藍11



Megalith 2013/12/05


 何時だったか、その人間は、元々私達の食料として外の世界から連れて来られた。
紫様曰く、『萎れた肉ばかりではなく、偶には踊り食いも良いでしょう?』とのこと。
その言葉に、生きの良い肉を食べられる喜びとともに、調理の面倒さに辟易したのを覚えている。

「調理方法は如何致しましょう」
「ん~、最近は調理済みばかりだったからお造りとかいいわねぇ。あ、抜いた血は吸血鬼のメイドにもくれてやりなさいな」
「畏まりました」

目の前で繰り広げられる自身を餌と見る会話に、その人間は理解が追いつかなかったのか。ただじっとこちらを見詰めるだけだった。

「……あら」

その視線に気づいた紫様が、ふと男へ視線を送る。
紫様が獲物を品定めすることは珍しくない。
取るに足らない獲物ならその場で食すし、多少抵抗なりしてくる獲物なら僅かばかり戯れてやってやはり食す。
機嫌が良い時なら獲物は楽に死ねるし、機嫌が悪いときは四肢を引き千切られ、臓物を啜られながら死ぬことになる。
そうなったら後始末が大変だな、となんとなく思っていた私に、紫様がふと振り返り。

「藍、この人間ちょっと生かしてみましょうか」

そう言い放った。

「承知しました、が、理由はお教えいただけるのでしょうか?」

何故ですか、とは聞かない。
主人の言葉に疑問を持つ、ましてや反論するなど従者にとって以ての外。どこぞの吸血鬼のメイドなら憤死物だろう。
だから私も答えなどさして期待せず、『聞くだけ』のつもりだった。

「ん~そうねぇ、泣いた赤鬼、かしら?」

案の定、軽く弧を描いた紫様の唇から漏れたのはそんな言葉だった。
解釈は私に任せる、そう言っているようだった。
だから私は静かに頭を下げ、再び上げたときには紫様の姿は無かった。
主の気配が消えたのを確認し、放置していた人間に向き直る。
その瞳に、僅かに混乱とは違う色の光が灯ったのを、私は見逃さなかった。
先程まで呆然としていたはずなのに、今はただ何を言われるのかを待っているその姿。
その瞳には殺される怒りではなく、食われる恐怖でもなく、災厄への嘆きも無かった。かと言って全てを諦めた空虚もない。
強いていうならそう、『好奇心』で満ちていた。
今まで見てきた人間とは違う、命乞いをするわけでも、敵わぬと分かっていながらも抵抗するわけでも、ましてや媚び諂い命を永らえようとするわけでもない。
純粋な、幼子のような目がそこにはあった。

「期待するな。紫様は気まぐれなお方だ」

現状を理解していなのか、ただの阿呆なのか。
能天気なその反応に呆れつつ、遠回しに、何時死ぬかは分からないと告げる。
死刑囚にとって死刑の瞬間より、死刑が執行されるまでの時間のほうが辛いと聞く。
ならばその人間にとって文字通りの生き地獄となるはずだった。
だがその人間はただ困ったように小さく頬笑み、頬を掻くだけだった。


