命蓮寺に戻ってから二週間が経過した。
 先週私が自傷行為に走って以降、
 夜寝る時以外は必ず誰かが部屋にいるようになっていた。

 一日の大半は、年を召した女性信者が身の回りの世話ついでに傍に居てくれたが、
 日に一度、時間は不定だったが必ずご主人様が顔を出してくれていた。
 忙しい御身だろうに。
 仕事の合間を縫ってまで私の傍に居ようとしてくれるご主人様の姿に、
 感謝と共に申し訳なさが募っていく。

 誰かと共にいると、不思議と心が安らぐような気がした。
 いつから私はこんなにも弱くなってしまったのだろう。
 彼と一緒に過ごした時間が原因なのだろうか。
 よく、わからなかった。



「ナズーリン、いますか?」

 今日、珍しい方が尋ねて来た。

「……?」

「どうしたんですか呆けた顔をして。
 私がここに来てはいけませんか?
 ナズーリン、あなたは結構薄情な所があるのね」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて私を非難するのは、聖白蓮様。
 命蓮寺の住職を務める方だ。

「……!」

 聖様の軽口に、私は全力で首を横に振る。

「冗談よ……ふふっ」

 そう零して嬉しそうに笑う聖様。
 直接の主従関係ではない私達は、今までそれほど関わりを持ったことがなかった。
 普段の泰然自若とした印象からは、想像もつかないような言動。
 失礼だとは思ったが、少し親近感が覚える。

 聖様は両手で盆のようなものを抱えていた。
 鼻腔をくすぐるのは清涼な緑の香り。
 どうやらお茶を持参してきて下さったようだ。

 私は慌てて立ち上がろうとすると、

「そのままで結構です。
 今日はあなたがもてなされる側なのだから」

 部屋の中央に設置されている卓に盆を乗せ、
 自らも卓の傍に腰を下ろした聖様が私を言葉で制止する。

 一応命蓮寺の最高権威だ。
 はいそうですかと雑事をさせるわけにもいかない。

 しかし、聖様はなお食い下がろうとする私に笑顔で首を振る。
 これ以上は却って失礼にあたると判断した私は、
 仕方なく聖様に給仕をお任せすることにした。

 聖様は急須に入ったお茶を二人分の湯飲みに茶を注いでいく。
 その所作に澱みはなく、普段からやりなれていることが伺えた。

「ふふっ、私だってお茶くらいは自分で淹れるわ。
 お味はどうかしら?」

 心の内を読んだかのような物言いに、少し面を食らってしまう。
 私は内心の動揺を気取られないようにと、
 湯気の立った湯飲みをゆっくりと持ち上げ、口元に寄せた。
 やけどしないように慎重に口に含むと、煎茶特有の甘みと香りが広がっていく。

「ぁ……ぅ」

 おいしい。
 そう言葉に出そうと思ったが、相変らず私の喉は意味のある言葉を紡ぐことを拒否していた。
 思い通りにいかない我が身を恨んでいると、

「大丈夫よ。あなたがおいしいと思ってくれていることは、しかと伝わっています」

 笑みを一層深くした聖様が、聖様は優しげな声音で私を諭した。

「……」

「自分の意思を相手に伝える術は、何も言葉だけに限らない。
 表情、仕草、瞳の動き。言葉以外にも様々な方法で、意思の疎通は可能よ。
 言葉は人と意思を交わす際に必要だけど、それ単体では真意は伝えられない。
 言葉は、幾らでも取り繕うことができるから」

「……」

「あなたがお茶を含んだ時に浮かべた、美味しそうな表情。
 それが千の賞賛にも勝る喜びを、私に与えたのよ」

 聖様の話に引っかかるものを覚える。
 それはまるで、私に何か大切なことを伝えようとしているような。

「ナズーリン」

 背筋を伸ばした聖様が、私を真っ直ぐに見据える。

「あなたは、○○さんのことを、どう思っていますか?」

 表情は先程までの和やかなものから、凛然としたものに変化している。
 聖様は恐らく、この言葉を投げかけるために、今日私を訪ねてきたのだろう。

「……」

 ただ、私は何も答えられなかった。
 声が出ないから、という理由だけではない。
 自分の中でも、はっきりとした答えが定まっていなかったんだ。

「まあ、今は声が出ないようですから、
 あなたに質問するのは、少し意地が悪いですね」

 そういって申し訳なさそうに笑う聖様。
 初めから答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。

「では、代わりに私が○○さんに抱いた印象をお話しましょう。
 ナズーリンと○○さんが出会う少し前、私は○○さんとお話しする機会がありました。
 このことは、知っていましたか?」

「……」

 私は首を縦に振る。
 ○○が妹さんの遺骨の探していると打ち明けてくれた時、
 そのようなことを言っていたのを覚えている。

「そう、知っていたのね。
 当時の彼は妹さんの遺骨を探すために、各地を奔走していたみたい。
 遺骨の情報を当たる内に、命蓮寺に探し物に長けた妖怪がいることを知ったようね。
 面会を求められて行ってみれば、ナズーリンに会わせて欲しいと懇願されたわ。
 妹の遺骨を探す手伝いをして欲しいということも、この時に頼まれたの」

 じゃあ、聖様は彼の目的を初めから知っていたんだ。
 聖様は更に言葉を続ける。

「彼は……とても思い詰めているようだったわ。
 有力な情報を探しては現地に赴き、空振りに終わるということを繰り返していたのですから。
 自然と心身が磨耗していくのは致し方ないでしょうね。
 私は彼に遺骨の捜索を一度中止するよう提言したの。
 このまま探し続けていれば、いずれ彼自身の体が持たなくなると思ったから……
 自分の体を探して倒れられるなんて、亡くなられた妹さんも望むはずないでしょうし」

 なんとも彼らしいというかなんというか……
 恐らく妹さんを亡くしてから、寝る間も惜しんで探し続けたのだろう。
 数年間、一日も欠かさずに。

「私の薦めに対して、彼は黙って首を振ったわ。
 一刻も早く迎えに行ってあげたい、彼女に謝りたいって、言っているように思えたわ。
 私は星に何とかしてあげられないか相談して、星が彼に手紙の配達を依頼したの」

 それが、私と○○を引き合わせる切っ掛けになった出来事。
 でも、それらも全て、○○の掌の上だったのだろうか。

 右のこめかみに痛みが走る。
 また、以前みたく暗い思考に囚われてしまうのか。
 私は無意識の内に両手を重ね合わせて強く握り締めていた。

 その様子を見てか、卓を挟んで反対に座っていた聖様が立ち上がり、
 私の隣まで移動してきた。
 隣に座った聖様は、私のきつく握り締められた両手を、ご自身の両手で包み込む。

「ナズーリン、私は彼があなたを騙していたなどとは、到底思えない。
 あなたに会わせて欲しいと願い出たことは、間違いなく彼自身の本当の願いよ。
 彼の言葉に、表情に、仕草に。
 あなたに会って、何としてでも妹さんを探したいという思いが、滲み出ていたわ」

「……」

「ナズーリン、あなたを騙していたと語った時の、彼の表情を見ましたか?
 その仕草のひとつひとつを、目に焼き付けましたか?
 それら全てをひっくるめて、彼が真実を語っていると、思いましたか?」

「……ぁ」

 そうだ……
 私は、彼の顔を見ていない。
 いや、彼が見せてくれなかった、と言った方がいいのか。

 彼が私の前を横切る時、顔を背けていたことを思い出す。
 それは、以前私が指摘した、彼が動揺した時に見せる癖。
 瞳が動いていることを、悟られないためではなかったのか。

 彼は嘘を吐いている。
 それはほぼ、間違いないのだろう。
 確定的な証拠はないが、数多くの状況がそれを裏付けている。

 でも、今更嘘を吐いているとわかった所で、何だっていうんだ。
 もう○○の記憶は消されてしまった。
 私のことも覚えていない。
 そんな彼に、一体何て声を掛ければいい?

 私は君のことを信じていたよ。
 君はそんなことをする人じゃないって。
 だから、ご主人様に、聖様に事情を話して謝罪しよう?
 大丈夫、私も一緒に謝るよ。
 元を正せば私が反魂香を盗むと言い出したからね。
 二人で償いをして、許してもらえたら記憶だって戻してもらえるかもしれない。
 もしそうなったら、また一緒に宝探しをしよう?
 今度はちゃんと見つけられるから。
 何としてでも、私の全てを賭してでも、見つけるから。

 違う……
 違うっ!!

 そんなことよりも先に、伝えるべき言葉が、気持ちがあるだろう!!

「ぉぇ……ぁい」

「……ナズーリン?」

「ごめ……なぁい」

「ナズーリン、言葉が……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 反魂香を盗むと言った時、強く反対した○○。
 それは、私の身を案じたから出た言葉。
 あの時彼は、どんな顔をしていたか。
 珍しく、感情があらわになっていなかった。
 私のことを、本気で心配したからこそ、浮かび出た表情。
 彼は、言葉で、態度で、示してくれていたんだ。

 どうして気が付かなかったんだろう。
 どうして信じられなかったんだろう。
 答えなんて、最初から私の中にあったのに。
 彼は、私のことを思って、自ら罪を被ったんだ。
 私が自分の居場所を追われるという結末を、回避するために。
 じゃあ、そんな彼に対して、私は何を伝えるべきなのか。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「ナズーリン……」

 聖様が重ねていた両手を解き、私の頭の後ろへと腕を回して胸元に迎え入れる。
 僅かに聴こえてくる、聖様の生命の拍動。
 鼓動を通して伝わるのは、全てを受入れる寛容と、無際限の優しさ。

 私を守るために、無実の罪を被った○○に対して、心からの謝罪を。

 そして、

 私の心を救ってくれた、数多くの仲間達に対して、

「ありがとう、ございます」

 最大級の、感謝を。



 あれから少しの間、聖様の胸に甘える時間を過ごした。
 しかし、やるべきことが明確になった今、一秒の時間も惜しい。
 聖様の包容力は魔性という言葉以外に形容できない抗い難さを放っていたが、
 私は聖様の両肩を手で押さえ、力尽くで頭を胸元から引き剥がす。
 その際に聖様が浮かべた残念そうなお顔が、脳裏から離れない。
 甘えられるのが、お好きなのだろうか?

