『惚れ薬』 ―皐月の29―


 コンコンコン。

 ノックの音が聞こえた時、○○は水底から引き上げられたかのように、はたと目が覚めた。
 自分の右頬が平べったくつぶれていることに気付く。机に顔を押し付けていたようだ。
 つまり、寝ていた? いつのまに。

 コンコンコン。

 2回目のノック。1回目より拍子が早い。
 気合を入れて顔を上げ、見慣れた部屋を見渡した。窓から差し込む穏やかな日の光が、昼間に近い時間帯を示していた。
 軽く首を回す。若干だるいが、来訪者に対応しなくては。

「どうぞ」

 応じると、ゆっくりと引き戸が開いていった。扉の隙間から風が入り込み、よどんだ部屋の空気をかき回した。
 その風が少し冷たくて、かすかに身震いする。春の終わりごろにしては肌寒い。
 入ってきた日射しが眠気の取れない頭に突き刺さり、覚醒を促す。

 目を細めながら玄関を見ると、風にあおられた青い髪を押さえ、悠然とこちらを見据えている女性がいた。
 綺麗な人だ。○○はぼんやりした頭でそんな感想を抱いた。意志を持った目、それでいながらふんわりと優しげな唇。相手を包み込んで離さない魅力に溢れている。
 こんな綺麗な人を、目が覚めてすぐに見られるなんて役得だと思った。

 女性が上白沢慧音であることに気付いたのはそのすぐ後だった。今自分が抱いた感情にぎくりとし、ごまかすように頭を振った。

「おはようございます」

 自然を装って挨拶をする。
 慧音は微笑みを浮かべていた。

「おはよう。突然すまないな。何か作業中だったか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと意識が飛んでいただけで」
「眠っていたのか? いや、その疲れた顔、まさか徹夜明けか?」
「ええ、まあ」
「まったく、お前はまた」

 呆れたように息を吐く慧音。○○は苦笑を返しつつ、どうぞと座布団を差し出した。慧音は律儀に「お邪魔する」と断りを入れ、畳の上に足袋を履いた足を乗せた。
 出迎えが必要だと思い、○○は机の上の原稿や万年筆を端へやり、近くにあった竹筒を手に取った。中にはお茶が入っている。蓋を開けようとしたが、まだ身体は完全に目覚めておらず、どうも手元がおぼつかない。
 見かねた慧音が声をかけてきた。

「お茶か? 私がいれよう」
「いえいえ、客人にさせるわけには」
「私が無理に訪ねたんだ。これぐらいは」

 俺がいれたいんですと重ねると、慧音は肩をすくめ、座布団に腰をおろした。背筋がピンと伸びた綺麗な正座だった。
 相変わらず彼女がいると場が引き締まる。眠気もどこかに消えてしまいそうだ。
 頬が緩みそうになるのをこらえつつ、○○はようやく蓋を開けた。
 トクトク、と2つの湯呑みにお茶を淹れていく。

「それで、何か御用でしたか?」
「いや、特に用はないんだ。久方ぶりに君の家にでも行こうと思って、空き時間を利用して訪ねてみた」
「はあ、慧音さんとはよく会っていると思いますけど」
「里ではよく会うが、ここに来ることは最近少ない」
「確かにそうですが……ここには何もありませんよ?」

 紙と本ばかりが散らばる部屋。それこそ仕事道具しかない殺風景な空間に、好き好んで訪れる人はいないはず。
 だが慧音はくすりと上品に笑った。

「そうでもない。例えば、君が小説を書いている姿を見られるのは、この家だけだ」
「そんなの、楽しいものではないと思いますが」
「以前、妹紅が似たようなことを言っていただろう? あれから私もそう思うようになったんだが、君の後ろ姿なら何刻でも眺めていられる。机に向かっている時の君は、静的芸術作品とでも言うべきだろうな」
「彫刻か何かですか、俺は」

 困ったように肩をすくめる○○。慧音の「本当にできるんだがな」という呟きに、○○は湯呑みを差し出して答えるしかなかった。

「今度は何を書いていたんだ?」
「ああ、これは」

 机の上の原稿に話がおよび、○○はさりげなく紙の束を手に取った。机にたててずれを揃え、自分の足下に置く。手近な本をその上に乗せて。

「……まあ、以前も話した売り物の随筆集ですよ」
「ああ、あれか。進んでいるのか?」
「そこそこといったところです。基本は普段つけている日記で、そこに色をつけているようなものですから、小説よりは負担がありませんし」
「日記を書くのに徹夜してしまうとは、熱心なものだな」

 感心している視線から逃げるように、○○は湯呑みに手を伸ばした。思い切りお茶を飲み下す。喉の奥から出かかったものを押し戻すかのように。
 と、湯呑みをちゃぶ台に戻す際、傍らに置いていた本の山に肘が当たった。その拍子に紙がひらりと慧音の方へと落ち、2人の目を引いた。

「これは? ……見たところ、手紙のようだが」

 白い手に拾い上げられたそれは、横長の白い封筒だった。宛名にはこの家の住所と『○○様』と書かれている。

「読者さんからの手紙です。最近、よく来るようになりまして」
「ほう。以前はそういうこともなかったと思うが……君もすっかり幻想郷の有名人か」
「そんなことは」
「ないこともないぞ? 実際、君の本はよく売れるようになった」

 ○○は言葉に詰まる。
 確かに本は売れるようになったし、生活も楽になった。うぬぼれかもしれないが、多少は名も広まった。それは間違いない。けれども有名になったと言われるのはどうにも背中が痒くなるし、一概に嬉しいとも思えなかった。それは、何か自分に合わない感じがした。
 何と返していいか分からず、助けを求めるかのように手を伸ばした。その先には、やはりお茶の入った湯呑み。ぐいっと一口。

「やはり、こういう手紙は嬉しいものか?」

 慧音に尋ねられ、○○は「もちろんです」と答えた。

「読んでくれる人がいてくれてこその小説ですからね。じゃないと、独り言みたいなものになる」
「なるほど、違いない」
「特に、その手紙の人には感謝しています」

 慧音から手紙を返してもらうと、○○は折り目を直し、切られた封の部分を丁寧に整えた。

「この手紙の差出人は、俺が最初の本を出した時からずっと、新刊が出るたびに手紙を送ってくれてるんです」
「ほう、中には何が書かれているんだ?」
「かなり濃い内容ですよ。作品の感想だけでなく、その人独自の解釈や私見、それと面白かった場面を熱く語ってくれています」
「それは熱心な読者だな」
「一度、返事を書きたいと思っているんですが……残念ながら、名前も住所も分からないんです。送り主が『匿名希望』なもので」
「有名人の家に手紙を送るとなると、恥ずかしくもなるんだろう」
「だから有名じゃないですって」

 これ以上茶化されてはたまらない。○○は手紙を懐にしまい、話題を変えることにした。

「良ければ、外に出かけましょうか。お昼をどこかで食べるとか」
「いや、いい。先ほども言った通り、君の部屋に来たかったのだから、外に行っては意味がない。それにもうすぐ妹紅も来るだろう」
「妹紅が?」
「ああ。昨日、私が○○の家に行くと言ったら、『自分も行く、お昼は作るから任せて』と言っていた。自信満々だったぞ」
「お昼を……なら、出かけるのはまずいですね」
「そういうことだ。さらに言えば」

 慧音の白い手がまっすぐに伸びてきて、○○の額にくっついた。
 人肌の温もりが伝わってくる。とても心地よくて、これは困ったと○○は思った。目に力を入れていないと溺れてしまいそうだった。
 耐えていると、慧音が少し心配そうな顔をした。

