「いいかぁ? つまり恋愛というのはだな……」

始まったか。猪口に焼酎を注ぎながら、俺は努めて目の前の負け犬の遠吠えを聞き流すようにしていた。
陽は既にとっぷりと沈み、この酒場にも人が溢れている。客を観察すると、いかにも体が資本でござい、といったようなむさ苦しい連中が6割以上を占めている。
無骨で、猥雑で、汗の臭いが漂ってきそうな、こういった空気は嫌いではない。
大して酔ってもいないくせにぐちぐちと管を巻くこの男がいなければ、の話だが。

「おい貴様、聞いてんのか。俺の話と焼き鳥のどっちが大事だと言うんだ」
「焼き鳥」

即答。我ながらなんと鮮やかな返しだろう。顔がにやけるのを抑えながら、ねぎま串を頬張る。

「○○、友に対してお前はなんて薄情な奴なんだ。そんなんだから女の子が寄り付かないんだぞ」
「その辺はご心配なく。こんなひどいことはお前にしか言わないから」
「それはそれで腹が立つ!」

言うが早いか、徳利を掠め取られた。あまりの早業に驚き、竹串を取り落としてしまった。
抗議の声をあげる間もなく、中身が奴の徳利に注ぎ込まれていく。
奪い返した時には、酷い、中身は既に雀の涙程しか残っていない。
そんなんだから女の子が寄り付かないんだぞ! と、オウム返しに言ってやりたくなった。

「あああー、虚しい。こんな男臭い場所で酒の奪い合いなどと、涙が出そうだ。いや、出す!」

徳利ごと焼酎をあおった奴は、いきなり机に突っ伏して泣き始めた。
かなり声が大きかったので少しばかり肝が冷えたが、周りの人は聞かなかったことにしてくれたようだ。ありがたい。
それにしてもなんという情緒不安定であろうか。平常はそんなことはないのに、酒が入るといつもこうなる。
まあ、こうなってしまう原因として思い当たるフシはあるのだが……

「女の子と一緒に飲みたいよおおおーっ!」

……この通りだ。
数年前であったか、それまで女にうつつを抜かすぐらいならば男と遊ぶという極めて健全な少年であったこいつは、ある時を境に女にうつつを抜かすことしか考えない、極めて不健全な青年へと変わり果てた。
きっかけは確か、よくつるんでいた仲間の一人が恋人を作ったことだった。そして止せばいいのに彼の甘酸っぱい恋の成就の過程を詮索しまくった奴は、次第に“恋愛”への憧れをこじらせていったというわけだ。
そうこうしているうちに友人は一人、また一人と相手を見つけていき、未だ独り身の俺がこいつにとっては最後の頼みの綱なのである。
正直、勝手に頼みの綱にされても失礼な上に迷惑としか言えないのだが、別に見捨てる理由もないということでだらだらと付き合い続けている……そんな関係が今の俺達だ。

「お前はがっつきすぎで引かれてるんだよ。大体まだ若いんだから、そんな焦る必要はないんじゃないか」

この慰めも、何回口にしたことか。そして経験上、こうなればお開きは近い。

「やかましーっ! そんなこと言ってたら、一生嫁さんなんかもらえねーんだよぉっ!」

一際大きな声をあげたと思いきや、再び突っ伏して何やらむにゃむにゃとぼやき、やがて寝息を立て始めた。
いつも通り、俺がこいつを家まで送っていかなければならないようだ。
愚痴ばかり聞かされた上に酒まで勝手に飲まれた。この上なぜ送り迎えまでしなければいけないのかとも思うが、このままにしておくわけにもいくまい。
勘定を済ませて店を出るときの、店員の憐れむような視線は気にしないことにした。





いつものことだが、奴を家まで送り届ける時間には帰り道には殆ど人の姿が見えない。
寂しくないと言えば嘘になる。しかし、こういう時に月を見上げながら帰るのもまた乙なものだ。

「満月か」

ぼそっと呟きながら、俺はぼんやりと今日の酒盛りを思い出していた。
恋愛、人間として生まれたからには避けては通れないもの。
いつも奴には知ったふうな口で説教を垂れているが、実際俺にそんな資格はあるのだろうか。

『偉そうに言うがな○○、そういうお前は恋をしたことがないのか? これと決めた女人に、心焦がしたことはないのか?』

以前、こんなことを奴に言われた記憶がある。
その時は適当に誤魔化したが、したことがない、と言えば嘘になる。
以前、成り行きではあったが里の雑貨屋の娘さんとそういう雰囲気になったことはあった。無論、奴には絶対に内緒である。
……だが、結局恋人と言える関係には発展しなかった。
理由ははっきりとしている。俺には既に娘さんではない“心に決めた人”がいたというだけのことだ。
いや、そう表現するのは適切ではない。
高嶺の花、雲の上の存在、彼女を表現するにはこういった言葉がよく似合う。
俺が奴を内心、負け犬と見下しているのは紛れもない事実である。
しかし、踏み出す勇気も無く、叶わぬ恋に悶々と心を焦がすだけの俺が負け犬以外の何だというのだ。
満月は人の心を掻き乱す、という話を物の本で読んだ覚えがあるが、こんなことを考えてしまうとなるとあながち与太話とも言えないらしい。
未だかつてないほどに肩を落とし、トボトボと帰路を歩いていた、その時だ。

(……人か?こんな時間に?)

ふと、微かな音に足が止まった。
素通りすればいい話ではあったが、その時の俺は酒と満月の相乗効果でいささかおかしくなっていたらしい。
息を殺し、忍び足で、辺りのそれらしい物陰を片っ端から覗きこんでいると……
見つけた。闇に紛れてはっきりは見えないものの、一人は背中を向けた俺より多少ガタイのいい男。もう一人は男の影に隠れているが小柄な体格……恐らくは女だろうと見て取れた。
最初の内は逢引かと思い、書き表すも恥ずかしい恨み言を頭の中に巡らせながら性懲りもなく観察を続けていた。
しかしよくよく見ていると、どうやらその認識は間違っていたらしい。
男の方が女を壁に追い詰め、何やら強引に迫っている。女の方はというと、萎縮しているのか微動だにせず、言葉も発していない。
あまりにも分かりやすい、乱暴狼藉の現場であった。





やはり満月というのは、人の心を掻き乱す何らかの作用があるらしい。
普段の俺ならば、そこら辺を歩いているなるべく強そうな御仁をけしかけ、その隙に雲隠れするというあまりにも情けない手段を行使していただろう。
しかし今回ばかりは違った。自分がこのように憂鬱としている一方で、あのような不埒者が同じ空の下跋扈しているという事実に凄まじく腹が立った。
辺りを見回して見つけた手頃な棒切れを後ろ手に隠し、何回か深呼吸をした後……俺は颯爽と、犯行現場に飛び込んだ!

「おい、そこの君!彼女からはられ……離れろ!嫌がっているだろうが!」

……噛んだ。
なんて恥ずかしい。緊張で口上を噛む正義の味方など、聞いたことがない。
俺の声に反応して、男がゆっくりと振り向く。
いきなり飛びかかってこないか、噛んだことを突っ込まれないかと身構えていたが……男はこっちを向いたまま、動こうとしない。
こちらを捉える視線は爛々と怪しい光を湛え、まるで獣のそれのようだ。

「何をしている、早く逃げなさい!」

男の異様な雰囲気に気圧されていると、女が突然叫んだ。
鈴を転がすような美しい声に一瞬聴き惚れる。しかし逃げろとは一体どういうことだ?
そんな取り留めのないことを考えてしまった……その隙がいけなかった。

「ウゥゥゥウウゥゥゥッ!」

突如獣のような唸り声を上げたかと思うと、瞬間、男が俺の懐に飛び込み、首を絞めてきた。
あまりに一瞬の出来事だった。俺が状況を完全に理解する時には、俺の体は首吊り死体の如く宙に浮いていた。

「ウゴく、ナ……ミョう、な、コとすレ、バ、コイツ、しヌ……」

途切れ途切れに喋る男の姿が、目の前でみるみるうちに変化してくいく。
着物から覗く肌は長い灰色の毛で覆われ、口からは大きな牙が覗いている。首筋に食い込む感触から、手の爪も長く、鋭く伸びているのがわかった。
妖怪だ。それも、人間にとって非常に危険な類の。
じわじわと首に加わる力が強くなる。呼吸を封じられた苦しみで、考えが纏まらない。
女の方を見た。頭巾のようなものを被っているせいで表情は読み取れない。
逃げろ、と叫ぼうとしても、ひゅーひゅーと喉から空気が漏れるだけだった。

「わかった、抵抗はしない。その人を離しなさい」

意識が飛ぼうかという寸前、女の声を聞いた妖怪が力を緩めた。
死に物狂いで息を吸い込み、意識を安定させる。しかし助かったわけではなかった。未だ妖怪の手は、首にかけられたままだったからだ。

「そレハ、こト、ガ、すん、だアと……コイつ、まだ、はナ、さナイ」

そう言ったかと思うと、妖怪は俺の体を片手で引きずりながら女にじりじりと歩み寄っていく。
先程のように苦しくはないが、いくら力を入れてもこいつの手は首に食い込んで離れない。
妖怪が女の目の前に立つ。微動だにしない女の首に手をかけ、やはり軽々と持ち上げた。

(ああ、殺すんだな)

そんなことが頭に浮かんだ。危機的状況だというのに、頭の中は異様に静かだった。
彼女を殺せば、こいつはそれを目撃した俺も生かしておかないはずだ。
だが、俺にどうしろというんだ。
唯一の武器である棒切れは、どこかに転がっていってしまった。
殴ろうが蹴ろうが、こいつは蚊に刺されたほども感じないだろう。
無様なことだ。正義の味方を気取った癖に、女一人救えないで、巻き添えで死ぬとは。

(俺が死んだら、奴は悲しむかな)

走馬灯というのは本当にあるらしい。奴のことを考えた途端、今夜のことがやけに鮮明に思い出せた。
あいつの愚痴、無視して食べた焼き鳥の味、掠め取られた徳利、取り落とした串……
取り落とした、串。
取り落とした?
取り落として……

(あの串、どこに落ちたんだ?)