 聖様の胸元に飛び込みたくなる欲求を何とか堪え、
 私はことの経緯を改めて説明することにした。

 畳半畳ほどの距離を開けて、聖様と正面から向かい合う。

「つまり、あなたが反魂香を盗み出そうと計画した、と」

「はい、その通りです」

 まず始めに、一連の騒動の原因は私にあるということを説明しなければならなかった。
 ○○の死を止めようとしていたとは言え、命蓮寺の秘宝を盗むという行為は、
 決して許されるものではない。

「改めてになりますが、誠に申し訳ございませんでした」

 私は正座したまま両掌を畳に付け、上半身を前に倒し、最大級の謝意を示す。
 しばらくそのままの体勢で、聖様の言葉を待った。

 やがて、

「……そうですね、あなたが起こしたことは、命蓮寺の戒律に背くものです」

 聖様の厳しさを帯びた声音が、私の耳朶を打った。

「……はい」

 私は体勢を変えないまま首肯する。

 訪れる沈黙。
 私にできるのは、ただそのままの姿勢で聖様の言葉を待つのみ。

 どれほど時間が経っただろうか。
 聖様が溜息と共に、再び言葉を発した。

「でもまあ、○○さんを死なせないためにしようとしたことなんでしょう?
 であるならば、あなたの考えは間違っていないわ。
 勿論、窃盗に関しては見過ごすことはできないけれどね?
 具体的な処遇については、追々考えると致しましょう」

「ありがとう、ございます。」

 窃盗については釘を刺されてしまったが、どうやらお許しは得られたようだ。
 床に付けていた頭をゆっくりと起こす。

 まずは一安心という所か。
 安堵感からか、溜息が漏れそうになってしまう。

 その様子を見た聖様は、あからさまな苦笑いを浮かべる。
 出来の悪い生徒を見る教師は、恐らくこういった表情をしているのだろうな。

「でも、一つだけ忠告をします。
 安易な自己犠牲に走るのは止めなさい。
 あなたも、そして○○さんもよ」

「……はい」

「自身を犠牲にして問題を解決を図るのは基本的には悪手よ。
 往々にして本人の自己満足という側面が強く、
 当人以外の意思を無視したものになってしまうわ。
 あなたが反魂香を盗もうと打ち明けた時、○○さんはどのように思ったかしら?」

「彼は……反対してました。
 珍しく、難しい表情を浮かべて」

「そうね。
 彼は妹さんに会いたいと強く思いつつも、、
 それと同じ位、あなたのことも大切にしたかったんだと思うわ」

 そう、だったんだろうな。
 今ならば、驚くほどに得心がいく。

「では仮に、あなたが○○さんの立場だったらどう?
 誰かに不利益を押し付けて成り立った成果に、価値を感じるかしら?」

「こと今回に関しては、感じません」

「自己犠牲の全てが悪いこととは言わないわ。
 今回も結果としては○○さんの死を思い止まらせることには繋がったしね。
 ただ、一方では○○さんの意思を無視してしまったという側面もある。
 繰り返しになるけど、自己犠牲は当人以外の気持ちを置いてけぼりにしてしまうわ。
 例えそれが、問題を最短距離で解決できる方法であったとしても、
 安易に選び取れば相応の報いを受けることになる。
 それを、よく覚えておいて欲しいの」

「はい。わかりました」

 私は今もこの身を支配する後悔の念と共に、聖様の言葉を心に刻みつける。
 二度と、同じ過ちは、繰り返さない。

「ええ。
 あなたに関しては身に染みて理解しただろうから大丈夫そうね。
 ○○さんには、あなたから伝えておいて」

「え……?」

「会いに行くんでしょう? 彼に」

「はい。でも、どうして?」

「さっさと謝って探しに行きたいって、顔に書いてあるわよ」

「……」

 どうやら、考えを見抜かれていたらしい。
 流石に命蓮寺の住職の肩書きは伊達ではないようだ。

 なんとなく気まずくなり、視線を外していた所で、
 聖様は心配そうな表情を浮かべて言葉を続けた。

「○○さんは、記憶を失っているわ。
 あなたのことも忘れてしまっている。
 それでもいいの?」

 その問い掛けに含まれるのは、憐憫か、情愛か。
 恐らく、その両方共であろう。

 罪を犯した私に対し、どこまでも優しく接して下さる聖様に、
 私は何を示せばいいのだろうか。

「私は……」

 それは、恐らく、誠意。
 自ら為すべきことを為し、後悔しないこと。

「私は、彼に謝りたい。
 謝って、そして、お礼を言いたい。
 誰かと心を交わす楽しさを、誰かのために何かを為すことの喜びを。
 教えてくれてありがとうって、伝えたいです。」

「そう」

 短く頷いた聖様。
 浮かべられた優しい笑みは、全てを包み込む母性の体現か。
 しかし、その緩く弧が描かれた目尻は、やがて意地悪げに釣り上がる。

「でも、それだけでいいのかしら?」

「えっ?」

「あなたの願いを、聞かせて?」

「私は……」

 彼と共に、これからの生を歩みたい。
 たとえ、私のことを忘れてしまっていても。
 彼が傍にいない生活なんて、考えられもしなかった。

「私は、彼と、共に在りたいです」

「そう。
 彼のこと、好きなのね」

 聖様が静かに零したその一言は、
 私の胸の中心に甘やかな痺れをもたらした。


 ああ、そうなのか。

 私は、彼のことが、好きなんだ。

 そんなこと、今まで考えたことがなかったな。

 仲間とか、相棒とか、そんなようにしか考えていなかった気がする。

 今まで、それ以外の関係性を持ったことが、なかったからか。

 でも、この半年間を振り返れば心当たりは幾つもある。

 今まで覚えたがない感情に、振り回された日々。

 あれは、彼のことを異性として意識していたから、芽生えたものだったんだ。


「……はい」

 誰かに言われて初めて、好きという感情が、心に違和感なく浸透してきた。
 彼に、私の想いを伝えたい。
 決して、届くことがないと、わかっていたとしても。

 それでも、私は伝えたかった。
 あなたのお陰で、私は幸せな時を過ごしていたということを、伝えるために。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 眼前に映るのは、見覚えのない光景。
 周囲は闇に閉ざされ、人の気配は感じられない。
 光源は前方に映し出される景色のみ。

 私は、目の前で繰り広げられるそれを眺め続けていた。

 見知らぬ少女が日々を過ごす様が、ひたすら繰り返されるだけの内容。
 展開に連続性はなく、見世物であれば三文以下の出来。
 ただ、胸に渦巻くのは、声が詰まるほどの幸福感と懐かしさ。

 私はどこかで、この人と会ったことがあるのだろうか。

「――」

 無意識に零れ出た言葉は、意味のわからない音の連なり。
 それは周囲に反響するわけでもなく、自身の耳に残るわけでもなく、
 ただ暗がりに解けて消える。

「……」

 今の言葉は、何を意味していたのだろうか。
 自身に蓄積された全ての情報をひっくり返しても、該当するものを見つけられなかった。

「ちう」

 前置きなしに発されたのは、鼠の鳴き声。
 音のする方向に目を向けると、一匹の鼠がこちらを見据えていた。
 瞳は周囲の闇を溶かして固めたような黒一色に染められており、
 そこからは何の感情も伺えない。

「ちう」

 何の変哲もない、ただの鼠の鳴き声。
 それは、私の耳を通って脳へと至り、やがて体の隅々まで行き通る。
 先程自分自身が何を言ったのか、一欠片も覚えていないのに、
 なぜかその鼠の鳴き声が、耳から離れなかった。



「……」

 意識がゆっくりと浮上していく感覚。
 瞼をあげると、そこにあるのは見慣れない天井。
 馴染みのない感覚に辟易しながら身を起こすと、晩秋の冷気が容赦なく肌を刺す。
 温い布団に戻りたいという誘惑を、かぶりを振って外に追いやった後、
 私は緩慢な動きで身支度を始めた。

 私は一週間ほど前、この長屋に戻ってきた、らしい。
 らしい、という表現しかできないのは、
 私は戻ってくる以前の記憶を一切保持していないからだ。

 自分自身の所在から、周囲の人間との関係性、
 周りに存在するもの全てが、私の知らないもので構成されていた。

 今こうして生活をしていられるのは、記憶を失う前に懇意にして頂いて方々のお陰だった。
 自分は何をしていたのか、どんな性格だったのか。
 聞いている内に少しずつではあるが、以前の自分を近づいている気がする。
 長らく休んでいたらしい自身の生業も、今では再開できるほどになっていた。


 状況が安定に近づいていくと、疑問が湯水のように湧き出でる。

 一つ、記憶の一切がなくなっているにも関わらず、なぜ知識だけは残っているのか。
 不思議なことに、私は周囲の物、人のことを知らないだけであって、
 物自体の名称や役割、人との接し方、社会的な常識、通念に関して過不足なく備わっている。
 今置かれた状況を例えるならば、自分の意思と無関係に知らない土地に引越しをさせられた上に、
 他人の家で生活しているような感覚とでも言うのだろうか。

