「ん……ふぁあ」

 冬の寒さもいつしか和らぎ、日の光が眩しく溌剌とした空気が漂う朝の時間帯。
 私は布団の中で覚醒と睡眠の狭間を泳いでいた。
 起きているのか、寝ているのか、曖昧な感覚。
 このまま現実と夢の境界を永遠に楽しんでいたい、と夢想していた時、

「んぁっ!?」

 地を揺らすほどの大きな音が、家全体に鳴り響いた。

「っ……何の騒ぎだ」

 明滅していた意識が瞬時に浮上する。
 被っていた布団を剥ぎ、飛び上がるように体を起こして、音のする方を見据えた。
 すわ敵襲かと身構えるが、寝込みを襲われるほどの恨みを買った経験に覚えはない。
 一体何だって言うんだ……

 音の発生源は玄関で、どうやら戸を強く叩いているらしい。
 わずかに聞こえるのは男の声。

 窓から入り込むのは光の強さから察するに、時刻は朝早。
 来客には適さない時間。
 ここを尋ねて来る用事のある者は限られる。
 その中でも比較的訪問の頻度が高いのが、主人の寅丸星だが、
 彼女がここを尋ねるのであればもう少し常識的な時間を選ぶはずだ。
 それに、生真面目な性格のあの方が、このような無作法極まりない呼び出し方を行うわけがない。
 そもそも、わずかに聞き取れる人の声は男性のそれだ。

 物盗りか、暴漢か。
 どちらにしても、返り討ちにするまでだ。

「全く……私の棲家に狙いをつけたこと、後悔して貰おうか」

 気配を殺しながらゆっくりと玄関へと近付く。
 得物であるロッドを握り締め、私は安眠を邪魔する不埒者への制裁を開始した。

「私の家に、何の、用かなっ!?」

 この家の戸は外開きになっているため、
 扉の進路上に物が置かれていた場合など、開ける際に接触することとなる。
 つまり、開ける力次第で武器にもなるということだ。

 戸に勢い良く体当たりして、そのまま外へと転がり出る。
 即座に体勢を立て直し、周囲を見回すが、そこには人はおろか動物の一匹も存在していなかった。

 あれだけ大きな音を立てていた元凶は影も形もない。
 あるのは朝露に濡れた草木と、苦労して建てた我が家のみ。
 先程の騒音が夢であったかのように、いつもと変わらぬ景色がそこには存在していた。

「おかしいな……確かに聞いたはずなんだが」

 周囲を見回してみても、人らしい姿は確認できない。
 辺りは小屋の周辺を除いて木々に覆われている。
 隠れようと思えばいくらでも隠れられるが、
 あの数瞬とも言える短い時間の中で移動することは不可能だ。

「妖怪の類か……」

 自分の知りえない妖怪が棲家を狙っているという想像に、身を震わせそうになる。
 使い魔であるネズミを集めて本格的に周辺の警戒にあたろうか、と思ったその時。

「……いたい」

 地獄の底から引きずり出されたような怨念に満ちた声が響いた後、
 質量を伴った鈍い音が聴こえてきた。

「!!?」

 音の方向は、自身の後方。
 つまり、棲家の玄関。

 既に内部に侵入されているのか!?
 私の目を掻い潜り、一箇所しかない出入り口から侵入されるなんて。
 相手は私の知覚で感知すらできないほどの存在なのか?

 得体の知れない恐怖が全身を包む。
 なぜ朝からこんな目に遭わなければならないんだ……
 世の不条理に怨嗟の念を抱きつつ、後ろを振り返ると、

「いたい……たすけ……」

 戸と外壁に挟まれ、満身創痍となった長身の男が、地面を這いながら助けを求めていた。



「……で、こんな朝早くから何の用かな?」

 部屋の中心に据えられた卓を挟んで相対する私達。

 早朝から来訪した男に敵意はなく、
 強く戸を叩いたのも中々出てこない私に痺れを切らしてとのことだった。
 悪意があったわけではなく、怪我で息も絶え絶えの中で謝罪したことから、
 不承不承ながら治療を施すことにした。

 騒動から三十分程経って、ようやく私達は会話をすることに漕ぎ着けた。

「寅丸星様からこちらを預かっている」

 顔の所々に絆創膏を貼り付けた男は、痛みに顔をしかめながら懐から手紙を取り出し、手渡してきた。

「なんだい郵便屋かい? そうならそうと言ってくれれば良かったのに」

「殺意を持って戸を開けたのはあなただろうが……」

「君が大きな物音を立てたからだろう? せっかく気持ち良く寝ていたっていうのに……」

「そちらに関しては謝罪するが……」

 ばつが悪そうに肩をすくめる男を鼻であしらう。
 一日の中で最も気持ちの良い瞬間とも言える、寝起きの微睡みを邪魔するものは、
 たとえ主人の遣いであろうと許されるものではないのだ。

「まったく、ご主人様はわざわざ手紙なんてよこして何をさせたいんだか……」

 丁寧に糊付けされた便箋の封を解き、内容を確認する。



 ナズーリン様江

 春の足音が聞こえつつも、
 未だ暖かさは遠い昨今、如何お過ごしですか?
 私達は皆息災にしています。

 最近は入信を希望する方々が命蓮寺へ多く来訪し、忙しい日々が続いています。
 中々ナズーリンとも会うことができず、寂しさは募るばかりです。
 そこで、最近市井の方々の中で流行している、文通というものを始めてみようと思いました。

 業務上の報告や連絡ではなく、日々の出来事や思いを文にしたためるというのです。
 なんて素敵なんでしょうか!
 人々はこんな素晴らしい文化を育んでいるのかと、私は驚いてしまいました。

 ですので、ナズーリンも日々思ったこと、何でも構いません。
 文にしたためて、私に送って下さい。

 こうして普段と違うことをしてみると、心が高鳴ってしまいますね。
 お返事、お待ちしています。

 寅丸星



「……はっ」

 あまりにも唐突且つ薄い内容に、意味を理解するまで三十秒ほどの時を要してしまった。

「ご主人様は……」

「……どうかしたのか?」

「ご主人様はこんな手紙を私に送るために、わざわざ君を遣わせたのかい?」

「ああ、そうだが……」

「はあぁ……」

 主人の気まぐれに若干の呆れを滲ませたため息を吐く。
 まったく、この手紙を書いた気力を仕事に注いでもらいたいものだ。

「返事はいつでも良いと言付かっているが如何されるか?」

 懐から便箋と筆を取り出す男。

「随分と用意良いんだな」

「面と向かって褒められると照れてしまうな」

「褒めてないからなっっ!!」

 男が差し出した便箋と筆をひったくるように受け取り、
 そこから流れるような手つきで手紙を書き上げた。

「ほら、こんなもんでいいかい?」

 数分も経たない内に手紙を書き終える。
 男の顔の前に紙を掲げ、内容を確認させた。

「随分と早く書き上げたな。内容はこちらでよろしいのか?」

「構わないよ」

 手紙の内容は、時候の挨拶と自身の近況、相手への配慮を伺わせる言葉で締めくくった。
 上役への手紙の内容としては申し分ないが、いささか形式的とも思える内容。
 ご主人様が私に宛てた手紙との温度差は、一目見ても明らかだった。

「いいのか? こんな簡素な文章で」

「あのご主人にはこれぐらいが丁度いい」

 怪訝そうに問いかける男から顔を背け、不機嫌に答える。

「あなた達は随分と不思議な主従関係なんだな」

「色々あるんでね……」

 話を終わらせるために席を立つ。
 便箋を懐にしまった男もそれに続いた。

「手紙は確かに受け取った。寅丸星様が返事を書かれたらまた届けに参る」

「はいはい宜しく頼むよー」

 気のない返事と手首を振る仕草で男に退出を促す。
 私に背を向けて、玄関へと歩き出す男。
 しかし、歩みは途中で止められ、彼は後ろを振り返った。

「まだ何か用かい?」

 二度寝を貪ろうと布団に向かっていた足を止めて問いかける。

「まだ名乗っていなかったのを思い出してな。私は○○、里で万屋をやっている」

「万屋?」

「何でも屋だ。何かあったら申し付けてくれ。あなたはナズーリンでよろしいか?」

「そうだよ。手紙はこれからも君が届けてくれるのかい?」

「寅丸星様の依頼がある限りはそうなるな」

「そうか。あまり宜しくしたくないけど、宜しく頼むよ、○○」

「ああ。ではな」

 そう言い残し、外に出た○○は後ろ手で扉を閉める。

 が、先程私が勢い良く開けた戸はしっかりと歪み、閉まることを拒否していた。
 屋内へと戻り、思い切り扉を引く○○。
 しかし扉ははまらない。

 私は悪戦苦闘する○○の傍に行き、彼の肩に手を乗せる。

「万屋、早速依頼だ。壊れた原因は半分君にあるんだから、費用が掛かるなんて言ってくれるなよ?」

 一人だけ逃げるのは許さない旨を、言葉と共に右手に込めた力を持って伝えた。

「……承知した」

 振り返らず、諦めを滲ませて返答する○○。
 私達は扉の立て付けを直すために、時計の分針が二巡するほどの時間を浪費することとなった。





 太陽が中天に昇る正午。
 私は部屋の真ん中に鎮座している卓に突っ伏し、怠惰を謳歌していた。

 命蓮寺が建立されて数年が経ち、その存在は幻想郷の住人達にも受入れられつつある。
 住職である聖白蓮をはじめ、命蓮寺の面々は日々信者達の相手に奔走しているようだ。
 自身の立場を考えれば、主人の手助けをするべきなのだろうが、
 私の本当の役目は時折星の様子を確認し、上役へと報告するお目付け役。 
 それ以外の時間は、自分の好きに使うべきなのだ。
 命蓮寺の仕事まで押し付けられてしまってはたまったものではない。

 そろそろ昼食にしようか、と体を起こした所に、戸を叩く音が聴こえてくる。

「○○だ。ナズーリンはいるか?」

 扉を叩きながら上がるのは男の声。
 里で万屋を営んでいる○○の声だ。

 ああ、来たのか。
 頭を抱えそうになるのを寸前で押さえる。

 扉を叩く力加減は前回より控えめで、常識の範囲内。
 問題はそこではない。彼が持ち込んでくる用事だ。

 ご主人様の気まぐれで始められた手紙のやりとり。

 手紙を受け取り、返事を出したのが昨日。
 そして、翌日返ってくる返信。

 文通の作法について詳しいことは知らないが、
 手紙というのはもっと一通一通に時間を掛けて大事に交換するものだと思うのだが、違うのだろうか?

「ナズーリン? いないのか?」

 そもそも、扉の前で昨日と変わらない調子で呼びかけているあの男もおかしい。
 命蓮寺の所在地は人間の里周辺。
 そこからこの家が建つ無縁塚まで、人間の足で歩けば数日は掛かるはずだ。
 そもそも、妖怪が跋扈する魔法の森を、普通の人間が踏破できるはずがない。
 彼は空が飛べるのか? それ以前に人間なのか?

