※このSSは三次創作です。
Megalith 2012/02/04の作者さん(34スレ目>>442)から許可をいただいて、34スレ目の>>441が続きを描きました。
かなり勝手な設定を足しているので、この場を借りて作者さんにお詫び申し上げます。



第一話 新しい生活


「…あいたたた。」
村の子どもが肩車されながら、僕の髪の毛を引っ張っていた。
膝の上ではまた別の子どもが腹ばいになりながら、じたじた体を泳がせている。
部屋の中を走り回っていたまた別の子どもが通り際に僕の肩をつかんでターンすると、そのまま背中に隠れようとした。
また別の子どもが彼を追いかけていた。同じく僕の肩をつかんで同じようにターンすると、また二人で部屋の中をぐるぐる周っている。
廊下からどたどた足音が聞こえてきたと思えば、ふすまが勢いよく引きあけられた。続けて、3人の子どもがひと塊になって入ってきた。
「鬼だ鬼だー、鬼が来るぞーう。」
「鬼が来たぞーう、待て待てーっ!」
最後の1人がふすまにぶつかって、けたたましい音を立てた。ふすまを閉めて鬼を防ごうとしたが、ふすまは敷居から外れていた。
ふすまから手を離す。部屋のすみにむかって一目散に駆けてゆく。
「鬼、つかまつる!覚悟しろ人間どもよ!」
鬼役の少女がどしん、と畳を踏みしめて部屋に入った。ちょうどそばにいた僕は、つんとした酒の匂いを感じ取った。
鬼役の少女の髪から、二本の角が伸びている。本物の鬼なのだ。この鬼こそが、僕を幻想郷に連れてきたのだった。
もう幻想郷に来てから3ヶ月になろうとしていた。




果てしない真っ白な時間の中にどれくらい身を置いていただろうか。僕はいわゆる引きこもりとして生きていた。直接のきっかけは両親の死になる。二人とも全く同時に死んだのだ。
地元を離れ、大学に通っていた僕は下宿先の携帯電話充電器の前で両親が死んだことを知った。にわかには信じられなかった。
翌日、郵便受けの前で知った時にはやっと理解できた。両親は死んだのだ。僕の周りの世界が急に色を失っていくのがわかった。
とりあえず地元に帰ることにした僕は着古したジャケットとGパンに身を包み、ありったけの現金を持つとバス停へと急いだ。
着替えも歯磨きも数珠も真っ黒な喪服も何も持っていかなかった。どうすればいいのかわからなかったし、こういう時一番頼りになる人物はもう頼りにできない場所に行ってしまっていた。
親戚もいない自分がよくもうまく事を進められたと思う。気がつくと、僕は下宿のアパートに帰ってきていた。
事後処理の記憶はほとんどない。近所の人に助けてもらっていたかもしれない。
帰って一番にしたことは、部屋の雨戸とカーテンを閉め切ることだった。もう外の世界は見たくなかった。

一ヶ月が過ぎ、あっという間に4ヶ月がすぎた。お金はやっとの思いで外に出た時にできるだけ多く引き落としていた。
親の遺してくれた金があったから、とうぶん生きていくことはできた。
歩いて3分の郵便局に行った日は一日寝込まなければならなかった。陽の光が変に緑めいた気がして気持ち悪かったし、通行人にふらふらぶつかりそうでひどく気をつかうのだ。
僕はもう何も考えられなかった。生きながらに死んでいるようなものだった。
大学の学籍がどうなったかはわからない。玄関口の脇、郵便物を積み上げた束の中に、ひょっとしたら僕の除籍通知があるかもしれない。
就職活動に使っていたリクルートスーツもしわくちゃのまま、部屋のすみでほこりをかぶっていた。就職して社会に出る気にもなれなかった。
退屈は感じなかった。目を閉じればいくらでも眠ることができた。起きていても得体のしれない鈍い頭痛ばかりおそってくるので、これは都合がよかった。
真っ暗な部屋の中で起きては目を閉じ、起きては目を閉じる生活が続いた。ほとんど食欲はなかったので、何か食べた記憶はほとんどない。夢とも現実ともつかない時間のなかで、僕は家庭があったころの思い出を思い返していた。それだけをしていた。
夢と現実の区別がどうでもよくなったころ、彼女は来た。その鬼は来た。
「なんだ、居たなら返事してほしかったなぁ」
彼女は節分の日をやり過ごすためにあちこち逃げてまわっていたらしかった。彼女のいた世界から出て、行き着いたのがたまたま僕の部屋だったのだ。
彼女は、自分のことを鬼であると言った。最初は僕は信じられなかった。鬼なんて、おとぎの世界の話だからだ。
しかし、僕は彼女を信じることにした。
彼女が超常的な力を見せてくれたこともあったが、鬼だろうが魔物だろうがとにかく自分を変えてくれるものが欲しかった。
僕の場合は、出会ったのが彼女で幸運だった。彼女はおとぎ話で語られるような恐ろしい鬼ではなかった。それどころか、頑なな人間を打ち解けさせる朗らかさがあった。
彼女と会った時には不思議と落ち着いた気分になれたことを覚えている。奇妙な印象を与えないよう言葉を選ぶ必要もなかったし、出方に気を遣って神経をすり減らす必要もなかった。
半年ぶりに出会えた人間性だった。彼女と一緒なら屑のような自分も変われそうな気がした。僕は世界を捨てる決心をした。彼女について、幻想郷へ行くことにしたのだ。
彼女は快く応えてくれた。
「そして…ようこそ、幻想の世界へ!」




人里を出る頃には、薄紫色の空が西の方角にわずかに残っていた。山の端近くに大きく輝くあの星は金星だろう。
幻想郷の空は広い。外界と違って高い建物が無いため、星の動き、風の音が手に取るように感じられる。
僕はその風景が清々しくもあった。同時に、どこか怖くもあった。自分の祖先がかつて見てきた景色だと思えば、不思議な感慨が身を包んだ。
「お疲れさま、○○。」
空を見上げてぼーっとしていた僕の背中が、ばしんと強く叩かれた。振り返ると、萃香が薄闇の中でにっかり笑っていた。
ふつう僕のような表情の乏しい人間には距離を置くものだと思うが、萃香は違う。お構いなしに距離を詰めてくれる。
人にもよるのだろうが、萃香のそんなところが僕にはありがたかった。ありがたくはあったが、照れ臭くもあった。やっぱり人付き合いというのは苦手だ。
「あ~疲れた。餓鬼の相手は体力いるねー。」
「…そうだね。」
萃香はヒョウタンを空に向けると、ごくりと喉を鳴らした。けふっと息を吐くと、酒の匂いが僕の鼻にも届いた。中身は酒だ。それもかなりきつい。
「疲れてない?○○。」
「…いや、大丈夫。萃香は?」
「もち大丈夫。人間さんとは鍛え方が違うのよ。」
萃香はにっかり笑う。どんなことを言っても嫌な感じをさせないのは、彼女の性格によるものだ。彼女のそばにいると、僕も性格が明るくなったように思える。根暗な僕には存在そのものがありがたかった。
それに、萃香は疲れているはずなんかないのだ。もともと人里に出てきたかったのは萃香だったのだ。
僕達は週に2回か3回ほど、人里に出てきていた。ぶらぶら大通りを歩くこともあれば、ちょっとした消耗品を買いにくることもあった。
今回のように、菓子を持って里の寺子屋に遊びに来ることもあった。

人間のそばにいる時の萃香は本当に満足そうな輝いた顔をしている。
萃香は僕を気遣ってくれてもいるのだと思う。僕に外出のチャンスを与えてくれているのだ。自分で望んできたとはいえ、馴染みのない土地ではこれまで通り引きこもることは目に見えていた。
寺子屋に萃香の知り合いがいるらしく、僕たちの出入りを許してくれたのだった。萃香が頼み込んだらしかった。
お礼を言う僕に萃香が言った言葉を覚えている。
あたしのずっとやりたかったことだから気にするな、と。
どういうことかというと、萃香はこれまでずっと人間のそばにいたかったのだ。人間に無性に憧れているように見えた。
人間は弱っちくて、みみっちくて、ずるくてどうしようもない。だけど仲間を作り、絆を育てることができる。
人間が心許した人の前で見せる笑顔が大好きだと萃香は言う。
物陰から何度となく見てきたその笑顔こそ萃香が欲しくてたまらないものだという。
そんなにいいものじゃないよ、と僕は萃香に返したことがある。確かに気分はいいけど、めったに心通じ合える時なんて無い、と。
それでもいいんだ、と萃香は言い切った。あたしは笑顔が好き、笑ってる人間が好き、それだけでいいんだ、と。
長く生きてきた年月の中で、萃香と心通わせた人間はいそうなものだが、驚いたことにいないらしかった。
僕の考えだが、萃香自身が引け目を感じすぎているだけだと思う。その気になれば、彼女はいくらでも人間と友達になれるだろう。僕なんかいなくても。
萃香は僕の世話を頼むかたちで人里に入っていった。悪い言い方をすれば、僕をダシにして人間と付き合いたかったのだ。

今の彼女は本当に幸せそうに見えた。
「あいつら、また足早くなってたよ。すーぐ大きくなっちゃうんだから。あたしもうかうかしてらんないよ。」
「…そんなに…早かったかな?」
「早かったよ。ケン坊もタケもヒロも前と全然違ってた。」
萃香が挙げた子は、萃香と鬼ごっこをしていた三人の子どもなのだろう。
「あいつらおとり作戦まで考えてやんの。一人があたしひきつけてるうちに、二人がどっか隠れてさ。危なくなったらその一人と代わんの。あたしが人間だったら疲れてくたばってるよ。」
「…考えてるんだね。」
「何だってあそこまで負けず嫌いなのかね。」
「…子どもだからね…男の子だし。」
僕は彼らの負けず嫌いの理由に気づいている。三人のうちタケは萃香のことが好きなのだ。好きな女性の前では弱みを見せたくない。その心は僕にもよくわかった。
タケが一度だけ相談に来たからよくわかっていた。なかなか告白する勇気が出ず、今のまま遊び相手としての関係を続けているようだ。後の二人は協力しているだけなのだろう。
彼の自尊心を考えて、僕はもう少しだけ萃香には黙っていることにした。これは彼自身で言ったほうがいいだろう。

「そういえば、○○はどうなの?」
「…何が?」
「ミチのこと。今日肩車されてた子。」
「え?」
「○○のこと好きだって?」
「ええ、え?」
僕は驚いていた。相手が小さな女の子だとわかっていても、彼女なんていたことがないからにわかには信じられなかった。
「た、確かにいつも寄ってくるけど、ほら、子どもだし、なんていうか、子どもだし…。その、成長したら絶対他の人を好きになって僕のことなんか…。」
「絶対結婚するんだって。何年経っても。」
意地悪な笑みを浮かべた萃香が僕の顔をのぞきこんでいた。
「え、ええ?」
「男の子だったらヒロユキ。女の子だったらミカ。」
「ちょっと、萃香。やめようよ。」
僕はどうしていいかわからなかった。たぶん僕の顔は真っ赤だったと思う。
「子どもの名前考えてんだって。こりゃ責任おっきいねえ。」
萃香がバシンと僕の背中を叩いた。
「…絶対間違ってるよ。僕なんて選んじゃあさ…」
「好きなもんはしょうがない!あきらめな!」
わははと萃香は笑う。萃香は他人の噂や陰口を絶対に言わないが、恋愛の話は別だった。少女らしい見た目相応に興味があるらしかった。、
「○○も彼女いたことあるんだろ?軽くあしらってやれよー」
「…いないよ。」
「何だって?」
「彼女、作ったこと、ない。」
「ほんとに?」
「…うん。」
「ふうん、そうなんだ。ふうーん。」
意外なのだろうか、萃香は何度も相槌を打っていた。
「…そういう萃香はどうなのさ。」
僕もささやかな反撃がしたくなった。
「あたし?」
「…長い間生きてきたんでしょ。だから…」
「いいじゃないの、別に。」
「………」
「あーっ、いないよ。ちくしょうめ、悪いかよ。」
「いや、ごめん。」
「あたしだってなあ、本気を出せば、本気出せばなあ、」
萃香はぶちぶち漏らしながら、僕の前を歩いていた。
陽はほとんど落ち、道端の道祖神が僕の提げていた提灯に照らされてはまた闇に消えていった。
萃香にも恋人はいなかった、ということは。萃香の背中を眺めながら僕はつい下世話な考えを持ってしまっていた。僕は自分自身のこういうところが嫌いだ。




人里から少し離れた岩屋に僕たちは住んでいた。岩屋の前、平らに開けた広場で火をたき、僕は夕食を作っていた。

もともとこの岩屋は萃香の住みかだった。僕がこっちの世界にやってきてからは僕も一緒に住んでいた。
僕は女の子の家に上がりこむのは抵抗があった。相手にも気を遣わせると嫌だったし、変な噂でも立てられると萃香にも悪いと思ったのだ。何より僕自身照れ臭かった。
正直に萃香にそのことを伝えたら、萃香は笑い転げていた。萃香を女の子扱いしたのは、僕が初めてのようだった。その日やけに萃香の機嫌がよかったのはよくわからない。
萃香だって僕をわざわざ住まわせようとしたのには理由があった。はっきりいって萃香はだらしなかったのだ。空の徳利があちこちに転がっていたし、その中には黒カビが生えている飲み忘れもあった。
岩屋のすみにはちりがたまっていたし、何年前のものかしれない落ち葉がそこかしこに吹き込んでいた。最初に足を踏み入れた時の光景は今も覚えている。
極限まで散らかった部屋に他人をあげても、萃香は恥じもしなければ隠そうともしなかった。ただ平然としていた。そこは実に彼女らしかった。
その時、部屋を片付けてから家事一切を取り仕切らせてもらっている。
体力もなければ気力も乏しい僕がなぜできるかと言えば、それは萃香のおかげと言うしかない。僕が何かすれば、どんな小さなことでも彼女はほめてくれた。
お世辞なんかではなくて、身振り手振りもまじえて心から感謝の気持ちを表してくれるのだった。
生まれついての潔癖症で僕は掃除を始めたのだが、いつの間にか彼女の笑顔が見たくて家事をするようになっていた。
一度だけ彼女がご飯を作ると言ってくれたことがある。僕に家事ばかりさせては悪いと思ったのだろう。結果は大失敗だった。内臓ごと煮込んだ魚のスープと芯が残った麦飯をぼりぼりいただきながら、僕はおいしいよと言った。
以来、彼女は家事をしようとはしていない。

薪を火にくべると、炎は一瞬ゆれてちいさくなった。薪の表面が燃え上がるにつれ一層大きくなった。上に載せた鍋が細かなうなりをあげて煮えようとしていた。
僕の隣に座っていた萃香が待ちきれない様子で鍋のふたを上げた。
「…まだだと思うよ。」
萃香は黙ってふたを元に戻した。初夏の空気の中に湯気はほとんど上がらなかった。沸騰してもいないらしい。
かと思えば再びふたをあげて、中に箸を突っ込み始めた。
「…生煮えだよ。」
「いいの。もう待ちきれないし。」
萃香はふたを地面に置くと、左手でどんぶりをとった。構わず肉ばかりを選んでよそいはじめる。
僕は何も言えずに見つめていた。
「ちゃんと○○の分は残しとくって。」
「…うん。」
箸を乱暴につかむと、一口食べた。萃香の眉間に一瞬しわがよった。
「まずい。」
「…生煮えだからね。」
言うが早いか萃香は丼の中身を鍋に戻した。行儀が悪いな、と僕は思う。
ぶすっとした表情で萃香が隣に座る。しばらくの間、二人で何も言わず座っていた。薪が何度か爆ぜて、火の粉を散らした。鍋のうなりは次第に大きくなっていく。
落ち葉の発酵する匂いが夜闇にまぎれて僕らを包んでいた。。
「かわいかったなー、あいつら」
萃香がしみじみとつぶやく。寺子屋に行った日はいつにもまして機嫌がよくなる。萃香は本当に子どもが好きなんだと思う。
今もバラ色の頬をますます輝かせて、うっとりとした顔を浮かべていた。酔っているせいもあるかもしれない。
「…本当に好きなんだね。」
「何が?」
「…子ども」
「だってかわいいじゃん。」
僕はそんな萃香をうらやましいな、と思う。好きなものを持てることが羨ましい。好きなことにまっすぐ向かっていける姿勢はさらに羨ましかった。
「…育ててみたい?」
「何を?」
「…子ども」
僕の言ったことを受けて萃香は、わはは、と笑った。僕は言った後で下品な意味にとられたかと思って恥ずかしくなった。純粋な興味から聞いてみただけだったのだ。
「相手がいないさね。この地上で残ってる鬼はね、あたしだけなんだ」
萃香は笑顔を崩さなかったが、言葉の裏にさみしさが読み取れた。
「…ごめん、悪いこと聞いて」
「いいんだいいんだ、あきらめてる。」
萃香は笑ったまま、無言で星を見上げていた。僕は申し訳なくて下を向いていた。
「○○もさ、お嫁さんもらわなきゃダメだよ。」
「…え?」
「一生独身てわけにもいかないんだから。まだ若いんだから、嫁さんもらって幸せな家庭持て。人間らしくさ。」
「…まだわかんないよ、そういうこと。」
「いつ誰を好きになるかわかんないんだよ。いざ懸想の段になってうろたえてどうする。」
「…うん。」
「あたしはそういう人間たち、何人も見てきたんだから。まさか自分に限って、なんてさ。」
「…そろそろ煮えたかも。」
僕は萃香に申し訳ない気がして、会話を打ち切ろうと思った。おたまを握ってふたをとる。ぐつぐつ音を立てるあぶくの中に、食欲をそそる緑や赤が浮かんでいた。
萃香の方に手を差し出して器を受け取ると、肉をおたまのあたる限り、とにかく多目に入れた。
「サンキュー。」
萃香はいただきますも言わず、煮物にがっついた。熱さにふうふう息を細かく吹きながら、無心に食べていた。
「明日は神社行ってくるけれど、○○どうする?一緒に来る?」
「…やめておくよ。なんだか疲れちゃったから。」
「そう、そっか。じゃ、あたし行ってくるから。」
萃香は残念そうな顔を少し見せた。僕と一緒に行きたかったのだろうか。
「…ねえ、萃香」
「何?」
「……あの、」
「うん」
「…どんな人を旦那さんにしたい?」
「ん、そうだねえ。」
萃香は一瞬きょとんとした顔をしたが、考えるように目を閉じた。僕の心臓はばくばく音を立てていた。我ながら大胆な質問をしたものだと思う。
何となく彼女のことがもっと知りたくなってした質問だった。さっきの会話の流れから考えて、今しか聞けないように思えた。聞いた今となっては彼女が変に思わないように祈るばかりだった。
彼女はうなりながら考えて、結論を出した。
「あたしと似てる人、かな。」
「…どういうこと?」
「あたしにもわかんない。ただ、あたしのことわかってくれる人、いたらいいかなって。」
「…きっと見つかるよ。」
「ありがと。優しいね、○○は。」

また萃香に寂しそうな影が見えたから、この話もこれでやめておくことにした。
後は二人でなんでもないことを話しながら、夕食を進めていた。
人参をかみくだきながら、僕は自分が連れてこられていた理由を考えていた。単なる家事手伝いとしてなら、ここまで彼女もよくしてはくれないのではないか。
同時に、僕が萃香のそばでは落ち着いていられる理由も考えていた。
うぬぼれかもしれないが、どうも僕たちは似ているのではないか、と思う。
どこがどうとは、うまく言えないが。

