彼女と出会ったのは、特になんでもない日のことだ。
異世界に飛ばされたとか、怪物と遭遇したところを助けたとか、どこかのおとぎ話のようなものじゃない。
ごくありふれた、どこぞの主人公には程遠いものだった。
「隣、いいですか?」
俺が大学に入学して、少しだけ日が経ったことだった気がする。
二時限が少しだけ早く終了したおかげで、食堂にいつもよりも早く着くことが出来た。
辿り着いたその先、食堂の混雑の度合いが違っているのはごく当然のこと。
ピーク時には座る場所にさえ困るようなこの場所も、今はまばらに人がいるだけだった。
ということで適当な席を確保し、お盆に載せた料理の代金を支払っている頃には濁流のように人が押し寄せていた。
少しだけ優越感に浸ったが、それよりも腹が減っていたのでそちらを優先して席に戻る。
それから五分後、皿も寂しくなり始めた頃のこと。
「え?…………ああ、どうぞ」
食事をしながら眺めていたのだが、あの五分の間に既に席はすべて埋まっていた。
次々にバック等をテーブルやイスに置き始めたかと思えば、すぐさまお盆を取りに群がっていく。
まるで食物を荒らすイナゴの大群のようだった。
いきなり話しかけられて頭は混乱していたが、この有様を見ていれば席を取るのも一苦労。
ちょうど目の前の向かいの席は空いていたこともあり、着席の許可を認めたのだった。
よく見ていなかったが、お盆の上に料理が乗っていることから代金の支払いは済んでいるらしい。
ガチャン、とテーブルに置かれたときにお盆の上で食器が鳴る。
随分少ないものだな、まるで女性のような食事量だと思って相手を見た。
「…………」
金髪碧眼。
それはこの国から代々受け継がれてきた特徴とは全く違うもの。
黒髪黒目がデフォルトの黄色人種とはかけ離れていることを示す、確かな証。
それでいて、整えられたパーツは実にベストな位置に存在していた。
"綺麗だ、こんな彼女がいたらいいな"
たったそれだけ、心の底から感情が沸き立っていた。
「……あの、私に何かついていますか?」
じっと見つめていたからだろうか、彼女はこちらに問いかけてきた。
そう言われてハッと気がつく、初対面の人間に向かって失礼だったと。
「ああ、いえ……………なんでもないです」
正直なことを言えば、彼女に見惚れていたというのが本音ではある。
絶対に言えるわけがない、ましてや出会ってから数分程度なのに。
出そうになった言葉を、サラダと一緒に飲みこんだ。
たったそれだけ、その程度。
一期一会、まさしくその通りだったと思う。
日が経つごとにそれも忘れて、いずれ何があったのかさえも覚えていなくなっていく。
そう、そんなはずだった。
「あ、ここ空いてますよ」
その日は以前とは違って少し出遅れたからか、もうすでに席は埋まっていた。
どこか一つでも空いてないだろうかと探し回っているところに、後ろから声が聞こえた。
「え?………ああ、ありがとうございます」
この前の食堂で相席した、あの金髪碧眼の女性だった。
正直よく覚えていたものだと思いつつ、ありがたく席に座ることにした。
両手に持っていたお盆をテーブルに置き、椅子を引いて着席する。
「お会いするのは二度目ですね」
「ええ……覚えていらっしゃるとは思っていませんでしたが」
よくもまああの短時間で人の顔を覚えられるものだと思う。
人の名前も顔もあんまり覚えられない俺には、彼女がとても凄い人間のように見えた。
記憶力が良いのだろうか?それならば納得がいくのだけど。
「初対面であんなに見つめられたんですよ?………忘れられませんよ」
「あー…………」
やっぱり初対面の人をあれだけジロジロと見ていれば何かしら思うことはあるだろう。
………やっている側からすれば、やられている側の気持ちを理解するのは難しい。
反省の意を込めて、俺は謝ることにした。
「どうもすいません、あの時はとんだご無礼を」
「ああ!いえいえ、別にそう言うわけで言ったわけじゃないんですよ!?」
俺の発言が予想外だったらしく、慌てたように取り繕う彼女。
会って二度目だけど、実に可愛らしい反応をする人だと思った。
ただ、次に聞いた言葉は予想外すぎる言葉だった。
「つかぬことをお聞きしますが………」
「どこかで、お会いしたことありますか?」
「…………私のこと、好き?」
その問いに対して、返す言葉は一つしかない。
「好きだ」
いつも気丈な彼女なのに、俺の前だと乙女のようになる。
長い時を生きてきているというのに、どうしてか純情だったりする。
周りを取り巻く者たちが今この光景を見たのならば、誰もが夢だと思ってしまうだろう。
絶対に弱みを見せない彼女が、俺の目の前だけにそれをさらけ出している。
それがどうしてなのかは、もう既にわかっていることだけど。
「……不安か?」
「ええ、とっても」
彼女は、妖怪だ。
俺みたいなたかが二十年程度を生きてきた人間とは違う、とんでもない時間を過ごしている。
本当ならば、俺がこの場でこうして立っていられることが奇跡みたいなものかもしれない。
人を遥かに超える強大な力を持つ彼女と、ごくありふれた人間の俺。
どうしてか、俺たちは互いに対して同じ感情を抱いていた。
「私が今少しだけ力を込めれば、あなたは死んでしまう」
「そうだな、俺は人間だから」
彼女の手は、俺の首を掴むようにある。
けれど決してその手は握り締めることは無い、そっと包むように込められた力だけだ。
殺意など存在せず、ただただそっと撫でられるように。
「脆いわね、本当に」
「妖怪じゃないからな、当たり前だ」
どんなに鍛錬を積んだところで、その一撃の前では紙屑同然のように引き裂かれるだろう。
息を吸うかの如く、いとも容易く。
「……私を置いて、一人だけ先に死んでしまうのね」
「不老不死じゃない、年もとればいつかは死ぬさ」
悠久の時を生きるであろう彼女からすれば、俺など一瞬にしかすぎない。
気がついたときは、もう既にいないとようやくその時になって分かるのかもしれない。
どれだけ頑張ったところで、絶対に覆せない差がある。
「…………嫌よ、そんなこと」
「手に入れたと思ったらいなくなるなんて、そんなこと絶対に嫌」
「…………………」
分かっている、そんなことは分かっている。
人と妖怪が、相容れることが出来ないのはあまりにも違いすぎているから。
その結末が悲劇になることが前提になっているのは、ごく当然のことだ。
なら、その前提を変えてしまえばいい。
「じゃあ、妖怪にでもなってみるか?」
そうして俺は、人間であることよりも彼女を選んだのだった。
「……………」
つい先日に、そんな夢を見た。
人間の男は俺で。
妖怪の女は目の前の彼女と瓜二つだった。
偶然か、それとも必然か。
その問いに対して答えるものは誰もいなかった。
「……………どう、でしょうか」
「俺は、貴女に会ったのは二度目ですよ」
口から出た言葉は、本心だったのだろうか。
あるいは嘘か、それさえも良く分からなかった。
現実というにはあまりにも嘘臭い癖に、夢や幻というにはあまりにも鮮明すぎている。
どちらが夢か、現実なのかさえも疑わしくなるほどに。
「そう、ですか」
俺の回答を聞いて、あからさまに落胆する彼女。
それ見て少し悪い気になったが、嘘はつけない。
この世界で出会ったのは、これで二回目であることは確かなのだから。
いや、そもそも彼女が俺と同じ夢を見ていたとはありえない話だ。
きっと俺に良く似た誰かと勘違いしているのだろう。
だから、少しだけ冗談めかして言う。
少しだけでも彼女の表情が良くなればと。
「ほら、会って二回目でもこれだけお話出来ていますし」
「案外気は合うんじゃないですか?」
「………ですね、そうかもしれません」
二回目だというのに"どこかで会ったことがありますか"と聞かれても、彼女に対して不信感を抱かなかったのもそのせいかもしれない。
何を根拠にしてそう思ったのかは知らないけど。
あるいは、彼女の持つ魅力なのだろうか。
結局、それ以上に会話は無かったのだけど。
そして、二度あることは三度あると言わんばかりに。
またしても、俺は彼女と出会った。
暗い空の下、星の輝きが良く見える堤防の上で。
「またお会いしましたね」
「そうですね………」
こんな美人と何度も会える縁があるのなら、喜ぶべきなのだろう。
一度目は偶然、二度目は必然。
となれば三度目は?
