軽く自己紹介をしようと思う。
名前は…まぁ、いいか。
外の世界で大学生をしていた。
かといって特段成績優秀でも、何かで実績を挙げたとかでもない。
バイトをしながらの至って平凡な学生だ。
この幻想郷のことはそれなりに知っていた。
とはいってもネットで分かるレベルだ。


そんな自分が、幻想郷の人里で職を探している。
まるで空想の中でしか知らなかった世界に迷い込んだような感覚。
本当は人里の商店で働いていたが、わけあって職探し中である。
そのわけは、またの機会にでも。


そんなことを考えながら求職の掲示板を見ていると、片隅にある一枚の募集に目が行く。



【紅魔館使用人募集】
対称:男性1名
職種:館内雑務全般(力仕事含む)
待遇:住み込み三食付
詳細:
当館の使用人としての雑務全般に就いて頂きます。
男性の使用人が少ないため、力仕事も行っていただきます。
興味のある方は本用紙を持って当館までおいでください。
以上。




「……」


紅魔館ってあの紅魔館…だよなぁ。
まず気になることといえば、あそこって人を雇わないとならないほど大変なのだろうか。
……考えて分かるわけでもないのだが。
まぁ…どうせダメ元である。
人脈があるわけでもないので、人里で職を探すのも少々難しい。
受けるだけ受けてみようか。





◇◆◇




翌日。
募集用紙を持って紅魔館へ。
用紙に丁寧に地図が描かれていたので道はわかる。
…問題は妖怪に襲われないか、だが。


…なんて杞憂も空しく、館に着くまで妖怪はおろか、妖精にすら逢わなかった。
運がいいのか何なのかよく分からないが、まぁよしとしよう。
そして着いた門の前には。


「……」
「……」


二次創作ではお馴染み、お昼寝中の門番、紅美鈴さん。
声をかけて起きるかどうかの疑問があるが故に、声をかけてもよいものか。
そんなことを考えていると。



「…使用人希望の方かしら?」
「え、は、はい…」
「ようこそ紅魔館へ…こちらへどうぞ」



突然現れた銀髪のメイド…十六夜咲夜さんが突然現れ、かけられる言葉。
…同時に美鈴さんの頭に2本のナイフが刺さっていたことは見なかったことにしよう。
それはさておき、招かれるがままに紅魔館の中へ入っていく。





◇◆◇





そんなこんなで招かれたのは…客室、だろうか。
何から何まで紅色の装飾。
つけられた明かりすら紅く、目が痛くなりそうだった。


「…ここが当面は貴方の部屋になるわ。これが鍵」


部屋に着くなり、キーホルダーがついた鍵を渡される。
その鍵はよく知っている平たい形ではなく、複製を難しくするタイプの大きめの鍵だった。
流れで咲夜さんに渡され、そのまま受け取るが。


「あ、あの…」
「何?」
「…いえ、いきなり鍵って」
「使用人希望で来たのでしょう?住み込み三食付というのは記しておいたはずだけれど」



何を言っているんだといわんばかりの目を向けられるが、それ以前の問題が。



「えぇ、それは見たんですが…採用していただけるので?」
「そうよ」
「…早いですね」
「お嬢様がそのように仰ったからよ」



…お嬢様っていうと、レミリア・スカーレットさんですよな。
呼び捨ては恐ろしいのでさん付け。
だが今後は、様づけ、というよりお嬢様、と呼ぶことになるのだろう。
そんなことを考えながらぼんやり部屋を見回す。



「実際の仕事には明後日から入ってもらうわ。明日は自分の荷物を取りに行くのを午前中までに済ませておいて。午後にはお嬢様とそのご友人にに挨拶をしてもらうわ…何か質問は?」
「えと…荷物を運ぶのは一人ですか?」
「そのつもりだけれど…そうね。美鈴を手伝いにつけましょうか…どうせ寝ているから働いてもらいましょう」
「はぁ…」



笑っていいのかの判断に困るが、笑わないでおこう。
そこをスルーして。



「…で、具体的に仕事ってどんなことなんです?」
「主に館内の掃除と、倉庫整理かしら。徐々に慣れてきたら備品管理も任せたいとは思っているけど」



考えれば、外の世界でいう普通の掃除のバイトなのだろうか。
まぁ、現時点でそれ以上の判断はできないのだが。



「…分かりました、ありがとうございます」
「そう。それじゃあ私はもう行くから、何かあったらその辺の子に聞いてちょうだい。それじゃ」



言い終わるやいなや咲夜さん、改めメイド長は姿を消してしまう。
何故かはわからないが採用らしいので、その程度の礼儀は見せなくては。



「はぁ…」



備え付けのベッドの脇に腰掛け、ぼんやり天井を見上げる。
見事に紅かった。
慣れるまでは目が痛くなることは必至だろう。



…とりあえずは、明日に備え、今日は寝ることにしよう。





◇◆◇





翌朝。



「…あの、ナイフ刺さったのって大丈夫なんですかね?」
「え?あぁ…あれくらい平気なんですよ。これでも妖怪ですから」



美鈴さんに同伴を頼み、人里に自分の荷物を取りに行く。
とはいえ、もともと外の世界から来た手前、それほど重要な荷物はない。
おそらく往復する必要すらないだろう。
その道中に、今後お世話になることもあったので、軽く雑談をしようと考えていたのだが、美鈴さんは非常に話しやすい人だった。



「ところで、なぜ紅魔館で働こうと思ったんです?」
「何か面接みたいですね」
「あ、確かに。でも実際来てもらう側としては気になっちゃうんですよね…聞いてもいいですか?」
「んー…私が外来人っていうこともあるんですかね。どうにも人里だと距離置かれてるみたいで」
「言われてみるとそうですね。なんだか変なものを見る目というか、そんな様子が…」



何だかんだで人里に着き、周りの様子に美鈴さんが訝しげな様子を浮かべる。



「おかしいなぁ…外来人だからってそんなに距離を置くような感じじゃなかったと思うんですが…」
「…ま、結構そんなものかもしれないですね…あ、ここが私が借りてる部屋です」



その話を打ち切り、今まで借りていた人里の小屋の一室に着く。
一室を借りていただけなので、荷物はそれほどなかった。



想像通りというべきか、美鈴さんに任せると、すべての荷物が纏まってしまい、一往復で済みそうだった。



「…さて、戻りましょうか」
「はい…えーと、この場合私も戻る、という表現でいいんですかね」
「いいと思いますよ。戻りましょう…紅魔館に」
「はい」



そんな感じで、荷物運びはあっさりと終わり。



「…それでは、改めまして、宜しくお願いしますね」
「こちらこそ、宜しくお願いします」



門前で改めて挨拶をし、美鈴さんと別れ、館内の自分の部屋へと戻っていった。





◇◆◇





午後。



「それじゃあ、行くわよ」
「あ、はい」
「…そういえば名乗ってなかったわね。私は十六夜咲夜、これからよろしく頼むわね」
「はい、宜しくお願いします」


いやまぁ、知っていたんですけどね。
…とは言わず、咲夜さんに案内されながら挨拶をする。
その後少し歩き、辺りの部屋の扉とは異なり、豪華な扉の前。



「…着いたわ。ここが紅魔館の主であるレミリア・スカーレット様のお部屋よ」
「はい」
「けど今はお休み中だから、挨拶は後になるわ…次、行くわよ」



そんな感じで扉の前を通過し、再び歩き出した。





◇◆◇





それから、紅魔館での生活が始まった。
人でない種族が大半の住人に囲まれながらの仕事であったが、実際仕事で触れ合うのはメイド妖精たちとメイド長の咲夜さん、あとはたまに門番の美鈴さんくらいではある。
仕事は決して楽ではないが、居心地が悪い環境というわけでもないので、ありがたい限りだった。
ただ、周りが女性しかいない以上、いろいろと気を遣う部分は多い。



「ふぅ…」




自室に備え付けの浴室で汗を流す。
大浴場のようなものもあるのだが、基本的にそちらはここの住人用。
その中に自分が入るわけにはいかない。
他にもいろいろ男女で分けるべきものがあるので、そこは特に気を遣う。





◇◆◇







そんなこんなで、数か月働き、ここでの生活に慣れだした頃。
咲夜さんに呼び出され。



「突然だけど、お嬢様より貴方に仕事が割り振られたわ」
「…はぁ、確かに突然ですが…どんな仕事です?」
「妹様の専属の使用人よ」



言われて、一瞬考えてしまう。
妹様っていうと、直接教わってはいないけれども。
フランドール・スカーレット本人のこと…ですよなぁ。
勝手な印象ですが、人生終了のお知らせでしょうか。
近くにいたメイド妖精が一瞬ざわついた。



