いつの間にか、不意に現れるようになった少女だった。
 人付き合いは得意と言えない自分のところにどうして来るのかはわからなかったが、邪険に追い返すこともなかった。
 妖怪を怒らせたら怖い、という発想は、外から流れてきた身だからか少し薄かったから、別に恐怖からではない。
 宴会にも何回か引っ張られていったが、妙な知り合いが増えはしたが、怖い思いをすることはなかった。
 ただ、一度弾幕勝負を見たときに薄ら寒い思いになったのは確かだった。あんなものを向けられたらきっと消し飛んでしまう。
 それでも、たまに来る彼女を――古明地こいしを、追い返すことはなかった。




「えへへ、来ちゃった」
「ああ」

 戸を開けて入ってくるこいしに頷いて、青年は座れるように座布団を出した。
 いつの間にか入っていることもあるが、出来るだけ戸を開けて声をかけるように言っている。
 言っていても、気が付いたら向かいに座っていることもあるのだが。

「茶、飲むか」
「うん」

 いつも通りのやりとりをして、彼は湯呑みの準備をする。

「まったく、何故ここに来るんだ」
「わかんないや。ここに来たいって思ったのかも」
「それじゃあわからん」

 言いながら、彼はいつものようにこいしに茶を出していた。
 最初に会ったときも、とりあえず彼はこいしに茶を出した。
 どうしてかはわからない。まさにそれが無意識と呼ばれるものであったのかもしれない。
 それでも、それはいつの間にか、二人の間の挨拶のようなものになっていた。
 別段、何かにこだわってるわけではない。無味乾燥ともいえる彼の生活の一部らしく、ごく普通の茶だった。

「今日もいろんなとこに行ってきたの」
「そうか」

 頷きながら、彼は話の続きを促した。促されて、楽しそうにこいしは話し出す。
 それを聞きながら、ぽつ、ぽつと相槌を入れる。
 それはいつもの光景だった。




 いつしか彼はこいしが来るのを待ち望むようになっていた。
 仕事に出ているからいない日を伝えたり、いる時間なら好きなときに来るといい、と言ってしまったり。
 こいしも言われたとおりの時間に来るようになった。
 たまに、帰ってきたら家の中にいた、ということもあったが、それも嫌いではなかった。
 来ない日は退屈だと思うようになったし、来る日は年甲斐もなく心が躍った。
 そしていつの間にか、非常に居心地の良い関係が出来上がってしまっていた。




 その関係を壊すようなことをしたのは、青年の方だった。
 こいしが、愛しくてたらなくなっていたのだった。
 それでも、単なる恋ですめば、そこまでの想いで止められていたはずだった。
 ただの憧憬で済ませるには、彼は少し歳を取りすぎて、少し歪んでしまっていた。
 好きなだけでいい、思っているだけでいい。そう思い続けるのは、思った以上に辛かった。
 心を焦がすような恋慕と醜い独占欲に、彼は悩んだ。
 そして何より、こいしの向ける微笑みが彼を不安に駆り立てた。どこか儚げで、どこかに消えてしまいそうな笑み。
 快活で闊達に話す癖に、不意にいなくなってしまいそうな儚さに満ちたその姿に、彼は囚われていた。
 酷い焦燥。独占欲。自身で目を背けたくなるほど醜いその思いは、こいしに向かって牙を剥いた。





「またここに入り浸って。家族が心配するぞ」
「うん、でも、何でか来ちゃうんだよね」

 茶を飲みながら、こいしは首を傾げた。
 こちらの思いも知らないで、と彼は胸中で嘆息した。
 いや、知られない方がいいのだ、そう思い直す。
 こいしはそもそも覚りで、その瞳を閉じてしまったから読めないのだと聞いていた。
 この思いが知られてしまったら、どうなるか。
 そう、自分自身を抑えようと、必死になっていた、のに。

「それに、いつもどこかにふらふらしてるのはお姉ちゃんもみんな知ってるし、大丈夫だよ」

 いつものその笑みが、最後の引き金を引いた。どこかに消えてしまいそうなその微笑みが、最後の何かを取り去った。
 自分自身が何をしようとしているか気が付く前に、身体が動いていた。

「あれ、どうし……え?」

 こいしの肩に手を当て、強引に押し倒して、驚いたような彼女を組み伏せる。
 こいしの目は驚きに見開かれていた。きつく閉じられたままの第三の目と、とても対照的にも見えた。

「どう……した、の」
「……わからないか」

 動こうとするこいしを抑える。その際に、指が引っかかってこいしの上着のボタンを引きちぎった。
 白い肌が見えて、どこか倒錯的にすら見える。

「わからないよ……」
「わからないなら」

 くいと強引に顔を持ち上げ、その口唇を塞いだ。抵抗するのを押さえつけ、そのまま蹂躙する。
 無理矢理に口唇をこじ開けて、舌を差し入れ、思うがままに絡めとった。

「ん、ん……! や、んん」

 しばらく押さえつけていた口唇を離して、彼はこいしをまた真正面から見つめる。

「どう、して……?」
 そう呟いたこいしの目の端に浮かんだ涙を見た瞬間、酷い悔恨が彼を襲った。
 たった少しの衝動で取り返しの付かないことをしてしまったのだと、我に返った自分自身が告げる。
 愛しくて恋しくてたまらない相手に、こんなことをするなんて。

「……っ」

 押し殺したような、自身を食いちぎりかねないほどの唸りを漏らして、彼はこいしの上から退く。

「……帰れ。これ以上傷つけたくない」

 この上なく身勝手な言葉。
 こいしに背を向けて、殺されてもかまわないほどの思いで、いやいっそ自害したいほどの思いで、彼は呟いた。

「男の前で、そんなに無防備にするんじゃない。こういうことをしようとする奴だっているんだから」
「………………」
「……だから、もう帰るんだ」

 こいしの返答はない。彼はすぐには振り返ることが出来なかった。
 しばらくの時間の後、ようやく振り返ったとき、こいしはいなくなっていた。
 残ったのはただ、引きちぎってしまった彼女の服のボタンだけ。

「……これでいいんだ」

 それを拾いながら自分に言い聞かせるように、彼は小さく呟いた。
 これでいい。これでいいのだ。
 少なくとも、男というものがどれほど危険かはわかってくれただろう。
 その思いがさらに歪んでいるとわかっていて、彼は大きくため息をついた。




 数日が経った。



 さとりはこいしを探すため、地上に出ていた。ここ数日、全く帰ってきた様子がないため、少し心配になったのだった。

「いつものことなのはわかっているけれど……」

 ふと空を見上げれば、雲行きが怪しかった。もうじき雨が降ってくるだろう。
 早めに見つけたいわね、とさとりは小さく呟いた。
 最近は、地上で気に入った人間を見つけたのか、そこに入り浸っているのだと、帰ってくる度に楽しそうに話していた。
 霊夢か魔理沙かと思ったが、そうではなかった。普通の人間となると少し不安も残っていたが、楽しそうならば問題ないと思っていた。
 だがこうも帰ってこないと流石に心配になる。いつも定期連絡のように帰ってきて彼についての話を聞いただけに、だ。
 家の場所は聞き知っていたので、今は燐に案内してもらいつつ、その方向に向かっている。
 いずれこいしが世話になっている礼も言わなければと思っていたから、ちょうど良いと言えば良いと言えた。

「ああ、確かあの家ですよ……あれ?」
「あら?」

 二人の目に入ったのは、家を外からのぞき込んでいるこいしの姿だった。
 どこか気遣わしそうな表情にも見えて、さとりは燐と顔を見合わせる。

「『声をかけましょうか』、ね。そうね、そうしましょう」

 さとりは頷くと、妹に近寄り、声をかけた。

「こいし、何をしているの?」

 びくん、とこいしが驚いたように身を震わせる。こいしの不意を突くことなど本当に稀なだけに、逆にさとりが驚いた。

「こいし?」
「お姉ちゃん……?」

 こいしは目を見開いてさとりの方を振り返る。その服のボタンがちぎれ、乱れているのを見て、さとりはさらに驚いた。

「こいし、それは……!?」

 その声にさらに焦ったような表情をして、こいしは姿を消す。

「…………こいし?」

 さとりは差し延ばそうとした手を途中で止め、そして何かを思い切ったように家の引き戸に手をかけた。





 スパーンと良い音がして引き戸が開き、また同じくらい良い音がして引き戸が閉まった。

(何やってるんですかさとり様……!)
(止めないで、ここの人が何かを知ってるのは間違いないの)

 何やら外から声が聞こえる。彼は風呂上がりの服装を正しながら立ち上がった。
 どうせやることもない。こいしが来なくなって、彼は暇を持て余していた。
 立ち上がる際に、手元でいじっていたボタンをポケットにしまう。こいしのものだった。
 女々しい自分を胸中だけで嘲笑いながら、彼は戸口に出る。

「どちら様だ」

 ここまで不躾な知り合いは持ってない――と言おうとして、たいていの知り合いは不躾だったと思い返す。

「失礼いたしました」

 目の前にいたのは、一人の少女だった。人間か妖怪か。考えようとして、彼女の胸元に浮かんでいるものに視線を取られる。

「ああ、ええ。私は妖怪ですよ。古明地さとりと申します」
「古明地……」

 こいしの言葉を思い出す。姉がいること。姉を尊敬していること。そして姉は覚りとしての能力を捨てず、心が読めること。

「こいしから聞いていたのですか」
「ああ……うん」

 曖昧な返事をした彼の胸中に、苦味を伴った悔恨が首をもたげてくる。
 ポケットの中のボタンが、不意に存在を主張し始めたようにも感じた。
 こいしという名前が引き金になったのだろうか。自分の身をかきむしりたくなるほどの苦い後悔を思い出してしまった。
 無理矢理に押し倒したあのときの、こいしの表情。
 驚いたような戸惑っているような、どうしてこんなことをされるのかわかっていない表情。
 自分を責め苛むその後悔を押し殺そうとしたとき、声が聞こえた。

