「――すぅ」
天使のような、子供のような表情で彼女は眠り続ける。穏やかに、誰かを気にする様子もなく、ただただあどけない様子を見せて。
普段五月蠅くしている彼女であっても、こうしていればきっと誰もが目を奪われるような可愛らしさであることは、よく分かる。
柄じゃ無いセリフだが、こんな様ならきっと耳元で幾らでも優しい言葉をかけてやりたくもなるし、いや、それ以上に起こすことすら躊躇ってしまう。
この幸せは、彼女にずっと持っていてもらいたいものなのだ。それは、今こうしているだけと言う話なだけではない。
少なくとも、自分が彼女の側に居る間はとにかく、こんな表情を浮かべさせてやりたいと思う事しきりで仕方ない。
それほどまでに、彼女は幸せそうなのだ。吐息は暖かく、けれど安らか。閉じられた瞳の睫は微かに揺れる。
「ん……」
微かな呻き。どくん、と自分の胸元が高鳴る。鼓動が一つ高鳴った。愛しさが故か、それとも他の事が原因か。そんなに艶めいた声を上げられてしまったら、自分が抑えられなくなってしまっても仕方ない気がする。
柔らかな頬は微かに朱を差していて、何処までも柔らかい感触を返して来るだろう。けれど、つついて眠りを邪魔しようとは思わない。
「にゅー……」
刹那、少女は、こてん、と頭の向きを変えた。
仰向いて、落ち着いた表情のこいしの顔と正面に相対し、俺はそっと唇を開き――。
「ォぁ、ぁぐ、ぁ……!」
――足痛ぇええええええええ!!! と叫びそうな声を押し殺した結果がそれだ。鼓動が高くなったのも単純に痛みとかが原因だと言うか鬱血して血栓でも出来かけていたんじゃなかろうか。
思い切り顔を歪め、まるで断末魔のような声を上げたがこれこそ恋人が見ていなくて良かったと思うこと請け合いである。
何だこの拷問。死ぬのか、死ぬだろう常識的に考えて。
いや痛いとか言うもんじゃない痺れたとか言うもんじゃない、死ぬ。端的に言って百回くらい足を針山の上に乗せたような感覚すら覚える。死ぬ。死ぬってもんじゃない。歩けない。
簡単に言えば、仕事の報告作ってる間にこんな事があった訳だ。
『今日は私の日なのに仕事ばっかりで構ってくれない。ずるいー』
『お、ま、え、は、こ、ど、も、か!』
一言ずつ文字を区切りながら、俺は筆を踊らせる。
別段今日が特に忙しい訳ではなくて、手元の仕事を順次順次処理しようとした結果が今日でしかなかった、ただそれだけのことだ。
そも、月期法要が間近に迫っていて今週末休む事が出来ないなら前倒しで仕事を行うしかない。
まだ余裕があるとは言え、月半分を越える前までに処理を行ってしまうべきだ。
つまり、葬祭業の方が忙しい。
けれど結局、決算とかそっちについても当月決算の案件が何件もあってどうしようもない。
何故、自分は、外の世界から幻想郷に来たにも関わらず、外の世界に居たときと同じ事をやっているんだ!