今までの仕事の中で同僚となるメイド妖精から聞いていた噂だが。
あるメイド妖精曰く、『近づくと木端微塵にされる』
別のメイド妖精曰く、『機嫌を損ねたら命はない』
という物騒な噂ばかり。
外の世界で得た知識でも、少々気が触れているというのは聞いていた。



「…さ、行くわよ」
「はい」



とはいえ、逆らうことが出来るはずもなく、咲夜さんに従い、地下へと向かっていくのだった。





◇◆◇







そして。



「この扉の向こうが妹様…フランドール様のお部屋よ。ここからはよろしくね」



咲夜さんはそれだけ言い残し姿を消してしまった。
時を止めたのだろう。
そんなことより今は目の前の扉である。
頑丈そうな鉄の扉。



若干二の足を踏んでしまうが、いつまでも止まっているわけにもいかない。
扉をノックし、扉を開いた。





◇◆◇







扉の奥は薄暗く、中に誰かいるのかどうかすら微妙に分かりにくい。
そんな中で。



「…誰?」



部屋の奥だろうか。
小さく声をかけられ、姿勢を正し。



「初めまして、この度フランドール様専属の使用人を命じられたものです」
「…そう」



自己紹介をするが、簡単に返され、そこで会話が止まる。
時計すらないのか、妙な静寂が辺りを包む。



「あの…何かご指示は」
「…そのあたり、掃除でもしてて」
「明かりをつけても?」
「好きにすれば?」



…なんというか、考えていた妹様の印象とはまるで違っていた。
もっとなんというか明るい性格だと思っていた。
けれど実際はまるで感情を感じさせないような。



さらに、明かりをつければ表情もなく、備え付けのベッドの上ですることがないせいか体育座りをしているフランドール様。
その様子は気が触れているどころか、触れるほどの感情があるのかすら分からないほどだった。



…予想と違っていたことが更なる要因になり、彼女にどう話しかければいいか分からなかった。
だからこそ、今は部屋の掃除に集中することしかできなかった。





◇◆◇






とりあえず掃除終了。
これまでの経験が生きたのか、割とあっさりと完了した。
あるいは物が少ないから、というのもあるのかもしれない。



「…あの?」
「別にもう何もすることないから、下がっていいよ…下がりたいでしょ?」



相変わらずの感情のない声。
…なんだかなぁ。
これから仕えるわけだし機嫌を損ねない程度に話をしてみたいんだけれども。
何か話題が欲しい。



「…何、下がらないの?」
「あ、いえ…これからお仕えするわけですし、何か話でもと…」
「お話…してくれるの?」



話題があるわけではないのですが、と言いかけたが、言うことが出来なかった。
話をするというだけで凄い期待されたような目を向けられたからだ。



「えぇ…ただ、どんな話題がいいですかね……」
「何でもいいよ?誰も私とお話してくれないから、喋れるだけで楽しいし」
「誰も、ですか?」
「うん、パチュリーは魔法のお勉強ばっかりだし、お姉さまは全然来てくれないし、メイドたちは明らかに避けてるし…」



話を聞くと、随分寂しい思いをしていたのだろうか。
フランドール様の声が若干泣きそうに聞こえる。



「…では、この私、不肖ながらお話し相手を務めさせていただきます」
「そういう堅苦しいのは嫌」
「これは失礼」



なんだ、話してみればごく普通ではないか。
力のことは知っていたから、何かの拍子に『壊されて』しまうかもしれない。
けれど、今のフランドール様にはそのような危険を忘れさせる何かがあった。



「ね、ね。どんな話する?夜通しずっとでもいいよ!」
「…私が夜型の生活に慣れるまで、夜通しは勘弁していただけると…」




今まで昼型生活だったので、実は現時点で結構眠かったりするのだが、話が出来るというだけで嬉しそうにするフランドール様を見ると、眠気を我慢しようという気が起き、結構話し込んでしまった。





◇◆◇






そんなこんなでフランドール様の付き人になってから数か月。
何だかんだでここの住人の方に受け入れてもらえ、なかなか楽しい毎日を過ごしていた。



「最近、あいつとは仲良くやってるのフラン?」
「うん、館の外のこととかいろいろ教えてくれて楽しいよ?…なに、お姉さまったら羨ましいの?」
「…べ、別に羨ましくはないわよ?」
「ふふん、妹の私に隠しごとなんて無駄よ?」
「うぐ…」



レミリアお嬢様とフランドール様のお食事。
最近は二人は一緒に食事をとられている。
来た当初は仲が悪かったようだけれども、最近は何だかんだ仲が良いようだ。



そんな二人の食事の間、自分たちは後ろに控えている。
まぁ従者だからそりゃそうだ。
…あれ、仕事って雑務だったような。




「…私って、雑務で雇われませんでしたっけ?」
「今の仕事に不満でも?」
「滅相もない…ただ、これでいいのかな、とは」



近くで同じく控えていた咲夜さんに尋ねる。
雑務で求人を出されていたのでこれでいいのかと考えたのだが…
そんなことを悩んでいただけである。



「そういえば、ここでの生活はどう?」
「…?」



そんなことを考えていると、突然レミリアお嬢様に漠然とした質問を投げかけられ、言葉に詰まる。



「もう貴方もここに来て半年が過ぎた頃よね」
「…もうそんなになりますか」
「貴方ね…私たちより寿命が短いのにそういうの疎いってどうなのよ……」



呆れられた。
そう言われても、毎日忙しくて正直あっという間といわんばかりだったもので。



「…どう?辛い事とかはないかしら?」
「あ、いえ…そういうのは本当にないです」
「そう…何かあったら話くらいは聞くから、一人で抱え込んじゃ駄目よ?」
「お気遣い頂き恐縮です」



敬意をこめて頭を下げる。
一応雇われている側としては、そういったことは大事だという意識がある。
外の世界ではバイトもしていたが、こういったことは割と茶飯事である。




「…そういえば、パチュリー様が男手を欲しがっていたから、お食事が終わったら図書館に向かってちょうだい」
「分かりました」




思い出したかのような咲夜さんの指示。
断るという選択肢自体存在しなかったので、特に悩むことなくその指示を受けることとした。





◇◆◇






そんなこんなで、食事が終わるころには明け方だったが。




「来てくれたのね。早速だけど………大丈夫?」
「えぇ…少し、眠いだけですので」
「…そう。でも間違えられても困るから、少し休んでからでいいわ」
「はぁ…では、後ほど」



…パチュリーさんに気を遣われ、仕事は少し後にすることに。
フランドール様に生活リズムがあってきているので、明け方になると眠くなるようになってきていた。
とりあえず部屋に戻ろうとするが。



「…いらっしゃい。こっちのソファ、使っていいわ」
「え…」
「その調子じゃ、部屋に戻るのも大変でしょう」
「…あ、ありがとうございます」



正直、申し訳ないとは思っていても、睡魔の方が勝っていた。
更に言うと、貸してくれたソファが予想以上の心地よさだった…





◇◆◇






ぼんやりと目を覚ます。



「…あ、起きられましたか?」



ふと声がした方を見ると、小悪魔さんだった。
司書としての仕事か、数冊の本を抱えて忙しなく動き回っていたようだった。



「あ、ちょっと待っててくださいね。今お茶をお淹れします」
「だ、大丈夫ですよ、むしろ私が手伝う側ですし」
「…まぁまぁ、私も休憩しようとしてたところなので」



言い返す余裕もなくなってしまった。
…というか、手伝う立場でここに来て、眠りこけてたとか駄目じゃん俺。



「…よく眠れたみたいね。よかったわ」
「あ、すみません。お手伝いで呼ばれてたはずなのに…」
「ふふ…」



パチュリーさんに素直に謝罪をすると、パチュリーさんは一瞬考え、すぐに苦笑を漏らす。
何か変なことを言っただろうか。



「…大丈夫よ。貴方に仕事を頼むつもりじゃなかったもの」
「はい?」
「貴方…最近全然休めていないでしょう?」



言われてみれば、昼は咲夜さん…じゃなかった、メイド長の指示で館の仕事。
夜はフランドール様の付き人。
…それで数か月。
よく持ったなぁ自分。



「…顔に出てました?」
「それはもう、落とすのに時間がかかりそうなくらい、はっきりと書かれていたわ」
「それはお恥ずかしい限りで」



笑いながら言葉を交わす。
パチュリーさんと話すのは、他の方と話す時のように固くならずに話せる気がする。
馴れ馴れし過ぎるなと自分に言い聞かせてこそいるが、どうにも雰囲気がこうなってしまうのは、パチュリーさんだからなのだろうか。