「……貴方は」

 見れば、さとりの顔から血の気が引いていた。そして次の瞬間、その表情が怒りに変わる。

「貴方は、こいしに何を!」

 身構えた彼女に、ああそうか、読んだのかと納得する。
 こいしを随分と大事に思っているようだとは知っていたから、当然だとも思った。
 何の弁解も意味はなさないだろう。彼がこいしを無理矢理手篭めにしようとしたのは事実なのだ。
 さとりの表情の怒気が強くなった。いろいろ納得して、そっと目を閉じる。ここで殺されてもおかしくないくらいは思っていた。


 何かが弾ける乾いた音がした。


 死を覚悟、というよりも甘受しようとしていた彼は、音に反して何も起こらなかったことに訝りながら目を開く。
 驚いた顔をしたさとりがいた。彼女は自分の手を見つめ、しばらく考え、そして深々とため息をつく。

「そう――そうなのね、こいし」

 出てきた言葉はさっぱり意味がわからないものだった。

「……こいしに免じて、今日は帰ります。貴方が本当にあの子を傷つけていたのだとしたら、私は貴方を許さなかったでしょうけれど」
「それは、どういう」
「答えは私からは言いません。言えないとも言えます」

 そして、仕方なさそうにもう一度大きく息を吐いた。

「……きちんと、こいしと話してあげてください。私からはそれだけです」

 そして、行きましょう、と傍らの燐に声をかけて、さとりは背を向けて行ってしまった。
 暗くなっていた空から、雨粒が落ちてくる。その雨に煙っていく景色の向こうに去っていく地底の主を、彼は茫然と見送った。





「さとり様、良かったんですか? あいつ、こいし様に何かしたんでしょう?」

 持ってきていた傘を差して、燐はさとりに尋ねかけた。

「ええ。でも、あの子は私が彼を傷つけることを望まなかったみたいだから」

 手のひらを見つめて、ふう、とさとりはため息をついた。

「私の不意をつけるのなんて、あの子くらいのものだものね」
「こいし様は、あいつのこと」
「……ええ、きっとそうなのでしょう」

 さとりは心底仕方なさそうな表情をする。

「どこまでも不器用なのね。こいしも、彼も」
「あたいとしては、こいし様に何かしたってのなら一発ぶっ飛ばしてやりたい気分ですが」
「それはこいしが怒るわよ。そういうことなの」
「難しいですね、どうも」
「ええ、難しいわ」

 それが心というものだもの、と、さとりは傘越しに後ろを振り返った。もう、家は見えなかった。





 一人残されて、彼はのろのろと床に腰を下ろす。
 そして、中空に視線を向けて、小さく呟きを漏らした。

「……こいし、いるのか」

 声は、ともすれば雨にかき消されそうになる。

「……いなくてもいい。俺は、お前に酷いことをした」

 知ってる、という囁きが聞こえてきそうだった。

「…………お前が、好きだった」

 ざあざあと、雨はどんどん強くなる。

「好きになるって言う気持ちは綺麗なだけじゃなかった。お前が綺麗だからなおさら。いや……言い訳だな。俺はお前が欲しかった」

 自嘲の色が言葉の端々に浮かぶ。

「……無意識なんて、俺にはわからない。ただ、お前の瞳に俺を写して欲しかった」

 どこか遠いその瞳で自分を見て欲しかった。その存在を留め置きたかった。
 ――ああ、なんと身勝手な感情なのか。

「だから」

 声がした。気のせいではなく、はっきりと。

「だから、私にあんなことしたの?」
「こいし」

 戸口の内側に、こいしが立っていた。頭の先から足下までびしょ濡れになっている。

「こいし、お前」
「……わからなかったの。貴方のことも、私が貴方のところにどうして来てるのかも」

 こいしは雨に濡れた顔を上げる。その瞳まで塗れているように見えた。

「わからなくて、けど来たくて。でもあんなことされて、ますますわからなくなっちゃって。来たいのに、来たくない気がして」

 ぽと、ぽと、とこいしの帽子から水滴が滴る。それを見て、彼はこいしに近寄り、その肩にそっと手を当てた。

「……こいし、湯はまだあるから身体を暖めろ。話はそれからだ。恨み言なんだろうが何だろうが全部聞く」
「風邪なんて引かないよ。妖怪だもの」
「精神的に良くないだろう。茶を入れてやるから」
「……いつもみたいに?」
「ああ、いつものように」

 こいしはふわりと微笑んだ。いつも愛しさとともに不安を呼び起こしていたその笑みが、とても美しく見えた。





「……美味しい」
「それは良かった」

 彼の上着を着て、こいしは温かいお茶を口に運ぶ。それを見ながら、彼は火の具合を確かめた。
 こいしの服は干している。この雨では明日の朝までに乾くかどうかも怪しいが、出来ることはしておこうと思っていた。

「…………あのね」
「うん」

 ことん、とこいしが彼の肩に身を寄せる。

「……お姉ちゃんが怒ってたとき、貴方に傷ついて欲しくないって思ったの」
「あれは、こいしか」
「うん、それに、お姉ちゃんに怒って欲しくもなかったの……たぶん」
「たぶんて」
「だって、私の思いは私にもよくわかんないんだもの」

 声は静かだった。静かに静かに、こいしは言葉を紡ぐ。

「けれど、やっぱり貴方の傍にいたいんだなあって。今、こうしてお茶をもらって、貴方に寄りかかって、そう思うの」
「……無防備にするなと言わなかったか」
「それは、言われたけど」

 でも、とこいしは彼に寄りかかったまま、双眸を閉じた。

「けれど、やっぱりこうしてると、何ていうのかなあ……落ち着く、感じなのかな」
「また襲われても知らないぞ」
「ふふ、大丈夫」
「何がだ」
「今の貴方は、絶対そんなことしないもん」

 見透かされたような気がして、彼は茶を啜った。

「……照れてる?」
「さあな」

 くすくす、と楽しそうに笑って、こいしはそっと薄く目を開いた。

「……私は、貴方が好き、なんだと思う」
「随分とまた、あやふやだな」
「うん、あやふや。けど、こうしていたのは、きっと本当」

 そっと、こいしの手が彼の手に重なる。振り払うこともせず、そうか、と彼は応えた。

「……俺は」
「ん」
「…………お前が好きだよ」

 何故こんなにこっぱずかしい告白をしているのだろうと思わなくもなかったが、気が付けば口から言葉は滑りでていた。
 無意識というものだろうか。あるいはそれこそが、想いの根元なのかもしれない。
 こいしは嬉しそうに微笑んで、彼にぎゅっと抱きついた。弾みで、彼は仰向けに倒される。

「ね」

 こいしは彼の上に乗って、小さく囁く。一枚しか着ていない上着の合わせや裾から白い肌が見えて、彼は目を逸らした。

「好きって気持ち、もっと教えて欲しいな」
「こいし、いろいろ際どい」
「今更」

 言いながら、こいしは彼の口唇を塞ぐ。全く不慣れな、たどたどしい口付けだった。

「……下手だな」

 気分を誤魔化すために呟いた一言に、むうとこいしはむくれた。

「いいじゃない。まだ二回目なんだもん」
「…………」

 ということは、あの押し倒したときが初めてだったのか。
 微妙な表情をする彼に、こいしは悪戯っぽい表情をした。

「初めては無理矢理だったから……次は、優しくしてくれるよね?」
「……だから、発言が際どい」
「ふふ、いいじゃない。ね?」

 つ、とこいしの指が口唇の上を滑る。一つ息をついて、彼はこいしの頬に手を当てた。

「こいし」
「ん?」
「……愛してる」

 それを聞いて顔を紅くしながらも嬉しそうに微笑んだこいしに、これ以上ないほど愛おしい気分で、彼はそっと口付けた。






 この一件の後、彼のところに楽しそうに訪ねていくこいしの姿がよく見られるようになった。
 彼自身は相変わらず無愛想だったが、方々の話題にちらほらと上り、興味を引かれた天狗が取材に来たりもした。
 どんな関係なのか、と興味津々で尋ねてきたその前で、「こういう関係だよ」と答えたこいしが彼にキスをし、それを扱った新聞で一騒動起こるのだが――
 それはまた、幸せな別の話。


Megalith 2011/11/05
──────────────────────

 地霊殿の一室。
 こいしが、ぼんやりと頬杖をついていた。
 青年と仲直り――というよりも、想いを交わして数日。
 こいしは、地霊殿でぼんやりしていた。



『一度帰って、姉さん達を安心させて来い』
 想いを交わし、一昼夜をともに過ごした後、彼はそう言った。
 随分と心配させているようだから、一度顔を出してこい。
 そして、出来るなら二、三日はおとなしくしていろ、と。
 彼の言葉に従い、こいしは地霊殿に帰ってきていた。
 さとりとも会話をし、彼とのことを話して納得してもらった。
 少し呆れられながら、心配されながら、ではあったが。



 そして、こいしは今、とてもぼんやりした気持ちで頬杖をついている。
 どうしてなのかはわからない。彼女の気持ちは自分でも遠い。

「はあ……」

 地霊殿に帰ってきてから、ずっとこうだった。どこか心此処に非ず――なのはいつものこととしても、ここまで茫羊としている様は珍しいものであった。
 ペット達にも心配されるほど、であるから、相当ぼんやりしてるのだろう、とこいしは感じていた。

「何でかなあ……」

 取り留めのない心。こいしには心は露ほどにもわからないが、自分がおかしいのはわかっていた。
 何が原因なのだろう。集められない心の内で、必死にこいしはそれが何かを探る。
 周りからみれば、思案していると言うよりやはりぼんやりと言えるようなその表情が、不意にくるりと変わった。

「あ、そっか」

 こいしは一つ頷くと、自室から外に出る。何となく、の思いのままに、廊下を軽快に歩き出す。
 そこには先程のぼんやりした様子はなく、どこか快活ささえ感じさせるものがあった。