次の日から紫様と私と時々橙と、そして一人の人間との生活が始まった。
紫様から生かせと命令されたが、何も客品レベルで相手をしろとは言われていない。
つまりは。

「働かざるもの食うべからず、という言葉がある」

そういう私の前で人間はせっせと畳を掃いていた。
何のことはない、家事の最中だ。
主である紫様は当然のこと、式である橙も家事とは無縁の性格だ。必然的に私にお鉢が回ってくることとなり、時々自分も家政婦か何かかと思う時がある。
かつては三国を荒らしまわった傾国の九尾が家事に追われているなど知れ渡ったら、外の世界の歴史家共がショック死するかもしれないな。
だからまぁ、普段の仕事を僅かな八つ当たりも込めて押し付けたのも仕方のないことだったのだろう、うん。
しかしこの人間、何が楽しいのがニコニコとした笑みを絶やさない。さらに家事の経験はあるのか、その動きは淀みない。掃除一つにしても上から下へ、畳は目に沿って、乾拭きも忘れずに。
正直何も期待してなかっただけに、その動きに少なからず驚かされたのも事実だった。
私が予測していたよりもかなり早く仕事を片付けたその人間は、次は何を命令されるのかと視線を向けてくる。
その視線には何処か楽しさが含まれていて、それを向けられる度に、こいつは自分が食料だということを自覚しているのだろうか? そんな疑問が頭を過る。
だがまぁ家事の手間が省けるのなら、それに越したことはない。短い付き合いだろうから、その分使い潰してやろうと思って新たな指示を出した。
それに人間はただ微笑み応えるだけだった。
本当にこいつは自分の命を握られているということを自覚しているのだろうか?


それからしばらくしても、私の予測に反して、紫様はその人間を食べようとは言い出さなかった。
気まぐれか、何か考えがあってか、手も出さない、しかし何をさせるわけでもない、ただ私に一存すると我関せずを決め込んでいた。
紫様のそんな行動は今に始まったことではない。だから私も紫様が『食べたい』とおっしゃるまでその人間に手を出すつもりは無かった。
朝起きれば朝食を作り、昼までには掃除を済ませ昼食を作り、夜には夕食を作る。外の世界から連れて来ただけあって、私の頭には無い料理もいくらか知っていた。
それらは橙を盛大に喜ばせていた。幾ら式といってあの子はまだ幼い。その人間のことを、餌ではなく、新しい刺激を与えてくれる何か、ぐらいにしか認識しなかったのだろう。
だからこそ、あの子はあの人間にあっさりと心を開いたのだろうか。
ある日、いつものように結界を点検し、マヨヒガへと戻った私を待っていたのは、縁側で仲良く昼寝をする一人と一匹だった。
そういえば、この人間は最近居眠りをすることが多い。こちらの生活に慣れてきた所為なのか、時々太太しく眠りこけている時がある。
柱へと頭を預け眠りこける人間の膝に橙が頭を乗せ、これまた気持ちよさそうに丸くなって眠っている。
起こすのは簡単だが可愛い橙の寝顔を見ていると、少しぐらいならいいかと甘さも出るもの。
膝枕ぐらいなら私も何度かしたことがあるが、こうも橙が無警戒で眠るのも珍しい。
私の膝で眠る橙は何処か緊張したように、何時も眉を顰めるからだ。
まるで仲の良い兄妹のような光景に、若干の嫉妬と多大な和みを感じつつ、今日位はいいか、と私はその場を後にした。
勿論眠りこけていた人間には、その後普段の倍の家事が待っていたが。


ある日、唐突に振り出した小雨に右往左往する人間が居た。
彼の手には大量の洗濯物、幸いなことに殆ど日が落ちてからの雨だったため全て乾ききっている。
丁度良い機会だと取り込ませる。が、取り込んだのはいいものの、そこからが遅々として進まない。
普段ならあっさりとこなす癖に何を梃子摺っているんだと声をかけた私に、その人間は困ったように頬を掻く。
その視線の先、そこには取り込まれた洗濯物に混じってその、私たちの下着があったからだ。
今まで餌として見ていたが、この人間も立派な雄。幾ら私たちが妖怪とは言え、女物の下着に触れるのには抵抗が有ったのだろう。
まるで思春期の子供のような反応に呆れつつ、恥ずかしがる歳でもないだろうと言い放った私に、明日どうなるか分からない身だからって何をしても良い訳じゃない、と頑とした言葉をぶつけてきた。
面倒くさい男だなお前は、という言葉に、人間はただ黙って下着以外を畳むだけだった。
仕方なしに私も手伝ったが、人間の意外な一面も見えて楽しかったので御相子としよう。