そっと右手を動かし、甚平のポケットをまさぐる。妖怪は気づいていない。
細いものが、触れた。何度も、何度も触って確かめる。硬くて、尖っている。

どうやら、幸運の女神は見捨てないでくれたようだ。

妖怪は気づいていない。ゆっくりいたぶろうという算段か、女の細い腕を掴み、今にも齧り付こうとしている。

力が、自信が、勇気が、全身にみなぎってくる。

“それ”を握りしめ、神経の全てを右腕に集中させて――!



「ギャアアァァアァァァァァァァァアアアアアァアアアァァアアァァッ!!」



力の緩んだ手を素早く振りほどき、女の腕を掴む。

「走るぞ!」

その一言を言い終わらないうちに、脱兎のごとく駆け出した。
背後では、眼球に竹串を深々と突き立てられた妖怪が苦悶の叫びを上げ続けていた。





結論から言えば、俺と彼女はあの夜まんまと逃げおおせた。
思えばあの夜は随分と多くのことを体験した気がする。
満月による乱心、今際の際の走馬灯。両方ともてっきり迷信だと思っていたが、考えを改める必要がありそうだ。
あの時体に漲った異様な活力も、今思えば火事場のクソ力というやつだろう。
大それたことをしたと今思い返しても背筋が寒くなる。
しかし、あの夜の出来事にはまだ続きがあるのだ。人喰い妖怪との遭遇の何倍も衝撃的な続きが。
妖怪の手を逃れた後どこをどう逃げたのか、全く記憶に残っていない。
ただ彼女の手を引いて逃げ続け、気がついた時には自らの長屋の前にたどり着いていた。
見覚えのある風景に安心した俺は、地べたに座り込んでどうにか呼吸を落ち着かせようとしていた。

「本当に、あり、がとう。君のお陰で、助かったよ」
「ゼェ、ゼェ、いや、大したことじゃ、ハァ、ハァ……」

情けないことに、同じ距離を走ったはずの彼女より俺のほうが消耗しているようだ。
どこか怪我でもしていないかと、俺は彼女に向き直り……
頭巾の下、月光に照らされたその顔に釘付けになった。

「自己紹介が遅れたわね。もう知っているかもしれないけど」

少女らしい可憐さと、不釣り合いなほどの凛々しさが見事に両立している顔立ち。
犬か猫の耳のように可愛らしく跳ねているクリーム色の髪。
そして『和』の一文字が描かれた黒い耳あて。
間違いない、目の前の少女はまさしく――



「豊聡耳神子、と申します」



俺の片思いの人、だった。

「ところで、ここは君の家?」

その問に、俺はただ頷き、そして……
……それが、この夜の俺の最後の記憶である。





失神、というのも俺は人生で初めての体験だった気がする。
気が付くと俺は我が家の布団の上で……当たり前のことだが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
あの夜のことを誰に話したとしても、作り話か、あるいは夢だと思われるのがオチだろう。
実際、目覚めた直後は俺も夢だと思っていた。
妖怪の魔の手から幸運にもあの豊聡耳神子を助け、手を引いて逃げまわったなど、そう思わないほうがおかしかろう。
人間関係の疲れが溜まっているのかと思って身を起こした時……妙なものを発見した。

「……みみずく?」

ミミズクだ。
鳥綱フクロウ目フクロウ科、あのミミズクが、狭い長屋のただ一つの机の上にちょこんと立っている。
どこから入ってきた?何の為に?そもそも何故ミミズク?
謎のミミズクを観察していると、もう一つ見つかったものがあった。
ミミズクの足下に、何やら折り畳んだ紙が置いてあるではないか。

「まさか……これを届けに来たのか?」

まさか、とは思ったが的中だったらしい。ミミズクはまるで頷くかのように体を曲げた。
意を決して紙を取り、開いてみる。
それは手紙だった。差出人の名は……豊聡耳神子。イタズラかとも思ったが、優美な筆跡から溢れる気品は偽物とは思えない。

――突然のお便り失礼致します。
  その節は貴方様の機転により命を救っていただき、心から感謝しております。
  本来であれば私自らが伝えなければならないものを、手紙で済ませる非礼をお許し下さい。
  あの夜の外出は臣下にも秘密のことであった故、彼女らを心配させないためにも夜の明けぬ内に戻らなければいけませんでした。
  そこで、あなたを我々の道場へ招待し、そこで改めて感謝の意を評したいと存じます。
  差支えがないようであれば、この手紙の余白にご都合の良い日時をご記入の上、そのミミズクにお持たせください――

読んでいる途中、何回頬をつねっただろう。
読み終わると同時に、俺は薄く埃を被っていた文房具を慌てて引っ張りだし、できるだけゆっくりと、丁寧に日時を書き記した。
玄関の戸を開け、畳んだ手紙を恐る恐るミミズクに差し出すと、ミミズクは嘴でそれを器用に咥え、あっという間に飛んでいってしまった。
他人に、特に奴に見られて、あれこれ詮索されないか。
あの郵便屋が、散らかった部屋や薄汚れた筆や硯のことを彼女に報告しないか。
既に見えなくなったミミズクを見送りながら、俺はそんなことばかりを考えていた。


――――――――――――――――――――――――

いつからだったのか、それは覚えている。
里の皆の心から希望が消え失せた一時期……誰もが“未来”を信じられなくなり、誰もが刹那的な“現在”に救いを求めたあの異変。
当時の俺と奴も、他の人々と同様にあの「戦争」の行方に興味津々であった。
争いに首を突っ込んだ人妖の思惑が様々であるように、それを眺めていた人々の心中も万華鏡の如くに異なっていた。
自分を導いてくれる指導者を求める者、戦う恋人の無事を願う者。
美少女が空をふわふわと舞い、スカートをひらひらさせる光景に齧りつくド阿呆……正体は書き表すまでもあるまい。
俺はどうだったのか、単純に言えば興味本位だ。
いくら騒ぎ立てても、蜘蛛糸のようにまとわりつく寒々しさ、閉塞感。
それをさっぱり取払ってくれる指導者が出てくるのならば良し、現れないのならば、気を紛らわすこの馬鹿騒ぎが続けばいい。
泥沼の酔生に身を委ね、人生の浪費を謳歌していた……そんなある日のことだった。

何故彼女なのかと聞かれると、それがさっぱりわからない。
あの時期は博麗の巫女や入道使い、皿使いの童女達が小競り合いを続けていた。
天狗の新聞のすっぱ抜きにより、これがある種の宗教戦争であると里中に知れ渡ったのもこの時期だと覚えている。
そしてあの日……いつになく興奮して長屋に転がり込んできた奴に連れられて、里の一角に辿り着いた時のことだ。

「すごいぞ、オイ。妖怪寺の住職と、噂の聖人様だぜ。ついに仏教と道教のトップが出てきたってわけだ」

その後も奴は何やら喋っていたような気もするが、実際のところは殆ど覚えていない。
なぜならば俺の意識は彼女に……豊聡耳神子に釘付けにされていたからだ。
……具体的にどこに惹かれたのかは自分でもわからない。
激しい光の交差のただ中でも、一際輝く優美な佇まいか。
少女の美しさと貴人の凛々しさを兼ね備えた相貌か。
風を受け翻る外套から覗く、華奢な体つきか。

「……おい、聞いてるのか?」

彼女の動きを眼で追い続けて、どの位経ったのだろうか。
奴に肩を叩かれて我に帰ったのは、勝利を収めた彼女がゆっくりと地上に降りて来たところだった。
聖人の顔をひと目見ようと、群がる人々が彼女の姿を覆い隠すのを呆然と眺めていたことを今でも思い出す。
俺と彼女の住む世界の違い。どう足掻こうが決して縮められない距離。
それをあの厚い人垣に重ね、悶々とする日々が続き……
あの夜、唐突に終わりを告げた。





豊聡耳神子からの二通目の手紙が届くのには、そう時間はかからなかった。
あの不思議なミミズクを見送った翌日の夜、ちょうど俺は銭湯で心身を清め、上機嫌で帰路に着いていた。
風呂というのは人の心を解きほぐしてくれる。湯船が大きければ尚更だ。
幻想郷の人里にも、風呂付きの一軒家は当然存在する。
狭い長屋暮らしの身として、そういう環境に憧れる気持ちは人並みに持ち合わせているつもりだ。
しかし、銭湯のやたら熱い湯や、風呂あがりのビン牛乳、白い肌を火照らせたお湯あがりの女人をさりげなく観察する楽しみの虜となっているのもまた事実である。

(いつか家を建てる時には、でかい風呂桶と、ビン牛乳専用の冷蔵庫と、お湯あがりの女人がついてるのがいいなあ)

極めて頭の悪い空想に耽りながら部屋に入り、明かりを灯した……瞬間。

「ぅひぃ!?」

今までポカポカに温まっていた心と体は、冷水をぶちまけられたように縮み上がった。
……長屋の机の上に、またしてもあのミミズクが立っていたのである。無論、足元には手紙が添えられて。
一体全体どこから入ってきたのか、まさか俺が帰ってくるのを暗闇の中で待ち続けていたのか。
一瞬の硬直の後、状況を理解した俺はわざとらしく咳払いをしながら、手紙を拾い上げた。
言うまでもなく、差出人の名は豊聡耳神子。手紙を広げると、読んでいるだけでも心に訴えかけるような達筆が踊っている。
しかしその文中に、俺はとんでもないものを発見してしまった。

『……お約束の日時に、貴殿の自宅にお迎えに伺います……』

自宅?
迎え?
来る?
彼女が?
ここに?