 人の体について専門的なわからないが、
 基本的な知識だけが残り、自身にまつわる記憶のみが消えるなどという都合の良いことが、
 起こりえるのだろうか。

 二つ、何が原因となり、記憶を失ったのか。
 こればかりは考えても仕方ないことではあるが、自身の身に何が起こり記憶を失ったのか、
 どうしても気になってしまう。
 今の自分の状態を考えると、相当な大事が起こったと考えて差し支えないだろう。
 しかし、五体は満足で生傷も付いていない。
 何か、自分の常識では測れないような事態にでも、巻き込まれたのか。

 三つ、なぜ同じ夢を繰り返し見るのか。
 毎夜毎夜、暗い空間の中で見知らぬ少女が日常を過ごす場面を眺め続ける夢を見ている。
 日によって多少内容は異なるが、状況に差異はない。
 ただ、何もない場所で、映し出される光景を眺めるだけ。

 記憶が夢という形で再生されているのか、とも考えたが、
 心当たりも何も全て忘れてしまっているため、真相はわからない。
 わかるのは、胸に去来するむずがゆくなるなるような嬉しさと、懐かしさ。
 そして、最後に必ず現れる一匹の鼠。
 映し出される少女と、私のことを見据える鼠が、記憶を紐解く鍵を握っているのだろうか。


 気が付けば、思考の沼に腰まで浸かってしまっていた。

「……そろそろ時間か」

 思索を続けようとする頭を強引に切り替え、仕事に向かう準備を進める。
 万屋の仕事を再開した私は、今は建設現場の人足として雇われている。
 どれだけ深い悩みがあったとしても、生きていくためには仕事をしなければならない。

 記憶を失う以前の私は、どのような気持ちで仕事へと向かっていたのだろうか。
 その答えを知る術を、今の私は持ち合わせていなかった。





 繰り返す。
 ただ、繰り返す。

 家と現場を行き来する日々。
 仕事をして、日々の食い扶持を得て、生活をしていく。
 今の状態は安定していると肯定するべきか。
 それとも、停滞していると忌むべきなのか。

 私は、今まで何を目的に生きていたのだろうか。
 守るべき家族もなく、打ち込むべき趣味もなく。
 ただ、生きるためだけに楽とは言えない仕事を続けてきたのだろうか。

 里の中を歩いていると、様々なものが目に映る。
 子供に手を引かれ、困惑を顔に浮かべながらも幸せそうに頬を緩める母親。
 仲睦まじそうに肩を並べて歩く老夫婦。
 長屋の玄関で、家族の歓待を受けて笑顔を浮かべる男性。
 それらは全て、人々が明日を生きるための理由となり、活力となる。

 私にも、そういったものが、あったのだろうか。
 仮に存在していたとしても、それは糸よりも細く、
 障子紙よりも脆いものであったのだろう。
 今私の傍に何も残っていないことが、何よりの証左である。


 空虚とも言える自身の生活に唯一の彩を添えているのが、毎夜必ず見る夢だった。
 見たことも、話したこともない少女の生活が、ただ映し出されている夢。
 ある時は部屋の掃除をして、ある時は外へ仕事に出る。
 他愛もない日常が、垂れ流されているだけの夢。

 今日も相変らず同じ内容の夢を見る。
 彼女の生活を見ている間だけ、私の胸は得も言われぬ幸福感に満たされた。

 繰り返し、繰り返し夢を見続けている中で、
 いつしか私は彼女に会いたいと思うようになっていた。

 冷静に考えれば馬鹿げた話である。
 夢の中に登場する少女に会いたいなど、今日日子供でも考えないことだろう。
 存在するかどうかもわからないのだ。
 考えるだけ栓ない、無意味なこと。

「ちう」

 いつの間にか私の足元に鼠が現れていた。
 そろそろ、今日の夢も終わりが近づいているようだ。
 鼠が現れてからは体感で数秒もしない内に、私は現実へと引き戻される。
 どうやら、この夢における決まりであるらしい。

「ちう」

 夜空の色をそのまま移したような深い黒色の瞳に私を映したまま、一つ鳴き声を上げる鼠。
 私が先程まで考えていた妄想とも言える思い付きを、嗤っているのか。
 それとも、実現させろと背中を押しているのか。
 鼠は何も答えてくれなかった。





「ちう」

「……」

 私は起きながらにして夢を見ているのか。

 仕事を終えて帰宅している途中、私は毎夜夢の中で会っていた鼠と遭遇していた。
 辺りに人影はなく、私と鼠は互いに見合い、静止している。

 鼠の生態には詳しくない。
 飯屋の周辺で残飯を漁っている姿を目にしたことがある位で、
 鼠一匹一匹の個体差など、当然把握していない。

 しかし、私は、眼前に佇んでいる鼠が、私の夢に登場するものと一致していると確信していた。
 陽は暮れかけ薄闇が辺りを包む中で、なお際立つ黒色の瞳。
 こちらを真っ直ぐ射抜く視線に縫い付けられてしまったかの如く、私はその場から動けずにいた。

「ちう」

 鼠は突如反転し、私を置いて走り去る。
 そのまま十歩ほどの距離を置いた所で再び反転、私の方を見据えている。

 これは、

「ついて来い、ということなのか」

 視線が外されたせいか、体の自由はもう戻っている。
 私は無意識に、足を踏み出していた。
 ついていった先に、何が待っているのか、深く考えもせずに。



 街道を行き。
 森を抜け。
 山を登った先に、その場所はあった。

「……廃村か」

 川の付近にある、開かれた敷地。
 夜を通して走り続け、着いた頃には朝日が山の頂上から顔を出す頃となっていた。

 陽の光に照らされた廃村は、その姿を克明に晒す。
 住居と思しき建物の残骸は、今や風雨に浸食され、原型を止めていない。
 辺りに散乱する瓦礫は、伸び放題となった草木と絡まり自然の一部へと還ろうとしていた。

 何らかの理由で、村ごと棄てられたのか。

 鼠を追い駆けて来たは良いが、肝心の鼠はどこかへと姿をくらませてしまっていた。
 やはり、あれは幻の類だったのか。
 よくよく考えれば、夢で見た鼠が全く同じ姿形で現れるというのも、
 いささか都合の良い話である。

 ただ、ついて行った先にあった、この廃村。
 ここには、自分と浅からぬ縁がある、ということは理解できた。
 記憶に存在するわけではない。
 爪先が、膝が、手指が、心臓が。
 全身が自身の制御下から離れて、勝手に動き出しているような、感覚。

 意識と連動していない両足は、ただ一点を目指し動き続ける
 私の中に埋没する記憶の残滓が指し示す場所へ。

 どれくらいの時間を歩いていたのだろうか。
 熱に浮かされたような感覚が、意識を支配している。
 三分ほどか、それとも三時間は歩いていただろうか。
 時間の感覚すら曖昧な状態。

 自我の存在すら疑い始めた所で、私の足はようやく次の一歩を踏み止まった。

「住居……?」

 それは、かつて住居として存在していたもの。
 四方そびえる柱が、建物であったということを辛うじて示している。
 それ以外は、何も残されていない。
 外壁、内装、家財道具から衣服の類まで。
 かつて人が住んでいた、という一切の痕跡が、そこには存在しなかった。

 強大な質量によって、何もかもが根こそぎさらわれたような形跡。
 この村が棄てられた原因は恐らく、

「川の……氾濫」

 その言葉が口の端から零れた時、頭の奥がじわりと熱を持つ。
 私は、知っているのか。
 この建物を、この場所で起こった出来事を。

 頭の奥から発された熱は徐々に温度をあげ、やがて痛みへと変化していく。
 この場所に留まるのは、心身に重大な負担が掛かる。
 一度離れようと、反転しようとした時、


「あら、いらっしゃい」


 目の前の空間を割り裂いて、一人の女性が顔を出した。

「!?」

 最初に目に付いたのは、艶やかな金色の頭髪。
 風にたなびく金糸の一本一本が、朝陽を浴びて一層輝いて見えた。

「よいしょっ……と」

 切り広げられた空間の境界線に手を掛けて、更に割広げる女性。
 首から下、足先までの空間をこじ開け、優雅に地へと降り立つ。
 その光景は、私の言語を司る機能を麻痺させるには十分過ぎた。

「……」

 彼女は、妖怪の類だ。
 しかも、最上位に位置する。

「驚かせてしまったようね。ごめんなさい」

 艶然と微笑む女性。
 それは恐ろしく整った目鼻立ちと相まって、生物よりも造形物に近いという印象を抱かせた。

「……あなたは?」

「私は八雲紫。幻想郷に住まう妖怪よ」

 発された言葉は、ただの自己紹介。
 しかし、唇から漏れ出た一音一音が、至高の楽器で奏でられたように響き、
 私の耳朶を打つ。

 あまりにも洗練された存在。
 こうも全てが完成されていると、寧ろ何もかもがまやかしなのではないかと思えてくる。

「そう警戒しないで。
 私はあなたの探し物を届けに来ただけよ」

「探し物? 一体、何を……」

「あなたの、記憶」

「っ……!!」

 この、女性が。
 記憶を取り戻す、術を握っている。

「私の、記憶を――」

「っとその前に、一つだけ確認」

 即座に返答しようとする私を、八雲紫と名乗った女性は穏やかな口調で静止する。

「あなた、本当に記憶を取り戻す必要があるのかしら?」

「何を……」

「無味乾燥としながらもおおよそ安定した生活。
 記憶喪失であることを理解して、支援してくれる周囲の人々。
 人生を左右するほどの大きな問題もなく、縛られるものもない。
 未来はあなたの意思によって幾らでも展望を望めるわ。
 そのような恵まれた環境を捨ててでも、あなたは過去にこだわるのかしら?」