「不思議ですね、またお目にかかるとは思ってもいませんでしたが」
「そうなんですか?私はそう思っていませんでしたよ?」
「なんだか縁を感じるというか………運命みたいなものを信じていたんです」
花の咲くような笑顔で、俺に向かって見せてくれた。
俺と考えていることは全く同じだったらしい。
普通に聞くと危険人物にしか思えないだろうけど、あの夢がそれを打ち消していた。
お互いがお互いに対して運命じみたものを感じているから。
俺も、彼女に対して他人とは思えないような気がしていた。
「変な話なんですが、凄く落ち着くんです」
「長い間一緒にいたみたいに、始めてあったかのような気まずさがなかったんです」
「本当に不思議でした、私が今まで生きてきてそんなことを感じたのは初めてでした」
「まるで―――――――――」
「夫婦のように、ですか?」
顔を真っ赤にして、彼女は首を縦に振った。
その顔が、その仕草が。
夢の中の彼女と重なって見えた。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」
「………言われてみれば、確かにそうでした」
「すいません、名前も知らないのに運命だとか言ってしまって」
夢の中の彼女に瓜二つな彼女に、勝手に幻影を重ねてしまっている。
実に失礼な話だ、目の前の彼女ではなく向こう側にいる彼女を見ているのだから。
でも、それは彼女だって同じだ。
きっと"俺とよく似た誰か"に俺を重ねているのだろう。
「マエリベリー・ハーン…………発音が難しいならメリーで構いません」
それでもいいじゃないか。
俺たちは似た者同士なのだ。
「ええと、よろしく………メリーさん」
「俺は――――――――」
この胸の内に秘めた感情が何なのか。
ゆっくりと探していけばいい。
俺たちのこれからは、今から始まるのだから。
──────────────────────
あの日以来、メリーさんと行動を共にすることが多くなった。
会うはずがないだろうと思いながらも、ふとばったり出会うことこともしばしばで。
ただ、今日だけは一度も見かけることもないという珍しい日だった。
会わなくて当然だというのに、それが珍しいとは実に奇妙な話。
住んでいる場所も、学部もそもそも違っているのに、こうも鉢合わせることがありえないのだ。
これが普通なのだと、自分に納得させた。
「あら、こんにちは」
見上げたその先、金髪碧眼のあの顔が瞳に映った。
………訂正しよう、やっぱり珍しい日でもなかった。
「こんにちは、メリーさん」
そう返すと、花の咲いたような笑顔で返してきた。
その笑顔にドキリとしながらも、やはり美人には笑顔がよく似合うと感じた。
「どうしたんです、誰かと待ち合わせですか?」
ラウンジでボケっとしているところを見られていたのだろう。
まあ確かに、そうも見えなくはないが。
「………いえ、違いますよ」
「………そうですか」
少しだけ残念そうな顔をして、また笑って答えてくれた。
………どうして、そんな顔をしているのだろう?
俺がメリーさんを待っていた、と言うことを期待していたのか。
―――――――――まさか、そんなことはあるまい。
自意識過剰にも程がある。
頭を切り替えて、ここにいる理由を話した。
「傘を忘れたんです」
「ああ、そういうことですか」
窓の向こう側には、数十メートル離れたところに建てられている長い長い建物がある。
いつもならばよく見えるその景色は、今はまるで絵の具をぶちまけたかのような景色に変わり果てていた。
視力検査のような雰囲気の中、目を凝らしてかろうじて見えたのは傘を差す人々。
そんな天気にも関わらず、俺は傘を持っていなかった。
致命的だった。
「でも今日は一日中降り続けるそうですよ?」
「雨脚はずっとこのままらしいです」
「………マジですか」
「マジです」
真顔で訊ねて、真顔で返されてしまった。
その言葉を聞いてため息が漏れていく。
現在の時刻は十二時も半ばまで来ている頃、例え明日になるまで待ったとしても十二時間もあるのだ。
まあ、そうなる前に大学から追い出されるであろうが。
「………はぁ、どうしようかな」
雨脚が弱くなったと同時に駅に駆けこむという作戦は失敗、ならば次には傘を購入して帰ろうかとも考えたのだが。
最近は金欠なのだ、傘を買う金でさえ惜しい。
紙幣を見たのは一ヵ月前、某有名人物の顔が今はただただ懐かしく感じるほどに。
やたらに軽い財布を開いてはみたのだけれど、やっぱり傘など買えるような温かさなどなかった。
となれば、選択肢は一つしか思い浮かばない。
「……………………」
嫌だけど、それでも仕方ないかと意を決して立ち上がろうとしたその時。
差しだされたのは、一本の傘。
見上げたその先にあったのは、いつか見た彼女の顔だった。
「その………………」
「よかったら、一緒に帰りませんか?」
真っ赤になりながらそう告げたメリーさんが。
哀れな子羊もとい俺の瞳には、今は女神のように映った。
バケツをひっくり返したような雨が降り続いている。
それは、ようやく外に出て現実だと理解した。
絵の具をぶちまけたような景色を見ている程度では、どのくらいの雨脚なのかは理解はできない。
外に出て、その天気を見て、ようやく頭で理解した。
これでは、傘なしでは帰れそうにもないと。
「どうかしたんですか?」
そうして空を見上げた俺を不思議に思ったのか、上目遣いでこちらを見上げるメリーさん。
いつもよりも近いその距離にはちゃんとした理由がある。
「いえ、酷い雨だなぁと」
俺の視点から左側に寄り添うように歩くメリーさん。
俺の左手には、傘が握られている。
そして傘の中には男と女の二人がその下で歩き続けている。
相合傘とでもいえばいいだろうか、今はまさしくその状態だ。
「そうですね、今朝はそれほど酷くもなかったのに」
クスクスと笑う彼女を間近に見て、少しだけ胸が高鳴った。
それを見て、ちょっとだけ違和感を感じた。
また夢を見た。
ただ、今回はいつもとは違った。
あの妖怪の女性ではなく、隣にいたのはまぎれもないメリーさんだった。
今みたいに、こうして二人で一本の傘を差して大学から帰宅する場面。
その時は、今みたいに心躍ることもなかった。
俺が心躍る相手はたった一人だけ。
隣に住む黒い帽子を被った、黒髪短髪の活発な少女。
俺は、そんな奴は知らない。
隣の部屋は空き部屋だ、誰かが引っ越してきたところも見たことが無い。
いや、そんな顔を見たこともない。
あれは一体誰なんだろうか。
確か夢の中の俺はこう言っていたはずだ、"いなくなったらいなくなったで寂しい"と。
それは、好きなんじゃないだろうか?
意識しているしていないにせよ、失うことが怖いんだ。
きっと無くしてから分かるんだ、かけがえのないものだったのだと。
なんとも煮え切らない"自分じゃない自分"に対してやきもきした。
早く気づけよ、そう自分に良く似た誰かに一声かけて目が覚めた。
結局、何も分からないままだった。
夢の向こう側にいる彼女の名前さえ、知ることは無かった。
「なんというか、今朝はドタバタしていましてね」
ずっとその夢について考えていたからか、進み続ける時計の針に気がつかなかった。
気づいたときにはもう余裕などなく、最低限の身支度をして飛び出したのだった。
その時にはもう、夢のことなんてどこかにいってしまっていた。
今更になって思い出すとは思いもしなかったけれど。
「お寝坊さんですか?」
「似たようなものですよ」
瞬間、欠伸が出た。
反射の如く出た涙を指ですくい取る。
…………ただ計算外だったのは、それをメリーさんに見られていたことだ。
まったく無防備なまま、口を手で覆うことなく間抜けな顔を晒していたことに気がつく。
「………ふふ、おねむですね」
「………そういうことにしてください」
ちょっと恥ずかしくもなったが、場の空気が少し和んだのでよしとする。
赤信号で立ち止まっていたのだけど、それも青になったことから再び歩み始めた。
そうやって油断していたからだろう、少しだけ反応が遅れたのは。
状況が悪いことも重なっている、雨の音でかき消された音を聞きとれなかった。
視界が悪いこともある、青信号だから大丈夫だと安心しきっていた。
それが積み重なって、向かってくる脅威に対して無防備だった。
「危ない!」
思い切り腕を引かれる感触と共に、進行方向とは真逆の方向へと押し戻されていく。
数歩先の前の横断歩道を、凄まじい速度で車が駆け抜けていった。
水飛沫が俺の顔に降りかかり、そこを確かに通ったのだということを更に実感させられた。
「………………」
随分と肝が冷えた。
もしあのままだったならば、俺達はどうなっていたのだろうか?