「お茶をお持ちしましたよー」
「ありがとう、こぁ……貴女も来なさい。ティータイムとしましょう」
「あ、はい喜んで」
「貴方も、いらっしゃい」
「は、はぁ」



そんなこんなで、お茶の時間となりました。
傍らに本が積まれ、幅を確保した中に小悪魔さんが用意したお茶と付け合せの御茶菓子が並ぶ。




「…仕事、頑張ってるみたいね」
「え、そうでしょうか」
「少なくとも、以前に雇ったことがある里の人間達よりは数倍マシね」
「はぁ…」



そうは言われても、あまり実感が湧かない。
人里では紅魔館で働いていたという話は殆ど、というか全く聞かなかった。
聞いたことといえば、一度来たら二度と外には出られない、とか来たら食われる、とか良くない噂ばかりだったのだ。
考えてみれば、そのような評判も今となっては疑わしいが。



「ちなみに、その雇った方々というのは…?」
「…あまりの使えなさにレミィのご機嫌を損ねて…あとは察してちょうだい」
「う…」



…前言撤回。どうやら評判は強ち間違ってないようです。
そうなると、機嫌を損ねないよう必死で働かないと、明日は我が身…
何とまぁ笑えない。



「間一髪…だったかなぁ」
「…何かあったの?」
「あ、いえ…実は昨日…ですよね。お嬢様方のお食事の時に、辛いことはないか、って聞かれまして…何か言ってたらご機嫌損ねてたかなぁ…って」



パチュリーさんに尋ねられ、昨日のことを話す。
命の危険をさりげなく躱した、今となっては笑い話であるのだが、パチュリーさんはそうでもなかったようで。



「へぇ…レミィがそんなことを聞くなんてね」
「…え?」
「今まで誰かを雇って、お嬢様が直々にお声掛けすることって今まで一度もなかったんですよ?」



パチュリーさんの面白そうな話し方に疑問を感じていると、小悪魔さんが補足してくれる。



「どうやら…随分気に入られたのね。やるじゃない」
「そう、なんですかね…あまりお話することもなかったんですけど」
「ふふ…そうなってくると、貴方が退職の話をしだしたら、ご機嫌を損ねてしまうかもしれないわ」
「永久就職みたいですね…」



苦笑しながら言うと、パチュリーさんと小悪魔さんもつられて笑ってくれる。
静かに流れるこの雰囲気は本当に落ち着く。
そんな感じで和んでいると。



「あ、でも永久就職ってなると、お嫁さんが必要ですね…あてはあるんですか?」
「…っ!?」




小悪魔さんの質問に、飲んでいた紅茶で思わす咽てしまう。
敢えて考えないようにしてたのに…




「そういった縁は今までなくて……彼女はおろか、女友達すらいたことないですよ」
「へぇ…それはちょっと意外ですねぇ」
「…というより、随分灰色な青春、といえばいいのかしら?」
「今まで勉学に打ち込んでましたからね…」
「うふふ…よかったですね、パチュリー様?」
「…何を言ってるのよこぁ」
「……?」



何が良かったのかはよく分からないが、まぁネタとして、だろうか。
…ふと時計を見ると、かなり時間が経ってしまっている。



「っと、私そろそろ仕事に戻りますね…メイド長に怒られてしまう」
「そう…分かったわ」
「また一緒にお茶しましょうね」
「えぇ、是非」



仕事に戻る旨を伝え、図書館を去ることにした。
さて、フランドール様の所に行くまでそんなに時間がない。





◇◆◇






『彼』が去った後の図書館。



「こぁ…本を持ってきてもらっていいかしら」
「はい、どちらのをでしょうか?」
「そうね…紅茶の淹れ方が書かれている本、かしら」
「え?…あぁ、なるほど。わかりましたー♪」



こぁに本を持ってきてもらうように言うと、何かを察したのか、いい笑顔で本を取りに向かっていった。
…さすがに露骨かしらね。





◇◆◇






「さって…と」



伸びをしながら、気分を入れ替える。
身体の疲れも大分抜けたし、いつもより少しまともに働けそうだ。
休ませてもらったのが大分効いたようだ。



「掃除と行きますか」
「あら、パチュリー様のお手伝いは終わったの?」
「っ!?」



掃除をしようと歩き出そうとしたら、突然背後から声をかけられ驚く。
一瞬飛び上がりそうになるが、何とか押さえた…つもりだが、なんとかなっただろうか。



「あ…っと。メイド長、何かご指示が?」
「えぇ。大方掃除は終わらせておいたから、妹様の方に向かってもらえる?」
「あ、はい分かりました…でも少し早くないですか?」
「えぇ、そうね…お嬢様が起きられるまでまだ時間はあるのだけど…」
「…?」
「月末の調整があるのよ…これが結構疲れるから早めに切り上げたの」
「あぁ…なるほど」



数字を扱うのは、パソコンがある外に比べたら大変だろうなぁ。
絶対ないだろうし…



「…でも、そうね。そろそろ、貴方にも任せてもいいかしら」
「はい?」
「貴方にも、この辺の仕事をそろそろ覚えてもらおうと思って」
「…えと、いいんですかね?」



尋ね返した理由は、単に勤め始めていくらも経っていない自分がそんなところに関わっていいのかという意味なのだが。



「えぇ…来たばかりの頃だったら触れさせないけど、今の貴方は信用に足ると考えてるから」
「…ありがとうございます」
「というわけで、しっかり覚えてもらうわ」



というわけで、妹様のお世話に向かうのは少しばかり先になるようだった。





◇◆◇






「こっちよ」



言われ、通された先には部屋の中に机があり、その両脇には漫画で見たことがある程度の書類の山。
あれを全部処理するのだろうか。計算間違いとかあったら恐ろしい…



「…時間が惜しいから手短に説明するわ。その後に分からないことがあったら聞いてちょうだい。まずは……」



というわけで受ける説明。
書類の一枚を手に取り、どこに何が書かれていて、どのような計算をするのかはそれほど難しくはない。
手段だけ言えば。
問題はその数字が細かく、手計算が非常に面倒だということだ。



「…計算にはこれを使ってちょうだい」
「そろばんですか」
「えぇ」



言いながら、メイド長は眼鏡をかけ臨戦態勢。
見慣れない姿で少し新鮮に感じる。



「じゃ、始めましょ。貴方はそっちの山を処理してちょうだい…最初だから遅くても文句は言わないけど、間違いだけは気を付けて」
「あ、はい…」



そろばん自体は使い方は基本的な部分は知っていたが、これはなかなか大変な作業だなぁ。
…そう思いながら、ふと部屋を見回すと。



「…ん?」



壁際の机に載せられた黒い筐体と、脇に置かれたモニター諸々。
それは明らかに。



「これ…パソコン?」
「…あぁ、それ?この前河童が持ってきたのだけど、使い方が複雑で役に立たないのよね…珍しいからってお嬢様が一台仕入れたのだけど」



筐体の脇に「NITORI」とか書かれている。
使い方云々の話をしているということは、電源は取れているのだろう。
だとすれば、あるいは……



「メイド長…少し、こちら使わせて頂いても?」
「いいけど…どうするのよ」
「…ひょっとしたら、私の知識が活きるかもしれません」
「…?」



電源ボタンを入れてみる。
…ふむ、入ってるのは窓98…古いけど、まぁ許容範囲かなぁ。
中には…うん、表計算ソフト入ってる。
これなら…





◇◆◇






「…さっきから、何をしてるの?」
「あぁ、メイド長…もう少し待っていただけますか?」



表計算ソフトがあるのなら話が早く、キーボードで数字を入れていく。
学生時代にこの手のソフトは嫌というほど触ったので、ある程度の知識はあるし、操作も何も変わらない。
なので、手際はそこそこいいはず。