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第二話 博麗神社にて



「彼氏、どう?」
博麗神社の空はよく晴れていた。霊夢は畳じきの居間を横切って、縁側にむかっていた。
東向きの縁台では萃香が大福をほおばっていた。白いうなじを少したわめて、のんびりとくつろいでいる。
霊夢が敷居を越える拍子に、お盆とお茶がかたりとゆれた。
軽い音を立てて縁台に降りると、萃香が振り向いた。もぐもぐと口を動かして、少しだけ不機嫌そうに霊夢をにらみつける。
「彼氏じゃねーし。」
「じゃあ何なの?」
「同居人。」
「要介護者に見えるけど。」
「ちげーし。」
萃香は大福に手を伸ばした。喉を鳴らして飲み込むが早いか、次の大福を詰め込み始める。
霊夢は萃香の隣に腰をおろしていた。巫女装束の袖から真っ白な肘をのばして、伸びをしている。大きくあくびを終えると、萃香に手を伸ばした。
「大福。」
「はい。」
「これじゃない。」
霊夢は差し出された大福を手のひらで押し返した。
「よもぎ。」
「どっちでもいいじゃん。」
萃香は緑色の大福をとると、霊夢に手渡してやった。そのまま空になった手のひら同士を叩いて、打ち粉を落とした。
「彼氏、今日も来なかったんでしょ。」
「ああ、昨日外に出て疲れたんだって。」
「まるで老人ね。」
「ほっとけ。」
「やっぱり要介護者じゃないの。」
「あいつらの相手疲れるんだよ。」
「まだ里の子ども達の相手してるの?」
「うん。」
霊夢が大福を噛んでいるあいだ、どちらもしゃべらなかった。アブがせわしなく羽音を立てて庭を横切り、拝殿の屋根を越えて行った。ヒバリが鳴いている。
「どう?」
「どうって…かわいいよ。」
「ふーん。」
霊夢はどうでもよさそうに相槌をした。萃香の方を見ようとせず、遠くを見つめていた。
「○○だってがんばってるんだ。」
「そう。」
話す萃香も目線を霊夢には向けなかった。その言葉はまるで萃香自身に言い聞かせているようだった。
「働きもしないでいいご身分だ、とか言う人いるよ。何考えてるかわからない、とかさ。根暗で不気味だ、とか。」
「そうなの。」
「てめえらそんな上等なもんかよ。○○だって努力してんのにさ、上からもの言ってばっかりで。」
「まあ、人間なんてそんなもんよ。」
「○○も言い返してやればいいんだ。言われてるの気づいてるのに。」
「そんなもんよ、人間なんて。」
「ねえ霊夢。」
「なに?」
「今度○○連れてくるからさ。また大福用意しといてよ。」
「今日の愚痴はもうおしまいかしら。」
自分の右手が空を切ったので、萃香は盆を見た。すでに盆の上には何もなかった。盆にちらばった粉に萃香の指跡がついていた。
萃香は時折霊夢のもとを訪ねては、とりとめも無い話をしていくのだった。○○と出会ってからは○○のことを毎回話していたが、萃香は意識していなかった。
「餡子の残りだったらあるけど。」
「いらない。」
伊吹瓢を逆さにすると、息が続かなくなるまで酒を飲んだ。ひとたび愚痴をつくと、芋蔓式に腹立ちが続いてきた。
「そりゃね、○○にだって来てほしいよ。ここに。霊夢にだって友達増えるしさ。」
「私はどっちでもいい。」
「いいじゃないのよう。どうせ神社に引きこもってんだし。○○と一緒じゃん。」
「あんた私のことどう見てたのよ。だいたい今回も会おうとしなかったんでしょ。」
「誰が?」
「その○○さんよ。ここに来ようとすると、いつも体調悪くして寝てるじゃない。」
「そうだっけ?」
「私もよく覚えてないけど。人見知りしすぎでしょ、彼。」
「霊夢が怖い顔してるからだ。」
瓢箪を逆さにすると、また息の続くまで口にふくんだ。長い生暖かい息を吹くと、たるんだ目で霊夢を見る。完全に酔っていた。
「あたしだってねえ、○○を甘やかしてるばっかりじゃねえんだ。ねえんだぞう。わかるか?」
「はいはい。」
「本当は○○がやりたいことやってくれたらなあ、やってくれたらなあ。」
「どうなるの?」
「それでいいんだ。」
「ふうん。それで今は?」
「今は引きこもってる。」
「無理だと思うな。」
「わかってない!」
萃香はかっと焦点の合わない目を見開き、声を張り上げた。真っ赤な顔がさらに血がのぼる。
「○○のいいところを全然わかってない!」
「はいはい、私はわかってない。例えば?」
「え?」
「どんなとこよ、例えば。」
「んふ。」
「何よその笑みは。」
「言わせんなよお。わかってんだろ?」
「わかるはずないでしょ。」
「あのな、あのな、嫌なことがあっても顔に出さないだろ、愚痴も言わないし。妖怪だからって嫌がらないし。気遣いができる、きれい好き、料理もうまい、味噌汁一つでも手を抜かない。
 しかも毎日飽きずにきっちりやってる。嫌な顔ひとつせずに。ハンパないだろ。
 あとな、あたしの話を絶対さえぎらない、わがままだって何だって聞いてくれる。歯ぎしりだっていびきだってしない、下ネタなんて言わない言わない、それからな、それからな、」
「わかったから。」
「そんでな、そんでな、あたしがこの前ぐい飲みを落とした時な、」
萃香の両頬がゆるみ、目じりが下がった。霊夢は短く溜息をつくと、さっそうと立ち上がった。他人ののろけ話に付き合うのは不愉快だった。霊夢は独り身である。
「何か食べる?」
「いいねえ。あたし、何でもいいよ。」
「大福で余った餡子があるわ。」
「そんなもんいるかよう。」
「何でもいいんでしょ。」
「おう、何でもいいぞう。」
「持ってくるわね。」
「頼んだぞ」
「やっぱり彼氏じゃないの。」
「何だって?」
何でもない、と答えて、霊夢は障子戸の向こうに消えた。

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第三話 決意



「ファミリーベーシックってやつ?」
「…ホームシックとは違うんだ。」
萃香はきょとんとした顔で僕を見上げていた。僕を心配する表情だった。僕は幻想郷の生活に負担を感じているわけではなかった。
ましてや、元の世界に帰りたいと思っているわけではなかった。ただ、理由のわからない焦りを感じていた。このままではいけない、何かするべきことがあるという焦りを。
そして、その焦りの理由が今日わかったのだった。
神社から帰ってくるなり、僕は萃香に話を切り出した。
両親に会いたい、と勇気の限りを振り絞って伝えたのだ。故人に会いたいなんて馬鹿な話だと思う。
僕が萃香に無茶な頼み事をするのは初めてのことだった。
「もうちょっと聞かせて、○○。」
萃香が僕の隣にぴったり腰をおろした。女の子特有の甘いにおいとひどい酒臭さが香ってきた。
僕の真剣な様子を察してくれたのか、醒めた声だった。
「…あのね、どこから話していいかわからないんだけど…」
自分から話を切り出しておいて、この言い方はないと思った。聞いてくれる相手に対して失礼ではないか。
「うん」
萃香は気にせず聞いてくれていた。大きな瞳を真ん丸にして、熱心に聴いてくれている。
「えっと…その…なんて言ったらいいか…その、」
僕はのどのあたりに重い圧迫感を覚えていた。自分の体なのにまるでそこだけ石に変わってしまったみたいだった。
言葉を無理に紡ぎだそうとすればひどい頭痛が起こった。顔は火照り、足も震えかけていた。目の前に緑色の星がちかちかと踊った。
眉間にしわを寄せて息をついた僕の背中に萃香が手をあててくれた。
「…悪い感じがしたんだ!」
この言い方も無いと思った。こんな日本語は生まれてこのかた聞いたことがない。呼吸を止めて、次の言葉を急いで考えようとする。
「悪い感じっていうのは、その、僕は両親がいないことに負い目を感じていて、でも、どうしたらいいかわからなくて…」
呼吸がのどのかすれる音になった。その間隔はますます速くなっていた。ついに僕はせきこんで、身を縮こまらせた。
目の前の緑色の星に赤色が混じり始め、激しく明滅していた。
「ここには死後の世界があるって…最初、萃香は言ってた…ここで新しく生きていけるなら…」
激しいせき込みで言葉が続けられなくなった。僕は奥歯をかみしめて過呼吸がおさまるのを待つしかなかった。
突然、両肩をしめつけられる感覚があった。目を開けて首を向けると、萃香が抱きしめてくれていた。僕の左肩に額を押し付けて、ただただ抱きしめてくれていた。
伝わってくる温もりは心を落ち着かせてくれた。さっきまで昂ぶっていた神経が見る間に収まっていった。
再び目を閉じると、微かな律動が伝わってくるのがわかった。萃香の鼓動だったのだと思う。遠い昔、母さんに抱かれた懐かしさを思い出せた。
「どうしたい?」
顔を伏せて肩口に額をつけたまま、萃香がつぶやいた。
「どうしたい、○○?」
その一言が迷いを払ってくれた。萃香のシンプルな考え方を僕は見習わなければならない。
何がしたいのか。そう考えれば楽になれた。言うべき言葉は決まっていた。
「好きなようにしてくれていいよ。」
萃香は顔をあげて、まっすぐに僕に瞳をあわせる。
「あたしはついていく。」
ぼそり、と僕はある一言をつぶやいていた。僕自身にも聞き取れなかったので、萃香にも聞き取れなかったと思う。
無意識に出た言葉だった。もう一度はっきりと萃香だけには伝えなければならない。わけのわからない情熱に動かされて、はっきりと僕は言い切った。
「…会いたい。父さんと母さんに。」
「恋しいの?」
「それもある。…だけど、区切りのために。ここでの新しい生活のために、最後に母さんたちに励ましてもらいたい。」
萃香は最後まで僕の言葉を聞き終わると、口を真一文字に結んだまま引き上げた。誇らしげに笑った表情だった。あの時の彼女の表情は今でも忘れられない。
「…そうすれば、きっと僕は、ここで生きていけると思う…。」
次に彼女はにかっと白い歯を見せると、僕の背中を叩いた。どむっ、と鈍い音がした。
「よおし、よく言ったあ!それでこそ○○だ!」
僕は痛みに顔をしかめたが、なんだか奇妙な嬉しさを覚えていた。心を通じ合えた喜びだったと思う。背中の痛みも自分が生きている証拠みたいで、いとおしく思えた。
将来、萃香と結婚する人はきっと幸せだろうなと思えた。
ありがとう、と言いかけた僕の前に薄紫色の瓢箪が突き出されていた。
「飲め。」
情けない返事を何度か重ねながら戸惑う僕に、さらに飲み口が突き出された。
「祝い事だ。飲めよ、○○ぅ。やっと、やっと歩き始めたんだからさあ。」
突き出されたお酒はかなり強そうだ。鬼を酔わせるお酒なのだから無理もなかった。理科室のエタノールをフルーティーにしたような匂いだろうか。
人間である僕が飲めば、どうなるかわからなかった。しかし、飲まなければならないと感じていた。
萃香は僕のささやかな意欲を心から喜んでくれていた。がっかりさせたくはなかった。
何よりこうして酒をすすめてくれることは、仲間と認めてくれたのだろうから嬉しかった。
右手で、瓢のくびれを持った。萃香の指に僕の指がかぶさった。少しだけ冷たくて、やわらかかった。ちりちり電流のようなものを感じたのは気のせいだと思う。
あまりに力強く握ったことに我ながら驚いていた。
「ちょっとでいいからね、ほんのひとしずく…あ、ダメだって!」
萃香の言葉を理解するころには、すでに三口ほど飲み下していた。
瞬時に強烈なめまいが起き、見えている光景が途端に輪郭を失って回りはじめた。
思わず下を向くと、どんどん床が自分に近づいてきたので身をひねって避けようとした。
違う、自分が倒れているのだ。
そう理解した時にはもう目の前が暗くなっていた。額と脇腹に鈍い痛み。
誰かが何か心配そうな声を出していたが、もう聞き取れなかった。
間接キス、という言葉を頭によぎらせながら、僕の意識は、沈んだ。

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第四話 常世への道



僕がベッドの上で目を覚ますと、見慣れた岩の天井が見えた。首だけを動かして横を見ようとすると、頭にひどい痛みが走った。
昨日、伊吹瓢を飲んだところまでは覚えていた。どうやら酒に酔って意識を失ったらしい。どうやらこの頭痛は二日酔いというものらしかった。そういえば、大学に入り始めた時に一度だけなった気がする。
初めての感覚に猛烈なだるさを覚えながら、身をひるがえしてベッドの下に手を伸ばした。
萃香が用意してくれた、素焼きの徳利とぐい飲みがそこにあった。。萃香の家に普通のコップは無い。
徳利のふちに落とし損ねたカビが残っていたのは見なかったことにした。
ベッドの上にうつぶせになったまま、水を飲む。渇きはおさまったが、胃の内容物が増えた気持ち悪さが胸のあたりにくすぶっていた。
水入れをベッドの下のお盆に戻すと、この岩屋の主が気になっていた。
萃香がいる気配はない。出かけているのだろうか。僕はベッドの上に身を起こした。目まいが起きて、目の前に緑色の光がちかちかあらわれた。
そのまま体の向きを変えると、立ち上がるべくベッドから足を下ろした。二日酔いくらいで足腰が立たないのが情けなかった。
もうすぐ母さんと父さんに会いに行くのに、こんな調子では先が思いやられる。少しでも自分を鍛えたかった。わけのわからない情熱が僕を動かしていた。
こんなことは初めてだった。里に行ってみよう。少しずつでも外に出る練習をしておかなくてはならない。
僕はそう思って、立ち上がった。目の前がぐるぐる揺れた。



「知ってどうするつもりだ?」
「連れて行く。」
「人間には耐えられんと言っているだろう。」
「なんか手はないの?」
「ないと言っている。」
上白沢慧音は苛ついた声を出した。萃香が最近人里に出入りしていることは知っていたし、子ども達と遊んでくれることはありがたかった。
今日も子ども達に用があるのかと思えば、家にあげてくれと言う。相談の内容を聞いてみれば、人間を冥界に連れていきたいということだった。
「いいじゃん、昔はあんなに開いてたんだし。あっちに迷い込む人間もこっちに迷い込む人外もたくさんいたじゃん。」
「昔は昔、今は今だ。だいたいお前、その先も知ってるだろう。」
「どういう意味?」
「人間もそうでないものも、お互い迷い込んだ先でどうなるか、だ。」
「だいたいは死んじゃうよね。」
「その、○○といったか、そいつもそうなるかもしれんだろう」
「ならない」
「ほう」
「だって」
萃香は親指を勢いよく立てると、自分の方に向けた。
「あたしがついてる」
「なるかもしれんのだ」
「ならないかもしれない」
「屁理屈を」
「無茶は承知のうえさね。慧音のダンナ。」
萃香が冗談めかしてにっと笑った。慧音は溜息をついた。鬼の気楽な考え方には頭が痛くなるばかりだった。
「いいか。もう一度言うぞ。現世と幽世の境界を越える時、人間の魂にとんでもない負荷がかかるんだ。」
「うん」
「お前は大丈夫でも、○○はどうするんだ」
「そこを何とかしたいんだ。慧音のダンナ。」
人間の住む現世と人間ならざる者の住む幽世は、たいてい結界によって区切られている。その結界によって、幽世の瘴気が現世に流れ出ないようにしているのだ。
当然、お互いの世界の行き来をなくす目的もあった。これは天地の秩序を保ち、世界が混沌に沈まないための配慮であった。
その結界を無理に通り抜けようとすれば、霊的な力によって魂ごと消滅してしまうのである。時折迷い込むものがいたのは、何らかの原因で結界がほころんでいたからである。
古くからあの世に通じると言われた洞穴には、そのほころびがあったのである。萃香だけならばどこからでも入れるが、人間を連れて行くならばほころびのある場所の方が通りやすかった。
「この近くにもあっただろう。百年前にも通ったことがある。」
「ふん」
「ほれ、あの風穴だ。里から西に8里ばかり言ったところの。」
「埋め立てられた。」
「何だって?」
「子どもが転がり落ちたことがあってな。幸い助かったんだが、二度と入れないようにした。つい42年前だ。」
「じゃあ、あの千年杉のうろは?」
「嵐にあって谷底に落ちた。キクイムシにやられて弱っていてな。」
「打ち捨てられた道祖神のほこら。」
「すまん、八雲の狐に頼んでな、ルートを切ってもらった。もう通るものもいなかったしな。」
「うう~む。」
「あきらめろ。」
「よしっ。」
ひとしきり考えると、萃香はすっくと立ち上がった。瞳はまっすぐ前を見据えている。
「邪魔したね。あんがとさん。」
「おい、萃香。」
「要は結界さえ何とかすりゃいいんだろ。」
「何て言った?」
「何でもない。じゃあね。」
「待て、萃香。だいたいお前、○○の両親がどこにいるか知ってるのか。」
「知らない。」
「どうするつもりだったんだ。」
「手当たり次第に探してみる。どっかにいるって。」
「お前、そんないい加減に人間を連れまわして!おーい、萃香、おーい!」
「やれやれ。知識人は話が長い。」



「人間をあの世に連れて行きたい?」
「うん、そう。」
「ずいぶんストレートな殺意だな。」
大妖八雲紫の住まう邸館の勝手口である。萃香は八雲紫のしもべである狐妖とむかいあっていた。
取り次いでくれた猫の式神があがるよう勧めてくれたが、大層な用でもないと断った。
自らの主である九尾の狐を呼んでくると、何か気になるものでもあるのかそのまま奥に走り去っていった。
「いや、殺したいわけじゃないんだ。生かしたままで。」
「連れて行きたいのか。」
「そう。」
「無理だろう。」
「やっぱり?」
狐は切れ長の瞳を細めた。白い頬にうっすらと指す朱色が傾国の美貌を漂わせていた。
「あらかた通り道もなくなったしな。生かしたまま連れて帰るんだろう?」
「そりゃもちろん。」
「どっちかをあきらめれば簡単なんだがな。」
「まあね。」
「それではここに来ないだろうしな。」
「そういうこと。」
「無理だな。結界はたやすく破れるものではない。」
「そうかい。邪魔して悪かったね。」
「破らなければ通れるかもな。」
踵を返して背中を見せた萃香に、狐は声をかけた。萃香が振り返ると、立ち去りざまに横目で萃香を見ていた。
涼しい流し目でちろりと萃香を見ていた。
「破ってほしくはないのだよ。せっかく張ったものだから。破らなければ通れるかもな。
 結界を知り尽くしている人間なら知っているかもな。」
「やっぱりそれしかないか。」
「そういうことだ。」
くつくつと笑って狐は静かに障子戸の向こうに消えた。



僕は再び目を覚ますと、杉材の梁を見た。杉板も見えるから、天井だと思う。後頭部にざらざらした繊維質を感じていた。おそらく畳だろう。首をひねると、縁側の向こうに赤い鳥居が見えた。
神社だ。そう思うと僕は飛び起きていた。しかし、半身を起こしたところで頭を抱えていた。頭痛とめまいは朝よりもひどくなっていた。
頸椎から肩にかけて、骨がずきずきと痛んでいた。自分の体なのに思うとおりに動かないのが情けなかった。
「初めまして。」
距離を置いた冷たさのある声だった。顔をあげると、座卓の向こう側に黒髪の少女が座っていた。揺れる大きなリボンがよく似合っていた。
どうやら社務所の一室のようだった。障子張りの戸が引きあけられていて、縁側から五月の風が吹き込んでいた。日なたについた左手が暖かかった。
「お目覚めはいかが?」
「…う…あ…」
僕は何もしゃべれなかった。萃香の家を出た僕は、どこかで倒れたのだと思う。神社に続く石段のわきに座り込んだことを覚えている。
しかし、そこからの記憶がなかった。おそらくはこの人に助けてもらったのだろう。
感謝を伝えたかったが、うまく言葉にならなかった。無意識が言葉にブレーキをかけていた。
うまく相手に伝わってくれるだろうか、自分のようなものが言って変に思われないだろうか、そもそもうまく舌が動いて言葉として音が出るだろうか。
瞬時にした心配が積み重なって、言葉が出なくなっていた。
「○○さんね。どうも、初めまして。」
「え…どうして…」
そうつぶやくのが精いっぱいだった。接続詞は便利だ。複数の意味にとられて、細かいニュアンスを誤解されることもないし、相手がいい人であれば、うまいこと言葉を拾ってくれることもあった。
「萃香がよく話してくれるから」
「え…萃香?」
「そう。よくここに来るから」
この人は誰なんだろう。本当はお礼の言葉を言わなければならないのだろうが、警戒心が先に立ってしまっていた。
「あ、あの、あなたは…?」
少女はじろりと僕を一瞥すると、すました表情を崩さなかった。背筋をまっすぐにのばし、端麗に座っていた。
「私は霊夢。」
「ど、どうも…霊夢、さん」
「萃香から聞かなかったかしら。」
実際、萃香からひんぱんに名前は聞いていた。しかし、目の前の人物がまさかその人だとは思わなかった。
「それとも他人に興味なんてないのかしら。まあ、私もだけど。」
「そ、そんなこと…」
「どっちにしてももうちょっと寝ていなさい。後で里まで送ってあげる。」
そう言うと、少女は正座をやめて立ち上がった。座卓の上の湯呑を持って部屋を出て行こうとする。僕への気遣いなのだろう。
「ま、待って…」
僕は少女を呼び止めた。
「…ください。」
失礼にならないよう慌てて敬語を付け足す。
彼女は足を止めた。振り返る。
「あ、あの…」
胸がつかえる。必死に胸のあたりを叩き、つかえをとろうとする。やっとのことで声を絞り出した。
「…ありがとう…」
「どういたしまして。」
すっと前を向くと後ろ手に障子を閉めて出て行った。障子が音もなく閉まると、部屋の中はほどよい日陰になった。
僕はくずおれるように後ろに倒れると、顔の上に両腕を載せて横になった。大きく長い溜息をつく。
「…ございました」
言えなかった敬語を小さくつぶやくと、心地よいめまいが襲ってきた。鼓動が早まる辛さを覚えた。申し訳ないので起きていようとも思ったが、もう少し寝ていたかった。
そのまま意識を眠りに沈めてしまうことにした。
僕は霊夢さんみたいな人は苦手だ。どうやって話しかけたらいいかわからない。

