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―水無月の29―
現在、牛の刻を回った時分。私は自分の部屋でこれを書いている。
今日は1日の記憶、特に夜から深夜にかけての記憶がどうにもあやふやだった。今も夢と現実の境目があやふやで、ぼんやりした感覚に思考が覆われている。
今日はもう寝ようか。けれど、夜から深夜にかけて、何かとても大事なことが起こったはずで、私はそれを書かなくてはいけないのだ。なのに、何が起こったのか思い出せない。ある種の歯がゆさに急かされてペンを走らせている。
頭の中を整理しながら、1日を順に振り返っていこうと思う。そうすれば思い出せるかもしれない。
まず、朝のこと。とても珍しいことが起こった。
「あなた、最近働き通しでしょう? 姫様のお世話も今日はいいから、たまには仕事以外で外に出かけてみなさい」
お師匠からこの言葉を頂戴した時、私は最初何の冗談かと思った。ちょうど朝ご飯の片づけをしている時に言われたので、私はぽかんと口を開けて、危うく茶碗を落としそうになった。
「うどんげ?」
「あ……えと」
おかしい。いくら待てども「冗談よ」の一言が出てくる気配がない。どうやら本当らしい。
そう分かった途端、私は猛烈な怖気に襲われた。腕に鳥肌がびっしりと立ち、耳の裏側に変な汗が噴き出てきた。
普段厳しい人が不意に見せる優しさ、だがそこには何か裏があるのではないかと、怖がる……風見幽香の時にも感じたあれだ。
「あの、私、なにかすごいヘマでもしましたか?」
「どうして?」
「ついに永遠亭を追い出されるのかと……」
「あなたねえ」
心外だという顔をするお師匠だが、それすらも演技ではないかと疑うほどに、私には信じられない話だった。
普段から休みがないわけではない。永遠亭の家事を終わらせ、薬師としての修行もひと段落した後なら、ちゃんと自由時間が与えられている。
だが、代わりに自由時間以外にだらだらと過ごすことは決して許されていない。仕事は仕事、休みは休み、メリハリをきっちりとつけるのが永遠亭で働く者の義務である(と言ってもまともに働いているのは弟子の私ぐらいだろうけど)。
だから、家事やお世話をほっぽりだして今日1日を休暇にしていいなんて、お師匠の正気を疑いかねないお言葉なのだ。
「今月はあなたも色々忙しかったでしょう? 姫様の頼み事とか、新刊本の確保とか」
「ええ、まあ……」
「最近は姫様もずっと部屋にこもっていて大人しいし、急ぎの仕事があるわけでもないわ。家事は私が代わりにやっておくから、この辺りで一度休んでおきなさい」
にこりと笑ったお師匠からは、何の含みも邪気も感じない。まるで聖母のような微笑みを真正面から受け止めた私は、感極まり、涙がぽろりと流れ出た。
まさかお師匠からこんな優しい言葉をかけてもらえる日がくるとは。感無量としか言えない。どんな場所でも永く働いていれば、良いこともあるというのは本当だった。
いつも心の中で『極悪非道』だとか『薬学の怪物』とか『マッドサイエンティスト』とか、色々と失礼な呼び方をしていたが、本当のお師匠は……そう、お師匠は――
「来月はもっと忙しくなるでしょうし」
「え?」
「そろそろ新薬がぽんぽんできそうなのよ。体調を万全にしてもらわないと、きちんとした治験データは得られないでしょう?」
――お師匠は、聖母の笑みを浮かべながら人体実験ができる、そんなお人だということをすっかり忘れていた。
一抹の不安はあったものの、休みをくれるというのなら貰うのもやぶさかではなかったので、私は喜び勇んで外出した。
外に出た理由は、永遠亭にいるといつ姫様から命令を受けるか分からないから、というのがひとつ。もうひとつの理由は、突然貰えたお休みをどう活用していいか分からず、適当に外を出歩けば面白そうなことがあるかもしれないと思ったから。
あてもなく空を飛んでいると、今日も今日とて晴天の幻想郷の風が顔をうつ。梅雨明け以来、空は連日晴れの陽気を地上に降り注いでいる。
服装に失敗したかな、としばらくして思った。ネクタイシャツと紺色ジャケット、桃色スカートという完全な普段着は味気ない上、初夏の陽気には少々暑い。だからと言って、他に外出用の服なんて持っていないので、後悔しても仕方ないのだけれど。
つくづく私は女性らしくないな、と思った。薬学と家事にかまけてばかりで、外見を気にしたり、異性に魅力的と思われようとしたりなんて、ちっともできない。もし誰か男の人と逢い引きしても、私はこの服装のまま向かうだろう。きっと相手も幻滅する。生活感溢れるくたびれた服だ、なんて。
普通の女性なら、もっと着飾ったりするんだろうか。
そうやって服のことばかり考えていれば、持っていないなら買いに行けばいい、なんて考えに行きつくまで、そう時間はかからなかった。
たまの休みに買い物をする。悪くはない案だった。たまにはフリフリフリル服とか、うなじの見え隠れする艶やかな着物とか、そういう己を着飾る服を着てもいい。そうだ、『そういう服』が売っている場所に行こう。
そんな思いつきに従い、私は人里に針路を取った。
後に私は思うことになる――思いつきで得られるものにろくなものはない。
幻想郷に住んでいて常々思い知らされているのが、私は平均的感覚と凡庸な精神しか持ち合わせていないということ、ごく平凡な1妖怪であるということだ。吸血鬼や花妖怪、隙間妖怪、鴉天狗といった大御所とは、とてもではないが同じ価値観を持ち合わせていない。彼らは別格であり、規格外。はちゃめちゃすぎる。
私のような平凡な兎の精神構造は、むしろ人間に近いかもしれない。それもメイドさんや庭師さんのような超人の類ではなく、こう、一般的人間と同じような……いや、私は一般以下かも。
なまじ妖力なんて持っているから、自分でも時々『少しは特別かな?』なんて思ってしまうのだが、そんなことはない。自惚れもはなはだしい。ここでもう一度、自戒の意味も含めて書いておこう。
私は平凡な1妖怪であり、平均以下の精神力しか持ち合わせていないと。
服を着る目的とは何か? 防寒のため、社会通念のため、己の個性を発揮するため。いろいろこじつけることができるが、ひとつ「異性によく見てもらうため」という目的もあるはずだ。
お洒落な服を着て、特別な人に喜んでもらいたい。きれい、かわいいと言ってほしい。女性ならこう思って当然だろう。
だが、他人の好みを把握するのはなかなかに難しいもの。気合を入れて着飾っても、相手の好みに合わなくてはお金だけを損することになる。
そういうハズレを生まないためにはどうすればいいか? 簡単だ。1人であれこれ悩むよりも、相手に直接尋ねてしまった方が早い。
「ねえねえ、これってどうかな?」
「おっ、いいな。いつもよりかわいいぞ」
「むぅ、いつもはかわいくないの?」
「ははは、そんなことないよ。お前はいつもかわいいって」
「いやん」
たぶん、あの服屋にいた大量の恋人たちは、そんな狙いがあったのだと思う。
私が訪れた服屋は、人里の中心部に大きな看板を掲げる大店屋だった。この店は一般的な和装だけでなく、洋装も取りそろえたことで、特に若者に人気がある。この店の服を着ると「恋人ができやすい」という噂もあり、私がここに来たのもその噂を聞いたからなのだが、そもそも「恋人ができやすい」服というのは、異性によく見られる服ということなのだから、すでに恋人を持った男女も買い求めるのも当たり前の話だった。
「なあ、これ着てみてくれよ」
「ええー、丈が短いよぉ」
「それがいいんじゃないか。な? 俺に見せると思ってさ」
「しょうがないなあ、あなただけにだよ?」
こんな砂を吐きたくなる光景がそこかしこに広がる空間にいて、平凡以下の精神力しか持ち合わせていない私が、耐えられるはずがなかった。
よくもまあ恥ずかしげもなく、砂糖をそこかしこにまぶした甘い空間を展開するものだ。ある女が、自分の体にお洒落な服を当て、相手の男に「どう?」と甘えた声で尋ねるのはまだ序の口。服を試着した女を歯の浮くような台詞でほめる男、人混みではぐれないようにという建前で、しがみつくように男の腕にからみつく女。まるで接着剤でくっついているかのごとく指をからませている男女。あまつさえ顔を近づけ合ったり、身体を優しく撫で回し合ったりしている者たちもいて――ああ、書いているだけで鳥肌が立ってくる。
恋の熱気は店内の気温を2、3度引き上げ、独り身の憂き身を徹底的にさいなんでくる。店の入り口で呆然とその光景に臨んだ私は、ここで中に入ってしまえば、精神力がガリガリ削られて、ついには発狂すると予想し、早急に退散した。
私は平凡な1妖怪であり、平均以下の精神力しか持ち合わせていない。
故に、恋人たちの空間で厚顔無恥にも独り身の身体を漂わせることなど、できるはずがないのだ。
服を買うことを諦めた私は、人里の空を飛びながら、疲弊した精神を癒す場所を求めた。
よくよく考えれば、休暇とは体力と気力を回復させるためのものである。服選びにあれこれ悩むなんて愚の骨頂、もっと癒される場所に行かなくては。
なんて負け惜しみに近い思考をたどり、私はいくつか思いついた場所へと向かった。
だが、やはり思いつきにはろくなものがない。今日という日は徹底的に私の精神力をカンナで削る巡り合わせにあったらしく、私はそれから行く先々で難事に見舞われた。
まず、私はおいしいものを食べようと甘味処に向かったのだが、そこでは甘味より甘い光景が散りばめられていた。
「あーん」
「あむ。うまいなあ、これ」
「ふふふ。おいしいものを食べた時の貴方って、かわいい」
「よせやい」
あんみつを食べさせ合っている男女が放つ桃色幸せオーラは、触れると柔らかく、なめれば甘い。店内はそんなオーラを放つ恋人たちで満杯状態。ちょっと見ているだけで胸焼けを起こしてしまった私は、店員の「満席ですが、お待ちになりますか?」の問いかけに首を横に振り、早々に退散した。
次に向かったのは人形遣いの人形劇。週に1度、七色の人形遣いが人里で腕試しをしていて、今日がちょうどその日だった。娯楽は精神力を回復させるカンフル剤だし、気分転換にもなると思い、上演場所へと向かったまでは良かった。
まさか、人形が演じる恋物語より、遙かに熱い光景が広がっていると、誰が予想できるか。
「……ねえ、私があんな風に悪党にさらわれたら、助けてくれる?」
「もちろんだろ。命に代えても助けるさ」
「うれしいっ!」
「よしよし」
観客席にいるのが身を寄せ合った男女ばかりとあっては、さしもの人形遣いも、糸を繰る手を止めて眉をひそめるもの。
恋物語が悲劇になる前に見物料を投げ込み、早々と退散した。
人里はダメだと思い知らされ、できる限り人がいない場所にいようと思った私は、里から徒歩で四半刻ほどの川に行くにした。
別にそこは観光場所というわけではない。ただのおだやかな河川だ。ともすればつまらない場所と思われそうだが、水の流れには心を静める効果がある。
穏やかで健やかさな流水の音、川魚が優雅に泳ぐ様、川上から吹き下ろす風。そういったものに身を任せれば、自然と精神力が回復するというものだ。
里の外ならば人間もいないはず(妖怪に襲われるのだから)。これは良い考えだと喜び勇んで川辺に飛んでいった私は、やはり巡り合わせが悪かった。
妖怪の山から地上へと流れ落ちているその川は、幅は約20メートルほど。周囲に木はなく、過去に人間たちが行った治水活動の成果で、大きな土手ができていた。
雑草の生えた土手の上に立つと、川面を吹き抜ける涼しい風に身も心も癒される……はずだった。
「あはは」
「うふふ」
「幸せだね」
「幸せよ」
またかと思った。そして、まさかとも思った。
土手を下りた先に広がる河川敷。細かい石が絨毯のように敷き詰められ、長細い広場となっている場所には、多くの人影が連なっていた。
地縛霊でもいるのかと最初は思ったが、違った。それらは2人1組の男女たちであり、肩を寄せ合ってイチャコラしている恋人たちであった。まるで計ったかのように等間隔に並ぶ若者たちは、共に川面を眺め、ぼんやりと幸せ顔をしている。
広がる異質な幸福空間。
どうしてこんなところに、と思った。ここは里の外で、人間にとって絶対に安全とは言えない場所なのに、なぜ?
恋人たちはどこにでも現れるということなのか。逃げても逃げても追いかけてきて、無慈悲にも私の精神力をガリガリと削ってくる――私はフラリと土手に座り込んだ。
ここで私はひとつ弁明をしておきたい。
こう書くとまるで他の誰かがこの手記を読んでいるかのようだけれど、そんなことは決してないと断言しつつ、それでも私は万感の思いを込めてこれを書き、以降の私の行動に弁明を付したい。
私は決して、決して恋人たちの幸せをひがんだりしたわけではない! と。
そもそも私は恋愛に積極的じゃない。恋人が欲しいとか、素敵な恋をしたいだとか、そういう一般女性が常に気を揉むらしい問題を、特別意識したことがない。
世間は恋愛市場盛況の時代。人間同士だけではなく、妖怪と人間の恋愛も始まりかねない世相だ。世の人々はこぞって恋人を追い求め、『集団お見合い』だとかいう妙なお見合いをし、裏新聞では1人の男性と3人の女性の痴情のもつれを赤裸々に暴く有様。そんな世の中で、私は恋愛市場から常に距離を取ってきた。いや、取らざるを得なかった。
私にはそんなものに気をとめている暇がないのだ。薬師としての修行、永遠亭の家事、姫様のお世話と、やることはたくさんあり、とてもではないが男性に目を向ける時間も気力もない。魅力的だと思える人が、今までにいたわけでもない。
だから、恋愛なんて私には縁遠いものだった。姫様が裏新聞を読んで「妹紅め妹紅め」と渋い顔をしている光景とか、横で斜め読みしているてゐが笑いこけている光景とかを、私はどこか遠い世界のもののように見つめていた。
が、だからと言って興味がないわけでもない、というのが乙女心の難しさで、心のどこかで恋愛のことが引っかかっているのも事実だった。だからこそ「恋人ができやすくなる」という噂があった服屋に行ってしまったのだし、男女のつがいを見かけるとなんだか重苦しい思いに襲われもした。興味がないならそんな感情は起こらない。
恋人たちを見つめた時の感情を言葉にするならば、何だろう。敗北感というか、寂しさというか。別に恋愛市場の波にさらわれてはないけれど、なんとなく、自分の隣に立ってくれる人がいないことが、とても悲しく思えてしまうのだ。
長々と書いてしまったが、言いたいことは要するにこういうこと。男女のつがいが集う川辺で、1人寂しくたたずんでいた時の私は、己の処遇に悲しみがつのり、ずがんと精神的に沈んでしまっていたのだ、と。
そんな心神喪失状態では、馬鹿らしいことに手を染めてしまうのも無理はないと思ってもらいたい。
狂気の目を使って彼らの恋愛感情の波を狂わせる……こんなことを試みるなんて、いつもの私ならしない。
私は赤い瞳を男女の群れに向けていた。
人の感情を狂わせることはそう難しくはない。今は女の子1人だけに注がれている愛情の波を、ちょこっと他の女性にでも向けてやれば、彼らの関係は崩壊する(こんなことを本気で考えていた私は馬鹿でしかない)。
「妖怪発見! 退治させて頂きます!」
「へ?」
赤い瞳に妖力を込めたその時、目の前に突然人が降ってきた。
降ってきたという表現は的確だった。なにせ本当に真上から、突然私の視界に入ってきたのだ。
驚いて腰が抜けた。
「恋人たちの憩いの場を荒らすなど言語道断! 御覚悟を!」
その人は、直立姿勢で降り立ったやいなや、白い紙付の棒をビシッと突きつけてきた。
へたりこんでいた私の目に、緑色の髪と緑白の巫女装束がうつった。一見普通の美少女のようでありながら、その瞳からは神性な気配すら漂わせる少女。幻想郷に新しくきた神社の巫女さんだと分かったのは、その巫女さんの手からお札が出てきてからのことだった。
「どうしてくれましょうか! まずはこのお札でぐるぐる巻きにしましょうか!」
「あの」
「言い訳無用他言無用! 大人しくお縄におつきなさい!」
「いや、その、東風谷さんですよね?」
「さあさあよってらっしゃい見てらっしゃい……え?」
名前を呼ばれて口上をやめた彼女は、確かめるように私の顔を見て、あっと声をあげた。
「永遠亭の、えーと、鈴仙さんでしたね。こんにちは」
私のことを思い出したらしい東風谷早苗さんは、途端に輝く笑顔を浮かべ、かわいらしくお辞儀をした。先ほどまでの無駄に格好をつけた仕草とはえらい違いだった。
彼女は守矢神社の巫女、東風谷早苗。薬の訪問販売で守矢神社によく行くので、挨拶ぐらいはしたことがある。人となりまでは知らないけれど、いつも穏やかに境内を掃き掃除している姿を見ていたので、よもや「よってらっしゃい見てらっしゃい」などと謳い上げるお人とは想像もしていなかった。
あれが幻であったかのように、東風谷さんは上品かつ元気の良い笑顔を浮かべていた。
「いつもお薬ありがとうございます。すごく助かってます」
「いえ、こちらこそ」
「先ほどは失礼しました。妖怪がいると分かって勢いのままやっちゃいまして。まさか鈴仙さんが妖力の出所のわけないですもんね」
「……」
「けど、おかしいなあ、人間の方々に向けて放たれた妖力は、この辺りから感じられたと思ったんです。鈴仙さん、何か知りませんか?」
「……ええと」
私はすでに自分のしでかそうとしたことに気がついていた。なんと馬鹿なことを。穴があったら入りたい。
激しい自己嫌悪に陥っていた私は、まさか正直に答えることもできず、かと言って嘘もつけず、
「こ、東風谷さんはこちらで何を? なんだか妖怪退治っぽいことをしてるみたいですけど」
盛大に話をそらしてしまった。
「よくぞ聞いてくれました! この川岸は、守矢神社によって保護された、恋人たちのための憩いの場! 私は不逞の輩が出ないよう監視しているのです!」
どうやら話のツボを突いてしまったらしい。彼女は瞳をらんらんと輝かせ、またテンションの高い巫女さんに変貌した。あれは幻ではなかった。
「あそこにお社があるのが見えますか? あれは守矢神社の分社なんです」
「ああ、ありますね」
川のやや上流にそれらしきものがあった。鳥小屋に足をつけただけのように見える、とても小さいお社だ。
「妖怪の山に神社を置いていると、どうしても訪れる方は妖怪の方々ばかりになってしまいますからね。きちんと信仰を集めるならば、人間の方々にも名前を知ってもらわなくてはいけません」
「はあ」
「そこで、この川岸に守矢神社の分社を置き、妖怪変化に襲われない安全な憩いの場を作ることにしたのです。この辺りは景色もいいですし、川岸に座ればとてもすがすがしいでしょう? こんな良いところへ安全にお出かけできるならば、里の人たちが訪れてくれて、分社に信仰を捧げてくれるのではないかと思いまして……そうしたら見事に大当たり!」
猛烈な勢いでしゃべくる東風谷さんに若干引きつつ、こんなところにまで人間がいるのはそのせいかと納得した。
彼女曰く、今では多くの人が訪れてくれていて、特に恋人たちにはよい逢い引き場所として大人気。「縁結び効果がある」との噂も立ち、分社にはお賽銭がたんまりだとか(もう1つの神社の巫女さんが聞いたら暴れ回りそうだ)。
さらに守矢神社では、現在企画進行中の『集団お見合いツアー』とのコラボレーション(? どういう意味だろう)も考えている、いつかは人妖のつがいたちの憩いの場所にでもなればいいとか、云々。
「ここからもう少し川岸に近づいたところに結界を張っています。これで恋人たちは何者にも邪魔されずに済むというわけです。この結界は、私がいた方がさらに強固になるので、時々出向いているというわけですね。機会があれば説法でも行って、信者を増やすことができればいいなあ、なんて」
「……けど、イチャイチャするのに夢中な人たち相手じゃ、真面目な説法なんて聞いてくれないんじゃないですか?」
「いえいえ、そこは臨機応変にですよ。今の時代、お堅いお話だけで信仰は集められません。カジュアルでポップな話題で若いカップルの心もばっちり掴むんです」