「あ、お燐」
「こいし様? どうしました?」

 廊下を歩くペットの姿を見つけ、こいしは尋ねかける。

「ね、お姉ちゃんどこにいるかわかる?」
「さとり様ですか? たぶんいつもの執務室に……」
「そう、ありがとう」

 花が綻ぶような微笑みを向けて、こいしは姉の元に向かう。
 その笑顔に、燐がかつてのこいしの姿を、僅かにでも見出していたことにも気が付かず、思わず。




「お姉ちゃん」

 仕事をしていたさとりは、不意の訪問者に書類に落としていた視線を上げた。

「こいし、どうしたの?」
「その、ちょっと地上に行ってこようと思って」

 いい? と、こいしは首を傾げた。さとりは驚きに目を三つとも瞬かせる。
 いつもなら何も言わずに行くところを、わざわざ伺いを立てるなど思いもしなかったから。

「いいけれども。わざわざ声をかけにくるなんて珍しいわね」
「ん、何と、なく……?」

 こいしは帽子を外して、迷うように視線を宙に投げた。
 少し困ったように、眉がひそめられている。本当に困っているのかどうか、さとりには決して読みとれないが、今は本当に困っているようにも見えた。
 やがて、ぽつりと、こいしは呟く。

「……あの人が」
「え?」
「あんまり、心配させちゃだめだって……それで、かな」

 悩んでいるような声のまま、そう告げた。
 さとりは再び目を瞬かせ、そして優しげに目を細める。あの青年のことだというのは明白だった。
 自分達が何度言っても聞かないのに、彼の言葉がこいしの中に染み入っているのが、どこか嬉しく、少しだけ悔しくもあった。
 けれども、それはさとりとて、他人のことは言えないのかもしれない。
 様々な想いを一つ穏やかなため息にだけ凝縮して、さとりは頷いた。

「いいわ、行ってらっしゃい」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん」
「気を付けて。出来れば、数日の内には帰ってきてね」

 がんばるよ、という声を残して、笑顔を輝かせたこいしは風のように駆けだした。

「……心許せる相手がいるのは、悪いことではないけれど」

 少し心配なのよね、と言って、さとりは頬杖をつきつつ、妹の行き先を思った。






「あ、お仕事か……」

 こいしが辿り着いたのは無人の家だった。大抵、彼は里で何かしら仕事をしている。
 力仕事だ、と本人は言葉少なに言っていた。人付き合いも愛想もない人間だ、接客には向かないのだろう。
 それでも、クビにならないところをみると、そこそこ上手くは行っているに違いない。
 勝手に入れ、と合い鍵はもらっている。この幻想郷でどこまで鍵というものが役に立つかは別として、一応の形だけは整えていた。

「……こんなに、静かなんだ」

 誰もいない、がらんとした家は少しだけ寂しかった。
 無愛想で、素っ気ない、あの愛しい人がただいるだけでどれほど違うのか、こいしは何となく悟ったような想いになる。
 そう。こいしは『想う』。こいしは、自分でもわからないその心の中で、彼を想っているのだった。
 とてとてと歩を進めて、台所に顔を出す。夕飯の為のものだろうか、幾つか材料が置かれていた。

「……いいこと考えた」

 量的には一人分程だが、元よりこいしは妖だ。それほど食物を必要とはしない。
 ふわ、と綻ぶような微笑みを浮かべて、こいしは台所の主となるべく、袖をそっとまくった。





 夕闇に染まる前の、里から家へ続く道を、一人の青年が歩いている。
 手には中程度の徳利。それと、少しの肴が下げられていた。
 別段、買ったわけではない。仕事終わりに、よく働いてくれるからと分けてくれたのだ。

『愛想は悪いが、働きぶりはしっかりしてるからな』

 そう、老年に差し掛かったくらいの歳の雇い主は笑いながら言ってくれた。
 こんな自分を雇うくらいだから相当の変わり者だが、心から恩に思っている。

「……日が沈む前には帰れるな」

 山の端にかかって紅く染まった夕日を眺めながら、帰路を急ぐ。夜は流石に怖い。夜闇ではなく、こちらを喰らおうとする妖が、だ。
 その妖怪の、それもかなり畏れられ嫌われた者に恋した、というのは何とも皮肉なのかもしれない。
 逢いたい、と思った。だが、今は確か地底に帰っている。帰れと言った。家族を心配させるのは良いことではない。
 置いていかれた身だから、染みるほどにわかっている。だからもう外には何もない。
 いっそ逢いに行ってみるか、と思ったが、そこに辿り着くまでに喰われそうだと言うことと、明日も仕事という事実が心をとどめた。

「……ん」

 ようやく見え始めた我が家の異変に、彼は敏感に気がついた。灯が点いている。
 急ぎ足を駆け足に変えて、家までの距離を一気に詰める。誰だ。盗るようなものは何もない。だが、いやしかし。
 帰り着いて、鍵が開いているのを確認し、一気に開け放つ。

「わ、びっくりした」

 澄んだ、綺麗な声がした。幻聴かと思った。荒い息を整え整え、尋ねかける。

「……こいし、か」
「うん、ごめんね、勝手に入ってた」
「いや、いい。元々俺が言ってたことだ」

 どこかに置こうとしていたのか、帽子を手にしたこいしが顔を出した。
 今になって思い出す。そういえば、こいしには勝手に入れと鍵を渡したではないか。
 すっと、良い香りが彼の鼻腔をくすぐった。温かいものが煮込まれている香り。

「あ、言い忘れてた。おかえりなさい」
「………………ああ、ただいま」

 ただいま、などと、何年ぶりに口にするのだろうか。郷愁に足を取られないようにしながら、彼は居間に足を進める。

「飯、作ってくれたのか」
「うん、たぶん、これ使うんだろうなっていうのを見つけたから」
「……助かる、ありがとう」

 素直に礼を言えば、こいしは驚いたように目を瞬かせ、そして、手にした帽子で顔を隠すように、えへへ、と照れた声で微笑った。
 予想以上に可愛らしくて、思わず鼓動が跳ね上がる。

「……ああ、だとするとこいつはどうするかな」

 そんな自分の心を鎮めるためと、実際問題を解決するために手に提げた酒と肴を床に置く。

「それは?」
「仕事先の店主がくれた酒と肴だ。これだけでもいいと思ってたんだが」

 お前が作ってくれたことだしな、と呟いて、囲炉裏の方をみる。
 囲炉裏には、くつくつと音を立てる小さな鍋がかけられていた。綺麗に盛り合わされていて、見た目にも旨そうだと感じる。
 だが、その鍋の小ささに、一つ何か引っかかった。

「……こいし、お前の分は」
「ん、私は絶対ご飯必要ってわけじゃないし」

 何事もないことようにこいしが口にする。それはそうなのだと知ってはいるのだが。

「勝手に使っても良かったんだが」
「けど、余分な食料とかないんでしょ?」
「……一応数日分くらいはある」

 痛いところを突かれた。確かに、それほど裕福というわけではない。
 だが、自分一人だけ食べてこいしに何も出さないと言うのは、それはそれで気にくわない。

「あ。こいし、酒は飲めたな」
「ん、うん」
「よし、付き合え」

 もっとましな誘い方もあるだろうと思いながら、酒器を取り出す。
 ここに来て最初の頃に揃えることになったのはこれだった。何故だと最初は思ったが、今は理解している。

「あ、私が準備するよ」
「いや、いい。それよりよそっていてくれ。お前にもだ」
「え、でも」
「一緒に酒を飲みながら、同じ飯を食うというのも悪くないだろう」

 上手く回らない自分の言葉に、僅かに唸りを漏らす。もう少し気遣いや、優しい言い方もあるだろうに。

「……ん、じゃあ、一緒に食べる」
「……そうしてくれ」

 こいしの笑みはどこか優しくて、儚くも見えて、直視できなかった。






「美味い」

 料理を口にしながらそう呟いた彼に、こいしは嬉しそうに微笑んだ。
 しっかりと出汁を取った中に、具材が程良く煮込まれている。

「料理が出来たとは意外だった」

 全部ペットに任せていると聞いていたから、と、器を空にした彼は小さく続けた。

「昔は、お姉ちゃんと一緒によく作ってたから」

 そう、こいしは彼から器を受け取り、鍋からそれに具を移しながら応える。
 思おうとしているのかどうかも曖昧な記憶の中、姉と共に台所に並んだことが蘇っていた。
 遠い記憶は掴めないまま、彼に器を返す。思おうとしても、こいしの中は茫洋としてしまうから。

「こいし」
「え、あ、何?」
「…………美味い。酒にも合う」

 そう、猪口の酒を口にして、彼はそう言った。精一杯の甘言だということには、中々気付かれないだろう。
 こいしを除いては。ただこいしだけは、彼の無意識中に漂うそれを感じていた。

「ありがと」
「ん」

 黙って、彼は再び鍋をかきこむように食べ始めた。こいしもそっと、手元の猪口を口にする。清酒は辛かった。
 もう少し甘い方が好きかも、と、どこかで呟きながら、こいしはちびちびとそれを傾けた。
 彼の方は空けてしまったらしく、鍋を食べつつ、貰ってきたつまみを摘んでいる。
 それを見て、こいしは銚子を持ち、彼に向かって首を傾げた。

「どうぞ一献、って言うんだっけ?」

 その言葉に、彼は猪口を持ち上げた。それに、そっと酒を注ぐ。何故か少しだけ、緊張した。

「ありがとう」

 軽く頷いて、彼はその酒に少しばかり口を付けると、こいしの手から銚子を取り上げる。
 そして、こいしに視線だけで何かを促した。

「え、えっと、こう?」

 こいしが空になっていた猪口を手にすると、彼はそれに静かに酒を注いだ。

「ありがとう」
「……ああ」

 辛い酒に、また口を付ける。言葉は少ない。けれども、不思議と居心地は悪くなかった。
 こうやってお酒飲んだりするのも、気が付いてみれば初めてだというのに。
 ちびちびと飲みながら、言葉を交わしながら。ただ時間が過ぎるのを楽しむ。
 そして、料理も、酒もほとんど空いてしまった頃。
 くい、と不意に抱き寄せられ、膝の上に乗せられるように抱きしめられて、こいしは目を瞬かせる。

「どうしたの」
「……何となくだ」

 酒精を帯びた声で、彼はそっと囁いてくれた。何故か落ち着くその腕に、こいしは身を委ねる。

「…………嫌か」
「ううん」

 こいしは首を振った。彼が自分を抱きしめることが好きなことには気が付いていた。
 無論、どうしてなのかはこいしにはわからない。
 どこか消え入ってしまいそうなこいしを、必死につなぎ止めようとするが故、などとは、それこそ、全く思いもしていない。
 けれども、どうしてかこうしていたいのは、こいしの中でも確かなことだった。