――――――――――――――――――――――――

第五話 夢



珍しく夢を見ていた。
夢の中では、僕は子どもだった。まだ、7歳くらいだと思う。墓地に立っていた。目をつむって手を合わせている。黒御影石の小さな墓石の前で手を合わせている。
隣に立っている女性は母さんだろう。手を合わせ終わって横を見ると、まだ若かった。
ドッグトゥースのコートに小さな真珠のネックレスがよく似合っていた。いつも見ていたよそ行きの格好だ。上品な人だった。
母さんの顔はやけにぼやけていたが、手を見れば母さんだとわかった。少しかさついて、しわが出始めた人差し指の爪の横に見慣れたほくろがあった。
間違いなく母さんの手だった。幼い頃よく頭を撫でてもらった手だった。いつも洗濯洗剤の香りをほのかに漂わせていた手だった。
小さな墓石の裏では、よくわからないイネ科の植物が風にゆれていた。時々枯葉の落ちる音が混じった。お墓参りの時はいつもその音が鳴っていた。きまって曇り空だ。風は冷たい。
墓石には僕と母さんと同じ名字が刻まれている。僕の前に死んだ子どもの墓らしい。
いくつで死んだのか、どこで死んだのか、死んだ原因は何だったのか、男だったのか女だったのか、何もわからない。ただ、「薫」という文字が刻まれているだけだった。
母さんが時々わけもなく悲しそうだったのは、この子のことを考えていたからだと思う。知りたいとは思うが、母にはついに聞けなかった。だから、僕はこの子のことを知らない。
僕は目を開ける。母はまだ手を合わせて拝んでいた。僕にはこの長い時間が退屈だった。
「カエル」
その時、本当にカエルがいたかはわからない。僕は母の注意をひきたくて適当なことを言った。
母は拝む手を感慨深げに開くと、僕の方を向いた。僕はもう一度だけ、カエル、と言った。
「カエルさん、いたの?」
「うん。のろのろしてる。」
「もう冬眠なのね。」
「冬眠って?」
「眠って寒い冬をやり過ごすの。春にまた目を覚ますのよ。」
「ねぼすけさん」
「そうね。」
なぜかわからないが、その後母は僕を抱きしめてくれた。
頬に感じる熱さから、泣いているのだと分かった。
「生きていてね、○○。」
母さんのコートからはタンス用の防虫剤の香りがした。
「ずっとお母さんのそばにいてね。何もしなくてもいい、偉い人にならなくていい。ただ生きているだけでいいからそばにいてね、○○。」
夢の映像はそこで途切れた。
僕にはその時言われた意味はわからなかった。そう言った母の心などなおわからなかった。
母さんが悲しんでいることはよくわかった。おそらく死んだ上の子と僕を重ねていることも。その時、僕が何と答えたかはわからない。あるいは何も言わなかったかもしれない。
この時の母さんの言葉が今でも僕の中に残っている。僕はなるべく母さんのそばにいようとした。母さんを悲しませることだけは絶対にするまいと誓った。母さんのために生きていたかった。つまらない学校も、理不尽なことばかり積み重なる人間関係も、母さんが生きることを望んでくれるなら、耐えられた。
しかし、母さんは死んだ。それでも僕は生きなければならなかった。僕が死ねば母さんの言葉に背いてしまうからだ。
何をすればいいかわからないが、ただ生きなければならない。では、生きるうえでは何をすればいいのか。それはわからないが生きなければならない。考えの堂々巡りは苦痛だった。僕は生きながら死んでいるに等しかった。
萃香と出会えてから、僕は変わり始めている。今の僕を見たら、母さんたちは何と言ってくれるだろうか。その言葉を支えにして、僕は新しい人生を始めたかった。

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第六話 愁訴



僕は空を飛んでいた。萃香が手を引いてくれると、僕まで空を飛ぶことができた。体の一部分に触れてもらえると、一緒に空を飛べるようだった。
いつもと変わらない様子を見ると、特に重たくはないのだろう。後ろを振り返れば、神社の屋根が小さく見えた。赤い鳥居が鎮守の森の中にそびえていた。
前を向けば、白い雲がまぶしかった。太陽は南中からやや傾いていたが、日差しは暑かった。
「怖くない?○○。」
大丈夫、と答える。手を離せばたぶん落ちていくのだろう。僕は萃香の手をしっかりと握っている。自分の命綱がこんなに柔らかくて暖かいものなのは変な気分だった。
結局、僕は萃香に迎えに来てもらっていた。僕がもう一度眠ってから少しして、萃香がちょうどやってきたのだという。
体をゆすられて目を開けてみれば、萃香の顔が目の前にあった。最初、僕は驚き、次に身を固くした。勝手に出歩いたことを怒られると思ったのだ。
結局はいつも通りの笑顔で帰るよう促しただけだった。何が何だかわからない僕に萃香は手を差し出した。
手をとると、萃香はそのまま空に舞い上がった。うろたえる僕の下で地面はどんどん遠ざかっていった。
僕は相当取り乱していたと思う。はじめてスキー場のリフトに乗った時の不安を思い出した。足の裏に地面を感じられないあの寒々しさだ。
「…萃香はどうして神社に来たの?」
風を切る感覚にも慣れてくると、話をする余裕が出てきた。体の不調もだいぶ持ち直していた。
不思議なもので、萃香のそばにいる時は体調もよくなっていた。別に妖怪としての力に関係があるわけではないし、僕の体には何の変化も起きていないだろう。
気持ちのうえで楽になっているせいだと思う。萃香と一緒にいると、何とも言えない暖かい気持ちになれる。元気をもらえる。
僕に姉か妹がいたら、きっと萃香のような人だったのだと思う。
「ふふん、聞きたい?」
「…聞きたい。」
「そのわけはね、こうだ!」
前に向き直って太陽に向かうと、急上昇を始めた。灰色の固まりがみるみるうちに近づいてくる。目をつぶった一瞬首筋がひやりとして、また目の前が明るくなった。
雲をつきぬけたのだ。
萃香はさらに高度をあげた。すじ雲と並んで薄い青色の中を飛ぶようになった。下を見ると、山肌の陰影が濃い緑色になって、むくむくとした雲間からその姿を見せていた。
「どうだい、○○。」
萃香の声がよく通った。風のほかには音が立たない、とても静かな世界だった。微かな耳鳴りが心地よい。
「…きれいだね。」
「そうだろう、これが幻想郷だよ。」
一面の緑色が地平の端まで続いていた。人里がどこにあるかはわからない。大地と空のあいだを山と森が埋め尽くしていた。ただただ雄大な眺めだった。
僕のような人間風情では、きっと一生かかっても知り尽くすことはできないだろう。僕はそのとき、畏れという感情を理解したのだと思う。外の世界では感じたことのなかった、心地よい感情だった。
「他に何か感想は?」
「ん…意外とあったかい。」
高度が高くなれば、気温もさがっていくはずだった。僕たちはジェット旅客機と同じくらいの高度にいたと思う。それなのに、不思議と凍えはしなかった。
「んふふ、これがその秘密なのだ」
おどけた萃香が胸元から一枚のお札を取り出した。
「博麗霊夢謹製、結界祈願!」
「どういうこと?」
「つまり、暑さや寒さ、そのほか悪い力から○○を守ってくれるのさ。ほい。」
萃香は僕と目線を同じにすると、お札を手渡してくれた。白の奉書で包まれた四角い名刺サイズの包みだった。中身を見てはいけなさそうなので、そのままポケットにしまいこむ。
「あの世に行く時には結界を通り抜けるからね。そのお札がなきゃ○○は死んじゃうんだ。肌身離さず持っててね。」
唐突に僕はくしゃみをした。首のあたりがスースーする。ずっと前に本で読んだことがあるが、高度が高くなると気温が氷点下になることもあるという。
どうやら、このお札は外からの影響は完全には断てないようだった。
「寒い?」
「…うん。少し冷えるね。」
「おっけ。下に行くね。」
そう言うと萃香は僕の手を取って、これまでとは逆方向に落ち始めた。うろこ雲が上に流れていったかと思うと、綿雲の群れが下から迫ってきた。
振り返ると、午後の陽ざしが夕焼け色に染まり始めていた。
「どうだった?」
萃香が僕を見上げながら、いたずらっぽく尋ねてくる。
「初めての空の旅。」
彼女の瞳が太陽の色に染まっていた。長い髪が風になぶられて美しく流れていた。
「…また、」
「え?」
「…また、連れて行ってもらっていいかな?」
「面白かった?」
「…うん。」
なんだか素直になれなくて、わざとまわりくどい答え方をしてしまった。僕は萃香のことを意識していたのだと思う。
転機をくれた単なる恩人としてではなく、もっと大切な存在として意識しはじめていた。意識するほどに本心を出せなくなる自分がもどかしかった。
無意識のうちに萃香に嫌われることを恐れていたのだ。自分でも馬鹿らしい話だと思う。
「あたしも嬉しいよ。楽しんでもらえて。ねえ○○、」
「…なに?」
「もしお母さんに会えたらさ、あたしのことさ。」
「…うん。」
半呼吸の間が開いた。
「友達って紹介してもらっていいかな。」
「…もちろん。僕を助けてくれた、大切な人だって、言う。」
言葉を途切れさせながら、僕も答える。二人とも、本心を隠している。何を隠したかはうまく言えないが、お互いに目を背けている感情がある。
「あたし、嘘は嫌いなんだ。」
「…どういうこと?」
「あー、ごめん。なんでもない。今のは忘れて。」
「…うん。」
お互いに何も言わず見つめ合ったまま、落ちていた。地上に着くまでの時間があっという間にすぎてゆく。
僕は何か話しかけたほうがよいのか迷ったが、何も言わないでおいた。



「仮病?」
「どうなんだろ。」
博麗神社の縁側で、萃香は寝そべって頬杖をついていた。
「仮病でしょ。」
「ほんとに具合悪そうだった。」
「あんまり連れまわさないであげたら?そんな強い子じゃなかったし。」
「○○から言い出したんだもん。」
霊夢は庭の掃き掃除をしながら、萃香の話につきあっている。箒の先から目を離さずに、手を左右に動かしている。
「望んでいなかったのかもね。」
「どういうこと?」
「本音と建て前は別なのよ、人間は。言い出したことが必ずしも望んでることとは限らないの。」
「じゃあ、○○は行きたくないの?」
「それは知らない。でも、引きこもりだったんでしょ?だったら、外に出る気もないでしょ」
「でも、○○、あたしについてきてくれた。」
「人間の癖って抜けないもんよ。」
「そんな。」
萃香は手をついて半身を起していた。
「あるもんか。○○に限って。」
「そうね。」
「霊夢。あたし、帰る。」
「そう。今度は二人で来るといいわ。お茶を用意しといたげる。」
言い終えて、霊夢は目を上げた。萃香の姿はもうなかった。



本当ならば今日は出発の日のはずだった。僕は起き上がれずにいた。
軽い足音が聞こえた。萃香が帰ってきたのだ。僕はベッドの上で布団のさらに奥にもぐりこんだ。
洞窟の中は、見通せるほどの薄暗さだった。まだ日中らしい。たぶん正午くらいだと思う。
「ただいまー。」
萃香の明るい声が響いた。僕は萃香の声を聞きたくなかった。いつもなら、これだけ安心できる声もないのに。
僕はどこか体調が悪いわけではなかった。胸のあたりに漠然とした気持ち悪さがあったが、立ち上がれないわけではなかった。
無視して、萃香といっしょに出かけることもできただろう。
しかし、外に出たくはなかった。
原因は自分の考えのせいにあることはわかっている。心配が過ぎているのだ。
萃香は自分をどこに連れて行こうとしているのか。
そこに自分は行き着くことができるのか。
もしも自分が行き着けたとして、いったいどんな人物に会うのか。
そこで自分はまともに話ができるだろうか。
その時自分は笑われたりしないだろうか。
萃香は自分を嫌いになったりしないだろうか。
いったん気にしはじめると、頭から心配事がはなれなかった。自分でも馬鹿馬鹿しいとは思う。心配のしすぎだと思う。
だが、もしも起こったらどうするか考えると、心臓をわし掴みにされた気分になった。自分がうまくやりとげる気がしなかった。
そもそも、両親がどこにいるかもわからないし、会えるかどうかもわからなかった。会ったところで何を話せばいいかもわからなかった。
疑念が分厚い雲になって、自分の周りを覆っていた。
「どう?調子は。」
僕は答えられなかった。萃香は少しだけ僕の返事を待ったが、僕は答えられなかった。声の調子から体調を見破られることを恐れたのだ。
そのまま布団をかぶっていると、枕元まで足音が近寄ってきた。
「ちらし寿司、霊夢につくってもらったから。枕元、置いとくね。
 体壊すまではしゃぐなんて、うっかりさん。」
毛布ごしに首筋が叩かれる感触があった。萃香の声は優しく、まるで子どもに言い聞かせる母親のようだった。
「じゃね、水、持ってくる。」
また足音が遠ざかっていった。僕は毛布の中でぎゅっと目をつむり、身を固くしていた。萃香に迷惑をかけたことが申し訳なかった。
僕は心の中で何度も何度も謝っていた。動かない体と臆病すぎる心が呪わしかった。

一週間が過ぎた。僕は相変わらず寝込んでいた。頭ではこのままではいけないとわかっていた。そう思うほど体は活力を失っていくのだった。
ほぼ一日中、僕は布団の中にいた。萃香は僕の様子をたびたび見に来てくれたが、僕は正直顔を合わせたくはなかった。
萃香が嫌いになったのではない。ただ申し訳なかったからだ。それでも無視はしたくなかったので、調子のよくなった振りをして布団を抜け出したことはあった。
力なくこわばった笑顔を浮かべる僕を萃香はどんな気持ちで見ていたのだろうか。そのあとで決まって僕は体調をさらに崩した。時には吐きもした。
そんなことを繰り返すうち、萃香が声をかけてくる回数が減った。僕に無理をさせていると考えたのかもしれない。僕は萃香に負担をかけていることをますます気にしていた。
胸は鉛のように重かったし、のどのあたりに詰まるような息苦しさがあった。不思議と熱はなかったので、心理的な病気だと思う。いつも感じていた症状でも、慣れるわけではなかった。
体を動かさないでいると、思考は内向きに向かう。寝ころんだまま虚ろな意識で、僕はこれまでの自分を責めていた。
父母のいた世界を捨てて幻想郷にやってきたが、元の世界にいたころとまるで変わっていない。何もできていないのだ。
こんな自分では、いずれ愛想をつかされるに決まっている。ひょっとしたら、萃香だって陰で何か言っているかもしれない。
他人の心なんてわからないものだ。いや、萃香に限ってそんなことはない。だが、万一…。僕の堂々巡りは止まらなかった。
頭はさらに余計な考えをはじめる。
来た意味はあったのか。このまま年をとって、やがて死んでいくなんて惨めすぎるではないか。もっとましな人間にならなければ。
では何をすればいいか。それはわからない。僕には何もできない。もしもできることがあったとしても、僕より上手な人は山ほどいる。
それに、こんな体では外に出ていくなど無理だ。自分は欠陥品だ。それでも何かをしなければいけない。そうでなければ、生きる価値もない。

思考は一週間ずっと堂々巡りを続けていた。もう自分でもどうすればいいかわからなかった。外で引きこもっていた時と同じように、周りの世界が色あせていくのがわかった。
このまま死んでしまっても別によいと思えていた。もう父母に会える気もしなかったし、言ったことを守れない自分はどうしようもない人間だと思っていた。
こんな人間は役にも立たないから、さっさと死んでしまった方が世のためだ。
そうして僕は自罰的な思考を続けていたわけだが、その日の朝は様子が違った。
朝の9時頃を過ぎたころから焦げ臭い匂いが漂ってきたのだ。それは布団の中でもはっきりとわかった。二、三回鼻を動かしてから布団をのけると、匂いはさらに強くなった。
視界は白くぼやけていた。何か燃えているのか、白い煙が岩屋の中に充満していた。
「萃香!」
思わず僕は出せる限りの大声で叫ぼうとしていた。しかし、なまった喉から声は出なかった。喉が痛くなり、激しくせきこむ。やっとのことで落ち着くと、僕は再び精一杯の声をあげた。
どうして一番に萃香のことを心配する気になったのかはわからない。もし火事だったら、動けない自分の身が危ないのに。
「萃香!」
自分の耳に届いた声はあまりにも弱弱しかった。絶対にこの部屋から外には聞こえていないだろう。
僕は履物を震える指先で整えると、つま先をその中に潜り込ませた。布団をまくると、空気がやけに冷たかった。背筋に寒気が走った。
膝を手で支え前かがみになりながら、ぎこちない一歩を重ねてゆく。部屋から出るまでに5分はかかっていたと思う。
萃香の姿が見えないのが不安だった。もしかして彼女の身に何かあったのか。何かの拍子に起きた火にまかれてしまったのか。
頭の中では昔見た映画のシーンが繰り返されていた。映画の世界では、吸血鬼もゾンビも幽霊も最後には火で焼き尽くされて消滅していた。
火には神秘的な力がある。鬼である彼女も無事では済まないのではないか。
僕の心配は止まらなかった。よろよろと岩屋の中を進んでいく。心配が強まると同時に、力がわいてくるようだった。不思議なことに、彼女のことを考えればどこまでも進んでいけそうだった。
「…ここ?」
煙は白から灰色に変わり、ますます勢いを強めていた。もう前が見えないほどだった。
「萃香!」
「お~、○○。」
必死の呼びかけに間延びした返事が返ってきた。僕は安心した。
「どこにいるの?」
「こっちこっち~。」
煙が目にしみて前が見づらかった。煙の向こうに手を振っている人影が見えた。左手に何かを持っている。
僕は近くに寄ると、左手のそれは鍋だった。鍋の中には消し炭状になった物体が転がっていた。微かな青色が見えるので、もとは魚だったのだろう。
「おはよ。体どう?」
ほっぺたに煤跡をつけた鬼が僕の瞳をのぞきこんでいた。全く変わらない彼女の明るさだった。
「…僕は、いいけど…。」
僕はちらちらと萃香の全身を見渡す。ケガはないみたいだ。
「あたし?あたしも大丈夫。」
萃香は小首をかしげて、深刻な表情の僕を見つめている。僕がここまで歩いてきた理由をよくわかっていないみたいだ。
僕の目は萃香の持っている鍋にくぎ付けになっていた。視線から、言いたいことを読んでくれたようだった。
「あはは、ごめんごめん。焼き魚作ってたんだ。燃えちゃってさ。あんまり霊夢のとこからご飯分けてもらうのも悪いし。」
「…何したの。」
「お酒かけた。速く火が通るかなって。たまには自分でさ、作らなくちゃなって…」
萃香は申し訳なさそうに上目づかいをしていた。そのときの僕はきっとものすごい顔をしていたのだと思う。責めたように聞こえたのだろうから、務めていつも通りに振舞おうとした。
「…ごめん。それならよかった。」
「寝てなくっていいの?」
「え?」
「体悪いんじゃないの?寝てなよ。まだできてないし。」
まだあきらめていないらしい。僕なら同じ失敗をすれば三日間は台所に入らない。
「…いいよ。手伝うよ。せっかく、起きたんだし。」
「いいの?」
「…うん。」
「よかったあ。実はどうしようかわかんなかったんだ。」
ゆるみ切った表情で萃香は笑った。心から安心したように僕の顔を見上げていた。
僕はつい目を背けてしまった。見ていられないのはもったいなかったが、訳の分からないくすぐったさを覚えてしまっていた。心臓が熱くなった。
「…火事かと思ったよ。」
「ごめんね。それで起きてきてくれたんだ。新しい鍋でやるわ。」
「…手伝うよ。」
「○○はそこに座ってて。」
「…でも。」
「ふらふらしてるよ。まだ無理しないで。お願いだから。」
「…うん。」
僕は萃香にしたがうことにした。気を抜くと全身がだるくなったし、今にも倒れてしまいそうだった。テーブルのそばの椅子に腰かけると、膝ががくがくと震えた。
「…それは中華鍋。焼き魚には使わない…。」
「あれ、そうなの?」
萃香は親指と人差し指だけで中華鍋を持ち上げていた。あらためて妖怪と人間の差を思い知らされる。
「…いいよ、無理しないで。僕なら、食欲、ないから…」
「でもねえ。元気つけないとねえ。よし!」
中華鍋を豪快に放り投げて、萃香は手のひらを勢いよく鳴らした。
「霊夢のとこからもう一食くすねてこよう。夕ご飯でリベンジだ。」
まだまだ作るつもりらしい。無謀ともいえる前向きさだった。
「…作るつもりなの?」
「やられっぱなしで引き下がれるかってね。」
「…その、苦手なことはあんまり…。」
「下手をほっといたら、下手のまんまだ!」
「…怪我するかも。」
「あたしにはいい教訓になる。次はできるかもしんないじゃん。」
わはは、と豪快に笑っていた。萃香の笑顔を見ていると、自分のことが恥ずかしくなっていた。
彼女は挑戦に心を燃やしている。ひるがえって、あれこれ心配ばかりして、一週間を無駄に過ごした自分はどうだ。
僕は萃香に敬意を覚えていた。同時に、彼女のことを知りたい気持ちも強まっていた。
「○○、ちょっと出かけてくる。部屋まで運んでこうか?」
「…もう少し起きてるよ。寝るのも飽きちゃった…。」
萃香はまた大声で笑っていた。僕もわずかな笑みを浮かべられた。軽口なんて叩けたのは何年ぶりだろうか。
「そんだけ言えるなら大丈夫。ねえ、○○。」
萃香が僕の名前を呼んだ。あらたまった様子はめずらしいと思う。
「あの、さ、」
「…何?」
いつもの心配癖が頭をもたげてくるのがわかった。何か彼女を怒らせただろうか。
「火事だって、思っちゃったんだよね。あたしが鍋焦がして。」
「…うん。」
「それで、あたしのこと探してくれてた。」
「…うん。」
萃香はうつむきがちにちらちらと僕の方を見ていた。視線がせわしなく動いているのは彼女には珍しかった。
何を言いたいのだろうか。僕はいぶかしんだが、不思議と悪い予感はなかった。
「それで、わざわざ起きてきてくれたんだ。そうだよね?」
「…うん。」
僕が答えると、萃香は視線を横に動かして口を尖らせた。言葉に悩んでいる様子だった。顔が赤いのは酔っているせいなのだろうか。
「ありがと。嬉しかったよ。」
急に萃香はいつものとおり、豪快に言い放った。彼女らしい満面の笑顔のなかに、わずかな作り笑いが見えた。
「…気にしないで。」
「ん、行ってくる。暖かくしてるんだぞ。」
もう萃香は入口に向かって歩いていた。右手で栗色の髪をわしわしと掻いていた。
不意にぴたりと萃香が止まった。僕は何も言えずに見つめていた。
「何でもない!」
振り返りもせずに言い放つと、今度こそ萃香は出て行った。
僕は一人台所に取り残された。なんだか頭がぼうっとしていた。病気から来る気だるさだけではない。
心臓が熱く弾んでいるせいだった。