「いつもより顔色が悪いぞ。体調がよくないんじゃないか? 熱はないようだが」
「あ、多分寝てないからだと」
「なら、少し眠ればいい」

 彼女のもう片方の手がぽんぽんと座布団を叩いた。そこに寝転べという意味だと分かり、○○は「いやいや」と首を振った。

「来客があるのに、家主が眠りこけるなんて」
「気にしなくていい。私は眠っている○○を眺めて楽しむことにしよう」
「またそんな。本当は楽しくもないでしょうに」

 慧音はこれに答えず、ふふふと笑い、額にあった手を側頭部へと滑るように移動させた。
 耳をさわりと触られ、変な声が出そうになった。その隙に頭を押され、なすがままに座布団の上へと頭を落とされる。

「妹紅が来て、昼餉の用意ができたら起こしてやろう。私が見ていてやるから、安心するといい」
「……多分魔理沙も来ますよ。最近、毎日のように来てますから」
「そうなのか? まあ、それも任せておけ。とりあえず君はここで眠ることだ」

 ぽんぽんと頭を叩かれる。決して強くはない、柔らかく、ゆっくりと。子供をあやすかのように。
 この手の魔力はいかんともしがたい。せっかく飛ばした眠気がぶり返してきた。

「じゃあ、お願いします」
「ああ、おやすみ」

 結局甘えることにして、○○は目をつむった。
 不思議な感覚だった。女性の手が自分の髪をとき、もてあそび、撫でている。それだけなのに大きな安心感が広がっていき、全身が包まれる。どんな睡眠薬よりも、格段に深い水の底へと誘導されていく。
 きっと、こんな風に信頼できる相手の前で無防備に寝られるというのは、幸福なことなのだろう。
 急速に自分の頭の中が空っぽになっていき、○○はその流れに身を任せた。

「○○ー、慧音ー、いるー?」

 もう1人の特別な友人の声が聞こえた時には、もう半分眠りに入っていた。慧音が何か答えたようだが、その言葉の意味を○○が掴みとることはなかった。眠りと現実の境目をふわふわと漂い、心地よさで満たされていた。




 人里でも人通りの少ない、ある道端にて。1人の少女がしゃがみこんでいた。

「なはは、そんな褒めるなって」
「いえいえ。あなたはほんと、とっても可愛らしいお嬢さんでいらっしゃいます。けれど、そんなあなたでも色恋事にお悩みでしょう?」
「んー、まあな。よく分かるな」

 彼女の目の前には男がいた。露店を開いているその男は、『薬商』という文字が縫われた羽織りを着ている。男は若い上に愛想もよく、ぺちゃくちゃとよく口が回った。最初は冷やかし程度でいたはずの少女も、いつの間にか腰を据えてしまっていた。

「一目見て分かりましたよ。恋に生きている方と」
「ははは、まあ私は恋色少女だしなー」

 「そんなあなたには」と男が風呂敷から1本の瓶を取り出し、少女の目の前に置いた。

「これなんてどうでしょう」
「なんだこりゃ」
「ふふふ、これはなんと惚れ薬! 飲ませれば象にも好かれちゃうっていう代物ですよあなた。これで意中の殿方もめろめろです」
「本当かあ? こういうのって作るのが難しいはずだぜ」
「そこはご安心! なんとあの有名な薬屋『永遠亭』が極秘に作った薬ですからね」
「ふーん」

 あいつらがねえ、と少女はつぶやく。永遠亭なら作りそうだけれども、人の心を操るような薬は実現が難しいこともよく分かっていた。だからまだ半信半疑。
 しかし男はそんな彼女の心境をよく見抜いていた。

「まあ、言葉だけじゃ信じられないのも当たり前。そうですねえ……そこのお嬢さん!」

 男は突然立ち上がり、近くを歩いていた女性に声をかけた。里の娘らしく、よそいきの着物に荷物を背負っている。気の強そうな女性だった。

「は? 何あんた。話しかけないでよ」
「ははは、これは手厳しい。しかしこんな気の強い女性も、これを飲むとたちどころに!」
「きゃっ! げほっ!」

 男は突然、女性の口に薬瓶を突っ込んだ。早業だ。虚を突かれた女性は中の液体を飲んでしまったようで、しばらくむせかえっていたが、

「な、なにを飲ませて……あら?」

 女性の瞳が、突然潤みだし、

「あ、ああ! お願い! 私をめちゃくちゃにして!」

 なんと男に抱きついてしまったではないか。

 露店商の男はさも当然のように相手の肩に手を回した。それを嫌がることなく、むしろぎゅっと抱きつき返す女性。それまでの気の強さも嘘のように、とろけた顔をしていた。
 これには少女も驚き、「おお!」と感嘆の声をあげた。
 男はすかさず熱のこもった声で説明を再開する。

「こんな風に、薬を飲ませた人の虜になるというわけですよ。効き目は、個人差はありますが、大抵1日しか続きません。短いとお思いかもしれませんが、この薬のすごいところは相手の記憶に残らないところなのです。よって、相手にばれる心配もない。安心安全に、意中の人との恋人気分を味わうことができるって寸法です」
「こ、恋人気分……」

 少女の頬が朱に染まる。『彼』に薬を飲ませて、目の前の女性のように抱きついてきたら……そんなことを想像し、心臓を高鳴らせていた。
 男はさらに売り文句を畳み掛ける。

「秘密のルートで仕入れたものなので、今日を逃すと買えなくなるかも」
「お」
「それに本日限定、3瓶買うともう1瓶ついてくる!」
「おおっ」
「気になるお値段ですが、今日は三割引きで売ろうと思ってたところ……ええい、お嬢さんの魅力にはあたしもやられちまった! 五割引きでどうだ!」
「おおおお!」

 少女は勢いよく財布を取り出した。
 惚れ薬とやらを大量に買えるだけの、十分なお金がそこに入っていた。


 『料理とは、門番と同じく我慢と慎重さの産物です』とはある中国娘が教えてくれたことである。門番の例えが的確かはともかくとして、我慢と慎重さの産物という文句は間違いではないと、藤原妹紅は得心していた。
 料理は、包丁からフライパンの扱いに至るまで、どれもこれも神経を使う。じっと焼けるのを待ったり、味を調整したり、盛りつけを考えたり。ひとつ間違えれば全体の調和が崩れてしまうので、常に気をはっておかなくてはいけない。
 これを毎日続けようと思えば、尋常ではない精神力が必要だろう。

 だが、不思議なことに、今の自分には全然辛くはなかった。料理修行をして忍耐力でもついたのかと最初は思ったが、自分で作って自分で食べるときは、やっぱり我慢が続かない。適当に魚でも焼いてお手軽に済ませてしまう。
 今みたいに慧音や○○のご飯を作る時こそ、手が軽やかに動く。
 要するに、誰かのために作っているから苦にならないというわけだ。

 自分は変わったと妹紅は思った。過去の自分はいつも1人で、誰とも関わろうとせず、空腹だけを紛らわし、日々を漫然と生きていた。料理なんて面倒な作業は投げ出していた。誰かのために何かをしようだなんて思いもしなかった。それが……今はどうだろう?
 年寄りくさい言い方をすれば、生きがいを見つけた気分だった。
 変わるはずのない自分が変わってしまう。家事力0の女が料理に目覚めてしまう。
 そんな変化を起こすきっかけとなった、『友情』や『恋』とは偉大なものだ。

「よし、できた」

 お玉ですくった出汁を味見して、妹紅は満足気に頷いた。想像通りの味。正真正銘の豚汁だった。
 近くにあった手ぬぐいで手を拭き、目の前に広がる今日の献立を確認する。白菜の漬け物、焼き魚、白米、そして豚汁。
 己の我慢と慎重さの産物はどれもおいしそうだ。
 冷暗所に入れている『とっておき』もあるし、これならきっと、2人とも喜んでくれるだろう。