想像するに難くない。
信号無視して直進してきた車にぶつかった結果など、目に見えている。
当たり所によっては放送禁止レベルにまで昇華することだろう。
「全く、酷い人ですね!」
そう言って見た先には、怒りをあらわにするメリーさんがいた。
珍しい、怒ったところを始めて見た気がする。
「…………えっと、あの………」
とっさの出来事に、思考回路が追いつかないでいる。
いや、思考自体は追いついているのだが現実を受け入れられないでいるのか。
脳の処理能力を超えたのか、ロクに言葉が出なかった。
「大丈夫ですか!?怪我は無いですか!?」
「…………ああ、はい…………大丈夫……です」
必死に絞りだした答えはたったそれだけ。
今の自分にできる精一杯が、その一言を告げることくらいしかなかった。
「よかった………」
心の底から安堵の表情を浮かべる彼女を見て、その判断は正しかったのだと実感する。
あの険しい顔も、まるで嘘みたいに今はその色を変えていた。
「って、服がずぶ濡れじゃないですか!」
「………あ」
流石に水飛沫まで避けることはできなかった。
いつもよりも重さを増していて、肌に張り付くような感触が実に気持ち悪い。
真横からまともに水をかぶったせいか、背面以外は乾いている部分を探すのが難しいくらいだ。
ただ、俺が壁になったおかげだろう、メリーさんの衣服は濡れることは無かった。
すっかり水を吸いつくした前髪から、水滴がポタリと濡れたアスファルトの上に跳ねていった。
それのおかげかは知らないが、ようやく体が頭に追いついてきた。
交通事故に巻き込まれる寸前だった、ということを。
「そのままだと風邪を引きますよ、どこかで衣服を着替えないと…………」
「あー…………そうですね」
だとしても、この場所にそういうところはあるのだろうか?
見渡す限りのビル街、無機質な建物がただただ立ち並んでいるだけの場所にあっただろうか?
そのような場所に、頭の地図の中に目印となるピンは立っているのか?
否。
俺の頭の中の地図には、それらしきピンは立っていない。
「………でも、そういうところありましたっけ?」
だが、それは俺の頭の中だけだ。
「……………」
メリーさんからタオルを受け取り、水分を吸いつくした髪に当ててわしゃわしゃと両手で拭き取りにかかる。
タオル程度では残念ながら、以前のような髪を取り戻すことは出来ない。
けれども、張り付いた髪を肌から引きはがすには実に最適だといえた。
「えっと、コーヒーです」
「ありがとうございます」
頭巾のようにタオルを被り、フードを被っているようにに真横は見えないようになっている。
その視点から見えたのは、湯気の立つ温かいコーヒー。
体の芯がすっかり冷え切っているような今には、その心遣いが有り難かった。
頭を下げるのだが、そこから見えるメリーさんの顔は少し赤く見えた。
…………どうしたのだろう、俺と同じく冷えたとでもいうのか?
「メリーさん………顔が赤い気がするんですが、大丈夫ですか?」
「あ………これは、えっと…………」
目線をそらして、困った顔というよりは恥ずかしそうな顔をするメリーさん。
その感想としては出来ればずっと見ていたい、と思っていたのだがそれでは話が進まない。
頭の中で推測した仮説をメリーさんに向けて打ち出そうとしたとき、先にメリーさんが口を開いた。
「男の人を、家に上げるのは始めてで……………」
「…………ちょっと、落ち着かないんです」
「………………………」
何を隠そう、今俺はメリーさんの家にいる。
といってもメリーさんは実家を離れての一人暮らしである、俺と同じだ。
大学と最寄り駅との間にアパートで住んでいるということで、ずぶ濡れになった俺をここまで招待してもらったわけである。
「…………ありがとう、ございます」
事故に巻き込まれそうになったところと、ずぶ濡れになっていたところを雨宿りさせて貰ったこと。
その前に傘を借りて一緒に帰ろうともしてくれたのだ、今日だけで三回も助けられている。
メリーさんに感謝するのは実に当然のこと、してもしたりないくらいに。
だから、きっとこれくらいじゃ足りないんだろうけど。
それでも言っておきたかったから。
「…………いえ、困っている人を助けるのは当たり前ですし」
そう言って、完全に俯いてしまったメリーさん。
俺のことが嫌いとか、別にそういうわけじゃない。
だって、耳まで真っ赤だから。
…………恥ずかしいのだ、きっと。
「…………それに、他の男の人だったら上げるつもりはありませんから」
聞かせるつもりなんてなかったのかもしれないけど。
掠れたような小さな声が、何故かやけにはっきり聞こえた。
それがマエリベリー・ハーンの本心だと気がつくのは、難しくなかった。
────────────────────────────────
メリーさんは、俺以外の男にこの家の敷居を跨がせたりはさせないと言った。
つまり、それは俺が特別ということで。
逆に考えれば、俺はこの敷居を跨げる唯一の男として認められたわけで。
メリーさんにそれだけ受け入れられている、ということだろう。
「…………………………」
冗談でそんなことを言う人だとは考えにくい、少なくとも気軽に嘘をつくような人間じゃないのだ。
となれば、それは本当ということになる。
マエリベリー・ハーンは、俺を認めているという式が成り立つのだ。
「えっと………………」
友人としてか、あるいは異性としてか。
今までの出会いから考えてみれば、恐らく後者だと思ってしまうのは当然だ。
『変な話なんですが、凄く落ち着くんです』
『長い間一緒にいたみたいに、始めてあったかのような気まずさがなかったんです』
『本当に不思議でした、私が今まで生きてきてそんなことを感じたのは初めてでした』
『まるで―――――――――』
その問いに対して、俺はあの夢の思いを重ねて告げたのだ。
あまりにも似すぎているから。
つい、言葉を重ねてしまったのだ。
『夫婦のように、ですか?』
真っ赤な顔でゆっくりと首を縦に振った彼女を見て、それは間違いじゃなかったんだと分かった。
けれど、その顔がどうしても夢の中の彼女と重なって見えた。
この感情がその夢で誰かに託された思いなのか、それともただの偶然なのか?
そうなればいいと勝手に生みだした、俺自身が作り出した願望なのか?
この思いの正体は、誰が生み出したものなんだ?
俺か?夢の中の彼女の片割れか?
メリーさんが、あまりにも妖怪の彼女に似ているからか?。
瓜二つなメリーさんに、勝手に幻影を重ねているだからだとでもいうのか?
自分のこの思いが、自分のものだと自信を持って答えられない。
だからこそ、メリーさんの気持ちに真正面から向き合えない。
メリーさんが羨ましい。
こうも素直に、気持ちをぶつけられることの出来る彼女が。
俺は嬉しいと思う、素敵な彼女に思いを寄せられていることが。
でもそれは本当に俺なのか?
"どこかで出会ったことのある"人物こそが、本当に彼女に思いを向けられる人物なんじゃないのか?
それが本当にいるのか、いないのかなんて分かりはしないけど。
メリーさんも、その人物に俺とを重ねているだけじゃないのか?