「…あのね。数字を入れただけじゃ、計算はできないじゃない」



そう、今やっているのは書類の数字を打ち込んでいるだけ。
何も今は計算をしていない。



「大丈夫です…この入力が終わってからがこいつの凄いところですよ」
「…え?」



例えば、書類一枚一枚の支出に対し、合計値を計算させるのは、入力さえ終わっていれば。



「はい、合計の計算終了です」
「…!?」



脇から覗いてくるメイド長の驚き顔。
まぁ、最初は驚きますよね…



「そんな簡単に出せるはずないじゃない…間違ってたりしないかしら?」
「まぁそこは信じてもらうしかないんですけど」



仕事の内容上仕方ないのかもしれないが疑うメイド長。
…まぁ入力ミスあればズレルケドネ。



「…ミスはないみたいね」
「あ、ほんとですか」
「えぇ…よく使い方分かったわね」
「少しばかり、心得がありまして」



っと、なんだかんだで、そろそろいい時間のようだ。
窓から差し込む明かりが朱に染まり、夕方であることを伝えてくる。



「…では、私はそろそろ」
「えぇ。宜しく頼むわ…あと、これのスイッチを切っていってちょうだい」
「あ、はい」



…そういえば電源切ってなかった。
変なオチが付きました、まる。





◇◆◇






やっぱり、外の世界っていうとパソコンだなぁ、などと思いながら、地下へ。



「あーやっと来た、遅いよー!」
「あぁ、お待たせしてしまいましたか。メイド長の仕事が少しばかり長引いてしまいまして」
「むぅ…」



扉を開けた瞬間に、腰のあたりにぽふっと抱き着いてくるフランドール様。
最初は加減を知らなかったとはいえ、何度戻しそうになったことか……
その頃から比べると、扉を開けるのもそこまで緊張しなくなりました。



「…さて、本日はどうしましょう?」
「じゃあ、またお話がいいな」
「最近、弾幕ごっこはしないのですね」
「だって、貴方出来ないでしょ」
「えぇ、まぁ…」
「でも、いいの。貴方とお話するの、弾幕ごっこと同じくらい面白いから…ね?今日もいっぱい、楽しいお話してね」
「…御意。じゃあ今日は…」



そんな感じで話を始める。
もとより会話はそこまで得意ではないし、それなりに付き合いのあるここの住人とですら、長く話が続くわけではない。
けれどフランドール様との会話はなかなか盛り上がる。
というのも、私の言葉の一つ一つの分からない事、気になったことをきっちり尋ねてくるのだ。
それが出来るのは、私の話を本当によく聞いてくれている証拠。
そしてそこから、話題が別の方向に膨らんだりというのもよくある事。
どうしてそこまでよく聞いてくれるのかは、たまに疑問に思うけれども…



「へぇー…じゃあ幻想郷の外の人だったんだ」
「敢えていう事ではないと思ってたので、誰にも言ってないんですけどね」
「うふふ…じゃあ、誰にも言っちゃだめだよ?」
「それはまたどうして?」
「だってそうすれば、私達だけの秘密でしょ?」
「…外にいる妖精が聞き耳を立ててるかもしれませんよ?」
「逢瀬の邪魔をするデリカシーのない子はどっかーんしちゃうから」
「それはそれは…」



そんな感じで、楽しい時間が過ぎていく。
睡眠時間はガリガリ削られるが、こんなに楽しくていいのだろうかとは思う。




「ね、ね。貴方は、外でどんなことをしてたの?」
「んー…まぁ、主に勉強、ですねぇ。遊んで過ごした記憶の方が少ないくらいです」
「へー…例えばどんな?」
「そうですねぇ…」



外の世界の学生なんてのは、大体勉強に追われる毎日じゃなかろうか。
彼女を作って青春を謳歌する人もいるようだが、どうやってるのか全くもって謎だ。
それはさておき、どんな勉強…かぁ。
何ならいいだろう。





◇◆◇






「うぅ、全然わかんにゃい…」
「なんか…すみません」



腕の中で項垂れるフランドール様に思わず笑みがこぼれる。
…言い忘れていたが、こういう会話をする時は、大体私の膝の上にフランドール様が座るのが定位置。
たまに羽根がちくちくと当たるのはご愛嬌である。



「…でも、なんとなーくなら、分かるけど?」
「ふむ、ではもう少し難しく…」
「ごめんなさいわからないので難しくしないでください」
「ふふ…でも、初めてであそこまで分かれば凄いと思いますよ?」
「ほんと?」
「えぇ」



ちなみに、出した話題は数学。
しかも大学レベルなのだから、一回聞いて分かるはずがないのだ。
むしろ、多少なりともついてこれたことに驚かざるを得ない。



「…でも、話してるとき、すっごい生き生きしてたよ?」
「そうでしたか?」
「うん。楽しそうだった」



少しばかり恥ずかしいが、別に悪い気はしない。



「…ね、もっといっぱい勉強したら、私も分かるようになるかな?」
「きっとなるとは思いますが…結構大変かもしれませんよ」
「うん…でも頑張る。貴方が楽しそうな理由、私も知りたい」



腕の中で振り返り、視線を合わせて見つめてくるフランドール様に私はノーと言えず。



「じゃあ、明日から。パチュリー様のところでテキストを見繕ったりしてきますね」
「うん、また明日ね…楽しみだな」



勉強が楽しみ…か。
外の世界だってそんなに勉強好きばかりというわけじゃないはずなんですけどね…なんていうのは、野暮ですね。





◇◆◇






翌日。
今日は雨が降っており、館の中も少しだけ寒々しい。
灰色に染まった空は、一層温かさを奪っているようだ。



「…美鈴さんも、大変ですね」
「あら、今日はお仕事の方は大丈夫なんですか」
「えぇ…今日は非番でして」
「あ、そうなんですね…でもそんな時にこの天気というのは、残念……でもなさそうですね」
「あ、分かりますか。実はこういうしとしと雨って結構好きなんですよ…雨音が涼しげで」
「うーん、私は晴れの方が好きですけど…」



うん、見るからにそんな感じはします。
美鈴さんは明るいイメージだから、雨というのはむしろ似合わない気がする。



「あ、あと一応傘持ってきたんですけど…どうですか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫、鍛えてますから」
「いやそういう問題なんですか?」
「そういう問題ですよぉ」



傘に当たる雨音を聞きながら、そんな会話を続ける。
…とはいえ、会話下手な私の事。
すぐに話題は途切れてしまう。



「ところで、ここでの生活、どうですか?」
「…えぇ、楽しいですよ。メイド長は仕事は厳しいですけど普段は優しいですし、お嬢様をはじめとする皆さんもよくしてくれて」
「それはよかった…私は仕事上なかなか貴方と会えないから心配してたんですよ?」
「えと…ご心配をおかけしてました?」
「はい、してました」
「あ、はい、すみません」
「ふふ…」



何か一部理不尽な気もするけれど。



「…さて、そろそろ戻らないと、体冷えちゃいますよ?」
「有難うございます。もうちょっとしたら、戻りますよ」
「あんまり、無理したら駄目ですよ?」
「はい」



心配してくる美鈴さんに出来るだけの笑顔で返しながら、ぼんやりと遠くを見る。
湖と、森に囲まれて、晴れの時は妖精たちの遊び声が響くこの場所も、今は静まり返っている。
きっと、いないのではなく、出てこないだけなのだろうとは思う。
けれど、その静けさは何物にも代えがたい。



「おーい、起きてるー?」
「へ…あ」
「駄目よ、こんなところで。寝るなら、戻ってお布団でおやすみなさい」
「……はい」



目の前で手を振られ、声をかけられハッとする。
呆れられ、いよいよ疲れでも出たのだろうかと、美鈴さんの指示に従おうと考える。
…けれど、その前に。



「あ、これ差し入れです…美鈴さんも身体冷やしちゃだめですよ?女性なんですから」
「こんなところでぼんやりする人に言われたくありません、なんて…ね。有難う」



中で作った…とはいっても出来ていたものを温めただけだが、それを詰めた紙袋を手渡す。



「…温かいですね、なんだろ…って、肉まんですか!」
「こういう時にはこういう方がいいかと思いまして。お仕事、頑張ってくださいね」
「有難うございます…肉なんて何日ぶりだろ」
「はは…また、何か持ってきますね」
「またお話しましょうねー!」



そう言いながら、私は門を後にし、館に戻る。
肉まんを頬張る彼女の目に、ほんのり光るものが見えたのは私だけの秘密にしておこう。
…誰のというより、彼女の名誉のために。





◇◆◇






そんなこんなで日々が過ぎ、今日は外の世界で言うところのクリスマス。




「今日はパーティの準備をするわ」
「パーティ、ですか?」
「お嬢様の指示よ。クリスマスだから、と」
「あぁ…なるほど」



メイド長の指示を受け、いつもと少し異なる仕事。
こういったパーティでは準備を手伝い、パーティが始まったら待機するのがいつもの事である。
まぁ待機は待機で、部屋でのんびりしているのでそれは問題はないが。