 様々な思考が頭の中で渦巻いて痛みすら発している所に、
 段々と大きくなっている殴打音が拍車をかける。

「ナズーリン!! いないならいないで返事をしろっ!!」

「君は馬鹿かっ!! いない人間が返事できるわけないだろう!!」

 内に燻る怒りを転化したような大声が辺りに響く。

 そのまま大きな足音を立てて玄関へと向かい、乱暴に戸を開けた。

「なんだいるのではないか」

「君は少し堪え性を身に着けた方がいいと思うよ」

 機嫌の悪さを隠さずに悪態をつく。

「何を怒っているんだ……?」

「自分で考えろ。それより、手紙の件だろう? もう返事を持ってきたのかい?」

「そうだ」

「随分と持ってくるのが早いじゃないか」

「昨日の内に届けたらその場で返事を書かれてな。
 手紙の交換がお気に召されたようで、すぐに届けてくれと言われたんだ。
 お陰で寝ている暇がなかったな」

 幾らすぐと言われたからって、寝ずに駆けてくる奴がいるだろうか。
 真面目さも煮詰め過ぎるとただの馬鹿に成り果てるようだ。

「私が返事を書いたら君はすぐに命蓮寺に向かうのかい?」

「その通りだ」

「疲れないのか?」

「疲れる。そろそろ眠くなってきたな」

 だったら途中で休めよ、と聴こえないように呟いく。
 そして漏れ出るのは深い溜息。
 私は大仰にうな垂れた後、部屋の中へと踵を返し、玄関で立つ○○を手招きした。

「途中で野たれ死なれても目覚めが悪い。少し休んでいきなよ」



 再び卓を挟んで正対する私達。
 私はご主人様からの手紙に返事を書いていた。

 ご主人様の手紙は言葉の端々、文字のひとつひとつが喜びに彩られていた。
 聞いてもいないような日常の細かいことが、脈絡もなく羅列されている。
 誰かと雑談をする暇もなかったのだろうか。
 そう考えると、少し不憫に思えてくる。

 さすがに前回同様の簡素な文章を書くのは気が引ける。
 役目ではないとは言え、主人を差し置いて楽をしている身分。
 多少負い目を感じる所もある。
 せめて心の慰みにでもなれば、遠回しにではあるが主人を支えることとなるだろう。

 ○○が用意した便箋をにらみ付けながら内容を考えていた所に、
 前方から重量を感じさせる音と振動が伝わってきた。

 音の方向に視線を向けると、

「……ぐう」

 卓の向こうに座っていた○○が仰向けに倒れこんでいた。
 だらしなく緩んだ口元から、静かに寝息を立てている。

「言わんこっちゃない」

 思わず口を衝いて出てしまう。

 一昨日ご主人様から依頼を受けて以降、寝ずに命蓮寺と無縁塚を往復しているのだ。
 疲れないはずがない。
 不本意ではあるが、少し屋根を貸してやるとしよう。

「くかー」

 床の上に仰向けになって熟睡する○○。

「警戒心が全く感じられない寝姿だな……」

 会って間もない妖怪の棲家で無防備な姿を晒す彼に対し、口の端が釣り上がってしまう。
 恐らく、私の顔には呆れが多分に含まれた笑みが浮かんでいるのだろう。

「さて、まずはこっちを何とかしないとね……」

 狭い掘っ立て小屋の中に響く、筆記音と控えめな寝息。
 私は昼食を摂るのも忘れて、手紙を書き続けた。





「ナズーリン、いるか?」

 冬に比べ陽は長くなっているものの、まだまだ寒さ堪える春の夕刻。
 戸を叩く音もそこそこに、扉の外から問いかけられる。

「開いているよ」

「邪魔をする」

 ご主人様と文通を始めてから三週間が経っていた。

 その間に往復した手紙は六通、ほぼ三日に一回という間隔である。
 正直、そろそろ書く内容が尽きてきた感は否めない。

「そろそろご主人様も飽きてもらいたいものだが……」

 綺麗に糊付けされた封筒を見て、抑えきれなかった溜息が漏れ出れる。
 あきらめて封を開け、便箋を取り出した。

「寅丸星様はとても楽しそうでいらしたぞ」

「ああ、この内容を見ればわかるよ……」

 主人からの手紙を見て頭を抱えている所に、
 淹れたての茶が差し出される。

「台所を勝手に使わないでくれ」

「まあ気にするな」

「君が言って良い台詞ではない……」

 疲労困憊の○○に屋根を貸して以降、彼は手紙を届けに来た際必ず棲家に上がるようになっていた。
 回を重ねる毎に台所を使用したり、座布団を枕にして寝っころがったりと遠慮がなくなってきている。

 あの時は寝ずに駆け回っている○○を休ませるために宅に上げただけだ。
 別に家を好き勝手使って良いと許した訳ではない。

「あのなあ、いい加減私の棲家に上がるのは……」

「夕飯はまだ食べてないか?」

「はあっ?」

 私の言葉を遮った上に、謎の質問。
 これはもう追い出して良いやつだよな?

「もしまだならば私が調理しよう。途中で良質な山菜が採れてな」

「君の料理ねえ……食べられるものが出てくるか疑問なんだが」

「家で毎日作っている。味は保障しよう」

 そう長くない陽はとうに暮れて、辺りは宵闇に包まれている。
 夕飯を食べるには丁度良い頃合だった。
 自信があると自ら申し出ているんだ。
 味はそれなりなんだろう。

「ふうん……まあいいよ。作ってくれ」

「そうか。では台所と食材を少し借りるぞ」

「お茶を入れる時にも一声掛けて欲しいもんだが……」

 自分の分のお茶をそそくさと飲み干し、台所へと向かう○○。

 妙に馴れた手つきで調理する彼の背中を、
 私は手紙の返事を書くでもなくぼんやりと眺めていた。



「いただきます」
「いただきます」

 お膳に並べられた料理を前に、二人両手を合わせて食前の挨拶を行う。

 本日の献立は山菜を中心とした和膳のようだ。
 主菜はふきのとうの天ぷら、汁物はわらびと椎茸の味噌汁、
 ご飯はたけのこの炊き込みご飯だ。
 各品彩りも良く、立ち上る匂いが食欲をそそる。

「……これ、全部君が作ったのか?」

「私以外ここに誰がいるっていうんだ……」

 やけに時間が掛かると思っていたが、まさかこんな本格的なものが出てくるとは。
 常に仏頂面で、不器用そうなこの男が作ったものとは到底思えなかった。

「どれ……」

 まずは味噌汁の椀を取り、恐る恐る口に含む。

「……ふむ」

 香ばしい味噌の香りと、後から追い駆けてくる椎茸の風味が味に深みを出している。
 わらびもちゃんと灰汁抜きされており、嫌なえぐみもない。
 よくこの数時間で灰汁抜きできたな……

「どうだ?」

「……なかなかじゃないか。まあ他の品も食べてみないと評価は下せないけどね」

 続いて主菜であるふきのとうの天ぷらに、貴重な塩を振りかけて頂く。
 ちなみに味噌汁に使用している味噌も、炊き込みご飯に使用されているであろう醤油も貴重品だ。
 簡単に手に入るものではないというのに……随分盛大に使われてしまったものだ。

「はむ」

 できたてで湯気の立つ天ぷらにかぶりつく。
 歯ざわりの良い薄衣の下には、しゃきしゃきのふきのとう。
 二つの食感が口の中を楽しませる。
 さっぱりとした塩味と苦味を舌が感じた後に、野草独特の青々とした香りが鼻を抜ける。

「……」

「どうだ?」

 ○○の問い掛けを無視して炊き込みご飯へ。
 こちらは醤油が強く香っているが全体的に薄味でまとめられていた。。
 しかし、具には味がしっかり付いており、口に含んだ時の満足感は損なわれていない。

「……おいしい」

「そうか。口に合って良かった」

 抑揚なく呟いた言葉。
 しかし、その表情は普段より幾分柔らかい。
 感情をあまり表に出さないこの男でも、褒められると嬉しいんだな。

 ○○の料理を素直に褒めてしまったことが、負けを認めてしまったようで少し悔しかったが、
 そんな思考も目の前の料理に舌鼓を打っているうちに、どうでも良くなっていった。





「邪魔をするぞ」

 朝、棲家の掃除をしていると、○○が断りもなしに入ってくる。
 回を重ねる毎に遠慮のなさが増し、ついには戸を叩くことすらしなくなっていた。

「君は人の家に上がる時の作法も教わらなかったのかい……?」

「ああ、忘れていた」

 一度外に出て戸を叩く。

「今更やっても遅い」

「そうか。すまん」

「もういいよ……それで、今日も手紙だろ?」

 この男の不可解な行動は今に始まったことではない。
 付き合っていると無駄に疲れるだけなので、さっさと本題へと入る。

「そうだ。しかし、今回で手紙のやりとりは終わりのようだな」

「どういうことだい?」

 無言で手紙を差し出す○○。

 受け取り、封筒を開けて便箋を取り出す。

 内容を要約すると、忙しくて手紙を書いている暇がなくなった。
 ナズーリンと手紙を通して会話するのが、唯一とも言える楽しみであったのに残念で仕方がない。
 落ち着いたらまた手紙を出すとのことだった。

 かすれたような文字のひとつひとつに、主人の心の沈み加減が垣間見える。
 これまで手紙を書いた経験が乏しい身ではあったが、
 そんな私が書いた文章でも心の慰みになっていたことが感じられた。

 これで一つ肩の荷が下りた、という安堵感と共に広がる微量の寂寥。
 あまり認めたくない所だが、どうやら私自身もご主人様との文通を楽しんでいたようだ。
 気は進まないが、主人の仕事の手伝いがてら今度顔を見に行くとしよう。

「さて、私の仕事はこれで終わりだ」

「ん? ああ……」

 そうか、○○はご主人様に雇われた身。
 手紙の配達がなくなれば、彼はここにいる必要はない。

 そそくさと家を出て行こうとする○○。

 明日から彼は、ここには来ない。

 ご主人様との文通が再開するまでは。

 果たしてそれはいつになるのだろうか。

 一週間後?

 一月後?

 一年後?

 もしかしたら、ご主人様は文通のことなんか忘れてしまうかも知れない。

 そうなれば、彼はもう――

 ぼんやりとしていた思考が徐々に回転数を上げていく。

 ○○はすでに戸に手を掛け、外へと出ようとしていた。

 彼が棲家を出れば、何かが終わってしまう。

 理由の不明確な焦燥感に煽られた私の体は、反射的に動いていた。


「――あ、上がっていかないのかい?」


 気が付いたら、彼を引き止める言葉を口にしていた。

 不思議そうな顔をしている○○。

 私自身も咄嗟に出た言葉の意味が理解できずに立ち尽くす。

 声を掛けた方、掛けられた方共に、曖昧な表情で棒立ちとなっていた。

「……そうだな。お邪魔する」

 沈黙を破ったのは○○。
 視線はあさってな方向へと外され、握った右手の甲で鼻の下を擦っている。
 
 宙に浮かんだ私の発言は、どうやら彼の中でもどう解釈したらいいのか分からないようだった。
 しかし説明をしようとした所で、うまく言葉が出てこない。
 何しろ自分でも何故引き止めたのかわからないのだ。
 説明など、できるはずがない。

「ああ、今お茶を出すよ……」

 結局、自分の考えもわからないまま、彼を部屋へと通すこととなった。



「……」

「……」

 もう何度目だろうか。
 卓を挟んで彼と正対し、茶を啜る。

 彼は部屋に上がってから、お茶の礼以外一言も発していない。
 私も茶を出す際の「どうぞ」しか発していない。

 ○○は元々口数の多い方ではない。
 自分もそんなに積極的に話しかける方ではないため、
 彼を家に上げた時は、お互い無言でいることの方が多かったくらいだ。

 今まで沈黙が辛くなるようなことはなかった。
 しかし、今日の状況は今までと少し違うようだ。
 互いに視線を合わせないし、手足の仕草もせわしない。

「……」

「……」

 結局自分は何故呼び止めたのだろうか。
 理由は未だ不明瞭だ。
 
 配達に来た時はいつも休んでいっているから?
 日常の延長と考えると可能性は高い。
 いつも勝手に上がっていっていた○○が今日に限って帰ろうとするんだ。
 それは私が反応してしまうのも無理はない……気がする。

 ○○に朝食を作って貰おうとしたから?
 これも可能性は高い。
 彼は人に振舞えるほどの料理の腕を持っている。
 自分で作るよりうまいものが食べられるんだ、
 それなら呼び止めて朝食を作って貰う他ない。
 この家におおよそ食料と呼べる物が残っていないのは気のせいだろう。

 それとも、彼と話をする機会を失いたくなかったから呼び止めたとでもいうのか?
 ……やめだやめだ考えるにも値しない。
 色々考えていると頭が痛くなってくる。
 とにかく今はこの微妙な空気感を振り払うためにも、
 疑問に思っていることを聞くことにした。

「なあ、君はこれからどうするんだ?」

「どうする、とは?」

「仕事のことさ」

 恐らくではあるが、彼は今ご主人様に依頼されていた仕事しかしていない。

 以前里で万屋をやっていると聞いていたが、
 具体的に何をしているかは言及したことがなかった。

 ご主人様に遣わされた郵便屋の真似事は、
 命蓮寺と無縁塚の往復という人間には過ぎた仕事である。
 本来であれば辿り着くことすら難しいはずであるが、
 この男はそれを平然とやってのけていた。
 しかし、それでも片道一日の時を要するため、
 これ以外の仕事を掛け持ちすることは常識的に考えて不可能だ。