えっへんと胸を張った東風谷さん。『カジュアルでポップ』というのがどういうものかは分からないが、もう1人の巫女さんと違ってえらい働き者なのは分かる。
熱心なんですね、と素直な感想を漏らすと、彼女は照れくさそうに笑った。
「いえいえ、これも巫女としての務めです。それに妖怪退治ってなんだか……格好いいような気がしてきまして。こう、弱い人を守るために戦うヒロインのような。そう思いませんか?」
「ひろいん?」
「あ、妖怪退治と言えば、結局妖力はどこから出てきたのでしょう。もうこの辺りには感じないみたいですけど……逃げたのでしょうか」
ブーメランのように戻ってきた話題に、私は内心ドキリとする。
東風谷さんは本当に気づいていないのか。妖力が感じられた場所に、妖怪である私がいる。他に疑いようがないはずだ。
ドギマギする私に対し、彼女は大真面目に「ひどいですよね」と呟いた。
「カップルの逢瀬を邪魔するなんて、大悪党です。大方、恋人たちを見てジェラシーでも感じたのでしょう」
「うっ」
「独り身の寂しさを言い訳にして暴挙に及んだとなれば、情状酌量の余地もなし。私だって男女のお付き合いなんてしたことありませんけど、懐を大きく持っているので、そんな負の感情を抱きませんし」
「うぅ」
「嘆かわしいことです。最近は人妖の交流すらも拒否する者も……あ、すみません変な話をして。そうそう。よければ恋愛成就のお守りを買っていきますか? 二柱の神様の御利益たっぷりで、きっと良いお相手が」
「……もう勘弁してください!」
「え、何がですか?」
この巫女さんは天然なのか、それとも気付いていて私を責めているのか。
どちらであろうといたたまれず、私は頭を下げることしかできなかった。
逃げるように川を後にした私は、それから長い間、空の上を漂っていた。どんなところを飛んでいたかはとんと覚えていない。ふわふわと、どこに行くでもなく、雲と連れだって風のまま流れていた。
雲の下にもぐりこめば、初夏の陽射しを気にしなくてすむ。静かな空間で1人ぽつねんといることは、恋人たちに打ちのめされ、どこに行く気力もなくした私を癒してくれた。
1度、氷精に弾幕ごっこを挑まれた。「あの家に挑むために、あたいは強くならなくちゃいけない!」などと意味不明なことを言っていたが、適当にあしらって追い返し、また目をつむって風に身を任せた。
空の色が変わり、夕焼けの光が辺りを包み始める。橙色の太陽を真正面に見据えながら、私は1日が無情に終わっていくやるせなさに肩を落とした。せっかくの休日が無駄に終わっていく。私の1日は、何も得るものがなかった。このまま家に帰れば、明日からまた忙しい日常の始まりだ。
それはあまりにもむなしかった。今日ばかりは何事にも追われることなく、充実した1日にしたかったのに。
かといって他に行く宛もなかった私は、渋々と帰路につくしかなかった。幻想郷の夕空を飛び、己のふがいなさにうちひしがれるばかり。
見慣れた竹林が眼下に広がる。この時間にふさわしく緑と橙がまじった光景は綺麗であったものの、私には物寂しい印象しか与えなかった。
そろそろ高度を落とそうとした時だった。竹林の一画から一筋の白い煙が上がっているのが見えて、私は静止した。火事と言うには細すぎ、焚き火と言うには白すぎるそれの下に、何があるのか。
もしかして。1つだけ心当たりがあり、私は自然とその煙の下へと吸い寄せられていった。
「そりゃあ、私だって興味がないわけじゃないんですよ? けど時間がないっていうか、かまけていられないっていうか」
「良い出会いがない?」
「そう! その通り! さすが店主さんは分かってる! 出会いがないんですよ。けれど自分から相手を探そうなんて気も起きないし、かといって受け身だと相手なんて一生見つからないみたいだし。皆、どうやって相手を見つけてるんだろ……あ、お酒、もう1杯お願いします」
「はーい」
お酒って怖い。普段は栓をしている愚痴やら何やらが、一気に噴き出してくる。
けどお酒って気持ちがいい。たまにはぼんやりと好き勝手に話をしたくなる。
竹林には月に何度か、八目鰻の屋台が現れる。夜雀のミスティアさんが経営している移動式屋台だ。リアカーに必要な設備と屋根をつけただけの簡素な店だが、八目鰻とお酒は無類の味を誇る。
という噂を聞いていた私は、本日このお店に初来店。
するとこれが大ハマり。八目鰻は美味しいし、ほどよい強さのお酒でほろ酔い気分。竹林をぼおっと照らす屋台の光の中、店主さんと向かい合っての食事というのがなんとも乙で、しかも彼女はどんな話でも嫌な顔せず聞いてくれた。
あまりにも居心地が良く、食事だけして帰ろうと決めていたのもどこへやら、いつの間にか今日の顛末を愚痴混じりに話すようになっていた。
「ほんと、最近の流行には困ったものですよ。恋愛の当事者になるのならまだしも、他人のそういうのを眺めて面白がっている人たちもいる始末ですし。平凡な私には、あれで楽しめる気持ちがほんとによく分からなくって」
「あー、確かにそういう人っていますね。私も、他人の恋愛の面白さはよく分からないです」
「ちなみに店主さん、そういうお相手は?」
「あらら、私に聞きます? 私だってお相手なんていませんよ。お客さんと一緒で、私も仕事が忙しいですから」
そう言って笑う店主さんに仲間意識のようなものを感じた私は、八目鰻をさらに注文した。店主さんも気前よく大きめの身を皿に乗せてくれた。
箸を入れ、食べて舌鼓。おいしさに心がほぐれた。
それで口が軽くなったのだろう。私は他にも色々とお喋りをしてしまった。永遠亭での愚痴とか、薬学修行の厳しさとか、色々と。他愛のない話だったろうに、店主さんは快く応じてくれて、加えて色々な話題で私を楽しませてくれもした。
例えば、屋台を訪れる変なお客さんの話。
「少し前に、男女おふたりが来店されたんですけどね」
「ふむふむ」
「どちらも礼儀正しい方で、とても良いお客さんなんですが、女性の方がそれはそれは男性のことを好きでいるらしくって、男性の言葉に一々一喜一憂していたんです」
「へえ。2人は恋人さんですか?」
「いえ、これが違うんですよ。女性の片思いというやつですね。で、2人とも、その日は雑談しながら飲み食いしていたんですが、男性があまりお酒に強い方ではなくて、ちょっと酔ってしまったんです。女性が心配そうに介抱していたのですが、ある時、酔った男性の手が女性の頭に伸びて、あろうことかナデナデしてしまった」
「……ただのいちゃつき話ですか?」
「いえいえ、問題はここからです。男性は普段そういうことを絶対にしない人で、だから女性はもう驚いて固まっちゃったんです。私もその時はイチャイチャが始まるのかと思ってハラハラしていたのですが、結局、男性は酔いつぶれて寝てしまった。すると、女性はどうしたと思います?」
「顔を赤くしてうつむいたとか?」
「いえ、屋台の壁に向かって頭突きをし始めました」
思わずお酒を吹き出しそうになった。
「ず、頭突き?」
「はい。そこの屋根の部分、少し欠けてるでしょう? 頭突きで壊れちゃったんです
だから今では、恋人っぽい人たちにはお酒を出し過ぎないようにしていると、店主さんは笑って話していた。
私は実際に欠けた屋根を見て、おかしなこともあるものだと思った。客商売をやっていれば変なお客さんに当たるのは当然だが、壁に頭突きをする人にはいまだかつて出会ったことがない。その女性の心中はいかほどに……何か我慢でもしていたのだろうか。
他にも楽しい話がいくつかあったが、特に印象に残っているのは、確か、私が近年の恋愛市場の盛況ぶりを不安に思い、「恋人を欲しがるのが普通なのかなあ」とぽつりと呟いた時の、あの話だ。覚えている限り書き留めておこう。
「慌てる必要はないと思いますよ」
「え?」
ただの独り言に返事をされて驚いた私は、傾けていたコップを机に置いて顔を上げた。提灯の光が店主さんの気恥ずかしそうな顔を照らし、「私が言うのもなんですけど」という言葉が柔らかく響いた。
「好きな男性がいるわけでもないんですよね?」
「まあ……」
「だったら、急いで恋人を作ろうとか思うことないですよ。無理矢理つないだ縁は、急ごしらえの八目鰻と一緒で味も深みもありません。タレにつけて焼いて、またタレにつけてを繰り返すみたいに、じっくりゆっくりと作っていかないと」
焼きたての八目鰻が1枚、皿に置かれた。そろそろお腹いっぱいだったのに、香ばしい匂いをかぐとまた食べたくなった。
「人と人、妖と妖、人と妖、どんな縁でも、急げばろくなことは起こりません。恋人探しもただの探し物も、似たようなもの。夢中で探している時は変なものを見つけてばかりで、本当に望んだものは全然見つからない。けど、泰然自若とした心で過ごしていると、ふとした時に見つかったりする……いえ、もしかしたら、もう見つけているのに気がついていないだけかもしれない」
「気がついていない? 恋人になるかもしれない人と出会ってるかもしれないってことですか?」
「はい。赤い糸なんて目に見えやしませんからね。自分の気がつかない内につながりがあるかもしれませんよ」
そう言われて振り返るものの、やはり全然そういう人に心当たりがない。そもそも私には男の知り合いなんてほとんどいない。
そう答えると、店主さんは当たり前だと笑った。
「考えてすぐに分かるものではないですからね、縁っていうのは。例えば、直接会ったことはなくても、何かの出来事や第三者を介して縁がつながることもありえます。
お客さんは薬売りをしていますよね? その薬を買った誰かが、他の誰かにその薬を勧めたとします。その誰かさんは薬の効きに感激して、こういう薬を作れる人を尊敬するかもしれません。その人が男性なら、薬売りが女性と知って恋心を抱くかもしれません」
「そんな単純な」
「はい、単純です。けれど、どんな複雑なことも単純なことの重なりで成り立っているものです。どこかで起こった何かに、実は自分が影響を与えている。反対に、どこかの誰かが行ったことが、実は自分に影響を与えている。そういう単純なつながりが、いくつも重なり、広がっていく。この複雑なつながりは、つまり『縁』という一言で表されます」
「また壮大な話になってきましたね……なんだか巫女さんの説法みたい」
「人との『縁』ってすごいことなんですよ。『縁』全てが糸みたいなものです。見えない糸だけれど、確実に他人とつながってる。普段は手や腕に数本しか絡んでいないと思っていても、少し見方を変えれば足や腰、全身に糸が絡んでいるのが分かる。時には思いもよらない人とつながっている」
本当に全身に糸が絡まっていたら窮屈そうだな、なんてことを考えつつ。
私が八目鰻の最後の一切れを口に入れると、店主さんの話もまとめに入った。
「大事なのは、この糸を無理に増やそうとするのではなく、1本1本をきちんと確かめること。古い糸は大事にし、新しい糸はゆっくりとたぐりよせる。そうすれば、だんだんと太くて丈夫な糸になっていき、芋づる式に色々と引き寄せられますよ。男性も女性も、人も妖怪も」
「その太い糸の先に、いつかは運命の人がいるかも、ってことですかね」
「はい。無理やり恋人を見つけようとするより、よっぽど良いと思いますよ」
無理に急ぐことなく、糸をたぐりよせるようにゆっくりと……
八目鰻をお酒で胃に流し込むと、頭がなおさらカッと熱くなり、ふらふらしていた。けれど私はきちんと店主さんの話を覚えていた。それぐらいに印象深かった。
恋愛市場が盛況だと、自分もそれに加わらなくてはと焦ってしまう。だが、急がなくていい。もっとゆっくり、確実に。そう気付かせてくれたこの教え。
どうでしょうと笑顔の店主さんに、私は「すごいです」と素直な感想を述べた。
「そんな風に考えられるなんて、すごい。なんだか感激してしまいました」
「感激、ですか。ほうほう」
「すごいなあ……私みたいな平凡な妖怪じゃ、そういうこと全然思いつかなくって。店主さんって、案外人生経験が豊富だったりで」
「実はこのお話、受け売りなんです」
「ほえ」と妙な声が私の口から出てきた。
店主さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「さっき、屋根を壊した男女のお話をしましたよね? その男の人が、お酒に酔うとこういう話ばかりするんです。ただし、私なんかよりもっと軽妙に」
「ほへー……」
「私のお話で感激するぐらいなら、お客さん、その男の人のお話を聞いたら、惚れちゃうかもしれませんね」
「ええっ!?」
「素敵な人ですよ? 色々な人にモテモテらしいです」
「い、いったい誰なんですか?」
「それはお客様の個人情報ですから、お答えできません」
けど、かなり有名な人ですと笑顔で締めくくった店主さんに、私はぐうの音も出なかった。はかられた。見も知らぬ男の人のお話に「感激した」なんて言って、なんだか恥ずかしい。
けれど実際にそう思ったのも確かで、もし男の人に今の話を流々とされたら、憧れのひとつも持つかもしれない。よって反論もできず。
「むぅ……お酒を追加してください!」
「はーい」
結局、誤魔化すようにお酒を飲むしかなかった。
私は普段、お酒をそれほど飲まない。姫様に付き合って嗜む程度だ。別にそこまで弱いわけじゃないが、周りに酒豪&大酒飲みがいると、自然と抑え気味にしてしまう。宴会でつぶされた人を介抱する役目はいつも私だ。
そんな私が限界を超えてガバガバ飲み続ければ、つぶれるのは当たり前だった。頭がぐるぐると回り、言葉もおぼつかなくなった私は、店主さんが「お客さん、あまりこのお酒を飲み過ぎると、身体が勝手に踊り出してしまいますよ」と心配してくれても、それが妙に可笑しくって、大笑いしてしまった。
「あはは! 身体が踊り出す? どうして?」
尋ねると、店主さんは「雀酒ですからね」と答えた。なんとも特別なお酒らしい。その名前の響きが私には大層可笑しく感じられた。
「雀酒ー、雀のお宿の雀酒ー」
なんて歌も即興で作ってみたり。
今思えばみっともない。店主さんもちょっと困った顔をしていた。
「お客さん、そろそろお帰りになった方がいいですよ」
「帰るぅ……? どこにぃ?」
「おうちです」
「ええー、やですよー。帰ったって結局、平凡な明日が待ってるだけですもぉん。家事やらー、雑用やらー、押しつけられるのはー、もーまぁっぴらだぁ!」
「けれどお客さんは、そういう生活も嫌じゃないのでは?」
「まさかー」
「おうちのことで色々と愚痴は聞きましたけれど、悪意のある悪口は一度も出ませんでした。そこがお客さんの帰る場所なんだ、って私は感じましたよ」
うぐっと言葉に詰まった。否定は……できない。それどころか永遠亭の皆の顔が唐突に頭に浮かんできて、一人でお酒を飲んでいることがやけに寂しく感じられた。
確かに私の帰るべき場所――いや、帰りたい場所は、お師匠や姫様、てゐ、子兎たちがいるあの家だけだ。
「……うー、分かりましたぁ、帰ります。ごちそうさまでしたー」
「はい、ありがとうございました。お会計は――」
それからどうやって永遠亭に帰ったのかとんと覚えていない。酔いの霧に目隠しされてよくもまあ、迷いの竹林を歩けたものだと自分で感心する。帰巣本能がまだあったのだろうか。
次に記憶に残っているのは、永遠亭が見えてほっと安心したことと、玄関で「うどんげさんのお帰りですよー」とお気楽声をあげるという迷惑行為に出たこと、そしてまずはお師匠に一言挨拶しようという義務感に駆られたことだ。
もう夜も遅いのに、なぜお師匠に会おうと思ったのか、私にもよく分からない。こんなに遅く帰ってきたのを詫びるつもりだったのか、それとも屋台で感じた寂しさを晴らしてもらうつもりだったのか。酒酔い人は時々意図不明な行動を取るものだ。
お師匠がいる場所=実験室という図式ができあがっている私は、千鳥足でその場所へ向かっていった。
ここからさらに記憶がとびとびになっている。現実感がなく、実際の出来事なのかの保証もない。それでも……あの時、何か大事なことがあったように思う。
ふらつく足で私は廊下を歩いていた。家の中はしんと静まりかえり、耳鳴りがしていた。静かで、暗くて、私の寂しさはますますひどくなっていた。
たどり着いた実験室には灯りがともっていた。お師匠はよく徹夜で薬剤調合をするので別段珍しいことではない。私は何の気なしに扉を叩いた。が、返事はなかった。
「おししょー?」
ふにゃふにゃ声で呼びかけるものの、やはり何も返ってこない。扉を開けて中をそっと覗いてみる。石油ランプが柔らかな光を放ち、誰もいない部屋を照らし続けていた。
なんだ、と落胆しつつ部屋に入った。机の上には調合途中の薬瓶や何かの粉が置かれている。ちょっと席を外しているようだ。少し待っていれば戻ってくるだろうと思い、近くの椅子に座って身体を休めた(さっさと帰ればいいものを)。
「うげ……気持ち悪くなってきたぁ」
座ったのをきっかけに、吐き気が猛烈にこみあげてきた。気を抜けば戻しそうになるのをなんとかこらえて、机に突っ伏した。
机の上には色々なものが置かれていた。確か数種類の薬草、滋養強壮に効く草の根、何かの怪物の牙、ぱっと見ただけでは何なのか分からない液体の数々があったと思う。また新薬でも作っていたのかもしれない。
朦朧とする意識の中、視線が壁際に向いた。焦点が、山積みにされた本に定まった。
薬学の専門書の塔ができていた。実験で使う資料だろう。難しそうな本ばかりで、背表紙を見ているだけで気持ち悪さが増幅しそうだ。
なんて思っていると、てっぺんに置かれている本――つまりお師匠がさっきまで読んでいたであろう本に気付き、私は「ひへー」と変な声をあげた。
『幻想日記』と書かれたシンプルな装丁の本。自分で買った本なだけに、すぐ分かった。
あの小説家さんの本だ。
(読んでるって聞いてたけど、本当なんだなあ……)
驚きで気持ち悪さが半分吹き飛んだ。
お堅い本が積まれている中、この娯楽本だけがやけに異彩を放っていた。お師匠がこの本を読み、他の愛読者たちのように笑ったり感動したりしているのが想像できなかった。むしろ幻想郷中が大号泣するお話を読んでも、涼しい顔で「まあまあね」と言ってのけるお師匠ならば容易に想像できた。
ここに私の知らないお師匠がいるような気がして、私はおぼつかない手つきで『幻想日記』を手に取ろうとした。
が、酔いどれ頭では距離感がつかめず、結果的に本の山を崩してしまう。
本が雪崩のように落ちていき、四方八方に散らばっていく。『幻想日記』も背表紙を下にして大きくページが開かれた。
と、その本のページの間から、1枚の白い紙がこぼれおちた。
「ん……まるひぃ?」
紙は折り畳められていたが、床に落ちたはずみで開いてしまっていた。『調査報告書』『医学的所見』『個人的私見』『丸秘(関係者以外閲覧禁止)』の文字がつづられている。
アルコールで頭がやられ始めていた私の目には、紙に書かれた文字が軽やかに踊っていて、見ているだけで気持ち悪くなってきた。もうまずい、意識が飛ぶ。そんな危機感を抱きつつ、しかし一方で娯楽本の間にはさまっていた紙がどうしても気になった。
一応自分も関係者なのだから大丈夫だろうと勝手に思い、拾い上げて、文章に目を通して……そして。
「うどんげ」
後ろから声をかけられたところを最後に、私の記憶は消失している。
次に目覚めた時、私は自分の部屋の布団の上にいた。
突然の場面転換に、私はものすごく当惑した。さっきまで実験室で座っていたのに、何故か今は自分の部屋で寝ている。何が起こったのか。
頭に残る酔いの欠片を自覚できてくると、ああ、倒れたのかと納得した。最後に聞いた声がお師匠のものだったので、多分運ばれてきたのだろう。
布団は気持ちよくて、疲れた心と身体を癒してくれた。
このまま寝ようかと思ったけれど、ふと、気絶する直前に見たものの記憶がすっぽり抜け落ちていることに気が付いた。あの丸秘と書かれた紙の中身……結局、あれは何だったのだろうか。私はあの時、そこに人の名前が書かれていたのを確かに見たはずなのに。
覚えている限りのことから推測するに、そこには誰かについてのことが詳しく書かれていて、そしてお師匠がその人についての個人的見解をつづっていた。医者であるお師匠が作るのだから、それはつまりカルテということか?