――――――――――――――――――――――――

第七話 一歩



「なんだいその格好!」
僕が起きだした日の昼だった。僕は萃香を驚かせてしまったようだった。萃香は僕の足先から顔までをじろじろ見まわしていた。その左手には神社から分けてもらったらしいお重がさがっている。
「…ごめんね、心配をかけて。」
「そりゃ構わないけどさ、まだ早いでしょ、絶対。」
僕は寝間着から着替えて、よそ行きの格好に身を固めていた。よそ行きと言っても、Gパンにジャケットのいつも通りの服装だ。
「ほら、唇なんて紫だし。」
萃香が心配するのは無理もなかった。僕自身、ひどい目まいを覚えていた。何より、外に出ることは怖くて怖くてたまらなかった。
ましてや、死後の世界なんて考えただけで倒れてしまいそうだった。
「気をつかってくれるの嬉しいんだけどさあ、○○が倒れちゃどうしようもないって。」
萃香がどうしようもない様子でつぶやいた。
「何年でもゴロゴロしてりゃいいじゃん。気にしないって。人間じゃないんだから。」
「…それじゃあ、悪いから…」
「ほらそうやって気を遣う」
萃香がそこまで待つつもりだったのは予想外だった。迷惑をかけまいとして、布団の中で考えばかりめぐらせていた自分がちっぽけに見えた。
世界はいつも僕の考えを超えている。
ただ、僕も今回ばかりはじっとしているわけにはいかなかった。
「…今しかないから。」
「またチャンスはあるよ。急ぐ必要もないじゃん。ほら、ふきの味噌煮だってこんなおいしそうだし、さ。」
僕を気遣ってか、萃香が表情を和らげて左手の荷物を僕に見せつけた。
「…明日になったらまた寝込むと思う。寝込まなくっても、その、何か別の用事を作ったり、駄々をこねて行かなくなったり、
 とにかく絶対いかないと思う。」
「あのねえ、近所にお使いに行くんじゃないんだ。わかってる?」
「…ごめん。」
萃香はいつになく真剣だった。業を煮やした色も声にあらわれていた。僕があまりにも聞き分けなかったせいだろう。
だが、萃香の言うことは正しかった。僕の考えはあまりにも甘かった。
「ごめんじゃなくってさ、わかってんの?」
「…うん。…駄目そうだったら、途中でもどって…」
「だったら最初から行かない方がいいでしょ。」
「…うん。」
僕は力なくうなだれていた。
「命ある者が踏み込んでいい場所じゃない。霊夢のお札があっても死ぬかもしれないんだよ?それでも行くの?」
死ぬ、という概念が僕にはよくわからなかった。頭では理解していたが、よくわからない。外の世界では、僕は生きながら死んでいるようなものだった。
だから今、萃香に何と答えてよいかわからなかった。たぶん、死んだ時も今の状況も変わらないのではないか。
「○○、よく聞いて。死ぬまでってね、神経焼き切れるくらいきつくって、地獄なんてもんじゃないんだ。
 外ではどうだか知らないけど、ここでは死んだ後も魂は残るんだ。死ぬときの苦しみと死んだ後の虚しさで、発狂する奴も多いんだよ。悪霊の出来上がりさ。
 下手な死に方に安息なんてないよ。覚悟してんだろね。」
胸のあたりがナイフで刺されたように苦しくなった。萃香の言葉には見てきた者の迫力があった。
問い詰めながらも、萃香は僕の言葉を待っていた。何かを答えなければいけない。いっそここで全てやめてしまおうか。
やめてしまえば、もう後は何も望まずにまた引きこもっていればいいだろう。自分はその程度の人間なのだから。
僕はもうまともに萃香の目を見られなくなっていた。何も望まなければ、何もしようとしなければ、誰も傷つけなくてすむ。
やはり外に出るのはやめようと思ったその時だった。電光のように脳裏にひらめく言葉があった。
それで誰が喜ぶんだ?
力強い声だった。自分の心から出たとは思えなかった。同時に、スイッチが入ったように考え始める自分がいた。
引きこもっていて誰が喜ぶのか。誰も喜びはしない。母さんは僕が会いに行けば喜んでくれるのではないか。父さんはどうだか知らないが、今の僕の姿を見れば悪い気もしないだろう。
それに萃香だって意気地なく毎日を送る僕よりも、死ぬほどカッコ悪く前進する僕の方が好きなのではないか。萃香は絶望的に下手な料理にも前向きだった。
何より、母さんたちに会いたいと伝えた時、萃香はあんなに喜んでくれたじゃあないか。
この考えを直観した時、僕が言うべきことは決まっていた。
一瞬ぎゅっと目をつむると、顔をあげた。
そこには真剣な顔をした生涯の恩人がいた。僕も目をそらさず見返した。
「……う」
口を開けたが、声は出なかった。情けなく裏返ったうめきが漏れ出ただけだった。
僕の肉体はいつも意識を裏切った。はっきりと萃香に考えを伝えたいのに、喉は硬直したまま言葉を作ってくれなかった。
萃香の視線が痛かった。僕が何か言い出すのを待ってくれている。
「…行く。」
「ああ?」
「行く。」
「聞こえない。もういっぺん。」
「行く!僕は、それでも、その、行きたい!」
「…よく言ったあ!」
わずかな沈黙のあと、弱いボディブローが僕のみぞおちを叩いた。少しだけ痛い。
萃香は興奮した面持ちだった。ぎらぎらした目で僕を見つめていた。
わずかに身をかがめた拍子に両耳に暖かい感触がやってきた。目の前には瞳を燃やす萃香の顔があった。僕の顔を両手でつかんだのだ。
「それでこそ、○○だ。」
熱の帯びた声だった。心底楽しんでいる調子がある。
「それでこそ、あたしの見込んだ奴だ。」
明らかに声を弾ませていた。萃香の鼻先からむせかえるような熱気が伝わってくる。純白の肌に興奮した朱が差していた。
「いいかい、○○。あんたが正しいんだ。全世界が総スカンくらわせても、あんたにはあんたなりの理由がある。
 変な気遣いをして、考え引っ込めなくていいんだ。間違ってたときはそん時考えればいい。いいね。」
「…わかった。」
萃香の言葉は力強かった。胸のうちに赤熱した金属のような、熱い感情が沸き起こるのがわかった。これが勇気というものだろうか。
「ま、あたしゃその優しいところがさ、」
「え?」
「何でもない。きついこと言ってごめんね、○○。」
萃香は両手を後ろ手に組むと、申し訳なさそうに頭をぴょこりとさげた。
「…いや、僕の方こそごめん。びっくりさせちゃって。」
「ふはは。」
萃香の笑い声が大きくなった。いつものような豪快な笑いがおさまると、またいつものようにくりくりと可愛らしい瞳で僕を見つめていた。
つられて笑ってしまった僕は、胸の中の重い塊がすっかり薄れているのがわかった。
「おし、じゃあ行きますか。」
「…うん。」
「さっき言ったことは本当だけどね、な~に、帰ってきた奴もいるんだ。怖がんなくていい。大丈夫大丈夫。」
「…うん、それに、」
「え?」
「…萃香がいるから。僕も、大丈夫だと思う。」
それは僕の本心だった。いつも見守ってくれている萃香の存在がありがたかった。彼女と一緒なら、何が起きても耐えられそうだった。
僕の顔は真っ赤だったと思う。自分で言っていてやけに照れ臭かった。
きょとんとしていた萃香は顔をうつむけると僕の手を強く引っ張った。
「ほんとはもっと準備したかったけどね、まあ何とかなる。飛ばすからね、気をつけて。」
萃香の声は少しだけ鼻にかかっていた。ちらりと見えた目の端はうるんでいた。

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第八話 白玉楼へ



結界の向こう、霞に花の降りしきる常世があった。白玉楼というらしい。
庭園の中を縫うように走る石段の上を、僕と萃香は飛んでいた。石段の両脇には桜並木が延々と続き、薄桃色の闇に消えていた。
金色に輝いた月が青黒い漆色の夜空に浮かびあがっていた。昔、デパートで見た日本画の世界に入り込んだようだった。
白玉楼は天国でも地獄でもなかったらしかった。萃香の言うところでは、際立った行いがなくてどちらにも行けない霊魂が集まってくる場所のようだった。
本当は地獄の閻魔が死人には一番詳しいそうだが、萃香は会いたくないようだった。萃香でも苦手な人物がいるのは信じられなかった。白玉楼を選んだのは、閻魔をはじめあちこちの有力者に口ぎきをしてもらいたいからだという。
ここの主は相当な長生きであり、死をつかさどる存在だということだった。僕は心配だった。僕みたいな普通の人間が会える存在ではないだろう。
その心配を萃香に告げると、あたしもおんなじくらい長生きだから心配すんな、と笑い飛ばされた。

「そろっと白玉楼だ。○○、大丈夫?」
「…大丈夫。」
いったん外に出ると、嘘のように体の調子はよくなっていた。まだ体のだるさは少し残っているが、足を引きずるほどではない。
どうやら僕の病気は心理的なもののようだった。心気症と言うのだろうか。心配しすぎることが逆に病気を呼び寄せていたのだと思う。これまで悩んできたことが馬鹿馬鹿しい。
空の上は少し肌寒かったが、耐えられるほどだった。それにここまで来たのなら、体調くらいで引き返すわけにはいかない。
僕の胸の中では、親と過ごした思い出が浮かび上がっていた。そのほとんどは母さんと過ごしたものだ。父さんは仕事の関係でほとんど家にいなかったから、よく覚えていない。
今回も会わなければいけないとは思っていたが、会いたくはなかった。父さんが家庭にあまりいなかったので、僕も父さんを昔から避けるようになっていた。
父さんと話をすると考えると、気が重かった。
「お札絶対に放すんじゃないよ。冥界の毒気に当てられたら、あっという間にここの仲間入りだからね。」
「…わかった。」
萃香の言葉に懐のお札を確かめる。ジャケットの内ポケットから、厚い半紙の感触が指先に伝わってきた。
自分の命が紙一枚でもっていると思うと、人間の命の軽さを感じてしまう。僕もいつ両親のように死んでしまうかはわからないのだ。
「…萃香は寒くないの?」
僕の言ったことを聞いて、萃香は笑っていた。腋まで見えるようなノースリーブでは、空の上も寒くなかったのだろうか。
僕は気になって聞いてしまった。
「大丈夫だよ、人間じゃないから。そんなこと聞いたの、○○が初めてだ。」
「あ、うん。」
変なことを聞いてしまっただろうか。聞かなければよかっただろうか。変に思われなかっただろうか。
いつもの癖で僕は自分のことを反省していた。考えが内側に向かう癖はまだまだ続くようだった。
突然、萃香が僕の方を向き直り、両手を広げて僕を受け止めた。
腰回りに感じる柔らかな感触にうろたえたが、萃香は険しい面持ちだった。
抱きすくめられたと思った瞬間、霞のかかった夜の空が目の前一杯に広がっていた。萃香に抱えられたまま仰向けに落ちているのだ。
僕たちの元いた場所の桜が散ったのが見えた。いや、太い枝ごと何らかの力で切り払われていた。新品のカッターナイフで切った紙のように鋭い切り口だった。
地面が近づくことを予感して、僕は身を固くした。
石段に叩きつけられるかと思った瞬間、また目の前がぐるりと回った。
「ごめんね。」
萃香は僕の腰を両手で持つと、石段の上に乱暴に立たせた。僕は姿勢を崩し、その場にぺたりと座り込んだ。強めに打った腰骨の痛みに顔をしかめる。
横を見ると、萃香が前を見上げていた。石段の彼方、闇の中を見上げ何者かに呼びかけている。
「ご挨拶じゃないか。客人を切りとばす礼儀は主人に習ったのか!」
萃香の瞳は怒りに燃えていた。腕を払って鎖がじゃらりと鳴った。
僕も何とか立ち上がると、前方の闇に目をこらしていた。舞い散る花びらのむこう、何かがいる。おそらく人ではない。
僕は無意識のうちに身を低くしていた。萃香がちらりと僕の方を振り返った。
闇の向こうに白めいた光を放つ何かが見えた。それは僕たちの方まで飛んでくると、12段ほど上の石段に音もなく降り立った。
10代前半の少女だろうか、白のブラウスに若葉色のジャケットがよく似合っていた。雪のような白髪が風にさらさらとなびいた。
二振りの刀を腰にさげている。漆黒の鞘が少女の凛とした出で立ちによく似合っていた。
「また性懲りもなく来たんですか。」
先ほど桜並木を切り飛ばしたのはこの少女なのだろう。抜身の刀を構えているにもかかわらず、呑気そのものの声だった。
「用があって来た。」
対する萃香は殺気にみなぎっている。
「あたしの連れまで切ろうとしたな。」
「ああ、気がつきませんでした。これはすみません。」
白髪の少女は大したことでもないように答えた。僕自身、死ぬところだったという実感はわいていなかった。
「てっきりまた白玉楼を壊しに来たのかと。」
「今日はやんないよ、今日は。今日はね。」
焦れた様子で萃香が不機嫌な声を漏らしていた。
「はあ、じゃあご案内しますね。」
少女は僕の方に一瞬目をやった。僕は反射的に目を背けてしまった。
僕が視線を戻すと、少女は背を向けて石段を上り始めていた。
萃香は一度だけ鋭く息をはいた。怒りを持て余しているようだった。
「…飛ばないの?」
おずおずと僕が尋ねると、萃香は僕の方を横目で見た。口元の端にわずかな笑みを浮かべると、石段の上を指さした。
「着いたんだよ。」
萃香の指先に目をこらすと、薄紫の霧のむこうにぼんやりと大きな影が見えていた。山ではない、屋根瓦だ。むかし写真で見た平等院の屋根を思わせた。
かなり古い様式のようで、思わず息をのむ威圧感を備えていた。あれがきっと白玉楼なのだろう。
僕が視線を戻すと、萃香はもう歩きはじめていた。不機嫌な横顔が見えた。
僕も後を追う。頭の中では母さんと父さんに伝える言葉を必死で考えていた。

「あらあら、あなたが○○ちゃんね。お噂はかねがねだわ。」
白玉楼の応接間に通されて、僕は萃香と並んで座っていた。萃香の隣には、僕達を案内してくれたあの剣士、魂魄妖夢が座っている。
板張りの間は部屋の北側が一段高くなっており、そこには畳と屏風がしつらえられていた。鴨居には巻かれたすだれが吊るされており、主の身分の高さを表していた。
書院造と言うのだろうか、古典の授業で習った知識が思い起こされた。
畳の上には、白玉楼の主が座していた。空色の着物に包んだ背筋を伸ばして僕たちに面していた。淡い桜色の髪を左手でかきあげると、青白い首筋がなまめかしく映えた。
やはり人間ではないのだろうな、と僕は思った。左前になった襟は死後の世界の住人である証なのだろう。西行寺幽々子と名乗ったこの主の体は薄い燐光を放っているように見えた。
まるで鬼火のような不気味な、美しい光だった。
死を思わせる出で立ちにも関わらず、どこまでも柔らかい雰囲気をたたえる不思議な女性だった。
「…お会いくださってありがとうございます。西行寺さま。」
「幽々子でいいわ。」
「幽々子さま、それでは示しが…」
「いいのよ、妖夢。固苦しいと幽霊らしくないわ。」
扇で口元を隠して幽々子が笑った。僕は呼び方に戸惑ってしまったので、あいまいな笑いを浮かべた。
軽い咳払いをして、妖夢が場の空気を引き締めようとした。
「続けます」
妖夢の言葉を幽々子さんがさえぎった。かなりマイペースな人物のようだ。
「この○○さんは人を探してここに来られたそうです。」
「まあ、そうだったの。知らなかったわ。」
「…ええ、実は両親を探しているんです…」
横をちらりと見ると、妖夢が眉間にしわを寄せていた。幽々子さんのマイペースっぷりにたびたび悩まされているのだと思う。
僕がどういう目的で来たか知らずに会おうとしたのだろうか。向かい合っているこの主はどこまでも自由だった。
「ご両親?」
「…はい。」
「あなたが幻想郷に来たのもご両親を探してだったのかしら。」
「…いえ、そう考えたのは最近なんです。」
「そうなの。」
幽々子さんとは話しやすかった。ゆっくりした話し方だったし、たどたどしい僕の返事も気長に待ってくれるので安心して話すことができた。
「でも、ご両親を生き返らせるのは感心しないわあ。反魂は失敗するのがお約束なのよ。」
「…いえ、そういう目的ではなくて…」
「そうなの。」
「…はい。」
幽々子さんは僕が両親を蘇らせるために来たと思ったらしかった。僕自身、その可能性を考えなかった訳ではなかったが、不思議とあまり心は動かされなかった。
生き返ってくれたら嬉しいが、それはしたくないと思っていた。倫理観からではない。心の中を探れば、両親を慕う気持ちに混じった憎しみの塊につきあたった。
僕は両親を大切に思っていたが、自分でも驚くほど彼らを憎んでもいる。なぜ相反する感情を抱いているか自分でもよくわからなかった。早々と自分を残して死んでしまったからだろうか。だとすれば、逆恨み以外の何でもない。僕は努めてこの憎しみを振り払おうとした。
「…ただ、なんと言っていいか…」
「ふむふむ。」
「…会って話をしてみたい、です。なんと言っていいかはわかりませんが…」
「一つの区切りとして、かしら?」
「…はい。それもあります。」
「幻想郷で新しい生活をはじめるにあたって。」
「…はい。」
「あなたの噂はちょいちょい耳に入ってくるのよ。新しく流れ着いた人間がいるって。」
「…はあ。」
「やっぱり人里に住んでいるのかしら。」
あぐらに座って頬杖をついていた萃香がこちらを見た。僕に注意を促す顔つきだった。萃香に気づいた時にはもう言ってしまっていた。
「…いえ、萃香と一緒に暮らしています…。」
「まあ。」
「○○!それ言うな!」
萃香が僕に向かって身を乗り出していた。一瞬おくれて僕の言葉がどんな意味にとられたか、やっと理解することができた。
「…あ、ごめん。その、」
「そうなのね、そんな噂も聞いてたけど、やっぱりそうだったのね。」
「…そんな意味ではないんです。萃香とは、その、いろいろ世話をしてもらってるだけで。」
「いろんな世話ね。若いっていいわねえ、妖夢。」
「え、いや、私は、あの、」
僕はうろたえていた。もう何と答えてよいかわからなかった。突然話を振られた妖夢もうろたえていた。そういう話は苦手なようだった。一人幽々子さんだけがにやにや笑っていた。
場が混沌とする中、萃香が声をあげた。
「で、探してくれんのかい、お姫さん。」
明らかに不機嫌だった。僕は罪悪感をおぼえて身を小さくした。
「無理だって言ったらぶっ潰す。」
「う~ん、聞いてみなければ分からないわね。」
「頼む。○○のためだ。」
幽々子さんは相変わらずのんびりした調子で、扇を両手でもてあそんでいる。
何か考え込んでいる様子だった。
「ねえ、○○さん。」
「…はい。」
僕は緊張しながらも答えた。幽々子さんの声がいくぶん冷やかだったからだ。
「もし、あなたのお父さんとお母さんがいたとしてね。」
「…はい。」
「どこで会うことになるとしても。」
「…はい。」
「発狂するのと殺されるのと、あなたどっちがお好みかしら。」
「…え?」
僕は言葉の意味を測りかねていた。父さんと母さんが僕に何かするということだろうか。
「最悪の事態を考えてって言うじゃない。あなたのお父さんお母さんだから無いとは思うのよ。でもね、もしもって言うじゃない。」
「…えっと、それは」
まだ僕は理解ができていなかった。
「あなたのご両親が前のままとは限らないのよ。生前の行いのせいや他の理由で、怨霊になっているかもしれないの。
 あるいはあなたのことを完全に忘れていたりね。そうなると貴方は単なるエサでしかないの。途端に魂を食い尽くされてしまうわ。」
幽々子さんはまっすぐに僕を見つめていた。微笑を浮かべてはいるが、その瞳は真剣そのものだった。
「その覚悟、当然できているのでしょうね。」