「そうだな……里でまた依頼を受ける」

「当てはあるのかい?」

「……ふむ」

 あごに手を当てて考える仕草をする○○。
 表情はいつもとそれほど変わらないが、
 瞳はせわしなく左右に動いている。

「当てはないんだね?」

「……そうだな」

 目は口ほどにものを言う。
 この男、一見表情が乏しく見えるが、
 瞳は内心を雄弁に語っている。

 少しはかわいい所があるじゃないか。
 無骨な印象が強い○○の意外な一面を垣間見て、内心優越感に浸る。

「そうか……」

「それがどうかしたのか?」

 何が言いたいのかわからない、という表情でこちらを見据える○○。

「いや、な……」

 自分が何を言おうとしているのか。
 一瞬理性が静止を掛けたが、私の体は止まらずに言葉を発していた。

「もし良かったら、私に雇われないか?」

「……」

 ○○の反応を待つが、彼はその場で身じろぎもせずに静止し続ける。
 反応がなければこちらも二の句を継ぐことができない。

「……」

「……」

 時が止まったような錯覚。
 ○○の表情に大きな変化はないが、眼球は忙しなく動いている。

「そんなに動揺しなくても大丈夫さ」

「む……動揺など、していない」

「眼球が上下左右に動いているよ」

「……」

「今更顔を背けたって遅い。
 君は心境が瞳によく表れるみたいだね」

「……覚えておこう」

 そう零してこちらから視線を外す○○。
 拗ねてるのか。
 わっかりやすいなあ。

「すまない、からかうつもりじゃなかったんだ。
 要は私の手伝いをしてほしいんだよ」

「手伝い……」

「そうだ。趣味と実益を兼ねた宝探しさ!」

「宝探し?」

「そう。私は探し物を探し当てる能力を持っている。
 それで、この無縁塚に眠る宝を探しているんだよ」

 私の発した言葉に、目を見開いて驚く○○。
 そういえば、私の能力について話をするのは初めてだったか。
 普通の人間は特別な力を持っていないというから、驚くのも無理はないのかもしれない。

「探し物を……そうか……」

「どうかしたのかい?」

「いや、なんでもない。続けてくれ」

「そう……それで、見つけた宝は物好きが買ってくれるから報酬も出せる。
 どうだ? 私の宝探しを手伝わないか?」

 先程覚えた一瞬のためらいは何処へ行ったのか。
 気付いたら○○を宝探しに付き合わせようとしていた。
 それもかなり熱っぽく。

 好きなものを語る時というのはどうしてこう前のめりになってしまうのか。
 以前ご主人様が酒の知識をひけらかしていた時に散々揶揄したものだが、
 これでは人のことを言えないではないか。

「質問がある」

「なんだい?」

「その能力はナズーリンが探したいと思ったものを見つけられるということか?」

「ああ。必ず……とは言えないが大体は見つけられるよ」

「そうか……」

「……? それがどうかしたのかい?」

 ○○は俯き、何かを考えるような、言いよどんでいるような仕草を見せる。

「では例えばだ、私が探して欲しいものを探し出す、ということも可能なのか?」

「そうだなあ……情報さえ揃えばできないことはないと思うけど……」

「そうか」

 力強く言葉を発した後、俯いていた顔を上げ、居住まいを正す○○。
 その瞳は何か強い意志を感じさせるように、真っ直ぐとこちらへ向けられている。

「ナズーリン、私にあなたの仕事を手伝わせて欲しい」

「やってくれるのかい?」

「ああ。ただ、一つお願いがある」

「お願い……?」

「そうだ。報酬は金ではなく、あなたの能力で私が探しているものを見つけて欲しいんだ」

「構わないよ。むしろ、そんなことでいいのかい?」

「ああ。それだけが、私の望みだ」

「そうか、じゃあ交渉成立だね。宜しく頼むよ」

「承知した」

 ああ、よかった。
 勢いに任せて出た言葉から、話は転がるようにまとまっていった。
 終わってみれば、なぜあの時躊躇したのかが不思議に思えてくる。

 この、彼の「お願い」を聞くことが、自身の生活……
 いや、生き方そのものを一変させることになるなんて。
 当時の私は、欠片も想像していなかったんだ。





「ん……」

 窓から差し込む強い日差しに瞼を焼かれ、意識が表面化していく。

「ああ、朝か……」

 起床時特有の倦怠感に囚われながら、一人呟く。

 徐々に覚醒していく五感の中で、最初に違和感を覚えたのは嗅覚だった。

「あれ……ご飯……?」

「ナズーリン、起きたのか?」

 とすとすと静かな足音で近づいて来たのは長身の男。
 頭に浮かんだのは、図体がでかいくせに静かに歩くんだな、というどうでもいいことだった。

「朝食できているぞ」

「ああ……」

 掠れた声で返事をする。

 段々と思い出してきた。
 昨日から、私達は共同生活を行っているんだ。



 昨日私の仕事を手伝うことが決まった後、具体的な話を詰めることになった。

 ○○は人間の里に住んでいるため、私の棲家がある無縁塚に来るまで、彼の足でおおよそ一日掛かる。
 それでも道程のことを考えれば人間離れした速さではあるが、何せ時間が掛かり過ぎる。

 私の棲家に居候させるというのが単純且つ最善の手なのだが、一つ大きな問題があった。
 部屋の間取りである。
 この掘っ立て小屋は一人で住むことを前提に建てたものだ。
 部屋に仕切りはないため、一緒に住むとなると、常に相手の存在を気することとなる。

 ○○は隣接する納屋で寝泊りすると言い出したが、私はその提案を断った。
 居住を念頭に置いていない納屋は朝夕冷え込み、昼は暑い。
 数日のうちに体調を崩すこととなるのは目に見えている。

 それに、こちらから誘った手前、明らかに住環境の悪い納屋で過ごさせるのは私の沽券に関わる。
 異性と同居することに抵抗はあるが相手は人間。
 無礼を働こうものなら、生きていること後悔する程の責め苦を与えてやればいい。
 こうして私達は同じ部屋で寝食を共にすることになったんだ。



「頂きます」

 今日の朝食は川魚の塩焼き、大根の味噌汁、ご飯の三品。

 どの品も家庭で出されるような優しい味付けがなされており、次々箸が進む。

「味はどうだ?」

「ああ、おいしいよ。君はどこで料理を覚えたんだい?」

 味付けもそうだが手際も妙にこなれている。
 若い男性のそれではない。

「同居人に毎日料理を手伝わされていたからな。気がついたら作れるようになっていた」

 少し顔を背けて呟く○○。

 語調には迷惑そうな色が含まれていたが、そう語る彼の眼差しはどこまでも優しい。

「ふうん……」

 その、一緒に住んでいた人というのは、女性、なのだろうか。

 意識した瞬間、肌が粟立つほどの焦燥感を覚えた。

 昨日苛まれた感情とは、少し違う感覚。
 ただ、根幹に流れるもの、原因とでも言うのだろうか。
 それが同じものであることは、なぜか理解できた。

「どうかしたのか?」

 私の顔を見据える○○。

 瞳は依然、慈しみを湛えたまま。

「……」

 その目を私に向けないでくれ、居心地が悪くなる。

「……なんでもないよ」

「ふむ……」

 喉まで出掛かった悪態を、私は味噌汁で無理繰り飲み下す。
 彼との生活は今日から始まるんだ。
 初日から相手への不満をぶつけるなんて悪手も悪手だ。
 腹立たしいが我慢することにする。
 何より腹立たしいのは、この苛立ちの理由がはっきりしないことだが。



「さて」

 後片付けを終えて、再び卓越しに対面する私達。
 食後の一服もそこそこに、今後の具体的な活動について彼に説明をすることとなった。

「私達はこれから宝探しを行う」

「ああ」

「宝……正確に言うと外の世界からの漂流物だね。
 詳しい説明は……実際探しながらにしようかな」

「具体的な方法は?」

「私の『探し物を探し当てる能力』を使い、
 めぼしい場所に当たりを付けて周辺を探すんだ。簡単だろう?」

「私は何をすればいいんだ?」

「君には私が当たりを付けた場所で宝を探して欲しいんだ。
 ただ探すだけだって侮っちゃいけないよ?
 たまに地中深くに宝が埋まってることがあったりして、結構体力を使うんだ」

「ふむ」

「君は命蓮寺と私の棲家を一日で走破できる体力があるんだ。
 できないとは言わせないよ?」

「ああ、まかせろ」

 力強く返答する○○。
 言葉数は少ないが、それが却って信用できると思えるのは、
 彼と重ねた時間が短くないことの証左なのだろうか。

「私の探し物と平行して、君の探しものも見つけたいと思ってる。
 君は何を探しているんだい?」

「……」

 問いかけられた○○は、しばらく黙考した後、
 やおら懐に手を入れ、小さな巾着を取り出した。

「これは?」

 差し出された巾着を手に取る。
 赤地に花をあしらった可愛らしい意匠で、
 軽く握ると細かい粒子が擦れるような手触りが返ってくる。
 極僅かに鼻腔をくすぐる白檀の香り。

「これは匂い袋かい?」

「そうだ」

 朱色というにはあせてしまっているものの、
 作りがしっかりしているのか、その華やかさは損なわれていない。

「何だって君が女性の装身具を持っているんだ?」

「これは……私の同居人の持ち物だ」

 やはり、女性だったのか。

 首筋がひりつくような感覚を訴えるが、今はそれに構っていられない。

「あ……ああ、先程言っていた料理を教わったという方か」

「そうだ」

 首肯する○○。

「それで、この匂い袋がどうかしたのかい?」

「ナズーリン。あなたにはこの匂い袋の持ち主の所持品を探して欲しいんだ」

「所持品? どういうことだい?」

「いや……な。文字通り所持していた物だ。物はなんであれ構わない。
 彼女が使っていた筆記用具であっても、着ていた衣服でも何でもいい。
 できるだけ多く見つけてやりたいんだ」

 なるほど。この匂い袋を手がかりに所持品を探してくれということなのか。
 しかし幾つかの疑問が浮かぶ。

「ふむ。立ち入ったことを聞いて悪いんだけど、何で所持品を探しているんだい?
 そもそも、無縁塚にそんなもの落ちているかも疑問だしね」

 おおよそ現世の人間達には関係のない場所。
 生きている人間の持ち物を探すというのは、的外れ以外の何者でもない。

「……数年前、幻想郷で大雨が続いたのを覚えているか?」

 言葉を探していたのか、少し間を置いて話し始める○○。

「ん……ああ、そういえばそんな年もあったね。
 人間の里にも大きな被害が出たそうじゃないか。
 それがどうかしたのかい?」

 数年前、類を見ないほどの大雨が幻想郷を襲った。
 河川が氾濫し、各地に大きな爪跡を残したと聞いている。

「ああ。私の故郷は山中の川の付近にあってな。
 あの長雨で川が氾濫して、集落ごと流されてしまったんだ」

「結構な大事じゃないか……集落の住人は無事だったのかい?」

「大半は事前に避難していたこともあって無事だったな」

「そうか……それで、家ごと持ち物が流されてしまったから、所持品を探しているということかい?」

「そういうことだ。何しろ規模が大きい洪水であったから、
 もしかしたらこちらまで流されているかもしれないと思ってな」

「なるほどね。まあ可能性は限りなく低いけど、君が望むなら探してみるよ。
 しかし、他人の持ち物を捜すために奔走するなんて、君も随分人がいいね」

 万に一つじゃ生易しいほどに低い可能性に賭けて、わざわざ無縁塚まで探しに来るなんて。
 しかもそのためにほぼ無報酬で働くというのだから恐れ入る。

 半ばぼやくような口調で言葉を漏らしながら、
 匂い袋にペンデュラムを近づけて情報を刷り込んでいると、

「否定はしないでおこう」

 ○○は目尻に皺を寄せながら、ぎこちなく微笑んでいた。
 まさかこの男の鉄面皮が剥がれるとは思いもしなっかたため、面を食らってしまう。

 その女性と、彼は一体どういう関係なのだろう。

 ごく自然に湧いてきた疑問を、かぶりを振って思考から追いやる。
 何でこの男の交友関係を気にしなければならないんだ。

「わかった。じゃあこの匂い袋は私が預かるよ」

「宜しく頼む」

「そのかわり、見つからなくても文句を言わないでくれよ?」

「ああ。見つからないのであれば、見つかるまでここで働けばいい」

 見つかるかもわからない探し物を報酬に働く。
 傍から見れば明らかに不利な労働条件だが、本人が納得しているのであればこちらは一向に構わない。
 生活の違和感に慣れてしまえば、単純に人手が増えるのだ。
 彼が満足する結果が出るまで付き合って貰うとしよう。