 昼時と言うにはまだ早かったので、料理には虫除けの籠をかぶせておき、妹紅は台所を後にした。
 狭い一軒家、少し歩けばすぐ居間だ。家主の仕事場兼寝所の一室へと出る。

 そこに広がっている光景を見た妹紅は、開口一番、

「ずるい」 

 と口を尖らせた。

 居間には2人の人間がいた。
 座布団を枕にして眠りこけている○○。そしてその横に座る慧音だ。
 慧音は○○の頭に手を添え、ゆっくりとなでりなでり、なでりなでりしていた。惜しみなく浴びせている慈愛の笑顔のまま、慧音はこちらを向いて首を傾げた。

「何がだ?」
「私も撫でたい。慧音ばっかり、ずるい」
「そう言われてもな……私が頼まれたことだ」

 そう言って、また赤子をあやすようになでりなでり。まるで恋人同士が寄り添っているような光景に、妹紅は眉をひそめた。
 無理にやめさせるのは気が引けた。○○は、それはもう穏やかに熟睡していた。慧音に頭を撫でられると安心しきった顔になり、時たま笑みも浮かべるのを見れば、どうしてやめさせられようか。
 ならばと自分も手を出そうとしても、○○の頭はひとつしかなく、慧音は代わってくれそうにない。
 結局、妹紅は不機嫌そうに彼らの真向かいに座るしかなかった。ちゃぶ台に頬杖をつき、○○の寝顔を見て気を紛らわせる。

「○○、徹夜したって?」
「ああ。日記を集中して書いていたらしい」
「ああ、前に言ってたあれか。そろそろできてるのかな……読んでみたいんだけど」
「○○が起きたら頼んでみるといい。それより、料理はどうだ?」

 妹紅はふふんと笑った。

「完璧」
「それはよかった。もう少ししたら○○を起こして食べるとしよう」
「今回は甘味の方にも自信があるよ」
「それは楽しみだ」

 ほのぼのと会話していると、玄関から人の気配がした。

「おーす! ○○いるかー!」

 妹紅たちは顔を見合わせた。この聞き慣れた声。明らかに彼女だ。
 妹紅たちが答えるより先に、荒々しく玄関の扉が開いた。すると、やはり霧雨魔理沙が入ってきた。彼女は居間にいる妹紅たちを見て一瞬「おっ」と動きを止め、意地悪そうに笑った。

「なんだ、お前らも来てたのか」
「静かに。○○が寝てる」

 妹紅が注意すると、魔理沙も「おっと」と口を手で覆った。さすがのトラブルメーカーも、○○の安眠を邪魔するつもりはないようだ。
 魔理沙は幾分か足音を忍ばせて妹紅の横に座った。

「なにしてんだ? ○○の寝顔鑑賞会でも開いてんのか?」

 「そんな会があったら毎回参加したいね」と妹紅が冗談混じりに呟いた。「3人で昼餉を一緒にするつもりでな」と慧音が答える。

「妹紅が料理を作ったんだ。おいしいらしいぞ」
「ほう、妹紅がね。慧音は何してるんだ?」
「慧音は……」

 妹紅は○○と慧音の方をちらりと見て、「抜け駆けしてる」と不機嫌そうに言った。
 まだ納得していないのか、と慧音は苦笑する。

「ふーん」

 魔理沙が慧音のなでなでしている手に気付き、一瞬眉をしかめる。
 が、今日の彼女はいつもと違った。こういうことがあると『ずるいぞ!』と無理矢理にでも相手のポジションを奪いに来る魔理沙が、なんと晴れやかな様子で「ははっ」と笑ったのだ。

「まあ、いいんじゃないか? 今の私は度量が広いからな。頭を撫でるだなんだの、小さい小さい」

 人差し指を振り、余裕具合をことさらにアピールしている魔理沙。この妙な態度には気味悪さすら感じた。

「昼飯があるんだよな? 私も一緒に食べていいか?」

 妹紅は少し引き気味に「いいけど」と答えた。

「もう1人分ぐらいならすぐに用意できるし」
「献立は?」
「焼き魚と白菜の漬け物と、豚汁」
「ほう? 豚汁か」

 魔理沙の目がキラリと光った、ような気がした。

「よっし、どんな感じなのか、ちょっと見せてくれよ。一緒に台所に行こうぜ」
「どうして一緒に」
「ほれほれ、行くぞ」

 強引に腕を引っ張られ、妹紅は渋々と魔理沙の後をついていく。
 振り返ると慧音はまだ○○の頭を撫でていた。それを見ているとやはり複雑な感情が胸に渦巻き、妹紅は難しい顔をするのだった。


 台所に着いてすぐ、魔理沙から1本の瓶を見せつけられた。

「惚れ薬?」
「おう、そうだぜ。これを○○の分の豚汁に混ぜてだな」

 流しの行商人から買ったらしいそれを掲げながら、魔理沙はある『計画』を披露した。主に以下のようなものだ。
 この惚れ薬は、飲んですぐ見た相手のことを好きになる。持続期間は約1日。薬が効いている間のことは記憶に残らず、後遺症もない。
 ただし、好きになるのは1人だけだし、1日1本しか使えない。だから今日は魔理沙自身が使うけれども、惚れ薬は何本も買っていて、1本譲ってやるから協力してくれ、というものだった。

「まあ、お前とはなんだかんだと付き合いが長いからな。私だけが良い目に合うっていうのも、なんか気が引けるし、ここは幸せのお裾分けをしてやるよ」
「……慧音は?」
「あいつはこんなの絶対に協力してくれないって。逆に説教されちまう。だから慧音には内緒だぜ? 私とお前だけだ」

 薬を飲ませて効果が出てきたら、妹紅はさりげなく慧音を外へ連れ出す。その間に自分は――と魔理沙がニヤニヤし始める。その頭の中では色々と猥雑な妄想が広がっているのだろう。

「ふふふ、明日はお前が○○に飲ませるのを協力してやるよ。どうだ? やってくれるか?」
「……」

 問いかけには答えず、妹紅は魔理沙の手の中にある薬瓶をじっと見つめていた。
 小振りな茶色の瓶。作りが悪いのか若干形がいびつで、腹のあたりに紙札が貼られていた。曰く『永遠亭特製惚れ薬』とのこと。
 永遠亭。妹紅にとってこれ以上ないほど忌々しい館の名前。そこで惚れ薬が作られていたなんて話は初耳だが、ありえないことでもない。あそこにはどんな薬でも作ってしまう薬師がいるし、こんな性質の悪いものを作ってもおかしくないほど性格がねじ曲がっている奴もいる。魔理沙も『効果があるところは実際に見た』と言っているし、多分本物なのだろう。

 ○○が、薬で誰かを好きになる。
 こんなものを使っていいのか? 大切な○○に? 自分たちが?