……読み終わった手紙を畳み、恭しく戸棚にしまい込む。
努めて冷静に戸を開け放ち、ミミズクが飛び立ったのを確認して閉めた後……
……俺は初めて、散らかり放題の部屋と向き合う決心をした。

この狭い長屋の一室を、豊聡耳神子を迎えるに相応しい空間に。
そう、この世で最も美しい狭い長屋の一室にしなければならぬ。
それから数日、俺は寝食も惜しんで部屋の掃除……いや、浄化に明け暮れた。
汚れた物は綺麗に、散らかった物はあるべき場所に、絡まったものはまっすぐに、どうにもならないものはゴミ袋に、いかがわしいものは箪笥の奥深くに。
開始一時間後には片付けることが快感になり始め、二時間後には床に接している物体は家具のみとなった。
五時間後には部屋中の埃という埃の一掃という快挙を成し遂げ……
睡眠を挟んで一八時間後、箪笥と本棚の中身の整頓を完璧に終わらせたところで、別に彼女自身が来ると決まったわけではないことに気がついた。

俺は崩れ落ちた。崩れ落ちたついでにもう一時間ほど寝た。
何と短絡的、こんな馬鹿な話があるものか。
大体このような下賎な者の住まいに、聖人が自ら出向くわけがないのだ。
こうなれば元の部屋以上に汚くしなおしてくれる……と、あまりの悔しさに自棄を起こしかけたが、箪笥に手をかけた時点でふと思い留まった。
人間とは不思議なもので、これまでは足の踏み場もない部屋で寝起きし、食事を済ませることに何の感情も抱かなかった。
ところがこの美しい部屋を見たら、途端にかつての自分の暮らしが鼠か何かのように思えてきたのである。
それによくよく考えれば、誰が迎えに来るとしても部屋が汚くては失礼なこと極まりない。来客に対しては礼を尽くすのが道徳というものだ。
こんな考えに至るとは、部屋が綺麗になったことで心も清らかになったに違いない。
この気持ちを忘れないよう、『部屋は清潔に』と紙に認め、壁に貼っておくことにした。
部屋と心の次は文字を綺麗にするべきだな、としみじみ思った。





しかし……俺のやったことは間違っていなかった。
迎えが来ると約束された日。無意味に正座などして待ち構えていた俺は、戸を叩く音にはっと背筋を伸ばした。
どうぞ、と出した声がやけに上ずってしまったことを後悔したが、開いた戸の向こうに立つ人の顔を見た途端、頭の中の何もかもが吹き飛んでしまった。

「こんにちは。会うのはこれで二回目ね」

……本人だ。紛れも無い、豊聡耳神子が。
俺の長屋に、迎えに来た。

「戸は、閉めたほうがいいかな?」
「は、はい、お願い、します」

冷静にしゃべろうとはするものの、まるで言葉を覚えたての猿が如き有様である。
ゆっくりと戸を閉めた彼女が俺に向き直り、深々と一礼をした。

「勝手な申し出をしてごめんなさい。あなたにも都合があったでしょうに……」
「なっ……と、とんでもない! もとより大した用事などありませんから!」

何だか、物凄く頭の悪いフォローのような気がする。
だが、とっさに気の利いた返答を出来なかったのは仕方あるまい。俺ごとき下賤の輩に対して彼女が頭を下げるなど、心苦しくて見ていられなかったのだ。

「率直なんだね……ふふ、ありがとう」

俺の弁解をどう受け取ったのかは定かではないが、彼女は俺の眼をまっすぐ見据え、花のように微笑んだ。
……かわいい。
もう少し頭が良ければ俺の脳裏にはその笑顔を表す語句が無数に浮かんだろうが、今の俺にはそれしか言いようがない。
何やらむず痒い気持ちになり、さっさと立ち上がろうとしたが……その瞬間、俺の体は畳に崩れ落ちた。
どうやら長時間の正座で、俺の足が限界を迎えていたようだ。

「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」

いきなりつんのめったかと思えば、ヒキガエルのように畳に倒れ伏す俺。
悲しい程情けない姿だが、さすが聖人。履物を脱ぎ駆け寄ってくる優しさに、いろいろな意味で涙がこぼれそうになる。

「あし、あし、あしが」
「痺れてしまったのね……楽にして、足は伸ばせる?」

言われるがままに足を伸ばし、仰向けに寝転がる。
しばらくして痺れは治まったが、ふと見ると彼女が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。頬が熱くなっていることに気づき、慌てて姿勢を正す。

「は、早く出ましょう。足なら大丈夫ですから」

言うが早いか立ち上がり、逃げるように玄関の草履を履く。

「ああ、外に出る必要は無いわよ」

彼女の静止に、戸にかけようとした手を止める。
出る必要がないとはどういうわけか。道場とやらにいく予定は変更になったのだろうか。

「少しの間目を閉じて。少しふわっとするけど、混乱しないで大丈夫だから」

ふわっと? ますます解せない。俺が首を傾げている間に彼女は土間に降り、俺と向かい合うようにして立つ。

「目を閉じて……準備はいいかな?」

澄んだ瞳が、まっすぐに俺の目を捉える。
照れ臭さを感じながら、言われるがままに目を閉じた……瞬間。

「う!? うわあああぁぁぁぁっ!?」

地面が消えた。いや、俺の体が宙に浮いたのか。
全ての重力、引力から遮断される異様な感覚。一瞬の出来事ではあったが、あの不快感と奇妙な心地よさは一生忘れないだろう。

「着いたよ。大丈夫かい?」

不思議と久しぶりに聞いたように感じる彼女の声に目を開き、辺りを見回した。
……目をこすり、頭を振り、額に拳を打ちつける。
頭蓋に響く衝撃と共に、自分の見ている景色が現実であること、ついでに無様に尻餅をついていたことを理解した。
傍らの彼女を見上げると、微笑みながら手を差し伸べてくれている。

「ようこそ、我らが『神霊廟』へ!」

……やはり夢を見てるんじゃないかと、少しだけ思った。





幻想郷に生まれ育った俺の世界は狭い。
建物と言えば、人里に立ち並ぶ和風建築。
紅魔館や地霊殿といったものの噂を聞いたことはあるものの、口伝や写真ばかりで実物にはお目にかかっていなかった。
そんな俺がいきなりこの光景を眼にしたのだ。現実のものとして受容できなかったのも仕方あるまい。
それだけでも俺の部屋の何個分はあろうかという、広大な石畳。
そしてそこにそびえ立つ巨大な廟の美しさは、もはや筆舌に尽くしがたい。
極彩色に彩られた柱。屋根ではきらびやかな彫刻が存在感を放ち、一面に敷き詰められた黄色の瓦は、黄金かと見紛うほどに輝いている。

「君、大丈夫? 衝撃が強すぎたのかな……」

ふと気が付くと、彼女が手を差し伸べたまま怪訝な表情を浮かべていた。
慌てて手の砂を拭い、その細い手をとる。よろよろと立ち上がり、どうにかバランスを取り戻す。

「つい見惚れてしまって……ありがとうございます……その……」
「呼び方は君の好きにしなさい。呼び捨てでも構わないよ」

微笑む彼女に、俺は曖昧な笑いで返すことしかできなかった。
一方的に抱いていたイメージと違って、素の彼女は何というか、見た目相応の少女らしさを感じさせる。
そんな一面もまた……と頭に浮かぶ妙な考えを押し殺していると、唐突に碌な自己紹介をしていなかったことに気がついた。

「自己紹介が遅れてすみません、神子様。俺は〇〇というものです」
「〇〇か、うん、君に似合っていい名前だ」

社交辞令のようなフレーズだが、その口調には妙に力がこもっているように感じた。
ありがとうございます、と彼女に笑いかける。
今度は、自然と顔が笑顔になっているのがわかった。

神子様に案内され、廟の中を見て回った。
外観は異国情緒の溢れる神霊廟だが、その内装は意外にも純和風である。
彼女の説明によれば自分達が生活することや、人里から来る修行者の緊張をほぐすことを考えてのものだという。
結構話し好きな質であるらしく、歩きながらではあるがいろいろなことを話してくれた。
ここは幻想郷とは違う空間であること、最近修行者が増えないこと、満月の夜の散歩が密かな楽しみであること。
俺はほとんど相槌を打っているだけだったが、それでも彼女の表情は本当に楽しそうだった。

「少し歩き疲れたね、そろそろ落ち着こうか」

一通りを見て回ったかという所で、ある一室へと通された。
香が焚かれてあるのか、足を踏み入れた途端、良い香りが鼻腔をくすぐる。
部屋の中はよく整えられていて、優しく包み込むような居心地の良さである。

「さあどうぞ、正座なんてやめて、くつろいでちょうだいな」

お言葉に甘えて座していると、目の前に湯のみが差し出された。
招待されたとはいえ、聖人に茶を出させてしまうとは……軽く自己嫌悪していると、机を挟んで向かい合った彼女が、深々と頭を下げた。

「もっと早く言いたかったのだけれど……あの夜、命を救ってくれたこと、本当に感謝しています」
「え……と、とんでもない。あの時は無我夢中で……」

あの夜。彼女がそう口にした途端、あの満月の下での出来事が鮮明に頭の中に蘇った。
謙遜などではなく、実際に無我夢中だった。相手の妖怪が恐らく大物ではなく、頭も悪かったから何とかなったようなものだ。
そう、相手が弱かったから……
相手が、弱かった?

「神子様……お聞きしたいんですが、あんなことは前にも?」
「ん……そうね、幻想郷に来た頃は狙われたものよ。力のある者を喰らえばより強大になれるなんて考える連中がいるみたいでね」
「何回も、ですか」
「何回も、よ。最近はめっきり減ってたけど、あれは新参者だったのかな」

ことも無げに答える彼女の様子を見て、俺は確信した。確信してしまった。

「もしあの時……俺が割って入らなかったら、お一人で切り抜けられましたか?」
「……何が言いたいの」

彼女の力ならば、あの程度の妖怪は一捻りできる。
そう、俺は彼女の命を助けたのではない。
彼女の足を引っ張り、あやうく死なせる所だったのだ。

……自惚れていた。

もっと早く気づくべきだったのに、気づかなければいけなかったのに。
彼女の命を救ったなどと思い上がり、真実から眼を背けていたのだ。
後悔のあまり、居心地のいい部屋が拷問部屋に変わったかのように錯覚する。思わず立ち上がりかけた、その時。

「!? み、神子様!?」

いつの間に席を立ったのだろう。気づかぬ内に、彼女は俺のすぐ隣に座っていた。
そして俺が言葉を発する前に、俺の両手をとり、慈しむように握ったのだ。

「ごめんなさい。私の無神経が、君を傷つけてしまったのね」

愁いを帯びた口調。三度頭を下げる彼女に、俺は何も言えなかった。

「君が心配していることは正しい。でも、君が私の命を救ったことも、紛れも無い事実よ」
「……それは、結果論ですよ」
「楽天的だと思うかな? それも人生には必要なことだよ」