「さて、楽しい楽しい宝探しを始めるとしようか」





 それから私達は毎日宝探しに明け暮れた。

 朝起きて、彼の作った朝食を摂り。

「うまい」

「そうか」

「さも当然だという態度に腹が立つな」

「あなたがうまいと言ったんだろうが……ナズーリンは料理をしないのか?」

「馬鹿にしないで欲しいな。これでも人に出せるくらいの腕前はあるつもりだよ」

「そうか」

「作って欲しいのかい?」

「そうだな」

「ふふ、そうかそうか、どうしようかなあ」

「そうか」

「まあ君が与えられた仕事を頑張ってくれるのであれば考えないこともない」

「そうだな」

「……」

「そうか」

「……わかったよ。今度作ってあげるから、まともな返事を返してくれ……」

「楽しみだな」



 昼は宝探しに没頭し。

「これは……麻雀か」

「麻雀にしては牌の数が少ないね」

「ああ。牌に絵が描かれているな」

「これは鼠を模しているのかな。えっと、ミ」

「ナズーリン! その先を言葉にすると、我々の存在そのものが消されるぞ!」

「随分物騒な鼠だね……」



 日が暮れる直前まで探し続け。

「あ、ここに居たのか」

「ちう」

「どうかしたのか?」

「今日の探索は終わりにしようと思って、鼠達に召集の合図を出したんだ。
 そうしたら一匹足りなくって」

「この鼠は先程からずっと私の元に居たぞ」

「ちう」

「また君か……勝手に行動するなって何度も言っているのに。
 どうやらこの子は○○のことを相当気に入っているみたいだね」

「そうか。動物に好かれるというのも悪い気分ではないな」

「まあこの子雄だけどね」

「性別は関係ないだろう……」

「ちう?」



 夜は戦利品を当てに酒を呑む。

「ナズーリン、あなたも酒を飲むのだな」

「意外かい?」

「ああ。とても酒を嗜むような年齢には見えない」

「これでも君の何十倍は生きているはずだよ」

「そうか……あなたは妖怪の類だったな」

「なんだい急に?」

「すまない……今の今まで失念していた」

「失礼だな。私は幻想郷に住まう妖怪の中でも、相当古株という自覚があったんだが」

「ああ、すまない。悪く言った訳ではないんだ。
 何と言うか……あなた共に生活していることが、
 自らの一部として受入れられている、とでも言うのだろうか。
 種族が違うということなど、言われるまで思考にすら上らなかった」

「……今度は随分饒舌じゃないか。酔っているなら早く寝た方がいいよ。
 片付けは私がしておくから」

「そうさせて頂こう」

「全く……面と向かって何を言い出すかと思えば……」

「何か言ったか?」

「何でもないよ。それより、悪くならない内に早く寝なさい」

「ああ。おやすみ、ナズーリン」

「……ああ、おやすみ」

 こうして私達の日常は、瞬く間に過ぎていった。





「ふぁ……ふわあ」

 誰に後ろ髪を引かれたのか長々と居座っていた寒気は、
 暦の上での春から三月ほどを数えてようやく退場と相成った。
 気持ちよく晴れた朝。
 私は棲家の庭で陽光を一身に浴びて、体を伸ばす。

「たまには休暇っていうのも悪くないね」

 宝探しをするには絶好の日和だが、今日は休暇としている。
 ○○はまだ棲家の中で夢の中を漂っているだろう。
 今日はある問題ついて思索を進めるため、作業の一切を取り止めたのだ。

 彼と共に宝探しを始めて一月。
 私は一つの難題にぶち当たっていた。

 宝探し自体は順調そのもの。
 これまでは探索から掘り当てるまでの作業を全て一人で行っていたが、
 今は体力仕事を○○に任せることができる。
 当然効率は上がり、同じ期間自分一人で作業をしていた時と比較して、数倍の結果を残せている。

 問題はそちらではない。
 ○○の探し物のことだ。

 ○○から依頼された、彼の知己の所有物探し。
 宝の探索と並行して行っているにも関わらず、全く持って進展がない。
 彼から預かっている匂い袋を使いの鼠に嗅がせて、広範囲の探索も行ったが
 それらしき物は見つかっていない。

 自身の懐に忍ばせているそれを引き出し、顔の前まで持ってくる。
 薄く甘やかに鼻腔をくすぐる、白檀の香り。

 他の種族に比べて嗅覚に優れている私を持ってしても、極僅かな香りしか感じられない。
 人間である○○は、恐らくこの匂いを嗅ぎ取れていないのだろう。

 通常匂い袋は香りが薄くなれば中身を交換するものだ。
 何故ここまで放っておいているのだろうか。

 ○○はこういったものに関心が薄い、というのはこの二週間でなんとなく理解できたが、
 その……○○と一緒に住んでいるという女性は、気が付いていないのだろうか。

 女性は男性に物を贈った後も、その使用状況等々を気にすると聞いたことがある。
 ……私はそのような経験がないので、よく理解はできないが。
 それが往々にして事実ということであれば、彼自身は匂いがなくなったことを気にしなくとも、
 同居人の女性は目ざとく気が付き、本人に詰め寄って中身を入れ替えさせるなり、
 自分で入れ替えるなり、しないものなのだろうか……

 匂い袋から得られる情報が少な過ぎて、捜索が難航しているのは最早疑う余地がない。
 「香り」という要素は物を探す上で非常に重要な要素だ。
 私がダウジングを行うにしても、鼠による探索にしても、
 まずは匂いを辿っておおよその位置を判断する所から始める。

 そもそも、○○から提供された情報がこの匂い袋一つというのも問題なのだ。
 それが作用しないのであれば、捜索が行き詰まるのは自明の理というもの。

 ○○は、件の女性のことについて何も話してくれない。
 容姿の特徴、年齢、という基本的な項目から、個人の嗜好まで。
 それらがわからないとなれば、何を探せばいいのかすらわからない。
 特定の人物の所有物を探すのなら、対象の特徴把握なんて最優先事項じゃないか。
 今更ながらではあるが、腹が立ってくる。

 じゃあ、自分から話を向ければ良い、ということにはなるのだが……


「……」

 なぜか、ためらわれる。

 どうしてか、その女の情報を、一つたりとも知りたくないと、思ってしまう。


「なんだよ……」

 無意識にもれ出た言葉に呼応するかのように風が巻き起こり、私の髪をさらっていく。
 運ばれて来たのは、濃くなった土の匂い。
 辺りから聞こえる雀の鳴き声。
 大方、餌となるミミズが続々と土から顔を出しているため、活気付いているのだろう。

 春の到来を告げる清々しい感覚が、熱を帯びた思考に涼を差す。

 ……私は何を考えている!?

 最近、○○の同居人について考え始めると、思考が止まらなくなる。
 同じ家に住んでいるということは、恋人なのだろうか。
 それとも、夫婦という関係なんだろうか。
 容姿は整っているのだろうか。性格は気立てが良いのだろうか。
 恐らく私のようにつっけんどんな物言いは、しないのだろうな。
 彼と、どのようにして出会い、関係を育んでいったのだろうか……

 はたと、気付く。
 私は、その女のことを知りたくて仕方がないんじゃないか!?

「……なんなんだよ」

 知りたくなかったり知りたかったり、自分でも理解不能だ。
 自身のまとまらない思考に苛立ちを覚える。
 何で、○○のこと、こんなに……

「そもそも彼女について全く教えてくれない○○が悪いんじゃないか……」

「呼んだか?」

「ひっっっ!!!?」

 一瞬、心臓が止まりそうになる。
 反射的に声が聞こえた方向と反対へ飛びすさっていた。
 足はもつれ、今にも転びそうなほど無様なものとなってしまったが。

「おはよう、ナズーリン」

「お、おはっ、よう……」

 声が聴こえた方へ顔を向けると、相変らずの仏頂面と、お供のように傍仕えする一匹の鼠。
 寝起きのせいか、瞼の開ききっていない茶色掛かった○○の瞳と、
 墨を塗り固めた様な黒々とした鼠の瞳が、私の顔をまじまじと見ていた。
 邪気のない二双の瞳に見つめられ、私の心拍数は際限なく上昇していく。

「何かあったのか?」

「あ、あの、えと……」

 心臓が破裂しそうな勢いで鼓動を繰り返す。
 目の焦点が合わないほどの混乱。
 思考は千々に乱れ、言葉がもつれる。

「すまない、驚かせてしまったようだな」

 本当だよ……
 荒い呼吸を繰り返すうちに、頭の中で少しずつ状況が整理されていく。
 まず、最優先で明らかにしなければならないことがあった。

「○○……君は私の独り言、どこから聞いていた?」

「そうだな……『たまには休暇というのも悪くない』の辺りからだな」

「……」

 脳みそが茹るような感覚。
 ほとんど最初っからじゃあないかっ!!
 何で声を掛けないんだよっっ!!

 脳から染み出した羞恥心が眼を通して雫となり、零れ出そうだった。
 目頭を強く抑え、何とか堪える。

 混乱している私を他所に、○○相変わらず何を考えているかわからない相貌を浮かべている。
 こっちの気も知らないで……
 顔を見ているだけで腹が立ってきた。

 はらわたに煮えくり返る鬱憤をぶちまけてこの場をごまかすか、と考えた時、
 一つの思考が脳裏を掠める。

 この勢いに任せて、女性についての情報を、聞き出してしまおうか。

 普段周囲への積極的な干渉を行わない私からすれば、考えられないような行動。
 しかし、そもそもご主人様との手紙の交換が終わった際に、
 彼を呼び止めた時点で私の行動様式は常態から大きく逸脱していたんだ。

 不意に湧き出した突飛とも言える目論見が、脳内でじわりじわりと肯定されていく。

 以前も同じような『らしくない行動』をしていたんだから、今更ためらうことに意味はない。
 毒を食らわば皿まで。
 最後まで、自分らしくない行動を貫いてやろうじゃないか!

 離れていた彼との距離を、一歩分まで縮め、正対する。

「○○、き、君に聞きたいことがある」

「何だ?」

 緊張しているのか、声は上擦り、手には膨大な量の汗。
 大丈夫だ。
 あくまで、探索に必要な情報を聞き出すだけだ。
 年齢や趣味嗜好といった、一般的な情報の確認。
 それ以外、今は聞かなくて良い。

 ――本当にそうだろうか。

 ――私が今、一番知りたいのは。

「……っ」

 思考に余計なものが混じる。
 今はそれじゃないだろう……

「ナズーリン、どうかしたのか?」

 私の様子をいぶかしんだ○○が、腰を折って顔を覗き込んで来た。
 鼻先が触れ合うほどの距離で、○○の顔が固定される

「……あ、え……と」

 顔……近い。
 そういえば、初めて同じ高さで目線を合わせた気がする。
 睫、意外と長いんだな。
 瞬きをする度にばさばさと揺れるそれに、私は馬鹿みたいに目を奪われていた。

「……って」

 違う!
 違う!!
 そうじゃないっ!!!
 私が聞きたいのは……


「○○っ、君は、その、同居している女性とはどういう関係なんだっ!?」


 自身の口から発された言葉を脳が理解した瞬間、私はその場に崩れ落ちそうになった。
 そうじゃないだろう……

 思考は完全に停止し、体が硬直して動けない。
 そんな最中であっても、○○は表情を変えずその場に留まっている。
 しばし、至近距離で見詰め合う私達。

 お願いだから、早く答えるなり体を離すなりしてくれ……
 最早羞恥心は限界に達し、私の涙袋は決壊寸前となっていた。

「ふむ……やはり説明しなくてはいけないか」

 言葉と共にようやく体を離す○○。

 そのまま少しの間、虚空を見上げて考えた後、


「同居している女性のことだが、あれは私の妹のことを指している」


 おおよそ重さを感じられない口調で、真相を口にした。

 ……は?