「おいおい、なに迷ってんだ?」
「……」
「大丈夫だって。永遠に効果があるっていうわけでもないし、記憶にも残らないんだぜ?」
「……けど」
「想像してみろよ。普段はにぶちんの○○が、こう、すごいことになるんだぞ?」
「すごいこと?」
「おお、そうだな、ええと。抱きついてきたりとか、色々」

 顔を少し赤くしながら、『すごいこと』の例として抱擁をあげる辺り、魔理沙はまだウブだった。
 しかし妹紅には効果があった。すごいこと、と頭が勝手に想像してしまう。

 そう、例えば○○が――して――だけでなく――服とか――

 妹紅の全身が急速に熱を帯びていく。顔は林檎のように赤く、瞳は涙がにじみ出るほど潤んでいった。
 妄想の上とは言え、いったい何を考えているのかと妹紅は自己嫌悪した。誠実な彼がそんなことをするはずがない。けど、もし、してきたら……経験のない自分はきっとうろたえるばかりで。
 いや、とさらに考えがあらぬ方向へ飛んでいく。惚れ薬と言うからには、もしかしたら気を高ぶらせるような成分も入っていて、そのせいで○○の理性が吹っ飛んで襲いかかってきて――でも、そんな○○も嫌に思えなくて、『いいよ。私は壊れることなんてないし、○○なら全部受け止めてあげるから』なんて言ったりして。

「妹紅? おーい、もこー」
「はっ!?」

 どこかに飛んでいた意識が、魔理沙の呼びかけに引っ張り戻された。そしてすぐに己の空想の淫靡さに気付き、ボッと火が出そうなほど顔を赤くした。

「どした?」
「な、なんでもない」
「そうか。で、どうすんだ? 今の慧音がうらやましいんだろ? これさえあれば頭でもなんでも撫で放題だぜ?」
「慧音……」

 居間に広がる光景を思い出し、妹紅の胸がまたうずいた。
 確かに、慧音はうらやましい。自分も○○の頭を撫でたい。彼が起きている間は恥ずかしくてそんなことはできないけど、今なら……
 嫉妬に近い感情が、先ほどから自分の中でうずいている。

 しかし、だからと言ってこの感情に振り回されるまま、薬に頼っていいのか。

 自分は○○と支え合う関係になりたいと思っていたはず。
 薬なんかで結びついても、それは偽りの関係にすぎない。もっと確固とした感情でなければ、互いに支え合うことなんてできやしない。
 そうだ、慧音はこんなものに頼らずに今日の彼の信頼を勝ち取ったのだ。
 薬に頼ることは、慧音を裏切り、出し抜くことである。それは……約束に反する。

 答えは決まった。
 妹紅は決意に満ちた目で、目の前のニヤつき顔を見返した。

「やらない」
「は? なんだって?」
「やらないって言った。私は、そんなものに頼らない」
「お、お前、正気か?」
「魔理沙こそ。そんなの使ったって、○○の気持ちを手に入れられないって、自分でも分かってるくせに」

 図星だったようで、魔理沙は「うっ」と言葉を詰まらせた。
 そうだ。自分たちは3人とも、○○の本当の気持ちを得るために、色々と争ったり、協力してきたりしたはずだ。今までの魔理沙なら、こんな真似はしなかったはず。
 非難混じりに魔理沙を見つめる。
 だが相手の薬瓶を持つ手は固かった。

「私はやるからな」
「魔理沙!」
「分かってる。けどな、せっかく買った薬がもったいないんだ。けっこう買っちまったし。もちろん、こんな面白いこと試さなきゃ損だってのも、ある。けどそれ以上に」

 ふっと魔理沙の目が伏せられた。

「……私だって、たまには人肌恋しいときがあったり、するんだぜ?」

 その小さな呟きは、いつもの活発魔法少女のものではなかった。寂しげで、弱々しくて、愛する人の愛を欲している。そんな1人の少女の言葉。
 そこから感じ取れる感情が痛いほど分かる妹紅は、思わず彼女の肩に手を置きそうになったが。

「妹紅ー? ○○が起きたぞ、そろそろお昼にしないかー?」

 居間から聞こえてきた慧音の声が、魔理沙の顔をあげさせ、妹紅の手をひっこめさせた。
 数秒、見つめ合う2人の間で微妙な空気が流れた。互いの心情を理解しながらも、今はどちらも引くことはできない。それを確認し合ったような時間だった。
 魔理沙が再び不敵な笑みを浮かべた。

「ふん、私は何としても○○に飲ませるからな。止められるもんなら止めてみろ!」
「いいよ、絶対に阻止するから」

 にらみ合う2人の魔力と妖力の高まりが、台所の家具を揺らしている。がたがたと軋む食器棚が、彼女たちの全面戦争の始まりを告げていた。

※ 

 ちゃぶ台に4人分の料理が並べられると、各人がそれぞれの席についた。○○の横には魔理沙と妹紅が、対面には慧音が。4人がそろうと大抵この席順になる。なるのだが、今日の魔理沙と妹紅はいつにもまして素早く○○の隣を陣取った。2人とも鬼気迫ると言った様子だったので、慧音に不思議がられていた。

 ○○はまだ眠そうな顔をしていて、他の3人が食器の準備をしている間もうつらうつらと頭を揺らしていた。それを見て、妹紅と魔理沙は一瞬ほんわかした気持ちになったものの、これからの戦いのことを思い出し、しっかりと気を引き締める。
 全ての準備が整うと、慧音が「よし」とまっさきに声をあげた。

「みんな席についたな。では○○、食前の挨拶を頼む」
「……んー、はい?」
「○○? まだ寝ているのか? 起きろ、昼ご飯だぞ」
「あ、はい。いただきます」

 ふわふわとした挨拶に続いて慧音たちもいっせいに手を合わせ、「いただきます」と唱和した。
 妹紅の作った料理は好評だった。すばらしくおいしいというわけではないが、家庭的で気持ちを落ち着かせる味に仕上がっていた。ひとつ何かを口に運ぶたびに、みんなの表情が和らいでいったのがその証拠だ。

「なかなかうまく作ったな、妹紅。自信があると言っただけのことはある」

 慧音が褒めると、妹紅もまんざらではないように笑った。

「そ、そう?」
「ああ。○○、そうだろう?」
「うん、おいしいぞ、妹紅」
「そっか……うん、だったらよかった、うん」

 ○○から褒められるとさらにどぎまぎする妹紅。心を落ち着かせるためにお茶に手を伸ばし、叫び出したいほどの喜びと共に流し込む。修行の成果万歳。
 だが、そうそう浮かれてはいられなかった。魔理沙が先ほどから動かなかったからだ。黙々とご飯を食べ続けている。
 果たして、どのような方法で惚れ薬を飲ませようとしてくるのか、妹紅には気が気でなかった。よもや無理矢理○○の口に瓶を突っ込むような真似はするまい。魔理沙にもそれぐらいの常識はあるはずだ。何かに混ぜるか、紛れこませる手法が妥当だろう。ならばこの食事時間は絶好の機会。

(魚か豚汁あたりかな……ここに運ぶ間は特に問題なかったけど、とにかく気をつけないと)

 一瞬の油断が命取り。○○のためにも魔理沙のためにも、絶対に阻止しなければならない。

「おっと」

 と、○○が横で箸を落としてしまっていた。

「ごめんごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」

 そう言って拾おうとするのを、慧音が「だめだ」と制した。「代わりを取ってこよう」。慧音は立ち上がり、台所へと消えていった。
 妹紅はどうも調子の悪そうな○○が心配になってきた。白い肌の血色はよさそうだけれども、動きが鈍い。

「もしかして体調悪い?」
「いや、ただの睡眠不足。食べたらまた寝ることにするよ」

 心配するなと笑みを浮かべる○○。
 寝起きの食事だし、少な目にすればよかったかな、と妹紅が考えていると、

「○○ー」

 魔理沙が動いた。
 箸でつまんだ魚の身を、彼の口元に運んでいる。

「箸がないなら、食べさせてやるぜ?」
「いや、慧音さんが持ってきてくれるし……」
「いいからいいから」

 これは、と妹紅は状況を注視した。いきなり魚を食べさせるなんて、あからさまに怪しい。薬を仕込んだのか。だが、料理は自分が作ったものだし、瓶を出すなどの不審な動きも見ていない。可能性としては低いように思うけれども……

「ほれほれ」
「あっ、落ちるって。あむ」

 「あっ」と妹紅は声をあげた。迷っている間に○○が食べてしまった。
 もし薬が入っていたら、目の前で○○が魔理沙を――

「いきなりすぎるんだよ、魔理沙は。まったく」
「なははは」

が、何も起こらない。

(違った……)