ある夜、人間が酒を持って私を訪ねてきた。
何でも紫様に私を労って来いと言われたらしい。
珍しいこともあるものだ、と主からの気遣いを素直に受けることにした。
酒を置いて退出しようとする人間を引きとめ、酌をするよう命令する。
これでもかつては三国を傾けた存在だ、誰かから持ち上げられるなど数え切れないほどある。
しかしそれもここに来てからはとんと無かった。
だから、少しぐらい自分勝手に振舞っても問題ないだろう。おそらく紫様もそれを察した上でお心遣いしてくださったのだろうし。
そんなわけで……恥ずかしながら久方ぶりの心の洗濯を喜びすぎて、前後不覚になるほど酔い潰れたらしい。
らしい、と言うのは、後々人間から聞いたからだ。
曰く、普段からは考えられないほどの傍若無人っぷりだったとのこと。おぼろげな記憶では、無理矢理その人間に酒を飲ませていたような気もする。
その時の記憶が明確に残っていなくて良かったと思う。有ったら私はたぶん恥死していただろう。
そう言えば、その時人間が目の下に隈を作り、微妙に頬が痩けていたのを覚えている。
その時は、ただたんに私の我儘に付き合わされ疲れているだけかと思っていた。


「ねぇ、藍。あの人間、どんな感じ?」

全員揃っての食事後、食器を下げていると紫様がそんなことを尋ねてきた。因みに人間は橙に連れられ食後の散歩に出ている。
む、あの人間また残しているな。下手に体調など崩されてはこちらが困るのだが。

「申し訳ありません。質問が漠然としすぎていてお答えできません」
「そのままの意味よ? 貴女の思ったとおりでいいわ」

紫様が言葉足らずで遠回しな表現をするのはいつものことだ。逆に漠然としすぎていて色々な意味に取れるからこそ返答に困るわけだが。
とりあえず、思いつくことを上げてみる。

「そう……ですね、食料として見るなら十二分です。ストレスも無いように見受けられますし、病気を持っているわけでもない。酒や煙草に溺れているとも思えませんから、それなりに味はいいでしょう。まぁ最近は食事を残すようになっていますが。」
「あら、そう……じゃあ人間として見れば?」
「壊れている、としか思えません」
「ふぅん、その根拠は?」
「死刑を待つ囚人が、死刑執行までの時間を楽しんでいるようなものです。気狂いか阿呆でなければ、何時殺されるかも分からない恐怖でとうにおかしくなっている筈ですから」
「ふ~ん……そうかしらねぇ」
「何か?」
「いぃえ別に。じゃあ次。藍はあの人間はどう思うの?」

その質問に返す言葉は喉の奥に引っかかった。
どう思っている?
簡単だ、食料兼便利な手伝いぐらいにしか思っていない。
その筈だった。

「わかりません」

しかし思考とはまったく別の言葉が私の口から漏れていた。
その言葉に、それ以上の追求はせず、紫様はただ、そう、と言われ。

「……まぁしっかり付き合ってやりなさいな、どうせ時間も短いのだろうし」

紫様の言われた短い時間、その意味を私はこの時深く考えず、ただ頭を下げるだけだった。

「ただいま、かえりましたー」

元気のいい声が響く。橙が食後の散歩から帰ってきたのだ。
ふと気付けばいい時間が経っていた。

「お帰り橙。随分と遠くに行って来たんだな」
「いいえ、紫様にいわれたとおり、そんな遠くには行ってないです。あの人が……」

橙がそこまで口にして逡巡する。言うべきか、言わざるべきか、傍目から見ても分かるほど悩むその姿。
式である以上、私に隠し事することなどめったに無い。ましてやここまであからさまな狼狽っぷり。
私でなくても気になるというもの。

「あの人間がどうかしたのか? ……まさか奴め、妙な気を起こしたんじゃないだろうな?」
「ち、違うんです!! あの人は何もしてないです!! ただ、ちょっと休んでただけで……」

一瞬鋭くなった私の気配を察したのだろう、橙が慌てて否定する。人間も庇うほど優しく成長してくれたことの嬉しさと隠し事をされる悲しさを同時に味わいつつ、橙の次の言葉を待っていると、件の人間が戻って来た。