「こたつに入れよ。」
「私は大丈夫です。」
「見てるこっちが寒いんだよ。」
客人の控えの間で萃香は掘りごたつに入っていた。対面に幽々子が入っている。もう一辺に妖夢が座っていたが、こたつには入らず、畳の上に直に座っていた。
書院窓から入ってくる光は和紙を透かして柔らかい。部屋の中には檜材の香りが満ちていた。
幽々子は○○の両親を探すべく、あちこちに聞くことを約束した。そのあいだ、○○は白玉楼の霊魂の中から探すことを申し出たのだ。
「幽々子様の番ですよ。」
「どうしようかしらねえ。」
三人はトランプをしていた。萃香は別にやりたくなかったが、暇なので付き合ってやることにした。
正確にはそれはトランプではなかった。彼らがトランプと呼んでいるものだった。どういうことかというと、百人一首の札の左上に無理やり数字とマークを書き足してあるのだ。
第一首目の天智天皇がスペードのAであり、第五十二首目の藤原道信朝臣がクラブのKなのだった。第五十三首目の右大将道綱母と第五十四首目の儀同三司母がジョーカーになっていた。
面相筆で書き足されたハートの朱色はくすんでいた。使い続けてどれくらいになるのだろうか。
「じゃあ、蝉丸法師の10つけで、在原業平朝臣を捨てるわ。」
幽々子はスペードの10を場に出し、ハートの4の札を捨てた。蝉丸法師の禿げ頭には手ひどく落書きが加えられていた。
「萃香、次、あなたよ。」
「んっ。」
つい考えにふけっていたらしい。我に返ると、萃香はどの札を出そうか手札に目を走らせた。
「やはり、気になるのですか。」
妖夢が自分の手札から目を離さずに尋ねた。萃香は一瞬妖夢を見ると、また手札に目を落とした。
「ばっか、心配なわけないじゃん。」
「一緒に行くべきだったかと。」
「言ってろ。」
「足も震えていましたし。歯もがちがちでした。立つのもやっとだったかと。」
霊がいるのは天国と地獄だけではない。白玉楼にもいくらかはいる。そのことを知った時、さっそく霊に会いたいと言ったのは○○だった。その多くは天国や地獄にもいけない中途半端なものだった。浮遊霊と言ってもいい。○○の両親がそのようないい加減な霊になっているとは考えにくかった。わずかな可能性があるなら探してみたいと○○は言った。
「男の子にはね、やらなきゃいけない時があるの。そういうことよね、萃香。」
幽々子は○○のために両親の特徴に似ている霊を何体か呼び寄せた。白玉楼の霊のなかには長い年月のなかで特徴がおぼろげになっていくものも多い。幽々子にもはっきりした霊の特徴はわからなかった。似ているものを選んでやり、○○が会って確かめるしかなかった。
「そういうこと。」
内心、萃香は心配を重ねていた。○○は、一人で部屋を出て行った。萃香も一緒に行くつもりで腰を浮かせたところだった。○○は萃香を振り返り、行ってくる、とだけ言った。
緊張した顔だったが、なけなしの決意が見えた。○○は一人で霊と話をするつもりだったらしい。
ここで自分が出て行けば、○○は安全だろう。しかし、それでは彼から自立の機会を奪ってしまうのではないか。
一瞬萃香はどうするべきか迷った。しかし、次の瞬間答えは出せていた。
鬼である自分が、もし○○だったら自分の力を試したいと思うだろう。
そして、ただの人間である○○が前に踏み出す決断をするためにどれだけの勇気がいるかもわかっていた。
萃香は○○を見送ることにした。
「何かあったら呼んでよ。地獄の果てくらいなら、助けに行ってやる。」
萃香の言葉を聞くと○○はほんの少しだけ照れ臭いような笑みを浮かべ、そして障子戸を閉めて出て行った。萃香は無事を祈るよりほか無くなった。
「ま、心配いらないさ。ここにそう手荒い奴はいない。」
「そうですが…。ただの人間には辛いかもしれません。」
「ただの人間がこんなとこ来るかねえ。」
萃香が手札からダイヤの2の壬生忠見を放り投げた。少しだけ待ってから右手で札を払う。ジョーカーは誰も出さないらしい。
萃香はちらりと二人を見てから、喜撰法師と素性法師と藤原興風と恵慶法師を繰り出した。革命が起き、札の強さは逆転する。
「○○なら大丈夫だ。」
息をのんだ二人の顔を交互に見ながら、萃香は自分に言い聞かせるようにもう一度言った。
「大丈夫なんだ。」



白布で目隠しをして、僕はただ座っていた。
板張りの部屋の床は冷たく、正座をした足の甲は冷え切っていた。しかし、恐怖心と緊張のため寒さを感じる余裕はなかった。
妖夢に案内された白玉楼の離れは狭く、8畳ほどの広さである。隅では漆喰がところどころはがれていたが、床にはちり一つ落ちていなかった。左足の感覚がなくなってきたので、足を組み替える。
どれだけの時間が過ぎていたのだろうか、目を閉じていると30分が3時間にも4時間にも感じられた。
桜の花びらが落ちる音が聞こえた気がした。静かだった。いつやってくるかもしれない霊魂を待っているのは辛かった。かといって、今さら戻るわけにはいかなかった。
ふと僕は眉間に熱を感じた。誰かに指で押さえられているような圧迫感をそこに感じた。思わず目を開けたが、すぐに目を閉じた。目を開けない方がよいと言われていたのだ。
何かがいる。白布にさえぎられていなければ、目の当たりにしていただろう。
妖夢の説明によれば、目を閉じていなくてはならないのは霊からの影響を最小限にとどめるためのものである。
霊と接触する際には、なるべく五感を使わない方がよいのだという。五感を閉じることで、霊感を働かせやすくするのだという。そうしなければ霊の持つ気に圧倒されてしまうらしかった。
霊夢さんからもらったお札があったが、念を入れて目を隠すことにした。なにしろ霊と話すのは初めてのことである。どのような影響を受けるかもわからなかった。
空間の歪みのようなものが目の前にいることはわかった。何の姿も見えないのだが、視線がさえぎられる空間が宙に浮かんでいることは見えた。
何の色も形も持たないが、確かな存在がそこにあった。首筋に寒気がした。
僕は閉じたまぶたに思わず力をこめていた。肩がこわばり、膝の上の手を握り拳にしていた。背骨に鉄の塊を差し込まれたような気持ち悪さを感じていた。
眉間に感じる力はますます強まっていた。どうやらそれは近くに寄ってきているらしい。
ひりひりとした感覚が、ある一点で止まった。おそらく僕の前、2メートルほどのところで止まっている。
一度だけ唾を飲み込むと、僕は霊に呼びかけた。
「…こんにちは。」
返事を待つ。何秒か間が空く。
「元気だったか。」
霊ははっきりとした声で返事をした。頭の中に直接響く声だったので、性別や年齢はわからない。
この人は僕の親なのだろうか。
僕は両親の顔を思い浮かべながら、また次の言葉を探し始めた。



気がつくと、夜になっていた。暗い部屋の中で、障子紙だけが薄青に光っていた。
白檀にも似た香の香りが鼻をついた。おそらくはまだ白玉楼なのだろう。
あの離れからどうやってここまで来たのかもわからなかった。そもそもこの部屋が白玉楼の中のどこなのかもわからなかった。
頭の中はぼうっとして、今日のことを思い出すだけでも一苦労だった。無意識が思い出すことを拒否していた。
半身をよじると、ふすまに描かれた絵が目に入った。何かの一場面なのだろうか、七人の老人が竹林の中で話し合っている絵柄だった。
僕は背中から首筋にかけてひどいだるさを覚えていた。かなり長い時間眠っていたらしい。
また身をよじって元の体勢に戻ると、布団を半分めくって身を起こした。腰のあたりに重みを感じたので、見てみると萃香が突っ伏していた。
胡坐をかいたまま居眠りしてしまったのだろうか。姿勢は中途に崩れていた。スカートから伸びる幼い脛が健康的に青く光っていた。
おそらく僕のことを心配して看病してくれていたのだろう。死者の住む世界に来たというのに、彼女がいるだけで心は安らいでいた。
萃香の背中はわずかな上下を繰り返していた。耳をすませると、彼女の寝息が聞こえた。
僕は手を伸ばして萃香の髪に触れていた。そのまま手を横にすべらせて軽くなでる。萃香の熱が伝わってくると、理由のつかない高鳴りを感じた。
僕は、世の中がみんな彼女みたいな人だったらいいなと思う。そうすれば僕のような人間でも立派に生きていける。
僕にとって周りの世界は複雑すぎた。何か僕の知らないルールで動いているのはわかっていたし、ルールを理解するには僕は不器用すぎた。
みんなの歩くスピードが速すぎて、僕はついていけない。萃香のように立ち止まって耳を傾けてくれる人は別として。
彼女に出会えたことは幸運だったと思う。その理由は、外の世界を逃れられたからでもなければ、生活のバックアップをしてくれたからでもない。
心を分かち合える相手に出会えたからだった。他人と話し合っている時に感じる、あの厚い壁は彼女の前ではまるで感じなかった。
これから先、どんな不幸が待ち受けていようとも彼女と知り合えた事実がきっと支えになってくれると思う。
胸の熱さが溜息となって、僕の口からすべり出た。
彼女の癖毛はいつもどおりぐしゃぐしゃだった。今度櫛でも買ってあげようか、何色が似合うだろう。
そんな事を考えていると、薬指が髪の絡まりに引っかかった。慌てて手をひっこめる。痛かったかもしれない。
「ん…」
ぼんやり目を開けた萃香は、ゆっくりと顔を上げた。ぎこちなく固まっている僕を見ると、彼女の目がみるみる輝いていった。
布団に手をついて体を起こしたかと思うと、僕の首根っこめがけて飛び込んできていた。僕は後ろ手をついて倒れないようにするのが精いっぱいだった。
「起きたんだ、○○!どうしようかと思ってた!」
萃香は僕の首を抱きしめたまま、嬉しそうに笑っていた。僕の左手は後ろについたまま、右手は宙に浮いていた。萃香を抱きしめることができればかっこいいのだろうが、気恥ずかしさが先だってあいまいな位置に右手を漂わせていた。
「…萃香、僕は…」
「丸二日間眠ってたんだ。あたしのせいだ、ごめんね。」
事情がのみこめない僕に萃香はなおもしがみついていた。
「…萃香のせい?」
「やっぱり一人で行かせるべきじゃなかったんだ。いくらお札があってもさ。あたしもついていくべきだった。」
「…僕はどうなっていたの?」
「わかんない。あたしが見た時は泣き叫んでた。そのうち眠ってしまって起きなかった。」
その言葉を聞いて思い出せた。あの時、たしかに頭の中がざわついて自分がどうにかなってしまう感覚があった。
「霊気に当てられた人間は時々そうなっちまうらしい。お札が無かったらどうなってたか。」
「…じゃあ、僕も…」
「いきなり対話するってのは荷が勝ちすぎたね。ごめん。」
「…うん、あの人は僕の親じゃなかった…」
萃香の温もりを感じながら、僕は宙を見つめていた。思い出した記憶が自然と口をついて出てきていた。
「…僕の親のふりをして、何とか現世に出てきたかっただけだったんだ…」
僕が話した霊は、何とかもう一度生き返ろうとしただけだった。そして、僕の親のふりをして僕を騙そうとした。
最後には嘘も限界に来て、恨み言にも近い哀願を僕にしてきた。
僕は霊の申し出をはっきりと断ったと思う。そのあと何かされた記憶もないし、実際どうなったかはわからない。
たぶん何事もなく終わったのだろう。僕の方で勝手に衝撃を受け、精神に変調をきたしたのだと思う。
「…じゃあ、○○の親御さんじゃなかったんだ。」
「…うん。」
「ねえ、○○。もう帰ろう。」
萃香は心底申し訳なさそうに言った。
「あたしも○○応援したいけど、無理だよ。やっぱり○○が傷つくの、見てて耐えらんない。」
僕は何も言えなかった。普段は威勢がよく、前向きな萃香がここまで弱気になっているところを初めて見た。
同時に、これからのことが恐ろしくもなった。これからの決断をしなければならないのが不安だった。僕は自分の決断に自信が持てていない。
意識のうえでは僕はあきらめてはいない。しかし、精神的なダメージから立ち直れないでいた。
これから父母を探すうえで、また今回のような痛手を負わなければならないのだろうか。
そう考えると、自分の中の臆病さがまた持ち上がって来た。
はたして自分が両親に会って、話をしたうえで誰かが得をするだろうか。結局は自分の我がままではないだろうか。
萃香をもしも悲しませることになったら、それこそ僕は耐えられなかった。
「話は聞かせてもらったよ」
ざらりとした声が部屋の中に響いた。誰だろう、部屋の中には僕たちしかいないはずだった。
萃香も部屋の中を見回している。横顔から見える瞳はうるんでいた。
「ふふふ、こっちこっち。その決断、ちょっと待った。」
声はからかうような調子だった。僕らをどこかから見ているのだ。
「…誰?」
「あやしいものではない。妖(あやかし)ではあるんだけどねー、あれ、出れない。」
声は布団の中から聞こえていた。萃香が布団を蹴っ飛ばすと、そこには一匹の黒猫がいた。尾が二つに分かれている。猫又だ。
「寒い!」
猫は身を縮こまらせると、僕の方を見上げ、うにゃーんと一声鳴いた。
「おにいさん、爪引っかかっちゃった。外してくれない?」
黒猫は左後ろ肢で右後ろ肢をぺちぺち叩くと、また僕の方を見た。
外してやると、目を細めてまた一声鳴いた。
「ありがと。お兄さんのそば暖かくて気持ち良かった―。」
「いつから転がり込んでたんだい。」
「ついさっき。昨日、亡霊のお姫様から聞かれてね。はるばる来たってわけさ。」
「直接来んなよ。」
「だって面白そうじゃない。外界から来た人間だろ?」
猫は僕の胴体によじのぼると、胸元に顔をこすりつけてきた。
「離れろ、この妖怪!」
「つれないね。地獄から良いお知らせ持ってきたんだよ。」
萃香を猫の赤い瞳が見返していた。しっぽを一振り動かすと、また僕の方を見る。
「お兄さんのお母さんが見つかったのさ。お父さんはまだちょっとわかんないけどね。」
僕は驚きに目を見開いた。同時に、得体のしれない不安が体を包むのを感じた。
「さっき、引き返すみたいな話だったけど、」
黒猫は首をかしげた。
「どうする?」


――――――――――――――――――――――――

第九話 白玉楼の朝



「死神さんがねえ、さっき教えてくれて、お父さんは天国にいないんですって。」
朝が来た。幽々子さんが部屋の外から僕に話しかけていた。僕はまた布団の中に閉じこもっていていた。
「地獄はややこしいから、そっちにいるか地獄の者に聞いてくれって。わかった?○○ちゃん。」
はい、と僕は答える。我ながら愛想のよくない声だ。
「じゃあ、お腹が空いたら起きてきてね。あんまり心配かけちゃだめよ。」
そう言って幽々子さんは行ってしまった。いまごろ、みんなは朝食についているはずだ。
火焔猫 燐と名乗った黒猫の申し出に、僕は行くと答えた。内心は行きたかったはずなのに、やけに動くのが億劫だった。
母さんに会えるというのに、全身の気だるさと腹痛があった。まるで自分の体が自分を裏切ったようだった。
布団の中で、起きなければいけないと何度も思う。しかし思うたびに母親の存在がちらついて気だるさを覚えるのだった。
会って何を話そう。そもそもどんな顔をして会えばいいのか。
思考がその考えに行き着くと、後はいつもの堂々巡りが始まった。
考えはどんどん落ち込んでいく一方だった。
萃香の家の自分の部屋だったらいくらでも寝ていられる。しかし、ここは自分の部屋ではなかった。なるべく早くに出て行かなくてはならない。
その焦りが僕の活力をさらに奪っていった。