そうやって、人の思いを疑ってしまう俺が嫌いになりそうだった。
それが自分の本当の感情だとしても。
「………………コーヒー、飲まないんですか?」
「………………いえ、いただきます」
まだ俺は、答えを出せないままだ。
「………………はぁ」
結局、考えても答えは出なかった。
メリーさんの笑顔を思い浮かべる度に、心が満たされていくようだった。
その思いに嘘はつかない、つけるはずがないんだ。
「………ちくしょう」
早く見つけてくれ、誰か教えてくれ。
この思いの正体は、誰のものなんですかと。
「―――――――――――さーん、大丈夫ですかー?」
「あ、大丈夫ですー!」
俺を心配してか、メリーさんが呼びかけてくれた。
それもそうか、風呂場にこうも長くいれば誰でも心配になるだろう。
一人暮らしの女性の家に、男が長風呂なんて思うところの一つもありそうではある。
ふと水面に映った自分を見て思う。
眉間にしわを寄せて、いかつい顔をした男がいると。
なんて酷い顔だ。
メリーさんに会えるような顔じゃない。
「…………けれど、そんなことも言ってられないか」
血行が良くなりすぎたという身体の問題か、それとも行きたくないという精神の問題か。
すっかり重くなった体を引きずって、浴槽から去ることにした。
長く湯につかりすぎたせいか、すっかり温かみも失っていた。
廊下を繋ぐドアを開けば、湯気が廊下へとつきぬけていく。
正面を見た先には、脱衣所の籠の中に今日の俺の衣服が入っていた。
それを見て気がついた。
綺麗に折り畳まれていることに。
「………………」
ずぶ濡れのままはマズイということで、風呂を貸してくれるということだったのだが。
俺が持っているのはその時着ていた服のみ、替えなど無い。
当たり前だが、メリーさんの家に男が着れるような服など無い。
かなり無理をすれば着れないこともないが、お互いにとってそれはタブーだ。
となれば服を新しく買うという選択肢が生まれたが、そもそも金があれば今頃家についているのだ。
傘が無いからメリーさんに傘に入れて貰ったわけであり、今ここにもいない。
最後に生まれたのは、風呂にいる時間を利用して洗濯機と乾燥機を使って服を乾かすという手段だった。
お互いにそれに賛成し、無事に服を乾かせると喜んでいたのだが………。
洗濯機と乾燥機は別々なのだ、つまり洗濯が完了した衣類をすべて乾燥機に入れる必要がある。
異性の衣類を成り行きとはいえ触ることになるのだ。
よくもまあ、勇気を出して頑張っていただいたとメリーさんに賞状でも送りたい。
そしてその上で、乾燥機から俺の衣類を引きだして畳んだということだ。
「………きっと、いいお嫁さんになるんだろうな」
なんとなく、そんな言葉が浮かんだ。
割と、いやかなり抵抗があることだったろうに、何も言わないで気を使えるメリーさんに感謝したい。
それでかつ美人、金髪碧眼と女性としての魅力は充分すぎるほどにある。
嫁の貰い手がこぞって争うほどだろう、競争率はかなり高そうだ。
…………にもかかわらず、どうしてかメリーさんの周りにあまり寄る人はいない。
どうしてだろうか、あんなにも優しい人なのに。
そんなことを考えつつ、シャツのボタンを止めて脱衣所を後にする。
リビングもとい唯一の部屋の扉を開けば、ベッドの上に座り込んでいたメリーさんがいた。
「長風呂でしたね」
「すいません、つい考え事をしてしまって」
そう言って、メリーさんから少し離れた場所に座りこむ。
先ほどから聞こえてくる音に耳を傾け、首をその方向に動かした。
液晶パネルに映し出されていたのは、一人の男と女が縁側の下で寄り添うシーンだった。
「メリーさん、これは………」
「レンタルショップで借りたんですよ、まだ続きだったので見ていたんです」
そう告げてから、再びメリーさんは画面に視点を戻した。
真剣な眼差しから察するに、かなりこの映像に見入っていたのだろう。
テーブルの上に置かれたレンタル用の返却袋のレシートには、恐らくこの映像のタイトルであろう印字がされていた。
ああ、なるほど。
数年前に大ヒットした、有名な恋愛映画だった。
不思議な世界に迷い込んだ男が、その世界で重要な役割を担う女の子と出会うというお話だ。
『ねぇ、本当に行っちゃうの?』
『………俺の世界は、ここじゃないから』
『みんな待ってるんだ、何も言わずここに来てしまったのだから』
『あるべき場所に帰らなきゃいけないんだ、俺はここの住人じゃないから』
このシーンを昔の記憶と照らし合わせてみれば、確かそろそろクライマックスに近付く頃だったと思う。
かつての世界に戻るか、この世界に居続けるか。
その重要な選択を必死に悩み続けた男が、女の子に打ち明けるというワンシーン。
『………そう』
それだけを返して、あとは何も返さない女の子。
けれどもその内心は悲しいのだ、本音を簡単に見せない彼女だから。
つい、好きな人の前でこんなにも重要なことを言われても素っ気ない返事をしてしまう。
そんな女の子を見てか、その内心を知ることの無い男はそれを額面通りに受け取る。
元の世界に帰ることについて、別に引きとめる必要もないのだと。
『………じゃあ、もう行くから』
『………うん』
振り返ることなく、向こう側へと男は歩んでいく。
絶対に振り返らなかった。
大好きな彼女の泣き顔を、見たくはないから。
互いを思っているのに、その思いは交わることは無く。
男は向こう側へと消えていった。
女の子は、男が唯一プレゼントしてくれた髪飾りを握りしめたまま。
ただ、見送るだけだった。
「………好きなら好きと、はっきり言えないんですね」
「え?」
映画に見入っていたら、唐突にメリーさんが話しだした。
少しだけ頭の理解が追いつかなかったが、言葉を頭の中で反芻するうちに理解する。
素直になれない、あの女の子のことだと。
「素直になれない、それが一番苦しいことだって分かっているのに」
「………どうしてなんでしょうか」
あの画面の向こう側に向けられた言葉だと分かっているのに。
それがどうしても、俺自身に向けられた言葉だとしか思えなくて。
早く答えを言って欲しいと、そう聞こえた気がして。
「怖いんですよ」
「他人の気持ちが見えないから、何を考えているのかが分からないから」
「受け入れてもらえないかもしれない、見えない先が恐ろしくて堪らないんでしょう」
けれど俺は、あえてそれを聞かなかったことにした。
自分の気持ちを理解できていないにも関わらず、そんなことが言えるわけがないんだ。
「私は」
「それでも、大事なことは伝えておきたいんです」
「…………メリー、さん?」
いつもとは違う、やけに真剣な口調。
振り向いたその先に、なぜかメリーさんの顔が目の前にあった。
鮮やかな碧眼の瞳には、俺の顔が映り込んでいて。
あと少しだけ、あと少しだけ近づけば唇が触れ合いそうな距離。
気がつかないうちに、いつしかそこまで近寄られていた。
ふわりと、メリーさんの使っているあのシャンプーの香りが鼻を突き抜けていったと思ったその時。
彼女に押し倒されている、それがようやく気がついた。
「…………え?」
知らない天井がいっぱいに広がるその中心に、顔を真っ赤にしたメリーさんがいた。
それといったらもう耳まで真っ赤で、メリーさん白い肌が一瞬にして姿を変えたようだった。
両肩に両手を当てられて、ぐっとベッドに押しつけられている。
俺は、その行動に何も反応できないままでいた。
「………」
メリーさんもそれ以上は何もしない、何も言わない。
それ以外は、メリーさんの意思表示はなかった。
じっと、こちらを見つめたまま動かないで。
好きな人の顔が、すぐ目の前にあるという夢のような時間。
それは一瞬のようであり、永遠のようにも感じられる時間だった。
「何も」
「何も、しないんですね」
そして、それはメリーさんの手によって呼び戻される。
まるで仮面をつけたような表情のまま、抑揚の無い声で俺に向けて問いかけた。
「どうして、何も言ってくれないんですか?」
「こんなことをされても、何も思わないんですか?」
その問いかけに対して、思うことなどいくらでもある。
言いたいことだってたくさんあるんだ。
ただ、言えないだけで。
「メリーさんは、冗談でこんなことをする人じゃないってことくらいは分かってるつもりです」
「この行動が何に基づいてやったのかくらいは、馬鹿な俺だって理解できます」
「…………………」
以前と変わらず、じっとこちらを見続けているメリーさん。
でも違うのは、その瞳の奥が揺らいでいるように見えたこと。
ただただ、両肩に当てられた両手がカタカタと震えていて。
ギュっと少しだけ両手に力が込められたことを肌で感じ取った。
「でもその前に一つだけ聞かせてください」
「――――――――それは、本当に俺に向けられたものなんですか?」
そう問いかけたとき、世界が揺れた。
パーンと小気味のよい音とともに、一瞬で視界が切り替わる。
天井は消え、メリーさんは消え、ずっと向こう側に壁がある風景へと移り変わる。
少しだけ時間が経ってから分かる、左頬が少し熱を持っていることに。
再び正面に首を戻せば、メリーさんの片手の甲がこちらを向いていた。
そう、俺はぶたれたのだ。
「馬鹿にしないで!!」
今日二度目の怒り。
車に轢かれそうになった一回目、そして彼女にこうして押し倒されてからの二回目。
「自分の気持ちくらい、自分で分かってる!」
一回目は純粋な怒りだったのに対し、今はそれとは違う。
別の感情が入り混じった、何かを付け加えれば別のものに変わってしまいそうな怒り。
「私は」
「私はっ………………」
既にもう変わりつつある。
一滴、また一滴と真上から降り注ぐのは雨粒じゃない。
メリーさんの涙、それが俺の顔を打ち続ける。
それが、俺の心に響くようで。
硝子のように一つ、また一つとヒビが入っていく。
「あなたのことが、好きなのっ!!」
押しとどめていた心の硝子が。
ガシャン、と弾け飛んだ。