「戻ったか。ほら、お前の大好きな後片付けが残っているぞ?」

棘を含んだ私の言葉に、奴はただ誤魔化すような笑みを浮かべて家事に戻るだけだった。
その煮え切らない態度に、二、三、文句を告げようとした私を橙が引っ張る。

「あ、あの藍さま、あの人、そんなに苛めないでください」

下から見上げてくる懇願の瞳に、思わず息が詰まった。

「い、苛めているわけじゃないぞ? ただ、理由もなく不審な行動をされるとだな……」
「だって、あの人は……」

言いかけた橙の言葉を、奴が遮った。そして橙に優しい声で、手伝いを頼む、と告げる。
その言葉に、一瞬寂しそうな表情を作った橙だが、それでも直に普段の元気な笑みを取り戻し、そいつの傍へと駆け寄る。
その後姿を見送りつつ、何処か置いてきぼりな雰囲気を感じた。


しばらくしたある日、その日は何時も家事をこなしていた奴の姿が見えなかった。
一人で外に出られるわけが無いから家の何処かに居るはずだ。そう思い姿を探した。
今思えば、どうして私は奴の姿を探したのだろうな。
まぁ結果から言えば奴はあっさりと見つかった。
何のことは無い、奴は縁側に腰掛け、目の前に何かを置き、庭を見詰めていたのだ。
よくよく見れば、奴は絵を描いていた。
いつもの困ったような締りの無い笑顔は何処へやら、唇を引き結び、眼前と絵を交互に見やるその視線は真剣そのもの。おそらく書斎だろうが、そこから見つけてきた紙と筆のみで、目の前の光景を描き上げていく。
普段とは全く違う、触れれば切れると言わんばかりの緊張感溢れる姿に、思わず声をかけることも忘れて私は見入っていた。
奴が線を引けばそれは輪郭となり、筆を均せば陰となり、光となる。白と黒の単純な二色で濃淡を的確に表し、紙上に世界を作り上げていく。
どれほどそうしていただろうか、奴が筆を置き、大きく背伸びをしたことでその時間は唐突な終わりを告げた。

「おい」

私のかけた声に、それと分かるほど奴は大仰な反応を返した。まるでお化けでも見たような反応だ、失礼な奴め。
おそらく咎められると思ったのだろう、折角の絵を慌てて丸めて隠そうとする。
だがそれは私が許さない。その手から絵を掻っ攫うと皺を伸ばしまじまじと見詰める。
良く見れば植え込みの葉一枚、立ち木の節一つまで細かく、しかし目に五月蝿くない程度に描き込まれている。
これでも私は贅沢に囲まれて過ごした時期もある、芸術や美術にはそれなりに目が利くつもりだ。
そういう点で見れば、決して目立つものではない。事実今まで見た芸術なら素晴らしいものはいくらでもあった。
だが、何といえばいいのだろう、その絵は……そう、生きていたんだ。
ただ描いてあるだけではない、まるでその一瞬を写し取ったかのような、描いた者の意気込みがそれと分かるほど力の篭った物だった。
上手く説明できなかった自分が疎ましかった。だから萎縮してなお、こちらを見詰める人間に絵を突き返しつつ言い放つ。

「いい絵じゃないか」

そう言われた時のそいつの表情を何と言えばいいのだろうか。
そう、正しく『花が咲いた』といった表現がぴったりだ。相手雄だけど。
そして私の言葉が嬉しかったのだろう、手が空いたときでいい、また絵を描いてもいいか、と尋ねて来た。
反対する理由も無い。もし過ぎるようなら無理矢理止めることは何時でも出来る。
負担にならない程度ならな、という言葉にそいつは諸手を挙げて喜んだ。
その無邪気な反応にこちらも毒気を抜かれてそれ以上、咎める気にもならなかった。