「あ、それと今日のパーティには貴方も参加するように、とのことよ」
「…は?」
「そういうわけだから、今晩は空けておいてちょうだい」



こちらの混乱は構わず作業に戻るメイド長。
いつもと違うことになり頭に「?」を浮かべながら準備作業に戻った。





◇◆◇





パーティの前日。



「咲夜。あいつはどう?頑張ってるかしら」
「えぇ、妹様のお世話のお仕事もある割にはよくやってくれてると思います」
「そう」



美鈴、パチュリー、小悪魔、咲夜、レミリア、フランが揃っての食事。
フランの執事となった彼の姿はない。
というのも。



「それなりに打ち解けたと思っていたのだけど…何か壁のようなものを感じるのよね」
「怖がられてるんじゃないの?」
「うー…」



レミリアは何だかんだで打ち解けようとしていたが、うまくいかずに悩んでいるようで。
パチュリーの意見を否定したくても根拠がなく、ただ唸ることしかできない。



「でも、確かにここに来る前とかの話は何も聞きませんね…」
「…そういえば、あの人個人の話って聞いたことないかも…」
「普段の様子からだと分からないですけど…」
「私はあまり会わないから分からないというのもありますけど…」



仕事の繋がりで割と身近な咲夜とフランも思い出すように言う。
一方で小悪魔と美鈴は会う機会が少ないため、気づかないのも無理はない。




「…仕方ないのかもしれないわね。彼にとってはあくまでここは『職場』だもの。公私の区別をつけてるだけと考えれば自然よ」
「それだと私たちは彼にとって他人でしかいられないってことかしら」
「もしそうなら、だけどね…レミィはどうしたいの?」
「分からないわ。けど今のままで壁があるっていうのは嫌」
「…でも、どうするの?レミィが言えばきっと聞いてはくれるでしょうけど…それは貴女の望むところではないでしょう?」
「えぇ。それでは何の解決にもなっていないもの…けど、切欠がないというのはなんとも…」



普通に彼と話をすれば仕事上の関係になってしまうことは避けられない。
だからこその切欠を求めるレミリアだったが、そうそういいアイデアなど出るわけもないわけで。



「…あんた達、何かいい意見ない?特にパチェ!」
「なんで私が名指しなのよ…」
「…そういえば、買い出しに行った時、人里がいつもより賑わっている様子がありました。クリスマス…でしたか?」
「あぁ」



レミリアに名指しされ溜息をつくパチュリー。
けれど、その後の咲夜の思い出すような言葉に、パチュリーも何かを思い出すように頷く。



「…何かの本で読んだわね。元は外の世界で神格化した存在の生誕祭らしいけど」
「あるじゃない、いいアイデア!早速準備ね。それはいつなの?」
「明日」
「じゃあクリスマスパーティするわよ。咲夜、準備と、あいつにも参加するように伝えてちょうだい」
「承知いたしました」
「神の生誕祭を悪魔が祝ってどうするのよ」
「細かいことはいいっこなしよ、パチェ…要は切欠がつかめればいいんだから」
「…ま、どうでもいいけどね。私は」
「めーりん、明日何かするの?」
「みんなでパーティですよ。楽しみですねぇ」
「…うん!」
「あんたも準備手伝うのよ、美鈴」
「ですよねー」



そんな感じで、クリスマスパーティの予定が決定したのだった。
知らないのは彼だけである。





◇◆◇





毎日をそれなりに忙しく過ごしているせいか、一日の経過はそれなりに早く。



「仕事は大丈夫?」
「え、あ、はい…大丈夫、だと思います」
「…そ、なら行くわよ」
「あの、服装とかは」
「そのままで問題があるのかしら?」
「いえ、ただ…仕事で汚れたかなと」



パーティの時間が近くなり、メイド長に声をかけられる。
それなりに動き回って掃除をしたりしたので、汚れなどを気にしていたのだが。



「…言うほど気にする必要もないとは思うけど」
「あ、はい…それならいいです」



自分の目の前に立ち、服を見て汚れを確認するメイド長に緊張をしながら許可をもらい。



「全く…こんな時ぐらい肩の力を抜きなさい。仕事は終わり。分かった?」
「あ、はい…すみませんメイド長」
「仕事が終わったのだから、名前でいいわ」
「はぁ…」



メイド長に言われ、直そうとすると更に苦笑される。
ふと、ずっと気を張ってたのかなと自分を別視点から眺めるような感覚になる。
いつかは、館の皆とも気軽に話せるようになるのだろうか。
…まだ、分からないけれど、そうなれたらいいな、とは思う。





◇◆◇





そんなこんなで。



「「「乾ぱぁーい!」」」



レミリアお嬢様の音頭から始まり、いつの間に用意したのか豪勢な料理を並べたパーティが始まる。
外にいた頃ドラマとかで見た貴族の立食パーティのようだ。
室内とはいえかなり広い一室を使っており、妖精メイドがかなりいるがそれでも窮屈さは全くない。
紅い室内を照らす明かりはそれほど強くなく、外の月光と合わせてちょうどいい程度だった。



…とはいえ、こんな豪華なパーティに参加するのは初めてというのもあり、勝手が分からずうろうろする自分。
皆は思い思いに食事したり談笑したりだが、どうにも今までこういう事に慣れがないため、勝手がわからない。
手にグラスを持って食事を見ながらうろうろしていると。



「…なんだか落ち着かないわね」
「あ、パチュリー様」



宙を浮いてきたのか、足音を立てずに隣に現れるパチュリー様。
けれど、彼女はそこまで騒ぎ立てるわけでもなく、静かに話してくれたおかげでそれほど驚くこともなかった。
…ひょっとしたら、そこまで分かっててこのように振舞われているのかもしれないが。




「あんまりこういう事には慣れてないのかしら?」
「えぇ…基本的にはパーティとかでも参加しないで一人で過ごすことが多かったので…」
「…本を読んだり?」
「えぇ」
「そう…なら、私と同じね」
「パチュリー様は普段も参加されてるのでは?」
「…いいえ。基本的に私は図書館にいるわ。レミィ達が騒いでる時も、ね」
「そうだったんですね…てっきり皆で楽しまれているものだとばかり」
「楽しむのが苦手な魔法使いもいるのよ…貴方みたいな人と同じく、ね」
「なるほど」




二人、グラスを片手に苦笑する。
…なんというか、失礼なのかもしれないけれど、話しやすい方だなぁ、とは思う。
そこで、ふと疑問が湧く。




「…でも、そうすると今日はどうして参加を?」
「知りたい?」
「聞いてもいいのであれば」
「そうね…」



理由を尋ねるとパチュリー様は少し考える仕草を見せ。



「…やっぱり、内緒にしておくわ」
「聞いちゃまずい理由でしたか?」
「そういうわけではないけれど…貴方が気付いてくれたら、少し嬉しいかなって」
「はぁ…」
「…貴方だったら、どういう時にこういう会に参加する?」
「え?」
「パーティに対する認識が似てるようだから…貴方の答えが私の答えに同じになるかもしれないわ」
「…えと……?」
「一つヒントを挙げるとすれば…貴方が参加するから私も参加した、といったところかしら?」



笑みを零しながら、謎を残していくパチュリー様。



「ふふ…貴方がどんな答えを出すのか、楽しみにしているわ。それじゃ…貴方も楽しみなさい」
「あ、はい」



振り返り、手をひらひらと振りながら去っていく様子は何ともパチュリー様らしいとか思いながら見送る。
また一人になり、今度は考え込む。
先ほどのパチュリー様の謎かけ。
一つは、どういう時なら参加するか。
もう一つは、誰かがいるから参加する、という判断基準。
…普段はパーティは出たくはないけど、誰かがいるから参加する。
自分であれば、パーティに出る出ない以上に、その人に会いたければ参加するかもしれないが…



「…まさか。ないない」



ふと自惚れた妄想が頭を過るが、すぐに振り払う。
そんな誤解を招きかねない謎を残していくパチュリー様は流石の魔女、といったところかな、と思った。





◇◆◇





少し考えるのは保留にして、ぼんやりと眺めていると。



「何か考え事」
「っ!?」



突然背後から聞きなれた声で声をかけられ、驚きで震えあがる。



「そこまで驚かなくてもいいんじゃないかしら?」
「す、すみません…どうにも不意を突かれるのは苦手で」
「貴方の弱点握ったり…といったところかしら」



メイド長に声をかけられる。
自分の様子が余程おかしかったのだろう、くすくすと笑みを零している。



「…あまり楽しめていないのかしら」
「あ、いえそんな…」
「…お皿、何を乗せた様子もないけれど?」
「う…」
「今や貴女の下の妖精メイド達があれだけ食べて楽しんでいるのに、上が楽しまないっていうのは変じゃないかしら」
「……いつのまに自分妖精たちより上になってたんですか?」
「結構前からそのつもりで接していたのだけれど?」
「はぁ…」