「この年で妹の世話をしているということを公然に宣言するのもどうかと思ってな。
 いずれ話さなければならないとは思っていたのだが、時が経つに連れて恥かしくなってしまったんだ」

「な……んな」

「よくよく考えれば妹のことを知らずして所持品を探して貰おうというのは無理難題であったな。
 すまない。思慮が足りなかった」

 深々と頭を下げる○○。
 その様子を見て、私の胸中に真っ先に湧き出でた感情は……


「……はぁ」

 安堵、だった。


「ま、全くだよ。君は気付いていないと思うけど、
 渡された匂い袋はほとんど匂いがしなくなっているんだ。
 そんな中で対象に関する情報が不足しているんだから、
 君の探し物が見つからないのは当然だろ」

「すまなかった」

「全く悪びれているように見えないね。
 大体、家族の頼みを聞くことに何の恥じらいを覚える必要があるって言うんだい?
 家族を疎ましく思うような時期はとうに過ぎているだろうに」

「そうだな」

「君は馬鹿か? この一月の捜索期間を無駄にしてしまっていたということだよ?
 自業自得だから私は何も擁護しないけどね」

「すまなかった」

「まあ? 君の素直ではない性格は段々私も理解できてきたからね。
 異性の兄弟のために手を尽くすという行為に、
 羞恥を覚えるということも無理からぬことかもしれない
 今回はこれ位で手打ちにしておいてあげるよ」

「そうだな」

「また返答がおざなりになってる! 大体君はね……」

 その後も私は油を差した歯車の如き勢いで彼に捲くし立て、責め続けた。
 その姿を俯瞰するように見つめる、自意識。

 彼の同居している女性が血縁だとわかったことが、
 何故こんなにも……喜ばしいの、だろうか。

 口やかましく喋り続ける我が身と、薄く笑みを浮かべながら応対する○○。
 その様子を、遠くから見つめるような感覚に囚われながら、
 私は自身の胸に浮かんだ感情の在処を探し続けていた。





 季節は巡る。

「……あつい」

「……そうだな」

 新緑が日々強くなる陽光を浴びて、生命の輝きに満ちた深緑へと変わる頃。
 私達は相も変わらず無縁塚にて宝探しを行っていた。

 来る日も来る日も宝探しに明け暮れる私達。
 永い時を生きる妖怪にとって、日々は冊子をめくるように容易く流れていくが、
 彼と過ごした時間はその感覚すら上回る速度で過ぎていった。
 まるで、冊子そのものが風で吹き飛ばされてしまったような。
 時が流れる感覚というのは個々人によって違い、
 置かれた環境によっても変わると言われている。
 自身にとって好ましければ加速し、厭わしければ停滞へ限りなく近づく。

 つまり私は、今の状態を快く思っているということなのか。
 蒸し風呂の様な夏の暑さの中で、懸命に穴を掘っている彼の顔を見据える。

 相変わらず仏頂面で、表情からは何も伺えない。
 しかし、その瞳が生気に溢れているように感じられるのは、
 私がこの時を好ましく思っていることに関係があるのだろうか。

 彼と生活を共にしてから四ヶ月。
 出会ってから数えると、もうすぐ半年を迎えようとしていた。

 一緒に生活すると人柄が見えてくる。
 良い所、悪い所、あげつらえばきりがない。
 しかし、私が現状を良いと判断しているということは、
 それら全てをひっくるめて、嫌じゃないということなのか。

「――」

 それでは、まるで、

「――ナズーリン? 聴こえていないのか?」

 彼の問い掛けにより思考に沈んでいた意識が表層へと引き出される。

「すまない。少し、呆けていたみたいだ。どうかしたのかい?」

「それらしいものが見つかった。宝物はこれか?」

「ああ……」

 自身が欲した宝物を、能力を発揮して、探し当てる。
 それは私の存在を定義付ける重要な行為。
 では、そんな私を持ってして、自身の能力で探知できない探し物は、
 どうやって見つけ出せばいい?

 主人の気まぐれから始まった、彼との交流。
 それは私の心に、今まで浮かんでこなかった感情を呼び起こさせた。

 目には見えない、手では触れられない存在を探すためには、何を費やせばいいのだろう?
 形として現存しないものを探知できるほど、私の能力は万能ではない。
 ○○と交わることで生まれ出でた感情であるならば、
 彼と過ごす時間を重ねていけば、見えてくるものがあるのだろうか?

 しかし、この生活には期限がある。
 彼の探し物が見つかった時、あるいは、彼の探し物がここにはないとわかった時。
 私達が一緒にいる理由はなくなってしまうんだ。

 ○○が探している、彼の妹に関わる『全ての物』
 対象は限りなく広く、私の能力を持ってしても全く引っかからない。
 この四ヶ月、毎日欠かさず探知を行っているのにも関わらず、だ。

 本当に彼が探しているものが無縁塚に埋まっているのだろうか?
 この広い無縁塚全てを探索できたわけではないが、
 箸にも棒にも引っかからない状況が続くと、否定的な考えは芽吹いてしまうものだ。

 彼にはそれとなく伝えているが、本人は探索を続けて欲しいと望んでいる。
 私としては、働き手が長く居てくれることに不満はないが……

 さしもの私も労働に対して報酬を払えないというのは気が引ける。
 何とかしてやりたいものの、探索に出たの遣いの鼠達からもたらされるのは、
 反応なしの報告のみ。

 思わず、溜息が零れ出た。
 何か最近悩んでばっかりいるな……

「ナズーリン。あなたは最近溜息ばかり吐いているな」

「誰のせいだと思っているんだ……」

「何か言ったか?」

「何でもないよ……」

 私が君のことでこんなにも悩んでいるというのに、
 本人は平然と穴掘りを続けている。

 そんな彼の様子を見て、再び漏れ出る溜息。
 溜息が靄のような白い塊となり、熱気を孕んだ空に陽炎の如く立ち上って、解けていく。
 そんな様を想像しながら、私はただ空を見上げていた。





 季節は移ろう。
 青々と繁っていた緑が自らの命を燃やすかの如く赤く染まる頃。
 彼岸花の咲き乱れる無縁塚で、死神の姿を見た。

「おお、今日も元気に墓荒しか」

「げ……小野塚小町」

 私の頭二つ分は高いであろう身長、二つに結われた赤い髪。
 双方の房をふらふらと揺らしながら、死神は穴を掘っている私達に向かって歩いてくる。

「随分な挨拶だね。仏さん達に挨拶は済ませたのかい?」

「ふん……死者が眠っている場所は避けて掘っているのだから問題ないだろう?」

「仏門に属している割に信心が足りないねえ……」

「ナズーリン、彼女は?」

 作業の手を止めて私に問いかける○○。
 盛夏の頃に比べ幾分涼しくなったものの、
 休みなく穴を掘り続ける彼の顔は、赤く上気していた。

 そうか……○○は彼女と初対面だったか。

「あれは小野塚小町。仕事をサボって幻想郷をふらつく放蕩者だよ」

「誤解を招く様な紹介はよしてくれよ……
 私は小野塚小町。この先にある三途の河で、死者の魂を運んでいる死神さ」

 大柄な体と同寸程ある大鎌を地面へと付き立て自己紹介をする小町。
 ○○の顔を見るや否や、眉間に皺を寄せてまじまじと見据えている。

 しばらく○○に不躾な視線を送った後、一転、私の方に顔を向けて問いかけてきた。

「なあ、そこの兄さんは生きている人間かい?」

「はあ? 幽霊が道具を使って穴を掘ったりなんかできないだろう。
 彼は普通の……体力以外は普通の人間さ」

「いやな……いつ頃だったか、そこの兄さんに似た顔の幽霊を冥界まで連れてった気がしたんだがね……」

 小町が言葉を発した瞬間、○○の瞳が大きく見開かれる。
 震えだす手指。
 それは採掘面に触れているスコップにも伝わり、僅かに土を撒き散らす。

「人違いだろう。現に彼は生きている。
 無数の幽霊を運んでいるのであれば、似た顔がいても不思議ではないと思うけど」

 咄嗟に口を衝いて出た反論。
 彼は毎日私と共に生活をしている。
 朝起きて、ご飯を食べて、私と言葉を交わして、宝探しをして、夜眠りに就いている。
 これで彼が幽霊だって言うのなら、最早この世界に生者と死者を区切る意味はなくなるだろう。

「そうさねえ……お兄さん、気を悪くしたらすまないね」

「いえ……」

 普段と変わらず表情に変化はない。
 しかし、先程まで血色の良かった肌が土気色に染まっている。
 瞳は未だ見開かれており、大きな動揺を察することができた。

 発言した本人はばつが悪そうに視線を逸らし頬を掻いている。
 悪気はなかったのだろうが、今の○○の状態は明らかに普通のそれではない。
 不実な態度に苛立ちが募る。

「今日は見逃してあげるよ。罰当たりなことしてないで、さっさと寺に帰んな」

「余計なお世話だ」

 逃げるようにして去っていく死神。
 人間の里方面に飛んでいったから、今日はもう真面目に仕事をする気はないのだろう。

 迷惑な話だ……二重の意味で。
 未だ震えが続いている○○の顔を見据える。

「……」

 スコップを握り締め、地面に深々と刺しているにも関わらず、震えが治まる気配はない。
 息は荒く、尋常ではない量の汗が頬を伝っている。

「○○……大丈夫かい?」

「ああ……心配掛けてすまない。すぐに治まる」

 引付を起こしそうな程深く息を吸い、浅く長く吐き出す。
 数分呼吸を続け、ようやく震えが治まってきた。

「……」

 わかり易過ぎる変調。

 その姿から、彼が何かを隠していると想像するのは、あまりにも容易かった。

「……ナズーリン」

「な……なんだい?」

「あなたに話したいことがある」

 落ち着きを取り戻したのか、声音は平素と変わらず、淡々としている。
 顔を俯かせているため、前髪に隠れて表情は見えないものの、
 立ち姿に違和感はなく、震えも完全に治まっている。
 普段と変わらない様子の、彼。

 しかし、私の心中を渦巻いた感情は、恐れ。

 恐らく、彼は私に秘密を打ち明けようとしている。
 そして……

 彼が抱える“秘密”を私が知った時。
 私達の関係に大きな変化が訪れる。

 そんな予感が、怖気と共に全身を駆け巡った。

「ああ……で、でも、まずは棲家に帰ろう。もうすぐ日も暮れるしね。
 話は、夕飯を食べた後でも良いだろう?」

 所々声が上擦り、言葉は詰まる。
 動揺が隠せない。
 そんな醜態を晒してでも、私は彼と過ごす日常を長引かせたいのか。

 なぜ私はこんなにも彼と一緒に居ることに固執しているのだろうか。
 理解が、できない。

「ああ……すまない」

 俯けていた顔を上げ、力なく笑う。

「……っ」

 久しく見る、彼の笑顔。
 それは、無理をして浮かべているのがありありとわかる、痛々しいもの。
 ただ、何かしらの決意を帯びたようなその瞳から、私は目を逸らすことができなかった。





 重い足を引きずって、帰り着いた我が家。

 日々の重労働に加え、小町の話で体力を持っていかれた○○の手を引いて、居間へと連れる。

 今日は久々に私が夕食を作った。

 以前、思いつきで私が夕食を振舞った際、○○はいたく喜んでくれた。
 また食べたいとせがまれるのが、なぜか恥かしくなって。
 それ以降、私が夕食を作ることはなかった。