「…………今日は、これくらいにしておくか」
「……うん」

 空になった銚子を振った彼に頷いて、それでもこの腕の中から出る気にはなれなくて。
 彼も離そうとしないのを良いことに、静かに黙ったまま、こいしは彼に抱かれていた。






 しばらくの後、ようやくこいしを離し、片付けを済ませ、交互に湯を使って、布団の中で横になった。
 流石に、一緒に浸かってはいない。いろいろな意味で大変なことになりそうだったので。

「あったかいー」

 こいしは彼に背を預ける形で、ぴっとりと身体をひっつけている。
 寝間着など持ってきているはずがないから、彼の上着を一枚ひっかけただけの格好だ。
 いろいろ視線に困るから、その格好はどうにかしてほしいのだが、と思いつつも、温もりを求めてこいしを後ろから抱きしめる。

「ん、気持ちいい」
「そういう声を出すな」

 何かを思わせる甘い声に苦みを帯びた声を口に出せば、「どうして?」と言いながら、こいしは身体を半ば振り向かせて尋ねてきた。
 わかりきっているだろうに、と思いながら、また強く抱きしめた。

「襲いそうになる」
「……襲いたい?」

 こいしの声は、どちらを向いているのかわからなかった。顔も伏せてしまっているから表情もわからない。
 しばらく葛藤があったものの、大きくため息をついて、彼はこいしに告げた。

「……今日は大人しくしてる」
「ん、そうなの?」
「明日は仕事だ。それに」

 ふわふわしたこいしの髪に口付けて、彼はまた一つ息をついた。

「……そこまで俺は獣できないつもりだ」
「……私にあんなことしたくせに」
「…………それに関しては一切否定はしない」

 こいしの声は嘆ずるというよりも、どこか甘くねだるような声色で、落ち着かない気分になる。
 だから、想いを伝えるために、声に出すのはこれだけ。

「……何日いられる」
「んと、何日かは。流石にずっとってわけにはいかないけど」
「明後日は休みをもらってる。お前さえ時間があるなら、里にでも出るか」
「それって」

 嬉しげに頬を染めて、こく、とこいしは腕の中で頷く。その赤くなった頬にも、軽く口付けた。

「……でも、いいの? 私と一緒に歩いてたら、妖怪と一緒にいる人だと思われるよ」
「俺が変人なのは今更だ。それに何も隠すことじゃない」

 正直な思いを口にする。口さがない者が言うならば言えばいいと思った。
 雇い主にだけは理解してほしいとは思うが――そうでなければ仕方がない、別の仕事を探すまでだった。

「……うん、隠すことじゃ、ないんだね」
「…………ああ」

 この言葉が後々に、天狗が取材するその目の前で、こいしに口唇を奪われる切っ掛けになるとは、このときは思いもしていなかったが。
 優しげな微笑みを浮かべたこいしの瞳が、重そうに一つ瞬いた。眠くなってきたのだろうか。
 ゆっくり休めばいい、と思うと同時、どうしても伝えたかった言葉だけ、伝えることにした。

「こいし」
「なあに?」

 眠そうな声に、出来るだけ優しく響くような声で、囁いた。

「逢いたかった。帰ってきて、お前がいて、嬉しかった」
「……うん、私も」

 逢いたかったの。そう囁く声を、その声ごと自分のものにするかのように、そっと口唇を塞ぐ。

「……えへへ、大好き」
「ああ、俺も」

 愛している。その言葉だけをその耳元に囁いて、全てを包み込むように抱きしめた。
 決して逃げていかぬように。決してこの腕からすり抜けていかぬように。



 里に出たら、何か買ってやろうか。
 何がいいだろうか、何が喜ぶだろうか。



 まるで子供のような自分の思いを弄びながら、すでに寝息を立て始めたこいしを抱いて、彼も眠りについた。

Megalith 2012/01/08
──────────────────────

「わあ、人がたくさんだねえ」

 こいしが、帽子を押さえながら里の中を見回した。
 里を、こいしと二人で歩くのは初めてだった。そもそも、彼自身も里をそれほど回らない。
 必要最低限の場所には赴くし、どんな店があるかも見てはいるが、用のないところに寄ったりしないからだ。
 こういうところは外にいた頃とあまり変わらないな、と思いながら、こいしの隣を歩く。

「いつもこんなもんだな。ああいや、俺の知ってる程度だが」
「旧都には人なんてほとんどいないもの」
「……まあ、確かに地獄だから……待て、少しはいるのか」
「いるよ。地上と交流が出来てから。ただうん、どうやって生きていくのかはまた別の話、ってお姉ちゃんとか鬼の人は言ってたかな。もちろん、きちんと生活してる人もいるけど」

 こいしは宙を見ながら、思い出すようにそう言った。

「そうか、まあ、妖ばかりなわけだしな」
「うん。貴方も、いつか来る?」
「今の流れでそれを言うのかお前は。……今はまだここにいる」

 少し沈黙した後、彼はそう告げた。こいしと恋人になったということは、そういうことも考えていくべきことであった。
 考えなければならない、ではない。そういう風に強制されるものでは、決して、ない。

「『今はまだ』ってことは、考えてはくれてる?」
「知らん」

 ぶっきらぼうに言って、彼は顔を背けた。どう応えればいいのかわからないし、これから先のことなどまだ何も考えられていなかった。
 こいしは目元を緩めて、そう、とだけ呟いた。伝わっているのかいないのかがわからず、何とも言えない不安に駆られて、彼は繋げるように呟いた。

「……考えることはたくさんある。それも一つだ」
「…………うん」

 こいしは頷いた。さらに言葉を繋げようか迷って、何を繋げればいいのかもわからず、彼は一つ息をつくにとどめた。

「とにかく、どこに行きたいとかあるか。あるなら聞くが」
「んー……貴方がお仕事してるところ?」
「よりにもよってそこを選ぶか……」

 大きく彼は肩を落とした。よく知る者のところに行くのは、こう、気恥ずかしさもある。
 だが、妖怪と歩いているのを他の者にも見られている。見られることは何も気にしてはいないが、雇い主の耳に間接的に入るより直接的な方が良いだろうと思った。

「わかった、行こう」
「うん」

 彼は、こっちだ、と言って、仕事場の方に足を向けた。



 店自体は、大きな通りからそう外れていない場所にある。

「ここが雇ってくれてるところだ」
「雑貨屋さん……だけじゃないのね」
「いろいろ修理もしてる。何でも屋だな」

 ただ、店主が老年なこともあり、力仕事の手伝いとして彼が雇われたのだった。そもそも外界で専門的に力仕事などをしていたわけではないが、年齢的なものはやはりある。
 ある程度務める中、自然と力仕事のコツも飲み込んできていた。継続は力なりとはよく言ったものである。
 益体もないことを思いながら、彼は店の入り口をくぐった。

「おやっさん、いますか」
「いるよ。どうした、今日は休みをくれてやったはずだが」

 ぶっきらぼうとも言える言葉が奥から聞こえた。彼はここに来た用件を話そうとする。

「ああ、いや、買い物の途中で」
「こんにちは」

 彼が説明する前に、隣からこいしが顔を出した。くるりと、店内を見回して中に入る。
 慌てて、彼もその後ろに続いた。店主は目を丸くしている。何か気に障るだろうか。彼が言葉を続けようとする前に、店主が先に口を開いた。

「おや、可愛いお客さんだな。なんだ、お前さんも意外と隅に置けないか」

 楽しそうに笑った店主は、こいの存在をあまり気にとめていないように見えた。

「おやっさん」
「いいってこった。うん、妖怪なんだろうが、可愛い嬢ちゃんじゃないか」

 意外にすんなりと受け止められて、彼は訝しげに眉をひそめる。
 その表情の意味すら読まれているのか、店主は首を振った。

「そんな顔すんな、言いたいことはわかる。まあだが、この里は結構妖怪の出入りも多いんでな」
「……慣れてるということで」
「そうだな。ああそれに、お前さんが自分から悪さをする奴じゃないのはわかってるし、お前さんが連れてるならまあ大丈夫だろう。大丈夫じゃなかったら、それは俺の目が曇っていただけの話さ」

 店主の声はむしろ優しかった。ごそごそと物入れから飴を取り出し、こいしに渡す。

「食べるかい」
「うん、ありがとう」

 こいしはもらった飴を口に入れた。お前もいるか、と勧められて、彼は首を振る。

「見ていくならどうぞ。ああ、だがあまり触るんじゃないぞ、危ないのもあるからな」
「はーい」

 こいしは店主に頷いて、店の中を歩き始める。

「……もっと、何か言われると思って」
「まあ、女連れというのには驚いたがな。なに、悪さするわけじゃないなら良かろうさ」

 店主は煙管入れから煙管を取り出し、口に咥えた。火を入れて、一つふかす。

「何だ、お前、俺に辞めさせられるとでも思ってたか」
「覚悟は」
「心配するな。人里ってのは妖の客もいて成り立ってる。里内では悪させんなら、親しく付き合うのも、何も気に止めんさ」
「……そういうものか」

 彼はそう言いつつも、安堵も感じていた。覚悟はしていたとは言え、やはり親しい者からの否定は辛い。
 だが、それであっても、彼はこいしを。

「……いっこだけ」
「何か」

 珍しそうに店内を見て回るこいしを見ながら、店主は彼に小さく告げた。

「あまり魅入られるなよ、人と妖っていうのは、そういうもんだ」
「……遅いかもしれない」
「……そうかよ」

 店主の瞳は全てを納得しているようで、彼は自分の雇い主を直視できなかった。

「明日は雨が降りそうだとか」
「?」
「もし降ったら客もそう来るまい。休んでもいいぞ」
「それは」

 くつくつと笑う店主に、彼は何か言おうと口を何度か開閉し、結局何も言えずにただ顔を背けた。





「いいお爺さんだったね」
「俺は散々だったがな」

 言内外にからかわれていた彼は、大きくため息をついた。

「ふふ、でも、悪くはないんでしょ?」
「……自分でもわからないところを突いてくるな、お前は」
「無意識なのかな。それは私の領分だし」

 こいしは首を傾げる。はあ、ともう一度ため息をついて、彼は近くの店に目を向けた。
 カフェのようになっているところだった。昼過ぎの、少し客のはけた時間だからか席も空いているようだった。