それからそいつは絵を描き始めた。家事の合間に、食事後の一服に、寝る前の僅かな時間に。
暇を見つけては紙と筆を取り出し、目に付いたものを片っ端から描いていく。
家の中、庭、橙に連れられ見て回ったマヨヒガ。極端なものになると家具の一つまで。
まるで世界を切り取っていくかのようにありとあらゆるもを描き上げる。
その一枚一枚、どれも手を抜いたものなど無い。
それらは私はもとより、橙もそして時には紫様まで感嘆の溜息を漏らすほど。
そして絵を描く姿は何時しか、一生懸命を通り過ぎ、鬼気迫るほどまでになった。
ある日私は告げた。根を詰め過ぎだ、と。
遠回しに体調でも崩せば絵が描けなくなる、そう言う私にそいつは相変わらずの困ったような表情と言葉を向けてきた。
曰く、実はここに連れて来られた時からずっと描きたかったのだと。
しかし自分は餌という身分。下手の事をすればすぐさま息の根を止められる。
だから脅えていた。
でも、もう、もはや駄目だ。
自分は学があるわけでも、技量に優れるわけでもない。でもこれだけは自信を持てる。何かを残せる。
だからこそ、むしろ、明日をも知れない身だからこそ、やり尽くそうと、そう思い立ったのだと。
その言葉を聴いて、今更のように目の前の人間が私たちにとっての餌だったと思い出した。
そしてそのことが表情に出たのだろう。そいつは言葉を続けた。
自分は決して自棄になったのではない。その証拠に今この場で食われると言われてもいいように、気持ちの整理は付いている。
ただ、どうせ死は誰にでも訪れる。ならばこそ、今在る生を精一杯生きたいだけだ。
そう言い切ったそいつの表情は、死を受け入れて尚最後の最後まで生き続けようとする強さを秘めていた。
その言葉に私は何も言えなかった。
短命な人間だからこそ、至る思考。長命な妖怪の持つ緩やかな火ではなく、自身を削って尚燃え盛る焔のような生き様。
ああ、直向な姿とはなんと美しいのだろうと、素直にその時は思えたものだ。
言いたいことを言ったのか、途端にしおらしくなる人間。その変わり身の早さに毒気を抜かれて。
ふとそいつが小さく漏らす。

―――でも、まだ描ききれていない。

その言葉に私は首を捻った。
目に付くものは殆ど描いた筈だ、こう言っては何だがお前はここから出られない。その分描く物は少ない筈だ。
そう尋ねる私に、そいつは一言、笑みを浮かべつつまだ貴女を描いていないと言い放つ。

「……そう、か」

僅かに頬が紅潮したのを自覚した。
楽しみと、嬉しさと、恥ずかしさと、複雑な感情がごちゃまぜになった気持ち。
ややあって私が絞り出した声は、同意とも確認とも取れない中途半端な音だった。
それに奴は力強く頷き返し、慣らしはすんだ、と言い放つ。
その言葉に私は驚愕した。慣らしですら、私たちに感嘆を植え付けたのだ。もし奴が本腰を入れたなら、いったいどれほどの絵が出来あがるのか。
言葉もなく立ち竦む私を尻目にそいつが紙面へと向き直り。
ゴンッ、とその表面へ顔面をぶつけた。

「……どうしたんだ」

私の問いに、そいつは眩暈がしたと呟く。

「言わんこっちゃ無い。どうせ根をつめていたのだろう、もう休め」

今思えば我ながら何気ない言葉だった。しかしそれを聞いたそいつは少し悲しそうな顔をして、もう少し、と応える。
その表情に言いようの無い不安を覚えたが、自分の言葉を今更取り消すのも格好が悪い。
私はそいつを、今すぐ食われたくなければさっさと休めと半ば無理矢理床に付かせた。
わかりました、と珍しく名残惜しそうにその場を後にするそいつが、最後に悲しそうな表情を浮かべたのが気に掛かった。



そしてそれ以降、そいつは起きて来なかった。



しとしとと降る雨。外は昼間だと言うのに暗く、空気は重かった。
家事をこなし、結界を点検し、そして伏せるそいつの元へ訪れる。
布団に包まれたその姿は、端から見ればただ単に眠っているだけに見えた。
だがそれは表面だけの話。そいつの体はもはや自力で起き上がる所か目を開けることが出来るかすら怪しい。