 どうして、今日なんだろう。
 どうして、彼の喜ぶことを素直にしてあげなかったんだろう。
 今更ながら、後悔が押し寄せる。

 表情の乏しい彼の顔から、明らかな喜色が滲み出るのが、恥かしくて。
 どうにか、なりそうだったんだ。

 対面に座り黙々と箸を動かす彼に目を向ける。
 その表情から彩を見出すことは、最後までできなかった。



「ナズーリン」

「……」

 夕食の片づけを終えた後。
 私達は卓を挟んで正座で向かい合っていた。

「あなたに、伝えなくてはならないことがある」

「……いいよ。聞かせてくれ」

 ついにこの時が来た。
 先延ばすのも最早限界。
 彼に伝える意思がある限り、逃れることはできない。

 極度の緊張状態が棲家の外にも伝わっているのか、
 いつもうるさいくらいに鳴いている虫達も、今日に限って黙り込んでいる。

 私は無意識に彼から預かっていた匂い袋を両掌で包み込んでいた。
 まるでそれが、自身に降りかかる災難を遠ざけてくれる、お守りであるかのように。

 ○○は両肩を上下させながら、ふいごのように深い呼吸を繰り返している。
 部屋の中に響くのは、彼の呼吸音のみ。
 世界から切り取られる感覚というのは、こういうことを言うのか。
 月並みな表現だが、中々得心を得るものだと思った。

 彼が息を吹ききり、肺の中を空にする。

 視線を私の瞳に合わせ、口を、開いた。


「ナズーリン、私が本当に探しているものは、妹の遺骨だ」


 ああ、やはりか。
 頭の奥底で、予想はしていた。

 故郷で起こった悲劇。
 妹の私物を探す理由。
 見つからない失せ物。
 無報酬でも働く根拠。
 死神が漏らした疑問。
 動揺している彼の姿。

 全てをより合わせると、一つの仮説が浮かび上がる。
 失せ物の持ち主は、最早この世にいないのではないかという、仮説。

「妹は、あの豪雨で川の氾濫に巻き込まれ、亡くなった」

 ……

「あの時私は里に出稼ぎに出ていた。
 あいつを守ってやることが、できなかったんだ」

 ああ。

「あいつは最後まで村に残って年寄方の避難を手伝っていたそうだ。
 集落に残る唯一の若者だからといって、自力で歩けない住人の介助をして」

 言葉が、相槌が、

「多くの住人を安全な場所まで届けてから、また集落に戻って。
 全ての人を、助けようとしていた」

 出て来ない。打てない。

「取り残された最後の住人を助けに戻った時、
 鉄砲水が集落を襲って、そのまま集落ごと流された」

 石膏を塗りたくられたように微動だにしない、私の体。

「あれから数年経つが、彼女の遺体は見つかっていない」

 もういいと、言ってあげたかった。
 自らの古傷に刃物を突き立て、抉り、塩をすり込むように述懐を続ける○○を。
 一刻も早く、止めたかった。

「私は里で依頼を受け、金を得て、人を雇い、捜索を行ったが、
 妹の遺骨はおろか、私物の一つも、見つけられなかった」

「あ、あ……」

 何とか絞り出した声は、意味を成さない言葉の欠片。
 彼の独白を止めるには到らない。

「ナズーリン。あなたに謝らなければならないことがある」

 ――どきり、と心臓が跳ねる音を耳にする。
 拍動が鼓膜へと伝わり、体の内から不快な音を奏で続ける。
 それはまるで、この先を訊いてはいけないという、警鐘。

「私は……」

 お願いだ……その先を……

「言わな……」


「私は……あなたの能力を利用するために、あなたへと近づいた」


「……っ」

 背中から首筋に掛けてが、火で炙られたように熱を持つ。
 一方で、脳からは血の気が引いたのか、今にも意識を失いそうな程の強い眩暈に襲われた。
 苦しい。
 息が、うまく、できない。

「……」

 部屋の中に響く、獣のような荒い呼吸。
 それを引き起こしているのが自分であるということに、しばし気が付くことができなかった。

「私は人を雇い失せ物を探す内に、命蓮寺に探し物に長けた妖怪がいると伝え聞いた」

 ○○の声が聞こえる。

「私は一縷の望みに掛けて、命蓮寺を訪ねた」

 話の内容は耳に入るが、理解が追いつかない。

「ご住職に拝謁し、事情を説明して紹介頂けないか願い出たのだが、
 中々首を縦に振って下さらなくてな……」

 いや。

「幾度も訪問して食い下がったが、自身を追い詰めるなと諭されるばかりであった
 どうすれば良いか考えあぐねていた所に、寅丸星様が現れた。
 寅丸星様は私に仕事を依頼し、無事完遂すれば会わせると条件を提示されたのだ」

 正確には、理解したくないのか。

「それが、あなたに手紙を届けることだった」

 ○○、私を利用するためだけに、近づいてきた。
 驚くほど単純で、残酷な、事実。

「これが、私の罪だ」

 はっきりと、宣言するように告解する○○。
 彼はそれきり、俯いて、黙り込んでしまった。

 辺りを満たす静寂。
 私の呼吸は既に落ち着き、最早この空間に響くものは何もない。
 眼前で起きている出来事と自身の意識が乖離する中で、
 両手で包んでいる匂い袋の感触だけが、私を現実へと繋ぎ留めていた。



 ああ、こんなものなのか。
 気まぐれで他人に興味を持った結果がこれだ。
 やはり、自分が長年培った行動様式から離れた所で、何にも良いことがない。

 このまま現実を受け入れ、怒り、○○に詰め寄り、制裁を加え、全てを終わらせる。
 そうすれば、この身を支配する虚無感も、霧が晴れるように消えていくだろうか。

 拳を握り締める。
 今まで湧き出た感情の全てを否定するため、この数ヶ月の出来事を頭の中で再生させていく。

 春。
 無粋にも私のまどろみを邪魔し、進入しようとした彼。
 出会った瞬間に理解した。頭のおかしい人種だと。
 ご主人様との手紙のやりとりを続ける内に、自分の判断が間違いではないと確信した。
 妙に料理が上手い、無表情な男。
 それが、最初の印象だった。

 初夏。
 手紙のやりとりが終わる。
 それは、彼との別離を意味することに気が付いた。
 反射的に、彼を呼び止めていた。
 当時は理解できなかったが、今なら解る。
 私は、彼と過ごす時間が、他では得がたいものだと、感じていたんだ。

 夏。
 気が付けば、瞬く間に過ぎていった。
 毎日が発見の連続で。
 楽しかった。
 今なら、素直に肯定できる。
 彼と過ごす毎日が、楽しかった。
 当時の私は認めたがらず、毎日溜息ばかり吐いていたが。

 振り返るほど、胸が詰まるような、輝きに満ちた日々。

 その全てを怒りに転化させることなど、

 私には、

「……できない」

 できるはずがない。
 妖怪として生を受け、歩んできた、永い年月。
 その中の一瞬とも言える煌めきを、なかったことになど、してはいけない。

 彼に確かめなければいけないことがある。

 返答如何によっては、私達の関係はこの場で終わるだろう。

 でも、それでも。

 私は、一縷の望みに、懸ける。

「……探し物を探す能力の持ち主が、私だったということは」

「知らなかった。あなたに仕事を持ちかけられた時に、初めて知った」

 そうか。
 初めて出会った時、彼は「探し物を探す能力の保有者」として、私を見ていない。

 であるならば、

「○○、君に聞きたいことがある」

 彼に、問わなければならない。

「……何だ」


 互いを認識していない状態で、私達は出会った。
 その後○○は自身の願いを叶えるために、私の仕事を手伝うことになった。
 私達の間にあったのは、純粋な契約。
 私の宝探しを手伝ってもらう代わりに、彼は自分の探したいものを探す。
 これが交わされた時点で、○○の思惑はどうあれ、私が彼に怒りをぶつける道理はなくなる。

 では、私が感じている彼への心理的な抵抗は、なんなのだろうか。

 それは、○○という人間が、私という個人ではなく、
 私が持つ能力のみを目的としていたから。

 では……もしもだ。

 私の能力を利用して探し物を探すという行為以外に、彼が価値を感じているとしたら?

 私という個人に、目を向けてくれていたとしたら?

 彼が私と共に過ごした一瞬一瞬を、どう捉えていたのかが、知りたかった。


「君はこの半年間、私と居て、楽しかったか?」

「……」

 言葉に詰まる○○。
 呼吸もままならない程に張り詰めた空気。
 それほどまでに、言いづらいことなのか。
 邪推が心を支配し、指先が暴れだしそうになるのを必死に抑える。

「私は……」

 言葉を切る○○。
 焦れる。
 焦れる。
 拳を握り締める。
 早く、答えを……

「私は、あなたと共にあったこの数ヶ月を、掛け替えのないものと、感じている」

「……そうか」

 良かった。
 私達は、同じ気持ちを抱いていたんだ。

 漏れ出る溜息。
 安堵感が脊椎を通して全身に広がっていく。

「ならば、いいよ。
 私達が出会った時、君は私を能力の保有者として見ていなかった。
 君の目的は仕事を手伝って貰う時に聞いていたし、私も承諾した。
 だから君に怒りをぶつける権利なんて、もとより私にはないんだ 」

「ああ……ありがとう」

「だから、君の探し物、もう少し探してみようよ。
 無縁塚にはまだまだ探していない場所がある。
 もしかしたら、そこに埋まっているかもしれないしね」

「……ナズーリン」

「今度は無縁塚の外を探してみるのもいいかもしれないね。
 君には辛い思いをさせてしまうけれど、集落の跡地に近づけば見つかる可能性は高くなる」

「ナズーリン」

「……なんだい?」

 ○○の気持ちを聞くことができて、
 同じ気持ちを抱いていると知って、
 私は、調子に乗っていたのかもしれない。

「ナズーリン、それは、できない」

「……なんで」

 彼の顔を見やる。
 先程と変わらない、悲壮な表情
 双眸から迸る、強い決意。

 嫌な予感がした。

「ナズーリン」

「○○!」

 その先は、言うなっ!!

 私の言葉が発せられる前に、


「私は、妹の後を追い、冥界へ向かう」


 彼は、自身の死を、自ら宣告した。

 私の体は、彼の発言の衝撃に耐えるように硬直する。
 手の中に広がる、何かが爆ぜる感触。
 匂い袋の封が決壊するように開き、中身の香が零れ落ちていく。
 無意識とは言え、○○の大切なものを壊してしまったことに慄き、
 私は匂い袋を取り落としてしまった。

 その様子を目で追いながら、○○は口を開く。

「集落跡は人手を使い探したが見つからず、
 身元不明の遺骨が埋葬されるという無縁塚にもないとすれば、最早打つ手はない。
 恐らく、人の手では到達できない場所にまで流れてしまったのだろう」

「……」

 私は咄嗟に両手で耳を塞ぐ。
 嫌だ。
 これ以上、聞きたくない。

「早く行かなければ、妹の魂は転生してしまう。そうなる前に、彼女に会いに行かなければならない。
 最も、私が無事冥界に辿り着けるかは別の話だがな」

 自嘲を浮かべる○○。
 そんな彼に表情を見たくなくて、私は目を瞑り、かぶりを振る。

「ナズーリン、あなたには色々迷惑を掛けた。すまなかったな」

 卓に手を突き、立ち上がる彼。
 自らの言葉を一方的に伝えた後、私の言葉を待たずに立ち去ろうとしていた。



 ゆっくりと遠ざかる彼の背中。

 それを私は直視できず、極度に狭められた視界の中に捉えていた。

 なぜ……彼は自らの命を絶つという最悪の手段を選ぼうとしているのだろう。

 集落の周辺を探したとは言え、所詮は人の手による探索だ。

 全てを探しきれたとは到底思えない。

 私のダウジングを持ってすれば、見つかる可能性は十分にある。

 彼はもう、諦めてしまったのか?

 自らの生を妹への懺悔へと費やす生活に、疲れてしまったのだろうか?

 このまま彼を行かせてしまえば、今度こそ間違いなく、二度と会うことはできなくなる。

 それでいいのか?