「ふざけんな!」
萃香が僕に怒鳴っていた。眉をつりあげてまっすぐに僕をにらみつけていた。
僕は萃香の顔を見ることができず、部屋の隅の方をみていた。
「行くって言っといてなんだ。あたしが昨日止めた時に何で言わなかった!」
萃香は僕の胸ぐらをつかむと強引に顔を向けさせた。いつも優しい萃香が僕を刺すように見ていた。
ことのはじまりは、僕の一言のせいだった。
朝食が終わると、萃香は僕の様子を見に来てくれた。僕は布団をかぶったまま、何も答えられずにいた。
軽口を叩いてなだめすかしてくれる萃香が、やけにその時はうるさく感じられた。かわいらしい声がなぜか耳元をつんざく響きに聞こえたのだ。
僕はいらついていたのだと思う。言い訳になってしまうが、親と会う緊張で神経が高ぶっていたのだと思う。
萃香がひとしきりしゃべり終わり、僕を気遣う言葉をかけてくれた時だった。
僕は一言だけぼそりと、「帰りたい」と言った。
萃香の顔色がみるみる内に変わったかと思うと、途端に怒りの色が入り始めた。
がくがく揺さぶられながら僕は驚くほど自分が冷めているのがわかった。まるで世の中が色を失ってしまったかのようだった。
萃香は僕が自分勝手だと言って、僕を非難している。彼女の言う通り、本当に僕は自分勝手だと思う。
彼女に無理を言って、いろんな人を巻き込んで、結局そのすべてを無駄にしようとしたのだから。
これまでにも僕をなだめている時、何度となく怒りたい時はあったのだろう。これまでのすべてが積もり積もって、こうして不満が爆発したのではないかと思えた。
「お盛んだね、お二人さん。」
結局○○はどうしたいんだ、何とか言ってみろ、と萃香が僕に迫っていた。その時、敷居を越えて燐が入って来た。
「あっち行ってな。踏んづけられても知らないよ。」
不愛想な萃香の返事を気にせず、猫はその場に座り込んだ。
「あたいもお姉さんの言うことに賛成。」
「ああ?」
「お兄さんはうちに来ない方がいい。」
うち、とは燐が住んでいる地獄のことだ。僕は昨日そう聞いたが、まだ実感はわいていない。地獄というものがどういうところか、全くわからなかった。
「うちに来ない方がいい。きっとショックを受けるから。」
猫の二つの瞳が僕を見つめていた。最初に会ったときの様子とはうってかわって真剣な面持ちだった。
「…僕の母さんがひどい姿になってるってこと?」
「そうかもしれないんだよね。なんせ地獄だから。罪のある人間しか入れないとこさ。当然裁きしか待ってない。わかるよね?」
「…うん。」
内心、覚悟はしていた。地獄にいるということは相応の行いをしていたということだ。針山で血塗れになっているだけならば、まだいいかもしれない。それ以上ひどいことになっているかもしれなかった。
「引き返した方がいいさ。親御さんのひどい姿見たかないだろう。」
「…母さんは何をやったの?」
「それはわかんない。地獄のどっかにいるとしか聞いてないから。」
「わかった、そうする。」
「ん、どういうこと?」
「○○?」
あきらめたように口をついて出た言葉だった。萃香が僕の名前を呼んでくれたことがやけに痛かった。僕は今、彼女の期待を裏切ろうとしている。
「どうせ僕には無理な話だったんだ。帰ることにするよ。もう両親のことなんて言い出さない。」
自分が出したとは思えない、細い声だった。それなのに不思議なほどよく通った。
「萃香。これまでごめん。やっぱり僕には無理だった。」
萃香の方に向き直って、淡々と言い放つ。彼女は奥歯を噛んだまま、ひるんだような泣きそうな顔をしていた。
「なんだよ、それ…。」
絞るように彼女が言うと、みるみるうちに顔はくしゃくしゃになった。彼女のこんな泣き顔を見るのは初めてのことだった。
「あたしが、あたしがどんな気持ちだったかわかるのかよ…。あたしはな、嬉しかったんだぞ…○○がやっと、やっと動いてくれて…」
これまで彼女に助けてもらったことが頭の中をよぎった。節分の日に元いた世界から連れ出してもらえたこと、慣れない幻想郷の暮らしに馴染ませようとしてくれたこと、
落ち込ませる些細なことを笑い飛ばしてくれたこと、これまでずっとそばにいてくれたこと…。
彼女は泣いていた。いつもまっすぐな彼女の心が伝わってきて、僕も胸が苦しくなった。
僕は謝らなければいけないのだろう。今すぐにでも言葉を取り消して、どんなに嫌でも母親に会いに行けば萃香の心を無駄にせずに済むはずだ。
ただ、僕は謝りたくなかった。自分でも変に意固地になっている。それに、親には会いたかったが、これ以上の精神的ダメージには耐えられなかった。
「両親にお別れきっちり済ませて、これから楽しくやるんじゃなかったのかよ。みじめな過去なんて忘れてさ!」
萃香には絶対悪気はなかったのだと思うが、みじめな、という一語がこの時はやけに腹立たしかった。
「萃香にはわかんないよ。」
自分でも驚くほど棘のある声だった。目をまっすぐ見つめ返すのが怖かったので、あらぬ方を向きながら言い放った。
「あたしが鬼だからか!」
まずい方にとられてしまった、と思った。はっとして萃香の顔を見た。怒りに燃えていてくれたならまだよかったが、そうではなかった。悲しそうな表情だった。
少し上向き気味になって、眉をしかめていた。裏切られた、と言いたそうだった。
「人間じゃないからか…そうなのかよ…。」
僕は何も言えなかった。自分にはどうしたらいいのかわからなかった。
「本気にしたあたしが馬鹿みたいだろ…。」
萃香はがっくりとうつむくと、僕の胸をゆっくりと力なく殴りつけた。とん、と軽い音が僕の中にこだました。
「嘘つき。」
最後の方は涙声にまぎれていた。萃香はどたどたと走ってゆくと、部屋の外に消えた。廊下をどたどたと走ってゆく。
僕は布団に半身を起こしたまま、ぼうっとしていた。ここからどうすればいいか全くわからなかった。
遅れてやってきた罪悪感にじわじわと蝕まれながら、目を閉じてうつむいていた。寝て忘れてしまいたかった。
「やっちゃったね、お兄さん」
燐が僕のそばに来ていた。
「気にすることないよ、頭冷やせばわかってくれるでしょ。」
僕の腰にすりすり体を寄せている。僕は力ない瞳で黒猫を見つめていた。次の瞬間、僕は自分の目をうたがった。
黒猫の姿が崩れたかと思うと、みるみるうちに少女の姿になったのだ。赤髪を結っておさげにした健康的な少女だった。
猫を思わせる切れ長の瞳で僕を見上げている。
「お兄さん、地底に来ない?お母さんのことは抜きにして。」
体を起こすと、僕の肩にしなだれかかってきた。どこか生臭い肉感的な甘いにおいがした。
「昨日からずいぶん撫でてくれたっけねえ。」
「え…」
燐は僕を抱え込むように腕を回していた。甘くささやくような声だった。
「あの鬼が嫌になったらさ、うちに来るといいよ。だいじょうぶ、あたいのご主人に紹介するから。どう?」
「…どうって…」
突然のことで僕はどうしたらいいかわからなかった。萃香のことはこのままにしておけなかったし、自分はこれからどうしたらいいか考えたかった。何も答えられない。
燐の声には熱がこもっていた。片方の手が布団の下の下半身に伸びていた。そんな場合ではないと僕は思ったが、体の反応を押さえられなかった。
「あたいね、もう辛抱たまらないんだ。」
僕の肩にまわされた手にだんだんと力が込められていく。



「ヤケ酒なら一人でやってください。」
「どうせヒマなんだろ。おら、飲め。」
強引に妖夢にぐい飲みをもたせて、萃香は酒をついだ。握力でぎっちり握って離さない。ぐい飲みの底には高台がついていなく、床にも置けないようになっている。
受け取った妖夢は仕方なく両手で支えると、口をつけずにおいた。萃香はつぎ終わるが早いか、瓢箪をまっすぐに立てて一気に飲んだ。
つい先ほど、妖夢が庭仕事に出ようと思っていると、障子戸を強引に開け放して萃香がやってきた。やってきたかと思うと突然酒を出してきた。泣いていた。何か事情があるのだろうと仏心を出して受け取ってしまったのが運のつきだった。妖夢は後悔していた。
「私は庭木の手入れがあってですね。」
「ああん?」
「そろそろムクゲのつぼみが出そうなんです。虫がつかないように今見ておいてやらないと。」
「ははーん、変な虫がつくのか。そりゃ大変だ。」
「わかってもらえましたか。」
「まあ座れよ。庭木の手入れで花実がさくものか。」
ぐい飲みを手にしたまま妖夢は立とうとした。萃香は手をつかんで離さない。
そのまま妖夢が手を引くと、ぐにゃぐにゃと倒れた。しかし手は離さない。
「お前はな、わかってない。」
「何ですか。」
「手をかけたからってな、答えてくれるもんか。甲斐がない。つくのはカイガラムシばっかりだ。」
「石灰硫黄合剤まいたから大丈夫です。」
「そういうことじゃない。」
「どういうことなんです?」
「生き物は生き物でしかないんだ。手をかまれることもある。」
「うちの庭木は噛んだりしません」
「そういうことじゃないんだ。まあ待てよ。うー。」
萃香は言葉を途切らせた。げっぷをこらえているようだった。
「喧嘩したんですか。」
「してねーし。誰と?」
「○○さんと。」
「あー、こんちくしょう。うおえ。」
萃香がえずいた。えずいただけで吐きはしなかった。
「やめてくださいよ。そこで休んでていいですから。私は行きます。」
「○○の甲斐性なし。せっかく、せっかくあたしがよお。あたしがよお。なんでだよお。」
萃香の手は全くゆるもうとしなかった。瓢箪を腋に抱えたまま目を閉じながらぶつぶつ言っている。
妖夢は手を伸ばした。持っているぐいのみの中身を花活けの中にあけると、畳に座る。ぐい飲みを萃香の前に差し出した。
「ほら。」
「んん?」
「もう一杯だけなら付き合ってあげます。」
妖夢には考えがあった。このまま時間をつぶされて仕事が全くできなくなってしまうよりかは、たとえ半分でも仕上げた方が良いと考えた。
そのためには、付き合ったふりをして手早く切り上げた方がよかった。
それに、男女の話となれば、妖夢も興味がないわけではなかった。なんとなく聞いてみたくなったのも事実である。
「おぉ~、そう言ってくれるか。よくできた庭師だ。」
「はいはい。」
「ほれ。」
萃香が瓢箪を勢いよくかたむけると妖夢のジャケットからスカートにかけて勢いよく濡れが広がった。妖夢は慌てて瓢箪の傾きを戻す。
萃香の手は危なげにゆらゆら漂っていた。目の焦点はあっていない。
「何やってるんですか!」
「悪い。気をとりなおしてもういっぺん。」
今度は瓢箪を妖夢の頭上にのばしてくる。妖夢は萃香の手に瓢箪を戻すと、そのまま傾けて自分でついだ。
「何だあ、それくらいで。足りないだろ。」
「十分入ってますから。○○さんも気にしてないでしょ。」
「何だって?」
「○○さんも気にしてないと思います。」
「どういうつもりだ、○○のこと言い出しやがって。」
「そっちが話し始めたんでしょう。」
「○○のことはいい!」
「そうですか、じゃあ私は行きます。」
「待てよ、待て待て。」
「何なんですか。」
腰を浮かせかけた妖夢を萃香が引き止める。
「あのな、お前好きなやつが元気なかったらさ、どうよ?」
「○○さんのことですか?」
「そうとは言ってない。もしもの話だよ。」
「はいはい。そりゃ辛いですよ。」
「そうだろ。あたしだって辛いんだ。」
「しかしわからないですね。○○さんはそんないい人なんですか?」
「わかんないだろ、ふふん、お前にはわかんないだろ」
萃香はにたりと満面の笑みを浮かべていた。勢いよくげっぷをした。
「もっといい男性はいるでしょう。私にはわかりません。」
「お前○○のことそう思ってるのか。」
「人見知り激しすぎでしょう、あの人。何考えてるかわからないし、何がやりたいかもわかりません。
 態度も煮え切らない。」
妖夢が切り捨てるように言った。
「理屈じゃないんだよ。」
「もっとわかんないですよ。」
「わからなくていい。」
「じゃあ帰ってください。」
妖夢の言葉はにべもない。もううんざりしていた。ちらちら外を見て、時間の経ち具合を心配していた。
もうそろそろ正午に近づこうとしていた。もじもじとじれったそうに庭師は身じろぎをした。
「あたしもねえ、同じなんだ。○○と。」
身の上話が始まった、と妖夢は思った。酔っぱらいはこうなってからが長い。経験から言って、それは明らかだった。特に幽々子さまはここからが長い。
「あたしも○○と同じでね、人間が大好きなんだよ。」
妖夢は何も答えなかった。相槌を打たなければ話題はしぼむかと思ったのだ。実際はそんなことはなく、萃香の勢いは全く衰えなかった。
「嘘つかれて、裏切られて、ひっどいことされてもさ。やっぱ人間ていいじゃん。なあ。」
妖夢は眉間のしわを隠そうともしていない。不機嫌なのは明らかだが、萃香には見えていないようだった。
「○○もさ、嫌なことあったと思うんだ、外の世界で。なのにあいつはまだまだやる気満々なんだ。
 お前、さっき人見知りの得体のしれない人間だって言ったね。」
「…言いましたね。」
苛立っている声も萃香にはまるで聞こえていないらしい。
「あいつがすごいのはね、何があっても前に進むところだ。あんな影背負って生きるなんて、あたしには無理だ。
 あいつも人間のこと好きなんだな。だからあきらめきれてないんだと思う、生きること。」
「ご結婚なすったらどうですかね。」
「いいよなあ、それ。」
妖夢の皮肉に萃香は照れ臭そうに両頬を押さえた。
「それ最高だよなあ。あいつのこと『旦那様』なんて呼んでさあ。『お前』なんて呼ばれちゃってさあ!」
妖夢は立ち上がった。忍耐も限界だったらしい。つかつかと戸口に立ち寄ると、一気に障子戸を引きあける。
「いい加減にしてください!困ってるから聞いてあげてたら、愚痴ばっかりで!
 そんなに好きなんだったら、○○さんに直接言ってくればいいでしょう!」
一気にまくしたてた妖夢が何気なく振り返ると、縁側には○○が立っていた。



謝るべきだとは思う。立ち聞きするつもりはなかった。入るタイミングがわからなかった。
ぎくりと固まった妖夢の側を抜けて、僕は部屋に入った。
僕の姿をとらえると、酔いから醒めたように萃香の瞳が大きく開いた。まずいことを聞かれたと思ったのだろうか、僕を見つめていた。唇は固く引き結ばれたまま、動かなかった。
萃香を見下ろした僕も後悔していた。なぜさっきのような弱音を吐いたのだろう。なぜここまで背中を押してくれた萃香を悲しませることをしたのだろう。
先ほどのことを思い返すと、心の中が暗い嵐で満たされるようだった。
僕の目の前には、身を固くした萃香が座っている。赤い。頬から肩口まで真っ赤だ。酔いのせいだけではないだろう。
「き、聞いてた?」
さすがに酔っていても恥ずかしいのか、上目がちにチラチラと僕を見ている。
彼女にどんな言葉をかけてあげられるだろう。僕はどうしていいかわからなかった。
何を言えばよいだろう。謝るべきだろうか。それともねぎらってあげるべきだろうか。僕にはわからなかった。
こんな時、萃香だったらどうするだろうか。
そう考えると、答えは一つだった。そう考えれば、何をするべきかはわかっていた。
だが、できるのか。ちらりと横目で妖夢を見る。人目があった。
意を決して、僕は一歩を踏み出す。僕は萃香を抱きしめた。
「ちょっと」
たまらず、妖夢が声をあげる。突然、部屋に押しかけてきてこんなものを見せられてはたまったものではない。悪い気はしなかったが。
固く抱きしめられた萃香は一瞬何が起こったかわからなかった。
「ちょっと、○○」
離してほしくてもがくが、○○は手をゆるめない。
「さすがに恥ずかしいんだけど。…見てんじゃねーよ。」
「理不尽な。」
萃香は照れ隠しで妖夢に八つ当たりした。
「○○、その、さ、今はこういうことは…。いや、後でも恥ずかしいんだけど、とにかく」
「…嫌だった?」
「…嫌じゃない。」
「…よかった。」
「あのですね、お二人ともご自分の部屋で、おーい、」
妖夢の言葉は聞こえていない。
「振られちゃったかな。」
妖夢の左手に猫の毛が触れた。燐が黒猫の姿になって、妖夢の隣に座っていた。後ろ肢で首を掻くと、幾筋か毛が散った。
「ここ私の部屋なんですけど」
「気にすんな。」
燐は毛づくろいをはじめた。
「お兄さんコマそうとしたら逃げられちゃって、追いかけた先でこのザマよ。ああ、やりきれない。」
燐は自分の背中をしきりになめている。あまり悔しがっている様子は感じられない。
「○○さんのこと、好きだったんですか?」
「そりゃね。あたいだって女の子さ。」
妖夢が聞くと、燐はちろりと見返した。
「あんな優しく撫でてくれるヒト初めてだよ。幽霊、あんたも撫でられてみればわかる。」
「お断りです。」
「あーあ、あの鬼にとられちった。ま、しゃーないか。」
燐は抱きしめられている萃香を見ていた。幸福そのものといった顔で時間も忘れているようだった。
妖夢が立ち上がった。
「幽霊、どこ行くのさ。」
燐が聞く。
「庭に。」
「あたしもついてく。」
「迷惑です。仕事なので。」
「そう言うな、あたいは寂しい。」
「猫ですね。」
燐は妖夢の足に背中をこすりつけていた。
「どうしましょうか、あれ。」
妖夢が燐に聞く。
「放っときな。あたしゃついてけないよ。」
「同感です。」
○○と萃香はまだ離れていなかった。言葉も交わさない。
「庭に出る前にお茶でもどうですか。目も覚める渋いやつ。」
「賛成。」
溜息を大きくついてから、妖夢と燐は出て行った。

――――――――――――――――――――――――

第十話 地獄



蛆が這っていた。群れなす蛆が這うがさがさという音が聞こえてきそうだった。
地獄の奥深く、膿血所と呼ばれる空間に僕達は来ていた。膿血所は他人をだました悪徳を重ねた者が落ちる地獄だった。
広い空間に死体と血膿の山が押し込まれ、その隙間を蛆たちが山をなして群れていた。まだ動いている亡者もおり、僕を見るとうらめしいような表情でにらみつけてきた。
救いを求めていたのかもしれない。僕にはどうすることもできず、通り過ぎるしかなかった。
責め苦を受ける亡者がそこかしこに島のように浮かんでいた。どの顔も苦しみにゆがんでいる。あきらめたのか全く動かず、蛆に食われるままの体もあった。
地平線までその地獄が続いていた。果てがどこにあるのかはまったくわからなかった。汚物の海の上を人間の頭ほどもある羽虫がとんでいた。蠅ではなかったが、蛆が育つとあの虫になるのだろうか。人間の死体をこそぎとっていくようで、眼球をくわえた羽虫が目の前を通り過ぎたこともあった。
僕は死体から出る血膿のにおいに嗚咽した。何度も吐かなければならなかった。萃香と燐はその都度、待っていてくれた。戻るかとも何度か聞いてくれた。
僕は戻るわけにはいかなかった。母親がこんな所にいるのなら、会って少しでも心の支えになりたかった。僕は眼下に浮かぶ死体の中に母親がいないか、必死に探していた。
さび色の腐汁の中に母の顔がないか必死で探していた。護符がなければ、たちまち正気を失っていただろう。
「おかしいねえ、このあたりだって聞いてたんだけど」
僕の前で燐が立ち止まった。そのままきょろきょろと辺りを見ると、足元の一点にむかって振り向いた。あたりには僕の母親らしき姿はないようだ。何を見たのだろう。
「見つけた。」
どういうわけか、蛆の山ができあがっているところを燐は向いていた。
燐は蛆の山近くまで下りて行き、何か妖力を使ったのだろうか。蛆虫の塊から、一匹の蛆を選び出し、宙に浮かばせた。
「はい、これ○○のおかあさん。」
僕は何を言われたかわからなかった。両手を差し出すと、燐は手のひらの上にそれを置いてくれた。僕のシャツの背中のところを萃香がぎゅっと握っていた。
僕の手のひらの上に一匹の蛆が乗った。うねうねと身をよじらせつつ、頭を左右に振っている。食べられる物かどうか確かめているのだろうか。動いた後に嫌なにおいのするぬめり気のある液体が残っていた。
「亡者として苦しんでたわけじゃなかったんだよ。蛆虫に生まれ変わる罰を受けたんだ。」
燐が説明してくれた。萃香は何も言えなかった。僕は何も言えずに、手のひらの上でうごめく蛆虫を見ていた。僕を育ててくれた女性が、この汚らしい蛆に転生したとはどうしても考えられなかった。



地獄に着いたのは、白玉楼を出た日と同じ日だった。
道中、萃香はこれまでにも増して僕にべったりくっついていた。これまでは手をつなぐだけで飛んでいたが、今は僕と肩を組んで、ぴったりくっついて飛んでいた。
正直言って恥ずかしい。自分でも顔がひきつっているのがわかる。誰かとここまで近づく経験はほとんどなかったし、女の子となるとなおさらだった。
僕はこの感覚に慣れることは一生ないと思う。
萃香はいつも以上にニコニコ笑っていた。燐は僕ら二人をニヤニヤしながら見ていた。燐が時々冷やかすと萃香がムキになっていた。
 地霊たちの住処から、地獄に通じる道があった。地霊殿の奥深く、何百年もの間誰も入っていない石畳の奥に、地獄への通り道はあった。
狭い通路が大きく開けると、横穴が僕たちと向かい合っていた。鍾乳洞のように大きな洞穴だった。
中からなまぐさい空気がかすかに流れてくる。わずかな音を立てると、大きなこだまが鳴り響いた。
岩壁にかかったアセチレンランプの暗い明かりの中で燐が僕たちの方を振り返る。
「本当にいいんだね?」
僕は何も言わずにうなずいた。ここまで来たのだから、ためらうところはない。
「地獄にいるってことは、罰を受けてるってことだ。親御さん、どうなってるかわかんないよ?」
「…それでも、僕は行きたい。」
「ついてきな。」
燐は前を向くと、前を進み始めた。燐は夜目は効くらしいが、僕のためにランタンを持ってくれていた。僕もそのあとに続こうと、足を踏み出そうとした。足は出なかった。
ひざが崩れて倒れそうになる。僕は怖くてたまらなかった。足が勝手にすくんで動いてくれなかった。意識の上では何も感じていなくても、無意識を締め上げられる感覚があった。
その原因は穴の奥から流れてきていた。これが地獄の瘴気というものなんだろうか。護符がなければ、僕はたちまち死んでいただろう。
倒れそうになった僕の腰に手が回る。萃香が支えてくれた。僕は顔をのぞきこむ。萃香は見返して、にっかり笑ってくれた。
「怖いよ、萃香。」
僕は少し笑っていたのだと思う。以前の僕だったら、恐怖に飲まれて不安な顔をするばかりだっただろう。怖いのは確かだったが、余裕を持てていた。
彼女が聞いてくれるのがありがたかった。
「あたしもだ。」
二人で示し合わせたように笑う。彼女とならどこにだって行けそうだった。胸の内に勇気がともった。僕は再び自分の力で立ち上がる。燐が振り返ってこちらを見ていた。
「行こう。」
「おうよ。」
ここまで付き合ってくれた萃香のためにも、僕は母親に会いたかった。帰ったら、萃香の好きな物を作ってあげよう。僕はぼんやり献立を考えながら、足を踏み出した。