「……」

病の原因など簡単なものだ。
人間が、妖怪に近付きすぎた所為だ。
そも妖怪とは人間の負の感情によって生み出されたもの。言い方を変えれば穢れとも言える。
しかもこのマヨヒガには私と紫様という極大の代物が存在している。
そんな中にただの人間を放り込めばどうなるか、それは生命力を削り取られ昏睡する目の前の人間が如実に語っている。
前兆などいくらでも有った。頻繁な睡眠、取れない疲れ、食欲不振……あげればきりが無いだろう。
そう、ここに来た時から、この人間は体を蝕まれ続けていたのだ。

「とんだヘマね」

何時の間にか隣へと現れていた紫様が冷たく言い放つ。
その言葉は誰に対して放たれたものだろうか。
連れてきておきながら放置していた紫様自身だろうか。
それとも体調不良を隠し、結果として床に臥せることになった人間に対してだろうか。
それとも、一番触れあっていながら何一つ気付けなかった私に対してだろうか。
その答えはでず、私はただ拳を握るだけだった。

「もう寝るわ。そいつはアナタが処理しておきなさい」

それだけ言い放ち、姿を消す紫様。それと同時に伏せていた人間が僅かに身動ぎし。

「――――」

目を開けた。ぼんやりとした眼は周囲を見渡し、そして私を捉える。

「無様だな」

我ながらどうしてそんな言葉が出たのか、おそらくは目を覚ましたそいつが浮かべた困ったような笑みに、内心を掻き乱されたせいだろう。
動揺を悟られないよう、わざと冷たく言い放つ。

「食事当番は貴様だぞ。橙も楽しみにしているというのに」

八つ当たりにも似た私の子供のような反応に、しかしそいつは笑みを浮かべたまま、不甲斐ない、と謝るだけだった。

「全くだ。たかがあの程度の家事で体調を崩すとは。人の言葉に耳を貸さないからこうなるんだ」

私の口から漏れる言葉は震えていた。それを覆い隠そうとするほど、言葉は辛辣になる。それでもなお、そいつは困ったように微笑み、申しわけないと謝るだけだった。
そこに私達への憤りなど一切なく、ただただ自身の間抜けさを嘆く響だけがあった。
そんなそいつの心情を理解したからこそ、私はさらに言葉をぶつけた。もはや言い掛かりにも等しいほどの文句を並べ立てる。
そうやっていないと、涙が溢れそうだったから。

「何故だ。何故……何故、お前は私たちを責めない……!!」

搾り出すような私の声に、そいつはただ戸惑ったような表情を作るだけだった。まるで私がなにを言っているのか理解できないと言わんばかりに。

「……私たちはっ!! お前をこの世界に引き摺り込み、殺そうとしているんだぞッ!? お前の意思など無関係にっ!! ただ私たちの都合で!! だと、言うのに……だと言うのに!! 何故お前はそんな顔を出来るんだッ!?」

絶叫。
恨み言の一つでも言ってくれれば。お前達の所為だと一言でも責めてくれれば、少しは気も紛れただろう。
しかしそんな気配は露と見せず、私の八つ当たりを受けてなお、そいつは困ったように微笑むだけだった。
何時しか私は口を閉じていた。伏せた顔から雫が落ち、膝に染みをつけるのを止められなかった。
私の喉の奥から漏れるのは、もはや言葉の体をなさない嗚咽のみ。
何故こんなにも私の心をかき乱される?
何故こんなにも私を弱くなる?
誰かの前で、ましてや人間の前で涙を見せるなど、三国を荒らし回っていた頃より今の今まで無かった事。
子供のようにぐずぐずと鼻を鳴らす私を見詰めていたそいつが、ふと、貴女は優しいな、と呟いた。
その言葉にはっと顔を上げる。
枯れ木のように衰えた手で、そっと私の頬に触れ、そいつは笑っていた。
自分の死に女が泣いてくれる。男としてこれほど冥利に尽きることは無い、と。
しかも相手は傾国の美女と呼ばれた九尾狐だ。これほどの美女に泣いて送って貰えるなど、後にも先にも自分だけだろう、と。
カラカラと嬉しそうに笑っていた。
その笑みに胸が締め付けられる。