 私達の気持ちは、同じだ。

 ならば、私達が離れる必要なんて、ないじゃないか。


「あっ」

 私の思考、感情、頭頂から爪先まで、私を構成する全ての要素。

 それら全てが、一つの指向の下へと集約されていく。


 彼に、生きていて欲しい。


 爆発的なまでに広がる意識。

 研ぎ澄まされる五感。

 際限なく圧縮されていく時間の中で、私はただ思考を加速させ続ける。

 考えろ。

 彼の望みを叶える方法を。

 考えろ。

 彼が生きていたいと思える世界の条件を。

 考えろ。

 私達が一緒に居るために、何をすればいいのかを。

 考えろ……!!



 たった一つの解決法が見つかった時、

「○○! 待ってくれ!!」

 私の口からは、生涯聞いたことがない程の大声が飛び出していた。

「……」

 彼は、振り返らない。
 でも、立ち止まってくれた。

「君の望みを叶える方法が、一つだけ、ある」

「……」

「君は、死を選ばなくていいんだ」

「……どういう、ことだ?」

 恐る恐る、という体でゆっくりと振り返る○○。

 その瞳に映し出されているのは、深淵を思わせる程の深い闇と、僅かに浮かぶ、希望。

「命蓮寺の宝物庫に、死者と対話できる反魂香という秘宝が保管されている」

「……」

「私は、それを盗み出し、君に授ける」

「そんなことをすれば、ナズーリンが……」

「ああ、タダではすまないだろうね」

 主に、ひいては命蓮寺という組織に対しての明確な叛逆。
 奥歯が震えそうになるのを必死に押さえ、口の端を吊り上げて、笑う。
 自身が慄いていることを、○○に悟らせないための、必死の演技。

「……」

 私の突拍子もない提案に呆れたのか、○○は呆けた顔で言葉を失っている。
 豆鉄砲を食らう、とはこういう表情を指すのであろう。
 今日は慣用句の意味をよくよく実感する日だ、と思った。

「……だめだ」

 数瞬で我に帰った○○は、低く重い声音で私の案を却下した。
 ○○の性格を考えれば諸手を挙げて賛成されるとは思っていなかったが、
 いざ実際に拒絶されると胸を潰されたような圧迫感に苛まれる。

「……どうしてだい? 君にとっては命を落とさず、且つ確実に妹と対面できる絶好の機会だよ?」

 悲鳴を上げる自身の心に思い切り蓋をし、可能な限りの余裕を装って彼に問い掛ける。

「そんなことをすれば……あなたは」

「ああ、事が露見したら間違いなく命蓮寺を追われるだろうね」

 窃盗は命蓮寺の戒律によって固く禁じられている。
 それを幹部の立場である私が破ったとなれば、相応の処分が下されるだろう。
 見つかった時点で、私の立場は脆くも崩れ去るという危険な賭け。
 ただ、私は自身の居場所を賭してでも、彼の死を、止めたかった。

「やはり、だめだ。あなたの身に何かあれば、私は……」

 少しの間を置いて、○○は私の提案を完全に拒絶した。
 普段表情を変えない彼にしては本当に珍しく、感情が顔に表れている。
 眉間に皺が寄り、唇が硬く引き結ばれた彼の顔を見ていると、
 何かとても悪いことをしてしまったような気分に陥った。

 でも、それでも、死に行く○○を止めるために、必要なことだから。
 だから私は、彼の制止を振り切る。

「私は、君を、死なせたくない。
 これが現状で取れる最善の一手なんだ」

「ナズーリン……」

「命蓮寺は私にとっても庭みたいなものさ。
 大丈夫、上手くやるよ」

 今私にできる、最上級の笑顔を彼に向けて言い放つ。
 それはとても笑っているようには見えない歪な顔だったのだろう。
 ○○の顔に一層の陰が差す。

「私は今から準備に向かう。
 明日の夕刻、命蓮寺の門の前で、待っていて欲しい」

「……わかった」

 最後まで陰りの晴れない表情を浮かべていた○○。
 彼の足では命蓮寺まで一日弱掛かるため、すぐに出立しなければならない。
 相変らず静かな足音を立て、玄関に向かい、外へと出ていった。

 残されたのは、歯を打ち鳴らしながら立ち尽くす私と、中身が零れ落ちた匂い袋。
 放たれた白檀の香りは一瞬強く香った後、持ち主の後を追うかの如く、足早に去っていった。





 山の稜線に太陽が沈んでいく。
 世界が橙の光に覆われるその光景は、生あるもの全てに無条件の郷愁を抱かせる。
 私自身も例に漏れず、その一員となっていた。

 思いを馳せるのは、ここからずっと遠くにある、自身の故郷。
 遠い遠い昔に起きた出来事は、既に自身の体から抜け落ちて久しい。
 今のこの瞬間も、いずれ忘れ去ってしまうのだろうか。

 昨日の神経を炙られるような○○とのやりとりも、日々の新しい情報に流され、消えてしまうのだろうか。
 それを望む自分が確かに存在するということに、嫌悪感を覚えた。

 現実逃避をしている場合ではない。
 眼前にそびえ立つ命蓮寺を見上げ、一人気持ちを切り替える。

 私が久方ぶりに命蓮寺に戻った理由は、
 死者と対面することができるという秘宝『反魂香』を盗み出すこと。
 ○○の目的を叶えるためにあつらえたような存在だ。
 これを彼に渡し、妹と会わせることができれば、○○を死に追いやる必要はなくなる。

 問題は、この秘宝が命蓮寺の宝物庫に保管されているということ。
 宝物庫の管理はご主人様自ら行っており、
 私であっても理由なく立ち入ることは許されない。
 宝の私的な使用などもってのほかだ。

 しかし状況は一刻を争う。
 死に急ぐ○○を止めるためには、反魂香を用意する以外に手はない。



 日が沈み、宵闇に包まれ始めた命蓮寺の敷地内を、人目を避けて移動する。

 誰にも見つからず、宝物庫の前に辿り着くと、
 事前に鼠を放って奪った宝物庫の鍵を使用して、中へと入った。

 中にはご主人様の元に集まってきた宝がうずたかく積まれている。
 一見すればどこに何があるのかもわからないほどの量。
 しかし、私はそれを完全に近い形で把握していた。

 当然だ。
 あまりにも宝が増え過ぎて収集がつかなくなり、
 泣きついてきたご主人様に代わって庫内の整理をしたのは、他ならぬ私だ。

 迷うことなく反魂香の元へ向かい、自身の懐にしまいこむ。

 外を見張らせている鼠からは、異常を知らせる報告は上がってきていない。

 このまま敷地の外へ向かい、そこで待っているであろう○○と合流、
 反魂香を渡せば、私の憂いは全て晴れることとなる。

 宝物庫から出る。
 ○○はどんな反応をしてくれるか。
 喜んでくれるだろうか。
 望みを叶えた後は、また私と共に宝探しをしてくれるだろうか。
 不安と期待が入り混じり、心が弾みそうになる。
 そして、その心の緩みは慢心となり、私は重大な失態を犯す。

 鼠からの警告。
 周囲の警戒を怠っていた私の前に舞い降りる、一つの影。

「おや、ナズーリン。そんな所で何をしているんですか?」

 宝物庫から、命蓮寺の敷地の外へ。
 その道程で、私は、最も会ってはいけない人物と、遭遇した。

「ご主人様……なぜ」

「なぜって、命蓮寺は私の住処でもあるのですから、居ても問題ないと思いますが……」

「いや、そうではなくて……」

 迂闊だった。
 これまでの工程が如何に上手くいっていようと、
 油断を見せた瞬間に、全ては水泡に帰す。
 普段の私であれば、絶対に犯さない、単純な仕損じ。

 十歩ほどの距離を空けて対面した私達。
 如何にしてやり過ごすか。

「まあまあ良いではないですか。
 それより久し振りの帰還なのに連絡も寄越さないとは何事ですか。
 丁度いいですし、少しお話をしましょうか」

 こちらの焦りを知ってか知らぬか。
 普段通り、親しみ易さと生真面目さが同居した態度で接してくる。

「いや……私は」

 いつもと変わらない主人の様子に安堵しかけるが、
 瞳の奥に剣呑な光が宿っていることを確認し、警戒を強めた途端、

「ナズーリン。宝物庫の鍵がなくなった件で話があります。ついて来なさい」

 浮かんでいた笑みが一瞬で消え失せ、硝子のように澄んだ表情で、一喝。
 それは、周囲に存在する全てのもの平伏させるほどの圧力を伴っていた。

「……はい」

 直属の部下という立場もあり、私には首肯する権利しか、残されていなかった。



「さてナズーリン、あなたは宝物庫で何をしようとしていたんですか?」

 応接間に通された後、間髪を入れずに問い質される。
 茶の一杯も出ないことが、これが接待ではなく査問であるということを如実に現していた。

「……」

 私はご主人様の部下という身分であるため、宝物庫へ入ること自体に問題はない。
 しかし、今は時機が悪過ぎた。
 ご主人様への帰還の報告を差し置いた上、
 無許可で入庫したとなれば疑いの目を向けられるのは当然だろう。
 もう少し周到に準備を行ってから決行すべきだったか?
 いや、○○の状態を考えれば拙速と理解していても動かなければならなかった。
 判断は間違っていない。
 反省するべきは、自身の不注意のみ。

「……」

 普段は見せたこともない、能面のような表情で私を見据えるご主人様。
 その表情から垣間見えるのは、困惑。
 自身の信頼する部下が不正を働く訳がないという願いと、
 揃い過ぎている状況証拠に説明を求めない訳にはいかないという責任が、
 彼女の中でない交ぜになっていることが伺えた。

 私は無意識に目を背けてしまった。
 ○○のためとは言え、主人に背信したという事実が私に重く圧し掛かる。
 ご主人様にこんな表情をさせてしまうなんて。
 昨日○○のために罪を犯すと決めた時点で、覚悟したはずじゃないか。

 再びご主人様へと目を向ける。
 私情と責任の板挟みに当惑するその姿を見て、
 私は鳩尾を押し込まれる様な罪悪感を覚えた。

 私の覚悟なんてものは、水に濡れた紙よりも脆い、無価値なものだったんだ。

「……」

「……」

 互いに沈黙したまま時が過ぎる。
 ご主人様の私の釈明を聞くまでは梃子でも動かないつもりだろう。
 何とかして状況を打破しなければと、思考を続けていた時、

「失礼する」

 ここに居るはずのない人間の声が、私の耳朶を打った。



「○○!? どうしてここに?」

 応接間の入り口には、肩で息をしている○○がこちらを見据えていた。

「無断での寺院への立ち入り失礼申し上げる。
 切迫した事態故、お許し頂きたく」

 ○○は命蓮寺へ侵入した侘びを入れながら、
 荒い息遣いで私達へと近づいてくる。

「あなたはナズーリンに手紙を運ぶよう依頼した者でしたね。
 確か、○○でしたか。探し物は見つかりましたか?」

 不測の事態に対して一瞬目を見開くご主人様。
 しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、○○に対し質問を投げかける。

「お陰様で」

 不躾な訪問を行った○○も堂々と応対する。

「○○……なぜ」

 ただ一人私だけが混乱から抜けられず、
 頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出すのみとなった。

 ゆっくりと近づいてくる○○。
 私も真意を問うため、彼の方へと歩き出す。
 互いに一歩ほど離れた所で停止して、右手を差し出してくる。

 彼が何を求めているか解らず、疑問を口にしようと思った矢先、


「ナズーリン、あなたが持っている反魂香を、私に渡して欲しい」

 彼は、私達の置かれている状況を最悪な方向へ転がす一言を発した。


「……」

 自分を構成する全てのものが、一瞬機能を停止したと錯覚するほどの、衝撃。
 君は馬鹿かっ!
 ご主人様に反魂香を盗んだことをばらしたようなものではないか!!
 最早言い訳もできない。
 計画は失敗だ。
 私自身も無事ではいられない。
 それに……君自身も、関わりがあると、自供したも同然じゃないか……

「き、きみは、君は馬鹿かっ!!」

 自身の内に渦巻いた思考はそのほとんどが言語化されず、
 出てきたのはお決まりとなった彼への罵倒のみ。

 頭の中が冷静な思考と抑えきれない感情の坩堝となり、
 全く持って正常に働いていない。

 言葉が出てこず無意味に口を開閉するだけの私を横目で捉えながら、
 彼は同じ言葉を繰り返す。

「ナズーリン、反魂香を、渡して欲しい」

 私の後ろにいるはずのご主人様にも、彼の発言は聴こえているはずだ。
 彼女が何も発言しないのは、○○の愚かとも言える行動に言葉を失っているのか、
 事態を見極めるために静観しているのか。