「どうしたの?」
「少し何か飲み物でも飲んでいくか?」
「え」

 意外そうな声を出されてしまった。

「嫌ならいいが」
「……ううん、寄ってく」

 こいしは首を振って、にこりと嬉しそうに微笑んだ。

「こういうの、デートって言うのかな」
「……そうかもな」

 ストレートに言われて、表情に困ったまま彼はこいしを連れて店に入った。
 周囲から見れば、さぞ滑稽に見えただろう。





 里を見て歩くついでに、日用品や食料も買っていくことにした。

「待て、こいし、ちょっと買っていく」
「ん、何を?」

 いろいろだ、と言いながら、こいしと一緒に店に入り、物品を選んでいく。
 ついでに、こいしに見つからないように、こっそりと小さな可愛らしい小物を買ってみた。
 小さな子猫の置物。地霊殿の部屋にでも置いてもらえればいいななど、らしくもない期待をしてみる。
 そういうのを表に出さず、会計を済ませる。

「これでいいの?」
「まあ、しばらくの備蓄もな。雨が降ったらいろいろ面倒だし」

 外に出て、彼は大きめのザックに買い出したものを入れなが背負いながら答えた。
 店主の言葉からして、実際雨が降るのだろう。長く住んでいる者はそういうことがわかるものだ。
 遠いことを思い出して、心が微かにざわめく。まだ外にいた頃。家族がいた頃。長く住んでいるから、そういうことはわかるのだと笑った家族のこと。
 もう何もない。外にはもう彼を留めるものは何もなかった。幻想になったのも、道理と言えば道理だ。向こうでは彼は本当にそれこそ――

「……? こいし?」

 過去の思いに一瞬囚われた隙だった。不意と、少しだけ意識を外してしまった。
 そう、本当に、一瞬だけだった、のに。



 こいしが、いない。



 どくん、と心臓が恐ろしいほど高く鼓動を刻んだ。口の中が急激に乾く。

「こいし!?」

 周りを見回す。急に大声を上げた彼を、何事かというように道行く者が振り返る。
 だが当然、そんな姿は彼の目には入らない。

「こいし……!?」

 元より手など繋いでいない。そんな行為はまだ気恥ずかしさがあった。
 あんなことまでして、と言う声も内心にはあったが、それは無視していた。
 無論、子供でもあるまいし、との思いもあった。だがそれを心底彼は後悔した。

「こいし、どこだ!」

 叫んで、彼は里の中を走り出す。覚えのある場所、今日訪ねた店。
 普段の様子からは想像も出来ないほど取り乱して、彼は駆ける。

「こいし!」

 誰か見なかったか、ここに来ていないか。回った店を巡り、暇そうにしている者に尋ねる。
 だが、当然ながら知っているはずもない。こいしは視界から外れれば、もう意識に残らない。そんな者いただろうかと、人々は思う。
 実際、そう言う答えが返ってくる。失望はしない。そういうものだと理解はしている。
 わかっている。わかっている。こいしはそういうものだ。ならば、ここまで焦っている己は何なのだ。
 ここまでの焦燥に駆られながら、こいしを探している己は何なのだ。
 迷子の時はどうするのか。じっと待つべきではないのか。
 そういうことも考えないまま彼は走っていた。それこそ、里の端から端まで駆けずり回る勢いで、彼は走り続けていた。





 上白沢慧音が彼女を見つけたのは全くの偶然からだった。
 店先の何かを眺めていたこいしが不意に慧音の方を向き、本当に偶然目が合った。ただそれだけのこと。

「……おや」
「……あら、守護者さん」

 それでも、存在を認識するのにはやや時間がかかった。当然のことでもある。こいしは路傍の石のようなもの。よほど意識を向けないとなかなか認識は難しい。

「失礼した、珍しかったのでつい」
「ううん、見つかっちゃった私も私だもの。あの人といると、どうしてもこうなっちゃうね」

 以前どこかで会ったときよりも茫洋とした様子だった。その瞳は遠くて、慧音は不思議に思う。
 聞きたいことは幾つかあった。ここで何をしているのだろうか、あの人とはどういうことだろうか。

「見たところ一人だが」
「ああ、うん、ええと、はぐれちゃった、のかな」

 こいしは首を傾げる。慧音は少し心配になった。そういえば、心を閉じているとか何とか、そういうことを聞いた気がする。

「一緒に、いたんだけど」
「それは、何というか」

 迷子のようだ、と慧音は思う。いや、実際こいしは迷子なのだろう。
 だが、それにしては様子がおかしい気がする。
 道を失ったとか、誰かとはぐれたとか、それだけでなく何かに迷っているようで――

「……迷子、なのかな」
「……そうだと、思うよ」
「どうしよう」

 困り切ったような声のように、慧音には聞こえた。慧音もどうしたものか、と思う。
 こいしが誰と一緒に来たのかもわからなければ、どうしたいのかも当然ながらわからない。

「どうしようか……」

 今度は口に出す。出しても何にもならないのはわかっているが、とにかく何か言語化しないと始まらない気がした。
 その瞬間だった。誰かが思いきり走っているような音が慧音の耳に届いた。音はまだ遠いが、こちらに近付いてくる。
 何事かあったのだろうか、そう思いながら近くなる音の方向に視線を向けた。
 一人の青年が走っていた。周囲を見回し、何かを必死で探しているように。

「あ」

 こいしが小さく声を上げて、ぴょんぴょんと跳ねて手を振った。
 青年がそれに気が付いた。わき目もふらず、こちらに一目散に駆けてくる。

「ここ、に、いたか」

 目の前で急停止して、ぜえぜえと大きく息をしながら、青年は言葉を絞り出していた。
 慧音は彼とこいしを交互に見て、こいしに尋ねる。

「保護者かな?」
「ううん、大好きな人」

 首を振って、こいしは青年の側に寄った。青年は息を切らせながら、こいしに視線を向けている。

「どこに、いっ……」

 青年の声は切れ切れだ。よほど駆け回ったのだろう、額には汗が滲んでいる。

「ごめんなさい、つい」
「あー……うん、ああ、いや、いい」

 何事か言おうとしていた青年は、しばらく言葉に迷ったような素振りの後、軽く首を振って、大きく深呼吸した。
 慧音は、その様子に目を瞬かせた。青年のことは知っている。外界から流れてきて、老年の店主の手伝いをしているはずだった。
 店主のところに顔を出しても、二言三言話す程度で、あまり人付き合いが好きなようには見えなかった。大抵静かに黙っているような青年だった。
 それが、ここまで感情を露わにして焦燥している姿を見ることになるとは思わなかったのだ。
 驚きを隠せないまま、こいしと何事か話していた彼は、ふと顔を上げて挨拶した。

「ああ、先生」

 ようやく慧音に気が付いたような声だった。ぺこり、と頭を下げる。慧音も軽く答礼した。

「こんにちは」
「ご迷惑をおかけして」
「いいや、大丈夫。貴方こそ大丈夫かな」
「大丈夫です」

 そう言いながら彼は少し安堵の表情を見せていた。それはこいしを見つけたことによるものか、それとも何も迷惑をかけていなかったことによるものか。

「うっかり、はぐれてしまって」
「そのようだね。まあ、人里も決して広くはないが、狭いというわけでもない。気を付けてな」
「ええ」

 骨身に染みました、と青年は小さく呟いた。傍らのこいしに何度も視線を向けている。
 それは恋人に向ける視線のような、それでいて、本当にそこにいるのか何度も確認しているような、そんな瞳だった。

「仲が良いのかな」
「それは、その」
「はいっ!」
「お、い」

 元気よく返事をしたのはこいしの方で、彼はほんの少し慌てた後、一つ咳払いをした。

「ああ、ったく、隠すことじゃないか。そういうことです、先生」

 何か拙いことでもあるだろうか。その目はそういうことを言っているように見えた。
 拙かったとしても、きっと彼は離さないのだろうなと確信めいたものを感じながら、慧音は首を振る。

「野暮なことを訊いたようだね。あまり惚気られると、珈琲か抹茶が欲しくなりそうだ」
「ああ、ええ。すみません」
「いいや。仲が良いことはいいことだよ」

 慧音の冗談を、彼は理解したようだった。微かに、口の端に笑みが浮かんでいる。
 こいしはきょとんと小首と傾げていたが、言いたいことは何となく伝わったようだ。

「ありがとう」

 こいしの言葉は、どういう意味を持っているのか不明瞭だった。ただ、にこりと微笑ったその表情はどこか柔らかい。
 慧音も一つ微笑みを返した。人妖の交流は珍しいことではない。人と妖の在り方は、形式的なもの、実際的なものといろいろあるが、こうした在り方もまたありなのだろう。
 ふっと、青年が空を見上げた。雲がかかりはじめているためわかりにくいが、夕刻に入りそうな時刻になっているのだった。

「ああ、晩遅くから雨かもしれないな、これは」
「では、俺達はそろそろ」

 彼はそう告げて、傍らのこいしの方にきちんと向き直った。

「行くか、こいし。先生、それでは」
「うん。それじゃあ、また」
「ああ、二人とも気を付けて」

 変な言葉かな、と思いつつ、慧音はそう返した。覚りも名のある妖だから、不安などそうあるわけはないはずなのに。
 一つ礼をして、二人は里の中に歩み去っていった。

「やれやれ」

 それを見ながら、慧音は軽く息をつく。そして、不器用そうに寄り添う二人を微笑ましそうな、それでいて気遣わしげな視線で見送った。





 しばらく無言で歩き続けて、先に口を開いたのはこいしだった。

「ね」
「ん」

 無言に堪えられなくなった、というわけではない。それこそ本当に「何となく」の域であった。

「いなくなったの、怒ってる?」
「……怒ってないと言えば嘘になるな」

 彼の声は静かだった。怒っているのかどうか、こいしにはわからない。
 ただ、こいしは彼の傍に寄る。許してほしい、というわけではない。彼のあんな表情を、こいしは見るとは思わなかったのだ。
 それが、こいしをざわめかせていた。どこに響いているのかも、何故響いているのかもわからない。
 亡くして見えない、感じないはずの心の奥に、だが何かが響いているのかもしれなかった。