暖かい。
彼女の優しい言葉、まっすぐな視線、手から伝わる体温が、俺の心と体をゆっくりと解きほぐしていく。
楽天的、か。
確かに、いつも楽天的なあいつは何だかんだで人生を楽しんでいるのかもしれない。

『過ぎたことをうだうだ言ってたって、今も未来も明るくならないぞ! だから昔のことをぶり返すな! お願いだから!』

かつて、奴が言っていたことを思い出した。
非常に、非常に、非っ常に癪ではあるが、あの言葉に習って、今はこの瞬間を楽しもうと思えた。

「神子様の手、やわらかい……」

……何を言ってるんだ俺は。楽しむにしても限度があるだろう。
突拍子もない言葉に不意を突かれたのか、神子様は顔を逸らし、くすくすと笑っている。
ばつの悪さをごまかすように、未だ手付かずの湯のみに視線を集中させた。
神子様の頬が赤くなっていたようにも見えたが、確かめる気にはなれなかった。





神霊廟から帰った時には、既に陽は沈みかけていた。
俺がそろそろお暇を、と言い出した時、神子様は如何にもつまらなそうな顔をして、それがとても可愛らしかったことを覚えている。
囲碁で6回、将棋で8回も打ち負かしておいて、いざ帰られるとなるとむくれるのも酷い話だと思うが、それは言うまい。
帰り際に持たされた“土産”を机の上におき、しげしげと眺めてみた。

『ペンフレンド……というのかな? もし君さえ良ければ、これをその証として受け取って欲しい』

あのミミズクにちょうどいいサイズの、少し大きめの止まり木。
彼女曰く、“彼”は神経質な節があり、止まり木のない俺の部屋から帰ってくると、かなり不機嫌な状態だったらしい。

『また神霊廟に来たければ、手紙を書いてくれ。いつでも迎えに行くよ』

俺を部屋に送り返す直前、彼女はそう言ってにこっと微笑んだ。
それを思い出すだけでも、鼓動が早くなるのがわかる。
しかも、しかもだ。
これからは見ようと思えばいつでも、あの微笑みを至近距離で見られるのだ。
そして、あわよくば彼女と……

「あらあら、鼻の下が伸びていますわ」

……一瞬、鼓動が止まるかと思った。
来客か、物の怪か、あるいは幻聴か。
その答えは部屋を見回すまでもなくわかった。
俺がだらんと身を預けている机、その向かい側に、一人の女が肘をついているではないか。

「夜分遅くに突然の来訪、どうか無礼をお許し下さい」

青い髪に、これまた薄い青の衣。
男であれば、いや、女でも息を呑まずにはいられないであろう妖艶な美貌。
その口から紡がれる言葉の響きは、脳髄を侵食せんばかりに甘く、快い。
誰だ? どうやってここに? なんのために?
疑問が頭の中に渦を巻き、冷や汗が頬を伝うのを感じる。
まるで俺の混乱を楽しむかのように微笑んでいた彼女が、不意にぺこりと頭を下げた。

「私……霍青娥と言うものです」

―――――――――――――――――――――――――――

慣れというのは不思議なものである。
豊聡耳神子様との手紙のやりとりも、気づけば随分と長く続いていた。
しかし女性と、しかも憧れの人と文通を交わすなど生まれてこの方初めてのことである。
最初は一文字書くにも手が震え、昼頃に書き始めて終わる頃には日が暮れるという有り様だったのも当然のことである、と思いたい。
それが今では、手紙を一枚仕上げるのに一時間あれば足りるようになった。
手紙の内容は他愛のないことである。
たまには小難しいことを書こうと思ったこともあるが、当然そんなことを書ける見識もないし、何より彼女がそういうものを望んではいないのではないかと思うのだ。
神子様の手紙は優雅な筆跡や文体の美しさに息を呑むが、よくよく読んでみるとその内容は至って平凡なものである。
部下らしき人たちのこと、天気のこと、今読んでいる本のこと……少なくとも、俺に送られてくる手紙にはそういったごく普通のことしか書かれていない。

「思えば、こういう付き合いをする友人ができたのも久しい気がするよ」

こんなことを言われたこともある。
何度目かの神霊廟に招かれ、将棋を指していた時のことである。
角をどう動かすか思案している時ではあったものの、彼女の言葉を不思議に思って顔を上げた。

「布都さんや屠自古さん……でしたっけ? あの方たちは違うんですか?」

直接会ったことはない。ただ手紙に書かれていた名前を挙げてみただけだ。

「彼女たちはあくまで臣下だ。友のように想っているのは確かだが、だからといって友のように接するのは示しがつかない」

話している途中、彼女はいきなり俺の角に手をかけ、勝手に動かしてしまった。
何を、とは言いかけたものの、駒の動かし方の巧みさに気づきぐうの音も出ない。
仕返しに彼女の隙をつき、飛車をでたらめな方向に動かしてやった。

「君も中々図太くなってきたねぇ」

言うが早いか、今度は金に彼女の手がかかった。置き方も完全に適当である。
そっちがその気ならばと、俺は彼女の銀を動かす。
段々収拾がつかなくなり、結局その対局はお流れとなった。

話を戻そう。
俺が今したためている手紙も、内容は平凡なものである。
最後の一行を書き終え、軽く目を通した後、俺はその手紙を覗き込む来客を見やった。

「いい加減、お前にも慣れてきたな」

手紙を折り畳みながら言葉を投げかける。
返答はない。まあ、相手がミミズクでは当然である。
この小さな配達人のことは本当によくわからない。戸を閉め切っているのに関わらず、気づくと止まり木の上に鎮座している。
文通を始めたころには毎回肝を冷やしたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。
手紙を咥えさせてやり、戸を開け放つと一直線に青空へと飛んでいく。
どこから入ってくるのか、何故出ていく時は普通に飛んでいくのか、実に……

「実に、不思議……ですわね」

……突然投げかけられた言葉に総毛立つ。
振り返ると、声の主は机に頬杖をつき、何が楽しいのかニヤニヤと薄笑いを浮かべている。
付き合いが浅いというのもあるが、彼女の神出鬼没さには未だ慣れない。
いや、個人的にはどれだけ付き合おうとも、彼女には慣れないと思う。

「おはようございます、青娥……師匠」

……慣れないのはもう一つ、この呼び方もだった。





彼女はあの夜、突然俺の部屋に現れた。

「なるほど、貴方が太子様の……」

名を名乗った後、彼女は呆気にとられている俺を無視して呟いた。
そのまま身を乗り出し 、舐めるように俺の顔を見る。
……美しい。
彼女の顔が近づくと、改めてその美貌に心がかき乱される。

「あの、神子様のお知り合いですか?」
「まあ、神子様だなんて……」

何がおかしかったのか、口に手を当ててくすくすと笑い始める。
質問には答えず、こちらの訝しむ視線も全く意に介していない。随分とマイペース……あるいは自己中心的なのだろう。

「ふふふ、失礼……太子様のことをそのように呼ぶ方など、初めて見たものですから」

どう答えていいかわからず、はあ、と間抜けな声が出てしまう。

「やはり、命を救われた方は特別なのかしら?」

妖しげな笑みを浮かべ、こちらをじっと見つめる。
……わからない。
彼女の言いたいことも、その本心も全くもって見当がつかない。
ただ、彼女はこの件については多くのことを知っているであろうことは察しがついた。
……まあ、まさかあんなことまで知っているとは思ってもいなかったのだが。

「でも残念……あの妖怪は、まだ生きていますわよ」

衝撃的な言葉に、背筋が凍りつく。
彼女のいう「あの妖怪」のことはすぐに理解できた。
俺を人質に神子様を喰らおうと企み、片目を潰された妖怪。
……正直、あれで死んだなどと俺も思っていたわけではない。
その為、神子様には内緒で博麗の巫女に退治を依頼したりもした。
だが……彼女は何故そんなことを知っていたのだろう?

「何故……とでも言いたげですわね? 理由は簡単、私、その妖怪と戦いましたので」

呆然とする俺を尻目に、彼女は徐に服をたくし上げた。
あらわになった腹には幾重にも包帯が巻かれ、赤い血が生々しく滲んでいる。
あの妖怪につけられた傷だというのは、教えられずともわかった。

「偶然出くわしたとはいえ私に襲いかかった所を見ると、あれは太子様に近しい者を殺そうとしている様子。さしづめ、復讐と言ったところでしょうか」

復讐。その言葉に額を冷や汗が伝う。
彼女の言葉を信じるならば、遅かれ早かれ俺も標的になるのは確実だ。

「私にも多少仙術の心得があったのは幸いでした。手傷を負わせることは出来ましたが、いずれその傷も癒えるでしょう」

再び彼女が身を乗り出す。これまでとは打って変わって、その表情は真剣そのものだ。

「私と共に、あの妖怪を倒す修行をつけるのは如何でしょう? 共に太子様をお守りするのです」
「……何を、馬鹿な」

思わず反論が口をついた。
馬鹿げている。修行とやらがどれほどのものかは知らないが、付け焼き刃の凡人に何ができるものか。
しかし彼女の表情は変わらない。至って冷静に俺の疑問に返答を返す。

「心配はご無用。付け焼き刃といえど、二人でかかればあの程度の妖怪は容易く滅せますわ」

当然のことのように言い放つ彼女。
いくら何でも楽観的すぎるとは思ったが……確かに、二対一であればあの獣のような妖怪は対処しきれないかもしれない。
いやしかし……と煩悶し続ける俺だったが、次の彼女の言葉は決定的だった。

「それに……貴方としても、自分で蒔いた種は自分で始末をつけたいはずではなくて?」

……そうだ。
神子様は気にするなと言ってくれたが、あの件は俺の心の片隅に未だ引っかかっている。
神子様を守る。
自分の心に決着をつける。
彼女の力を借りれば、それができる。