 先程と変わらない、落ち着いた語り口でひとつひとつ言葉を発する彼女。
 その一言一句は、耳を伝い脳へと至る神経毒のように、私の思考を掻き乱した。

 確かに、見ようによって今の状況は良好であるとも捉えられる。
 記憶は存在しないが、食うに困らないほどの仕事があり、
 周囲の人達は見返りを求めない優しさを施してくれる。
 生きることの意義だって、これから探しても遅くはない。
 伴侶を見つけ、子供を授かり、育て、死んでいく。
 そういった当たり前の幸せをなぞることに、何の不満があると言うのか。

 喉まで出掛かっていた反論は、いつの間にか霧の如く立ち消えていた。

「記憶を求めた先に待つのは、
 決して払拭することのできない悔恨と、消せない罪。
 そして、胸をえぐられるような切なさだけよ。
 それでも、あなたは行くのかしら?」

 八雲紫の問い掛けは尚も続き、私の思考を侵食していく。
 もう、過去のことは、忘れたままにしておいた方が良いのか。
 今までのしがらみは全て捨て去り、新たな人生を歩んだほうが良いのか。
 先程までの決意は鈍らされ、惑い、逡巡し、後ずさりしそうになった時、


「ちう」


 姿を消していた鼠が、再び私の目の前に現れた。
 眼前の鼠は、私の目を見つめながら鳴き声を上げる。
 声の調子は、毎夜夢で見ていたものとも、昨日里で目にしたものとも変わらない。
 ただ一つ、違うのは、

「……泣いて、いるのか?」

 鼠の双眸から、極々僅かだが涙と思しき液体が流れ出していた。

 私は鼠の生態に詳しくない。
 彼等が涙を流す理由なんてもってのほかだ。
 それは、たまたま目に異物が入ってしまっただけなのかもしれない。
 そもそも、鼠に感情があるのかすら定かではないのだ。
 人間の涙と同列に扱うというのは、いささか無理がある。

 しかし、その涙を見ていると、心が奮え立つのを抑え切れなかった。


 知りたい。
 私は知りたい。
 自分がかつて、何を考え如何に生きていたのか。
 自らの根源となっているものを、知りたい。


「そう。それがあなたの答えなのね」

 八雲紫の声が聞こえ、彼女がいる方向へ再び体を向ける。
 先程まで確かに存在していた人影は、その痕跡すら残さず、消え去っていた。

「そうだ。
 これが、私の、選択」

 姿の見えない彼女に対し、私は力強く宣言する。
 もう迷わない。
 私は、過去の自分と、対面する。


 頑張りなさい。


 彼女の声が頭に直接響くような感覚を覚えた、その瞬間。


「――」


 私の頭の中に存在した、どうしても拭いきれない違和感が取り払われた。
 今まで決してかみ合わなかったもの同士が、がちりと音を立てて組み合う感覚。

「あ」

 私は、全てを思い出した。
 新たな記憶が奔流のように流れて来るのではなく、
 最初から存在したかのような、違和感のない追想。

「ああ……」

 ここは。
 この場所は。

「私の、生家」

 双眸から流れ落ちるのは、涙。
 私が生まれ、人生の大半を過ごした、大切な場所。
 水害を経て無残な姿となってしまっていても、
 どこに何があったのか、どのように過ごしていたのか、
 目を閉じれば、昨日の出来事のように思い出せる。

 この場所で、彼女は……妹は、命を落とした。

 心臓が鷲掴みにされたような狭窄感を覚えると同時に思い出したのは、
 八雲紫が残した言葉の数々。
 起きてしまった出来事を、なかったことにはできない。
 決して拭い去ることのできない悔恨が、確かに存在した。

 でも、私は記憶を取り戻したことを、後悔しなかった。

 それは、胸の奥の奥の方にしまわれた、大切な想い。
 記憶を失うその瞬間まで、心を砕き続けた、一人の少女への、想い。

 ナズーリン。

 彼女は今、どうしているだろうか。
 自らの在るべき場所に、帰れているだろうか。

 頭を過ぎるのは、最後に見た彼女の顔。
 困惑、焦燥、絶望、怒り。
 ありとあらゆる負の感情をない交ぜにしたその表情は、
 今も克明に思い出せるほど、私の記憶に深く刻み込まれている。

 彼女の立ち位置を失わせないためには、こうするしかなかったという正当化意識。
 裏切りに裏切りを重ね、彼女の心に大きな傷をつけてしまったという後悔の念。

 背反する二つの意識。
 その根幹に存在するのは、彼女の居場所を失くしたくなかったという、願い。

 なぜそこまで彼女に固執する?
 なぜ自身の身を賭してでも彼女を救おうとした?
 なぜ人生における宿願をも諦めて彼女の身を案じた?

 それは……それは。
 私が、自分のこと以上に、彼女のことを、大切にしたかったから。

 ふと、思い出す。
 記憶を失っていた時毎日見た夢。
 少女が日々を過ごすだけの、夢。

 あの時映し出されていたのは、ナズーリンと過ごしていた日々の記憶だ。

 ナズーリンと過ごした特別でない日常が、今はただ愛おしい。
 妹を亡くして以降、彼女の弔いに捧げた私の人生における、唯一の特異点。

 目的のために不要な感情は一切排し続け、磨耗していた私に、
 誰かと心を交わす楽しさを、誰かのために何かを為すことの喜びを、
 思い出させてくれたのは、彼女だった。


 ああ、そうか。

 どうしてこんな簡単なことに、気が付つけなかったのだろう

 私は、彼女のことを、愛しているのか。

 愛しいと思うからこそ、特別だからこそ。

 私は、彼女の大切な居場所を、守りたかったのだ。


 なぜ、もっと早く気が付けなかったのだろう。
 そうすれば、今とは違う結末を迎えることも、できただろうに。

 私の想いは決して成就することはない。
 それは、自身の記憶を消されたという事実が、強く物語っている。

 私はもう、ナズーリンと逢うことはないだろう。
 逢うことが叶ったとしても、想いを伝えることはできない。

 当然だ。
 私は彼女を完膚なきまでに裏切り、拒絶した。
 今更好意など伝えた所で、鼻で笑われるのが関の山だろう。

 万が一彼女と心を通わせることができたとしても、彼女に益になることはない。
 彼女の主人である寅丸星にとって私は、部下を誑かした不倶戴天の敵も言える存在。
 そんな者が傍に居ると知れば、ナズーリンの大切な居場所を、
 また奪うことに繋がり兼ねない。

 そう、だから。
 私には、もう――


「ちう」


 暗澹とした思考に横槍を入れたのは、鼠の一鳴き。

 先程私に踏み出す勇気をくれた、鼠の幻。
 役目を終えてなお、彼の姿はまだ存在していた。

「ちう」

 夜空を思わせる黒い瞳が、私に何かを訴えかけるように視線を送る。
 その姿が記憶と照合され、強い既視感となり、意識の表層へと浮かび上がった。

 そう、彼は、

「ちう」

 ――諦めるな。
 ――逃げるな。
 ――想いを、遂げて見せろ。


「こんな所に居たのか!! 勝手な行動をするなとあれほど……」


 彼は、私が生み出した都合の良い幻なんかではない。

 夢で、現実で。

 陰に陽に私を支え、背中を押し続けてくれていたんだ。





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 ○○の捜索を始めて二日目の朝。

 私はいつの間にか居なくなっていた使い魔の鼠を探していた。

「全く、どこをほっつき歩いているのか……」

 昨日の夕方、探索を打ち切ろうと使い魔に召集を掛けた所、
 一匹だけ私の元へ戻って来なかった。
 艶のない黒い瞳を持った鼠。
 その鼠は○○によく懐き、私の命令を度々無視して彼と一緒に行動していた。

 もしかしたら、彼は○○の居場所を見つけたのだろうか?
 そんな都合の良い展開が、私の思考に浮かんでくる。
 それをかぶりを振って追いやると、私は件の鼠の居場所の探知に集中した。

「……向こうか」

 気配を感じた方向へと飛翔する。
 鼠の居場所は、人間の里から少し離れた場所にある山の中腹の辺り。
 東から昇った朝陽に目を焼かれながら、私は現地へと急いだ。


 気配を辿って飛行を続けていると、山の一部に切り開かれた集落が見えた。
 川の付近に存在するその集落には、数多くの瓦礫が散乱している。
 まるで、天災か何かで集落ごと飲み込まれたかのような状態。

 その光景に、私は酷く嫌な感じを覚えた。
 何か、自分の大切なものを無残に踏みにじられたような、そんな感覚。

 鼠の反応が近づいている。
 周囲に目をやると、瓦礫の傍に、一匹の鼠が微動だにせず佇んでいた。

 ようやく見つかったという安堵感。
 平時から言うことを聞かない彼に対し募っていた苛立ちは、
 そのまま言葉として発された。

「こんな所に居たのか!! 勝手な行動をするなとあれほど……」

「ちう! ちう!」

「いったい何だってんだい。
 昨日の夜も結局帰って来ないで、何か見つけた……」

 珍しく鳴き声を荒げる鼠に対し、あきれを滲ませながら叱っていた時。

 視界の端に映ったのは、私が探し、求めていた人物。

「○○っ!!」

 私は鼠への叱責も忘れて、彼の元へと走った。


 三歩ほどの距離を空けて向かい合う私達。
 ○○は私の方へ顔は向けているものの、視線は外されている。
 その態度に、私は違和感を覚えた。

 ○○は記憶を消されている。
 そうなれば、今目の前に居る私は、彼にとって初対面になるはずだ。
 初めて会った人間に対して、どのような態度を取るかは個々人によって変わるとは思う。
 しかしこの、明らかに意図して目を合わせないという行動を、初対面の人間に対して取るだろうか?
 彼の態度はまるで、会いたくない人物と、思いがけず遭遇してしまったような……