「何を見てたんだ?」

 彼の問いに、こいしは首を傾げた。何を見ていたのだろうか。何故あれを見ていたのだろうか。
 それすらもわからない。さらに言えば、こいしはどうして彼の傍を離れてしまったのかもわかっていなかった。
 だが、こいしは確かに、もうしたくないな、と感じていた。どうしてかわからないけれども、彼にあんな表情をして欲しくない気が、した。
 もしかしたら、また、同じことを繰り返すかもしれないけど。

「何だろう、何だったっけ……」
「わかった、今度一緒に行こう」

 呆れたようなため息をついて、彼はそう告げた。
 それは彼なりのこの一件の締め方だったのかもしれない。こいしは何も思わぬ心でそう思った。
 また、次に。他愛もない約束でもある。だが、だからこそ、こいしには。

「うん、一緒に」
「ああ」

 彼はようやく笑ってくれた。こいしも、どうしてか嬉しくなって、頬を緩ませる。
 そのこいしの前に、手が差し出された。

「こいし」
「え?」

 不意のことに、こいしは目を瞬かせた。繋ごう、ということなのだろうか。
 思わず、彼の手と顔の間に視線を往復させてしまう。

「いやか」
「……繋ぐ」

 彼がこういった、ある種恋人らしいことをするのは非常に珍しい。
 それに、こいしには手を繋ぐという行為はあまり意味を持たない。手を繋いでも、こいしはいつの間にかすり抜けていってしまうからだ。
 けれども、このときこいしは手を繋いだ。何故だかわからないがそうしたいと思ったのだ。

「……何か温かい物食って帰るか」
「そんな余裕あるの?」
「お前は俺を何だと思って」

 一応蓄えはあるんだ、と、憮然とした表情で彼は呟く。
 その横顔をぼんやり見ながら、こいしは頷いた。

「……うん、食べてく」
「決まりだ」

 少しだけ笑んで、彼はこいしの手を握る手に少しだけ力を込めた。
 その手のひらは温かくて、こいしに何かを思い出させようとしたが、それが何かはわからなかった。
 ただ、遠い遠い心で、こいしは、手を繋いでいたいと思った。
 それだけで、きっと良いのだった。








「ああそうだ。心配かけてくれた埋め合わせは晩にきちんとしてもらうからな」
「え?」

 そう告げた彼の言葉は、少しだけ不穏なものだったけれども。


Megalith 2012/08/24
──────────────────────

 部屋の中、囲炉裏に火を入れて、古明地こいしはぼんやりと座っている。
 青年はいない。今日はまだ帰ってきていなかった。
 妙に遅い。普段ならばとっくに帰ってきている時分だった。どこかで外食でもしてきているのかと、料理は用意していない。
 こいしには食事はさほど必要ない。妖怪とはそういうものだ。
 それにしても遅い。雨が降りそうだったな、と呟く。呟きは遠い。帰ってくるまでに降ってしまうだろうか。
 湯だけは張ってしまおうと風呂場に入る。共用銭湯もあるが、こうして個人の部屋に付いている家もある。彼の家もそうだった。この長屋はそういう家が多い。
 こうした場所が取れているのは、里の中からは外れたところだから。長屋のような形とはいえ、土地に余裕がある。外来人の住むところはそういうところだ。
 それでもいろいろと協力して手を回し、湯を張ったりはできるようにしている。
 人は強かだ。どうやってでも生きていこうとする。故に、何をしているかわからない奴らと敬遠されることも、勿論ある。
 湯を張り終わって、こいしは静かな部屋の中でじっと座っている。今日来たのは唐突だったから、彼は何も知らない。
 遅くに帰ってきても、責めることはできなかった。ただ、少し心配にはなる。里の中だから、妖怪に襲われるということはないだろうが。
 不意に、がた、と戸のところで音がした。帰ってきたのだろうかと、こいしは戸を開ける。

「おや、いつぞやの嬢ちゃんか」

 戸の外にいたのは、青年が働いているところの老年の店主だった。その肩に担がれて、酔っ払っているらしい青年がいた。
 こいしは老店主と青年を交互に見て、目を瞬かせた。強い酒精の香りがする。

「あ、酔って、る?」
「おう。いやあ、ちょっと外せねえ飲み会でね。すまんなあ、嬢ちゃんが来てるなら早く帰せばよかった」
「ううん、大丈夫。私も、今日来たところだから」

 そう、老店主から彼を受け取る。ずるとそのままこいしに寄りかかってきてしまった。本当に随分飲んだらしい。
 老店主は少しばかり気がかりそうな顔をしていた。こいしにはその理由はわからない。不思議そうに首を傾げると、店主は軽く首を振った。

「すまないな、嬢ちゃん。明日明後日は休みだから、ゆっくりしろって言っておいてくれ」
「あ、うん。ありがとう」

 老主人は軽く手を振ると、彼を任せたまま戸を閉めて行ってしまった。こいしはとりあえず青年の履き物を脱がすと、囲炉裏の近くまで引っ張ってくる。
 こいしも妖だから、引っ張ってくること自体には問題はあまりない。問題は身体の大きさだった。こいしをすっぽりと包んでしまえる大きさなのだから、持ちにくいことこの上ない。

「……こいし?」

 酔眼が、こいしを捉えた。こいしは頷く。頷いて、青年の頬に手を伸ばした。

「大丈夫?」

 問いに対する返答はなかった。青年はおもむろに身体を起こすと、こいしの身体を引き寄せて強く抱きしめた。
 突然のことに対応できないこいしに、囁くような声が聞こえる。

「…………いてくれて、よかった」

 ぎゅうと抱きしめる腕は強くて、あまりに苦しくて、こいしはそれから一旦は逃れようと身を捩った。
 だが、その声と、青年の身体が震えているのを感じて、こいしは抵抗をやめた。何かを恐れるような震えだった。
 どうしたらいいのかわからなかった。こんな風に抱きしめられたことなどなかった。
 心が読めたらわかるのだろうか、と少しだけその亡い心に何かがよぎった。
 わからないまま、ぽんぽんとこいしは頭を撫でてやった。少しだけ抱きしめる力が緩んだ。代わりに縋るような手つきになっていた。
 こいしはそれを受け入れた。彼が落ち着くまで、こいしはずっとそうしていた。



「すま、ない」
「大丈夫」

 こいしを解放した青年の瞳には、まだ酔いが残っていた。特に酒に弱い男ではない。だから、何かがあって痛飲したのだろう。

「……お水飲んで、お風呂、入る?」

 青年は頷いた。こいしの差し出した水を一息に飲み干して、ふら、と立ち上がる。その後を追って、こいしも脱衣所に入った。

「……何してる」
「一人だと、危ないよ?」
「子供じゃ、ない」

 ゆらゆらしている様子は、どう見ても大丈夫ではない様子だった。こいしはそれを感じている。
 くらと大きく揺れた身体を支えて、こいしは駄目というように首を振る。

「ほら、駄目だよ」

 唸るような声が聞こえた。肩から力が抜ける。諦めたのだろう。
 服を脱がすのは拒否されたので、自分の分だけ脱ぐ。先に中に入って、湯の具合を確かめた。
 湯は少しぬるんでいた。けれども、それがちょうどいいようにも思えた。
 続いて入ってきた青年が、顔をしかめながら呟いた。

「……少しは隠さないか」
「今の貴方は何もできないし、私も抵抗できるよ?」

 彼は何も言わずため息だけをついた。それは事実でもあった。酔った状態の彼が何をしようと、こいしに抑えられるだろう。
 黙って頭から湯をかぶり、髪を洗い始めた青年の背後で、こいしも身体を洗う。
 こいしの方が小さいこと、青年が酔っていて行動が鈍いのとで、こいしの方が先に洗い終わってしまった。
 湯船で待つよりも、彼を手伝うことをこいしは優先した。手ぬぐいを石鹸で泡立てて、背中に当てる。

「おい」
「早く洗ってしまわないと風邪引くよ」

 妙に正論のこいしに、青年は何も言わなかった。ただ大人しく、背を洗われながら、自分でも酒の匂いを落とすように洗っていっている。

「何が、あったの?」
「……大したことじゃ、ない」

 返答はぽつりとした呟きだった。こいしは先を促さない。背に湯をかけた。泡が流れていく。酒の香りの残滓はだいぶ薄くなっていた。
 自分でも流し終わった青年は湯船に入ってしまう。それに合わせて、こいしも一緒に入った。青年の足の間に腰を下ろして、背を付ける。話の続きを待っていた。

「今日の飲み会、あまり気は進まなかったんだが、そこに、やたら飲む奴がいてな」
「……うん」

 普段の彼ならそれに付き合ったりは絶対にしない。人付き合いなどは最低限しかしない男だ。

「理由がな、そいつの妹が、嫁に行くんだそうで」
「うん」
「祝い酒だと、付き合ったら、飲み過ぎた」

 それだけならば。こいしは亡い心で思う。それだけならば、こんなにも寂しそうにするはずはない。
 だがそれについては、彼は特に何も言わなかった。飲み過ぎたことについてだけ続きを口にする。