確証がない。記憶はあいまいだし、書類は『丸秘』だからもう簡単に拝むこともできない。そもそも勝手に見たことがお師匠にばれれば、大目玉ではすまない。
ああ、どうしよう。私は本当に、とんでもないものを見たはずだ。なのに思い出せないから余計不安になる。
もう寝よう。そして忘れよう。平凡な日常とこんにちはすれば、きっと気にならなくなる。うぅ、そう願いたい。
※
―水無月の30―
なんということだろう! こんな、こんなことが本当にあるっていうの!?
全てがつながっていた! この手記に書いていたことのほぼ全てが、裏でつながりを持ち、1人の男性へと収束していたなんて!
まるで複雑怪奇に絡まった糸の出所を見つけたかのようで……ああ、そうか。これが八目鰻屋台の店主さんが言っていた『縁』というもの? だとしたら、これは私の『縁』ではない。彼の、あの小説家さんの、すさまじい『縁』の力だ! 私の手記はその一端を記録していたに過ぎない!
私も、姫様も、あの娘3人も、博麗の巫女も、大妖怪も――幻想郷の人たちみんなが、あの人とつながっている。みんながあの人に影響を受けている。
いったい、この人はなんなの!?
……うん、落ち着こう。興奮しすぎているのが自分で分かる。落ち着こう。
けど、こんな風に書き殴ってしまうのも仕方ないぐらいに、今日、水無月の30は濃い1日だった。雪崩のように真実が明らかになってしまい、私はあたふたと逃げ惑ったあげく生き埋めになった。
もはや私は窒息しそうだ。
とりあえず、書こう。この濃い1日のことを。きっと今日だけで書ききれないから、2,3日ぐらい使ってコツコツと。
書いて書いて、書きつくして、真実の中でもがいて、なんとか脱け出した先に、何か大切なことが見えてきそうだから。
まず、今日の朝の体調は最悪だった。昨日のヤケ酒がたたり、目が覚めた時から二日酔いで頭がガンガンと痛んだ。いくら水を飲んでも気分が晴れず、全身がだるく、動くのもおっくうだった。
顔の青さをてゐに笑われ、姫様には「たかが二日酔いで」と鼻で笑われ(鬼と飲み比べできる姫様と比べないでほしい)、もう散々。
さらにさらに、朝食の席でお師匠に厳しいお叱りを受けたことで、私はもう再起不能なまでに落ち込んだ。
叱られた原因は無論、昨日のことだ。お師匠の実験室に無断に入り、あまつさえ部屋をめちゃくちゃに散らかして酔いつぶれたという失態、言い訳はできない。
お師匠が言うには、私はそれはそれは大回転していたとかで――いや、比喩とかじゃなくて、本当に地面を転がり回っていたらしい。
「まったく、帰るのが遅いと思っていたら、突然実験室に現れて……」
昨晩の顛末はこうだ。
お師匠はあの晩、重要な薬を作るために夜通し実験をしていたが、ちょっと飲み物を取りに席を外した。少しして湯飲みを持って戻ってくると、実験室には私がいて、ぼんやりと立ち尽くしていたのだとか。
いつの間に帰ってきたのかと思ったお師匠が声をかけると、私は飛び上がらんばかりにびくつき、「すみませんすみません!」と叫びながら走り出したのだという(逃げ出そうとでもしたのだろうか)。しかし酒に酔った私はまっすぐ走ることができず、すぐに態勢を崩して近くの机に倒れ込んだ。そこには調合途中の薬があり、それらをーー床にぶちまけたのだ!
しかも、無理して起き上がろうとした私はさらにバランスを崩し、机の端から端まで大回転して、本やら薬の素材やらを破壊したとかで……な、なんて恐ろしい愚行だろうか。
結局、私は色々なところをぶつけて気を失ったらしい。
朝食の場でこの恥ずかしい失態を暴露され、てゐと姫様にはおおいに笑われた。
そして極め付けが、お師匠のこの一言。
「せっかくの休みを居酒屋でヤケ酒飲んで過ごすなんて、もっと有意義な時間の使い方をしなさい」
胸にぐさりと刺さった。その通り、昨日の私は色々とダメダメだった。
お師匠に1週間のお風呂掃除を命じられ、私はもう反省しきりである。
滅入る気分に耐えながら、なんとか朝方の家事を終わらせた私は、いつも通り薬学修業に励むために実験室へ向かった。
正直、お師匠に会うのはかなり気が引けた。調合中の薬を台無しにするなどという大失敗を、お師匠が朝のお叱りと風呂掃除程度で許してくれたとは思えない。もしかしたら、罰としてまた変な薬を飲まされて、身体を緑色にされたりするのかも……などと想像すると、二日酔いで青い顔がますます青くなる。
煩悶しつつも、逃げ出すわけにもいかない。意を決して私は実験室の扉を叩いた。
「うどんげ? 入りなさい」
思ったより柔らかな返事に、少し安心して中に入る。
お師匠は椅子に座り、何か書きものをしていた。
「ちょうどいいところに来てくれたわ。ちょっと頼みたいことが……あら、あなた、やけに顔が青いわね。どうかした?」
「あ、いえ、ちょっと体調が」
「ああ、二日酔いがまだ残っているのね。ん、だったらちょうどいいわ、これを飲んでみなさい」
そう言って薬瓶を差し出してきたお師匠。
きたっ! と思った。反省の意味を込めた治験に違いない。頭の中で警戒警報が鳴り出す。
だが、お師匠はそんな私の心中を察したのか、「大丈夫よ」と言い添えた。
「これはただの気付け薬みたいなもの。私が作ったものじゃないわ」
「え……じゃあ」
「隣で陰気臭い顔をされていたら、こっちの気も滅入ってくるわ。ほら、飲んで元気を出しなさい」
私は愕然とした。聖母のような微笑みを浮かべたお師匠が眩しくて、これは本当にお師匠なのかと疑ってしまったほどだ。
手渡された薬瓶をじっと見てみる。ラベルも何も貼られていないが、確かにこの瓶は永遠亭で扱っているものではない。ということは、お師匠がわざわざ買ってきてくれたのか。
「あ、ありがとうございます! いただきます!」
今までの苦労がついに報われたのだと思い、私は一息に瓶の中身を口の中に入れた。
――もしここに誰か第三者がいて、その人が賢明な思考の持ち主ならば、きっと私を馬鹿だと笑っただろう。
私は馬鹿だった。
「あはは、なんだか変な味ですね。舌にぴりぴりと……げふっ」
一匹の哀れな兎の舌に、突如襲いかかってきた強烈な味の弾幕。
私は思わず口を手で覆った。
「にがっ、にっっがあ! 何これ苦っ!」
「苦いだけ? 身体に変化は? 目が覚めたとか、頭が冴えるとか」
「そ、そんなことより舌が痺れて……に、にが、にがいぃぃ!」
苦味の第2波がやってきて、私は恥も外聞もなく叫んだ。この世の苦いものを全部集めて濃縮して錠剤にしたものを、100個ぐらい集めて砕いて水に溶かして、さらにセロリやしそやゴーヤなどの苦い食べ物を突っ込んだような、とてつもない液体が私の口の中で暴れている。
うずくまって苦しみに耐えるしかない私の前で、お師匠が「やっぱり苦いだけか」と呟くのが聞こえた。この事態を予想していたようだった。
10分ぐらい経っただろうか、ようやく舌のしびれが引いてきたので、私はゆっくりと息を整え、非難混じりの視線をお師匠に向けた。
「し、市販の薬だっていうのは嘘だったんですか?」
お師匠は「いいえ」と平然と答えた。
「嘘はついていないわ。正真正銘、これは私が作ったものじゃない。まあ、店で買ってきたというわけでもないのだけれど」
「ど、どういうことですか?」
「子兎が外で拾ってきたものなのよ。奇妙なラベルが貼ってあったから、ちょっと薬用成分を調べてみたんだけど、身体に効果がありそうなものが全然入ってないのよねえ」
外で拾ったものって……そんなものを飲まされたのかと思うと、また気持ち悪くなってきた。勘弁してほしい。
「ああ、身体に害もないから安心なさい。で、実際に飲んでみたら意外な効果があるのかと思ってあなたで試してみたんだけど、やっぱり効果なし、か」
「とてつもなく苦いだけでした……ラベルにはどういう効果なのか、書いてあったんですか?」
お師匠は白衣のポケットから1枚のラベルを取り出した。小さなそれには『永遠亭特製気つけ薬』と書いてある。
「永遠亭特製?」と私が呟くと、お師匠は「そう」と頷いた。
「私はこんなものを作った覚えはないわ。あなたもないわね?」
もちろん私にも身に覚えがない。
気つけ薬は、神経衰弱や心臓疾患を起こした人に処方する薬だ。身体機能の改善と、高揚感を起こす成分を主に配合しているはずである。
だが、この薬にはそういう効果が全然ない。実際に飲んだ私に何も変化が起きていないので、それは確かだ。
こんな苦いだけの欠陥薬を、私もお師匠も作るはずがない。
ということは、この薬は誰かが『永遠亭』を騙って製造したということになる。
「じゃあ、うどんげ、お願いね」
話は終わったとでも言うように席についたお師匠。
「え、何がですか?」
「決まってるでしょ。察しなさい」
そう言われても、何が何やら。苦味のせいで舌も頭も馬鹿になっている私には、お師匠の広大なお心を察するなんてできるはずもない――そう言い訳をしたかったが、付き合いが長くなると相手の言いたいことが何となく分かってくるのも確かであり、私はこの時ほぼ諦めかけていた。
お師匠が予想通りの言葉を継ぐ。
「どこの誰が、不遜にも私たちの名を使い、こんな薬を作ったのか。きちっと調べて、こらしめてらっしゃい」
「わ、私がですか?」
「あら? 師匠の作った薬をことごとく床へぶちまけた弟子に、拒否権があるとでも?」
「はいっ、ないですね! 行ってきます!」
これ以上抵抗しては、女神の笑みが怪物の笑みになる。そう直観した私は、断りの言葉を胃の中へ押し込み、大急ぎで実験室から逃げ出すしかなかった。お師匠の「気をつけてね」という気遣いが、逆に背筋を凍らせていた。
左手には薬瓶、右手にはラベル。2つの奇妙なものをぶらさげながら、私は廊下を歩き、今日も無理難題を押しつけられたと肩を落とした。きっとまた、何も得るものなく、へとへとになって1日を終えるのだろうと、げんなりするのだった。
だが、今思えば違った。今日は私にとって隠された真実を見つけ出す日だったのだ。
外に出た私が見たものは、広い世界を結ぶ『縁』の力であり、そしてその中心に立つ人物であった。
手がかりは瓶とラベルだけ。ここから薬の製作者を探すという無理難題を前にして、私は地道に捜査を開始することにした。――こう書くとまるで探偵か何かになったようで、ちょっと気分が良い。
まずは、薬瓶を拾ったという小兎に話を聞く。ていうか、それぐらいしか思いつかなかった。
永遠亭の庭に向かう。小兎たちはそこで遊んでいることが多い。自然に集まることもあれば、てゐが集めることもあり、そんなに広くない庭はいつも白く染まっている。
この時も何十匹かの兎たちが所せましと走り回り、楽しそうに遊んでいた。悩みがなさそうでうらやましいなあなどと思いながら、「この瓶を拾った人ー」と呼びかけてみると、すぐに手をあげた兎がいた。
「はーい」
「はーい」
仲良く手をつないだまま、2匹の小兎がトコトコと歩いてくる。てゐをさらに小さくしたような外見をしていた。
「あなた達がこれを拾ったの?」
「そだよー」
「だよー」
声をそろえるのがたいそう楽しいのか、彼女たちは私の質問に答える度、きゃいきゃいとはしゃいでいた。とても純真無垢で、こういう無邪気さがてゐにもあればと思う。そうしたら悪戯も控えてくれるだろうに。
さて、この2匹が言うには、薬瓶は迷いの竹林で遊んでいる時に見つけたものらしい。
「じゃあ、見つけたところまで案内してくれるかな?」
「いいよー」
「よー」
天真爛漫な笑みを目の前にして、ふと私の頭に『若いなあ』という言葉が思い浮かんだ。
……私、老けたのかな。
歳の差とは残酷なもので、精神的に老けた(肉体的には若いと思いたい)私には、小兎たちの『お出かけ気分るんるんらー』な様子にてんてこまいだった。
「私たちねえ、竹林のお散歩をするのが好きなのー」
「時々妖精さんと遊んだりしてるんだよー」
「そうなんだ。まあ、最近は物騒な妖怪もいなくなったし、あなたたちでも危険はないと思うけど、あんまり遅くなっちゃダメだからね」
「はーい」
「はーい、あ、ちょうちょ!」
「ほんとだ!」
「あ、ちょ、ちょっと待って、案内!」
彼女たちはずっとはしゃぎっぱなしで、何か珍しいものがあればすぐにそちらへ走り出してしまう。引率係の老けた兎にはついていけないやんちゃっぷりだった。
おしゃべりをしている時だけは大人しくしてくれたので、私は無理にでも話を振って彼女たちを引きとめた。あまり話すのは得意ではないけれど、お師匠のお仕置きを免れるためなら、話題の1つや2つ、ひねり出すしかない。
「あなたたちは仲良しなんだね」
「そだよー」
「だよー。昨日も遊んでたんだー」
「いいなあ……私なんか、毎日家のことばっかりで遊びに行けないんだから」
「遊びに行けないのー?」
「かわいそー」
「ははは……」
混じり気のない瞳がはっきりと私を同情しているのが分かり、乾いた笑い声しか出せなかった。こんな小さな子たちにまで哀れに思われるなんて、情けない限り。涙が出そうだ。
「あ、そうだ」
小兎の片方が唐突に声をあげ、もう片方の子に耳打ちをしてひそひそ話を始めた。何だろうと思っていると、彼女たちは大人の真面目な顔を真似したような、つたない叱り顔になって、こう言った。
「けど、遊びに行けないからってヤケ酒はダメだよー」
「ダメだねー」
「え? お、お酒?」
今日1日で耳にタコができるほど聞かされたお叱りの言葉が、よもや子供の口から出てくるとは思わず、私は動揺する。
小兎たちはお師匠の真似をしているのか、人差し指を立てて偉そうに胸を張った。
「れーせん、昨日はお出かけしてお酒飲んできたんでしょー? ダメでしょー」
「そ、そうだけど、どうして知ってるの?」
「みんな知ってるよ。れーせんが昨日、お酒をいっぱい飲んで倒れちゃったって話」
「てゐねーちゃんが話してたもんねー」
私は密かに誓った。帰ったら、てゐとよく話し合わねば。
「あのね。あれはちょっとした理由で、不可抗力でそうなっただけで、普段から飲んだくれてるわけじゃなくて」
「お酒は飲んでも飲まれるなだよー?」
「酒は百薬の長、されど万病の元だよー?」
どこかで覚えてきたらしい格言が、私の心を深く確実に抉った。分かってます。分かってますよ。この格言を最初に言った誰かさん、あなたは正しいです。けどあの時は飲みたい気分だったのですよ……うぅ。
鬱々とした気分がよみがえってきた私の傍で、小兎たちは楽しそうにお喋りを続ける。
「あ、そうだー! このお話、あの男の人にしたら喜ばれるかなー?」
「あ、そだねー! きっと喜んでくれると思うよー? てゐねーちゃんから聞いたお話は面白いって、あの人言ってたもんねー」
「そっかー」
「そだよー」
「いやいや、『そだよー』じゃなくて、ちょっと待とうね。ダメだよ」
慌てて会話を遮ると、小兎たちはかわいらしく小首を傾げた。「何がダメなの」とその顔が言っている。あまりに純粋すぎて詰問しづらかったが、私の恥ずかしい話がどこかに漏らされるなんて、聞き捨てならない。
その場でしゃがみこみ、視線を彼女たちに合わせる。
「『あの男の人』って誰のこと?」
「楽しいお話いっぱいしてくれる人のことー」
「楽しいお話してくれって頼んでくる人のことー」
「……えーと、名前は? 人間さんなの?」
「名前は知らなーい。多分人間さんだと思うよー」
「けど時々霊力とか妖力とか魔力とか、色々感じるよー?」
「そうかなー?」
「そうだよー」
小兎たちの要領の得ない説明からは想像がつかない。いったい誰だ。
「どんな人?」と尋ねると、彼女たちはその人のことを話すのが楽しいのか、満面の笑みで答えてくれた。
「男の人だけど、やせてる人ー」
「優しい人ー。けど、紙に何か書いてる時はそっけない人ー」
「時々竹林の外にいて、会うんだよー」
「おとといも会ったねー」
「ねー」
どうやらその男は小兎たちとよく会っているらしい。不審だ。子供と言えど妖怪に近づいてくるとは、普通の人間ではあるまい。もしかしたら永遠亭に危害を加えようとする輩が、小兎たちを誘拐しようと企んでいて、その下調べに――などと想像力を働かせていると、小兎の1匹がぽつりと言った。