突然知らされる辞令に驚きながらの会話。



「お嬢様も無礼講と仰っていたのよ?楽しまなければ失礼だわ」
「すみませんメイドちょむぐっ!?」



メイド長、と呼ぼうとしたところで口に何かを突っ込まれた。
骨付き鶏肉のから揚げのようだ。
…美味しい。



「こういう時は役職で呼ばないでちょうだい。名前でいいとさっきも言ったでしょう?」
「むぐ…でもメイドちょ…咲夜さんこそ『お嬢様』とお呼びしてるじゃ…」
「私はいいのよ。でも貴方は駄目」
「…なんでまた?」
「女が男に名前で呼んでほしいっていう言葉の意味をわざわざ聞く?」
「え……」



自分から視線を反らしながら呼び方について言及してくるメイドちょ…じゃない、咲夜さん。
…すみません、それについてはこっちもどう反応していいか分かりません。



「なんか…すみません」
「…恥ずかしいったらないわ、全く」



一気にグラスのワインをぐいっと飲む咲夜さん。
…一気飲みとはさすがです、瀟洒かどうかはさておき。



「…決めたわ」
「はい?」
「今後…仕事中も私の事は名前で呼びなさい。『メイド長』は禁止」
「……は?はい?」
「これ、業務命令よ。分かった?」
「はい、わかりましたメイドちょ……あ、咲夜さん」
「今は突然だったから見逃すけど…今後違反したら、相応の『罰』を課すから、そのつもりでね」
「…はい」
「それじゃ…また後でね」
「あ、はい」



…いつからメイド長はパチュリー様のような魔女になられたのだろう。
あ…またメイド長になってる。
明日から大丈夫だろうか……





◇◆◇





二度あることは三度ある、とも言うけれど。



「紅魔館のパーティはどうかしら?」
「っ!?」



視線の届かない範囲から、今度はレミリアお嬢様に話しかけられ、またしても驚いてしまう。




「咲夜から聞いたけど、本当に不意打ちに弱いのね。今に寝首をかかれるわよ?」
「そうなったら、抵抗するまもなく死んでしまいますね」
「ま、そう易々と自分の従者を死なせるような真似はしないけどね」
「さすが、主の鏡です」
「もっと褒めてもいいのよ?」



そんなやりとりをしつつも、悪乗りの仕方が分からずそこで止まってしまう。
けれどそこまで期待されていなかったのか、何も不満は言われなかったが。




「どう?少しは皆と話せた?」
「えぇ…パチュリー様とメイドちょ…咲夜さんと」
「あら、咲夜を名前呼び?」
「えぇ…そうしないと相応の罰を与えると言われてしまいました」
「あの子は全く…素直じゃないわねぇ」



やれやれ、という感じのレミリア様。



「…きっと、貴方と親しくなりたくてそうしてるのよ。あんまり負担に思わないでね?」
「それは有難い限りです」
「それよ、それ」
「はい?」
「貴方、自分が気にかけてもらえて、それだけで幸せだとか思ってない?」
「それはもう…実際そうですし」
「…まぁ一番新人だから仕方ないのかしらね…でもね、これだけは覚えておきなさい」



向き直り、真剣な表情のレミリア様。
その中には普段の強い意志のようなものが、自分でも分かるほどに見えている。



「貴方は、貴方が思っている以上に皆に好かれてるし、貴方に近づきたいと思ってる。貴方はどう?」
「それは、私も仲良くできるのであれば」
「…だったら、もう少し貪欲になりなさい。今回のこれだって、貴方との距離を縮める目的があるくらいなのだから」
「なんか…すみません」
「謙虚なことを咎めるつもりもないけれど…ね。もう少し皆とプライベートの関わりを持ってみなさい。フラン相手に出来てるのだから…出来ないわけじゃないでしょ?」
「出来てるんですか…ね?」
「…出来てると思うわよ。最近フランの口からは貴方のことばっかり。少し妬けちゃうわ」



そんな会話がなされていたとは。
…まぁ、嬉しい事ではあるが、なんだか気恥ずかしい。



「それとも…私達は、貴方にとって気を許せる相手にはなれない?」
「いえ、そんなことは…ただ、それは失礼かなって」
「他の皆もそうでしょうけど…少なくとも私は、今の一歩引かれた体勢の方が気に入らないわ」
「う……」
「だから、そうね…少しずつでいいわ。貴方の事を教えて頂戴」
「…私の事…とはいっても、どんな事を…?」
「どんなことでもいいわ。どんな些細な事でも…ね」
「…分かりました」
「そ。じゃあ早速……」



そんなこんなで、自分の身の上話をすることとなった。
そんなに面白い話をした記憶はないのだが、レミリア様はそれに何を言うでもなく、興味深げに頷いてくれた。





◇◆◇





そんなこんなでレミリア様と談笑していると。



「…なんというか、そこまで楽しい人生という気がしないわね」
「まぁ…そんなものかもしれませんね。退屈でした?」
「貴方の事を知る、という意味では有意義だったわ」
「それは重畳」


ふと見ると、結構話し込んでいたのか、辺りで眠りだす妖精メイドがちらほらと見える。
いつの間にか夜も更けていたのだろう。



「…なんだか結構時間を頂いてしまったようで」
「そうね。でも私が言いだしたことだもの。気にしなくていいわ」
「分かりました…そろそろお開きに?」
「そうね。咲夜達と一緒に片づけをお願いね」
「承知しました」
「…それと」



軽く欠伸をしながら去ろうとするレミリア様。
けれど去り際に振り返りながら。



「…これからも、よろしくね」



一瞬見惚れてしまいそうな素敵な、けれど威厳のある笑顔で仰ったので。



「…こちらこそ」



一礼をしながら、それに返す。
レミリア様はは満足されたのか、一つ頷いて、部屋に戻られたようだ。





◇◆◇





宴の跡というのは、かくも散らかるものか、などとぼんやり考える。
今までこんな場面に立ち会ったことがない故だが。



「宴の後は大体こんなものよ」
「左様ですか…」
「…さ、片付けるわよ。美鈴も手伝いなさい」
「了解です!」



そんなこんなで、咲夜さんの指示の下、片づけが始まる。
いつもは妖精メイドがいるが、今日は大半が潰れてしまっているため、実質三人で片づけなければならない。



「それじゃ私は食器を片づけるから、貴方は床の掃除をお願い」
「あ、はい」
「美鈴はテーブルと椅子の整理ね」
「はーい」
「じゃ、始めましょうか」



そこまで指示を貰い、ふと気づく。
確か雇用条件に力仕事ってあったような気がしたが、そっちはいいのだろうか。



「あの、メイド長」
「…何かしら」
「美鈴さんの方は手伝わなくてもいいんですかね?力仕事って確か雇用条件に…」
「貴方は力仕事は無理でしょう?」
「うぐ…」


尋ねたところ、あっさりと論破されてしまい言葉に詰まる。
一瞬美鈴さんが、あ、と呟いたのが聞こえたが何だろうか。



「確かに最初は期待したけど、今更無理をさせるつもりもないわよ。貴方は貴方に出来ることをしてちょうだい」
「あ、はい分かりました…すみません美鈴さん、お役にたてず」
「いえいえ、いいんですよ」



申し訳なくなり美鈴さんに謝ると、こちらも申し訳なさそうに言われてしまい、なんとなく肩身が狭くなる。



「…それと」
「はい?」
「『メイド長』と…呼んだわね?」
「……あ」



長年、とまではいかないが数か月ずっとそう呼んでいた手前、つい出てしまったようだ。
無意識って怖い。



「そんなわけだから、『罰』を課そうかしら」
「…お、お手柔らかに」
「そうね。最初だものね」



言いながら近づいてくる咲夜さんはどこか楽しそうで、けれどその笑みに若干の恐怖を感じた部分もあり、さすが長い事レミリア様に仕えているだけあるなぁ、などと逃避したことを考えていると。



「…罰、なのだけれど」
「……はい」



目の前に立ち、罰について伝えてくる咲夜さん。
…というか、近いです。
身長がまるっきり同じだったら鼻が触れてるかもしれません。



「…私を、抱きしめなさい。それで許してあげるわ」
「………はい?」



咲夜さんから発せられた言葉に、一瞬思考が停止する。
…あれ、罰ってもっとこう……



「二度は言わないわ。早くなさい」
「…あ、えと……では、失礼します」



室内が紅いせいか、はたまた別の理由か。
顔が真っ赤な咲夜さんに一言断り、彼女の背に自分の腕を回す。
よくよく考えると、人を抱きしめたことなど、あるようでない。
それ故に力加減が分からず、そっと抱きしめるようにする。



「ん…」



すると、咲夜さんも自分の服にしがみつくように寄り添ってきて、一層距離が近くなる。
どうしたらよいのか分からなくなり、頭が真っ白になる。
そのせいか、腕の力が緩くなっていたのだろう。