「……わかりました。お願いします、青娥さん」

彼女の目を見据え、ゆっくりと頭を下げる。
後に自分が、どれだけこの決断を後悔するかなど、この時は知る由もなかった。





修行をつけるにあたり、青娥師匠は二つの条件を提示してきた。
一つは、自分と会ったことや修行のことは、神子様はもちろん誰にも他言無用であること。

「人の噂とは恐ろしきもの。誰から巡り巡って太子様に行き着くかわかりませんわ。そうすれば……」

太子様がどれだけ心を痛めるか……との事だった。
もとより誰にも言うつもりはない。
仙人と組んで妖怪に喧嘩を売るなど、里に知れ渡った日にはとんでもないことになるだろう。
そうすれば神子様がどんな顔をするか、考えたくもなかった。
そしてもう一つ、修行を続ける内は彼女を『師匠』と呼ぶこと。
……これに関しては完全に気分の問題だろう。と言うか面と向かってそう言われた。

あまり期待するな、とは彼女の言だったが、修行は極めて順調に進んだ。
一時的に肉体を強化する術や、退魔の符の作り方や扱いといった課題を修めるのに、然程時間はかからなかった。
それどころか多少苦労はしたものの、こんなものかと拍子抜けしてしまったほどである。

「基本中の基本ではあるけれど……よほど筋がいいのかしら」

彼女が暇さえあれば部屋に現れるおかげで修行の頻度が多かった、というのもあるだろう。
しかし、才能が豊かだと言われて悪い気はしなかった。
……修行の最中、やたら体をくっつけたり顔を近づけてくるのには閉口したものだが。
ともかく、師匠の協力を得て、着々と準備を進めていた……その時だった。
彼女から、ついにあの妖怪が動き出したとの報せがもたらされたのは。





俺と青娥師匠は、里から少し離れた森に踏み込んだ。
妖怪と交戦した際、彼女は相手に気づかれぬように追跡用の符を仕込んでいたらしい。
彼女によると、妖怪はしばらく寝床と思われる場所からほとんど動かなかった。
それが段々と動き回るようになり、昨日には人里の目と鼻の先にまで近づいていたと言うのだ。

「近づいていますわ……現れたら、万事手筈通りに」

押し殺した彼女の声に、小さく頷く。
術の練習は何十回もこなした。符も大量に用意してある。
しかし……俺達が今から始めるのは殺し合いなのだ。
一瞬の隙が自分と彼女の命を奪うことだってあり得る。決して油断はできない。
体の震えを押さえつけて進んでいると……突如、強烈な異臭が鼻をついた。
立ち止まって辺りを観察し……即座にそれを後悔した。

(これ……全部、あいつがやったのか!?)

周囲に散乱する、夥しい骨、骨、骨。
おそらくは彼女につけられた傷の回復のため、この辺の動物を手当り次第に喰らったのだろう。
ほとんどが小動物のもののようだが、それを差し引いてもこの数は異常だ。

「いますわ。警戒してください」

呆然とする俺の脇腹を小突き、彼女が呟いた。
慌てて彼女と背中合わせの体勢をとった。感覚を研ぎ澄まし、気配を探ろうと試みる。
瞬間。

(……来る!)

殺気を感じ、咄嗟に目の前の樹上に目を向ける。
視線の先には、忘れもしない……あの黒い影が今にも飛びかかろうという体勢をとっていた。

「八時! 上です!」

ほぼ言い終わらない内に、足に全力を込めて横に跳んだ。
一呼吸置いて、まさに俺の立っていた場所に妖怪がその太い腕を叩きつける。青娥師匠は無事に逃れたようだ。
二間は跳んだだろうか。跳躍の勢いが死に始めたのを見計らい、空中で木を蹴りつけて方向転換。
そのまま着地し、転がりながら木陰に身を隠す。
妖怪は追撃の手を緩めない。骨の山を踏みつけながら、まっすぐに俺に向かってくるのがわかる。

(そうだ、そうだ……俺だけを殺しに来い……)

奴が俺に狙いを絞ることは予測していたし、作戦もそれを前提で練ってきた。
呼吸を整え、後ろに飛び退く。
予め取り出しておいた符に力を込める。奴が気づかない一瞬の隙をつき、投げた。

「グォ、オォッ!」

命中だ。右手に命中した符には退魔の力が込められている。
小さなものではあるが、奴の力を奪う重石としては十分に機能する。
しかし、この程度は奴は意に介していないようだ。身を屈め、俺に向かって飛びかかろうとした……その時。

「ガアアアアァァァ……ギャァッ!?」

妖怪がバランスを崩し、派手に転倒する。
倒れた奴の体には、青娥師匠の放った符が貼り付いていた。左足、左腕に二枚ずつ、背中には四枚だ。
もんどり打つ相手に、次々と符を取り出し、投げつける。
手持ちの符を使い果たした時には、奴の体は大部分が符に覆われた状態だった。

「今ですわ、止めを!」

彼女の声に大きく頷いた。懐に手を入れ、「切り札」を取り出す。
簡素な作りの短刀。父の死に際、せめてもの形見として持たされた物だ。
震える手で刀を抜く。刃には何枚もの符が巻きつけられている。俺の血を混ぜた墨で拵えた特別性だ。
これを突き立てれば、奴はたちまち消滅する……それは、俺の悔いの消滅も意味する。
ゆっくりと歩み寄り、動かない奴の胸に狙いを定める。
手の震えをこらえ、荒くなる呼吸を抑え、ゆっくりと短刀を振り上げ……

その時だった。


ぴくりとも動かなかった妖怪が、いきなり顔を上げた。



突然の事態を飲み込めない俺を尻目に、奴の鋭い爪が閃き……



「……………え?」



思考がまとまった時には、俺の体は深々と切り裂かれていた。



何故、何が、なんで、どうして。
崩れ落ちながら、何が起きたのかを考える。
だが……わからない。
さっきまで動けなかった。符は効いていたはずだ。符の効力だって、切れるには早すぎる。
かすみ始めた目を動かすと、俺の体をあの妖怪と……青娥師匠が、見下ろしていた。

「……ぁ……ぇ……」

言葉にはならなかった。いや、何を言おうとしたのかもわからない。
青娥師匠が何やら口を動かし、妖怪が俺の体に腕を伸ばし……
突如、辺りを覆い尽くした凄まじい光を見たのを最後に。
俺の意識は。
……途切れた。





初めて会った時は、馬鹿だと思った。
忘れもしないあの満月の夜、無謀にも私を喰おうなどと企んだ妖怪が、散歩中の私を襲った時。
頭の悪い喋り方で、頭の悪いことをがなり立てる妖怪を懲らしめようと、術の用意を始めた瞬間。
空気を読まず、頭の悪い口上と共に、彼は現れた。
逃げろと叫んだものの、時既に遅し。
私を助けに来たと思われる彼は、一瞬で私の敵を助ける立場になってしまった。
……正直、あの時は本当に死を覚悟した。
聖人たるこの私が、存外つまらない死に方をするものだと、妙に静かな心持ちになっていた……のだが。

「走るぞ!」

突如妖怪が苦悶の叫びをあげたかと思うと、彼は私の手を引いて走りだした。
途中で後ろをみやると、のたうち回る妖怪の眼には竹串らしきものが突き刺さっていることがわかった。
あの状況で妖怪の虚を突いたのかと、私はこの変な男に興味を持った。
いや、もしかすると。
私はこの時、既に彼に惹かれ始めていたのかもしれない。

○○君と過ごす時間は、不思議と心が安らいだ。
男性と接するのが初めてというわけではない。
尸解仙に変じる前は、能力、財、地位において彼より優れた男など周りにいくらでもいた。
しかし、彼らは私を友人として扱ってはくれなかった。
上司としての接し方しかしなかった者、女だからと露骨に見下す者、下卑た欲望を剥き出しにする者。
私自身割り切ってはいたし、立派な人物もいたことは確かだが、心の中にある種の男性不信があったのも事実である。
だが……○○君が私に向ける欲望は、あまりにも純粋……と言うか、子供じみていた。
私のことをもっと知りたい、もっと私の笑顔が見たい、もっと私と一緒にいたい……。
彼は抑えようとしていたようだが、実際にはこういった欲望は駄々漏れで……もはや、一周回って微笑ましいほどだった。
そして、彼と接し、このかわいらしい欲を何度も聴いているうち……私もいつしか、彼の欲に中てられてしまっていたのだ。
彼と過ごしている時は胸の高鳴りが収まらず、離れている時でも彼のことを考えてしまう。
日に日に彼の存在が、私の中で大きくなっていった……そんな時だった。
放していたミミズクが、○○君と青娥が森の中に消えていったことを知らせにきたのだ。





神霊廟の一室で、私は青娥と向きあっていた。
彼は既に傷の手当を済ませ、別室で寝かせてある。
……後一歩。
もしあの場に駆けつけるのが、あと一歩遅かったら……と考えかけて、慌ててそれを押し殺した。

「命に別状はないようですね、良かった良かった……」

……何を、白々しい。
ぎり、と拳を握りしめ、悪びれた様子もない青娥を睨みつける。
動じていない青娥に向けて、徐に口を開く。

「お前は……彼を、殺す気だったな」

……青娥は、やはり動じていない。
彼女にここまで腹が立ったのは初めてだった。いや、最早それを通り越し、憎しみすら感じる。

「一目見てわかったよ。あの妖怪は既に死んでいた……お前がキョンシーにして操っていたんだ」

話している最中にも、苛立ちがどんどん強くなるのがわかる。

「何を言ったかはわからないが……彼を罠に嵌めて、亡き者にしようとした。仙人が操っているんだから、仙術が効かないのは道理だ」

心の何処かで、信じていた。
得体の知れない女だが、邪悪な者ではないと。
信じていた、のに。

「私を、苦しめるためか」

……青娥は、俯いている。
肩が、小刻みに震えていた。
少し経って……上げた顔には。

「だって……太子様とあのお方は、とっても仲が良さそうなんですもの」

笑顔が、浮かんでいた。

「ちょっとした、やきもちですわ」

……一瞬。
私は、自分が何をしたのかわからなかった。
気づいた時には、目に映っていたのは青娥の無表情な顔と、銀色にきらめく刃。
私はほとんど無意識に剣を抜き、彼女の首をかき切るところだったのだ。

「……一つ……忠告しておくぞ」

剣は下ろさない。そのまま青娥の眼を睨みつけ、低い声で言い聞かせる。

「二度と彼に手を出すな、もし手をだせば……お前の肉の一欠片までこの世には残さん!」

彼女の表情は変わらない。沈黙即ち肯定であると、むりやり納得するしかなかった。
……剣を下ろすのには不思議と時間がかかったが、剣を抜いている姿を布都と屠自古に見られなかったのは幸いだった。