「……○○?」

 相手に探りを入れるような呼びかけをしてしまう。

 そんな不躾な問い掛けに対し、彼は、

「……ナズーリン」

「……っ!!」

 私の名を呼んで、答えた。



「○○、君は……」

「ああ、私は記憶を取り戻した」

 久々に耳にする彼の声音。
 その一音一音が、私の耳を通して体に染み込んでいく。
 私を構成する細胞のひとつひとつが、歓喜に震えていく感覚。

「そう、だったんだ」

 気を抜くと零れそうになる雫を、目頭を押さえて必死に押し止める。
 彼が記憶を取り戻したのであれば話は早い。
 まず、彼に、伝えなければならないことがあった。

「○○」

「なんだ?」

「あの……」

「……?」

 くそっ。
 なんでこんな大事な時に、声が出てこないんだ。
 伝えたい気持ちは、衝動的に体が動き出しそうなほど、溢れているのに。

 息を思い切り吸い、ゆっくりと吐き出す。
 改めて○○を見据え、言葉を、切り出す。

「○○。あの時、命蓮寺でご主人様と相対した時。
 君は、私を守るために、嘘を吐いてくれたんだろう?」

 私は彼の顔を見つめながら、ひとつひとつ言葉を紡いでいく。

「……」

 私の言葉に対して、彼は何も答えてくれない。
 先程から変わらず、私の顔から目を逸らし続けていた。

 彼の態度への違和感が、更に増幅する。
 しかし、私はもう、言葉を止めることができなかった。

「ありがとう。
 君のお陰で私は居場所を追われることにならなかった。
 全て君のお陰だ」

 万感の思いを胸に、彼へと頭を下げ、感謝の念を伝える。
 その私の想いに対し、彼は、

「何を、言っている」

 顔を背けたまま、私の発言を否定した。



「……」

 私は知っている。

 これは、あの時、命蓮寺で覚えた感覚と、全く同質のもの。

 目の前が真っ暗になるような。
 足元が崩れ去り、奈落の底に引きずり込まれるような。
 自身の全てをも否定されたような、あの感覚。

 彼はやっぱり本気で私を利用しようとしていたのか?

 いくら自分の中で彼が信じられる存在と確信していても、
 本人から否定されてしまえばその自信も簡単に揺らいでしまう。


 でも。

 でも、私はもう、迷わない。


 後ずさりそうになる右足に力を込め、すんでの所で踏み止まる。

 ○○は、以前と何も変わっていない。
 優しくて不器用な、彼のままだ。

 今も私の立場を悪くしないように、嘘を吐き続けている。
 全く合わせられない視線が、それを物語っている。

 彼は意地でも嘘を吐き通すつもりのようだ。
 だったら、こちらも相応の手段を講じるまで。

「○○」

「……?」

「いい加減に、しろっ!」

 私は○○に飛び掛り、そのまま彼の体ごと押し倒した。
 突然の行動に彼も反応が送れ、私の体当たりを受身を取れずに倒れ込む。

 地面に仰向けに寝転んだ○○の上に、私が覆い被さるような体勢。
 ○○の顔を両手で挟んだ私は、強引にこちらへと振り向かせた。

「○○……

「……」

「さっきの台詞、もう一度、私の目を見て言ってみろっ!!」

 彼の顔を私の真正面で固定し、強制的に視線を合わせる。
 鼻先が触れるほど、私は彼と顔を近づけていた。
 荒い呼吸が繰り返される。
 互いの吐息が混ざり合い、私達の間には火傷しそうなほどの熱が生まれていた。

「……」

「どうした? 言えないのかい?」

「私は……」

「目を逸らすなっ!! 私のことを、ちゃんと、見てっ!!」

「くっ……」

「君は変わらないね。瞳が感情を雄弁に語ってるよ。
 私に嘘を吐く罪悪感に、耐えられないんだ。
 君は、優しいから……」

 これ以上は、言葉に詰まって言えなかった。
 口に出せば、涙が溢れてしまいそうで。

 私の追及を受けた○○は、少しの間沈黙した後、言いよどむように言葉を発した。

「いつから……」

「?」

「いつから、気が付いていた?」

 私の視線から目を逸らさずに問い掛ける○○。
 こうしてちゃんと目を見て話したのは、いつ以来だったか。
 彼の茶色掛かった虹彩に、つい見入ってしまいそうになる。

「……そうだね、君と離れ離れになった後、かな。
 聖様と話している時、気が付くことが、できた」

「そうか」

 そう呟き、息を吐く○○。
 諦観を色濃く滲ませたその吐息に、罪悪感を覚える。
 それは、彼の身を挺した行動が、全て無駄になってしまったことを意味していたから。
 その事実が、私と○○に重く圧し掛かる。

「ナズーリン」

「なんだい?」

「なぜ、私の元へ来た?」

「なぜって……」

「あなたは命蓮寺を追い出されずに済んだ。
 私と会ったと知られれば、あなたもあらぬ疑いを掛けられる。
 あなたにとって、私は最早与するに益しない存在だろう。
 であるならば、早くここを去ったほうがいい」

 彼は、私の目をしかと見つめ、自身の思いを口にする。
 その内容に、嘘偽りは存在しない。
 紛れもない、彼の本心。


 やっぱりだ。

 彼は私の予測と寸分違わぬことを考えていた。
 私の居場所を守るため、自身を犠牲にしたんだ。

 聖様の言葉を思い出す。
 安易な自己犠牲は、周りを不幸にするということ。

 最初に手を染めたのは私だ。
 自分はどうなってもいいから、○○の幸せを追い求めたい。
 彼を死なせないためという大義名分もあった。
 だから私は、その選択を取ることに、何の迷いもなかった。

 結果はどうだった?
 今度は○○が自分自身を犠牲にすることになってしまった。

 そうしてまで守られた私は何を思った?
 悲しかった。
 声を失うほど、悲しかった。
 私が望んだ結末は、そこにはなかったんだ。

 じゃあ、私が反魂香を盗むと言った時、○○はどう思ったんだろう。
 強い言葉で、表情で、反対されたことを思い出す。
 やはり、私を危険な目に遭わせたくなかったんだろうか。

 でも、○○は私の行動を止めなかった。
 自分の求める結末と、違う方向へ状況が走り出したとしても。
 彼は、私の意見を尊重してくれたんだ。

 ○○はどこまでも優しかったんだと、改めて思う。
 妹の魂が冥界に在ると聞かされ、神経をすり潰されるような思いでいただろうに。
 そんな最中であっても、私の身を第一に心配してくれたんだから。

 そして、今。

 目の前で浅い呼吸を繰り返す○○は、
 変わらず私の身を案じてくれている。


 ――でも、それだけでいいのかしら?

 ――あなたの願いを、聞かせて?


 聖様の言葉が、頭の中を巡る。

 もう、だめだ。

 想いを伝えるのは、彼に謝ってからにしようと思っていたのに。

 心の中でせき止められていた想いが溢れ出すのを、
 抑えることが、できなかった。


「ちがうんだ……」

「……ナズーリン?」

「違うんだよ、○○」

 視界がゆらゆらと揺れる。

「ナズーリン、涙が……」

 もう、限界だった。
 ○○の体に馬乗りになり、顔が下を向いているから。
 涙が零れ落ちるのを、止めることができない。

「現状を維持しても、そこに私が求めたものはないんだよ……」

「……では、私は、余計な真似を、しただけなのだろうか……?」

「違うっ! 君は、自分の身をなげうって、私の立場を守ってくれた。
 余計なんてこと、あるはずがない。
 ただ、それが、私が望んでいたことと、違っていただけなんだ……」

「ナズーリン、あなたは何を求めているのだ?」

「私は……私は、君と一緒に居たい」

「ナズーリン……?」

「君と離れ離れになってようやく気が付くことができた。
 私はただ、君と一緒に日々を過ごしたかっただけだったんだ。
 君の望みを叶えれば、傍に居られるって、また宝探しができるって。
 本当に、それだけだったんだよ……」

 涙は留処なく零れ、○○の顔へと落ちていく。
 彼は、それを表情を変えることなく受け止めてくれていた。

「私はもう、君が傍に居ないということに耐えられないんだ。
 君と一緒に過ごすことの楽しさを、知ってしまったから。
 君と生涯を共に歩んで行きたいと、思ってしまったから。
 そのためなら……」

 未だ掴んでいる○○の両頬に更に力を込める。

「私は、全てを捨てる覚悟がある。
 今まで築き上げてきたものの、全てを」

 何て身勝手極まりない、自分本位な告白。
 最早好意の吐露を通り越して駆け落ちへの誘い文句のようだ。

 そんな重々しい言葉の数々を至近距離から浴びせられた○○は、

「……そう、だったのか」

 何とも彼らしい、薄い笑みを口の端に零していた。

「っ……私は真剣に」

「わかっている。あなたの気持ちは、この上なく伝わってきている」

「ひゃっ……」

 言葉と同時に、○○の両腕が私の頭に回され、そのまま抱きしめられる。
 密着する頬と頬。触れた部分から感じるのは、相手の体温。
 彼の熱が移ったのか、私の顔面は自分でもわかるほどに赤熱していた。

「記憶をなくしている時、毎晩同じ夢を見ていた」

「夢……?」

「全てを忘れてしまっていても、
 私の体にはあなたと共に過ごした時間が刻まれていたようだ。
 毎日毎日、家事をしたり宝探しをしたり酒を呑んだり。
 そんな内容の夢を、繰り返し見ていた」