「…もっと、ぎゅって…して?」
「えぁ、う、はい…」



腕の中で、甘えるような声色の咲夜さんの普段とのギャップに動揺しつつ、腕に少し力を入れる。
抱きしめる腕から伝わってくる温もりは優しいもので、ずっとこうしているのも悪くないか、などとぼんやり考える。



「ん…もういいわ」
「あ、はい…」



そんな時、普段の声色の咲夜さんに離すように言われ、従うと、するりと咲夜さんは自分から離れる。
彼女は食器の処理の為すでに動き出していて表情は見えなかったが。



「…次は、気をつけなさい」



それだけ言って、その場から姿を消してしまった。
時を止めたのだろうと判断した。



…それにしても、普段からは想像もつかない、あの時の咲夜さんの声。



―…もっと、ぎゅって…して?―



……思い出すだけで変な緊張が走る。



………うん、仕事しよう。





◇◆◇





「…ふぅ」



紅魔館に勤めだして早数ヶ月。
掃除も大分慣れたものだが、やはり館そのものが広く、掃除は骨が折れる。



「お疲れ様です。もう終わったんですか?」
「あぁ、お疲れ様です、美鈴さん…えぇ、とりあえず一通りは」
「はぇー…すっかり慣れましたねぇ」



テーブルと椅子の整理を終えた美鈴さんに驚かれる。
そこまで驚くこと、なんだろうか。
自分では分かりにくいけども。



「咲夜さんからの伝言です。終わったら妹様の所に行ってください、とのことで」
「承知です。美鈴さんは上がりで?」
「そうですよ……まぁ、門の前にいるとは思いますけど」
「…頑張ってください」
「お互いに、ですね。妹様にお勉強を教えてるんですよね?」
「あ、よく御存じで」
「楽しそうに仰ってましたから…ただ、内容は意味が分からなかったですけど」
「はは……」




どんな話をされているのやら。
始めは小学校レベルだったと思うが、今は大学でやってた内容まで入っちゃってるからなぁ…
…というか、恐るべしフランドール様の吸収力。




「じゃあ、私はそろそろ門に戻りますね」
「はい。あ…また後で差し入れ、持ってきますね」
「楽しみにしてます」




互いに言葉を交わし、互いの持ち場へ戻っていく。
美鈴さんはここに来た当初からだけども、話しやすいと思う。
人だから恐怖しなければならないのだろうけど、そうならないのは彼女たる所以なのだろう。




「……さて」




物思いに耽ってフランドール様の機嫌を損ねるわけにもいかない。
そう思い、足早にフランドール様の部屋まで向かうことにした。





◇◆◇





そんなこんなで。



「…今日は、このくらいにしましょうか」
「はーい。あと、今日の事で質問いい?」
「はい?……あぁ、これは…」



そんなこんなで今日も数学の勉強を終え、一息つくことにする。
それにしても。



「始めたばかりの頃は疲れを見せることも多かったのに、最近はそんなことなくなってきましたね」
「そうかな?」
「はい。最初の頃は終わったらやっと終わった、と言わんばかりでしたよ?」
「あー、そうかも。でも最近楽しくて」
「楽しさが分かっていただけて何より」
「もっと沢山やっても大丈夫だよ?」
「……それはやめておきましょう。負担を増やすのはあまりいいことではありませんから」



増えるのは主に私の負担だったりするわけで。
準備が追い付かなくなる、とかね。
…というより。



「そろそろ、フランドール様が自分でしたいことを探してもいいレベルかもしれませんね」
「自分で?」
「はい。今まで色々お勉強をしてきましたが…その中で楽しいことを一層掘り下げていく感じで」
「…あ、それいいかも。後でパチェに貸してもらおうかな」
「それがいいかもしれませんね」



そこそこ内容を重ねてきたからこその提案。
フランドール様の賛成も得たので、後でパチュリー様にお話しておくこととしよう。





◇◆◇





そんなこんなで。



「…貴方、一体フランに何をしたの?」
「お勉強をしただけ、なんですがね……」
「お勉強なんて可愛いレベルの本じゃないと思うわよ、あれ」



前は自分の力の制御に不安があったせいで地下に幽閉されていたフランドール様。
だが今となっては、図書館で椅子に座り、夢中になって学術本を読み漁っている。
私が来てから実質経過したのは1年弱といったところ。



「この短期間で、こうも変わるなんてね…」
「…フランドール様の飲み込みの早さには驚かされますけどね…」
「そう…ちょっと、妬けちゃうわね」
「はい?」



パチュリー様の感想に少しばかり違和感を感じる。
嫉妬するほどの事だろうか。
パチュリー様なら片手間で理解できるレベルだと思ったのだが。



「内容は私からすれば簡単な部類ではあるけれど…それをフランに理解できるようにさせるなんて…普通じゃ死んでるわよ?」
「…私命かけた記憶なかったんですけどね…」
「でもきっとそれ以上に、貴方と共通の話題が出来たことが嬉しかったのね。だからあそこまで夢中になれるのよ」
「もしそうなら…嬉しい限りです。けれど、それで妬けるというのは…?」
「…貴方と私の間にはそういう共通の話題がないじゃない」
「……」
「そこで黙るのはずるくないかしら」
「すみません」



返す言葉が見つからなかった手前謝るしかなかった。
そんな静かな会話を交わしていると。



「…ねー、質問いい?」
「あ、はい何でしょう?」
「私今、こんな方程式立てて解いてたんだけど、これって……」
「…あぁ、これは私も以前考えたことがありますが…」



フランドール様に尋ねられ、その場で談義開始。
その様子に微笑ましさを感じたのか、笑みを零して普段座っている椅子に戻り。



「…こぁ」
「はーい、お呼びですかパチュリー様?」
「本を持って来てもらいたいのだけど」
「はい、魔法関連のでしょうか?」
「いえ、数学の本をお願い。このままだと多分、フランに知識で負けてしまうわ」
「承知しました。紅茶もご用意しますね」
「4人分でお願いね…折角だし、皆でお茶にしましょう」
「はい」



パチュリーと小悪魔も、そんな会話を交わしていた。
ちなみにその後のお茶の時間でも数学の話題となり、小悪魔だけが会話に入りにくくなったのはここだけの話となるだろう。





◇◆◇






そんな感じでお茶を終える頃。


「…フラン?」
「ちょっと…眠くなっちゃった、かも…」



紅茶で暖まったことと、数学で頭が疲れてしまったのだろう。
フランドール様が睡魔に襲われていた。



「そろそろ戻りますか?」
「ん…」
「…そういうわけですので、私はフランドール様をお部屋に」
「えぇ。お願いね」



そんな感じでお茶を終えようとしていたのだが。



「貴方にお客様よ」
「っ…?!」



突然背後から声をかけられ、また驚いてしまう。



「ふふ…一本取ったわね」
「ご容赦ください咲夜さん…」



実に楽しそうな咲夜さんに、思わずため息。
けれど、私にお客というのは誰なのだろう。
里にいた頃の誰か…?



「…それで、お客様、というのは?」
「それなのだけれど…」



来客について尋ねるが、咲夜さんが答える前に。



「…お久しぶりです」
「あ…さとりさん」
「ここ最近人里にいらっしゃらなかったので…探してしまいました」
「あー…すみません。色々ありまして…」
「……みたいですね。私にも責任がありますし…申し訳ありませんでした」
「いえ、さとりさんは悪くないです。私が勝手にしたことですし…」



咲夜さんの後ろから姿を現したのは、地霊殿の主をする古明地さとりさんだった。
自分が人里で敬遠されるようになったのは彼女が絡んでいたりもするのだが、自分はその事に対しては後悔がない。
だからこそ謝られてしまうと逆に居心地が悪くなってしまうのだが。



「…えと、とりあえずフランドール様を部屋にお送りしてきますので、少しお待ちいただいても?」
「えぇ…どこかで待たせてもらっても?…少しだけ、彼と話がしたいのだけれど」
「ご案内しますわ……妹様を送り届けたら、応接間に来てちょうだい」
「承知しました」




さとりさんのお話も気になるが、まずはフランドール様を送り届けることとしよう。





◇◆◇






そんなこんなで。



「お久しぶり、になってしまいましたね。いきなり人里で見かけなくなったので…心配していました」
「すみません、色々ありまして…」
「…私相手にそんなにぼかした表現をしなくていいですよ。分かっています…私のせい、なんですよね。本当にごめんなさい」
「謝らないでくださいさとりさん。少なくとも私は、貴女と関わったことに何も後悔していませんから」
「本当にそうみたいですね。貴方という人は本当に…」



