、そいつは良かった。私らも他の所に話を通した甲斐があるよ」
 諏訪子様は、しっしっし、と企みが成功したかのような表情で笑みを浮かべる。
 彼女の言葉を聞いて、ぴぃん、と思い当たるものが俺の中にあった。

「……ああ、じゃあ今回のこれ、アレか。諏訪の?」
 そう、例年開催されている外の世界では定番になっていた花火大会。
 彼女の名前の由来となっていた地名の場所でも、定期的に開催されていたのは覚えている。

「そう言う事。いやぁ、外の世界でもやってたんだけど久しぶりに見たくなってね。幸いなことに人里も寺も協力してくれたよ」
「また随分と大がかりだな」
「それだけじゃなくて悪魔の館や竹林の屋敷、挙句には旧都からもだ。驚きだろう?」
 諏訪子様は嬉しそうに協力先の名前を上げる。
 この分だと挨拶周りの途中で、俺とこいしを見かけたから浮上した、と言ったところだろうか。

「鬼が案外手先が器用でね。製造から打ち上げまで何でもござれで意気揚々とやってくれるからね」
「確かにそうかもしれないです。勇儀さんもそうでしたけど、他の鬼も苦手そうじゃなかったですしねー」 
 こいしが思い返すように宙に視線を彷徨わせれば、どぉん、とまた空で大きく花が咲いた。
 黄色を中心とした様々な色光がこいしの白い肌を灼く。

 諏訪子様はそんなこいしを見ながら嬉しそうに語り続けて居た。
「ああうん、そうそう。それを聞きつけた人里の花火師が鬼にゃ負けて居られない、と粉骨砕身さ。いやいや、やっぱり頑張って貰うと嬉しいもんだね」
「……何か焚きつけたりしたのか?」
 諏訪子様は小さくぺろっと舌を出す。
 まるで子供のような仕草もいい所であるが、彼女がやると妙に似合った仕草に思えるから不思議であるのだ。

「流石に読むのが上手いね。沢の水で作られた清酒五樽、勝ったところにゃ丸々くれてやる、って言った程度だよ」
「ねぇ。今すぐ花火師になって」 
 賞品の話を聞いた途端にこいしが第三の瞳ごと此方を向いた。
 諏訪子様も非常に面倒な事を言ってくれたものである。
 こいしは酒の話になった途端にこれであるから、本当にどうしようもない。

「お前ね……」
「だってそれだけあったら丸一年は飲めるよ!?」
 こいしの力説が花火の音とともに耳を貫いた。
 それだけあっても一ヶ月経たずにコイツは飲み干す。
 ちなみに多分地底の方ではこいしの話を聞く限り、五樽あろうが一日で飲み干す。
 地底の連中はこいしを含めてどうしてこうも酒飲みばかりなのか、と何度思った事か。
 はいはいそうですね、と言うような白い目を向けてやると、こいしは視線をつい、と逸らす。

「お前、酒の事しか今頭になかったろ」
「そんな事無いよ? 無いよ?」
 嘘だ。
 口で言う前に頬をふに、と掴んでその餅のようなほっぺたを上下右左とぐにぐに動かしてやる。
 眉を顰めたこいしの「あひふんほほー」と言う声が聞こえて来たが、そのまま遊んでいると諏訪子様が感心したような声を上げた。

「……いや驚いた。君は彼女の心を読めるのかい」
 何が不思議だったのやら、自分としては全く解らない。
 そもそも心を読んだ訳ではなくて、こいしの行動からあくまで推察したに過ぎない。

「へ……?」
 こいしが吃驚したような表情をして目をぱちぱちと瞬かせる。
 彼女自身、そんな事は考えすらしていなかったのかもしれない。

「いや、今のぐらいは読まなくても解るって」
「解らないよ。何せ、私ですらこいしの心は全く読み切れないからね」
 諏訪子様は立ち上がり瞳を閉じると、どぉん、と、花火の音が聞こえた方を向いて口を開いた。