 ほっとする妹紅。
 だが、気付いた。ちゃぶ台の向こうで、魔理沙がニヤリと笑っていたことに。
 からかわれている。そう確信した妹紅は、威嚇するように相手を睨みつけた。
 魔理沙もひるまない。妹紅の威圧もなんのその、お気楽な顔で口笛を吹いている。

 慧音が戻ってきて食事が再開されると、2人のにらみ合いも一時中断。また、穏やかな昼食時間が流れる。
 ふと魔理沙が○○の湯飲みをのぞき込んだ。

「○○、お茶が空っぽだぜ。入れてやろうか?」
「あ、うん。頼むよ」

 お茶という言葉に妹紅は反応した。
 おかしい。今、お茶の入った急須は妹紅の隣にある。他に飲み物は用意していないはずだ。
 なのに魔理沙は竹筒を手にしていた。○○の湯飲みの上で傾けて、お茶のような液体を入れている。
 あれはこの家のものではない。魔理沙が持ち込んできたもの……つまり!

「ほれ」
「お、ありがとう」

 ○○が湯飲みを手にとる。すぐに飲むつもりのようだ。
 止めるには間に合わない。そう判断した妹紅の瞳が、ひときわ赤みを増した。
 瞬間、湯飲みからボンッ!という突発音が上がった。

「うわっ!」

 驚いた○○が湯飲みを床に落とした。ころころと床を転がっていく。
 しかし、そこから出てきたのは水蒸気のような煙だけで、何もこぼれることはなかった。
 あれ? と首を傾げる○○。

 妹紅は安堵の息を吐いた。
 フジヤマヴォルケイノの応用だ。湯飲みを割らず、○○にも危害を加えず、ほんの小さな爆発をその内部で起こし、お茶を蒸発させた。うまくいったようで何より。
 妹紅は何食わぬ顔で転がる湯呑みを拾い上げた。

「あーあ、こぼしちゃったね。代わりのを入れるよ」
「いや、こぼしたけどこぼれてないというか……あれ?」

 まだ困惑している○○に、正真正銘のお茶を入れ、差し出す。
 魔理沙がこちらを恨めしそうに見ていた。爆発の正体に気付いたのだろう。妹紅は先ほどの意趣返しにと「ふっ」と鼻で笑ってやった。
 魔理沙の瞳が、若干ぎらついた。
 2人にとって緊張感溢れる食事は、そうして続いていった。



「ごちそうさまでした」

 ○○の挨拶で食事は終了。他の3人も「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

「昼から寝るのか?」
「はい。夕方頃に出かける予定もあるんですけどね」
「なら、私が起こしてやろう。存分に寝るといい」

 食後の団らんといった風景。慧音と○○がぽつぽつと話をしている。妹紅はそれに混じらず、じっと魔理沙を観察していた。注意すべき相手は今、壁にもたれて「あー、食った食った」とだらけている。
 あれから特に騒動が起こることはなく、視線と手振りだけで互いに牽制し合う時間だけが過ぎて行った。ご飯を食べながらにらみ合いを続けている様は、傍から見てさぞおかしなものだっただろう。
 だが、魔理沙はこれで機会を逸したはずだ。食事が終われば薬を入れるチャンスはなくなる。これであきらめてくれたらと思いつつも、それはないことも分かっていた。魔理沙は変なところ意固地だ。油断はできない。

「よし、片づけるか、妹紅」
「あ、うん」

 食器の片づけを始める慧音を、手伝わないわけにもいかない。
 妹紅は後ろ髪を引かれつつも、さっとちゃぶ台の上の皿を集めて、台所へ運んだ。

 洗い場で食器を拭きながらも、妹紅は居間のことが気になって落ち着かなかった。
 自分が席を外している間に魔理沙はきっと動く。一応、全神経を居間の方に集中させ、彼らが何か話しても聞こえるようにしている。今のところ2人には会話がないようだが、目が届かないところで何が行われるか分かったものではない。
 急いで洗い物を終わらせよう。そう決めて手を素早く動かし続けていると、隣にいた慧音が話しかけてきた。

「なあ、妹紅。さきほどから魔理沙といがみあっているようだが、どうかしたのか?」
「う、あれは……」

 さすがにあれだけ盛大ににらみ合いをしていれば、気付かれないはずがない。何と言い訳したものか。そう考えている自分に、ふと妹紅は疑問を覚えた。
 どうして慧音に事情を話さないのか。
 彼女に話せば、きっと一緒に魔理沙を止めてくれるはずだ。自分なんかよりもっと的確に。
 なのにそれをしないのは何故か。考えてみて、すぐ理由に行き着くも、それをはっきりとした言葉にするのはためらわれた。魔理沙のあの寂しそうな顔を思い出し、ぎゅっと胸の痛みを感じる。

 結局、「なんでもない。気のせいだよ」と答えるにとどめた。慧音は「そうか」とそれ以上追及してこなかった。



 2人なら洗い物はすぐに終わる。最後の皿の水を拭き取り終えると、妹紅は早々に居間へと戻った。2人の気配は……特に動いておらず、妙な魔力も感じない。

 だが、居間に入ってすぐ、妹紅はちゃぶ台の上に見慣れない紙袋が置かれていることに気付く。手のひらサイズの小さなものだ。
 そして魔理沙が、何やらを手に持って、○○の口の前でぶらぶらさせていた。

「まあ、食べてみろって。けっこううまくできたんだぜ?」
「けどなあ、もうお腹いっぱいで眠くって……」
「まあまあ」

 魔理沙の手の中にあるのはクッキーだった。それを今にも○○の口の中へ運ぼうとしている。
 もはや疑う余地もあるまい。
 妹紅は全身をバネにして飛んだ。一足飛びに2人の間へと割り込む。

「はっ」
「うお!」

 魔理沙が避けるより先に、クッキーをくわえて奪い去る。
 『私が味見してあげるよ。ついでに全部食べてやってもいいよ』作戦である。
 ばりぼりばり。焼けた小麦粉の砕ける音が響いた。

 だが、妹紅はこの作戦を取ったことをすぐに後悔した。

「……うぐ」

 苦い。思わず戻してしまいそうなほど、猛烈に。
 例えるなら、ゴーヤとピーマンとくさやと唐辛子と味噌と納豆を、原型がなくなるまで混ぜ合わせ、1日発酵させたような、そんな味。

 なんとか喉の奥に押し込むものの、全身がこの味に拒絶反応を起こし、立っていられなくなった。せめて○○の前で吐き出すまいと、口を押えてうずくまる。
 惚れ薬については何の問題もない。自分に薬の類は効かない。だが、この苦さだけはいかんともしがたい。
 薬を入れるだけでなく、こんなものを○○に食べさせようとするなんて……『料理は相手を思いやって作るものです』という師匠の言葉を思い出す。
 ふつふつと怒りが湧いてきた妹紅は、舌のしびれが引くや、魔理沙に向かって勢いよく人差し指を向けた。

「魔理沙!」
「な、なんだよ」
「これをクッキーと呼び、あまつさえ人に食べさせようとするなんて、恥を知れ!」 
「むぐ、し、仕方ないだろ。だってあの薬の原液がやけに苦くてだな……あ」

 魔理沙が手で口を覆った。痛いところを突かれて、○○がいることを一瞬忘れていたのだろう。○○がきょとんとした顔をしていた。

「薬?」
「う、うう」

 魔理沙は焦っている。
 妹紅は数年来の友人の、ほんのわずかな表情の変化を悟った。協力者には断られ、策を練っても看破され、ついには○○に計画がばれそうになっている。もうこっそりと飲ませるのは不可能。こうなったら。
 覚悟を決めた彼女の顔を見れば、次に取るであろう、あまりにも潔く、あまりにもためらいがない暴挙も容易に推測できた。