「太子様! あの者が目を覚ましましたぞ!」

障子の開く音と布都の言葉に、私は弾かれたように振り向いた。
一人だけで見に行く、と告げて……ちらりと青娥を見たあと、私はほとんど走りながら、彼の部屋に向かった。

私の顔を見た時、○○君は今にも泣き出しそうだった。
泣きたいのは私のほうだと叫びたいのをこらえ、彼の布団の側に座る。

「傷は、痛む?」

まだ少し、と彼は小さく呟いた。
受け答えができる元気はあるとわかり、少しだけ胸のつかえがとれた気がした。
なぜあんなことを……と聞こうとした時、彼がぽつりぽつりと話し始めた。

「ごめんなさい……神子様に、心配、かけたくなくて」

心配をかけたくなかっただって?
そんな理由で、私に黙っていたのか。
馬鹿だ。なんて馬鹿な男なんだ。

「青娥さんから、一緒に妖怪を倒そうって」

馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。
よりによって、あんな女を信用するなんて。
馬鹿。何で、私を頼ってくれなかったんだ。

「神子様を……」

馬鹿馬鹿馬鹿ばかばかばか。
言うな、もう言わないでくれ。

「神子様を、守りたかった」
「……っ! ばかぁっ!!」

もう、抑えられなかった。
涙がぼろぼろと、頬を伝うのを感じる。
布団に突っ伏し、声を上げて泣き続けた。
考えがまとまらない。

「ばか、ばか、ひっく、ばかぁ……」

こんな姿、誰にも見せたことないのに。
君の前では、君の憧れの神子様でいたかったのに。

「……神子様」
「ぐす……○○、君」

視線が合う。彼も、泣いていた。
彼の手が、頬に触れる。その手を取り、握り返した。
温かい。
彼が生きてくれていることが、こんなにも嬉しい。
どんな形であれ、私を思っていてくれることが嬉しくてたまらない。

「○○君」

私は、彼を。

「……大好き、だよ……」

彼を……愛している。

――――――――――――――――――――――――――――――――

「こうやって飲むのも久しぶりだな」

猪口の焼酎を飲み干し、呟いた。
まだ夕刻に差し掛かった頃だからか、酒屋は比較的に静かである。
人の溢れる雑多な雰囲気が嫌なわけではない。しかし、穏やかに酒を飲み交わせるのであれば、やはりそちらが好きだ。

「そうだね。しかしお酒は堂々と飲むほうが美味しいね、やっぱり」
「やっぱ寺だと、そこらへん厳しいのか?」
「まぁ……普通に飲んでる人もいる、けどね」

俺の前に座る男は、憚るように囁いてくすくすと笑った。
こいつは俺と「奴」の共通の友人の一人だ。
物腰が柔らかく、誠実で、頭もいい。人間としての美徳を、これでもかと詰め込んだような男である。
……しばしば物を置き忘れたりと間の抜けたところがあるのは愛嬌というものだろう。
個人的にはこいつは好きだし、一緒に過ごす時間も楽しい。
それに……俺は今、こいつにどうしても聞きたいことがあった。

「で……その、彼女とはうまくいってるのか?」
「うん? 珍しいね、そっちからその話題振ってくるなんて」

詳しい経緯はわからないのだが、こいつは今、あの妖怪寺……命蓮寺に世話になっているのだ。
しかも寺の妖怪の一人と懇ろになっているらしく、最近は会うたびに惚気話を聞かせてきていた。
以前の俺には正直耳障りでしかなかったのだが……今は、こいつの話を少しでも参考にしたかった。

「そうだな……星さんとは仲良くやっていけてるよ。それでナズーリンさんから、暑苦しいからベタベタするなって言われたり……」
「そういうのじゃなくて……将来のこととか、考えてないのか?」

にやける彼を制したものの、自分でも意味のわからない質問をしてしまった。
質問の仕方を吟味しようかとも思ったが、ふと見るとこいつは真剣に返答を考えているようだ。
そういうのじゃないんだよ、と慌てて訂正し、正直に話す決心を固めた。

「実は……俺も、恋人ができたんだ」
「ほ、本当に!?」

素っ頓狂な声を上げられたので肝が冷えてしまったが、周りの人は特に気にしてはいないようだ。
声を抑えるように合図して、話を続ける。

「恋人ができたんだが……その人は、人間じゃないんだ」
「それって……そうか、君も……でも、それが何であんな質問に?」

悩んでいた。
別に他人のいちゃつき方を根掘り葉掘り聞きたかったわけではない。
ただ……同じ立場の人間の言葉を聞きたかった。
否定にせよ肯定にせよ、背中を押してくれるものが欲しかった。

「人間を辞めるって……どんなものなのかな……」





あの日以来、俺と神子様の距離は一気に縮まった。
怪我が完治するまでは神霊廟の一室に厄介になっていたが、神子様はかなり時間を割いて側にいてくれた。
包帯を替えてくれたり、傷の治りを早くする術を定期的にかけてくれたり。
傷が痛む時には、食事の補助もしてくれていたのだが……

「ほら、あーんしなさい」

……笑顔でこんなことを言われたのだから、俺の困惑も察してほしい。
傷が癒えて食事に差支えなくなってからはそれも無くなった……のだが。
傷が治ってそろそろ家に帰れる……となったとき、俺は再び困らされることになる。

「長屋じゃなくてここに住めばいいじゃないか。広いし、家賃も取らないよ」

……またもや笑顔でこんなことを言われたのだから、 俺の困惑も本当に察してほしい。
言っておくが、神子様がこんなことを宣った理由は(本人曰く)ちゃんとある。
俺の怪我の原因を作った人……霍青娥は、俺自身よくわかっているが何を仕出かすかわからない所がある。
神子様が俺に手を出さないように釘を刺したらしいのだが、隙を見て何か仕掛けてくる可能性はゼロではない。
そうならないように目の届くところに俺を置いておきたい……とのことだった。
……結論から言うと、俺は神子様の提案を受けることになった。
いや、正確には拒む理由も無かったので押し切られたと言うべきか。情けないというのは、俺が一番思っている。
そんなわけで、俺はその日のうちに長屋を引き払い、神霊廟に厄介になることになってしまった。

神霊廟での生活は快適なものだった。
部屋は広いし、人里にも簡単な術で自由に出ていける。
さらに良かったことは、神霊廟には夏も冬もないのだ。
長屋にいた時はまともな冷暖房もなく、夏は暑さに身悶えし、冬は寒さに縮こまる生活だった。
しかし、神霊廟には冷暖房がないにも関わらず快適な温度が保たれているのだ。
不思議に思い、神子様に理由を尋ねてみたのだが……正直、ちんぷんかんぷんだった。
とりあえず、この神霊廟がある空間は幻想郷とも、その外の世界とも隔絶されている……とのことだった。四季とも無関係だから、いつでも過ごしやすい気候になっているらしい。
いや、俺にとってはそんなことは些細なことだ。
神霊廟に住んで一番良かったこと……それは何と言っても、神子様にいつでも会えることだ。
神子様は暇さえあれば俺の部屋に遊びに来てくれた。
茶を飲みながら他愛のない話をしたり、囲碁や将棋を指したり……やることは以前と同じだったが、一つだけ違うことがあった。

「ふふ、○○君は温かいね……」

最近、神子様は俺の隙を見て抱きついてきたり、もたれかかってきたり……とにかく、やたらとくっついてくるのだ。
嬉しくないわけではない。むしろ超嬉しい。
神子様の体は服越しでも柔らかさや温かさが伝わってくるし、何とも言えないいい香りがする。二人きりでいると、たまらなく幸せな気分になれる。
だがそれ以上に嬉しいのは、そうしていることで二人の気持ちが通じ合えたと実感出来ることだ。
片思いではなかった、神子様が振り向いてくれた。それが何よりも幸せで……
そしてそれが、同時に俺の不安をかき立てるのだ。

神霊廟に厄介になって間もない頃、ある夜に夢を見た。
夢の中では、俺は痩せ細って床に臥せている老人だった。
わけもわからず、唯一動く首だけを横に向けると……そこには神子様が座っていた。
しかし、その姿は俺とは違っていた。
小柄で華奢な体も、あどけなさの残る相貌も……時間が止まったように、俺の記憶の彼女そのままだった。
話しかけようとした、が、声が出ない。
俺が声を出そうと悪戦苦闘しているのを知ってか知らずか、神子様は悲しげな眼で見下ろすだけだ。
叫びたいほど恐ろしいのに、口も、喉も、全く力が入らない。
もがけばもがくほど、目がかすみ、体の力が抜けていき……
何も感じなくなった所で、目が覚めた。全く暑くなんてないのに、体中に汗をかいていた。
何度もただの夢だと思おうとした。しかし、その都度不安は強くなっていった。
いや、とっくの昔に気づいていたのかもしれない。あんな夢を見たのも、心の奥底に不安があったからなのか。
不思議な術を操る仙人は、人間を超越した存在である。ならばその寿命も、人間と変わらない道理はない。
どれだけ愛を育んだとしても……いずれ俺は、神子様を残して逝ってしまうのだ。





「おはよう、精が出るな」

床の拭き掃除を終えて一息ついていると、屠自古さんに声をかけられた。
屠自古さんは神子様の信頼の厚い部下の一人だ。見た目は可愛らしい女の子だが、口を開くとやたら気風がいい。
面倒見がいい所もあり、神霊廟に住むようになってからは色々と世話を焼いてくれる。

「やってくれるのは嬉しいんだが……わざわざ面倒なことする必要はないんだぞ?」
「そんな気使わないでください。居候させてもらってるんだから、ゴロゴロしてられませんよ」

住まわせてもらっているせめてもの恩返しとして、俺は定期的に神霊廟の掃除をさせてもらっている。
だだっ広い神霊廟の掃除は中々に骨が折れるが、暇を持て余してだらけたり、神子様といちゃついているよりは健全だろう。

「そうだぞ屠自古! 本人がやりたいと言っておるのだから好きにやらせておけば良い!」

元気のいい声とともに、布都さんが屠自古さんの背後から顔を出した。
彼女も屠自古さんと同じく、神子様に近しい人なのだが……神子様や屠自古様に比べると、その言動は子供っぽい。