叫びたくなるような衝動を堪えながら、不満そうな表情を浮かべるこいしに聞いてみる。
『大体お前の日って何だよ、こいし』
『ほら、五月十四日。外の世界の暦だけど』
外の世界製カレンダーを指さして彼女は言った。
なるほど、納得したくない。
『誰がうまい語呂を使えと』
『月期法要手伝ったげるから構ってよう』
甘い声を上げてこちらの腰のあたりに抱きつきながら彼女は頭をもたれかからせる。
尚、以前コイツが月期法要の手伝いをしたときはあの寺にいる黒い少女――ぬえと喧嘩をしていたが、会場外だったのでまだ良かった。白蓮の判断であったが、敷居を跨がせないで正解である。
『お前なー……』
『大丈夫、正座して貰えれば良いよ』
呆れ半分で恨み声を上げれば、彼女は小さくにこりと笑みを浮かべた。それくらいであれば、別に構わないと言えば構わない。何より作業の邪魔にならないだろう。大体推測は付いたが、一応確認も含めて聞いてみた。
『何だ?』
『膝枕して欲しいの。今日は私がお姫様』
彼女はにこりと笑みを浮かべる。溜息一つ吐いて正座をすれば、彼女は頭を乗せて嬉しそうにふふー、と笑みを浮かべたのだ。
『だから似合わねぇし王子様のガラじゃねぇよ俺は』
自嘲めいた皮肉一つ、その小憎らしい顔に言ってやる。
『うん、知ってる。こんな貧相な王子様、他のお姫様じゃ誰も愛してくれないよ?』
即答だった。
原因は俺か。貧相で悪かったなチクショウ。
『墨汁顔面にブチ撒けられたいかお前』
『やっても良いけれど私があなたを半殺しにした上で洗濯物全部洗うのあなたになるから宜しくねー♪』
微かに怒気を込めた震え声で牽制したところ、物騒な脅しをしかけながらも反省の色が全く見えないこの無意識をどうしたらいいかと真面目に頭を抱えそうになる。だが、とまれ構っていたら仕事は何時になっても終わらない。
間違いなく、仕事は終わらないのだ。
『えー……ニ、五でこっちがニ、六。からの、五、七。最終的にこれは同じか』
出納があっているのを確認しながら、一つ一つチェック。二重チェックが行う事が出来るのならば良いのだが、上司が居る訳でもないし、算術に長けている狐は頼めばやるだろうが余計な仕事を放ってやる程の余裕などあるのだろうか。
『四、八の……三、ニ一。和算は問題なし。後は」
乗算が終わるまで大人しくしてくれれば、と思ったところでこいしが勝手にこっちの手をいじり始めた。
文鎮を置いて片手で作業していたからか、それともこいしの無意識が見事勝手に人で遊び始めたかのどちらか。
目線を落とせば、こちらの指に彼女が指を絡めてそのまま逆方向から引っ張るようにしていた。
人体で知恵の輪する気かお前。
『へへ』
そのままにさせておくのも癪だったので、指を引っこ抜くとこいしの顎のあたりに沿わせる。
『や、くすぐったい!』
『暴れるなっての』
ころころと笑うこいしの首へとそっと沿わせて、そのまま軽く顎の裏を指の腹で掻いてやる。
『んんー……あんまりくすぐったくなくて、良い感じ、かも』
『そうか、そりゃ良かったな』
目の前の仕事を終わらせるために、しばし集中する。
指の腹でふにり、ふにりと押してやるとその度に嬉しそうな声をこいしはあげていた。
『ん、……うー、単調』
不満そうな声を上げたら、今度はふにふにと頬を揉んでやる。
『んん、んー』
まるで猫のような声を上げたこいしに、今度は指の腹だけで喉元を押してやる。
『うぇ。そっちじゃないー』
『ああそう』
不満の声が聞こえてきたので、今度は顎を撫でるのに戻す。
暫しそれより――。
「どうしてこうなった」
膝枕に静かに寝ているこいし、正座している自分。
顎の下を撫でているだけで眠ってしまう動物が居るとは聞いたが、こいつは猫か兎かどっちかか。
いやどっちも幻想郷には居るだろう、甘えてるかは知らないが。
とまれ、足が痛くなって痺れて動けない、いや、動けないと言った方が正しいだろう。
「……すぅー……」
足が痛くなって死ぬ、いや、死にかねない。
こいつは普段膝枕するときにこれだけの負担をかけられた状態なのか、と内心思うがそれにしてもだ。