「こうなったら……小細工はやめて強行突破だぜ!」

 懐から薬瓶を取り出し、ふたを開けて○○へ突撃――予想通りだった。
 妹紅は落ち着いていた。ゆっくりと右手を前に出し、

「はっ!」
「ぐはっ!」

 妖力の弾をひとつ射出。見事、魔理沙の腹部に直撃した。
 その衝撃は彼女の身体を軽く吹き飛ばした。弾丸のように本棚へと衝突し、雪崩のごとく本が崩れてくる。大量の埃が舞い上がり、魔理沙の身体はすっかり本の山にうもれていった。

「お、おいおい、喧嘩か?」

 ○○が目を剥いて驚いている。
 だが妹紅は答えず、鋭い視線を本の山へ投げかけていた。
 びんびんと感じていた。山の頂上から噴出する、マグマのような強大な魔力を。

 小さな手が本の隙間から突き出た。

「お前がそう出るなら……」

 地の底から出てきたような声。崩れる本の山から、声の主が這い出てくる。
 八卦炉がこちらを捉えていた。 

「上等だ! 表に出やがれ! 阿呆妹紅!」
「やってやるよ、馬鹿魔理沙!」

 まず、魔理沙が動いた。壁にたてかけていた箒をひっつかみ、柄にまたがるなり文字通り窓から『飛び』出した。風が灰色の埃を舞い散らし、原稿やら資料やらが吹き飛んでいく。
 それらの持ち主の顔色が蒼くなる中、次に妹紅が静かに動く。薄紅色の陽炎を身にまとい、ゆったりとした足取りで玄関を通り抜けていく。

 そうして2人の少女が陽光の下に消えていった。



 1人、取り残された○○。
 最初、辺りは水を打ったようにしんとしていたが、

「『マスタースパーク』!」
「『インペリシャブルシューティング』!」
「ちょっ、おまっ。いきなり耐久かよ!」
「問答無用!」
「むかっ! だったら全部吹き飛ばしてやるぜ! ダブルスパ……あ、あれ? 出ない? ま、待った!」
「待ったはなしだ!」
「くぅ、だったら全部避けてやる!」

 轟音、爆音、破壊音。
 うかがいしれるその壮絶さ。窓からは雷のような閃光が差し込んでくる。
 事態の急展開っぷりについていけなかった○○は、よろよろと立ち上がり、窓辺から空を見上げた。

「あー……きれいだなー」

 様々な色をした弾幕が、丸に四角にと形を作っていた。何本ものレーザーが閃き、形を流々に変化させていく。
 空に万華鏡が広がっているみたいで、寝ぼけ眼でもその美しさには息を呑んだ。

「な、何事だ?」

 慧音が慌てた様子で台所から戻ってきた。お盆を両手で持ち、何かを運んでいる。
 ○○が事情を説明すると、彼女は大きくため息を吐いた。

「また喧嘩か。まったく、あの2人はどうしていつも」
「なんだか今日はいつも以上に激しいみたいですね」
「自分で作った甘味のことも、妹紅は忘れているようだな」

 お盆に乗っていたのは白玉団子のあんみつだった。器は4つ。なかなかに本格的なデザートだ。

「○○、お茶はいるか?」
「あ、はい」
「よし……む、お茶がないな。急須も洗ってしまったし、他に飲み物は……ん? これは」

 慧音が床に転がる竹筒に目をとめた。魔理沙が持ってきたものだと慧音はすぐに気付いた。確か中にはお茶が入っていて、食事中○○の湯飲みに入れていたはずだ。なぜか妹紅が蒸発させていたが。
 あれもいがみあいの一種だったのだろうか。まあ、ちょうどいい飲み物を見つけたと思い、さっそく○○の湯飲みに中身を入れる。
 こぽこぽと注がれる、何の変哲もなさそうなお茶。

「○○、これを」
「ありがとうございます」
「私たちは先に食べておくか」
「そうですね。2人はまた戻ってくるでしょうし……うわ、これなんか苦いな」

 ○○がお茶を飲んで顔をしかめているのをよそに、慧音はあんみつの白玉をひとつスプーンですくい取り、口に運んだ。口内いっぱいに甘さが広がり、柔らかな食感に顔がほころぶ。妹紅は料理だけでなく甘味作りも上達したのかと思うと、慧音には嬉しくもあり、焦りもあった。
 自分も何か作るべきだろうか。『男は胃袋から掴め』と阿求によく言われていることを思い出し、少し考えてみる。

 手料理を作り、○○が喜んで食べてくれる場面を想像。

 これはいいかもしれない、まるで夫婦のようだ。

「○○、今度私が料理を……○○?」

 自分の横にある気配が、やけに近づいてきていることに気付いた。視線をやると、彼が、もう肌のふれそうな距離にいた。
 ゆっくりと、こちらに覆いかぶさるように。
 慧音はとっさに正面から受け止めた。
 男性特有の無骨な感触と、温かな体温が感じられた。

 ……沈黙。

 規則正しく吐かれる息と、衣擦れの音だけが響く。


 しばらくして、ぎゃあぎゃあと騒々しい2人組が、辺りの家具やら本やらに損害を与えながら、部屋に入ってきた。

「ぐぬぬ! ○○、これを飲め!」
「だからさせないって言ってるだろ! また燃やして……あれ? ○○? 慧音?」

 魔理沙と妹紅だった。2人とも服がところどころ焦げたり破れたりしていて、弾幕ごっこの壮絶さそのままと言った様子だ。

 だが、彼女たちの戦いの余韻はすぐに冷めた。
 目の前の光景に冷水をぶっかけられたからだ。

 2人はその場で立ち尽くし、凝視する。
 重なり合ったふたつの影。
 窓からの逆光でよく見えないけれども、明らかに2人は座りながら身体を……

「あ」

 魔理沙がちゃぶ台の上に置かれている湯飲みと竹筒に気付く。自分が持ってきたものなのだ、その正体が分からないはずがない。
 言葉を失い、顔を蒼くした魔理沙。
 その様子から、妹紅も机の上のものに気付き、顔色を失った。

「○○!」
「慧音!」

 この時、2人の胸中で膨らんだのはとても複雑な感情で、簡単に言葉にはできない代物だった。怒りではない。悲しみでもない。嫉妬でもない。あえて言うなら寂しさで、親しい人に置いていかれた時の気持ちに似ていたが、それよりももっと痛みが激しく、受け入れがたいものだった。
 そんな激しい気持ちを、到底溜めておいたままにはできない。けれど何と言葉にしていいのか分からず、すがるような声で2人の名を呼ぶことしかできなかったのだ。

 慧音の影が振り向いた。同時に、窓からの逆光がなりをひそめて人の輪郭を浮かび上がらせる。

「妹紅、魔理沙……」

 慧音の声に、妹紅と魔理沙はぎくりとした。足が動かなかった。もし慧音と○○がもう決定的な仲になっていて、慧音に「邪魔するな」と言われたり、顔を赤くして慌てられたりしたら……そうなったら、もう自分たちはどうするべきか分からない。とにかく胸が痛くて、寂しくて、怖い。