「物部ぇ! 貴様は気遣いというのを知らんのか!」
「何を言うか! お主も今まで掃除など門下に丸投げしていたくせに!」

二人がこうやって罵り合うのは珍しいことではない。
最初はささいなことで口喧嘩を始める様子に辟易したものだが、彼女たちにとってはこれが挨拶代わりなのだ。
それに、変に取り繕わずにありのままの姿を見せてくれるということは、それなりに俺を受け入れてくれているのだろう。
仲が良いんだな、と思った。
きっとこの二人は、これからもこうしていくんだろう。
いつまでもこうして、変わらないままで……

「お、おい○○、大丈夫か……?」

心配そうな屠自古さんの声で、はっと気がつく。
どうやら知らず知らずのうちに暗い表情になっていたらしい。
何でもない、と立ち去ろうとして、ふと思いとどまる。
神子様曰く、この二人もかつては人間ではあったが、神子様と同じ方法で人間を超えようとしたらしい。
……彼女達であれば、俺の悩みに答えを出してくれるかもしれない。
二人の顔を見た。暗い顔になったと思ったら真剣な顔になったからだろうか、二人とも首を傾げている。

「お二人とも……ちょっと、お話したいことがあるんです」



二人は俺の話を親身になって聞いてくれた。
心の整理がつかず、要領を得なくなった所もあったのだが、それでも黙って聞いてくれていたのはありがたかった。

「太子様を悲しませたくないと……そう言ってくれるんだな」

話し終わった後、長い沈黙を挟んで屠自古さんが口を開いた。
布都さんは押し黙っている。腕を組み、口を真一文字に結んだままだ。

「方法は……ある。仙人であれ魔法使いであれ、人間を超える力を持つということは人間とは違う生命、違う寿命を得ることだ。」
「仙人になるというのであれば、私は止めはしない。太子様の悲しむ姿は見たくないからな」

屠自古さんの優しい心が、柔らかい語調から伝わってくる。
やはり神子様と同じ存在……仙人になるのが一番の解決策だろう。
しかしそれは決して近道でも、ましてや平坦な道のりでもない。青娥につけられたものとは比べ物にならない過酷な修行をしなければならない。
だが……それが何だというのだ。
どんな辛い修行でも、神子様と離れ離れになる苦しみと比べれば……

「おいお主、もう人間を辞める決心をしたのではあるまいな。だとしたら浅はかにもほどがあるぞ」

突然の言葉に、思考が凍りつく。
屠自古さんは横を向いていたが、その横顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
言葉の主……布都さんは腕組みを崩さない。
俺達の視線も意に介さない、その泰然とした様子は、いつもの騒がしさからは想像もできない。

「お主、友達はいるか? 家族は? 我らと同じになるというのは、その者らとは違う世界の住人になることなのだぞ」

一言一言が、冷徹に俺の心を突き刺す。
そうだ、仙人の生を得れば、人間と同じ時間を過ごすことはできない。
友人が老いて死んでいくのを見送りながら、悠久の時を過ごしていく……本当にそれでいいのだろうか。人としてあるべき道なのだろうか。

「悩んでおるようだな、ではやめておけ。我の言葉に揺らぐ程度の覚悟など、捨ててしまえばいい」
「物部、そんな言い方は……」
「よく考えろ屠自古よ、本人や太子様が望むことであれば、それが絶対的に正しいというわけではあるまい」

……返す言葉が見つからない。
俺はどうしようもない甘ったれだ。惚れた女性のために人生を捧げる覚悟をしていたはずが、いざ人生のことを引き合いに出されて決心が鈍るなんて。
情けなさにいたたまれなくなり、短く礼を述べてそそくさと部屋に戻ってしまった。
屠自古さんが引き止めてくれたが、振り向く気にはなれなかった。
その夜は、全く眠れなかった。





酒を飲むのも忘れて、俺は話した。話し続けた。
話し終えた時には夕陽はとっくに沈み、酒場にも人が溢れ始めていた。
彼は静かに話を聞いてくれていた。そして俺の口が閉じるのを見計らって焼酎を一口飲み……ふぅ、と息を吐いた。

「残念だけど……それについては、僕の口からは何も言えない」

静かだが、その言葉には有無を言わせない力が篭っていた。
やはり、いきなりこんなことを言われても迷惑なだけだったか。
俯いていると、ぽん、と肩に手をおかれた。見上げてみると、彼が真剣な顔で身を乗り出している。

「誤解するなよ。君の問題に決着をつけるのは君しかいない。他人が答えをくれるなんて、大間違いだからな」

肩を掴まれたまま、まっすぐ瞳を見つめられた。
……その通りだ。屠自古さんも布都さんも、俺に意見は言っても、指図はしなかった。
最後に決めるのは俺自身。二人とも、考えの違いこそあれど、それをわかってくれていたのだ。

「今度博麗神社で夏祭りがあるだろ、彼女さんを誘ってみなよ。自分の気持ちを再確認すれば、答えも見えてくるんじゃないか」
「……ありがとう」

いい友人を持ったと、心から思った。
彼はきっと、俺がどんな決断をしても頷いてくれるはずだ。
明日、真っ先に神子様を祭りに誘おう。
今日はただ、この素晴らしい友と心ゆくまで飲み交わしたかった。





俺の誘いを神子様は快く承諾してくれた。
話に聞くと、件の夏祭りは人間だけでなく神社の巫女と顔馴染みの妖怪が沢山顔を出すらしい。
無論、神子様も巫女とは知り合いだ。だが、去年に遊びに行った時は目の前で恋人といちゃつかれ、それは肩身の狭い思いをしたらしい。

「今回は自慢の恋人を連れて行くんだからね。もう大きい顔はさせないよ」

神子様の愛情表現はやたら直球である。いつもの事ではあるが、面と向かって言われると未だに気恥ずかしくなってしまう。
そして当日、身支度を済ませて自室に現れた神子様に、俺はただ見惚れるしかなかった。

「神子様……すごく綺麗です」

紫色を基調にした浴衣は、色白な神子様の美貌をより美しく、可愛らしく引き立たせている。
薄く化粧をしているようで、表情からはいつもと違った大人っぽい魅力を漂わせている。

「気に入ってくれたようで嬉しいよ。さあ、今日は君にエスコートしてもらおうかな」
「分かりました。では行きましょう」

神子様が差し出した手に手を重ねた。
精神を統一し、頭の中で術を組み上げる。
瞬間、床が抜けたような浮遊感に襲われる。目に映るのは、天も地も存在しない、只々空白の世界。
神霊廟に暮らして以降、この「抜け道」を通った回数は数知れない。だが、どうしてもこの妙な感覚は好きになれなかった。
時間にしては一瞬だが、数分にも、はたまたそれ以上にも思える空間移動の先は……幻想郷の人里、博麗神社にほど近い民家の物陰だ。

「尻餅はつかなかったね、感心感心」
「神子様の前で同じ無様は晒せませんから」

からかうような神子様の言葉にカウンターを決め、辺りの様子を伺う。
人影がいなくなった瞬間を見計らって、通りに躍り出た。神子様の手はしっかりと握っている。

「君にこうされていると、あの時のことを思い出すな」

あの時のこと……俺と神子様が出会うきっかけとなった出来事。
その言葉に俺の記憶が刺激される。まるで懐かしいことのように、しかし不思議と鮮明にあの夜が思い出せた。
ふと夜空を見上げると……奇しくも満月。あの夜と同じ月が浮かんでいた。

(運命的、だな)

やはり満月のせいか、妙にセンチメンタルな気分になってしまう。
しばらくぼんやりと夜空を眺めた後……神子様に急かされ、二人一緒に博麗神社へと歩きだした。



「すごいな、これは……」

長い石段を昇り切ると、目に飛び込んだ光景に驚かされた。
境内は然程広くないが、そこには大勢の人……そして人ならざる者がひしめいている。
動物の耳が生えたり、翼や尻尾を生やした連中が人間に混ざって楽しんでいる様子は、この幻想郷という世界がどういうものかを端的に示していると言えるだろう。

「こんばんは○○君、その人が例の彼女さんかい?」

ぽかんとしていると、不意に声をかけられた。
声の方に振り返ると……俺を祭りに誘った張本人、彼が立っていた。傍らには黄色の浴衣に身を包んだ女性を連れている。この人が彼の恋人、寅丸星なのだろう。

「はじめまして、○○君の友人、の……」
「ああぁっ! あ、あなたは!」

神子様の顔を見た二人の表情がほぼ同時に凍りつく。
無理もあるまい、彼にとっては人里で散々噂になった聖人。彼女にとっては寺の仲間と幾度となく鎬を削った相手だ。
二人とも、よもやこんな所でばったり出会うとは予想もしていなかっただろう。

「はじめまして、○○君のお友達だね。豊聡耳神子と言うものです……そっちの彼女は、もう知っているかな?」

悪戯っぽい笑みを浮かべる神子様に対して、彼女は何とも言えない表情を浮かべたままだ。
事を構える気がないのはわかっているだろうが……警戒するのも無理はない。

「住職はいないのかい? もし良ければ、一緒に見て回ろうと……」
「しょ……星さん、あれ見て! 何か美味しそうなものが売ってるよ!」

言うが早いか、彼は突然星さんの手を引き、足早に屋台に向かっていった。
立ち去る途中でちらりとこちらを振り返ったのだが……その申し訳なさそうな表情は、遠目からでもしっかりと見て取れた。

(あいつ、逃げやがったな……)

まあ、彼の気持ちはわからないでもない。もしも神子様と住職が顔を合わせていたら、二人の胃が痛くなっていたことは確実だろう。

「変わった友人を持ってるんだね」

不思議そうな神子様の言葉に、曖昧な笑いで答える。
あなたがいなければ良い奴なんですが、とは言えなかった。



「あーっ、楽しかった! 少し休もうか、○○君」

一通り屋台を回ったあと、神子様の言葉に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
最初は彼女をうまくエスコートできていたのだが、段々神子様の元気さについていけなくなり、最終的には引っ張られるがままだったからだ。
しかし、休もうという提案には賛成だが……境内には人が溢れていて、一息つくには騒がしすぎる」