「それって……」

「そうだ。私はあなたと過ごした時間が、何よりも大切であったということだ。
 あれだけ執着していた妹のことを、差し置いてでも」

「んっ」

 ○○の腕に力が込められる。
 その挙動が意味するのは、私に対する感情の発露か。
 それとも、妹に対する後ろめたさか。

「○○、少し、苦しい」

「すまない」

 ほんの少しだけ、力を緩める○○。
 その加減が、今の私にとって、途方もなく心地よい。

「つい先程、八雲紫と名乗る女性と出会い、私は記憶を取り戻した。
 その時初めて、私はあなたに対する気持ちに、気が付くことができた。
 私はあなたと出会い、共に過ごしたことで、
 誰かと心を通わせることの素晴らしさを思い出せたんだ。
 妹を喪い、いびつに歪んだ私の心を、救ってくれた。
 全て、あなたのお陰だ」

 ○○は私の両肩を掴み、腕の力で私を顔の真正面まで持ち上げた。
 直に触れて感じる彼の力強さに、不覚にも心臓の鼓動が早くなる。


「ナズーリン、あなたのことを、愛している。
 私と、命尽きるまで、共に在り続けて欲しい」


 それは、どこまでも彼らしい、不器用で無骨な愛の告白。
 情緒も趣きもない言葉のひとつひとつが、私の全身を砕くほどの喜びを与えてくる。

 なんだ、結局の所私達は、同じ気持ちでいたんだ。
 彼が秘密を打ち明けてくれた時から、ずっと。

 随分と遠回りをしたものだと思う。
 私か彼のどちらかが相手への想いに気付き、打ち明ければ、
 今日に至るまでの事態にはならなかっただろう。

 でも、それはどこまでも私達らしいとも思えた。
 心が擦り切れ、人との関わりを遠ざけた者と、そもそも人との関わりに興味すらなかった者。
 両者が他者の心を慮るなど、土台無理な話だったんだ。

 自身の下した評価があまりにも酷く、思わず吹き出してしまう。

「……? ナズーリン、どうかしたのか?」

「いいや、なんでもないよ」

 だから、これでいい。
 いいや、これが、良かったんだ。

「○○?」

 私は、出会ってから今に至るまでの全ての想いを胸に溶かし込み、言葉を紡ぐ。


「私も、君のこと、愛しているよ」


「ああ」

 目尻を下げて、優しげに微笑む○○。
 彼の瞳に映る私の顔も、同じような表情をしていた。



「それで、君に伝えたいことがある」

 彼と体を離して、互いに向かい合うように座り直す。

「まだ、あるのか」

「そう嫌そうな顔をしないでくれよ。
 大事なことなんだ」

「む……嫌な顔など、していない」

「目が一瞬だけ逸らされていたよ。
 何か悪い想像でもしたんじゃないか?」

「……あなたには敵わないな」

「そうだろう?」

 自身の感情を言い当てられた○○が、苦味を少し含ませた笑みを浮かべる。
 しょうがないじゃないか。わかってしまうのだから。

「話を戻そう。
 まずは君に、改めてお礼を言いたい。
 本当にありがとう。君のお陰で私は命蓮寺に戻ることができた」

 姿勢を正し、膝に両手を付いて頭を下げる。

「いいんだ。全て私が望んで行ったことだ」

「いや、事の発端は私の安易な自己犠牲から始まったものだ。
 君を死に急がせないためとは言え、結果君を苦しめることになった。
 すまなかった」

「あなたが謝る必要はない。むしろ私が礼を言うべきなのだと思う。
 あなたがあの場で私を引き止めてくれたから、今の私は存在している。
 想いを確かめられたのも、今生きていられるのも、全てあなたのお陰だ。
 ありがとう。あなたは私の命を救ってくれた恩人だ」

「礼なんて、言わないでくれ……
 私は君の制止を振り切って、反魂香を盗み出そうとした。
 あの時君の言うことを聞いていればと、今でも、思う」

「いいんだ。私は、あの時、あなたに救われたんだ」

「救われた?」

「そうだ。
 妹を亡くしてから今に至るまで、私は彼女の亡骸を探し続けた。
 様々な人間から情報を集めた。時には金で人を雇った。
 でも、その中で本気で亡骸を探そうとしてくれる人は、いなかった。
 私が妹の遺骨を何年も追い続けていると話すと、皆怪訝な顔をする。
 見つかるはずもないと、明らかな嘲笑を浮かべる者もいた。
 親身になってくれる人は、周りに存在しなかった」

「……」

「私はいつしか妹のことを周りに話さなくなった。
 里で世話になっている人達も、私が妹の遺骨を探しているとは知らない。
 もう、嫌だったんだ。あの表情を向けられるのが。
 だから、あなたにも、話すことができなかった」

「……私は、君のことをそんな目で見るつもりはない」

「ああ、私が間違っていた。
 あなたは、私が妹の遺骨を探すために近付いたと聞いてなお、手を差し伸べてくれた。
 私の命を救うため、自らの身を犠牲にしようとしてくれるあなたを拒絶するなど、
 私には、その権利すらないと思った」

「だから君は、私の無謀な計画を、最後まで止めなかったのか……」

「そうだ。
 身を賭して私を救おうとしてくれたあなたが窮地に陥ったのだから、
 私は身を賭してあなたを救わなければならない。
 そう思ったら、体が独りでに動いてた。
 ありがとう。あなたが、私の心を、絶望の淵から救ってくれたんだ」

 気持ちが溢れたのか、○○の右手が私の顔へと伸びる。
 私は、それを視線を外して受入れた。
 優しく頬に触れられる、彼の手指。
 頬に伝わる硬い感触を通して、彼の感謝の念が染みこんでくるような気がした。

「ただ、私は選択を間違えたのだと思う。
 命蓮寺で寅丸星様と対峙した時、私は全てを打ち明けるべきだった。
 そうすれば、あなたに辛い思いをさせることは、なかったはずだ」

「……そうかもしれない。けど、それは言いっこなしだよ。
 私も、同じようなことを、したんだから」

「そう、だな。私達は、二人とも間違ったんだ」

「ああ。だからこれからは、君と私、二人にとって最良の選択を取れるよう、努力するよ」

「私も、あなたと共に歩むため、最良の選択を取ることを誓おう」

「……ならば君は、妹さんの、後を」

「追わない。私はあなたと共に生きることを選択した。
 今は妹の亡骸を探し出し、弔うことが、私の贖罪になると信じている。
 以前に戻っただけなような気もするが、な」

「そっか……」

 彼の言葉を聞き、その意味を噛み締めた後、私は静かに天を仰ぐ。

 報われた。

 これまで辿ってきた軌跡、その全てが。

 この一月、振り返ると常に不安に付きまとわれていた。
 記憶を失った○○のこと。
 自身の体のこと。
 これから先の未来のこと
 全ての不安は一体となり、泥のようにぬかるんだ倦怠感となって、私を包んでいた。

 それは今、清らかな水ですすがれたかのように、消えてなくなっている。

 良かった。
 本当に、良かった。

 何度折れそうになったことか。
 何度諦めそうになったことか。
 何度全てを忘れてしまおうと、思ったことか。

 いくつもの試練を乗り越えて今、私は○○の隣に居る。

 この記憶を、この痛みを、この喜びを。
 絶対に忘れないよう、心に刻み付ける。
 先々で何が起こっても、決して揺るがないように。
 ○○と共に在りたいという純粋な願いを、叶え続けるために。

「あ」

 ……そういえば、一つ大事なことを忘れていた。

「どうした?」

 間の抜けた声を上げた私に、○○が訝しげな表情で問いかけてくる。

「○○、君も私と共に在るために、最善を尽くすと言ってくれたね?」

「ああ、それがどうかしたのか?」

「早速だけど、その決意を試させてもらうよ?」

 要領を得ない私の言葉に、○○は益々眉間の皺を深くする。

「……一体、何の話だ?」

「実家への、挨拶さ」





「申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げるのは、毘沙門天の化身たる寅丸星。
 神の名代とは言え、悪いことをしたと思ったら謝るもんなんだな。
 そんな不遜なこと考えていると、

「ナズーリンっ!! あなたもっ!! ちゃんとっ!! 謝りなさいっっ!!!」

「いたいいたいっ! ご主人様髪の毛引っ張らないで下さい!」

 乱暴に頭を引っ掴まれ、強引に頭を下げさせられた。

「いえ……」

 私達二人に頭を下げられた○○は、終始困惑した表情を浮かべていた。
 まあ、ショウジョウバッタもかくやという勢いでひたすら頭を下げ続けられれば、
 誰しもこんな表情になるだろう。



 幾多の遠回りを経て結ばれた私と○○。
 しかし、あと一つだけ、どうしても乗り越えなければならない問題があった。

 実家……もとい命蓮寺に居る面々の、誤解を解く必要があった。
 特にご主人様は、親の敵の如く○○を憎んでいる。
 まあ、自身の身内を誑かした人間ともなれば、誰しも自ずと憎むことにはなるだろうが。

 とにかく、○○は最初から私を利用する気など毛頭なく、
 更に反魂香窃取の首謀者は私であるということを説明した上で、
 ご主人様にも迷惑を掛けてしまったことを謝らなければならないのだ。

 ○○の故郷で彼の妹に祈りを捧げた後、
 私達は足早に命蓮寺へと急いだ。

 この時、初めて○○を抱えて幻想郷の空を飛んだ。
 彼は高い所が得意ではないらしく、到着までの間ずっと目を閉じていたらしい。
 そんな部分も可愛らしく思えてしまう。
 いつも彼のことを馬鹿馬鹿と罵っているが、
 冷静に考えると私の頭も相当にネジが緩んでいる。
 馬鹿同士、お似合いといった所だろうか。