「……………っ!」
もう何も言うでもなく、強引に両手を振り解いてメリーさんを抱きしめた。
それに驚いたようだったけど気にしない、お構いなしでこちら側に引きこんだ。
向かい合わせになり、すぐ真横にメリーさんの後ろ頭が見えた。
お互いの顔が見えないまま、俺は俺の思いを伝える。
「俺も」
「メリーさんが………メリーが好きだ」
密接していなければ聞こえないくらいの声量で、そう呟いた。
たったそれだけ。
たったそれだけだけど。
「………うん」
ちゃんと答えは返ってきた。
だから、これでいいんだ。
もういいんだ、自分に嘘をつくのは、迷うのはもうやめよう。
いいじゃないか、自分に素直に向き合おう。
間違いだったとしても、その時は二人で考えればいい。
メリーさん………………いや、メリーが好きだということに。
始まりがどうであったとしても、行きつく先は俺達が決めるんだから。
───────────────────────────────────
真っ暗な闇の中、俺はベッドの上にいる。
仰向けでもなくうつ伏せでもなく、体を横にしてその上にいる。
そうでもしないと、ベッドの上にはいられないからだ。
「…………寝ちゃった?」
「………いや、まだ」
俺の背中の向こう側にいるのは、他でもないメリー。
約十時間前ほどだろうか、俺とメリーはその時もこの場所にいた。
やっとのことで告白して、その後はなんやかんやで結局日は暮れていった。
雨脚は相変わらずだったのだが、これ以上いるのも正直申し訳ないような気がして。
そろそろお暇しようかと思っていたのだが………。
『………泊まって、いかない?』
そう言われては首を縦に振る以外に無い。
あれよあれよといううちに、いつの間にか月が高く昇る時間にまで辿りついてしまったのだ。
消灯したのが日付が変わる一時間前程、時計を見ていないから分からないが、もうすぐ明日がやってくる頃だろう。
外のベランダから見える窓を見れば、すっかり雨もやみ始めているようだった。
月明かりこそ雲に隠れて見えないが、いつもと変わらない夜があるのだろう。
「………」
この状況を除いては。
一人が寝るように設計されたこのベッドの上で、男女に二人で背中合わせに寝ることがいつもと変わらないわけがない。
体を反転させれば、すぐ近くにメリーがいるのだ。
先手を打つことだっていくらでも出来る、ある意味チャンスでもある。
今まで生きてきた仲でこんなことはなかった、というか想像もしたことが無かった。
…………仕方ないじゃないか。
客人を床で寝かせるわけにはいかない、と断固として反対されたのだから。
結構頑固なところがあるのだと、またひとつ彼女を知った。
「寝られない?」
「いろいろありすぎたから………それもあると思う」
今日一日を振り返ると実に濃密な一日だったと実感する。
大雨で大学は途中で休講、傘を忘れた俺が困っているとメリーがやってきて一緒に帰ろうと提案、それを承諾。
帰る途中で車に轢かれそうになったところを助けてもらってかつ、メリーの家で雨宿り。
風呂を借りている途中で、同時に服の洗濯と乾燥をしてもらった。
映画を見ている途中で押し倒され、頬を打たれ、思いを伝えられ。
思いを伝え返して、やっと言いたいことが言えた。
………その後はなんというか、うん。
多くは語るまい。
「私も、いろいろありすぎて……」
「寝るに寝れないの」
「お互い様、か」
そうね、とクスクスと笑い声が聞こえてきた。
その声を聞いて、ようやくいつもが戻ってきたような気分になるけれど。
違うんだ、今までの昨日とこれからの今日じゃ大違いなんだ。
重要な一つが、何よりも大切な一つが、俺を変えた最も価値のある一つが。
決定的な差異があるんだから。
「………今日も、もう終わりね」
「ああ、そうだな」
騒がしい今日はもう終わる、次はどんな明日があるのだろう。
それはきっと、明日になれば分かるはずだから。
今までとは違った関係で、メリーの隣にいれる景色があるはずだから。
「………なあ、メリー」
「何?」
じゃあその一歩を今、踏み出しに行こう。
迷いは捨てた、あとは勇気を持っていくだけ。
「今度の週末、一緒に遊ばないか?」
「………それって」
「まだ何も考えてないけどさ、メリーと休日を過ごしてみたいんだ」
「駄目かな?」
「………駄目なわけ、ないじゃない」
思わずガッツポーズを作りたくなったが、この狭い空間ではそれは自重した。
そうでなくとも多分メリーにバレるだろう、間違いなく。
きっとクスクスと笑われるのだ…………それも悪くは無いけど。
「ふふ、その日が楽しみね」
「………俺もだ」
「まず何をしようかしら?」
「じゃあ――――――――」
気分は最高潮。
結局俺はハイテンションのまま、二人で夜を明かした。
………次の日の大学のすべての授業を、睡眠学習で過ごしたのは秘密だ。
で。
「その日がやってきましたよ……っと」
大学の最寄り駅の近くで待ち合わせると約束したのが、ギリギリ数十時間前。
時計の針は、もうすぐ長針と短針が一致する時間になりつつあった。
約束の時間までは百秒を切った、さてどうなるか。
電車のドアが開いたと同時にダッシュ、改札をICカードで突破、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
地下から這い上がって光の差す向こう側には、まるで波の如くそれぞれの場所へと向かう人々がいた。
「…………いない………かな?」
目を皿にして見てみるが、思い人はどうやら見つからないみたいだ。
あれだけ目立つ容姿をしているのだ、すぐにでも分かりそうなものだけど。
頭を動かしながら、せわしなく目をあちらこちらへと見て、どこかへ向かう人々を眺めていると。
「ん?」
誰かに肩を叩かれた。
ポン、とそれほど強い力でもなく、むしろ優しく肩に手を当てられた。
まさかとは思いつつも、期待に胸膨らませて振り返ってみる。
「ふふ、私を探してた?」
「………そうだよ」
メリーがクスクスとこちらを向いて笑っていた。
それを見て察するに俺より早くここに来ていて、後から来た俺を観察していたのだろうか。
随分趣味の悪いことだけど、まあ仕方ないと一人納得する。
…………遅刻しそうになったのは、俺なんだから。
間に合ったからという安心感からか、すっかり油断していたのか。
あるいは間に合わせることだけを考えていたから忘れていただけなのか。
ぐぅ、と俺の腹の虫が鳴り響いた。
飯を食わせろと、盛大に駅前で勝手にアピールしていた。
当たり前と言えば当たり前なんだが、遅刻しそうになっていながら飯を食べる時間などありはしない。
普通の人間ならば起こりうる、ごくごく普通の反応だった。
「何も食べていないの?」
「………昨日から何も」
思い返せば昨日もかなり杜撰な食事をしていたと思う。
そもそも金が無いので、当たり前と言えば当たり前だったのだけど。
だが今日は違う、あの時のように傘を買う金を惜しむ必要ももうないのだ。
久しぶりに一番高い紙幣を手にしたのだ、三枚も。
………口座から引かれた残金を見て泣きそうになったのは、ここだけの秘密だ。
そうやって減っていく金について考えていたら、またしてもぐぅと腹の音が鳴った。
先ほどよりももっと大きく、盛大に。
けれどその発信源は俺じゃない、近いけれど違う。
その場所をじっと見てみれば、音を鳴らしたご本人が恥ずかしそうにしていた。
「………こ、これはねっ!」
必死になって言い訳をしようとしているが、もう何もかも遅いというか無理な気がする。
ばっちり聞いてしまったのだ、もう聞こえませんでしたでは済まされない。
むしろそうやって必死になればなるほど、自分で墓穴を掘っているということに気が付いているのだろうか?
………無理だろう、人間焦ると周りが見えなくなるのと同じことだろうし。
仕方がないので、俺は助け船という名の提案をメリーに問いかけた。
「………何か、食べに行くか?」
「………うん」
俺の提案は、無事全員可決という形に決まり。
今日初めての行動は食事という、欲求に素直な形でスタートした。
辿り着いたのは、駅から少し離れた場所にある喫茶店だった。
俺はこの付近に住んでいるわけではないので、地形などよく分からない。
となればここの近辺に住んでいるメリーを頼るのは当然のことであり、あとはノコノコとついていくだけだ。
実際のところは、二人並んで歩いていたからその表現には語弊があるんだけど。
「では、ご注文がお決まりでしたらお呼びください」
お盆に載せられたお冷と共に、メニュー表を受け取った後にお決まりの言葉を耳にする。
適当に頭を下げて、貰ったメニュー表を広げてみた。
ずらりと並んだ文字の羅列と共に、いくつかのメニューが写真で載せられていた。
それを見て思う。
「随分と品揃えがいいんだな」
コーヒーやトースト、ケーキ類はもちろんのこと。
軽食や定食まで取り揃えているという万能っぷりったらない。
「ええ、値段も手ごろで学生にはありがたい場所よ」
確かにそう言われれば、値段もかなり良心的である。
いつもよりお金を持っているとはいえ、無駄遣い出来るほど裕福ではないこの状況ではかなりありがたい。
学生が自由に使える金などあまりないのだ、例えどれだけ年を重ねようとも。
ということで、とりあえず目に付いた定食を一つ頼むことにした。
「…………」
貰ったうちの一つのメニュー表をテーブルの一角に押しやったが、未だメリーは決めかねている。
真剣な眼差しで選んでいるが、時折「カロリーが」「これ新作……」「でも食べたいのに」などという独り言が聞こえる。
あれこれと悩むあたり、俺とは違ってお金ではなく女性にとって重要な問題と立ち向かっているのだろう。
光が差す窓の方向を見てみれば、陽炎が出ているなかで歩き続けているサラリーマンの姿があった。
いずれ、俺もああやって社会の歯車へと組み込まれていくのだろう。
いつか訪れる未来、俺はどうなっているんだろう?