「一回里に下りますか? それも少し骨ですけど……」
「大丈夫だよ。いい場所があるから、ついてきなさい」

すると、神子様はいきなり手を回し、俺にしがみつくような体勢になった。
そして声を上げる間もなく、ふわりと宙に浮き……少し飛んで、神社の屋根に着地してしまった。

「これ……大丈夫なんですか? 巫女に怒られるんじゃ……」
「巫女の顔見知りはみんなそんなこと気にしないよ。周りから見えないように、結界も張ってあげたからね」

そういう問題ではないとも思ったが……疲れに負けて、結局そこに腰を下ろした。
神子様の結界は完璧なようで、眼下の雑踏は聞こえてくるものの、屋根の上の俺達を見咎めるものは誰もいない。
不思議な感覚にむず痒さを感じていると……ぽん、と神子様が頭を肩にもたげてきた。

「今日は誘ってくれてありがとう、○○君。本当に嬉しかったし、楽しかったよ」
「そう言ってもらえると、嬉しいです。いつもと違う神子様も見れましたしね」

ゆっくりと神子様の肩に手を回し、軽く抱き寄せる。こんな気障な仕草も、最近は自然に出来るようになった。
幸せだ。本当に幸せで……
そして、恐ろしかった。

(ずっと……ずっとこのまま、一緒にいたい)
(でも……俺は人間なんだ。人間として生きてきて、人間の友達がいるんだ)

伝わってくる神子様の温かさすら、体を蝕む毒のように錯覚する。
不安、葛藤、恐怖、そして自己嫌悪。
溢れ出す負の感情に、心が張り裂けそうになった……その時。

「○○君……聞いてほしいことがあるんだ」

耳に飛び込む穏やかな声に、ふと我に返る。
傍らの神子様に目をやると、透き通った瞳と視線が合わさった。

「今まで黙っていたけど……○○君がずっと悩んでいたこと、私、知っていたんだよ」

予想だにしなかった言葉に、脳天を打ち付けられたような衝撃を受けた。
俺の困惑を知ってか知らずか、神子様は話し続ける。

「私には人の欲望を聞く力がある……口からの声に限らず、心の声もね。○○君にも言っただろう?」

そうだ。以前に神子様が何故聖人と呼ばれているのか、その所以を聞いてみたことがある。
その時は既に神子様と恋人になっていたため、昔の事をからかわれるだけで済んだのだが……

「でも、俺は悩んでただけです。欲なんて……」
「悩みというのは、欲と欲の対立から生まれるもの。君と一緒にいる時は、いつも君の二つの欲が聞こえていた」

……何て、間抜けな話だ。
俺は神子様と過ごしている時には、いつも彼女に向けて悩みを垂れ流していたことになる。
だとしたら、神子様は俺に何を伝えたいのだ。
何を………俺に、望むのというのだ。

「君は……人間のままでいるべきだ。それが、きっと君の幸せなんだと思う」

……驚愕と困惑、そして、妙な納得感があった。
神子様は心優しい人だ。それは一緒に過ごして、痛いほどわかっている。
自分と一緒の人生を送る。ただそれだけのために人間としての生を捨てるなど、神子様は絶対に肯定しないだろう。
でも……それでも、個人的にはショックだった。

「俺が年をとって、爺さんになっても……神子様は側にいてくれますか?」
「……もちろんだ。どんな姿になろうが、君は君だろう」

恨みがましいと言われれば、ぐうの音も出ない。
だが抑え切れなかった。自分でも何を言っているのかわからないまま、次々と言葉が口をつく。

「ボケて、神子様のこともわからなくなったら」
「その程度で忘れられるほど……浅い付き合いじゃ、ない、はずだ」
「病気で、布団から動けなくなったりしたら」
「わ、私がずっと、ついていてあげる、から」
「俺が……死んだら、神子様は……」

「やめてくれぇっ!!」

……一瞬、何が起こったかわからなかった。
神子様の方を見ると、頭を抱えるようにして耳をふさぎ、深く俯いている。

「君は……君は卑怯だ! なんで、なんでそんな……そんなこと、言われたら……」

神子様が顔を上げる。
夜の闇には、とっくに目が慣れている。俺の方に向き直った彼女の目尻には……涙が、浮かんでいた。

「許さない、許さないぞ。人間をやめるなんて……君は、人間のままで、いいんだ」

話す側から、涙が頬を零れ落ちていた。。
…その瞬間、はっきり理解した。
神子様は自分の気持ちを圧し殺し、俺を人間のままでいさせようとしたのだ。
たとえそれで、自分の心に深い悲しみを残すとしても……俺の人間としての幸せを守るために。
今まで黙っていたのも、何度も何度も考えていたからなのだろう。

「神子っ!」
「……っ!?」

反射的に、彼女を抱きしめていた。
迷いは晴れた。
俺の本当の気持ちも、進むべき道も、今ならばはっきりとわかる。

「神子様、俺は人間を辞めます。人間を辞めて、あなたと添い遂げる」
「ふ……ふざけるな。私の言ったことがわからなかったのか!?」
「わかりますよ。でも俺は、あえてそれに逆らう……あなたのために」
「わ、私が君に修行をつけると思っているのか!? 何も教えてやるものか!」
「屠自古さんや布都さんに教えてもらいますよ。それでも駄目だったら、自力で何とかしてみせます」
「き……嫌いになるぞ。絶交だ。私に逆らう○○君なんて嫌いだ……」
「……そう言えば、言葉に出して言ったことなかったですよね。この機会に言っておきます」

すっと彼女から離れ、顔を覗き込む。
くしゃくしゃの泣き顔。俺のせいでこうなったと思うと、不謹慎かもしれないが妙に嬉しくて……そして、たまらなく愛おしかった。



「神子様……大好きです。ずっと前から、そしてこれからも……」



……その時の神子様の表情を、俺は何十年経っても、いや、悠久の時を経ても忘れないだろう。
泣き顔が一瞬、きょとんとした表情に変わり……一気に、真っ赤に染まった。
まるで魚のように口をぱくぱくさせた後……色々と耐え切れなかったのか、ばっと顔を覆ってしまった。

「な、何でこんな時に……君は……」
「いつも同じようなこと言ってくる癖に、いざ言われると怯むんですね」

神子様は膝に目を落とし、所在なさげに足をぱたぱたさせている。
だが……もう、泣いてはいなかった。
しばらくの間、二人共何も喋らなかった。
祭りの客は全く減らないようだが、その声も不思議と遠くに感じられた。

「私だって、色々考えたんだよ」

沈黙を破ったのは、神子様だった。
彼女が俺に向き直るのも、俺が彼女に向き直るのも、ほぼ同時だった。

「私をここまで悩ませておいて、結局自己完結するなんて、屈辱的にも程が有るわ」

言葉とは正反対に、神子様はじりじりとこちらに距離を詰めてくる。
右腕に左腕が絡められた。間近に迫った彼女の顔に、鼓動が早まるのを感じる。

「絶対、絶対に、離さないから……覚悟はできてるの?」
「もちろんです。俺は、ずっと神子様のものです」

どちらからともなく、ゆっくりと顔が近づく。
音も、光も、余計なものは何も感じなかった。
全てが静止したかのように思える中、俺の唇と神子様の唇が……



「……なにやってんの、あんたら」



突如割り込んだ不機嫌な声に、弾かれるように身を離す。
正面を見ると、この神社の主……博麗の巫女が、ふわふわと宙に浮いていた。

「は、博麗の巫女!? 何でお前が……」
「結界の中は見えなくても、結界があることくらいわかるわよ。どこの馬鹿がこんなことしてると思ったら……」

巫女は腕組みを崩さず、落ち着きなく人差し指を動かしている。その表情も、苛立ちを隠そうともしていない。
……相当、怒っている。
なんとか穏便にすませたほうがよさそうだ……と思っていたその時。

「恋人たちの一時を邪魔するなんて風流じゃないな、霊夢。その調子では、君の男は苦労していそうだ」
「……余、計な、お世話だあああああぁぁぁぁぁっ!!」

神子様の言葉に、巫女の霊力が爆発的に膨れ上がった。
それに負けじと、神子様も本気の術の構えを取り……
そして俺は間一髪で、神子様を連れて神霊廟に逃げ帰ったのだった。





「はーっ、はーっ……な、何考えてんですか神子様!! あいつ本気でキレてましたよ!!」
「大丈夫だよ、あの程度の攻撃なら相殺できてたからね。今頃はきれいな花火が上がってるんじゃないかな」

このマイペース……どうやらいつもの神子様が帰ってきたようだ。
あっけらかんと笑う姿に頭を抱えたが、元気になってくれたのは素直に嬉しい。
さてこれからどうするか……と思案していると、神子様がするすると近づいてきた。

「あんな情熱的な告白をした上、自分の部屋に連れ込むなんて……君も中々大胆だね」
「なっ……と、咄嗟に思い浮かべただけです! 他意はありませんから!」

神子様はにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべているだけで、俺の反論には応えない。
とにかく逃げようと思って猛スピードで抜け道を開いたのが仇になってしまったようだ。
少し距離を取ろうと思ったが……いつの間にかがっちりと抱きつかれて、逃げられなくなってしまっていた。
言葉に窮す俺の耳元で、神子様がそっと囁く。

「さっきの、続きをしないか? なんなら、そのもっと先まで……」
「……そ、それは流石に、早くないですか、神子様?」
「神子、と呼びなさい。敬語も使っちゃ駄目」
「……あー、その……本当に良いのか、神子?」

灯りもついていない部屋は、どこまでも静かだ。
耳に響くのは自分の心臓の鼓動と、二人分の息遣いのみ。
神子様……いや、神子は少しの間顔を伏せた後……微笑みながら顔を上げた。

「君が私のものであるように、私も君だけのものだから……思う存分、欲をぶつけて……?」

……もう、限界だった。
彼女の肩に手を添え、優しく畳に押し倒す。
そして少しの間見つめ合い……覆い被さるように、唇を重ねあわせた。



ずっと、こうしていたいと思った。

いや、ずっとこうして、共に歩んでいくのだ。

俺は真っ暗な部屋の中で、いつまでも光り輝く、二人の未来を見据えていた。



Megalith 2015/05/17,2015/06/12,2015/07/11,2015/08/15
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年02月11日 17:21