 命蓮寺に到着した後は、息つく暇なくご主人様の元へと急ぐ。
 不審な目を向ける信者達を振り切って御堂を走り抜けるのは、
 中々に爽快な気分だった。
 ○○も私の後にぴたりとくっついてきている。
 それは、私達の手が、しっかりと繋がれていたから。

 私達はこれから片時も離れず傍に居ると誓い合った。
 離れないためには、繋がれている必要がある。
 精神的にも、肉体的にも。
 私の右手と彼の左手は、初めから一つの物体であったかのように、
 固く握り合わされていた。

 命蓮寺を奥へ奥へと進み、やがて辿り着く、ご主人様の書斎。
 普段はあまり近づかないようにしているその部屋に、
 私は戸も叩かずに突撃していった。



「まあまあ、その辺りにしておきなさい」

 未だ頭を下げ続けるのを止めないご主人様と、
 彼女の右手によって追従させられている私に救いをもたらしたのは、
 当寺の住職である聖様。

「聖……しかしですね」

「良いのです。○○さんも、此度の件に関してはもうお許し頂けているのでしょう?」

「ええ。許すも何も、ナズーリンを追い詰めたのは私です。
 むしろ私にこそ、あなた方に謝罪しなければならない理由がある」

「○○、それは違うって、散々確認したろう?」

「ああ……理解しているつもりなのだが、やはり、な」

「もう……」



 書斎に押し入った私達を迎えたのは、神妙な顔付きのご主人様と、聖様の二人。

 なぜ聖様が居るのか、頭の中に疑問符が浮かんだ瞬間、

「申し訳ございませんでした」

 ご主人様が斜め四十五度まで腰を折って静止、私達に向かって頭を下げていた。
 いや、正確に言えば○○の方へ向かってであったが。

 その姿を見た○○は、盛大に目を泳がせながら呆気に取られていた。

 そりゃあそうか。
 誤解を解くため……彼に言わせれば、私をそそのかしたことを謝罪するために、
 意気揚々と乗り込んできたのに、出鼻を挫かれたようなもんだ。
 動揺するのも無理はない。
 まあ、私も相応に動揺しているんだから、偉そうに言える立場でもないんだけど。

 どう反応したものか、固まっている私をご主人様が手招きして、
 恐る恐る近づいていったら先程の強制謝罪地獄に囚われたというわけだ。



 ○○にはいくら謝っても足りないという思いがあるから、
 謝罪することに何の不都合もない。
 ないんだけど、髪の毛掴んで頭を押し付けるのは止めてほしい。
 さっきから髪の毛が両手で足りないくらいの本数命を散らしていた。

「仕方がありません。今回はこれくらいにしておきましょう」

 ようやくご主人様が私の頭から手を離した。

「痛いって言ってるんですから髪の毛掴むの止めてくださいよ……
 ちゃんと言われれば頭下げますから」

 乱れに乱れた髪の毛を手櫛で直していると、

「ほう、この期に及んで悪態を吐きますか。
 あらましは聖から伺っています。どうして最初に言わないのですか! もう!」

「聖様っ」

「ごめんなさいナズーリン。
 あなた達は直接星に謝りに来るだろうと思って先手を打たせてもらったわ。
 そうしないと、今度こそ○○さん無事じゃ済まなそうだったから……」

「そうですね。聖に説明を受ける前でしたら、視界に入った瞬間消し炭にする所でした」

「……」

 冗談とは思えない口調で即答したご主人様に、絶句する○○。
 恐がらせること言わないでくださいよ……

「でも、ご主人様達はなぜ私達が命蓮寺に来ることを知っていたのですか?
 それに、聖様は○○が無実だということは、断定できていなかったはずですし……」

 聖様が裏の取れていない情報を、他者に話すとは考え辛い。
 私の疑問の答えようと、聖様が口を開いた瞬間、


「それは私から説明しましょう」


 私達の間に割って入るように空間に亀裂が入り、
 姿を現したのは八雲紫。

「あら、お帰りになったのではなかったかしら?」

 私と○○が驚き声を失う中、聖様は平然と言葉を返す。

「いいえ、ここは幻想郷の真の便利屋たる私が説明しませんと。
 事件の裏方から黒幕、調整役までなんでもござれですわ」

 何とも不穏なことを口走りながら私達の中心に躍り出た八雲紫。

 そういえば○○の記憶を消した時、この妖怪が関わっていたという。
 ということは、

「その通り。聖白蓮にあなた達が来訪すると伝えたのは私です」

「思考を読まないで下さいよ……」

「そんな芸当できるわけないじゃない。
 あなた、相当に考えていることが顔に出易いわよ」

 したり顔で言い放つ八雲紫。
 出鱈目なほど高い能力を有するこの妖怪の基準で判断すれば、
 ほぼ全ての人妖がそれに当てはまってしまうではないか。
 本当の百面相というのは、隣に立っている男のことを言うのだ。
 ……正確に言うと顔に表れるわけではないのだが。

「では、○○が無実だということも」

「はい。全て紫さんから伺っていたわ。
 朝食を摂っている時に現れて、数時間もしない内に二人が訪れると教えてくれたの。
 あと、ご飯二膳とお味噌汁一杯、野沢菜のおひたしを無断で食べていったわね」

「あれは情報に対する正当な対価というものよ」

「言って下さればちゃんと用意しましたのに……」

 無断で命蓮寺の敷居を跨いだだけでなく食い逃げとは……
 やはり幻想郷に君臨する大妖怪ともなると、
 凡百の妖怪である私達とは思考体系が違うらしい。

「じゃあ、ご主人様は聖様から?」

「はい、その通りです。聖から二人がここに来るということと、
 今回の一件はナズーリンが計画したということを聞きました」

 なるほどな。
 この部屋を訪れてから疑問しか湧かない状況が続いたが、ようやく全てが繋がった。

 今回の騒動も終息へ向かっていることが実感でき、溜息を吐いていると、

「あなたが私の記憶を、戻してくれたのか?」

 八雲紫の方を見据え、一歩前に踏み出す○○。

「いいえ、私はあなたの記憶を消しただけよ。
 正確に言えば、あなたの記憶の連続性を分解しただけ。
 あなたは、記憶を失っているわけではなかったのよ」

「でも、私はあなたと出会ったことで記憶を取り戻した」

「そうね。でも、それも正確ではないわ。
 あなたは、あなたの意志で、記憶を取り戻したの。
 この世界の不都合、不条理、ありとあらゆる悲しみを背負うという覚悟を決められたのが、
 たまたま私と話をしていた時だったというだけのことよ。
 あなたが求めるものは、その先にあったのね」

「はい……ありがとう、ございました」

「私は何もしていないわよ。でもまあそこまで言うなら、どういたしまして、かしら?」

 そう零し、ふわりと笑う八雲紫。

 彼等が何を話しているのか、正確に理解はできなかった。
 けど、彼の記憶が戻ったことに、八雲紫が関わっているらしい。
 で、あるならば、

「私からも、お礼を言わせて欲しい。
 ありがとうございました」

 八雲紫の前で頭を下げている○○と並び立ち、私も彼女に頭を下げる。

「だから、何もしていないというのに……」

 頭頂から聴こえてくるのは、少し笑みが含まれた声音。
 多分、二人並んで頭を下げられているという図式に対して、
 居心地の悪さを感じているに違いない。
 そんな苦笑いが想像できて、少し可笑しくなった。



「さて、私からはこれ以上お伝えすることはありません」

 ○○に対する誤解も解け、言葉と態度で謝罪を終えたご主人様が、
 場を締める言葉を口にする。

「はい。色々とご迷惑をお掛けしました」

「いいえ、それはこちらも同じこと。
 あなたの境遇を思えば、力を貸して差し上げたい所なのですが、
 反魂香の使用は……」

「それには及びません。
 私は自らの……いえ、ナズーリンと私、二人の力を持って、探し出したいと考えています」

 ご主人様の方へ向き直り、力強く宣言する○○。
 隣に立つ私の指に、自然と絡まる彼の手指。
 一瞬驚き背筋が固まるが、全身を駆け回る幸福感がその強張りを解きほぐしてくれた。

「そうでしたか。よかったですね、ナズーリン」

 そう言ったご主人様は、出会ってから今に至るまでで、
 最も慈愛に満ちた表情を向けて下さった。

「ですが」

 が、その表情は一瞬で崩れ去る。

「あなたの犯した罪はまだ赦されていません。
 これから一月の間、命蓮寺に滞在して毎日垢離を行うことを命じます」

「えええ」

「えええ、ではありません。窃盗などという五戒に背いた行為が見過ごされるほど、
 命蓮寺の戒律は甘くありません。大人しく指示に従うように」

 まさに極楽から地獄への急転直下。
 ご主人様の表情も、どこぞの閻魔を髣髴とさせる厳格なものへ変貌していた。

 ああ、これでは○○との宝探しがまた先延ばしになってしまうではないか。
 しかし自身の犯した罪を思えば、無罪放免というわけにいかないことも理解できる。

 何とかならないか、頭を抱えていた時、

「そういえば、○○さんの妹さんはどちらの世界へ行かれたのかしら」

 聖様がふと思いついたように疑問を口にした。

「ええと、確か冥界へと向かったと聞いています」

 死神から得た情報を聖様に伝える○○。
 それを聞いた聖様は、

「……そう、でしたか」

 何とも言えない、微妙な笑顔を浮かべていた。

「あの、何かありましたか?」

「ええとですね……」

 不審に思った○○の問い掛けにも、歯切れの悪い答えを返す聖様。
 何か言い辛いことでも……


「私が説明しましょう」


 また横合いから割り込んでくる八雲紫。
 発言しないからいつの間にか居なくなっているとおもったんだけど、まだ居たのか。

「冥界は数年前の妖怪桜の騒動以降、ある程度自由に行き来できるようになっているわ。
 それこそ生きた人間であっても行けるはずよ。
 まあ、私が顕界と冥界の境界を薄くしたからなんだけどね」