そして、目の前の彼女もどうなっているんだろう?
あの夢の中にいた妖怪の女性に、より近付くんだろうか。
「あ、すいませーん!注文お願いしまーす!」
「はーい、ただいまー!」
気がつけば、メリーが注文の品をようやく決めたらしく店員を呼んでいるところだった。
すかさずメリーの後に続いて注文の品を告げ、またしても決まり文句を聞いて去っていった。
「メリーは、この店によく来るのか?」
さきほどから疑問に思っていたことを、素直にメリーにぶつけてみた。
なんというか、ここに入ってからの仕草が二度、三度入ったようなものじゃない気がするのだ。
それに先ほど耳にした新作という言葉を聞いたが、メニュー表のそれにはどこにもそんな記載はなかった。
となれば、恐らくそうなのかもしれないと頭の中で結論を打ち出す前に。
「そうね、混雑することもあまりないし」
「あまり知られていないのか学生もあまり来ないわ、こうやって落ち着くにはいい場所ね」
「私にとっては特別な場所、心休まる場所ね」
なるほど。
古めかしい雰囲気でありながら、静まり返った雰囲気は確かに落ち着くには最適だ。
かといって客が全くいないわけではなく、ちらほらといくつかの席に座っている人はいる。
知る人ぞ知る、そういう場所なんだろうか。
「誰かを連れて、こういう場所に来ることはないのか?」
「例えば、友達とか」
何気ない疑問。
頭の中で思いついた、ごくごく普通の質問。
「………いいえ、一人で来るだけね」
その質問に対して、帰ってきた答えもごくごく普通。
だけどその返答に対して、俺は疑問を抱いた。
――――――――――――ならどうして、そんなにも悲しそうな目をするんだと。
その時に目に焼けついたメリーの顔が忘れられなくて。
深く、深く。
心の中に刻み込んだ。
「それにね、別にその必要もないわ」
さらに続けて、メリーはその理由を話し出した。
もうあの悲しげな瞳はない、始めからなかったかのように。
「どうしてだよ?」
その理由を問いかけたのは、その答えが欲しかったから。
いや、あるいはもう分かっていたのかもしれない。
けれど、聞かずにはいられなかったから。
「私にとって、あなたは特別だもの」
「特別な場所に、特別な人を呼ぶのは当然でしょ?」
至極最もな答えだ。
マエリベリー・ハーンにとって、俺は特別だということか。
自分だけしか知らない場所に、特別に御招待されるということはもう体験済みだけど。
でもやっぱり、そう言われると嬉しいものがあるのは確かだ。
俺は、他の大多数の人間とは違う価値を持っていると言われたのだから。
「あ、赤くなった」
「うっせ」
でも、先ほどの疑問は絶対に頭の中から消えたりはしなかった。
─────────────────────────────────────
メリーと食事を取った後、駅から四つほど離れた繁華街へと飛び出た。
百貨店や専門店が立ち並ぶこの場所は、外に出歩く人がいなくなることはまずない。
今日が休日ということもある。
俺たちのように男女が並んで歩いている光景も、ごく当たり前のようにいくつか見受けられた。
人で賑わうその中で、俺達もその一つに溶け込んでいるようだった。
………そいつらから見れば、俺とメリーもそう見えるんだろうか。
並んで歩くメリーを、ふと横目で見てみる。
「………どうしたの?」
「………いや」
タイミング良くメリーと目線が触れ合う。
染髪料では絶対に出すことに出来ない、艶のある金髪。
透き通った鼻と、程良い形に整えられた唇。
そして何よりも、あの碧眼に吸い込まれそうになるけれど。
なんとなく悔しかったので、負けじとじっと見つめ返した。
「………」
「………」
見つめ合う。
歩く動作はそのままに、前を見るのではなく。
じっと、メリーを見つめた。
「………」
「………」
「………あんまり………見つめないで」
先に目線を逸らしたのはメリーで、最後まで見つめ続けたのは俺だ。
勝った。
何に勝ったのかは知らないけど。
早々に白旗を上げたメリーは、少しだけ赤みが増しているような気がした。
「………もう、急にどうしたの?」
「………いや、なんとなくメリーを見たくなった」
その行動に特に意味は無い、ただメリーを見たくなった。
それだけ、たったそれだけだ。
自分の思うがまま、感じたままをそのまま行動に移しただけに過ぎない。
だから、メリーの次の言葉の意味が分からなかった。
「………私の目を見て、気持ち悪いとは思わないの?」
「どうしてだよ?」
何故そんな事を聞くのか、本当に意味が分からない。
それを見て心底不思議そうに見るメリーだけど、俺から見ればメリーこそ心底不思議だった。
だって、こんなにも。
「綺麗な目をしてるじゃないか、どこが気持ち悪いんだ?」
素直な自分の気持ちを打ち返した。
条件反射のように、特に考える必要もなく口から言葉が漏れた。
俺にとっては何気ないことだけど。
それがメリーにとって、大切な言葉だと気がつくのはかなり後になってからだった。
「………やっぱり、あなたでよかった」
そして、その言葉の隠された意味でさえも。
今は気がつくことがなかった。
人混みを抜け、何を言うでも決めるでもなくショッピングモールへと辿り着いていた。
考えることは一致していたのだろうか、それともメリーが俺に合わせてくれたんだろうか。
前者にしろ後者にしろ、こうやって意見や考えが分かれることなく決まるのはいいことだと思う。
そうしているうちにいつの間にか、知らない店の扉の前にまで来ていた。
メリーの後に続いて入った扉の先には、煌びやかな金属類が所狭しと並んでいる。
ピアスやイヤリング、ネックレスやペンダント。
それらが視界いっぱいに広がっていた。
「アクセサリーショップか………」
「あんまり、こういう場所に入ったことは無い?」
「男一人では入る機会もそうそう無いな」
というよりも、こういう場所には女性が一人で来るような場所な気がする。
そこに男一人で来店するのは、かなり勇気がいるというか。
好き好んであまり行こうとは思わないだろう。
「あ、これいいわね」
いくつかの開いたショーケースの内、その中の一つをメリーは手に取った。
天井から照らされたライトに反射され、手の中に輝いていたのはネックレスだった。
なんとなく、だけど。
メリーによく似合うんじゃないかと、一目見て思った。
「これも中々ね………」
かと思えば、次にターゲットを絞って物品を次々に漁るかのようにするメリー。
これでもない、あれでもないと悪戦苦闘している姿は、あの喫茶店を思い浮かべるには充分だった。
まるで子供のように目をキラキラさせながら、実に楽しそうにしている。
こんなメリーは見たことが無い、今までといえば落ち着いた雰囲気や態度を取っていたのだ。
こうも様変わりするとはと、俺はまた知らないメリーの一面を知った気分になる。
「あ、ごめんなさい………勝手にはしゃいじゃって………」
「気にしないでくれ、楽しそうな所に水を差すのも悪いからな」
申し訳なさそうな顔をするメリーをフォローするが、その言葉も本心だ。
気分よくしているところに、余計な茶々を入れるほど俺も子供ではない。
それに何より、見ていて微笑ましい気分になるのだ。
いつもメリーに「しょうがないわねぇ」と言われる姿を見られたりする中、逆にそういうメリーを見られることは実に貴重だからだ。
立場が逆転するというこの状況が、普段とは違って新鮮に思えた。
「それより、何かいいものは見つかったか?」
「うん………これなんだけど」
そう言って見せたのは、最初に見せたあのネックレスだった。
俺と考えていることは同じだったらしい、いくつかの選択肢の中で一番良いと思ったのがこれだ。
「…………結構いい値段するな」
「ええ、簡単には決められないわね」
値札を見てみれば、買えないわけでもないわけでもないが………。
買ってしまったあとを考えれば、財布の中身がより寂しくなりそうでもあった。
そういう金額だとでも言えばいいだろうか。
「買った方がいいんじゃないか?次にはもうないかもしれないし」
「………でもね、あんまり手持ちもないから」
そう言って、少し残念そうな顔をするメリー。
しょんぼりとした雰囲気が、隣でもひしひしと伝わってくる。
………それならば。
「買ってやろうか?」
「………えっ、でも………」
「記念だと思ってくれ、それにさ」
「そんな目で見てたら買ってあげたくなるじゃないか」
お預けを食らった子犬のような目で、そのお預けをじっと見ていた。
それを横目で見ていれば、ついついてこ入れをしたくなってしまうのは仕方の無いことだと思う。
何より本人が気に入っているのだ。
男としては、買ってあげたプレゼントを彼女が身につけてくれるということが嬉しかったりもするのだ。
実に単純な生物である、まさしく俺のことだ。
「………でも全部出して貰うのは………」
確かにかなりの痛手であることには変わりはないが。
それでも、メリーが喜んでくれるのなら安いものだと思う。
「素直に受け取っておいてくれ、ちょっとはカッコつけたいんだよ」
情けない姿ばかり見せているのだ、少しばかりは挽回しておきたい。
一生追いつけはしないだろうけど、ちょっとでも横で胸を張れる男にはなりたいのだ。
そんな思惑も兼ねた、メリーに対しての初めてのプレゼントをしてあげたいから。
そのまま後は何も言わないで、早々にレジへと向かった。
「14800円になります」
さらば諭吉………あとは誰だっけ?