 視界が開ける。
 妹紅と魔理沙はぎゅっと縮こまる。

 そして――慧音が言った。

「寝ているんだから、静かにしろ」

 とても、呆れた顔で。

「へ?」
「寝て……る?」

 よく見ると、○○は寝ていた。慧音にもたれかかるようにして、静かに寝息を立てていた。

「限界だったようだな。寝てしまった」

 慧音がゆっくりと彼を押しはがし、床へ寝かせた。
 その様子を呆けた顔で眺めている妹紅と魔理沙。何が起こったのか……いや、『なぜ何も起こらなかったのか』。事態が飲み込めず、魔理沙などは驚きでその場に座り込んでしまっていた。
 その魔理沙の手から、1本の瓶が落ちた。ころころと床を転がり、慧音の膝に当たって止まる。
 感触に気付いてそれを見下ろした慧音は、すぐに顔を上げ、据えた目を2人に向けた。

「これはどういうことかな?」

 ごまかしはきかない。睨まれた2人は瞬時に悟った。


「これは偽物だ」

 洗いざらい白状した後、慧音からそう告げられた妹紅と魔理沙(2人とも正座中)は、衝撃的な事実にぽかんと口を開けるしかなかった。
 慧音は心底呆れた顔で説明する。

「最近、人里の近くで詐欺師が出没していてな。里の者も何人か被害にあっていて、注意喚起をしていたところだ。『万病に効く薬』だとか『美肌効果のある水』だとか、夢みたいな効能があるとうたって、実際は何の効果もないものを売りつけている。惚れ薬などというものは、今回初めて聞いたが」
「け、けど、私は実際に効果があるところ見たぞ! そこらへんを歩いてる女に、これを飲ませてだな!」
「そんなもの、その女が共犯者に決まっているだろう」
「な、なっ」

 至極もっともな事実を突きつけられ、魔理沙は狼狽する。信じたくなくとも、よくよく考えてみればその通り。そもそも○○が飲んで何も起こらなかったこと自体が、偽物である明白な証拠だった。
 口をぱくぱくさせて「あうあう」とうめき声を出す魔理沙。

「そ、そんな、じゃあ家にある薬全部が……」

 この世の絶望を全て背負ったかのように、地に手をつき落ち込む魔理沙。大量に買ったと言っていたが、そこまで落ち込むとはいったいどれだけのお金を出したのか。哀愁すら漂う背中を横目にしつつ、妹紅は『同情はすまい』と細く小さく息を吐いた。
 己の欲にかられて大事なことを無視した罰だ。自業自得と言う他ない。
 そもそも弾幕ごっこの最中の魔理沙も、得意のマスタースパークがきちんと出なかったりで不調だった。きっと心の底では迷いがあったのだろう。いっそ偽物だったおかげで、過ちを犯さずに済んだというものだ。
 これにて一件落着、と気を抜いていると、慧音が「妹紅もだ」と矛先を変えてきたので、反射的に姿勢を正す。

「少し考えれば偽物だと分かっただろうに。それを無駄にいがみあって。心配した私が損をした気分だ」
「あーうん。それはごめん」
「だいたい、永遠亭がこんな眉唾物を売りに出すはずもない」
「いや、それはどうかな……」

 永遠亭が人里で良心的な価格の薬を売っている以上、慧音の永遠亭に対する印象がそう低くないのは仕方ない。だが、惚れ薬だろうが媚薬だろうが、あそこは作りかねないと妹紅は見ている。今は売りに出していないだけで、薬の倉庫にでも眠っているに違いない。
 いつ、それが出回ってもおかしくないのだ。
 もし、自分が薬の購入を持ちかけられたら……月の姫辺りが悪そうな顔をして売りつけてきたら、どうするだろうか。ふと考え、決まりきった答えに妹紅は内心笑った。当然、絶対拒否。むしろ下卑た笑みを浮かべる姫の美しい横顔に、炎のパンチでもねじこんでやるだろう。

(……あれ?)

 ここで妹紅は引っかかるものを感じた。己の想像が現実になる確率を考えようとして、過去の経験を参考にしてみようとしたものの――ない。
 そう言えば、あの姫とは今も時々喧嘩をするけれども、○○絡みで嫌がらせを受けたことがない。というか、○○と一緒にいる時は、あの姫が絡んだ騒動なんて、一度も起きていない気がする。
 あれ? と思った。○○があの館の連中と関わり合いにならないのはいいことだけれど、あの姫が、こちらの大切なものにちょっかいを出してこないのも、なんだかおかしいような……

 「時に妹紅」と呼びかけられたので、思考を打ち切り、顔を上げた。慧音が残念そうな顔でこちらを見ている。

「先ほど、お前たちが暴れながら家に入ってきたが、その時にどちらかが蹴飛ばしたんだろうな、ほら」

 慧音が顎で示した先に、ある物体が4本の脚をぴんと逆立てて転がっていた。
 ちゃぶ台だと認識し、妹紅の表情は固まった。

「盛大に撒き散ったな、色々と」
「ああああ!」

 ちゃぶ台の上にあったのだろうあんみつが――○○のためにと思って何日も前から寒天の仕込みをし、甘味屋に頼み込んで黒蜜の作り方を聞き出し、師匠と一緒に餅をついてようやく完成した特製あんみつが、無残にも畳のシミと化していた。
 しかし、妹紅はまだ冷静だった。落ち着いて見ると、床に落ちている器は3つだけ。あと1つ残っているはずだと、周囲に目を走らせる。
 が、

「すまん、私の分は食べてしまった」

 慧音に空っぽの器を見せられ、妹紅は崩れ落ちた。

「は、ははは、あんみつが……」

 乾いた笑い声をあげ、身体中の力が抜けたかのようにがくりとうなだれた妹紅。奇しくも、隣の魔理沙とまったく同じポーズをとっていた。

 かくして、再起不能となった者が2名、眠りの世界に落ちている者が1名。

「今月の生活費全部突っ込んだってのに……」
「あんみつ……○○においしいって言ってもらえるはずだったのに……」
「すぅ、すぅ」

 各々がそれぞれの理由で地に伏している光景を、慧音は肩をすくめて眺めていた。

「やれやれ」

 こういう騒ぎを何度繰り返しているだろうか。呆れはするが飽きはしない。楽しい友人たちを持ったものだと慧音は微笑むのだった。


『間話』 ―皐月の30―


「あっははは!」
「むぅ、そんなに笑うなよ」

 ここは博麗神社。陽光に暖かく照らされた縁側で、少女2人がお茶と煎餅を囲んでいた。
 女の子同士で和やかに談笑、といった光景だが、笑っているのは片方だけで、もう一方は不機嫌そうに口を尖らせていた。

「魔法使いが偽物の薬つかまされるって……く、くくっ」

 笑っている方の少女、博麗霊夢が耐えきれないとばかりに腹を抱える。いつもだらだら泰然自若としている巫女が、珍しくも表情豊か、目の端に涙すら浮かべて大笑いしていた。

「し、仕方ないだろ。あの薬売り、なんか口が上手くってだな」

 尖った口で煎餅を割る少女は霧雨魔理沙。元気という言葉を体で表したような彼女が、これまた珍しく気落ちした顔を見せていた。それは、ただ友人に笑われたからだけではない。

 そもそも神社にやってきた時から、魔理沙はどうも元気がなく、勧められた煎餅もあまり手をつけなかったのだ。いつもは注意するまでバクバクと食べまくるのに。不思議に思った霊夢が「何かあったの?」と尋ねると、魔理沙が大仰そうに「実は」としてくれた話。
 これが霊夢の笑いのツボに入った。
 詐欺師に偽物の薬をつかまされて、今月の生活費がパー。しかもその偽薬を小説家に飲ませようとして、藤原妹紅と無駄な死闘を繰り広げたというのだ。
 これほどに『徒労』という言葉が似合う出来事、そうあるまい。