「……寝てれば、なあ」
墨の乗った紙を乾かしながら溜息を吐いた。
半分以上乾いているので、もう遠からず畳めるようになるだろう。
寝ていれば、確かにかわいらしい。だが、考えて見て欲しい、これがあのこいしだ。
普段は小憎らしい口を叩いて、間の抜けた事を言いながらこちらを振り回すこいしだ。
勝手気ままも良いところ、出てくる言葉は誰を真似たか皮肉混じり、煽った言葉は時たま激怒で鍋やら座布団やら飛んでくる。
甘えたがりゃ甘えっぱなしで、油断と隙しか見せちゃいない、そうした結果がこの爆睡で、陽が暮れかけても起きやしない。
「……けどまあ」
それでも大事なものであるし、失いたくないものではある。
エゴも良いところではあるが。
「そんだけ好きだって事だなぁ」
間抜けな声を出して、そっと耳元に囁き寄せる。
「愛してる、って、聞いてやしないだろ?」
寝息はぜんぜん変わりはしない、さぁ本格的に足が痛いと思ったところ。
『王子様のキスでお姫様は目覚めるの』
そんな事を言ってたような気がしたのを思い出した、いや、手は手だろうがそれでもやった方がいいのだろうか。
「お姫様とか言ってたしなぁ」
髪へとそっと触れてやると、さらりと銀色が流れた。
あどけない表情に引き込まれる、この幸せを手放したくないと――。
「……なぁ」
頬に触れ、指の形に凹む柔らかさを感じると、彼女の顔が正面に。
聞いていないのなら、ついでの言葉を告げてやろう。
「愛してる、ってだけ言ってもどうせ伝わりゃしないだろ」
すぅー、と寝息だらけの間抜けなこいし。けれど、それも大切な宝物。
「けれど、愛してるもんは仕方ないしお前を幸せにしたいのも間違いない」
確信を込めた口調で呟くが、当然言葉は帰ってこない。けれど、それで良い。
「たまにはキザな台詞吐いてみても良いだろ? 愛しの姫君様、ってな」
口元に唇を寄せる。そして、口づけまで指一本の距離まで迫り――。
「――」
刹那。
「ん――」
「んっ、……んぐっ!?」
こいしがこちらの肩へと腕を回して、唇を押さえつけてくる。
柔らかく、瑞々しい唇に軽くクラクラするものの何とか理性で踏みとどまる。
「んっ、ぷ、はっ」
こいしが唇を離し、にぃー、ととても良い笑みを浮かべた。背筋にとても嫌な汗が走る。
まさか、今。
「おっはよー、王子様ぁ♪ 愛しの姫君、お目覚めですよ?」
コイツ、全部。
「ねぇねぇ、愛してるって言葉も伝わってるよ? キザな台詞がすっごい滑るのもよく知ってるよ?」
聞いていやがったのか――ッ!?
自分の口元がぱくぱくと動くが、言葉が吐き出せない、足は未だ痺れたままで、まともに動かない。
「それでもねぇ、私も大好き。ね、王子様、私を幸せにしてね?」
「なっ……」
こいしはそう言いながらこっちに駆け寄ってきて、そっとこちらの頬にキスを落とした。
自分の唇がぱくぱくと動く。諸々の感情が入り乱れて言葉にならない。
「じゃあちょっと私お寺に行ってくるねー! ぬえに惚気て来る!」
笑いながらこいしは靴を履くと、玄関から飛び出していく。
刹那、ぷちん、と何か自分の奥で切れた音がした、間違いなくそれは堪忍袋の尾だ。
「こぉーーーーーーーーーーーーーーーいぃーーーーーーーーーーーーーーーーしぃーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
人里の一角に、俺の怒号が響き渡ったのはその一瞬後の事だった。
――立ち上がり、後を追おうとしてそのまま立ち上がる事が出来ずにうずくまり、
挙げ句に足が回復した頃に命蓮寺に行った頃には天空でぬえとこいしの弾幕合戦が繰り広げられてて寺の知り合いが片っ端から妙な笑みを浮かべてこちらを見ていて、
ネズミにニヤニヤした表情のまま「君も大変だな」と言われたことを追記しておく。
どうして、こうなった――。
うpろだ0039
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最終更新:2013年07月08日 00:52