「死んでは何にもならないだろう!!」

何故お前は笑っていられる!? もはや今この瞬間に死んでもおかしくは無いのだぞ!?
もはや泣き顔を隠そうともせず絶叫する私に、そいつはただぼそり、と語り出した。

―――最初に感じたのは絶望だった。見ず知らずの場所につれてこられて、いきなりの餌宣言だ。自分の運の悪さを呪った。

―――次に感じたのは諦めだった。足?いたところでどうにもならないということはすぐに分かった。

―――でも次に感じたのは安堵だった。気まぐれとは言え、命を永らえた。上手く立ち回れば生き延びれるのではないかと思ったから。

―――次に感じたのは好奇心だった。いざ死なないとなると、周りの物が途端にまぶしく見えてくる。外の世界に比べれば古いものばかりなのに、自分にとっては全てが新しかった。

―――次に感じたのは渇望だった。これほどの世界、ただ見て終るだけではつまらない。なにか出来ないか、と。だから絵を描き始めた。

―――次に感じたのは異変だった。自分の体がいう事を聞かなくなってきた。それも急激に。いや、おそらくはここに来た時点で既に蝕まれ始めてたんだろう。

―――次に感じたのは焦りだった。このままでは何も出来ず死んでしまう。その時自分は何処に居たんだ、と。自分と言う存在は何だったのかと。

そこでそいつは一旦言葉を切り、こちらへと視線を向ける。

―――だが今感じているのは喜びだ。だってそうだろう、目の前に自分を思って泣いてくれる貴女がいるのだから。

体の衰えなど一切感じさせない、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
と、その表情が何かを思いだしたかのように変わる。一つ訂正だ、実は絶望の前に感じた心境がある、と言葉を続ける。

「……何だ」

訊ねた私にそいつはニカッと子供のような笑みを浮かべて。

―――貴女に一目惚れ、だ。

そう言い放った。
その言葉を数秒かけて理解した私は、ただ硬直するだけだった。
その時どんな表情を浮かべていたのか、私は分からない。ただそいつがカラカラと本当に楽しそうに笑ったのを覚えている。

―――自分の好きなこと出来て、惚れた女に泣いてもらえて、これほど素晴らしい幕引きがあるか?

悪戯小僧のような表情を浮かべた彼が、心底嬉しそうに言い放つ。
そこでふと、悲しそうな笑みを浮かべた。
ああ、だがまだちょっと未練が有るな。何せ惚れた女を描いてない。
いつもの困ったような笑み。そしてその言葉に私の心は決壊した。

「……そうだ、まだ私は描いてもらっていないぞ。私だけじゃない、橙だって、紫様だって、オマエの絵を楽しみにしているんだ。……仕事はまだ残っているんだぞ。家事だって溜まっている、だから……だから、さっさと起きろ」

そう搾り出す私の手を、彼の皺塗れの手は優しく握り返してきた。
そしてこう言い放った。
すまないが少し待っていてくれ、ちょっと長い旅に出てくる、と
その言葉に、私は何も言えなかった。

―――そうだ、旅に出るんだったら、是非貴女にやってもらいたいことがある。

何かを思い出したかのように、そいつは優しい笑みを浮かべて言い放った。
何だ、と乱れた思考では何も考え付かなかった私に、彼はただこう言うだけだった。

―――笑ってくれ、と。

―――笑って送ってくれ、と。

深くは聞かない。
ただ震える唇を笑みの形にして。
恐らくは今までで作ってきた中で、一番不器用な笑みを浮かべた。
それでも、それを眼にしてそいつは言ってくれた。

―――ああくそっ、本当にいい女だ。

そう言って、そいつは静かに瞼を閉じた―――。




泣かせることが不幸とわかっていても、死に目を見取ってもらえることは幸運なのだろう


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最終更新:2014年02月20日 00:13