 重大なことを自身の悪行と共にしれっと告げる八雲紫。

「ええと、それって……」

 私の漏らした言葉に、ご主人様も聖様も曖昧な笑顔を浮かべるのみ。
 ○○に至っては若干白目を剥くほどに驚いている。

「そう。妹さんには、すぐに会いに行けるということよ」

「じゃあ……それじゃあ私達が、やってたことって」

「骨折り損、と言った所かしら?」

 八雲紫の発言を最後に、書斎の中は水を打ったように静まり返る。

 ご主人様、聖様は先程から変わらず曖昧な表情。
 八雲紫はにこやかな笑みを浮かべている。
 何がそんなに楽しいんだ……
 そして○○はというと、

「……」

 最早表情は抜け落ち、吹けば飛びそうなほどの力ない立ち姿となっていた。
 彼からすれば、自身の本願がいとも簡単に成就するという喜びと、
 今までの苦心惨憺が無為になったという思いの狭間に揺れているという所だろうか。

 でも、彼の今までの努力は、決して無意味ではない。

 だって、

「○○」

「ナズーリン……」

「良かったじゃないか。
 妹さんに、すぐにでも逢えるんだ。
 君の願い、叶ったんだよ」

 彼が妹さんの遺骨を探そうとしたから、私たちは出逢えた。
 真剣に互いの身を案じることができたから、私たちは想いを重ねられた。
 だから私達にとって、今日に至るまでの過程全てが、必要なことだったんだ。

「……ああ、そうだな」

 儚げに強張っていた彼の表情が、徐々にほぐれていく。
 目尻は優しげに下げられ、口角が少しだけ上向く。
 普通の人間からすれば微笑に分類されるような表情。
 でもこれが、彼にとって、最大級の笑顔。
 私の、世界で一番、好きな表情。

「そうだよ。
 じゃあ、早速冥界に……」

 向かおうか、と口にしようとした時、自身の状況を思い出す。
 私はこれから一月の間、命蓮寺の外に出られないんだ。

 課せられた役目は、立場上反故にすることができない。
 でも、彼に一月待たせることもできない。
 私以外の人間、妖怪に冥界への案内を任せるなんて、持っての外だ。
 私は、縋るような視線をご主人様に送ってしまう。

 視線を受けたご主人様は、

「……はぁ」

 大仰な溜息をついた後、右手で追い払うような仕草を私に向けた。

「ナズーリン、あなたは○○さんを無事冥界まで送り、
 妹さんとの対面を見届けなさい。それを今回の件の贖いとします。」

「ご主人様……」

「ただし、帰って来たら垢離もしますからね」

「そこももう一声」

「駄目です!」

 流石に減刑とまでは行かなかったが、
 今すぐ彼を冥界に連れて行けることになった。

「ありがとうございます、ご主人様」

「いいえ。早く行ってらっしゃい」

「はい! さあ○○、妹さんに逢いに行こう!!」

「駄目だ」

「ってええ!? なんで?」

「今日も仕事があったことを、つい先程思い出してな。
 無断欠勤はあってはいけないことだ。
 監督に事情を説明をしに戻らねばならん」

「あ……そう」

「すまない、しばし待ってもらって良いだろうか?」

「うん」

「ありがとう。すぐに戻る」

「行ってらっしゃい……ゆっくりでいいから、気を付けて」

「ああ。ではな」

「うん……」

 そう言い放ち、全速力で書斎を後にする○○。
 残された私たちは、言葉を失い立ち尽くす。

「ナズーリン」

「なんですか、ご主人様」

「あなたの想い人は、真面目な方ですね……」

「ええ。馬鹿が付くほど、ね」



 ○○が命蓮寺に戻って来るまで、四半日の時を要した。
 何でも、人手がどうしても足りず作業が一段落するまで手伝ってきたそうだ。
 ○○としても仕事をほっぽり出してしまったこともあり、
 断るわけにもいかなくなってしまったそうだ。

 早く妹に会うため、速攻で仕事を終わらせた彼は、
 命蓮寺に戻ってくる頃には汗だくで顔も真っ赤になっていた。
 昨晩も鼠を追い駆けるため、一睡もしていなかったという。

 流石にこんな状態で妹さんに逢わせることとなれば、
 霊体の妹さんにこちらが怒られてしまうということで、
 今日の所は風呂に入れて食事を取らせて布団に簀巻きにして寝かしつけた。
 ちなみに、眠りに落ちる瞬間まで彼は早く冥界に連れて行って欲しいと、
 私に懇願し続けていた。



 そして翌日早朝。

「なあ、やっぱりもう少し遅い時間にしないかい?」

「何を言っている。もう太陽は稜線から顔を出しているぞ」

「まだ朝の五時だよ。普段なら布団の中で意識を失っている時間だよ……」

「既に命蓮寺に滞在する信者の方々は活動を始めているではないか」

「私をあの人達と一緒にしないでくれ」

「……? あなたも命蓮寺の信徒ではないのか?」

「私はご主人様付きの妖怪というだけであって、聖様の信奉者ではないよ。
 だから私の起床時間は、命蓮寺の信者達に合わせなくていいんだ」

「ふむ。ナズーリンが朝が苦手なのは理解した。
 だが、すまないが今日だけは付き合ってくれると、嬉しい」

「……わかってるよ。眠かったから、少し文句を言いたかっただけさ。
 心配しなくても、ちゃんと冥界にお連れするよ」

「すまない、ありがとう」

 東から昇る太陽が、周辺の空を赤く彩っている。
 雲は少なく、今日は良く晴れるだろう。
 ○○と共に出かけるには、絶好の日和だ。

「さあ、じゃあまずは無縁塚に行って閻魔に会いに行かないとね」

「冥界に直行してはまずいのか?」

「まあ、一応っていうことでご主人様がね。
 別に悪いことをする訳じゃないんだけど、生きた人間を冥界に連れて行くんだから、
 許可を取っておきなさいって」

「そうか。簡単にはいかないのだな」

「そうだねえあそこの閻魔様はまあお堅い方だからねえ……
 長時間の説教は覚悟しておいた方が良いよ」

「それで妹に会えるのであれば、何時間でも受けよう」

「じゃあ私は外で昼寝をしているから、終わったら起こしてよ」

「私は構わないが、閻魔様がそれをお許しになるのか?」

「……いや、無理だな。
 仕方がない、愛する君のために、私も説教を受けようじゃないか」

「……そうか。ありがとう。
 ナズーリン、私もあなたのことを、愛しているぞ」

「っ……真顔でそういうこと言わないでくれよ。恥かしい……から」

「すまない」

「君はいつもそうだ。こっちの心構えができていない時に限って、
 そういうことを平気で口にする。君は恥かしくないのかい?」

「そうだな」

「んなっ……少しは恥かしがりなよっ!
 真正面から、その、そういう言葉を浴びせられる方の身にも、なってくれ……」

「すまない」

「また返答がおざなりになってるっ!! 大体君は」

「愛しているぞ、ナズーリン」

「っっ!!! だぁぁぁああもうっ!!!!」

 早朝の、しかも命蓮寺の敷地内で、何て恥かしいやりとりをしているんだ。
 周囲を見渡せば、複数の信者がこちらを生暖かい目で見ている。
 どうして二人きりの時に……じゃなくって!

 私は○○の腕を引っ掴み、そのまま空へと飛翔する。

「ナズーリン、今日は随分強引なのだな」

「君こそ、今日は随分口が軽いね」

「たまには、いいだろう?」

「そうだね……えと、わ、私も君のこと、愛して……いる、よ」

「……? 何か言ったか?」

「あーあーなんでもないなんでもないっ!!」

「揺らすな……落ちるぞ、私が」

 恥かしさのあまり○○の腕を掴んでいる両腕を大仰に振る。
 断腸の思いで言葉にしたってのに……

 ○○の手を引いて、高度を更に上げる。
 眼前に広がっていく、曙光に照らされた世界。
 それは光を反射してきらきらと輝き、
 私達の行く先を照らしてくれているように見えた。


 これから先、私達にはどんなことが待っているのだろうか。


「ねえ○○」

「なんだ?」

「妹さんに逢って、謝った後、君は何がしたい?」

「そうだな……」

「何もないのかい?」

「いや、あなたと共に居られれば、私は全ての出来事に価値を見出せるからな。
 特にこれといったものは挙げられない」

「何だよそれ……」

「私は、あなたと共に歩む。そこに私の生きる意味があるんだ」

「全く、何を恥かしいことを……」


 それは楽しいことだけではなく、辛いことも待ち受けているのだろう。


「さあ、面倒くさいことはさっさと終わらせて、君の妹に会いに行こう」


 でも私は、いや、私達は、期待する。


「ああ」


 これから歩む道で待ち受ける、全ての出来事に。


「そして、それが終わったら」


 彼と共に享受して、乗り越えて。


「終わったら?」


 その道を進んだ先に。


「もちろん宝探しの続きさ。
 幻想郷中に埋まっている宝物の全て、私達で探し尽くしてやろうじゃないか!!」


 私達が探し求めたものは、きっとそこにある。



Megalith 2017/05/23
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最終更新:2018年02月11日 22:24