財布から一番高い紙幣を一枚と、その次点の紙幣を一枚を受け皿へと入れた。
レシートと共に硬貨を受け取り、袋はいらないと意思表示してお目当ての商品を受け取る。
現時点での財布の約半分が消し飛んだが、後悔は無い。
「………本当にいいの?」
「いいと言わなければ、こいつは渡さないよ」
右手でネックレスを見せびらかすように見せつけた。
俯いて迷ったような仕草をして、何度か悩むようにした後に。
「………うん、いいよ」
その両手に、ネックレスをを乗せた。
「今、つけてみるわね」
後ろ髪を上げて、すぐさまネックレスをつけようとするメリー。
首を少し前に傾けて、プレートと引き金を合わせた。
手慣れているのだろうか、特に問題もなく付け合わせが完了した。
「どう、かな?」
荒削りのようでいて、その実シンプルな気品のある輝きを放つ石と。
銀色の止め具と、それと同じ色のチェーンで構成されているそのネックレスには。
笑う彼女にとてもよく似合っていた。
「よく似合ってるよ」
「………ありがとう」
プレゼントしてあげてよかったと、心の底からそう思った。
その後もいくつかの店を見て回り、休憩を挟みつつ楽しんだ。
今日だけでもメリーの笑顔をたくさん見ることが出来た、知らない一面も知ることが出来た。
でもそんな楽しい時間もいつかは終わりが来る。
青々としていた空もいつしか赤くなり始めて、人も少しずつまばらになっていた。
そんな中を、メリーと二人で仲良く歩いていた。
うず高く建てられた百貨店の向こう側から、オレンジ色に輝く太陽を見つめる。
夕焼け色に変わった空を見て、もうすぐこの時間も終わるのだと知らせてくれているような気がした。
また明日と、地平線の彼方へ姿を隠して消えゆくのだろう。
「…………」
「…………」
互いに言葉は無い。
別に話題が尽きたとか、機嫌が悪いとかそういうことじゃない。
会話が無くてもいいのだ、無理に話す必要もない。
言いたいときに言う。
こうなる前もそうだったし、きっとこれからもそうだろう。
あえてその場その場で自分を偽る必要もないし、関係が変わったからと言ってすぐには変わらない。
そうでなくとも、俺はこの空気が好きだから。
メリーと一緒にいる、この何気ない雰囲気がいいと思っているから。
「今日は楽しかったわ」
「俺もだ」
ふふ、とメリーの笑い声が漏れたと同時に、つられて俺も笑う。
あの日の夜に勇気を出して誘った結果がこれならば、実に満足な結果といえるだろうか。
何しろ初めてなのだ、少し緊張もあったけれど。
それでも、なんだかんだ上手くやれていたとは思う。
当初の予定では終わる時間は決めていないかった、一人暮らしの大学生には門限などないのだ。
だからここまま居続けることは出来るけれど、明日はいつも通りの日常がやってくる。
それを考えれば、あまり長居も出来そうにはなかった。
「………でも、今日ももうすぐ終わっちゃうのね」
「日も沈む、あと少しすれば月も昇り始めるだろうな」
実際のところ、太陽もその姿を半分ほど隠し始めている。
汚れたこの街の空じゃ見えないけれど、星だって出始めてもおかしくない。
きっとあの場所ならば、綺麗に見えることだろうけど。
「今日は、これで終わりにしましょうか」
「そうだな、また明日もある」
これで終わりじゃないんだ、また明日も続くんだ。
次に希望が持てるならば、終わることに対して悲しさは湧いてこないから。
そう思えば、少しは辛くはない。
「電車、一緒には帰れないわね」
「進行方向が逆だからな、どうしようもない」
そう話しているうちに、いつしか駅が見えてくる。
あとどれだけの距離を、メリーと一緒にいることができるのだろうと。
駅に入り、改札を通り抜けたらもう後は別れるしかない。
ほら、今みたいに階段を降りれば、もうすぐそこまで来ているんだ。
「同じだったらよかったのに………」
「そう言うな、また明日も会えるだろ?」
改札をICカードで潜り抜ければ、もうお別れだ。
向こう側に行ってしまえば会えないのだ、これが最後。
「………じゃあ、ね」
「おう、さようなら………メリー」
何時間も今日を共にした女の子に向かって、対面最後の言葉を投げかけた。
名残惜しむように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
今日最大のイベントが、これにて終了した。
はずだった。
「待って」
そう言われて、振り返ったその瞬間に。
「……………」
「え?」
頬に、何か温かいものが押しつけられた。
それを実感した瞬間に、スッと離れていく何か。
「…………今日のお礼、よ」
「………また明日っ!」
手で頬を撫でているうちに、いつの間にかメリーは消えていて。
呆然と立ち尽くす俺だけが、一人残っていた。
「また明日、か」
「あら、大胆ね」
いや、違う。
俺以外に、もう一人いる。
──────────────────────────────────────
駅の改札を抜けた先、さらに進むと二方向へと分かれる分岐点に俺は立っている。
でも俺はどちらにも行くことは無い。
メリーを見送ってから、未だ俺は動かないままそこにいる。
振り返れば、いつか夢見ていたあの人がいるんだから。
迷うことなく振り向いた。
「…………」
目の前に、あの妖怪の彼女がいた。
「始めまして………いえ、二度目でいいのかしら?」
「………そうですね、こうして話すのは初めてでしょうけど」
見れば見るほど、よりメリーに似ているというか。
もう少しだけ大人びた、きっと未来はこうなっているであろうというメリーが目の前にいた。
けれど、それはメリーじゃない。
俺の知っているメリーじゃ、ない。
「そうね、夢の中で出会ってからかしら?」
「………最近は、全く別の人が出てくるんですけどね」
隣に住む黒い帽子を被った、黒髪短髪の活発な少女。
最後に見たのは、名前さえ知らないあの女の子が、俺とよく似た誰かと東京へ向かうところだった。
やっと結ばれたかと、今までの経緯を見ていて思った。
けれど、最後まで逃げることなく自分の気持ちと向き合った"誰かさん"には、労いの言葉をかけてやりたいと思った。
だから「お幸せに」と、最後に一言添えさせてもらった。
「蓮子のことかしら?」
「………誰でしょうね、俺は名前も知りませんし」
あの女の子が、「蓮子」という名前なのかは分からない。
どちらにせよこの現実には見たこともない、聞いたこともない人だ。
向こう側ではメリーもいたけど、どうもこっちとは訳が違うみたいだし。
………こっちのマエリベリー・ハーンは、人間なんだから。
「まあいいわ、本題に入りましょうか」
「私がここに来たのは、あなたに伝えたいことがあって来たの」
「きっと、貴方も知りたいはずよ」
クスリ、と笑うその仕草がよりメリーと重なって見える。
ますます怪しさを醸し出すかのようだったけれど、俺は不思議とそうは思わなかった。
むしろ、何故か安心していた。
俺の知っているメリーと、同じ仕草をしていたからだろうか。
あるいは、その先の言葉を知りたいと願っていただからなのだろうか。
「マエリベリー・ハーンも、あなたと同じ夢を見ている」
「メリーは私、彼はあなたといった立ち位置かしら?」
「………」
それを聞いて、あまり驚かないでいた。
なんとなく予想していたことでもあったし、まさかとは思いつつもその可能性を消し去ることはできなかった。
けれど、これでやっとそれが証明できる。
三度目に聞いたあの言葉の意味は、これで何もかも説明がつく。
夫婦のような距離間を感じたことも、きっとそのせいだから。
何よりも、目の前に彼女がいることが証明になっているんだから。
「なぜ、そんな夢を見るのか」
「それについてだけど、それは私が見せたからよ」
「………どうして、ですか?」
なぜ、そんなものを見せる必要があったのか。
誰とも知れない、あの夢を見せる意味はなんなのか。
ずっと悩み続けたそれが、今聞けるのならば。
聞いておきたいと思う。
例え、それがどんな結果になろうとも。
「その前に、マエリベリー・ハーンについて説明しなくてはならないわね」
「あなた、あの子について何か知っているでしょう?」