「あ、そうだ。ご本を書いているって言ってたよー?」
「ご本?」
「うん。文字ばっかりのご本」
「それってまさか……小説?」
「そうそう! 小説家さんだって言ってた!」
まさか、と思った。竹林傍によく出現し、妖怪であろうと構わず話しかける、やせた男の小説家。そんな人間は幻想郷に1人しかいない。
予想外の方向からの事実に、私はしばし呆然とした。まさかここで、最近頭に引っかかっている『小説家さん』が話に出てくるなどと誰が予想できよう。しかも小兎たちの口からだ。不意打ちにもほどがある。
困惑している私に対し、小兎たちは嬉々として小説家さんの話をしてくれた。竹林の外を散歩していると時々会うことがあって、その度におしゃべりしている。彼は妖怪のことや、兎のことを色々尋ねてきて、小兎たちがそれに答える。一方で彼も面白いお話をしてくれる、等々。
「この前は『みならないまほうつかい』のお話してくれたんだよー」
「『くものもと』を探しに大冒険するんだよー」
「そ、そう」
まあ、あの小説家さんなら、小兎たちに危害を加えないと思っていいだろう。
それにしてもまさか小説家さんが小兎と……変な人だ、妖怪の子供とおしゃべりをするだなんて。
人と妖怪の隔たりがなくなってきたとは言え、普通の人間なら小兎たちと話そうとなどしない。子供と言っても妖怪、人と妖怪には一定の距離感があるのが常識だ。
彼は外来人なのでそのあたりの感覚が希薄だというが、人外の私でも少々危なっかしく見える。
私は、とりあえず彼女たちに言うべきことを言っておくことにした。
「その人に私のお酒の話をしちゃ、ダメだよ」
「どうしてー?」
「なんでー?」
「多分面白くないから。大人の人はそういうの面白くないんだよ。お師匠も楽しく話してたわけじゃないでしょ?」
「そうなんだー」
小説家さんはブン屋とも親交があると聞く。どこからかあの鴉天狗に話が漏れでもしたら、私の恥が幻想郷中に広まることになる。それだけは避けたい。
あともう1つ、危険な芽も摘んでおこう。
「その人とお話していることも、皆には内緒にしておこうね。他の人がその人に会いたいと思っちゃったら、あなた達がお話できる時間がなくなっちゃうかもだから」
「はーい」
「はーい」
苦しい子供だましだろうが、こう言っておかなくては、いつお師匠や姫様に知られるか分かったもではない。姫様が永遠亭の住民に対し、小説家さんとの接触を禁止する令を出しているなんて、彼女たちには言っても理解できないだろう。
思わぬ気疲れを覚えた道中も、継続して歩けば終わりが見える。ようやく小兎たちが「ここだよー」と足を止めた場所にて、私は捜査を開始した(あ、やっぱりかっこいい感じ)。
そこはなんてことない、ありきたりな竹林の一画だった。周囲は竹と雑草しかなく、他に目立つものはない。
小兎たち曰く、この場所を散歩している時に瓶を見つけたとのこと。瓶の落とし主を目撃したわけではないようだ。
ためしにぐるりと辺りを見渡してみたが、手がかりになりそうな『モノ』は見当たらない。青々とした竹だけが広がっている。
しかし私の瞳は『モノ』ではないものも見ることができる。この時もしっかりとそれを捉えていた。
「……ものすごい量の波長ね」
腰を落としてじっくりと狂気の瞳をこらす。瓶が落ちていた辺りには、水色や赤色、他様々な色をした波長が残っていた。まるで巨大な蛇のように、地面の上をうねうねと蠢いている。
これらは全て妖力の波長だった。
波長の強さと種類からして、6刻ほど前に妖怪がいたのは間違いなかった。他にも妖精の痕跡もうかがえる。
だが、肝心の『誰の』波長なのかまでは特定できなかった。様々な力がまぜこぜになっていて、単波長の特徴がつかめない。音で例えるならば、色々な楽器がいっせいに弾かれてしまい、不協和音を鳴らしているようなものだ。
むしろ、どうしてこんな平凡な竹林の一画にこれだけの力が集中しているのかが疑問だった。大規模な弾幕ごっこでも起きない限り、これほどの波長は溜まらない。
「あっ」
私は小さく声をあげた。波長のひとつが見たことのあるものだったからだ。
動物型で、女性で、月の妖怪特有の波長。この波長の持ち主は――自分だ。
そうか、と私は得心がいった。どうして今まで気付かなかったのだろうか。この辺りは、昨日八目鰻の屋台が出ていた場所だ。
「れーせーん」
「まだー?」
小兎たちがつまらなさそうな声をあげた。ここに到着してからずっと待たせっぱなしだ。
「あ、ごめんね。もう大丈夫。手がかりは見つけたから」
「帰ってもいいー?」
「いいよ。案内ありがとう。私はちょっと竹林の外に出かけるから、お師匠にもそう言っておいてね」
「はーい」
「寄り道しないで帰ってくるのよー」
普段私が彼女たちに言っていることをオウム返しにされて、私は「はいはい」と苦笑した。
別に八目鰻の店主さんを疑っていたわけではない。彼女はまがい物を作るような妖怪ではない。
ただ、薬瓶が落ちていた場所で店を開いていたなら、何か手がかりになるようなことを知っているかもしれないと、当て推量しただけだ。あんな規模の波長が残っている以上、店主さんが波長の原因に気付かないはずもない。ダメもとでこの線をたどっていくしかなかった。
私は空を飛んで急いだ。向かうのは人里の郊外だ。昨日、店主さんからその辺りで屋台の保管や食事の仕入れ作業をしていると聞いた。色々と材料を仕入れるには、やはり市場のある人里の近くが最適なのだという。妖怪がそんなところで作業して大丈夫なのかと尋ねた時の、店主さんの困ったような笑みが印象的だったのでよく覚えていた。きっと、作業場を確保する際には、人間と色々あったのだろう。
だいたいの場所さえ分かれば、あとは店主さんの妖力の波長を探ればいいだけだ。それっぽい小屋を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
それは倉庫に無理やり水場をくっつけたような、ちぐはぐな造りをした木造小屋だった。小屋の横に昨日も見た八目鰻の屋台が置かれているのを確かめた。
小屋の前で「ごめんくださーい」と声を張り上げる。
ほどなくして扉が開き、中から桃色の髪をした女性が現れた。
「はーい、何かご用で……あれ?」
「どうも、一晩ぶりですね」
私が軽く挨拶をすると、店主さんは汚れた手を前掛けで拭きつつ、頭をさげた。
小屋の中には、かまど、炭置き場、大きな鍋等々の、食材の下ごしらえをする設備が整っていた。八目鰻の生臭さがぷんと鼻をつく。見れば、本日の下準備はすでに終わっていたようで、すでに処理が済んでいる八目鰻が、木箱に入れられ積まれていた。
昨日は無事に帰れましたか、はい大丈夫でした、とそこそこに世間話をした後、上着のポケットから瓶を取り出して本題に入った。
「この瓶に見覚えはありませんか?」
「はあ」
店主さんは神妙な顔で瓶を眺める。瓶には『永遠亭特製気付け薬』のラベルを張り直しており、その文字を読んだ店主さんは、首を傾げて答えた。
「見たことないですね」
「竹林で落ちているのを見かけたとかも?」
「ありません。この薬がどうかしたんですか?」
手短に事情を説明した。この薬は永遠亭が作ったものではなく、偽物の薬である。昨日、八目鰻の屋台が出ていた辺りで落ちていた、など。
しかし店主さんは困ったように頬を掻いた。
「うーん、すみません、やっぱり分からないですね。最初からあそこに落ちてたなら、屋台を広げたときに気付くとは思うんですけど……そんなのあったかなあ」
視線を上にし、記憶を掘り起こす店主さん。どうも当てが外れたかな? と私が引き際を考えていると、「みすちー!」というがなり声が表から聞こえて、思わず私の耳が直立した。
「あ、すみません。友達が来たみたいで……あっ」
店主さんが何かに気付いたのと同時に、数人の少女たちが小屋に入ってきた。がやがやと騒がしい集団の一番前には、見知った氷精――チルノがいた。
チルノは店主さんを見て笑顔になったが、次に私を見て怪訝そうな顔をした。後ろには大妖精や宵闇の妖怪もいて、彼女たちも不思議そうに私を見ていた。
「なんで永遠亭の兎がみすちーの家にいるんだ?」
チルノが皆の思いを代弁するように言った。店主さんへの呼称が非常に親しげで、彼女たちの仲のよさが伺えた。
「ち、チルノちゃん。なんだかお話してたみたいだし、ここは外に出ておこうよ」
気のきく大妖精がチルノの袖を引っ張っている。だがチルノが「あたいらの方が先にみすちーと遊ぶ約束してたぞ!」と反論し、「そーなのだー」と宵闇の妖怪が同調した。
店主さんに視線で尋ねると、相手はこくりと頷いた。だったら私が邪魔者だ。用事も済んだし、さっさと退散しよう。
が、先に店主さんが口を開いた。「チルノちゃん」私の手の中にある瓶を指さす。「これ、チルノちゃんのじゃないかな?」
え? と私が動きを止めている中、チルノの青い瞳が瓶を注視していた。最初は半目だったが、徐々に目が開いていき、ついには「あー!」とめいっぱいに開かれた。
「瓶けりの瓶だ!」
「瓶けり?」
「それ、チルノちゃんのものみたいです。今、思い出しました」
店主さんがにっこりと笑った。
小屋の中は狭いので、と店主さんに促され、全員で外へ出た。妖精たちは今にも遊びに行きたそうな顔をしていたが、「話があるから」と店主さんに言われると、「じゃあ待ってるからな」と傍で遊びはじめた。
きゃっきゃっと木の棒で地面を削っているチルノたち。落書きをしているようだ。それを眺めながら、店主さんは早速話を始めてくれた。
「昨日の夜、あなたが帰られた後なんですが、私の屋台に3人のお客さんがいらっしゃいました。見知った常連さんで……ほら、昨日話した『縁』の話をしてくれた人です。
すごい偶然ですよね? 私もそう思いました。あの話をした後にひょっこり現れたものですから、噂をすればとやらかなと。その日は女性を2人も同伴されて、楽しそうに飲み食いされてました。ところが」
店主さんは、私が持つ薬瓶を見て困ったように笑った。
「突然、横から何かが飛んできて、お客さんの料理に激突してしまったんです。お皿はひっくり返り、料理も飲み物も全部四方八方に飛び散って、全員の顔がべとべと。呆然としていると、チルノちゃんたちが現れました。
チルノちゃんたちは何かを探しているようでした。私がいることに気付くと、『ここになんか飛んでこなかったか?』と尋ねてきました。私はすぐに事態を理解しました。視線で机の上の惨状を伝えると、チルノちゃんたちもさすがに自分たちがしでかしたことに気付き、うろたえ始めます。お客さんたちはまだ呆然としていて、動きません。私はなんとか場をおさめようとしたのですが……突然、私の目の前で弾幕が放たれました」
それは同伴していた女性が放った弾幕だという。
「そこからはもうてんやわんやです。怒った女性とチルノちゃんたちの弾幕ごっこが始まり、その場は弾幕の嵐に見舞われました。その名残が、ほら、屋台の屋根に」
店主さんが、小屋の横に鎮座している八目鰻の屋台を指さす。屋根の端、ちょうど角張ったところが真っ黒になり、形が変わっていた。高火力の弾がかすって焦がしてしまったのだろう。
「もうすごかったですよ。私まで火傷するかと思いましたから。最初は応戦していたチルノちゃんたちも、さすがに火柱があがると逃げ回るしかなくなって……」
ここで店主さんは遠くを見つめて、よく竹林が燃えなかったなあ、と呟いた。乾いた声に諦観の念のこもったため息。衝撃的な出来事を後に振り返った時、人も妖怪もこういう表情になる。私もお師匠の治験のことを話したらこんな顔をしているに違いない。
「最終的に、もう1人の同伴女性が場を収めてくれました。男性も優しい方でチルノちゃんたちを許してくれて、それでその場はお開きです。
あの時、飛んできたものが何だったのかなんて気に掛ける余裕もなかったんですが、どうやらその瓶だったみたいですね」
そうして今日の朝、小兎たちが落ちている瓶を拾ったというわけだ。これで竹林に瓶が落ちていた理由と、膨大な波長が渦巻いていた理由は分かった。
昨日に引き続き、そのお客さんが誰なのかが非常に気になったが、尋ねても「個人情報ですのでー」と言われておしまいだった。薬瓶の問題とはあまり関係がないし、それ以上追求しないでおいた。
次にチルノを呼んだ。瓶の出所を聞くためだ。
「なんか用かー?」
チルノだけでなく大妖精や宵闇の妖怪も一緒にやってきた。「これのことなんだけど」と私が瓶を見せると、真っ先にチルノが大声をあげた。
「あー! そうそう! それ返してよ!」
「ごめんね。ちょっと調べることがあるから、まだ返せない」
「それがないと瓶けりができないだろ!」
「さっきも聞いたけど、瓶けりってなに?」
「そんなことも知らないのか?」
鼻で笑われ少し癪にさわったが、我慢する。
横にいた大妖精が私の表情を察知したのか、「あの」とあわてた様子で口を開いた。
「か、缶けりの缶の代わりに、瓶を使うんです。チルノちゃんが考案した遊びでして」
「楽しいぞー」
宵闇の妖怪が呑気な声で言う。
しかし……缶のかわりに瓶? それは、楽しいというより危ないような。
「普通に缶けりすればいいのに」
「分かってないなあ」
チッチッとチルノが指を振った。
「缶だと特訓になんないだろ。あの家に突撃するには、普通の特訓じゃダメよ」
「あの家?」
「瓶の方が蹴るのに技がいる!」
聞き返したことをさらりと無視されてしまった。さすが妖精、人の話をあまり聞かない。
チルノは熱っぽく瓶けりのすごさを語っている。
「割れないように蹴る努力が必要!」
「いや、割れるのが嫌なら缶を使ったらいいじゃない」
「缶より瓶の方が強い!」
「はあ」
胸を張って言われたものの、妖精の論理はいまいち理解に苦しむ。
「確かに集中力がつくと思います。割れないように蹴ろうと思うと。多分ですけど……」と大妖精が補足すると、チルノは「そうだそうだ!」と意気込んだ。
「やっぱり集中力は大事ね! あの家に突撃する時は集中しなくちゃ!」
他人の意見を自分のことのように話すチルノ。これを微笑ましいと思うのか、馬鹿と思うのかは、人それぞれだ。
話に収拾がつかなくなりそうだったので、気を取り直して薬瓶の出所を尋ねてみた。するとチルノは「どこだっけ?」と他の2人に尋ねた。
「え? 初めて瓶けりをやった日に、チルノちゃんが持ってきたはずだよ」
大妖精が答えるものの、チルノはやはり難しい顔をする。
「んー……?」
「忘れたのかー?」
宵闇の妖怪に言われ、「忘れてない!」と強情を張るチルノ。しかし頭を抱えて考え込んでいるのだからさもありなん。
「思い出せないかな」
「んもー、どこでもいいじゃん」
「私には大事なことだから。思い出してくれたらアイスを奢るから、ね」
「アイス!? し、しょうがないなー」
他に手がかりがない以上、物で釣ってでも思い出してもらうしかない。「あそこで買い物した時かなー、いや、えーと」と考え込む氷精の後ろ姿から、これは時間がかかりそうだと思った私は、何の気なしに彼女たちが先ほどまで遊んでいた場所に視線を移した。
妖精たちが四苦八苦して書き上げた落書きたちが地面の上にあった。一見したところ、何かの地図のようだった。四角の上にいびつな三角が乗せられた絵は、おそらく『家』を示している思われる。傍にたくさん書かれた長方形は竹っぽい。さらに周辺には、八角形、『落』という漢字等々、変な線や点などが散在している。
何がなにやらだ。どこの地図なのかさっぱり分からない。家が書かれているということは、先ほどチルノが話していた『突撃する家』に関係しているのだろうか。
そう言えば、随分前に、永遠亭の郵便受けにチルノたちの引き札が入っていたことがあった。どこかの家に突撃するための仲間を募集していたはずだ。そして、そう、確か私はあの時、彼女たちが永遠亭に突撃する計画を立てていると思った。
しかし、地面に落書きされた『家』は永遠亭ではない。この『家』は竹林の外にあるよう描かれている。
よくよく見てみると、中心の『家』には人間が4つ描かれており、その内の1つを見て、私はハッとした。