手のひらの中の蛆虫は体のとがった方を高く持ち上げると、僕の顔にまっすぐむけた。おそらくそちらが頭なのだろう。目も口もない頭は、白くつやつやと光っていた。
「ああ、懐かしい。元気だった?」
母さんの声が頭に響いた。死に別れてから、聞きたくてたまらない声だった。優しいおおらかな声は変わっていなかった。
目の前の蛆が語りかけてきた声とはにわかには信じられなかった。声を聞いた萃香も暗い表情をしていた。
蛆は自分の姿を気にすることもなく、話し続けた。僕に会えた喜びが先立ったのだと思う。
「ここで会えるなんて思わなかった。まさかあなたも地獄に?」
あたいが連れて来たのさ、と燐が答えた。
「そうなの、火車さんに連れてきてもらったのね。なんだか痩せたんじゃない?ちゃんと食べてる?」
僕は何も答えられない。目の前の蛆はおそらく笑っていたのだと思う。とがった頭をしきりに上下に動かしていた。感動しているのだろうか。
「ごめんなさい、お母さんね、ずっと心配だったの。あなたを残して死んでしまったから」
ひくひくと動く蛆の頭から肉汁のしずくが一滴てのひらに滴りおちた。僕の奥歯は震えはじめていた。目の前の蛆虫に母の名前をかたってほしくなかった。
「もう一度会えて嬉しいわ。ねえ、しばらくいるの?また会いに来てね。」
「どうして…?」
○○はそう言うのが精いっぱいだった。どんなことになっても両親に会いに行くのは覚悟していたはずだが、いざ目にすると衝撃を受けていた。
あまりにむごい仕打ちだった。母さんがどんな罪を重ねたというのだろう。少し世話焼きすぎたけど、どこまでも優しい母さんだった
。寒い日に無理やり厚着をさせられたこと、仕事帰りの疲れを押して晩ごはんを作ってくれたこと、時には叱られたこと、母さんが生きていたころの思い出が、僕の頭をかけめぐっていた。
蛆虫は少し考えた風に頭をたわめると、また僕に語り掛けた。
「そうよね、罪がないと、ここには来れないものね。」
また蛆虫は考え込んだ。また僕に語り掛ける。
「私の罪はね、あなたとお父さんを騙したことなの。」
「…どういうこと?」
「ずっと言えなかったのだけど、」
嫌な予感がした。僕はその続きを聞きたくはなかった。
「あなたはお父さんの子どもではないの。」
一瞬何を言われたかわからなかった。僕は呆けた顔をしていたのだと思う。視界がゆがんで、どこか遠いところから自分を眺めている間隔を覚えていた。
「ごめんなさい。そのときは寂しかったんだと思う。あなたを授かってから、調べたら…」
「騙してたの?」
「ごめんなさい。」
見なくても、萃香も険しい顔をしていることがわかった。僕は裏切られたと強く感じていた。母さんだけは何があっても僕の味方だと思っていた。
「…騙してたんだよね、20年間も。父さんを騙して。僕も騙して。自分自身も騙して。一人だけ家族のふりをして!」
わけのわからない熱気が僕の中をかけめぐっていた。遅れて、自分は怒っているという認識がやってきた。長らく僕が忘れていた感覚だった。
蛆虫は許しを乞うようにうなだれていた。僕に謝っていたのだろうか。僕は蛆虫をゆっくりと震える左手に移し替えると、叩き潰すべく右手を大きく上に振り上げた。
「駄目だ!お兄さん。」
「お母さんなんだろ、そんなことしちゃダメだ!」
燐が鋭い声をあげた。同時に萃香も僕の右手を抑えようとしていた。
萃香が悲痛な声をあげる。僕は怒りに我を忘れていた。目の前の汚らしい生き物が憎かった。普段は表に出していない恨みも相まって、殺すこと以外考えられなかった。
「こんなヤツ、母さんじゃない!勝手に産んで勝手に育てておいて!」
僕は長らく両親に抱いていた恨みの正体を悟った。それはこの世に生まれさせた恨みだった。
生まれなければ、人間関係に苦しむこともなかった。生まれなければ、周囲をうらやむこともなかった。生まれなければ、思い通りにならない肉体を持て余すこともなかった。
生まれなければ、いわれの無い言葉に傷つくこともなかった。生まれなければ、涙をのむこともなかった。生まれなければ、両親の重圧に振り回されることもなかった。生まれなければ。
右手は抑えられている。僕は左手を握りしめて、母親を潰そうとした。その瞬間、燐が僕の左手を払った。母親は手からこぼれると、そのまま蛆虫の山の中に落ちていく。やがて見えなくなった。
僕は肩で息をついている。あたりには血膿の腐れた臭いが微かに漂う以外には何もなくなった。か細い音が聞こえていた。どこかから風が吹き込んでいるのだろうか。
それは僕の喉から出る音だった。下からのぞきこむ萃香の顔がにじんでいた。知らずのうちに僕は泣いていた。憎しみと悲しみが頭のなかで渦巻いていた。割れそうに頭が痛かった。涙をぬぐって鼻をすすると、腐臭も胸いっぱいに入って来た。僕は吐きそうになってせきこんだ。
背中をさすってくれながら、萃香は僕に言い聞かせるようにつぶやいていた。。
「…人間が生まれ変わってたら、途中で邪魔しちゃいけないんだ。どんな姿になってても…」
僕は返事をしない。いま見たことが夢であってほしかった。母さんは母さんのままでいてほしかった。後悔はしないつもりでいたが、会うべきでなかったと思う。
言葉を交わそうとしなかったことも悔やまれた。実の親を殺そうとしていた自分がおそろしかった。
「萃香の言う通りさ。変な死に方をしたら、もう一度転生先をやり直すことになる。それだけならいいさね。もっと惨めに生まれ変わるかもしれないんだ。そっとしとくのが一番なのさ。」
燐が萃香の言葉を継いだ。僕にはどこか遠いところから聞こえているように思えた。ただ僕は泣くことしかできなかった。
「戻ろうか。」
燐が僕たちに声をかける。地獄に吹く冷たい風があたりに吹き抜けていた。
「だいじょうぶ、○○。」
萃香が聞いてくれる。僕はうなずいた。動きたくはなかったが、きれいな空気を吸いたかった。こんな所からは早く立ち去りたかった。
萃香が僕の手をとって引っ張ってくれる。足のはるか下では、蛆の白い山が地獄の闇に溶け込んでいた。あとどれだけ、母さんはあの中で過ごして罪を償えばよいのだろうか。
さっきまで殺そうとしていたくせに、いざ離れると母さんの境遇は痛ましかった。
「ごめんね、○○。」
萃香が何に謝ったか僕にはよくわからなかった。そもそも最初に僕が言い出したのがいけないのだ。
「父さんもこの中のどこかにいるのかな。」
僕はぽつりとそう言った。父さんはどこにいるのかわからない。天国にもいないという話だった。
あとは地獄にいるとしか考えられない。
地獄にいるのだとしたら、僕は会いに行きたくなかった。もうこれ以上、痛手を負いたくはなかった。
「…いるのかもね」
萃香は相槌のように答えた。
「来なければよかった。」
萃香が僕の顔を見た。ひどい顔をしていたと思う。
「僕は、馬鹿みたいだ。来なければ知らずに過ごせたのに。」
「あたいはそうは思わないね、お兄さん。」
燐が言う。普段の陽気な調子は見られない。
「来なければ、おふくろさんは誰にも言えなかったよ。言いたくてたまらなかったんだと思う。」
僕は答えない。
「お兄さんはいいことをしたよ。」
「…ありがとう。」
僕はぽつりとそれだけ言った。それが精いっぱいだった。
「ねえ、○○。地霊殿で一休みしたら、いったん地上に帰らない?あたし、○○のごはん食べたくなった。」
すかさず、萃香が僕に身を寄せて言う。萃香らしい弾けるような笑顔だった。多少無理が見えるのは無理にでも励まそうとしてくれているからなんだろう。
「そうだね、休むのがいいよ。鬼にしてはいいこと言うもんだ。」
「休んでばっかの火車に言われちゃあね。」
「休んでばっかじゃない。たまにゃあ働いてる。」
「墓穴。」
「うっ、」
燐は言葉に詰まった。萃香もにやりと笑った。二人とも本気で言い合ってはいない。
僕はくすりと笑った。なんだか自分のことが馬鹿馬鹿しく思えた。
「そうだね、いったん地上に戻るよ。ごめんね、萃香。なんべんも行き来させて。」
「いいよ、○○のためだもん。」
「お熱いこって。」
「お、うらやましいの?」
萃香がこれみよがしに僕の頭を脇にかかえこんだ。ヘッドロックの体勢になる。苦しい。
「悔しかったら、○○みたいな彼氏つくりな。」
「へいへい。」
僕は萃香に抱えられていた。甘い匂いにまじってほのかな汗のにおいがまじっていた。伝わってくる温もりがありがたくて、僕は気がついたら泣いていた。
「ありがとう、萃香。ほんとうにありがとう。」
僕の髪の毛がぐしゃぐしゃ撫でられる感触があった。萃香がなでてくれていた。
「いろいろあってさ、疲れちゃったんだよ。少し休んで、それからお父さん探しに行こうよ。」
「…僕にできるかな。」
「当然じゃん!」
萃香は言い切ってくれた。僕はただ涙を流すしかできなかった。心の中はおそろしく空っぽだった。これまでの自分がすべて涙として流れて行ったみたいだった。
父さんにまるで会いに行ける気はしなかったが、励ましてくれた萃香の手前、何も言わないでおいた。休めば、休めばまた動けるだろうか。
そうは思えなかった。母さんに会った衝撃で、僕の心は粉々になってしまったようだった。
「さあ、もうすぐ地霊殿だ。客人ども、おつかれさん。」
燐の声に前を見ると、元来た巨大な横穴が見えた。振り返ってももう地獄は見えなかった。安心するとなんだか笑いたい気分になった。



一時間後、地霊殿の一室で僕は首を吊って自殺した。

――――――――――――――――――――――――

最終話 裁き



気がつくと、前方には山門がそびえたっていた。日本史の教科書で見た代官所か奉行所のようにも見えたが、明治期の和風洋館のようにも見えた。
柱には「是非曲直庁」と書いてある杉板がかかっていた。辺りはもやが立ち込めていて、後ろを振り返っても細い道がぼんやり続いているだけしか見えなかった。
もやの向こうに透けて見える黒い影は竹藪だと思う。死後の世界は暑くもなかったし、寒くもなかった。
山門に続く敷石のわきにサクラソウとリンドウが並んで咲いていた。季節も関係がないようだった。
辺りに人影はない。静かだった。閉ざされた門の前で待っているのは僕一人だけだった。何となくここで待っていなければいけない気がしていた。
昔話なら、閻魔大王の裁きがくだるところなのだろうか。なんとなく自分を裁いてくれる誰かを待つ気になっていた。裁かれなければいけない気がしていた。魂が裁きを欲しがっていた。
眠りから覚めた時のようなふわふわした感覚があった。あの世とは安らかな世界であると僕は思っていた。肉体がなくなってしまえば、頭痛を起こすほどに堂々巡りしていた思考も止んでいた。
もう何も心配することはないとわかれば、気持ちは安らいでいた。そう考えると、不安に思う心が自分を悩ませていたとわかった。
世の中を渡っていける人とは、不安と付き合える人だろうと僕は思う。僕には無理だった。僕は疲れていた。

何の音もしない世界で、僕はどれだけ待っていただろうか。何も考えることなしに、敷石に腰かけて、山門に背をむけていた。もやに消える細い道からは誰もやってくる気配がなかった。
ふと、後ろで木のきしむ音がした。扉の開く音だ。僕は振り向いた。山門の分厚い扉が開き、その隙間から白い手がのびていた。おそらく女性のものだと思う。
僕に向かって手だけで手招きしている。僕はぼんやり見つめていた。手はますます激しく招いてくる。僕は動く気になれなかった。立ち上がることがひどく億劫に思えた。
手は一度引っ込むと、人の顔がのぞいた。赤毛の女性だった。扉から半身を乗り出して、僕の方を見ていた。
「ばかっ、お前さんだよ、気づけ!」
ささやき声で僕を叱りつけてきた。
「早く、こっち入れ!早く!」
僕がのろのろ身を起こすと、じれったそうに足を踏んでいた。僕が扉の隙間に身を滑らせると、女性は急いで扉を閉めて、僕を植込みの陰まで引っ張って行った。
長身の女性だった。白く輝く霊魂をしたがえていた。
「ったく、遅いよ!まあ、いい。あたいは小町。ここで死神をやってる。」
「ここって?」
「天国行きとか決める場所。地獄の一部、閻魔さんがいるところ、聞いたこた無いかい?」
「…あ、はい。」
僕があまり呆けた顔をしていたせいだと思う。小町は溜息をつくと、苛立ちを隠さずにまくしたてた。
「見つかっちゃまずいんだよ。いいかい、あんたはここでは裁きを受けない。せっかく死んで悪いけどね。」
「…どうして…?」
「どうしてもだ。裁きを受けずにね、このまま現世に帰るんだ。死神のあたいが丁重に送り届けてやるんだよ!おとなしく帰っとけ、な!」
僕は何も言わなかった。
「ほら、こうしてさ、あんたのために連れて来たんだから。これでいいだろ。」
小町のそばの霊魂が僕の前に進み出た。白玉楼でのことを思い出して、僕は寒気をおぼえた。
「久しぶりだな、○○。まさか、また会えるなんて。」
父さんだった。見知った姿を無くしてはいたが、父さんの声だった。僕は驚いたが、今さら話したくはなかった。
「ごめん、あたいが悪かったんだ。西行寺の姫さんの頼みで探してさ、あんたのお父さんいないって言っちゃったんだよ。
 二日酔いで人探しなんてするもんじゃなかった。あたいが悪かった。ほんと、ごめん。そんで、お母さんとだけ話して、絶望して死んじゃった。」
小町は笑って謝ってごまかそうとしていた。
「だからさ、あたいのミスのせいで死なれてたんじゃ困るんだよ。生き返ってほしいわけ、ね。映姫さまにバレたら困る。
 ほら、現世に戻るまでにみちみち話して行けばいいじゃん。」
「ありがとうございます、小町さん。急に呼ばれたかと思えば、こういうことだったのですね。○○、本当に久しぶりだなあ。病気はしてないか。」
父さんは僕に話しかけていた。小町は僕が納得させようと焦っていた。僕は父さんを無表情のまま見つめていた。父さんと何を話すというのだろうか。
家庭に寄り付かない人だったので、僕は何を話せばいいのかわからなかった。加えて、母さんのことを話しても父さんは喜ぶとは思えなかった。
何より、僕はもう疲れていた。このまま人間としての意識を断ってしまいたかった。
「遅れてしまって申し訳ありません!」
僕は出せる限りの大声を出した。ちらりと小町と父さんを見る。驚いていた。
「○○と申します。閻魔さま、ただちに裁きをお願いしたくございます。」
「わっ、バカ!やめろ!」
「もう思い残すことなどありません!どうか迅速な裁判をお願いいたします!」
小町が僕につかみかかって口を閉じさせた。遅かった。僕の目には、是非曲直庁の係員である霊魂がやってくるのが見えた。完全にこちらに気づいている。
「あんた、せっかく人が!…ああ、もうだめだ。」
係員の霊魂はすぐ近くまで来ていた。小町が僕を離して、がっくり肩を落とした。自殺したから地獄行きだろうな、と僕は思っていた。とびきりひどい所に落としてほしかった。
「○○…。」
父さんは何も言えないようだった。僕は口元にゆがんだ笑みを浮かべて、父さんを見下ろした。復讐を遂げた時の暗い喜びがわきおこっていた。



法廷に続く道は薄暗かった。コンクリートか石造りかわからない回廊は灰色の重厚なつくりだった。僕のすぐ前を案内役の霊魂が歩いている。僕は歩きながら、笑えて笑えて仕方がなかった。
全身の力が抜けて、あらゆることがどうでもよく思えた。そうすると、不思議と笑えて仕方がなかった。
ただ糸が切れただけだった。ぼんやりと僕はそう思っている。
僕を動かす糸が切れただけだった。地獄に足を踏み入れたときから覚悟していたつもりだった。母親がどのような仕打ちを受けていようと覚悟していたつもりだった。
実際に目にすると僕の精神は打ちのめされた。くわえて、その時知らされた事実に衝撃を受けていた。自分でも、たかが親の浮気くらいで取り乱すなんて変だと思う。
どういうわけか、自分の根本が崩れたと感じていた。無意識のうちに、それほど母親を信頼していたのだと思う。親が親なら、子も子だったのだ。
僕が周りより劣っているのは仕方がなかった。仕方がなかったのだ。自分のような人間は誰にも必要とされていなかった。これからも必要とされないだろう。産まれたことが完全な間違いだったのだ。
 僕は自嘲していたが、自分を貶めるたびに心の中で痛む部分があった。それは萃香と話している時に打ち震える部分だった。
死を思ったとき、萃香のことが気にならなかったわけではない。ただ、彼女のことを考えると頭の中がぐしゃぐしゃになってよくわからなかった。
世の中に絶望していても、彼女の善意までは否定できなかった。これは理屈ではなかった。彼女のことを考えると、心は燃え上がろうとしていた。頭はそれを必死でねじ伏せようとしていた。
彼女を考えると、身がひきさかれそうだった。だから、ここに来てからは彼女のことは考えないようにした。
法廷のドアが開く。光が差し込む。なんでもいいから早く終わってほしい。早く僕の存在を消してほしい。



「それでは、はじめます。」
僕は被告として証言台に立った。ちょうど裁判長席の正面に立っている。現実世界の法廷と違うところは、証言台と裁判長席の間に、背の丈ほどの大きな鏡が置かれていることだった。
後ろを振り返れば、傍聴席の最前列に一つだけ霊魂が座っていた。元いた世界でもそうだったように、ここでも裁判は傍聴できるのだろうか。
僕は霊魂が誰だかわかったので、何も言わずに前を向いた。せいぜい僕の行く末を聞いて、思い知ればいい。
どうやら壇上の中央に座る少女が裁判長のようで、少女にしか見えない人物が僕を裁くようだった。さっき死神が言っていた映姫さまとはこの人なのだろう。僕は無表情で聞いていた。
どうやら僕の裁きは始まったようだった。意外と簡単にはじめられた。もっとものものしいかと思っていた。僕は名前と生年月日、住所、職業を聞かれた。
淡々と僕は答えていく。壇上の閻魔は手元の書類を見ると、どうやら最後らしい質問を僕に投げかけた。
「被告人○○、死因は自ら命を絶ったことに相違ありませんね。」
はい、と僕は答えた。
「馬鹿なことを。」
独り言のように映姫は言った。僕は何も答えなかった。
「何か言いたいことはありますか。」
「何も。」
僕は答えた。
「本当にいいのですか?」
映姫は再び聞いてきた。
「何もありません。ただ申し上げるなら、」
「何ですか?」
「早くどこにでも落としてください。」
「それはこれから決めます。前に。」
映姫は僕に前に出て、鏡の前に立つように言った。鏡は金属を磨いて作られたもので、鈍く輝いていた。あちこちが緑色に変色していた。縁の装飾は曲線で飾られ、寺院の屋根飾りを思わせた。
前に立つと僕自身の姿が青黒く映る。映った自分の目線を避けて目を背けた。
「浄玻璃の審判をはじめます。生前の行いを映しますので、決して目をそらさないように。」
おごそかな声だった。鏡の表面がゆらぎはじめてから再び澄みきり、見知らぬ赤子が映った。どこかで見覚えがあった。それは幼い頃の僕だった。
母親の手の中で無邪気に笑っていた。母親の姿を見ると、僕は顔をゆがめた。地獄の底の臭いが鼻によみがえってきた。顔をそむけて、吐き気をこらえなければならなかった。
「そのまま見るように。」
映姫が言った。僕はなるべく親の顔を見ないようにした。てのひらで口元を押さえながら見ていた。
鏡の奥の僕は成長し、今度は幼稚園の門をくぐっていた。駄々をこねながら大きくなり、飼っていたカブトムシを殺して小学生になった。池の鯉に石を投げつけ、給食のデザートを盗み、事あるごとに言い争いをしていた。
成長の節目で僕は悪事を重ねていた。そのたびに映姫から罪状が読み上げられるのだった。鏡に映るのは悪行だけではない。善行もその合間にはさまれていた。
他の幼稚園に移った女の子のために毎年年賀状をかいたこと、図書委員の務めを必死に果たそうとしたこと、大学合格を高校の先生に電話でつたえていたこと。
忘れていたことがつぶさに描かれていた。
そんなこともあったな、と僕は感じていた。感じただけでどうでもよかった。
鏡の中の僕は次第次第に今の姿に近づいて行った。ある時を境に、急に生気をなくした顔になる。そのあとはずっとうずくまり、同じ部屋で繰り返しの毎日を過ごしていた。
幻想郷に来る前の僕だった。
 次の瞬間、僕は目を見開いて鏡の縁に手をかけた。鏡が揺れて、片側が床から離れた。倒れはしなかった。映姫が何か言っていた。僕の耳には届かない。
 萃香だ。萃香がいた。鏡は僕がもといた世界を捨てる場面が映されていた。いつも僕のそばにいてくれた、あの無邪気な鬼が映っていた。僕は自分が何をしているのかわからなかった。
鏡に手をついていると気付いたのは一瞬遅れてからだった。鏡の中の萃香は鏡の中の僕と話している。我ながらなんてひどい顔だろう。あんなに彼女が楽しそうに話しているのに、愛想笑いくらいしてやればいいのに。
萃香はぜんぜん構うことなく話しかけてくれている。そのうち、鏡の中の僕が呼吸をくずして、彼女の手を借りて立ち直っていた。まだ二人はなにかを話している。
この後をはっきり覚えている。彼女は手を差し出して、こう言うのだ。