「あー、こんなに笑ったのは久々。いい顔の運動になったわ」

 手のひらでパタパタと顔を扇ぎつつ、霊夢は目尻にたまった笑い涙を拭き取る。
 魔理沙はますますふてくされた顔になった。

「むぅ、私は騙された側なんだぞ。少しは同情してくれたっていいだろ」
「他人の不幸は蜜の味って言うけど、友人の不幸は笑いの種になるもんなのよ。ま、せいぜい笑い話にでもして吹っ切れちゃうことね」
「けどなあ、私の家にはまだ箱が山積みで……」
「薬の? どんだけ買ったのよ。ばっかねえ」

 からかうように言ってやると、なんと魔理沙が本格的に落ちこみ始めた。がくりと肩を落とし、陰鬱なオーラをまき散らしている。
 霊夢は友人の意外な反応に、仕方ないと息を吐いた。ほんの少し、気を遣ってやることにした。

「だったら、その詐欺師でも捕まえてみたら?」

 提案するも、魔理沙の表情は晴れない。

「慧音が言うには、そいつ、最近姿をくらましてるみたいなんだ。次に現れた時は私も一緒になって捕まえてやるけどさ……絶対に八卦炉の炭にしてやる」

 魔理沙の低い声を聞き、霊夢はその詐欺師がちょっと気の毒になった。相当不満が溜まっている。先ほども、神社の上空で偶然光の三妖精と遭遇して、弾幕ごっこを吹っかけていたぐらいだ。
 その詐欺師とやら、妖精たちのようにマスタースパークで吹っ飛ばされるに違いない。

「そう言えばその八卦炉だけど、さっき妖精と弾幕ごっこしてた時、調子悪そうじゃなかった? ビームがちゃんと出てなかったけど」
「出ないというか、どうも自分が思った以上の出力になっちまうっていうか……いや、そんなことはどうでもよくてだな」

 魔理沙は再び大きくため息をつき、遠い目を空に向けた。 

「詐欺師を捕まえるにしてもだな、結局、今月ピンチなのは変わらないってわけだ……」
「お金は貸せないわよ」
「期待してないぜ」
「あっそ」

 代わりにせんべいを薦めると、魔理沙は3枚いっぺんにぶんどり、口に放り込んでばりぼりばり。少しは元気になったようだ。

「ねえ魔理沙」
「なんだ?」
「いっそのこと、本当に惚れ薬を手に入れたらいいのよ。自分で作るなり、永遠亭に売ってもらうなりして」
「むぐむぐ、いや、惚れ薬はもういい」

 今日一番の意外な返答だった。
 いぶかしんだ霊夢は、自分の湯飲みを縁側に置いて、すすっと魔理沙の方に身体を向き直した。

「どうして?」
「なんか違うんだよ。そりゃあ、あのときは私も一時の感情にまかせてあれこれやったけどさ……実際にあの場面を見たら、ちょっと、な」
「あの場面って、なによ」
「話すのもこっぱずかしいんだって」
「いいから」
「勘弁してくれって。ただ言えるのはさ、惚れ薬を使っても、自分も周りも納得できやしないっていうか、成功しても嬉しいというより傷つくだけっていうか……うわ、恥ずかしいこと言ってるな、おい」

 頭をぼりぼりと掻きながら、照れくさそうに顔を伏せる魔理沙。そこにはいつもと違った、成熟した考えが秘められているように見えて、霊夢はふぅんと感心する。
 この魔法使いと友達をやってきて幾数年。彼女が少女から女性への入り口に立てるぐらいには、月日も経ったようだ。
 よくも悪くも、彼と一緒にいて魔理沙は変わったのかもしれない。

「黒白泥棒とまで言われてるあんたが、ずいぶんと大人らしいことを言うようになったわね」
「大人しい?」
「違う違う。大人らしい」
「違いがよくわかんないけど……んーそりゃあな」

 魔理沙が照れ臭そうに頭を掻いた。

「結局私は、あいつの心の内ってのを、知ってみたいんだよな」
「心の内って、誰が好きかとか、そういうの?」
「んー、後は好みの女の子とか、ぐっとくる仕草とか」
「回りくどいわねえ。そんなの気にせず突撃! 玉砕!ってのがあんたでしょうに」
「あのなあ、玉砕はしたくないっての。それに告白しろとか言うんなら、無理だからな」
「どうしてよ」
「色々あるんだよ」

 憮然とした表情の魔理沙。何か事情がありそうにも見えたが、こんな顔をする相手を詰問するのも面倒なので、霊夢は「だったら」と話の方向性を変えることにした。

「○○さんを宴会にでも誘ってみる?」

 宴会――つまり博麗神社で時たま開かれる酒会。そのはっちゃけっぷりは尋常ではなく、酒の相乗効果もあり、皆が皆、普段見せない姿をさらけ出す。本音のひとつやふたつ、あそこにいれば簡単に漏らすだろう。
 そう思っての提案だったが、魔理沙は首を横に振った。

「そりゃあ、無理だな」
「どうして?」
「○○って、なんかこう、無礼講っていうか、そういう空気が苦手だって言ってたしな。実際、神社の宴会には何度か誘ったことあるけど、全部断られた」
「そう……だったら」

 霊夢は続けての提案を口にしようとして、ふと言葉を失った。
 魔理沙が「だったら?」と聞き返すが、霊夢は無視。「なんだよ」と不機嫌そうにする魔理沙を尻目に、霊夢は難しい顔をして考え込んでいた。

 突然のことだった。自分に似合わないことを言おうとしていることに、はたと気付いたのだ。そして戸惑いを覚えた。

『だったら、私が彼に告白でもしてみる?』

 どうしてこんな考えが浮かぶのか。確かにそうすれば、彼から何らかのリアクションが取れるかもしれない。けど、冗談でもこんなこと口にする人間だったか、自分は。
 改めて振り返ってみると、頭の中にあるうずうずとしたものにぶち当たり、霊夢はまた困惑した。

 彼のことが気になる。

 ただの人間でありながら、多くの人に影響を与える人。最近特にその名前を聞くようになった。作家としての名声だけではない。3人の女性から好かれ、喜劇のような毎日を送っていること、そして広い交友関係を持っていること、それが彼の名を知らしめている。
 けれど、彼自身が誰かと好き合い出したとか、そういう浮いた話は全然ない。それは何故だろうか。誰が見たって、いつも一緒にいる3人は美女・美少女だろう。そんな3人と常に一緒にいて、時にかいがいしく世話をされ、時にひっつかれれば、普通の男はコロッとやられるに違いない。だのに、それがない。
 動かない彼の心。それはただ鈍いだけなのか、それとも別の事情があるのか。
 彼の気持ちはいったい誰に向かうのか。いつも一緒にいる3人なのか、それとも?
 気になる。

 自分に似合わないことを考えているのは百も承知だった。それでも霊夢は気になって仕方がなかった。他人の色恋なんて馬鹿らしいはずだし、首を突っ込むなんて阿呆のやることなのに、今度ばかりはやけに気になる。
 言うなれば、いつも異変を解決する時に働く『勘』がうずうずしていた。
 そして、気になるものは確かめたくなるのが、博麗霊夢という少女だった。

「ねえ、魔理沙」
「ん?」
「○○さんの予定って、だいたい分かる?」
「予定? そりゃあ、あいつがいない時に家に行っても仕方ないから知ってるけど。なんでまた」
「ちょっと好奇心が膨らんできたのよ」
「はあ?」

 ちょうどいい話がこの間持ち込まれてきた。これを実行すれば……彼の心の内が少しは見えるだろう。
 ついでに人里の男たちからの面倒な依頼も果たせて、一石二鳥だ。
 自分から騒動を起こすなんて、いつぶりだろう。霊夢は自分でも意外なほどわくわくしていて、こみ上げてくる笑みをこらえることができないでいた。


Megalith 2013/11/23
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最終更新:2014年02月20日 00:32