腰まで届く長い髪、頭の上につけたリボン、背中から出ている翼、そして手から出している炎……まさか。
「藤原妹紅……?」
私がその名前を口にした瞬間、チルノたちの身体が1尺ほど跳ね上がった。
「おおおおおお前!」
目も口も思いっきり開いて、チルノは叫んだ。
「まさかあの『火の鳥女』の仲間か!?」
驚いているというより、恐怖に縮み上がっているような反応だった。後ろにいた大妖精や宵闇の妖怪も、いつの間にか八目鰻の屋台の影に隠れて、びくびくとこちらをうかがっている。まるで天敵に出会った時の小動物みたいだった。
「仲間というより、むしろ敵対しているみたいなものだけど」
主に姫様が。
「あ、あたいたちは絶対に負けないからな! いくらこんがり焼かれても、最後にはあたいたちが勝つ!」
やっぱり話を聞いていないチルノ。震えながらも、私を鋭い目で睨みつけている。
「そのために特訓だってしてるんだぞ! 昨日は負けちゃったけど、この特訓を繰り返せば」
「昨日? 昨日って、屋台の?」
「ひぃ。ごめんなさい!」
私が少し詰め寄っただけで、チルノの虚勢はとっぱわれた。即泣きだ。
だが、私はこの可哀そうな妖精を気遣っていられなかった。先ほどの店主さんの話に出てきた弾幕女性が藤原妹紅ならば、彼女と同行していた『男性』というのは。
真相を確かめようと、後ろを振り返ると、
「……あはは」
店主さんは視線を逸らし、しまったなあという顔をしていた。
もはや尋ねるまでもなかった。
あの小説家さんは、何年も前からの常連さんなんです、と店主さんは語り始めた。
「通い始めていただいた頃は名前も売れてなかったですけど、最近はもう有名人ですからね。そういう人がお店に来たとか、あまり話さないようにしてるんです。以前、天狗の新聞に話しちゃった時に、小説の愛好者の人たちが押し掛けてきて大変な目にあいまして。
あちらも気をつかってくださってるのか、あまりお客の来ない竹林に店を出した時だけ、同伴女性と共にひっそりご来店されるようになりました」
だからこの話も内緒にしておいて下さいね、と彼女は人差し指を口元に置いた。
さらに、チルノたちにも話を聞く。私が藤原妹紅の仲間ではないと説明して、ようやく落ち着いた彼女たちは、自分たちの奮闘を熱く語ってくれた。
「あたいら、あの人間の家に忍び込もうとしてひどい目にあったんだ! 燃やされたり蒸発させられたり、落とし穴に落ちたり! だからやり返してやろうと思って、瓶けりで特訓もしたし、仲間も集めようとしたってわけだけど……」
「チルノちゃん、やっぱりまだ続けるの? もうやめようよ~」
「無謀なのだー」
「うぅ、サイキョーのあたいが諦めるなんて……けどもう溶かされるのもやだし、どうすればいいんだろ」
他の2人に説得されてしおらしく悩むチルノ。お気楽な妖精がここまで恐れるのも、まあ藤原妹紅ならば納得できる。私だって、以前の恐ろしい体験のせいでいまだに大きな炎を見ると身体が震える。
弾幕女性が藤原妹紅で、男性が小説家さん。だったらもう1人の同伴女性というのは上白沢慧音だろうか。
なんともまあ奇妙な偶然だ。小兎に引き続き、小説家さんの話をまた聞くことになるなんて。『噂をすれば』とは店主さんの言だが、私の場合は噂をしなくても彼の名前が出てきている。
常連の男性が小説家さんなら、昨日聞いた『縁』の話も彼のもの――ふとこの事実に気付いた私はうぅむと唸った。
何か、妙に気恥ずかしく、けれど嬉しくもある、微妙な感情が私の胸に宿っていた。例えるなら遠い関係の人がぐっと近づいてきたような感覚というか、漠然と「すごい人」としか思ってなかったのが、『縁』の話を通じて具体的な好意や敬意を抱いてしまうというか。難しい。なんと言っていいか分からない。
もしや、これが姫様たちのような愛好者が抱く気持ちなのだろうか。
「ああーっ!」
私のとりとめのない考え事は、チルノが突然あげた大声に中断させられた。チルノは先ほどまでの沈んだ顔はどこへやら、私の方を向き「思い出した!」と興奮気味に声を飛ばす。
「そう、そうだ! あの日も『家』に突撃して、燃やされて、大ちゃんがちょっと火傷しちゃったから、薬を買いに行って、その時だ!」
「ちょっと待って。何の話なの?」
「その薬瓶! あたい、人里の薬屋で買ったんだった!」
どうやらチルノたちにはアイスを買い与える必要があるようだった。
『あたい、この薬を人里の薬屋で買ったんだ! なんか良い形で、良い色してたから、大ちゃんの火傷にも効くかなって。けど、買ってきて気付いたんだけど、これって塗る薬じゃなくってさー。で、瓶を眺めてたら瓶けりの遊びを思いついたってわけ!』
以上がチルノの証言である。
なんというか、妖精らしい思考回路だなと思う。
店主さんとチルノたちにアイスを献上して別れた私は、人里の薬屋へと飛んだ。
薬屋と偽薬。いかにも真実に行き着きそうな場所だった。もしかしたらこれで解決するかもしれない。
そんな期待感が湧いたものの、同じくらい、私は釈然としない思いを抱いてもいた。
チルノから店の名前を聞かされた時は耳を疑った。なにせ、大人気商品『滋養強壮剤X』を販売しているあの店だったのだ。本当なのかと聞き返すも、「あたいはアイスが絡めば嘘はつかない!」と自信満々に言われれば、信じるしかなかった。
半月前、私はこの店を訪れている。そして、店主の姿も見た。次々やってくるお客さんを忙しそうに、かつ充実した顔でさばいていた。あの人が薬を偽造した? 人気が出ている店なのにそんなことをするのか?
しかしチルノの証言は信じるに値する。
考えていても仕方ない、と私は結論を出した。とにかく薬屋を訪れて真実を確かめる。私にできることはそれだけだ。
半月ぶりに見た薬屋の外観はさほど変わっていなかったが、以前より混雑していなかった。ちょうど客足が少ない時間に来れたようだ。外から見ても、棚の間を人が埋め尽くすなんてことはなく、そこそこの入りと言ったところ。今回は人波に流されることもなさそうだった。
店の扉を開けてすぐ、私は立ち並ぶ商品棚に目を走らせる。棚の配置などに変わりはない。『新製品』『注目の品』などの張り紙が躍り、ところどころ、私の興味を引きそうなものもある。『睡眠打倒』なんて、徹夜で薬学実験をしている時なんかによさそうだ。
この前来た時はこんな風に観察する余裕もなかったことが思い出され、私は苦笑いを浮かべた。あの時は大変だった。突然花の妖怪が現れて、あたふたしたものだ。
棚の間をぬって会計所へ向かう。通路はせまく歩きづらい。十字路にさしかかったところで、横から出てきた人とぶつかってしまった。
「あたっ。す、すいません!」
したたかにぶつけた腕を押さえ、頭を下げる。
「もう、気をつけて、って、あんた」
「霊夢さん!」
驚いた。ぶつかった人は、いつもの紅白服に身を包んだ博麗神社の巫女さんだった。不機嫌そうな顔で肩をさすっている。
買い物の途中だったのか、巾着袋を腕に下げ、ガマ口の財布と清涼飲料水を手に持っていた。その姿は生活感があふれすぎていて、相変わらず巫女さんっぽくないなと私は思った。
「あんた、こんなところに来ていいの? 敵情視察ってやつ?」
腰に手をあて、物珍しそうな顔をしている霊夢さん。確かに同業者の店を訪れている今の私は、少し変だろう。
「ちょっと用事があっただけで、別にそういうわけじゃないんですけど」
詳しく説明する必要もないので適当に返事をする。霊夢さんも「ふーん」と言うだけで興味もなさそうに、ちらりと棚の向こう側に視線をやった。
「今日は珍しい顔ばかり見るわ。あんたといい、あいつといい」
「はあ」
よく分からないが、相槌を打っておく。早く店主と話をするべき。そう思って辞去しようとした私の腕を、巫女さんの手が掴んだ。
「そうそうそう。因幡の兎、ちょっとこっちに来なさい」
袖を引っ張られる。先ほど用事があると言ったばかりなのに、この巫女さんは人の都合などお構いなしだ。
ちょうどよくお客がいない、店の端の方まで連れてかれる。「例えば、よ」と霊夢さんは神妙な顔をして口火を切った。
「例えば、ある女がある男に恋文を送ったとする。しかも便箋や筆、文章、全てに気が配られた、見事な恋文よ。これを送った女は、男に好意を抱いているって言えるわね?」
「そりゃあ、恋文を送るんだから当たり前……いったい何の話なんですか?」
「まあ聞きなさい。だったらその恋文が、手作り料理だったらどう? 好意がある?」
「あるんじゃないですか」
「それは恋愛感情?」
「そういう場合もあるのでは」
「そうよねー」
満足げに頷く霊夢さん。いったいなんだと言うのか。
「じゃあ、手作りの料理じゃなく、花だったらどう? しかも種から丹精込めて作られた花よ」
「だから何の話なんですか」
「いいから答えて答えて」
おそらく答えるまで逃がさないつもりなのだろう。仕方ないので考えてみる。
『花を贈る』。とても抒情的ではあるが、そんなに特別なことでもないような気もする。
「うーん、嫌いな人にそういうことはしないと思いますけど、何かお祝い事があったなら、誰だって花ぐらい贈るんじゃ」
「逆に言えば、お祝い事でもないのに花を贈るのは、相手に好意を抱いている証拠よね」
「はあ、そうですね」
曖昧に答えると、霊夢さんは気持ち悪いほどニヤニヤし始めた。いったい何なのだろうか。話が見えてこない。
内容からして恋愛話なのは間違いない。だが、あの博麗の巫女が里娘のようにぴーちく恋バナに花を咲かせるとも思えない。何か裏があるはずだ。彼女のニヤニヤ顔は、姫様やてゐが私に悪戯をしかける時の顔とすごく似ている。
段々と嫌な予感がし始めた。早急に巫女さんから離れるべきだと本能が叫んでいる。
が、私は馬鹿であり平凡である。お師匠の女神の笑みに2度も騙されている愚か者。だから、この時も何もかもが遅かった。
背後に何かが立っていることにようやく気付いた時、私は全身を包む殺気に身動きが取れなくなっていた。
巫女さんのニヤニヤ顔はさらに加速し、後ろから放たれる殺気も比例して増大する。
私は勇気を振り絞り、おそるおそる後ろを振り返った。
「ひぃ」と小さな悲鳴が知れず漏れ出た。
風見幽香が、そこにいた。
「霊夢……いい加減ひねり殺すわよ」
右腕に紙袋、左手に日傘を持ったその姿は、一見すると優雅に買い物をしている女性である。しかし騙されるなかれ。能面のように表情のない顔からは、最恐の花妖怪にふさわしい妖力が滲み出ていた。
洪水のような妖力の波にさらされ、私はその場で固まるしかなかった。
「あらあら。本音を指摘されて恥ずかしいからって、マジ切れはどうかと思うわよ?」
怖いもの知らずな巫女さんの冷やかしに、風見幽香はさらに目を細めた。白い額には血管が浮き出ており、唇の端もひくひくと動いている。怖い。これでもかという殺気が巫女さんに向けて放たれているのだが、そのほぼ全てが間に挟まれた私に降り注がれている。なんだか半分死んでいる気分になってきた。ああ、閻魔様の『諦めなさい、それがあなたの命運です』という声が聞こえる。
震える小兎となった私をよそに、2人は淡々と会話を交わしていた。
「まさか幽香が人間の男に恋するなんてねえ。『あの時』はせいぜい彼のことを気に入っているぐらいかと」
「違うって言うのが分からないの?」
「違うも何も、あんたあの時の罰ゲームで命令されたものだけじゃなく、別の花も贈ったんでしょう? 嫌々だったら、わざわざそんなことしないんじゃない? だったら、求愛行動以外の何物でもなし。誰だってそう思うわよ? この兎だって言ってたし」
ひぃ、私を巻き込まないで!
風見幽香の紅い瞳が私を射すくめる。ああ私は今死んだかもしれない。
「なんだったっけ? えーと」
霊夢さんが呑気に言う。
「スノードロップだったかしら? あんたがそれを贈ったって魔理沙から聞いた時は、そりゃあもう驚いたわよ。まさか幽香がってね」
地獄にも等しいこの場に、似つかわしくない花の名前。それは私の頭にすっと入り込み、過去の記憶を呼び起こした。『スノードロップ』『男性に贈る』『薬屋』――そして『滋養強壮剤X』。
連想的に浮かんだ薬の名前。湧き出てくる既視感。
私は、この話を以前にも聞いている?
「しっかし、よりによってあの人とはねえ。幽香は険しい道のりが好きなのかしら」
「霊夢」
「なに?」
「もっと花について勉強することね。せめて花言葉が分かるぐらいには」
「はい?」
「それに、道が険しいと知っているのは、実際に歩いたからかしらね? 霊夢」
「……どういう意味?」
「さあ」
風見幽香から放たれていた、膨大な殺気が唐突に消えた。こわごわと風見幽香の顔を横目で見ると、彼女は笑っていた。無知な輩を見下す加虐的な笑みを浮かべて。
風見幽香は私と霊夢さんの横を素通りしていった。妖力も殺気もない、優雅な女性の振る舞いを装い、店の外へと消えていった。
その後ろ姿を見送ると、巫女さんはふてぶてしく呟いた。
「何よ。落ち着き払っちゃって。面白くない。最後も意味わかんないし」
「あの、霊夢さん、いったいこれは」
声をかけると、霊夢さんは私がいることを思い出したように「ああ」と答えた。
「聞いた通りよ。あの幽香が男に花を贈ったらしいの。驚きよねえ」
「スノードロップを、ですか?」
「そうよ?」
やはりこれは以前にも聞いた話だ。先日この薬屋を訪れた時、偶然ここで風見幽香と話す機会があって、そこで『滋養強壮剤X』を肥料にして冬の花を育てていると彼女は言っていた。誰かに贈るために。
で、私はこの話が気になって、帰って調べてみて、驚いて。私は物事をすぐ忘れてしまいがちだったが、このことだけはよく覚えていた。とても印象的だったから。
「あの、霊夢さんはスノードロップの花言葉は知らないんですか?」
霊夢さんは小さく肩をすくませた。
「知らないわよ。花言葉なんて」
「スノードロップの花言葉は、本来『希望』や『慰め』です。けど、他人に贈るともう1つの意味が生まれるんです」
「へえ。どういう意味?」
「その……『あなたの死を望む』です」
自分で言って、ぶるりと背筋が震えた。
本気にしろ冗談にしろ、こんなものを受け取った相手はきっと震え上がるに違いない。相手が花妖怪なのだからなおさらだ。
風見幽香の、あの加虐的な笑みが思い出される。やっぱりあの人は色々怖い。
「ふぅん、えらく物騒な求愛行動ね」
だが霊夢さんは驚いた様子も見せなかった。淡々としていて、むしろ興味なさそうな感じだ。
私は不思議だった。危険だと思わないのか? 仮にも博麗の巫女なのだから、大妖怪に襲われそうになっている人間の男性とやらを守るのがお役目だろうに。
そう言いたそうにしている私を表情から察したのだろう、霊夢さんは肩をすくめて「大丈夫よ」とお気楽に言った。
「彼なら守ってくれる人がいるから」
「大丈夫って、相手は花の妖怪ですよ? 普通の人間はもちろん、そこらの退魔師でもかなわないんじゃ」
「ハクタクに、不死鳥に、魔法使いの3人組。加えて3人には愛情力のおまけ付き。これでなんとかならないなら私でも無理ね」
「は?」
また変な声が出る。
3人組?
「ま、幽香が、本気であの人をどうにかしようなんて考えないでしょうし……ん?」
「ちょ、ちょ、ちょ」
あまりのことに言葉がどもる。「ちょうちょ?」と霊夢さんが小首をひねった。
「ちょっと、ちょっと待って、待って下さい。まさか風見幽香が花を贈った相手って」
「ああ、有名だからあんたも知ってるか」
そうして巫女さんの口から彼の名前が出てきた。
あの小説家さんの名前が。
「あいつらにちょっかい出したら、私でも火傷するわね、色々な意味で」
私は、自分の顔の力が抜けていくのを感じられた。
この時、困惑の二文字が頭の上で踊っていた。
またなのだ。偶然だと思っていたけれど、また出てきた。1日に、2度も3度も同じ人の名を聞くなんてありえる? 別にこの人について調べてるわけじゃないのに。
「ちょっと、聞いてるの?」
「え、ああ、はい」
霊夢さんが私の目の前で手を振っていた。随分長く固まっていたようだ。
私はこんがらがりそうな頭をぶんぶん振って、気持ちを落ち着かせた。
小説家さんのことは後だ。今はとにかく薬屋の主人と話をする。それだけ!