「周りも巻き込んだらしい。今度会ったら、謝らなければならないな」
「覚えてるの?」
「不本意ながら。おやっさんに担がれてた辺りも、だいたい覚えてる」

 おやっさんにも礼を言わなければ、と青年は息を吐いた。こいしは、うん、と頷いて、明日明後日はお休みだって、と伝言を伝えた。

「二日酔いを心配されたかな。いやこれは残るというのもわかってるが……」
「飲み過ぎ注意だよ」
「肝に銘じておく。こんな醜態はもう晒さないようにしないとな……」

 額に手を当てて、青年はもう一度ため息をついた。こいしは少しだけ笑って頷いた。彼の調子が、少しばかり戻ってきていたからだった。



 風呂から出て、きちんと髪と身体を乾かし、もう一度水を用意した。

「もうだいぶ醒めた?」
「ああ。手間をかけた。ありがとう、こいし」

 こいしから水の入ったコップを受け取って、青年は大きく息をついた。随分酔いは醒めていた。

「ねえ」

 その様子を見ながら、こいしは尋ねた。尋ねていいのか彼女には判断する心がなく、だからこれは反射に等しかったのかもしれない。

「……私を抱きしめたことも、覚えてる?」

 青年は息を呑むように黙った。しばらく黙って、ゆっくりと頷く。

「……ああ」

 くいと水を飲み干して、コップを下ろして、そして青年は口を開いた。何を話すか、迷いながら口を開いた。

「俺の家族は、もういない」
「……初めて、聞いた」
「話すことでもなかった。思い出せば辛くもなる」

 けれどもこういうときには思い出してしまって、と青年は続けた。もう一杯水が欲しかった。こいしがまた入れにいってくれた。
 結局のところ、幻想郷に落ちてきて残るのはそういう者が大半だ。幸せな生活からこちらに、ならばすぐに帰ろうとするし、運良く帰れる機会に恵まれれば帰る者が多い。
 彼のように、帰る方法があっても帰らなかった者は、そのほとんどは、もう外に何もない者ばかりなのだ。何かを、どこにでもあるようなありふれた悲劇で、失った者ばかりなのだ。
 それらは彼らを悲劇のヒーローにもヒロインにもしてくれない。ただただ淡々と続く毎日に、どうしようもない喪失感だけを与えるだけだった。

「……何となく、柄にもなく寂しくなって、しまって」
「うん」

 戻ってきたこいしからコップを受け取り、今度はちびりちびりと飲みながら、青年は言葉を続ける。

「お前に縋った。すまない」
「いいよ、そんなこと」

 こいしは首を横に振った。事実だった。そうして、こいしは青年の頬に手を当てる。

「ごめんね」
「なぜ、謝る」

 ふるふるとこいしは首を振った。彼女の無意識を操る能力が、彼に干渉しているからではないかと考えていたのだった。

「……私の所為かも、しれないから」
「……お前の所為じゃない」

 彼はこいしの能力を聞かされている。能力についての理解はできていないが、何故謝っているかは理解できた。

「……いてくれて、よかった」
「……ん」

 ありがと、と言って、こいしは彼の口唇に口付けた。まだ慣れない口付けは、どこか優しかった。



 寝床に横になって、温もりを離さないように寄り添いながら、青年は再び口を開いた。
 いつになくよく喋るのは、まだ酔いが微かに残っているのかもしれない。いつものように彼の上着を一枚ひっかけただけの姿で、こいしはそれを聞いている。

「……いなくなってから気付く、なんてことは多くて」
「うん」

 だから、と、青年はこいしを見つめた。

「せめて、お前は姉さんと、家族を大事にしろ。してくれ」

 彼は自身の失ったものを、こいしに見ているわけではない。決して代わりのように思ってはいない。
 ただ、自分がなくしたものを、こいしには大事にして欲しかった。勿論、妖怪と人間でその感覚が違うのかもしれない、というのはあったが。
 これらの感覚は、彼自身ですらはっきり意識しているところではない。彼は、自分がそういう目で見ているのではないかと不安にすら思っていた。
 つまり、こいしだけが全てわかっているところのものだった。

「……うん」

 だからこいしは頷いた。頷いて、腕を伸ばして青年を抱きしめる。彼の顔を胸に押しつけるように抱いて、こいしは囁いた。

「でも、今は、私は、貴方の傍にいたい」
「……ありがとう」

 青年の頭に柔らかい感触がする。こいしがそこに口付けたのだった。
 それ自体は、心にどこか温かさを感じさせてくれるものだったが、同時にさらに抱き寄せられて、こいしの慎ましやかな、だが確かな柔らかさを顔に感じてしまう。

「……少し、苦しいんだが」
「私も、くすぐったい」

 こいしが、柔らかな、どこか甘い声で言った。
 少しだけ唸って、青年は腕を離させ、自分からこいしを包むような抱き方に変える。変な気分になる前に先手を打ったのだ。

「休むぞ」
「うん」

 抱きしめられて、こいしはふわと微笑った。いつものような儚げなものも含んでいたが、同時にどこか優しい笑みだった。
 青年は強くこいしを抱きしめた。儚げな笑みは、いつでも彼を不安にさせた。

「大丈夫、私は、ここにいるから」
「……ああ」

 青年は頷いて、こいしの顎に手を当てて自分の方を向かせた。

「……今日は、ありがとう」

 どういたしまして、と言うこいしの口唇を塞いで、その身体を強く抱いた。




 一人きりで不安になる夜など、これからいくらでもあるだろう。
 それでも、不意にこうして傍にいてくれる人がいれば、きっとそれにも耐えられると思った。
 それがまた、新たな不安を呼び起こすことになっても。
 今はただその温もりを、感じていよう。


うpろだ0041
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 店を訪ねたのは偶然だった。家に先に行くか、顔を出しておくか、迷ったわけでもない。
 何故なら、少女はそういったことを何も心に思い浮かべないから。
 だから、少女――古明地こいしは、その店の戸を引いた瞬間、中から響いた怒号に肩を竦めて驚くことになった。

「だから違うっつってんだろ! やり直せ!」

 店の表ではなく、奥の方から響く声だった。この店の老年の店主の声なのは理解できた。
 初めて、彼女の恋人に連れてきてもらってから、何度か会ったことがある。
 里の人間にしては珍しく、妖怪というものに偏見を持っていないことも知っていた。

「ああ、お客さんか、すみません……おお、嬢ちゃんか」
「こん、にちは」

 こいしは目を瞬かせたまま、朗らかな様子で出てきた店主に帽子を取って挨拶した。

「坊主に用か」
「ん、ううん、ちょっと、顔出しただけだから」

 そう、本当にそれだけだった。まさか怒鳴られているなど誰が想像しただろうか。
 店主は首を少し傾げ、店の隅に置いてある時計を眺めて、ああ、と呟いた。昼をだいぶ過ぎた、午の二つ刻になっていた。

「ちいと熱が入っちまったな。あいつに昼の休憩まだやってないから行ってくるといい」
「ええと、その」

 どうしようか、とこいしは亡い心で思ったが、とりあえず大人しく頷いた。
 よしと頷いて、店主は奥にまた顔を出す。

「おい、それ終わったら……何だ、出来てるじゃねえか、よしよし、それでいいんだ。嬢ちゃん来てるから一緒に飯行ってこい」

 店主の声が終わらぬ内に、ばたばたと慌てたような音がして、青年が顔を出した。

「こいし」
「ごめん、来ちゃった」

 いや、と首を振って、青年は店主に頭を下げた。少し待ってろとこいしに告げて、裏に下がっていく。
 すぐに手ぬぐいで手を拭きながら戻ってきた。手を洗ってきたらしい。

「寒いから身体冷やすなよ。嬢ちゃんもだ」
「はい」
「うん」

 良い返事をした二人に相好を崩して、行ってこい、と店主は言った。




「びっくりした」
「すまん。俺の手際が悪くてな」

 二人で入ったのは、ピークの時間が過ぎてもう人も疎らになり始めた労働者用の食堂だった。値段も手頃で量もある。
 人外がそっと入り込んでいることもあるらしいが、店員は見て見ぬ振りをしているらしい。こいしにもそうだった。
 こいしの場合は、本当に認識できているかどうか、が怪しいところではあるが。
 ともかく席に向かい合わせに座って、温かい蕎麦を啜りながら、青年はこいしに先ほどの説明をしていた。

「……ここのとこ、おやっさんに、仕事教えてもらってて」
「仕事?」
「一応、修理工らしくてな。手に技術持っておけば、潰しが利くから、と」

 そうして技術を教えられ始めたのはいつだったか、青年は少し首を傾げる。この前酔いつぶれたときの前後だったような気がした。
 まだ技術としては拙いが、確かに上昇している。少なくとも自分でそう感じられるくらいには。
 無論、まだ下手だし間違える。その度に怒鳴られもする。だが、上手く出来れば褒めてくれる。
 金を取って直すのだから、きちんと直さねばならない。そのために厳しく教える。
 厳格だが尤もな教えに、彼は反論しなかった。それどころか真面目に取り組むことにした。
 店主は言ったのだ。『「どこに行っても」潰しが利くから』と。それがどういうことなのか。
 青年はそこまでは語らず、こいしに視線を向ける。

「まあ、そういうわけで、多少また時間がかかる」
「うん、じゃあ、私はこの後、先に家で待ってるね」

 いいのか、という表情をした後、青年は了解を返して蕎麦を啜った。声がかかったのはそのときだった。

「おや、珍しい顔がおるなあ」
「あれ、こんにちは」

 青年は顔を上げて、こいしが挨拶した相手を見上げた。眼鏡をかけ、暖かそうなマフラーを着けた女性だった。
 何度か見たことはある。どこか洒脱な立ち振る舞いと、少し老練な喋り方の妙なバランスが意外にはまっていた。
 何をしている者なのかは知らない。退魔のようなことをしているという噂もあったし、賭場にいたという話も聞いたことがある。

「……どうも。こいし、知り合いか」
「うん、お寺に住んでるたぬ……」

 言い掛けたこいしの口を、さっと彼女が塞いだ。そのあまりの早さに、青年の方が目を瞬かせる。

「…………寺? 命蓮寺……ああ、もしや、まさか」
「もうこうなっては一緒か。まあこの子と一緒におるなら大丈夫じゃろうな。そうじゃ、儂はこういうものじゃよ。マミゾウという」

 息を吐いたマミゾウはそう、こいしの口から手を離し、自分の髪をちょっと持ち上げて見せた。
 一瞬だけ狸の耳が見えて、青年は驚いたような顔をする。その反応にくつくつと笑った後、こいしの隣にマミゾウは腰掛けた。
 二人の様子――随分親しそうな様子を見て、軽口を叩く。