「ほら、私も目を閉じてしまえばあの花が開くのは見えない。ただ、光のようなものが目の裏を焼くばかりだよ」
 に、とこちらを向いて諏訪子様は笑えば、座ったままの俺とこいしの頭に、ぽん、と手を置いて笑みを浮かべた。
「けれど、君たちは繋がっているのさ。厳密には読めるのとは違うかもしれないけれど、それは瞳を閉じていたとしても感じられる、確かな繋がりだよ。そして――」
 そして二度三度掌で撫でるようにしてから、きょとん、としたままの俺とこいしの頭から掌を離した。
「その繋がりは、閉じず広がっていくのさ。私もだし、神奈子も早苗も、人里も。だから、もしかしたら私も何時かこいしの言わんとしてる事が解るかもね?」
 くすくすと笑う諏訪子様は、とんっ、と地を蹴る。
「さ、私はまだまだ回らなきゃならない所があるんだ。お二人さん、ごゆっくり!」
「あ、ああ」
「はい、また……」
 完全に諏訪子様に手玉に取られていた俺とこいしは、ただその背を見送るしかない。
 比喩ではなく嵐のように現れては嵐のように諏訪子様は去って行ったのだった。

「……どう言う意味だと思う?」
 こいしが空を舞う花火を眺めながら、ぽつり、と呟く。
 さっきよりも少し距離が近く、俺が着る甚平の袖とこいしの浴衣の袖が触れあうくらいの距離だ。
「さてなぁ」
 正直自分の中でも、どう考えたらいいものか解らない。
 何せ、瞳を開いて居ると言ってもこいしの第三の瞳は閉じたままなのだから。
 
 それが、きっと今、俺とこいしとの間にある掌一つ分の、距離。

「……あー」
「解ったの?」
 今度は俺自身が間の抜けたような声を上げる。
 全く、何処か間が抜けているのが二人付き合うと何とも言えない間の抜け方になるのだな、と理解した。
 こいしはこいしで、きょとんとしたままである。

「こう言う事じゃねぇかな」
 掌一つ分の距離を、ゼロにする。
 こいしの掌の上に、そっと自分の掌を重ね合わせれば、彼女は一瞬きょとん、とした様子で此方を見て。

「……そう言う事」
 に、と笑みを浮かべたのだった。
 そして、掌を逆方向にすればぎゅ、と此方の掌を握って来る。

「簡単な事なんだねぇ、案外」
 こいしが嬉しそうに呟けば、また一つ空で大輪が花開く。
 宵の空は煙と光に焼けていて、まだまだ終わる気配を見せそうもない。
 にこにこと笑みを浮かべるこいしの横顔がまた一度、花火の灯りに照らされた。

「世の中なべて事も無し、か」
「ほら。そう言う難しい事言って誤魔化そうとしてる」
 思った事を呟けばからかうような台詞が飛び出して来るあたりこの世の中は世知辛い。
 掌は少しだけしっとりと湿っていて、触れているだけで上質の絹のようで心地良い。
 少しだけ俺の掌より冷たいのも、そんな彼女の掌に触れているのも、どちらも嬉しいものなのだ。

「ね。私が今一番欲しいもの、知ってる?」
 こいしが瞳を閉じて、此方を見上げるようにしながら囁いた。
 どぉん、と響く花火とともに、こいしの横顔が七色の灯りに照らされて。
 
「んっ――」
 そ、とこいしの唇に、触れるようなキスを落とし、瞳を閉じた。
 彼女と唇と掌で繋がりながら、確かに思うのだ。

 光は確かに見えなくとも。
 目には確かに見えなくても。
 こいしとは、確かに自分は繋がっているのだ、と――。






Megalith 2011/09/18,2011/10/31,2011/11/23,2012/01/03,2012/01/30,2012/02/14,2012/03/29,2012/07/03,2012/08/02
─────────────────────────────────────────────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2013年05月12日 00:29