そう心に決め、「失礼します」と霊夢さんには頭を下げ、店の奥へと進んだ。
ところが、霊夢さんはそんな私に好奇心を持ったのか、堂々と後ろをついてきた。
「なんですか?」
「別にぃ」
霊夢さんは肩をすくめるだけ。明らかにからかい半分の行動だ。
それがなんだ。とにかく私は仕事をやり遂げるのだと奮起し、後ろを気にせずずんずん進んだ。
会計所の壁には、やはり以前と同じように数多くの張り紙がしてあった。『試飲はご遠慮ください』『薬の買い取りお断り』『弾幕ごっこはご遠慮ください』『妖精は瓶けりをご遠慮ください』。以前より増えているし、その原因もなんとなく分かるが、まあ今はどうでもいい。
店主はちょうど手すきのようだった。伝票らしきものに書き物をしている。
私は会計所から少し離れたところで心の準備を整えていた。多分、これが最終局面。真実をつかみ、結末にたどり着くための重要な場面となるだろう。気合を入れて、集中せよ。私の行動いかんによって、偽薬事件が解決するか否かが決まる。
(……やっぱりこの時の私、まるで自警団や探偵みたいなこと考えてるなあ、うん)
私は真正面から突撃した。
「すみません!」
「ん、なんですかい?」
薬屋の主人は黒ひげで強面である。まともに対面すればちょっと怖い。いや、相手は人間だから最終的に私の方が強いんだろうけど、それでも雰囲気的なもので怖い。
だが、相手もそこは商売人。私を客と見て、きちんとした愛想笑いを浮かべていた。
発奮した心の赴くままに、お師匠の命令だと頭の中で繰り返し、私は思い切って主人の眼前にあの瓶を掲げた。
「これについて何かご存じですか!?」
私の持つ瓶を、主人は目を見開いて凝視していた。ちなみに、今のこの瓶には商品名が書いた紙片は貼っていない。薬瓶の形を見せて、相手の反応を見るつもりだった。
主人は、しばらく瓶を眺めた後、ぴくりと目尻を動かした。
その反応から私は悟った。知っているんだと。
「中身は苦みのある液体で、効果は」
「絶対に買い取らないねえよ!」
突然、主人が大声をはりあげた。店中に響き渡り、私の耳をぴょんと逆立たせた。
主人の愛想笑いは消えていた。敵対心丸出しの目で私をにらみつけている。
「今度ばかりはあっしも引かねえ。いくら言われても、薬屋の矜持ってもんがある。怪しいものは物々交換だって引き受けねえよ!」
バンっと机を叩いた。
なぜこの人はいきなり怒りだしたのか。理由は分からないが、なかなかの気迫だ。だが。
「聞いてください!」
お師匠に怒られ慣れている私がこの程度でひるむわけがない。むしろこちらも大声を出して相手を黙らせた。
しんとなった会計所で、私はポケットから紙片を取り出し、机の上に置いた。
『永遠亭特製気付け薬』。
この文字を見た主人はまた一転、今度は眉を八の字にしてうろたえ始めた。
「あ、こいつは……」
「これ、見覚えありますね?」
「い、いや、あっしのところじゃ、こんな商品は置いてませんで」
私には見える。主人の声の波長は、明らかに嘘をついていると。
「これを、あなたのお店で買ったという妖精がいます」
「……あ」
「心当たり、あるんですね?」
主人は口をもぐもぐとさせていた。やはり知っている。ごまかそうとしているのが表情から分かる。
なぜいきなり怒ったのか。そして紙片を見た瞬間に、なぜうろたえ出したのか。全てが明らかになるまで、あと一押し。
決定的な言葉を投げかければ落ちそうだ。どう攻めるべきか。
ここで私は思った。今、私は事件の核心に迫ろうとしている。観衆がいたら息を呑む場面だろうな、と、自分自身を一段高いところから眺めて、自身の振る舞いに感心しているというか。
相手の矛盾点を突いたり、新たな証拠を突きつけたりして、真実を明らかにする私。知恵比べ、心理戦。
あれ? 私今輝いてる? まるで物語の主人公みたいではないか、なんて自惚れてみたりして。
さあ、どうしよう。私が頭を目いっぱいに回転させていると、後ろでトントンと何かを叩く音がした。
何かと思って振り返ると、霊夢さんだった。暇そうな顔で、商品棚の横面を指でトントン叩いている。何してるんだろう、この人。
だが、良い観客ができた、私がここで決め台詞でも言えば、と無駄なことを考えている間に、薬屋の主人の表情が一段と変わったことに気付いた。
薬屋の主人も霊夢さんに気付いたのだ。彼は、これまで以上に目を見開き「うぅ」と唸っていた。
「は、博麗の巫女様までっ」
主人は脂汗をかいた手を上着で何度も拭き取り、視線をうろちょろさせていた。時々霊夢さんの方を見ると、すぐに目を逸らし、また汗を拭く。
霊夢さんは何も言わない。霊夢さんはこの事件について何も知らないのだから、当たり前だ。彼女はただ暇そうに店主を眺めながら、棚をトントン叩いているだけである。それが相手にどういう効果を与えているのか、分かっているような、いないような、平然とした顔をしている。
短い沈黙。
主人が会計机に勢いよく手をついた。
「巫女様には嘘もつけねえ! 白状させていただきます!」
いきなり頭を深々と下げた主人。
私ではなく、霊夢さんに向かって。
あれ?
霊夢さんは最初「あら?」と不思議そうな顔をしたものの、職業柄こういう告白事に慣れているのか、「えーと、何をやったのかしら」とすぐに聞く態勢に入った。
「はい、実は――」
かくかくしかじかと始まった懺悔を、霊夢さんは鷹揚に聞いている。
「はへ?」
私は珍妙な声をあげるしかなかった。
知恵比べも、心理戦も、何もなかった。それどころか、私はこの場の中心にいたはずなのに、いつの間にか引きずり落とされた。代わりに霊夢さんがそこに立ち、すべてをかっさらっていった。
ぽつんと置かれた私は愕然とするばかりである。
「ええ、そうでさあ。確かにこれは、あっしのところで売ったもの」
私と霊夢さんは、会計所の裏にある事務室に案内された。部屋に入るなり、主人は諦めたように頭を垂れ、霊夢さんに向かって懺悔の続きを始めた。
私はその後ろで呆然と立っていた。なんだか釈然としないが、ここは大人しく話を聞くことにした。
「ふーん、この店がまさか偽物を売るとはねえ」
霊夢さんはとても偉そうにしている。事の次第なんて全然知らないはずなのに、よくまあハッタリを効かすこと。私の言いたいことを代弁してくれているし、別にいいけど。
霊夢さんはいじめるのが楽しそうに主人を問いつめる。
「これは慧音に報告するべきかしら」
「ち、違うんでさあ、博麗の巫女様。本当は売るつもりはなかったのを、妖精たちがどうしても欲しいって言うから仕方なく……お代金だってほとんど取っちゃいねえんですよ」
これはチルノたちからも聞いた話だった。最初は売るのを渋っていた主人だが、チルノたちが「どうしてもその瓶で瓶けりがしたい!」と懇願すると、タダ同然の値段で売ったのだという。
「さっきも言った通り、あっしにも薬屋の矜持がある。偽もんの薬を作るなんて、絶対にしねえ」
「じゃあ、この薬は?」と私。ようやく会話に参加できた。
「これは、あっしのところで作った薬じゃねえんです。外から買い取ったもんでして」
「外から? 誰かが売り込んできたってことですか?」
「へい」
主人は頷き、その時のことを思い出すかのように話を始める。
「今月のはじめ頃でやした。店の営業が終わって片づけをしていた時のこと。突然、変な男と女が入ってきやした。あっしが『もう店じまいだ』って言っても聞きやしねえ、それどころか薬を買い取らないかと持ちかけてきやした。
この2人が有名な薬詐欺の2人組だっていうのは、後から聞いた話で、その時のあっしは何も知りやせんでした。ただ、2人が出してきた薬を見ただけでもう、胡散臭いもんだって思って断りやした。が、こいつらがまたしつこくて。最後には『客に妙な噂を流すぞ』と脅しまがいの言葉までかけてくる始末。あっしが根負けして、結局買い取っちまったのが失敗の元。
買い取ったのは30本ほど。試しに自分で飲んでみて、驚いちまった。何の成分も入ってない、ただ苦いだけの液体。あっしは買い取りしたことを本気で後悔しやした」
私は会計所の横にあった『薬の買取お断り』の貼り紙を思い出す。あれはその時の苦い経験から貼りだしたものなのだろうか。
「かといって、こっちも商売。そうそう損はできねえんで、品名を変えて、安い価格で売ることにしたんでさあ。けど、それも何本か売ったら『苦すぎる』って苦情が来てやめやした。それからは何本かを店の奥にしまってやしたが、妖精さんたちがどうしても欲しいと言ってきたので、売ったってことです」
ほんと焼きが回っちまった、と主人は深いため息をついた。これがずっと悩みの種だったのだろう。懺悔をして、ちょっとすっきりした顔になっていた。
一方で私も晴れ晴れしい気持ちになっていた。なにせ、これでついに偽薬の元凶を突き止めることができたのだ。この店に薬を売りにきたという男女。それを突き止めれば、この問題は解決だ。
私は意気揚々と主人に元凶の特徴を尋ねてみた。すると主人は訝しげな顔をした。
「はあ、そんなことを聞いていったいどうするんで? 偽物の薬を売っちまったあっしを罰するために、博麗の巫女様が来られたんじゃ」
「いえ、霊夢さんはただついてきただけです。実は、私は永遠亭の薬師の弟子で、この気付け薬に『永遠亭特製』と書かれていたのを調査していて」
「ひ、ひええ」
主人はその場に崩れ落ちた。私を凝視し、がくがくと膝をふるわせている。
「そ、その耳、どこかで見たことがあると思ったら、そうだったんですかい! てっきり博麗の巫女様の付き人か何かと」
なんと失礼な。こんな人の付き人だなんて苦労、したくない。
「ひええ、これは本当にすまねえ! 最初に貼ってあった品名を真似しただけとは言え、あんた達の名前を使っちまって!」
最初に貼ってあった品名? と疑問に思いつつ、平身低頭の主人にこっちも慌ててしまう。
「い、いえ、ご主人も騙されただけじゃないですか。謝らなくても……それより、偽薬を売った人です。どんな人だったんですか?」
「へ、へえ。いかにもうさんくさいやくざ者と、派手な格好をした女が1人だったんでやしたが、その」
「どうしました? 忘れちゃいました?」
「い、いやあ。実はその偽薬屋、もうとっつかまっちまったんでさあ」
え、と声が出た。もう捕まった?
「ど、どうして? 誰が?」
「あっしには懇意にしてる道具屋の娘さんがいやして、その人も偽薬屋に騙された口でやした。彼女、たいそうお怒りでいやして、なんとも執念深く追い続け、つい先日偽薬屋をとっつかまえちまったんでさ。今頃、そいつらは村を追い出されちまったはず」
この事実には私も呆然とする。手がかりをひとつひとつたどり、ようやく犯人をつきつめたと思ったら、もう他の人が捕まえたなんて。
無駄足、徒労といった言葉が私の頭を駆けめぐる。え、これで終わり?
いやいや、捕まったならそれでもいい。捕まえた人が誰で、犯人がどういう奴なのかが分かれば、お師匠にも報告できる。そう気を取り直し、主人に尋ねる。
「じゃあ、その捕まえた人っていうのは誰なんですか?」
「ああ、それなら」
「魔理沙でしょ」
聞き知った名前が後ろから出てきて、え?と振り返る。
今まで関心なさげにしていた霊夢さんが、ここに来てぐいっと近づいてきて、私の横を通り過ぎ、主人の前に立った。その振る舞いは自信に満ち溢れていて、私は思わず彼女に場所を譲ってしまった。
霊夢さんは薬屋の主人に向かって言う。
「霧雨魔理沙。道具屋の娘ってのはそいつのことでしょ?」
「お、お知り合いで?」
霊夢さんは鼻で笑い返した。
「知り合いも何も、腐れ縁というか……まあそれはともかく、聞いててぴんときたわ。主人、さっき『品名を変えた』とか『最初に貼ってあった品名を真似した』とか言ってたわね」
「へ、へい」
「『気付け薬』っていう品名を貼ったのはあなた。じゃあ、最初の品名は何だったの?」
「へい。『永遠亭特製惚れ薬』って代物で」
惚れ薬? どこかで聞いたことがあるな、と思う私を尻目に、霊夢さんは「はん」とまた鼻で笑った。
「そういうこと、か。あの時は大層笑わせてもらったけど、こんなところにつながるとはね」
うんうんと頷く霊夢さん。何やら1人で納得しているが、私には何が何やら。
霊夢さんとご主人の掛け合いだけが続く。
「ご主人も魔理沙とは知り合いなのね。あの馬鹿には色々迷惑被ってるでしょうに」
主人は勢いよく首を横に振った。
「そんなことは! あの方たちには本当にお世話になってて、今のあっしがいるのもあの方たちのおかげなんでさ!」
「ふーん。けどあいつのことだから、捕まえた見返りに『なんかくれ』とでも言ってきたんじゃない?」
「それはまあ、あんなわりい人間を捕まえてくれたんですから、うちの人気商品をお礼に差し上げやした」
「まさか『滋養強壮剤X』? うわあ、それが貰えるなら私が捕まえたわよ。あれ、銭湯にあったのを初めて飲んだけど、なかなか効くのよね。次に買いたいと思ったら、売り切ればっかでぜんぜん買えやしないんだけど」
「そりゃあすまねえです。今もがんばってたくさん作ってるんですがねえ」
「あの!」
楽しそうに話す2人には申し訳ないが、訳も分からぬまま世間話に入られては困る。勇気を出して2人の間に割り込むと、霊夢さんが「なに?」と無愛想に答えた。
「ええと、いったいどういうことなんですか?」
「何よ、察しが悪いわね」
ええ、すみません。姫様にもよく言われます。
「全然分からないんです。魔理沙さんが出てきたこととか、惚れ薬が何やらっていうのがもう訳が分からなくて」
「仕方ない奴ね」
霊夢さんは大きくため息をついた。
「いい? まずやくざ者の男と女がこの主人に売りつけたのは、『永遠亭特製惚れ薬』っていう品物なの。もちろんそれは偽物で、何の効果もない、ただの苦い液体よ。そのままじゃあまりに怪しすぎて売れるはずもないから、主人は在庫を片づけるために別の品名にして売場に出した。それが『永遠亭特製気付け薬』よ」
「これだけ苦けりゃ気付け効果もあるかと思って……ほんとにすまねえ。人様の名前をかたるなんていけねえことだとは分かってたんですが」
うん、ここまではなんとか分かる。その気付け薬をチルノたちが買い、竹林で落とし、小兎たちが拾ってお師匠まで行き着いた。これが私の持っている瓶のたどった道だ。
霊夢さんがさらに説明を続ける。
「で、よ。この『惚れ薬』を、なんとまあ魔理沙も買っちゃったのよ。ほんと馬鹿。こんなのに騙されるなんて。それにこの時はほんと……くくっ、くくくく」
楽しそうに喉を鳴らす霊夢さん。巫女さんにあるまじき意地の悪い笑みに、私もご主人も呆れたように見つめていると、その視線に気付いた霊夢さんは罰が悪そうにこほんと咳をした。
「えーと、どこまでしゃべったっけ? そうそう、魔理沙が騙されたって話だったわね。私はそれが笑い話で終わったところまでしか知らないわけだけど、それからも続きはあったわけ。これは主人の言った通りね。魔理沙は騙されたことに怒って、偽薬屋を探し回って捕まえたってわけよ。ついでに薬屋の主人に恩を売りつけて、滋養強壮剤Xも貰った、と。うらやましい」
「なるほど」
まあ、だいたいは理解できた。
ならば、と私は次の疑問を思い浮かべる。
「じゃあ、魔理沙さんに聞けば、犯人がどんな人で、捕まった後はどうなったのか詳しく分かるわけですね」
「それはどうかしら。あいつのことだから、捕まえたらそれで満足しちゃいそうね。お金を取り返して、いくらか仕返しをして終わり、ってところかしら。里の治安維持のことなんて考えないでしょうし」
ありうる。あの魔法少女さんはどこまでも気まぐれで、自分本位だから。
だったらどうしよう、という迷いを、霊夢さんは的確に見抜いていた。
「里の自警団にでも話を聞いてみたら? 里から追い出された、ってさっき主人が言ったでしょ。その辺は自警団がやることよ」
「あ、なるほど」
素直に感心した。霊夢さんがいてくれてよかった、と私はこの時ばかりは思ってしまった。
私1人ではこんな真相にたどり着けたか怪しいものだ。魔理沙さんに直接話を聞きに行くものの「犯人がどうなったか? んなの知らないぜ」と言われて途方に暮れるのが関の山。自警団のことなんて思いつかないし、そもそも薬屋の主人から詳しく話を聞けず、『気付け薬』が『惚れ薬』だったことも分からないままだったかもしれない。
「で、私にも滋養強壮剤X売ってよ」
「いやあ、今日も売り切れでして」
「なによー、ケチねー」
困った顔のご主人に対し、むくれる霊夢さん。私は霊夢さんを見ながら、むぅと考え込んだ。
彼女を見ていると、己の凡俗具合を痛感できてしまう。素敵な巫女さんは、少ない手がかりから見事に真相を突き止めてしまった。その手際は鮮やかで、彼女こそ探偵小説の主人公のようだ。
なら、平凡な私はせいぜい「おー」と驚いている野次馬か? あれ? 薬屋の主人に話しかける直前は、私が勇気を振り絞って最終局面に突撃したはずなのに、いつの間にか私は野次馬になっている。
はぁ、とため息をついた。こんなことを考えていると落ち込んでしまう。切り替えが大事だ。先のことを考えよう。まずは魔理沙さんにも事情を聞くべきかな?
そういえば、魔理沙さんももう1人の主人公って感じだ。犯人を直接捕まえたわけだし。ただ、偽薬に騙されるっていうのは主人公っぽくないけど。
「魔理沙さん……魔法使いなのにこんなものに騙されるなんて、なんでまた」
素直に湧いた疑問が、私の口から出てくる。
すると、主人と押し問答していた霊夢さんが振り返った。何言ってんのこいつ、とでも言いたげな顔をしていた。
「それだけ切羽詰まってたのか、もしくは妄想でも膨らませてたかってところでしょ」
「妄想?」
「あのねえ。惚れ薬を買ったら、自分の意中の相手に飲ませたいと思うのが普通じゃないの。魔理沙は実際に飲ませようとしたか、本当に飲ませたのよ」
あっ、と私は思い至り、次に出てくる名前を予想する。
今日、何度も聞いたその人の名前を、
「――さんも災難よねえ」
霊夢さんの口が、一音一音、その人の名を形作る。
「こんなものに頼らなくても、あいつらは十分深い絆があるでしょうに」
私は、もう驚く元気もなかった。
半日に及んだ偽薬事件の調査は、里の自警団に話を聞いたことでようやく区切りをつけることができた。気付け薬がどのような人々に渡ったのか、元凶であるやくざ者たちの特徴、そしてそいつらが捕まった後どう里を追放されたか。それらの調査結果をまとめた手帳をお師匠に納めれば、ようやっと仕事が終わる。
空を飛んでいる間、私は色々なことを考えていた。直近のやっかい事を片づけたとなると、今度は後回しにしていた懸案事項と戦わなくてはいけない。
つまり、あの小説家さんのこと。
今日1日、様々な人の口から出てきたこの人の名前。いったい、それの何が私を困惑させているのだろうか。
ただ単に、色々な人がこの小説家さんのことを話していただけではないか。この人は有名人なのだから、多くの人が知っていても何らおかしくはない。
けれど、なんだろう、この人はただ有名なだけではないような気がしてならない。
『有名人』ってなんだろう。そんな奇妙な疑問が思い浮かんだ。
有名人。素晴らしい業績を残したり、目立つ行動をしたりして、皆が知っている人。
もしその人について待ち行く人に尋ねたとしたら? きっとその人は「ああ、××で有名な人だね」と、その業績や行動について語ることだろう。
ならば今日耳にした『小説家さん』はどうだった? 皆が話していた『小説家さん』。その話の内容は彼の業績、つまり小説についてだったか?――違う。1人として、彼の『小説家としての業績』について話した人はいなかった。
そうだ。ここなのだ。有名なのは小説を書いているからなのに、誰も彼の小説について話していない。「彼とはこんな面白いことがあった」「こういう笑い話があった」という小説家さんとの個人的な語り草ばかりが聞こえてきた。
『有名人』はただ一方的に知られているだけだけど、この小説家さんは違う。多くの人と知り合いであり、出来事を通してつながっている。
……なんて考えてみたけど、いやいや、なんか大げさなんじゃないかな?