「………ええ」
何もかもお見通しということだろうか。
知っている?ではなく知っているでしょう?と、既に知っていることが前提条件で話が進んでいる。
人より遥かに強大な力を持ち、伊達に長く生きた妖怪ではないということか。
「何か言った?」
「いえ、何も」
勘が鋭いのも確からしい、どうやら下手に思わない方がよさそうだった。
何されても文句は言えない、彼女が上なんだから。
「なら話は早いわね、手短に説明するわよ」
「あの子はね、今まで友達が一人もいなかったのよ」
「それどころか、ずっと孤独だったの」
「え?」
あまりに意外な言葉に、脳の思考が停止しかけた。
意味が分からない、どうしてあんなにも優しい彼女に友達がいないというのか。
そりゃ、女同士の嫉妬はあるかもしれないけど。
それでも、一人くらいは声をかけてくれる人間がいてもおかしくはないはずだ。
どうしてそうなったのか、訳が分からないままだった。
「あの子は生まれつき人とは違っていた、人には見えざるモノが見えてしまう力を持っていたの」
「それが本人にとって当たり前であっても、他から見れば酷く気味の悪いものに見えてしまうのは当たり前」
「そうなれば、周りを取り巻く人達はどうするかなんて一つしかないわ」
「排斥され、ずっと一人でここまで来たとでも?」
「誰にも好かれず、誰にも求められることも、認められることもなく?」
神妙な面持ちで首を縦に振った彼女を見て、嘘じゃないんだとより説得力を持たせた。
そうか、それならば自分の目を嫌っていることにも説明がつく。
気持ち悪いと、そう思ってしまうことも自然と成り立ってしまう。
やっぱり、あなたでよかったというあの言葉も。
嫌いな自分を受け入れてくれる、そんな俺に対して向けられた言葉だったのか。
「そして、あなたに初めて出会って席を譲ってもらった」
「あなたにとってはそうも珍しくないことなのかもしれない、けれどあの子にとっては初めて優しくしてくれた人間」
「ちょっと優しくしてくれた、本当に何気ないことだろうけど」
「小さな優しさが、あの子にとっては何よりも大切なことだったのよ」
「それが、全部始まりだった?」
もう一度、同じように首を振る彼女。
ちょっと優しくされただけ、でもそれが何よりも大事だった。
きっとメリーの人生の中で、それこそ今までの価値感を打ち砕くような変化だったのかもしれない。
まだ話は終わらない、さらに続けて言葉を紡いだ。
「ちょっとだけでもあの人にお礼が出来たらいいと、そう思ったけれど勇気が出なかった」
「でも嫌われるかもしれないという、今までの積み重ねがそれを邪魔していた」
「だから、ちょっとだけ夢を見させてあげたの」
「私と彼の、一番大切な思い出を」
「そして、それと同時にあなたにも見せた」
「二人が、お互いを惹きあうように私が仕向けた」
「あの子が、勇気を持って立ち向かえるように」
………まさか、そんなことがあったなんて。
あの夢の意味は、価値は、そこにあったのか。
全部、メリーが一歩前に進むために。
臆病な彼女が、生まれ変わるその時のために。
「でもあなたが予想外に悩んでしまって、結局あの子の思いは報われぬままでいた」
「だから、あの子にはもう一つだけ違う夢を見させて危機感を煽った」
「いつか急に知らない誰かが、あなたの隣に現れるかもしれないって」
「そしてあなたには、鈍感な彼を見て早く決断することを迫った」
「目論見は成功、作戦通りにあなたとあの子はくっついたわ」
「つまり、全部あなたの目論見通りと?」
「ええ」
すべて、何もかも仕組まれていたこと。
始めから、そうなるようにレールを敷かれていたということ。
好きになるように、そうやって仕向けたこと。
さぞ、彼女は鼻高々なことだろう。
―――――――――だからこそ、俺は彼女に言わねばならないことがある。
「ありがとう、ございます」
万感の思いを込めて、彼女に向かって頭を下げた。
その言葉の意味は、俺だけが分かっている。
そう、最初から分かっていたんだ。
「あら、お礼を言われるなんてね」
「やっと自分の気持ちに胸を張って言えるんです、こんなに嬉しいことはありませんよ」
「だって」
「理想の彼女が、傍にいるんですから」
俺は、メリーを見て最初に抱いた感情はなんだった?
そうだ。
―――――――――――――綺麗だ、こんな彼女がいたらいいな。
そう思っていたんだから。
その思いに、嘘偽りなんて無いんだ。
「だそうよ、よかったわね」
「出ていらっしゃい、メリー」
「………は?」
「…………………」
向こう側から、スッとまるで隙間を割いたように出てきたメリー。
顔は真っ赤で、こちらをチラチラと見るようにしては目線を逸らしている。
その反応から察するに。
全部、聞かれていた―――――――――――?
「………………………」
瞬間、体の血が全て顔へと集結したかのような感覚に陥る。
燃える様な熱さが、顔全体から浮かび上がるようにして内側から出ていく。
見なくても分かる、俺の顔は真っ赤だと。
きっと、メリーに負けないくらいに。
「…………さっきの言葉は、本当なの?」
「ああ、そうだよ!ずっとそう思ってたんだよ!」
「一目惚れだったんだよ、悪いかよ!」
半ばヤケクソ気味に叫ぶ俺、もはやどうでもよくなっているのかもしれない。
恥ずかしさが臨界点を超えたらしく、半ばキレかかっている気もする。
「………嬉しい」
そうやって微笑むメリーを見て、なんだかちょっとだけ冷静になった。
やっぱり可愛いと、そう素直に感じた。
「………お熱いことね、お邪魔虫は退散しようかしら」
そう言って踵を返して、唐突に裂けた空間に歩いていく彼女に向かって問いかける。
きっと、これが最後の質問で。
もう出会うこともないから、ここで聞かなかったらもう何も分からないままだから。
終わるわけにはいかない、まだ聞かなくちゃいけないことがあるんだ。
「……………あなたは、一体誰なんですか?」
「……………聞かなくてもいいじゃない、そうでしょ?」
…………だとしても、それはあなた自身の言葉で言うことに価値があるんだから。
もう体半分を空間へと消えかけている彼女に向かって、俺は叫んだ。
「………待ってください、まだちゃんと名前も聞いていないじゃないですか!」
「これからの未来に私は必要ないもの、私もあるべき場所に帰るだけ、たったそれだけのことよ」
「お幸せにね、二人とも」
「"彼によく似たあなた"と"私によく似たメリー"」
いなくなった虚空へと手を伸ばすけど、もう届かない。
ふと気がつけば、人が散らばるいつもの駅へと戻っていた。
「…………結局、なんだったんだろうな」
「分からないわ、きっとあの人以外には誰も分からないわよ」
「でも確かなのは、あの人が私たちの関係を変えてくれた」
「望み通りの世界に変わった、それでいいんじゃないかしら?」
「偶然か、必然か、あるいは運命かなんて関係なかったのかもしれないわね」
「始めからそうなるように、ずっとあの人の上で踊っていただけなんだから」
確かにそうだ。
結局、彼女の思いも願いも分からぬまま。
俺達を結び付けては、その後は何も言わないで去っていった。
その思惑がどうであれ、俺たちにとっては助けになった。
自分たちの思いを、確かな形へと変えたその礎となってくれた。
仕組まれていたとしても、それはお互いにとって望んでいたことなんだから。
感謝こそすれど、恨みなどしない。
「ね、もう少しだけ一緒にいない?」
「奇遇だな、俺もそう思ってた」
「ふふ、じゃあ行きましょうか」
電車には乗ることなく、もう一度改札を抜ける。
まだ終わらない、今日という日はまだ続く。
いや、これからもまだ続くのだろう。
未来なんて分からないけど、多分。
「ほら、早く行きましょう?」
差し出された手を、俺は重ね合わせた。
了
Megalith 2012/05/28,2012/06/19,2012/06/19,2012/06/22,2012/06/23,2012/06/23
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最終更新:2012年07月11日 00:19