「何じゃ、逢い引きの邪魔をした形になってしまったかな」
「いや、その」
「ん、そう、かも」

 こいしの返しの方に、マミゾウはおやという顔をした。こいしが心の亡い存在というのは、彼女も知っている。

「……こいしとは、知り合いですか」
「うん。ほらちょっと前にあったじゃろ、宗教戦争騒動」
「ああ、あのこいしがちょっとおかしかったとき」
「やはり何ぞ関わっておったんかこの子も。まあそのときにちょいとな」

 マミゾウは懐から煙管袋を取り出しながら、青年になおも話題を振る。

「どこで知り合ったんじゃ。妖怪をおそれんところを見ると、外来人か」
「外から来た。こいしとは……? いつか、初めて博麗神社の宴会に、誰かに、連れて行かれたとき」
「そういえば、あれ肝試し扱いされとるんじゃったか」
「はい。外来人だから、って連れてかれて。たぶん、会ってるならそのとき、だと思う」

 思う、という言葉に、マミゾウは妙な表情をした。こいしが説明を引き継ぐ。

「きちんとは、会ってないかも。でもそれから、私がこの人の家に、行くようになったの」
「は?」
「気が付いたら、訪ねてきてて。追い返す理由もないし、茶とか出してやってたら、よく来るようになって」

 それで、こういう感じです、と告げると、マミゾウは何とも言い難い呆れのような表情をした。

「……まあ、儂が言うのも変じゃが、互いに少し危機感というものをな」
「生きても死んでも、同じだとも思ってた、ので」

 青年の瞳に暗い陰がよぎる。マミゾウは見なかったことにした。こちらに落ちてきて帰りたがらない者など、大概そうだと知っているからだった。
 蕎麦を出汁まで啜ってしまって、青年は言葉を続ける。

「……こいしに関しては、全くその通りとは思いますが」
「そう、かな」
「お前は、もう少し俺を危険だと思えと」

 深々と息を吐いた青年に、なるほど、とマミゾウは目を細めた。自虐的で偽悪的。それでいて、深くこの無意識を想っているらしい。

「……そうかそうか。まあ、ここにきて前向きに生きてられるなら良いよ」
「きっと、多少は」

 マミゾウの言葉の意味を悟ってか悟らずか、青年は曖昧な、だが意外に素直な笑みを浮かべた。
 なるほど、素は恐らくもっと素直だったのだろう。何事かあってここまで屈折したのだろうか。
 だが、その思考は先には進まなかった。青年が笑んだ瞬間、こいしがすっと消えたのだった。
 それに対する反応は劇的だった。青年が音を立てて立ち上がろうとする。表情には焦燥があった。
 だが、立ち上がろうとしたのは寸でのところで制止された。したのはマミゾウではなかった。隣にいつの間にかやってきていたこいしだった。

「……こいし?」
「……?」

 こいしが、青年の袖を引いて首を傾げていた。青年と、今し方まで自分が座っていた席と、マミゾウを交互に見やる。
 どうしてここにいるのかわからない、という表情をした後、首を微かに傾げる。

「……あれ?」
「……急に、動くな」

 大きなため息と共に、青年は浮かしかけていた腰を下ろした。表情には焦燥と安堵が強い。
 マミゾウは目を丸くしていた。こいしの行動にか、青年の反応にか、どちらかはわからない。自身でも不明瞭だっただろう。

「勝手にいなくなって探させられるのはもう勘弁だぞ」
「ごめん、よく、わからなくて」
「いや、いてくれるなら、いいんだが」

 そういうやりとりをしばし眺めた後、マミゾウは軽いため息と共に冗談のような口調で告げた。

「……まあ、仲がよいのはよおくわかった。だから目の前でいちゃつくのはほどほどにしてくれんかの」

 その言葉に、青年の顔がさっと紅くなり、何でもないように咳払いして取り繕った。

「失礼。俺はそろそろ仕事に戻ります。それでは」
「あ、じゃあ、私も。また」
「ああ、気を付けてな」

 ひらひらと手を振って、マミゾウは二人を見送った。二人もそれぞれ挨拶をして、店を出ていく。



「……うむ」

 マミゾウは去っていった二人の後ろ姿をしばし眺め、やがて眉間を揉むように指を額に当てた。表情は厳しい。

「……あれは、まずいのう……」

 深々とため息を付いた後、近くに来た店員に、マミゾウは蕎麦を一杯注文する。
 注文が来るのを待ちながら、煙管に火を入れてくゆらせた。
 あの関係はよくない。互いに想い合っているようで――実際想い合っていたとしても、それがわからない。
 存在としてそれが理解できない。こいしはそういうもので、あの青年もこいしがそういう存在であることを理解している。
 理解していてなお、それでも想いを注ぐというある意味無為な行為。けれども青年はそうしてしまう。
 魅入られたか、と思う。妖に魅入られたか、魅入ってしまったか。
 そして同時に、自身ですら不可解な行動をしているこいし。こいしもまた、その彼の魅入りから抜け出せないのだ。
 それでありながら彼女は無意識だ。自身で気が付かないところでどこかに流れてしまう。
 そして本来、そうなったときに意識外に消えてしまうはずの彼女を、青年は逆に強く意識している。
 消えることを、いなくなってしまうことを何より恐れているあの反射的な行動。そしてそれが或いはこいしにも。

「……はて、さて」

 煙を吹かして、さらにマミゾウは思考を回す。何事かあってどちらかが喪われたら――さてどうなるのか。
 考えたくなかった。それはおそらく取り返しの付かない事態を生み出すのだろう。想像は難しくない。
 ふと、こいしを気にかけている自身の親友はどう思っているのだろうかと考えた。
 無意識は正体不明の内。彼女の親友は、無意識の上位者に当たるのだった。今度ちょっと聞いてみよう。
 聞いた結果、大妖怪たるその親友がその場で頭を抱えるという事態に陥るのだが、それは後日の、別の話となる。




 晩、思ったよりも早い時間で店主は青年を帰してくれた。
 こいしが来ることはわかっているだろうから、すっかり気を遣われてしまっているのだと実感する。
 はたして、彼の家にはもう灯が点っていた。鍵の開いている戸に手をかけ、声をかけながら中に入る

「ただいま」
「おかえりなさい」

 誰かに迎えてもらえるのがここまで嬉しいとは、と彼は自身でも不思議な思いを弄んでいた。
 こいしはそんなことを気にした風もなかった。慣れた様子で尋ねてくる。

「ご飯食べる? お湯も、用意してるけど」
「ああ、じゃあ、飯にしてから風呂をもらう。ありがとう」

 言いながら、仕事の荷物を置く。彼用の道具を工面してくれたのも店主だった。本当に頭が上がらない。
 出来たよ、というこいしの言葉に、卓につく。
 煮物と飯と吸い物、という簡素な食事だが、温かいものが食べられるのは何より有り難い。
 それに、こいしの腕は中々のもので、それを食べるのは彼の密かな楽しみだった。自身で味気なく作って食べるのに比べれば天と地だ。
 暫く箸を進める中で、青年はこいしに声をかけた。どうかけようか暫く迷っていたのだった。
「ああ、その」
「ん?」
「……この一週間、出ずっぱりだった。初めての、修理依頼、とかもあって」
 簡単なものだったけれど、と青年は言い訳がましく言ってから続ける。
「明日一日くらい、休憩しろ、って言われて」
 我ながら前置きの長い、と思う。あれこれと理屈をつけなければ、この一言さえ言うことも出来ないのだ。
「泊まっていけるか、こいし」
「……うん」
 こいしは少し目元を赤らめて、嬉しそうに頷いた。その意味が分かっていないわけではないだろう。もう何度も夜を共にした身なればなおさら。
 けれども、それでもそう応えてくれるこいしが直視できなくて、彼は食事に視線を落とした。晩飯は変わらず美味かった。


 風呂に入って、もう寝る用意までしてしまったところで、こいしが何か自分の荷物を取りに行った。
 何をしているのだろう、と眺める。そういえば今日は妙に荷物を隅に置いていた。
 寒いだろうに、と思っていると、すぐにこいしは戻ってきて、青年の隣に腰を下ろした。

「私から、これ」
「何だ」
「これ、渡しに来たかったの」

 こいしが渡してきたのは、小振りの箱だった。甘い香りがする。覚えのある香りだった。これは確か。

「チョコ、か。ああ、そうか今日は」
「バレンタイン、だっけ。お姉ちゃんも大事な人に作ってたから、私も一緒に作ったの」
「……そうか。いいのか」
「私も、大事な人に作りたかった、の。きっと。お姉ちゃんを見て、そう思ったの」

 こいしの言葉は、自身でも定まらないのか少し茫洋としていた。
 それでも、大事な人、という言葉が、何より嬉しい。こいしにそう『思って』もらえたなら、何より嬉しい。
 箱を開けると、小さなチョコが幾つも入っていた。頬が我知らず緩む。

「食っていいか」
「うん」

 返答を聞くのと、一つつまみ上げて口の中に放り込んだのはほぼ一緒だった。
 そういえば、チョコを食べるのは随分久々だった。懐かしいカカオの苦みと共に感じる柔らかな甘みが、疲れた身に嬉しい。
 口当たりがいいのは、他に何か混ぜているのだろうか。もう一つ食べたくなって、箱からつまみ上げる。

「その」
「ん、ああ、美味い」

 もう一つ放り込んだ後、また一つつまんでこいしの口元に持って行く。
 こいしは少し迷ったような素振りをした後、彼の指ごと口に含んだ。
 ちろ、と指に舌先が当たる。ぞくりとしたのを隠して、何ともないような口調で告げた。

「美味いだろう」
「ん……上手に、出来たかな」

 頷いて、こいしを抱き寄せるとその口唇を軽く塞いだ。チョコの甘い味が、舌先に残った。

「上出来だ。ありがとう、こいし」
「どういたしまして」

 青年の腕に身を委ねたまま、こいしは柔らかく笑んだ。
 その笑みは、いつものようにどこか儚げで美しくて、青年はもう一度口唇を奪った。
 残りは後にすればいいかと思っていた。どのみち、夜はまだ長い。



 長く甘い夜に、この無意識がどこかに行ってしまわないよう、強く抱きしめていた。


うpろだ0058
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最終更新:2016年11月19日 21:22