あれやこれやと無益な考えを巡らせている間に、私は永遠亭へと到着していた。頭は考え事でいっぱいでも、身体が我が家へとたどり着いてしまうとは、蟻の帰巣本能もかくや。兎にも帰巣本能ってあるのかな。
「ただいまー」
「あ、れいせん!」
「おかえりー」
数匹の小兎たちが出迎えてくれて、ほっと一息。やっぱり家に帰ると安心する。
だが休憩するのは報告の後。私は小兎たちに尋ねた。
「お師匠は?」
「実験室にいるよー」
「れいせんが帰ってきたら、実験室に来るようにって言ってたよー」
「そう、ありがとう」
私はさっそく実験室へと推参する。お師匠はまた実験室におこもりか。最近はずっとのような気がする。大事な薬でも作っているのだろうか。
実験室の前に到着し、さっそく引き戸を開けようとして、手が止まった。
部屋の中から話し声が聞こえた。
お師匠の声が誰かと話している。女性の声。永遠亭の住人のものではない。
「――で、――だと」
「――だと思いますがねえ」
真剣なような、冗談混じりのような、そんな2人の声が聞えてくる。どういう雰囲気なのか、ちょっと判断に困る感じだった。
来客中とは聞いていないが、もし大事なお話の最中なら、今は入らない方がいいかもしれない。
と、その時、目の前の引き戸が突然開いた。お師匠が立っていた。睨むような目が私を見下ろしていて、ちょっと腰が引けた。
「お、お師匠、ただいま帰って」
「ちょうどいいところに来たわね。入りなさい」
袖をつかまれ、部屋に引き込まれる。珍しくお師匠がイライラしているのが分かり、私は抵抗もしなかった。
部屋に1歩入って、気付いた。くさい。これは竹林に住む者の匂いではない。妖怪の山の――
「あやや、何が始まるんでしょう。楽しみですねえ」
取材者風にカメラを肩にかけ、営業向けの笑顔を浮かべている烏天狗。
射命丸文。幻想郷のブン屋。
わざとらしくもなれなれしいその微笑みが、お師匠のイラつきの原因だとすぐに分かった。
「さあ、うどんげ。調べてきたことを説明しなさい」
「え、いや、どうしてこの人が」
「は・な・し・な・さ・い」
「わ、分かりました」
なぜ射命丸文がここにいるのかの説明もなく、お師匠に促されるまま、私は偽薬事件について話すことになった。
やくざ者による『惚れ薬』の押し売り、買い取った人里の薬屋が仕方なくそれを『気付け薬』として売り、妖精たちが買って瓶けりをし、落としたのを小兎たちが拾ったこと。
偽薬を作った犯人はすでに霧雨魔理沙が捕まえていて、人里の自警団の人たちが里から追放したこと、などなど。
話している間、お師匠はずっと憮然としていたが、集中して私の話を聞いているようだった。射命丸文も、ニヤついてはいたものの、熱心に手帳の上にペンを走らせている。
こんな風に自分の話を聞かれるのは初めてで緊張したけれど、とにかく話し続けた。
報告後は寂としていた。全員が何事かを考えているように口を閉ざしている。私はもう話すことがなかっただけだが、お師匠と烏天狗は無言で牽制し合っているようだった。
射名丸文が手帳を閉じる。
するとお師匠が口を開いた。
「こういうことよ。永遠亭が偽物を売っていたわけじゃない。いいわね?」
「裏付けを取らないといけませんが、うどんげさんのお話は本当っぽいですしねえ。ふーむ」
ばつが悪そうに頭を掻く新聞記者。さっきとは違い、ちょっと弱気になっているようだ。
いったいどういう状況なのか。そういうことが全然分からず、私はそっとお師匠の後ろに立って尋ねた。「何があったんですか」と。
お師匠は不機嫌そうな顔で答えた。
「くだらない話よ。最近、永遠亭が何の効果もない薬を売っているという噂が立ってるから、このブン屋が取材に来たの」
「え、何の効果もない薬って……」
「そうよ。『永遠亭特製惚れ薬』。効果のない物だってことで、ちょっとした噂になっていた」
そうか。薬屋のご主人や霧雨魔理沙だけでなく、別の人がこの偽薬の被害にあっていてもおかしくない。そこから噂が広まり、新聞記者が嗅ぎ付けたわけだ。文々。新聞はこういう噂を記事にするのが大好きだ。
けど、それって永遠亭にとってけっこうまずくないかな? 世間の噂って怖いし、と思っている私に、お師匠はさらに説明する。
「前からこの噂は耳にしていたわ。けれどあくまで噂で、出所もよく分からなかった。そんな時、ちょうどよく小兎たちが瓶を拾ってきた。惚れ薬ではなかったけど、似たような名前だったし、噂の薬と形や味が似ていた。これは何か関連性があると思って、あなたに詳しく調査させたのよ。で、案の定、真実はあなたの報告した通りというわけ」
お師匠は手の甲の部分で、とんとんと私の額を小突いた。
「ちょうどいいところに帰ってきてくれたわ。このブン屋のしつこいったら。こっちがいくら作ってないって言っても、聞く耳持ちやしない」
「そうは言っても、真実とは往々にして隠されるものですからね。これぐらい強引じゃないと、見えてくるものも見えませんから」
そううそぶく烏天狗はすぐ「まあ今回は見当外れのようでしたが」と落胆混じりに呟いた。
どうやら、計らずとも私は永遠亭の危機を救ったようだ。もし私が真実を持ち帰っていなかったら、ブン屋にあることないことを書かれて、永遠亭の評判は地に落ちていたかもしれない。そうしたら薬は売れなくなって、いつものだらだらとして日常が消えてしまったかも……そんなあったかもしれない未来を想像すると、意外な成果を挙げて誇らしく思うより、安心感が先に立った。
お師匠に小突かれた額から、今更に温かみが感じられてくる。お師匠なりに私を褒めてくれたのかもしれない。
そのお師匠は不機嫌な顔を崩さないまま、烏天狗と向かい合い、淡々と話を再開した。
「だいたい、あなたのところの新聞でも、偽物の薬を扱っていたんじゃなくて? 見たことがあるわよ。『永遠亭特製健康薬』」
「うっ」
「確か購読者に無料で進呈するとかなんとか。文々。新聞は偽物の薬を粗品に添えるのね」
「あれは魔理沙さんが提供したものをそのまま使用しただけで、私は偽物とは知らず……いえ、確認が足りなかったと言われればそれまでですね」
「分かりました」と射命丸文はお手上げの姿勢を取った。
「うどんげさんが調べた情報を元に、偽薬事件の詳細を記事にします。永遠亭の名前が不当に使われていたことも書きましょう。それで噂は消えるはずです」
「それだけ? 最初に話していたうどんげの件はどうするつもり?」
私の件?
射命丸文が顔をこわばらせた。「うげ」という声でも出そうだった。
「あれは、けっこうな損害があったのですが」
「一時的とは言え、永遠亭の薬の評判が落ちた。その風評被害のことも考えてほしいところね」
「あやや……鬼ですね永琳さんは。分かりました。うどんげさんのゲンコウショウシツの件も、不問にしましょう」
はあ、何の話なのだろう。私のことが話題に上がっているはずなのに、私自身が理解できない。ゲンコウショウシツ?
詳しく聞く間もなく、射命丸文は手帳を鞄にしまい、帰る準備をし始めた。
「では、これで失礼します」
「そ。うどんげ、記者さんをお送りしてあげなさい」
「は、はい」
反射的に返事をしてしまった。まだ聞きたいことはあったのに……仕方ない、射命丸文に聞こう。
尋ねようとしたとき、すでに彼女は部屋から出て行ってしまった後だった。
慌てて後を追いかけて廊下に出た。射命丸文ははるか前方で、迷うことなく玄関に向かっていた。小走りで追いつくと、彼女はこちらのことなんておかまいなしに、何事かをぶつぶつと呟いていた。
「うーん、今月もネタがないなあ。やっぱりあのお祭りを……けど、まだ上の許可がなあ」
「しゃ、射命丸さーん」
「あれ? うどんげさん、何か用ですか」
射命丸文は振り返り、訝しげな顔をした。用も何も、あなたを見送れと私が命じられていたのを、聞いていなかったのか。この人は新聞記者なのに、時々人の話を華麗に無視する。
見送ります、と告げると彼女はどうもと慇懃に頭を下げた。
私とブン屋、2人並んで廊下を歩く。
「あの人はほんと鬼ですねえ」
射命丸文は肩をすくめながら言った。
「弱みを見せないというか、底が知れないというか。取材をしても全然情報が得られない。天狗でもあんな人はいないでしょうね」
そりゃあいないでしょう。あの人、多分天狗より長生きでしょうし。
そう言いたいのを我慢しつつ、私は「ちょっと聞いていいですか?」と切り出す。
「なんでしょう?」
「私のゲンコウショウシツって、何のことですか?」
きょとんとした顔をされた。いつも笑顔ばかり浮かべる彼女には珍しい表情だった。
「何を言ってるんでしょう。交渉に負けた私を皮肉ってるんですか?」
「いえ、本当に分からないんです」
「はあ、ご存じない? 本当に?」
「はい。いったい何のことやら」
「そうですか……永琳さんが少し驚いていたのは、だからかあ」
お師匠が驚く? それはまた希少度が高い。私なんかは何年も見ていないと思う。
「ということは、最後のあれは計算ではなくとっさの……ふむふむ、なるほど」
「あのー」
「おっと失礼。説明しましょう」
射命丸文は鞄から手帳を取り出した。
「話は簡単ですよ。えーと、あれはいつだったかなあ」
手帳の頁をぺらぺらと繰り、「あ、これだ」と手を止める。
「水無月の13です。この日に何があったか、覚えてます?」
「13? えーと……」
「その日、あなたは藤原妹紅さんと会っているはずです」
姫様じゃあるまいし、あんな危険人物と会うなんて、と呆れたところで、私の頭の中で恐ろしい記憶が蘇った。
確かに、ある。バウムクーヘンのことを調べた日だ。霧雨魔理沙の家を訪れ、落ちていた八卦炉を拾ったら、突然ビームが飛び出して、それが藤原妹紅に――私に浴びせられた炎の渦。強烈なトラウマとなった、あの瞬間。
「思い出しました? この日、あなたは妹紅さんに弾幕を浴びせたはずです」
「や、あれは」
「この時、妹紅さんはあるモノを持っていました。彼女にとってとても大切なものであり、私にとっても大事なもの……ある1人の小説家さんが書いた、随筆の『原稿』です」
息が詰まった。
ゲンコウ――原稿。
意味を持たなかった言葉が急速に形作られた。私の頭上でできあがったその言葉は、どかんと落ちてきて私をつぶす。それは巨大な鉄塊のような重さだった。
私はその場で立ち止まってしまう。射命丸文がまだ玄関に向かおうとしているのに、私は見送らなくてはいけないのに、足が動かなかった。
「あれ? 行かないんですか?」
射命丸文が玄関を指さす。
それでも動けない。
あやや、という感嘆詞。
「もうどういうことか分かっちゃいました? で、びっくりとしてると。それぐらい反省してもらいたいですねえ。ほんと、この時は弱りましたから」
射命丸文の口調は非難しているというより、からかっているかのようだった。
「原稿はその日できあがったばかりのものでした。本来はすぐに私のところへ届くはずだったのですが、妹紅さんがどうしても読みたいと小説家さん本人に言って、預かっていたらしいんです。そして帰り道、あなたが強烈なビームをお見舞いしてしまった」
そうか。そういうことか。確かにあの時の彼女はいつも以上に怖かった。今でも私のトラウマ箱に入るほど恐ろしかった。
「おかげで『原稿』は全部『焼失』、真っ黒黒ですよ。幸い、妹紅さんが持っていたのは最後の部分だけだったので、そこを書き直してもらうだけで済みました。が、それでも印刷が大幅に遅れてしまった。日程は後ろにずれこみ、結局、その本、『幻想日記』の発売が1週間も遅れてしまった」
妖夢さんが言っていた。本の発売延期は今までになかったこと。原因もよく分からないし、不思議だと。
原因は私だったのか。
「発売延期って、色々経費がかさんじゃうんですよねえ。だから今日は取材のついでに、その補償を永遠亭にしていただこうと思いまして。まあ、さっきのやり取りでおじゃんになりましたけど。機転の利くお師匠様を持って、良かったですね、うどんげさん」
少しは損した分を払います、と言う私を、彼女は手をふりふりさせて断った。
「いいんですよ。おかげで魔理沙さんが惚れ薬を買ったっていう、良いネタが取れましたし。この話は私も知りませんでしたから。まだまだネタ不足ですが、当分はこれで引っ張れそうです」
彼の本について訪ねて、彼のネタを拾うなんて。しかも彼の原稿を燃やした張本人から、と射命丸文は呟き、
「奇妙なものです。これも何かの縁、ですかね」
と笑った。
この時、私の頭では思考の連鎖と爆発が生じていた。
『縁』という言葉が時間を超え、私の脳を刺激し、昨晩の酔いの霧に紛れていた記憶を呼び起こした。
その記憶は、私に1つの事実を突きつけた。
『人との縁ってすごいことなんですよ。縁全てが糸みたいなものです。見えない糸だけれど、確実に他人とつながってる。普段は手や腕に数本しか絡んでいないと思っていても、少し見方を変えれば足や腰、全身に糸が絡んでいるのが分かる。時には思いもよらない人とつながっている』
八目鰻の店主さんが話してくれた、彼の、小説家さんのお話。
愕然とした。
ああ、なんということだろう。
糸は私にもつながっていたのだ。
射命丸さんが帰ってすぐ、私は自室にこもった。思うところがあり、この手帳を読み返したのだ。
自分の書いたものを読み返す時の気恥ずかしさなんてなんのその、私は手帳に書かれた己の文章が、1つの事実を示していることを確かめていった。
例えば『霧雨魔法道具店での在庫一掃大安売り』を知らせる引き札。ここに『永遠亭特製健康薬』の名前が出てきている。
これは多分、『永遠亭特製惚れ薬』の名前を変えたものだ。魔理沙さんがこの薬を小説家さんに飲ませたけれども、効果がなかったために売りに出したのだ。その後、文々。新聞に粗品として提供されているので、売れなかったに違いない。
妖精たちの『仲間募集』の引き札。彼女たちが突撃する家というのは、小説家さんの家のこと。
花妖怪の『スノードロップ』、屋台の店主さんの『縁の話』。今日分かった通り、これらも小説家さんが関係している。
姫様の小説談義は言わずもがな。
そして極めつけが新刊本延期の話。
読めば読むほど、身体が震えてくる。なんだこれは。
私は、この手帳に非日常を書きつづった。私が面白いとか、変だとか思ったこと、興味を持った様々な出来事を書いた。そう、ただそれだけのはずだった。
けれど、そうして書かれた非日常的なもの全てに、小説家さんが結びついている。
この事実に私は恐れおののいた。
……そして、水無月の30の冒頭に書いた、しっちゃかめっちゃかな文章につながるわけである。
今読み返してみると、えらく慌てるなあ。
こうして書き続けて数日。ようやく落ち着いてきた。
さて、どうしよう。ここまで来ると、彼について色々考えたくなってきた。すでに私なりの仮説は立てているが、前提として『誰も彼もが、小説家さんとの個人的な語り草を持っている』なんて断定するには、ちょっと標本が足りない。私の出会った人たちが、偶然彼と知り合いだったのかもしれないからだ。
薬学修行のさい、お師匠にいつも言われているではないか。「推測で物事を判断するのではなく、データを集めて、偶然性を否定できるまで調べつくしなさい」と。
よし、時間がかかってもいいから、ちょっとこの小説家さんについて調べて、考えをまとめてみよう。
そして、今私が抱いている仮説が正しいのか、検証しよう。
※
―日付の記述なし―
あれから、私は日々の修業と家事の合間をぬって、彼についての調査と考察を続けた。自分の手記はもちろん読み返したし、人里に赴いて、色々な人に話を聞いた。表と裏の文々。新聞も精読した。姫様にもちょっとだけ話をしてもらった(長くなるのでほどほどに)。
読めば読むほど、聞けば聞くほど、彼の特異性が明らかになっていった。
私はそれらをまとめ、自分なりに解釈した。こんなに頭を使ったことなんて、今までになかったと思う。
おかげでようやく小説家さんの正体がおぼろげながら分かってきた。
ここにその結果を書き記す。
まず、『彼はただの有名人だ』という仮説について、調査の結果、やはり反証できた。
人里にて無作為に声をかけ、50人ぐらいに写真を見せてこう尋ねた。「この小説家さんを知っていますか」と。
結果、約9.5割の人が「知っている」と答え、7割の人が「個人的にこの人と知り合いである」と答えた。
ちなみに、人間だけでなくそこらの妖怪や妖精にも同じことを聞いている。さすがに人外相手では数字は減ったものの、5割が「個人的にこの人と知り合いである」と答えている。(なお、人間とまったく交流しない人外については調査していない)
これは驚くべき数字である。街を歩いていて、見かける人の半分以上が顔見知りだなんて。
ただ単に、他人から一方的に知られているだけの有名人なら、こんなことはありえないだろう。
こんな人が他にいるだろうか、と思ったとき、私は霊夢さんや魔理沙さんのことを連想した。そして次の仮説『彼は主人公みたいな存在である』を検証した。
『主人公』。それは、今回の偽薬事件における霊夢さんや魔理沙さんのような人のことを指す。
物語でも現実でも、『主人公』は日々の出来事で常に中心人物として振る舞い、軽やかに踊る。他人をひきつけてやまない魅力と、強烈な存在感、そして有用な能力によって流れを作り、問題を解決し、全てを幕切れへと誘う。そうして歴史に名を残しもするのだ。
『主人公』は出来事を通して多くの人と知り合うので、必然、顔が広い。霊夢さんや魔理沙さんも、色々な事件をきっかけにして、人妖問わず知り合いを作っている。人里での聞き取り調査を、霊夢さんと魔理沙さんの名前で行ったとしても、5割ぐらい知り合いだという人が出てくることだろう。
(ちなみに、私みたいに事件に翻弄され、あたふたと野次馬に徹することしかできない存在は『脇役』『端役』と言う。この世の中、数少ない主人公たちが世の中の流れを作り、脇役がその流れに乗って物事を成し、端役は流れに翻弄されるのである)
あの小説家さんが、霊夢さんや魔理沙さんと同じ『主人公』だとしたら、この顔の広さも納得できるというもの。
この考えには2,3日ほどかかりっきりになった。思索を続け、「そうかもしれない」と思えるまでになったとき、私はふと読み返した自分の手記中の『水無月の12』の箇所から、反論を受けてしまった。
『もう少ししたら、この作家の日記が本になって発売されるわ。この作者は、これまで己の意見を表だって書くことがなかった』
この小説家さんは、自分の意見を言わない。この姫様のお言葉に、私はハッとなった。
『主人公』は、己の意志を貫き通すことで世の中の流れを作るもの。
小説家さんはそれをしない。そもそも彼は『主人公』にふさわしい強烈な存在感も、有用な能力も持っていない。
偽薬事件もそうだった。問題を解決したのは霧雨魔理沙で、幕切れへと誘ったのは、薬屋の主人に白状させた博麗霊夢である(私じゃないのが悲しいところ)。この流れに小説家さんは何一つ絡んでいない。彼は主人公らしくふるまわない。
私の仮説はまたもや崩された。
ただの有名人じゃない。
『主人公』でもない。
輝きの少ない脇役でもない。
物語に絡まずその辺に漂う、平凡な端役でもない。
それでも彼は多くの人に認知されているし、彼の周囲には多くの出来事が生まれている。
この人はいったい何なのか?