「そして…ようこそ、幻想の世界へ!」

彼女の声がよみがえる。彼女の口がその通りに動く。耳には聞こえない。頭の中でずっとこだましている。鏡の中の僕は手をとった。
 急に鏡の映像がぼやけてきた。判決に使う部分は終わったということなのだろう。僕は幻想郷に来てからはいい事も悪い事もしていなかったということなのだろう。
鏡に顔を近づける。萃香の笑顔がみるみるうちにぼやけていく。僕は鏡の表面を指でぬぐった。映像は戻らない。鏡はついに色を失って、もとの鈍色を映し出していた。
「未練がありますか、被告人。」
映姫は表情を固くむすんでいた。僕は顔をあげると、壇上の映姫を見上げた。上を向くと、頬から顎に伝うものがあった。僕は泣いていた。不思議と胸がすがすがしかった。
「ここまで見てもらったとおり、これがあなたの人生です。」
映姫は判決をまとめようとしていた。
「あなたは善悪の規範を高く持ちすぎた。人間として生きるには、周囲と合わせなければいけない。なのに、結局自分の中にある理想を変えずに、自分を罰することにのみ時間を使ってきた。
 それでは世の中と調和がとれなくなるのも当たり前です。そう、あなたは自分勝手に過ぎた。」
映姫の言葉は当てはまっていた。僕はその言葉に何の感情も起こさなかった。ただ一つの感情がほとばしり、ただ一つの思いを作っていた。
「会いたいです。」
「何ですか?」
「彼女に、もう一度。」
映姫は片眉をあげて、少しだけ意外な顔をした。
「ならなぜ死んだのですか。」
冷たく言い放つ。その通りだと僕も思う。しかし、思いを打ち明けなければ胸が破れそうだった。
「彼女のことが好きなんです。」
法廷に僕の本音が響いた。
「さっきまでは早く地獄に行きたかった。早く人間としての意識を捨て去って、二度と人間になんてなりたくなかった。
 僕が間違っていました。人間をやめたら、彼女に会えません。萃香に、彼女にもう一度だけ会いたいんです。会って…。」
「静粛に。」
映姫が言葉をさえぎった。一息ついてから、宣言する。
「これより判決を言い渡します。」
僕はまだ映姫をまっすぐに見つめている。映姫は書類から目をあげ、僕をまっすぐ見返した。
「会ってどうしますか。」
「気持ちを伝えます。」
僕ははっきりと答えた。
「今度こそは、はっきりと言えなかった、僕の気持ちを。」
「遅すぎましたね、人間よ。」
映姫は溜息をつきながら言う。僕にもそのことはわかっていた。わかってはいたが、あきらめきれなかった。僕はまっすぐ壇上を見つめ続けた。
「つとめを果たしながら想いの実るときを待ちなさい、人の子よ。それがあなたのできる善行です。」
そう述べると、映姫は立ち上がり、書類を目の前に広げる。
「裁判長!」
傍聴席から聞き覚えのある声があがった。僕をかばって何かを言いたいのだろうか。
映姫は視線を動かすことなく、読み上げはじめる。
「十王裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥの名のもとに判決をくだします。」
一拍の間が空く。僕は声に意識を集中していた。頭の中はすみきっていた。
頭の中では必死に謝罪の言葉を探していた。萃香にもう一度会って、直接謝りたかった。それ以上に、はっきりと彼女に思いのたけを告白したかった。
映姫の言うように、それは遅すぎた。僕はかたく目をつむって拳を握りしめた。
「被告人○○は…」
「判決待ったあ!」
突然、大声が鳴り響いた。映姫はあたりを見回していた。何が起こったのかわかっていないようだ。○○にはわかっていた。この声は忘れるはずもなかった。
声は天井から、いや、法廷の外から響いていた。法廷を震わすほどの大音量だった。いや、実際に揺れているのだ。天井から砂埃が落ちてきている。
「閻魔さん!判決は、もうちょっと待ってもらおうか!」
法廷の天井の両端に穴が開いたかと思うと、何か長いものが天井をもちあげはじめた。指だ。四本の指が両端から天井をはがそうとしていた。
「そうだね、」
天井と壁の境に亀裂が入り、隙間から空が見え始めた。法廷の中はみるみるうちに光がさしこんでくる。
「もう六十年くらい!」
砂埃が激しくなる。天井の石材が落ち始めていた。僕は振り返ると、傍聴席の柵を飛び越えた。父さんを抱えると、傍聴席の机の下に身をひそめた。
なぜそんな事をしたか自分でもわからなかった。とっさにとった行動だったが、霊体は崩れた天井もすり抜けるのではないかと思えた。そう思ったら、必死になった自分が恥ずかしかった。
さしこむ光の量が増える。天井が完全に取り払われた。
「まだまだ生きててほしいんだ!」
机の陰からのぞくと、太陽を背にして萃香がそびえ立っていた。巨大化している。外した真四角の天井を持って、僕を見下ろしていた。天井をぶんと投げ捨てる。
「久しぶり、○○。元気してた?」
萃香が○○を見て、笑いかけた。初めて会った時と同じように、明るく笑っていた。
「え、どうして…?」
「あたしが来れないとでも思ったか?甘い甘い!さんざ二人でいろんなとこ行ったじゃないか!」
「いや、どうして…」
どうして僕みたいなやつを助けに来たんだ、自分勝手に死んだやつなのに。僕の言葉は空気が焼けつく音にさえぎられた。
とっさに身をかがめる間際、映姫が大出力の光線を放っているのが見えた。萃香の胴体にまともに当たる。直視できない光量だった。
「萃香!」
光が止むと、僕は身を乗り出して叫んだ。
「なかなかやるじゃん、閻魔さん。」
萃香は腕を十字に組んで防いでいた。腕が赤くやけていた。脂汗を浮かべている。ダメージはなくせなかったらしい。白煙をただよわせたまま、萃香がまた僕のほうを向いた。
「待っててね、○○。こいつらぶっ飛ばして、さっさと帰ろう。」
「どうして僕なんか助けに来たんだ!」
僕は萃香に向かって叫んでいた。
「勝手に落ち込んで、勝手に死んでいったんだ!君を捨てたのと同じなのに。」
「悪いことしたって思ってんでしょ?やらかしちゃったって。」
萃香は答えた。
「じゃあ、いいじゃん!問題なし!」
とびきりの笑顔で言ってくれた。僕は彼女がいてくれて本当によかったと思う。
「あたしの大技見とけよ、○○。晩ごはんの献立今のうちに考えとくこった。」
「勝てるの?」
一呼吸おいて萃香が答える。
「まかしとけ。」
萃香は無理をしていた。簡単に勝てる相手ではないのだろう。
「○○、あの鬼は?」
僕に抱えられたまま、父さんが聞いてくる。
「彼女だよ。僕の。」
自分でも驚くほどすらすら言葉が出て来た。
父さんは、そうか、と言ったきり何も言わなくなった。こういう時、父親はどんな気分でいるものなのだろうか。
萃香が両掌を合わせて離すと、そこに力場が形成された。周囲の光ごと空間がその中に押し込まれてゆく。それは瞬く間に漆黒の球体になった。
あれはブラックホールというものではないだろうか。テレビドキュメンタリーで見たとおりの形だった。
「裁判を乱すだけに飽きたらず、私に刃向かうとは!叩き直してあげます!」
映姫も勺の切先を萃香に向け、力をそこに集めていた。周囲の空気に稲妻が走っていた。気圧が変わり、風が巻き起こっていた。
僕は耳を押さえなくてはならなかった。気圧の変化に伴う耳鳴りがひどかったためだ。全身に感じる圧迫感は霊気によるものだろう。
 これだけの力をぶつけ合えば、どちらも無事にはすまないだろう。僕は萃香が傷つくのが嫌だった。安全を考えると、逃げなければならないとはわかっていた。
かといって、うかつに動けば巻きぞえを食うかもしれなかった。両者は今にも対決しそうだった。勝負は一瞬で決まるだろう。
 不意に、僕の腕がひっぱられた。振り向くと、死神の小町がいた。
「なにやってんだよ、あんた。逃げるんだよ。こんなとこいたら幽霊でもかき消されちまうよ。」
僕はその言葉を聞いて、腹が立った。元はといえば、こんな所まで来たのも死神の怠慢が原因ではないか。自分だけ罪を免れようとする態度が気に入らなかった。そう感じた時、僕の脳裏にひらめく考えがあった。
「裁判長、再審を要求します!」
はっきりと大声を出す。映姫が横目でこちらを見た。
僕は横に立っている小町の腕をつかんだ。
「僕が死んだのは、この死神のせいです。彼女がしかるべき手を打っていれば、自殺などしませんでした!死神のせいで!」
「わわ、何言ってんだい、あんた。」
小町はうろたえている。
「白玉楼の主、西行寺幽々子が僕の両親の所在を聞いてきたと思います。閻魔さまはその事実をご存じだったのでしょうか!おそらくご存じなかったと思います!」
のどが痛い。今にも暴発するかもしれない力の中で叫ぶのは並大抵のことではなかった。
「僕は母親と会い、絶望して命を絶ちました!先ほど鏡に出たとおりです。
 しかし、父親と話せていれば、自殺などはしていませんでした。聞けば、僕の父さんは天国にいると言うじゃありませんか。」
ここで僕は小町を思いっきり指さす。
「彼女が教えてくれました!間違えて父さんはいないと伝えてしまったとも!
 いるとわかっていれば会いに来ました!僕はそのうえで納得をし、生を全うしていたはずです。」
「ちょっと!あ、映姫さま、これは違うんです!」
小町が僕につかみかかってやめさせようとする。僕は続けて言う。
「いやしくも死神ともあろう者が…」
僕ははげしくせき込んだ。最後まで言いたかったが、巻き起こった砂埃がのどに入ってしまった。
「私がその父親です。死神の小町さんに呼ばれて、先ほど息子に会わせていただきました。」
傍らの父さんが僕に続いて言っていた。
「あんたも何言ってんの!」
「小町!」
小町が止めようとしたが、映姫に一喝され黙り込む。
「その時私も確かに聞きました。小町さんの過失によって、私をいないものとして息子に伝えてしまったと。
 死神ともあろう方が、簡単な間違いを起こし、挙句にこっそり生き返らせ、失敗をうやむやにしてしまっていいものでしょうか。
 前途ある若者の命をもてあそんでよいものでしょうか。傍聴人の身ですが、僭越ながら再審を要求いたします。」
僕は傍らの父さんを見た。父さんからは何も表情が読み取れなかった。何となく誇らしげに見えた。
「映姫さま、こいつらの言ったことはデタラメです。デタラメですってば!」
映姫はいつの間にか僕たちの話に聞き入っていた。僕はまっすぐに映姫を見返す。映姫はきっと小町をにらんだ。明らかに怒っていた。
「小町、説明できますか?」
小町は僕の胸ぐらをつかんだまま、映姫にぎこちない笑みを向ける。
「な、何をでしょう。」
「西行寺さまから人探しの依頼が来たこと、私は聞いていませんでしたね。」
僕は緊張して成り行きを見守っていた。
「挙句にいるべき人をいないと答えるとは。あなたは霊魂を何だと思っているのです!」
「お、お許しを、映姫さま!ちきしょう、あんたなんて三途の川に放り込んどくんだった!」
僕から手を離して、小町は石床を蹴った。法廷の壁を越えて、空に舞い上がって逃げて行った。
「加えて、死者を勝手に生き返らせるなどと!魂を軽々しく扱うなとあれほど…」
捕まえるべく、映姫も飛んで行ってしまった。無くなった天井から、どんどん小さくなっていく二人が見えた。僕は気が抜けて、傍聴席の机の上に腰かけた。法廷の天井からは太陽が見えた。霧の向こうに虹の輪を作っている。
「やるじゃないか、閻魔さまにあそこまで言うなんて。立派だったぞ。」
父さんが僕の前に浮かび、話しかけてきた。
「ありがとう、父さん。それと、今までごめん。」
素直に言えた言葉だった。何となく父さんが笑ってくれたように見えた。生きている間は父さんの笑顔なんてほとんど見たことはなかった。それは、こうして一緒に過ごさなかったせいかもしれない。僕の方で勝手に壁を作っていたのかもしれない。
「○○~、生きてる?」
振り向くと、萃香がかがみこんで、法廷の天井から僕をのぞきこんでいた。
「いや、死んでるよ。」
僕と萃香は声を出して笑いあった。まるで十年も離れていたような気がしていた。彼女がいてくれて、こうして僕に話しかけてくれるだけでありがたかった。
「すごいじゃん。あそこまで啖呵きれるなんてさあ。」
「うん。あそこまでうまく行くとは思わなかった。」
萃香は興奮さめやらぬ様子で目を輝かせていた。
「やるじゃん。」
いたずらっぽく萃香が笑う。
「まあね。」
僕も萃香にあわせて笑う。僕はひとしきり笑い終えると、萃香に言った。
「萃香、ここまで降りてきてくれないかな。」
「なんで?」
僕はすぐそばに浮かんでいる霊魂を見る。
「この人、僕の父さんなんだ。その、」
僕は言葉に詰まった。どうしても言わなければならないことだった。一瞬目を閉じて、また開く。もう自分の気持ちに嘘をつきたくなかった。今言わなければ、もうずっと言えない気がした。
「君を父さんに会わせたいんだ。結婚しよう。」

――――――――――――――――――――――――

「兄ちゃん、それからどうなったのさ。」
タケが聞いてきた。外では雨が降っている。寺子屋の座敷には子どもたちがたむろしていた。雨では外に遊びにゆけない。勉強机が半分だけ片づけられ、男の子たちが相撲をしていた。
女の子たちは机の周りでおしゃべりをしていた。建材の杉から吐き出された水分が部屋にたまり、涼しかった。遠くから雷の音が聞こえる。
「萃香ねえちゃんもどうなったんだよ。」
僕は寺子屋に出ていなかった間のことをタケに話してあげていた。タケだけ病気で長い間休んでいたのだ。他のみんなはもう知っている。まだ激しい動きはできないらしかった。
動けなくてつまらなさそうだったので、僕は話をしてあげることにしたのだ。興味があったようで、夢中になって聞いてくれていた。
風が強くなってきたので、僕は教室の障子戸を半分だけ閉めることにした。立ち上がる。
「そんなにがっつかないの、バカ。」
ミチがタケのほうを向いて言った。彼女はタケの隣に座ってずっと聞いていた。僕の話よりもタケの隣が狙いのようだった。タケの家に彼女は頻繁にお見舞いに行っていたようだった。
二人は付き合っているという噂だった。
「どうもこうもないよ。そのまま彼女は大笑いした。」
タケ達の前に戻ってきながら、僕は言った。横目で萃香を見ると、少し離れた机で絵本を読み聞かせてやっていた。あれから彼女は少し背を伸ばし、いつものノースリーブの服は着なくなった。
髪を束ねたし、化粧も覚えようとしていた。まだ手元はおぼつかないが、いずれ慣れてゆくのだろう。今も可愛らしい唇が一寸法師の活躍を紡ぎだしていた。
「僕がいろいろすっ飛ばして結婚なんて言ったからね。タケも気をつけろ。」
「兄ちゃんくらいだよ、そんなすっとんだこと言うの。」
「タケ!」
ミチがたしなめる。僕はわははと笑った。
不意に僕のそばに湯呑みが置かれた。
「私も続きを聞きたいな。」
慧音がお茶を持ってきてくれていた。
「先生は前にも聞いたところですよ。」
「いい話は何度聞いてもいい。」
慧音も同じ机に座った。タケが早く話してほしそうにしていた。
「大笑いしたあとで、彼女はオーケーしてくれたよ。夢みたいだって、言ってくれた。父さんも僕たち二人を認めてくれたしね。息子にこんなかわいい彼女さんがーって、泣いてた。」
「お父さんそんな人だったのね。」
ミチが言ってくれた。
「うん、僕も驚いた。もっと父さんと話しておけばよかったよ。」
「その、前は聞けなかったんだが、お父さんは知っていたのか?お母さんの、その、」
慧音がためらいがちに聞いてくる。
「浮気のことですか。」
「ああ。」
「慧音先生、私もそれ気になる!」
慧音といいミチといい、女性はこういう話が好きなのだろうか。僕にとって隠しておくことでもないので、言うことにした。
「父さんは知ってましたよ。」
「でもお兄ちゃんを育てたの?」
「どうでもよくなっちゃったんだって。母さんは好きだったし、他人の子どもでも、僕は可愛かったからって。そう思えたら、どうでもよくなっちゃったって。」
「お兄ちゃんのお父さん、いい人ね。」
「よいものだな、家族とは。」
横で慧音が感じ入ったようにうなずいた。どうも慧音はこの手の話に弱いらしい。
「最後には閻魔さまに生き返らせてもらったよ。部下の死神の不始末だったから、その埋め合わせ。」
「どうやって?」
「三途の川に入ったんだ。冷たくって風邪ひきそうだったよ。」
僕はおどけて、寒さに震える大げさな身振りをまじえてやる。タケもミチも笑ってくれた。
やにわに木板を踏みしめる大きな音が鳴った。男の子の相撲が盛り上がりすぎたらしい。慧音が軽く注意する。だいぶ熱が入っているようで、反省こそすれ誰もやめない。
「萃香ねーちゃん、相撲やろうぜ。チャンプがいないとつまんねーよ。」
大柄な男の子が萃香に大声で呼びかけていた。
「僕が相手してやるよ。」
僕は立ち上がった。相撲グループにむかって一歩踏み出す。
「大丈夫だよ、○○。あたしがやる。」
「休んでて。何かあったら、さ。」
「ん、ありがと。奴は手ごわいよ。」
立ち上がりかけた萃香を僕はとめた。
「え、あ、お前たち、そういうことか!」
「○○兄ちゃん、手が早―い。」
慧音とミチは気づいたようだった。二人とも驚いている。タケだけは気づいていないようだった。
僕は二人の声を背中で聞きながら、土俵入りした。手ぬぐいをつないで作られた円形のリングは僕には狭かった。体も小さい分、相手が有利だろう。
「ひがぁしー、○○関―。にぃしー…」
行司役の子どもがうちわを振りながら、名前を呼んでくれている。横目で見ると、萃香が僕の初場所を見てくれていた。手を振る。彼女もにっこり笑って振り返してくれる。
「みあって、みあって。」
かがみこんで、立ち合いの姿勢をとる。僕は脳裏に昨日彼女と話し合ったことを思い出していた。もし、男の子だったら名前は―――。



おわり


Megalith 2015/02/03,2015/02/10,2015/08/04×10
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最終更新:2016年02月11日 17:12