「なんで、今なんだよ。あとで、門の外で、落ち会った時に」

 呼吸が安定せず、言葉が途切れ途切れで上手く伝えられない。
 そうした私の状態を見ても顔色一つ変えない○○。
 どうして、そんなに冷静でいられるんだ。
 この状況を作り出した元凶である彼に対し、内心苛立ちが渦巻いてくる。

「……」

 その後何度か反魂香を催促した後、彼は瞑目して押し黙ってしまった。
 応接間にしばらく振りの沈黙が訪れる。
 誰が、何を発言するのか。
 私以外の二人も、内心焦れているのだろうか。
 二人の顔を見回してみても、表情からは何も伺えない。
 このまま黙っていても状況は好転しないと判断し、口を開こうとした所で、

「わかった。では力尽くでも奪わせて貰う」

 そう言い放ち、私へと手を伸ばす○○。

 彼の態度が急変したことに理解が追いつかず、対応が遅れてしまう。

 私の体に手が触れるか、という瞬間、眩いばかりの光が彼の体に襲い掛かった。
 真後ろに吹っ飛ばされた○○は入ってきた扉に背中を強か打ちつけ、
 顔面から床へと着地した。

「○○!?」

「よしなさいっ!」

 反射的に○○へ駆け寄ろうとした私に対して、ご主人様の鋭い静止が飛ぶ。

 声の調子が尋常のそれではない。
 恐る恐る振り返ると、そこには、

「ようやく馬脚を現しましたか」

 仏の名代にはとても似つかわしくない怜悧な表情を浮かべて、
 宝塔を構えるご主人様の姿があった。



「ご主人……様?」

「○○、あなたの本当の目的を聞かせなさい」

 ご主人様は私の問い掛けを無視し、未だ立ち上がれない○○へと近づいていく。
 歩く姿は悠然、歩調は静々としているが、
 背中からは彼女の怒りが具現化したような陽炎が揺らめいていた。

 ようやく膝立ちで顔を上げた○○の前に立つご主人様。

「……」

「あなたに黙秘する権利はありません」

 彼の額に宝塔を突きつけるご主人様。
 直接宝塔の力を浴びせられれば、○○の頭は粉々に砕け散るだろう。

 最早詰問を通り過ぎた脅迫。
 死を間近に迫らされている○○の表情は、相変らず無に等しい。

「私の目的は……」

「あなたの目的は?」

 沈黙すら許さないとばかりに言葉の続きを促すご主人様。
 宝塔が額に押し付けられているのか、時折○○の頭が後ろに倒れ込む。

 普段の慈愛に満ちた態度とはかけ離れたご主人様の様子。
 ○○に対するあまりにも酷い仕打ちに強い不快感を覚えた。
 止めさせないと、という思いが血流に乗って体の中を暴れまわる。

「……」

 しかし、足は一歩も前に動かなかった。
 先程ご主人様に一喝されたことが原因なのだろうか。
 それとも……
 先程の○○の行動に対して、疑念を抱いてしまったことが、原因なのだろうか。

「……言うこと、聞きなよっ」

 震える両足を殴り付け、何とか一歩を踏み出そうとした瞬間、


「私の目的は、ナズーリンを利用して反魂香を盗み出すことだ」


 ○○の発した言葉が聴こえ、私は膝から崩れ落ちた。



「私は楽になりたかった。
 万屋の稼ぎは安定せず、仕事の内容によっては体を酷使する。
 今はまだ五体満足で働いていられているが、今後どうなるかはわからない」

「……」

「仕事柄情報は広くから集められるものでな。
 命蓮寺には多くの財宝が保管されていると里でも噂になっていた。
 一つでも盗み出すことができれば、楽に生活ができると思った」

「では、あなたは金のために」

「そうだ。どうやって盗み入るか、昼夜を問わずに考えた。
 私が目を付けたのは命蓮寺の構成員であるにも関わらず、
 一人離れて暮らしている妖怪だった。
 件の妖怪に接触して信頼を得て、盗みに加担させる。
 事は面白い程に上手く進んだ。私は道案内をさせるぐらいの魂胆でいたが、
 まさか自ら実行を買って出てくれたというのだから恐れ入る」

「……」

「どんな宝が眠っているのかと思えば、
 死者を蘇らせるなどという人の身には過ぎた代物だった。
 そんなものが存在すると知れば、大枚を叩くものなど大勢現れるだろう。
 私は自身の運の良さに歓喜したよ。ナズーリンに感謝せずにいられなかった」

「……」

「ああ、ちなみに住職とナズーリンに語った妹の遺骨を探すという話、あれは全て嘘だ。
 同情を誘う設定を考えるのも中々に骨が折れたな」

「……それ以上」

「ん?」

「それ以上、喋るな」

「喋れと言ったり喋るなと言ったり……ぐぁっ」

「喋るなと言ったはずです。次は頭を吹き飛ばしますよ?」

「……」

「五戒を破り、他人の心を自らの益のために踏みにじる下種の者。
 貴方には無間地獄すら生温い。
 しかし、住職である聖白蓮は貴方を命を奪うことを許さないでしょう」

「……」

「本来であれば修行と説法を通じて心根を正す所ですが、貴方の場合はそれで済ませられない。
 貴方は命蓮寺の機密に触れてしまった。
 もし反魂香の存在が外部に漏れれば、命蓮寺を襲う不届き者は増える一方でしょう。
 いくら改心しようとも、貴方の中に記憶が残っている限り、情報が漏洩する可能性を潰しきれない」

「では、私には何を課す?」

「貴方の記憶を改竄する。
 貴方は生を受けてから今日までの全ての記憶を失うことでしょう。
 自己の存在さえ不確かな世界を彷徨い、自身の罪を省みなさい。
 一輪、居ますか?」

「はい」

「この者を拘束してください。
 済み次第、八雲紫へ連絡を」

「わかりました」



 君は何を言っているんだ。
 そんなことをして何になる。
 私を騙していただって?
 ふざけるんじゃない。

 君がそんなことをできる人間なんかじゃないって、
 私は知っているんだ!

 何か事情があるなら話して欲しい。
 こんな状況だから、どうにかはしてあげられないけれど。
 それでも、ちゃんと話してくれれば、私は、それだけで……

 自身の内に迸る、思考、感情。

「……っぁ、くぁ」

 私は、その欠片の一つとして、言葉にすることができなかった。

 声を出すことができない。
 体はおろか、指先のひとつも動かすことができない。

 私は○○とご主人様のやりとりを、ただ聞いていることしかできなかった。
 なまじ意識が明瞭であることが苦痛を増幅させている。
 いっそ、気を失ってしまえば楽になれたのに。



「ナズーリンっ!」

 ご主人様が駆け寄ってくる。
 私の様子が尋常でないと判断したのか、顔色は蒼白に近い。

「ぅあぅ、がっ、ぁあ!」

 何とか絞り出した声は、言葉として何一つの意味も成していなかった。

 私の奇声を耳にしてか、ご主人様の顔に絶望に似た陰りが差す。
 こちらに向けて差し出された右手は、目に見えてわかるほど震えていた。

「――! ――!!」

 私はご主人様に向かって声にならない声を上げ続ける。
 視界がいつのまにかぼやけていたのは、涙を流しているからか。

「……ナズーリン、部屋を用意します。
 貴方はしばらく命蓮寺で過ごしなさい」

 奇声を上げ続ける私から目を背け、人を呼ぶご主人様。
 差し出しかけられた右手は、今は腰の辺りで強く握られている。
 血の気が引いた顔色と、潤んだ瞳。
 その涙を呼び起こした原因は、間違いなく私。
 申し訳なさで心がばらばらになりそうだ。

 心の内は酷く冷静な癖に、
 私の体は何かを訴え続けるように声を上げ続けた。
 自身の体と心がこんなにも乖離するなんて、初めてだった。

「こちらへ」

「……」

 そんな最中、雲居一輪が○○を後手に縛って私の前を通過していく。
 恐らく離れにでも連れて監禁するのだろう。

 彼は生まれてから一切の記憶を消されるらしい。
 私のことだけでなく、妹さんのことも全て忘れさせられるのか。

 嫌だ……
 そんなのは、嫌だっ!

 ○○、いやだ、ついて行っちゃだめだ!
 どうして抵抗しないんだよ!?
 大切な記憶が、妹さんへの思いが、消されようとしているんだよ?
 自分の命を賭すほど、大事なことじゃなかったのかよっ!?

 私が……
 私が反魂香を盗み出そうとしたから、こんなことになったの?
 だって、しょうがないじゃない。
 あの場で引き止めなかったら、君は今、この世に存在していないだろうから。

 どうしてこんなことになってしまったんだよ。
 こんな結末を望んだわけじゃない。
 私は、君と……

「――――!!!」

 ただ、宝探しを続けたかっただけなんだよ。

 私の奇声を耳にしても、○○は視線一つよこさなかった。
 それどころか、私から顔を背けて表情一つ見せてくれない。
 反魂香を盗み出せなかった時点でお前に用はないと、
 言外に訴えられているような気がした。

 最後まで、彼は私に一瞥もくれず、部屋の外へと連れ出されていった。





「……」

 今日も何事もなく過ぎていく。

 命蓮寺に戻って早くも一週間が経過していた。
 その間、私は宛がわれた客室で何もせずに過ごしている。
 朝昼晩食事する以外は、部屋の隅に座っているだけ。
 ただ何もせずに、ずっと。

 時折人が尋ね来る。
 二日に一度ほど、ご主人様が尋ねてきて下さっていた。
 私を気遣い、優しい言葉で労わろうとしてくれる。
 
 ただ、私はその全てに答えられなかった。
 先日の出来事を境に、私の声は失われたままだ。
 体は動くようになったが、声だけは戻らない。

 ご主人様は何も知らないから、優しく接してくれる。
 この件を引き起こした元凶は、私にあるというのに。

 三日目の夜、ご主人様は○○の記憶を操作して放逐したと私に告げてきた。
 もう、全てが手遅れになってしまった。
 私があの時全てを打ち明けていれば、もう少しましな未来が待っていたのだろうか。

 でも、もし○○が語ったことの全てが、真実であったとすれば?
 私のことを利用するために近づき、共に過ごした時間の全てが、
 欺瞞に満ちたものだったとしたら?

 ……違う。
 そんなこと、あるはずがない。
 私は彼のことを、誰よりも理解している。
 彼の性格からして、誰かを欺くなんて……


 じゃあ、なんであの時確かめなかったの?


「!!?」

 こめかみに痛みが走ると同時に、自身の中に浮かんでくる反論。
 私はかぶりを振って打ち消そうとする。


 そんなに自信があるならば、すぐに確かめれば良かったのに。
 そうすれば、少なくとも○○が記憶を消されることはなかったはずだよ?


 だが、それは私の本来の人格であるかのように堂々と振舞い、
 私の思考を塗り潰していった。


 結局、○○のことを大切にしたいって、一緒に宝探しをしたいって思っても、
 最後は自分の身が可愛かったんだよね?
 だって、反魂香を盗もうとしたことがご主人様にばれたら、
 どんな目に遭うかわかったもんじゃない。


「――!! ―――!!!」

 私は喉から血が吹き出るほどの咆哮を上げていた。
 違う!
 違う!!
 私は本当に、○○のことを……


 かわいそうだよね、○○。


 いい加減にしてくれっ!!
 頭の中を反芻する思考を追い払うため、私は壁に向かって何度も頭を打ち付ける。
 額から出血したのか、顔全体はぬめりを帯びた液体に覆われていた。。
 痛みと不快感を無視して頭を打ち続けていると、意識が朦朧としてきて、私は体から床に崩れ落ちた。

「ナズーリン!? 何をしているのですかっ!!?」

 襖を壊さんばかりの勢いで開け放ったご主人様が、私に駆け寄って来る。
 また心配を掛けてしまったことに罪の意識を覚えながら、
 私は意識を手放した。


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最終更新:2018年02月11日 22:22