私は悩んだ。どうやらこの人は、私の短い兎生で、出会ったことがない類の人らしい。
ここは自分の感性によって、この人の正体を定義づけるしかない。
また、2、3日考え続け、結論が出た。
彼は『作者』だ。
彼は私たちという登場人物をつかい、物語を生み出している存在なのだ!
……いやいや、もちろん、彼がこの世界の創造主だとか、高次元の存在だとか、そんな馬鹿らしいことを言っているわけじゃない。
説明しよう。
そもそも『作者』とは何か。
小説や物語を書く『作者』とは、当たり前だが決して自分の書いた物語の中に出てこない。出てきてしまえば小説ではなく随筆になってしまう。
『作者』は、物語の外にいる。そして登場人物について記述をし、彼らの魅力を引き出し、彼らに役割を与える。そうして彼らの物語を作る。そんな存在だ。
さて、小説家さんはどうかというと、先ほども書いた通り、彼は自分の意見を言わない。多くの人と関わりを持っているけれども、自分が主導権を握った人付き合いをしてはいない。まるで物語の外にいるかのようではないか。
しかしだからと言って、いてもいなくても変わらないというわけでもない。彼は他人の話をたくさん聞く。楽しそうに耳を傾け、尋ねまくる。時には豊富な知識を披露し、別の視点からの助言もする。
彼は無類の聞き上手なのだ。彼にかかれば、どんな人も自分の心をさらけだす。意外な一面を見せる。周囲から「厳しい人」と見られていた人が、実はかわいらしい性格をしていたとか。
これこそ、『作者』が行っている『登場人物の魅力を引き出す』行為に他ならない。
そうやって現れた魅力は、人々の口をわたったり、新聞に書かれたりして、周囲に広がっていく。湖に落ちた一滴の雫が波をたたせるように、ゆっくりと、確実に。
しかも雫は一滴ではなく、いくつも落ちてくる。いくつも起こる波はぶつかり、合わさり、次第に大きくなる。大きな変化を起こしていく。その変化が『物語』となっていくのだ。
実際、私が知るだけでも、以下にあげる人たちがみんな、小説家さんと関わることで魅力を引き出され、物語が生まれた。
わがままで自分勝手な魔法少女は、恋を知ることで他人を知り、ちょっとだけ大人の女性になった。
自分にも他人にも堅物だった里の守護者は、肩の力を抜くことを覚え、誰をも包み込む優しさを持つ女性になった。
千を越える年月を生き続け、自棄と憎しみだけしか持たなかった不死鳥は、他人を愛し支えることを生き甲斐にする乙女となった。
周りから恐れられているだけだった花妖怪は、人間の男に花を贈ってからかわれるような、意外な一面を見せた。
尊大不遜な吸血鬼のお嬢さんは、一人の作家に入れあげる好事家になった。
ブン屋は人の恋愛を出刃亀し、
氷精は仲間と共に成長を望み、
月のお姫様は、憧れの人に会うことへの怖さを知った、1人の少女になった。
そうして起こった物語はいくつある? 『恋物語』はもちろんとして、『成長物語』や『喜劇』、『推理劇』に『冒険劇』。多くの物語が起こり、それらを通して、小説家さんは多くの人と知り合っている。
そして……はからずとも、私もまた、ただの薬師の弟子兼お世話係ではなくなった。彼が広げた縁の糸に絡みとられたことで、『新刊本発売延期事件』という物語の『犯人』となり、『偽薬調査事件』の『脇役』となった。
小説家さんが積極的に何かをしてこの変化が生まれたわけではない。彼の『聞く技術』が、彼女たちの新たな一面を引き出し、彼女たちに新しい役割を与えたのだ。
まさしく彼は『作者』だ。
(補足:だったら『読者』は誰か、という問題が頭に浮かぶ。結論として、それは幻想郷のあらゆる人々であり、小説家さん自身だと思う。もしくは、それこそ高次元の存在がこの物語を読んでいたりするのかなあ、なんて夢想する。だったら私の手記も見られてるわけで……読まないでくださいとお願いしたい)
私の手記は、小説家さんが作り出した物語のごく一部を書きとめたに過ぎない。きっと幻想郷には、小説家さんという『作者』のもと、たくさんの物語があふれているのだろう。
以上が、小説家さんに関する私の推察である。
―
さて……実際に書いてみると、私の推察ってどうも大げさだなあ。『物語にあふれている』って、なんか詩的すぎる表現で、恥ずかしくなってきた。
けど、まあいいか。私以外の誰が読むというわけでもないし。
自分の考えをすっきりとまとめた今、私はこの小説家さんに会いたくなっていた。
なぜか? もちろん、謝罪するためでもある。わざとではないとは言え、彼の大切な原稿を燃やしてしまったのだから。
だが、それだけではない。私はこの不思議な人と会って話がしたいと思っていた。
こう言うと、八目鰻の店主さんに『それは恋ですね』なんて言われてしまいそうだ。そうなのかな。確かに、こんなに誰かと会いたいと思ったのは初めてだ。
まあ、この思いは多分、答え合わせをしたいという気持ちに近い。自分が導き出した小説家さんの姿が、真実の姿と合致しているのか。例えるなら、せっかく問題を解いたのに、それが正解かどうか分からなくて気になってしょうがない、答えが見たい、みたいな感じ。
姫様に接触を禁止されているから容易ではないだろう。
けどいつか、彼と話がしたい。
彼と話せたら、私も主人公になれるかもしれないし。
追記:うっ、小説家さんと言えば、先日お師匠の部屋で見かけた書類のことが思い出される。
あれってやっぱり、小説家さんに関係しているのかなあ。小説家さんの本にはさまっていたし……なんだか、カルテっぽい書類だったと思う。なら、小説家さんは何か病を患ってるのかな? お師匠はそれの診察と治療をしているとか?(小説家さんが永遠亭に来たことはないはずだけど……)
もしそうだとしたら、これってとんでもないことなんじゃ……うー、お師匠にこの話をするのは怖いし、かと言って患者の話を外に漏らしたらやっぱりお師匠が怖いし……うーん、うーん。
※
―日付の記述なし―
本日、永遠亭に届いた手紙。
『文々。新聞出版主催「大文化祭(仮)」開催のお知らせと出演のお願い。
青葉若葉が茂り、春妖精の声も静まるみぎり、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
この度、文々。新聞出版は、妖怪の山にて「大文化祭(仮)」を開催する運びとなりました。つきましてはそのお知らせと、皆様にお願いを申し上げるために一筆をしたためた次第でございます。
「大文化祭(仮)」とは何か。それは名前の示す通り、「文化の祭典」であります。
まず、私がなぜこの催しを開こうと思ったか、その動機を申し上げましょう。
才識ある皆様方ならばすでにご存じの通り、幻想郷は決して広くはない土地ではありながら、様々な文化が根付いています。人間、妖怪、幽霊、神様等々、多種多様な存在がこの土地に集り、生きています。このような場所は、外の世界にも月にも、他のどこにも存在しないでしょう。「人種のるつぼ」ならぬ「種族のるつぼ」。それが幻想郷です。
しかし、この場所に住む私たちは、各自それぞれの集団に縛られているが故に、他の集団の文化を目にする機会があまりありません。
例えば天狗の新聞のほとんどは、妖怪の山の中にしか配られません。どんな新聞が新聞大会の1位を取っているかを、人間は知らないでしょう。神様が普段どんな生活をしているのかは神社の関係者ぐらいしか知りません。幽霊は夜寝ているのか、不死者はお腹が空くのか、外の世界の人間は幻想郷をどう見ているのか――それぞれの種族が何を考え、何をしているのかを全て知る者は、おそらくおりません。
もちろん、それが悪いとは申しません。適度な距離感は適度な世界を作ります。種族ごとの違いも大きいため、私たちが完全に相容れることは今後もありえないでしょう。
ですが、私たちは同じ幻想郷に住む、いわば同居人です。好き勝手に生きるのもいいですが、たまには隣人のことをのぞいてはどうか。
そして、互いを理解した上で適度な距離を取れば、幻想郷はさらに安定するはず。
そういう思いがあって、私は今回の「大文化祭(仮)」を発案いたしました。
この催しの最大の目的は「文化の交流」です。多種多様な幻想郷の文化を一カ所に集め、多くの人の目と耳に触れられるようにします。
その中身は色とりどり。文化財の展示、特産品の販売、音楽会の開催といった基本的なものから、人形劇や大衆演芸まで。まさしく「文化の祭典」にふさわしい充実の内容を予定しています。
そして、最大の目玉は「講演会」です。これは幻想郷の知識人・有名人が、観衆に向けて様々なお話をする催しです。普段話すこともできない高貴な方や、今流行りの人などが何を考え、どんな知識を持っているのか。直接語っていただくことで文化の伝承を図ります。
つきましては、皆様へお願いを申し上げます。この「講演会への出演」または「催し物への出店」をご検討いただけないでしょうか?
このお知らせ用紙はどこにでも配っているわけではありません。幻想郷の有力者、有名人、職人や名人等々、文化の担い手としてふさわしい方々にお送りしております。特に講演会では演者を極限まで厳選し、これ以上ないほど質の高いものに仕上げたく思っておりまして、その点、このお知らせを受け取ったあなた方ならばと、僭越ながら私、射命丸文が判断した次第でございます。
話す内容、行う催し物に制限はございません。事前に内容の打ち合わせを行うことはありますが、これは質の保持を目的としたものであり、内容をこちらから指定する暴挙は犯しませんのでご安心ください。
皆様にはただただ、ご自身のお持ちである「文化」を幻想郷の隣人たちに披露していだきたく思います。
何分突然のことで驚かれるかもしれませんが、私は本気です。どうかご検討ください。
できるならば文月の中旬までに、同封の参加申込書にてご回答をいただければ幸いです。
詳しい段取りなどは、ご参加を表明された方に順次お知らせいたします。
御多忙中のところを恐縮に存じますが、ご返事賜りたくお待ち申しあげます。
文々。新聞出版 編集長 射命丸文』
この手紙が届いてからというもの、姫様の様子が変だ。手紙を何度も読み返しては、普段見せない真面目な顔で考え事をするようになった。
時々、お師匠と2人して自室にこもって密談をしていることもある。隣の居間にいるとそれが聞こえてくることがあり、姫様の声で「催し物は」「講演には誰が」等々、不穏な言葉が届く。
嫌な予感がする。こういう時の予感は多分当たる。
まさかとは思う。あのぐうたら姫様がそんな行動的なことをするはずがないと。
しかし、時々積極的になるのが姫様というお人で、月都万象展なんかがその良い例だろう。なんで永遠亭で月の展覧会なんて開いたのか。あの時はほんとに疲れた……ああ、嫌だなあ。姫様の思いつきは、いつも私の災難になる。
あ、だけど、あの小説家さんもこれに参加するのではないだろうか。文化の祭典なら、作家が参加するにふさわしいだろうし。
小説家さんと直接お話できる機会があるかも……そう考えるとちょっと参加したくもなる。けれどやっぱり疲れるのは嫌だし、あーあー、どうしよう。
※
(以下、手帳は空白となっている)
※
手帳をぱたんと閉じて、目をつむる。ゆっくりと、数度深呼吸したあと、こめかみを人差し指で軽く押した。じんわりと、心地よい感覚が頭に広がり、また一つ息を吐く。頭の中に入っていった情報が急速に整理されていく。
読み応えのある書物を読んだ後に起きる現象だ。そうそうあることではない。
私にこうさせるとは、なかなかの書き手ね、あの子も。そう思いつつ口角をわずかにあげた八意永琳は、白い手帳の表紙に書かれた『手記(う)』の黒い文字を撫でた。「やめてください~」と情けない声を出す弟子が目に浮かび、永琳はまた微笑んだ。
永遠亭、八意永琳の実験室。ここには今彼女1人しかいなかった。もう夜も更けていて、窓からは月明かりが部屋に差し込む時頃だ。明かりとなる蝋燭がゆらゆら揺れ、手帳の文字を照らしていた。
耳鳴りがしそうな静かさだった。物音ひとつしない家屋。部屋の外はもう眠りの霧に包まれているだろう。永遠亭でまだ目を開けているのは自分と姫様ぐらいだろうか。
永琳は自分で淹れた緑茶を口にしつつ、ふぅと息をついた。少し、眠たい。
実験室に落ちていたこの手帳を拾ったのが、今日の夕方近くのことだったか。それから今の今まで読み続けていたのは、弟子の恥ずかしい部分を見たいという意地悪心があったからーーそんな己の幼稚な部分を否定しないわけでもない。
確かに最初はそうだった。手帳の最初に書かれていた『絶対に読まないでください』の文言に、逆に好奇心をそそられた。いつも『やれやれ顔』ばかりしている弟子が、その裏でどんなことを考えているのか、知りたかったのもある。
だが読み進めていく内に違和感を感じ、途中からそれが確信に変わった頃には、永琳の目は研究者のそれとなっていた。自分が現在最も気にかけている事柄について、こうも詳細に書かれているとなると、読まないわけにはいかない。必要にかられた読書ほど集中できるものはなく、緑茶を何度も淹れ直し、弟子の恥部には笑みを浮かべながら、文字を追い続けた。
そうして読み終えた今、永琳は深く満足していた。
情報を得られたことだけではない。自分の弟子が成長していること。これがとても喜ばしかったのだ。
(さすがは私の弟子、と言ったところね)
手記の後半部分には特に感心した。己の仮説を盲信するのではなく、きちんとサンプルを集め、反証を無視することなく、客観的な検証を行っていた。これも日々の教育の賜物か。
そもそも、『彼の特異性』に気付くことができているというのが、評価に値する。
他人を知り、見抜くというのは難しい。ある者の言葉や行動、態度から特異性を見出し、そこから精神の構造を把握するには、それ相応の知識と経験が必要だ。人間観察と言えば簡単だが、実際にできている者は意外に少ない。
だが、これは薬学・医術を志す者にとって重要な能力である。患者を診察した際、相手の申告をそのまま信じるだけではダメ。本人が病状に気付いていない場合があるからだ。だから患者の一挙一動を観察し、医学知識と臨床経験に照らし合わせ、相手を観察しなくてはいけない。
うどんげは拙いながらも他人を見抜いた。これは明らかな成長だ。弟子の成長を喜ばしく思わない師匠はいない。
ただし。
(見抜いた後が問題なのだけれどね)
症状を見抜いた後、医者は、それが病気なのかそうでないのかを判断する。
残念ながら、うどんげはただ『すごく変な人だ』と考えるに留めてしまった。それでは足りない。病状は把握したのに、病原を突き止めていないに等しい。
大事なのは、物事の奥にある本質を理解すること。その理由を把握すること。
永琳は近くの書棚から書類の束を取り出した。束の真ん中あたりに指をはわせ、数枚の書類を探しだし、引き抜く。
この書類は、以前うどんげに見られそうになったものだ。あれ以来、書類の束という森の中に隠している。
手記によれば、うどんげはこの書類を見て『カルテ』ではないかと思ったらしい。そして小説家が病気なのではないかと心配していた。
なるほど、言い得て妙だと感心しつつ、永琳はしばらく書類をじっと眺めていた。
「……足りない、わね」
ひとりごち、考えをめぐらせる。
この書類はまだ完璧ではない。うどんげのようにデータは集めたもの、やはりそれは外から眺めているだけのようなもの。本当に理解するためには、直接『診る』必要があった。
机に頬杖をつき、呆れた目で書類を見つめながら、永琳は大きく息を吐いた。そのため息は、おせっかいな自分を揶揄しているかのようだった。
必ずしも、小説家を診なくてはいけないかというと、そうでもない。だってこれは、永遠亭の安全に関わるわけでも、幻想郷の保全に関わるわけでもない。誰かの命がかかっている、なんて深刻な事態が起こっているわけでもない。ただただ、ある1人の近しい女の子のために行っているだけだ。
これでは、まるで人間の母親が、自分の娘にお節介をかけているようなもの。
しかし、その女の子には今のまま生き続けてほしい。希望と憧れと目標を抱き、時間の流れを精神で感じ取る。そんな生き方ができている今の彼女はとても輝いている。
その輝きをいっそう強くするか、それともしぼませるか。
それは1人の男次第。
もし母親だったら、そんな男が気になるだろうし、一度顔合わせぐらいしたいと思って当然ではないか?
まあ、機会は待たずともやってくる。
今、自室で色々と考え事をしているであろう彼女。きっと天狗からの案内状を何度も読み返しているだろう。彼女の思いつきと願いが言葉にされた時、自分はきっと小説家と相対する。
その時はまず、サインでも貰っておこうか。
(この手帳は……元の場所に戻しておきましょうか)
うどんげの手帳を実験室の床にそっと置く。
これを読んでしまったことは、弟子には言わない方がいい。怒った顔も見てみたいが、拗ねて仕事をサボられるのも困る。
小説家のことで色々と考えているようだが、あの弟子はこれからどう動くだろう。誰かに相談するだろうか、自分で診察するだろうか。もしかしたら……例の3人娘に話してしまうだろうか。
結果を想像してみて、それはそれで面白いかもしれない、と永琳は悪い笑みを浮かべるのだった。
Megalith 2014/07/18
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最終更新:2016年01月23日 13:51