人里にいた頃に話すようになったさとりさんとの久しぶりの会話。
紅魔館に来てから始めてだから、もう1年近いのか…



「…えぇ、最近お会いできずに寂しかったんですよ?」
「お上手ですね、さとりさん」
「冗談ではないのだけれど、ね」



ちょっと拗ねた様子のさとりさん。
そんな様子が普段の彼女と違い、ちょっと可愛らしい、などと思ったりするせいで。



「…もう、そんなこと考えないでください」
「すみません。こればっかりは」
「本当に…貴方には調子を狂わされせてばかり」




非常に話していて楽しいと思う。
思っていることを読まれてしまうということもあるけれど、それほど不快に感じないのは、トラウマを抉られたりはしていないから…だろうか。
にしても、そこまで嫌われるほどとはどうしても思えない。
…外から来たから故の感覚なのかもしれないが。



「…本当に変わった人ね、貴方は」
「あ、えっと…なんか話脱線させちゃってすみません」
「いえいえ。あ、そうそう…これ、よろしかったら」
「あ、ご丁寧にどうも」



言いながら渡されたのは、地霊饅頭。
結構美味しいんだよなぁ、これ。



「ふふ…それと、今日の用件なのだけれど」
「あ、はい」
「貴方が人里からいなくなってからずっと考えていたことを相談したくて」
「…相談?」



改まった感じに何だろう、と思う。



「えぇ…もし貴方が良かったらですけど……地霊殿に来ませんか?」
「地霊殿に…ですか?」
「はい。ぜひ私達の…いえ、私の家族として、一緒に過ごしてほしいんです」
「あ、えと…?」



意味は分かるのだが、突然の提案に思考が固まる。



「話していて楽しいと感じたのは、貴方だけじゃないです。私も…楽しかった。だから…人里に行く頻度が徐々に増えってしまって…結果として、貴方に迷惑をかけることになってしまった」
「……」
「貴方がいなくなって…それだけで、人里に行っても…何も楽しくなくなってしまった。最初は…忘れようと思ったの。これ以上、貴方の負担になってはいけない、私は忌み嫌われた者だから…って」



目を伏せながら言うさとりさんの雰囲気に、言葉を挟むことが出来ず、ただ言葉を聞く。
というより、挟んではいけない気がしていた。



「…でも、駄目でした。貴方に会えなくなってから日を追うごとに、貴方の事が気になりだしてしまって。今はどうしているのだろう、貴方の顔を見たい、他愛もない話をしたい、貴方に会いたいって…そんなことばかり」



とはいえ、話を聞いているとこちらの方が気恥ずかしくなり、思わず視線を下に向ける。
というより、こんなことを言われて直視できるほど鈍感なつもりもない。



「そうなってしまったら、自分の気持ちを覚るのに…そう時間はかからなかった。だから…勝手とは分かっています、けど…言わせてください」
「…さとりさん?」



顔を上げてさとりさんを見れば、真剣な、けれど火照ったような表情で、真剣にこちらを見つめていた。
だからこそ、今は恥ずかしくても視線を逸らすことは出来ない。



「…私、古明地さとりは…貴方の事を、愛しています。月並みな言葉かもしれませんが…貴方の心も、全てが…愛おしいのです。きっと貴方の負担になってしまうという事も、貴方にとって残酷なことを言っていることも…分かっています。けど…伝えたかったんです。この心を、私の言葉で」
「なんというか…女性にこんなことを言わせるというのは…男としてどうなのかな、とは思いますけど……すごく、嬉しいです」
「はい…」
「でも…突然すぎて、いろいろ今混乱してて…気持ちの整理がつくまで、待ってもらっても…いいでしょうか」
「…はい。ずっと、待ってます…貴方の『心』を、貴方自身の言葉で話してくれるまで」



なんともまぁ、情けない答えである。
けれど、さとりさんがいかに真剣に話をしてくれたか、彼女の表情から分かるからこそ、ちゃんと返事をしたかった。



「…ありがとう、真剣に考えてくれて」
「いえ…待たせてしまうことになって、ごめんなさい」
「いいんですよ。楽しみが増えましたから…けれど、覚悟してくださいね?」
「はい?」
「以前、女性とお付き合いをしたことがなかった、と言っていたから知らないのかもしれませんが…恋愛事に吹っ切れた女性というのは…強いですよ?」
「…はは」



確かに昔から恋人がいたこともなく、恋愛事には疎いのだが、女性がそこまで強いというのは、精々漫画の話だろうと思っていたのだが、さとりさんの言葉の意味を、翌日思い知ることとなった。







◇◆◇








翌日。



「…というわけで、お世話になります」
「何が、というわけ、なのよ」



引っ越しの如く、荷物を抱えて紅魔館を訪れたさとりさんに加え、こいしさん、燐さん、空さんもいる。
しかも、皆揃ってそこそこの荷物を抱えている。
…言ってはなんだが、まるで夜逃げのようである。
ちなみに、さとりさんの言葉にお嬢様は、不機嫌さを隠さずに対応していた。



「久しぶり、おにーさん!」
「空、元気そうで何より」
「ん…さとり様に聞いたんだけど、おにーさん、さとり様と結婚するの?」
「えぇ、いずれは家族になるわ」
「じゃあもっと一緒にいられるんだね、やったー!」
「お姉ちゃんにこんなに愛されるなんてすごいね、妹の私でも妬いちゃう」
「さとり様とお空にこんなに好かれてたら、もうどうしようもないねぇ」



地霊殿の皆は楽しそうに話すが、対極的にお嬢様と、傍らに控える咲夜さんは、それはもう不機嫌な表情で。
…これは、私が悪いんでしょうか?
……悪いんでしょうね、きっと。



「どういうことなのかしら?」
「えー…私には何とも」
「…質問を変えるわ。古明地さとりと何があったの?」



お嬢様と咲夜さんからの質問攻めに言葉を詰まらせていると。



「彼は何も悪くありませんよ。ただ…私、彼の事を好きになってしまいまして、少しでも一緒にいたかったもので」
「尚のこと、一緒にいさせたくないのだけれど」
「…まぁまぁ。お二人とも……」



さとりさんがお嬢様と咲夜さんに近づき、何か会話を始める。
こちらからは聞こえないが…



「…分かったわ。いくつか条件をつけさせてもらうけど、問題ないわよね?」
「えぇ。交渉成立となって何よりです…宜しくお願い致しますね」
「む…えぇ、宜しく」



笑顔のさとりさん。
どうやら話が纏まったようだが。



「…貴方も。私の事を好きになってもらえるように頑張りますから…宜しくお願いしますね?」
「あ、あはは…こちらこそ」



ずっとこちらにいるわけにもいかないこともあり、定期的に地底に戻ったりしながら過ごす事となるらしい。
けれど、これからの生活は、どうやら賑やかになっていきそうだ。

――――――――――――――――――――――――



さとりさん達の突然の訪問から数日。
彼女らもさすがにずっと地上にいるのは、地上と地底どちらからしても都合がいいことばかりでもないようで、時折訪問する程度であった。
なので実際には、これまでの日常に、定期的に来客がある、という感覚に変わった程度である。
最初は住み込むつもりだったようだというのは、ここだけの話にしておいた方がいいのだろう。
今日は、そんな彼女らが訪問している日。



「お疲れ様です」
「ありがとうございます…その……」
「退屈ではないですか、ですか?貴方を見ているだけで楽しいのでいいんです」
「…そ、そうですか」
「ふふ…」



昼間、館の掃除をする私を見守るさとりさん。
果たして何が楽しいのか甚だ疑問ではあるが、本当に楽しそうにしているので何も言えなかった。
そんな状態でさとりさんと会話をしながら、けれど掃除を続けていると。



「おにーさーん、あっそぼー!」
「ごふっ…」



脇から勢いよく体当たりでぶつかってくる空。
毎度ながら遠慮がない。
けれどまぁ、痛いで済んでいるだけましなのだろうか。



「ほらほらおくう、今この人はお仕事中なのだから我慢なさい」
「…はーい。終わったらあそぼ?」
「終わった後なら…」



空も地底で仕事をしているからか、仕事ということに対して聞き分けは割といい子である。



「彼がうちに来てくれれば、いつでも遊んでくれるのだけどね…」
「それはあたいもそう思いますけど、この館の吸血鬼が果たして許してくれるか…」
「大事なのは彼の意志よ…結構揺らいでいるようだし、もう一押しね」



燐さんとさとりさんの話をとりあえず聞かなかったことにして掃除に戻る。
…ここ最近のことだが、さとりさん達に地霊殿に来ないかと誘われ始めている。
当面ここを離れる理由がないので返事を濁しているのだが、なぜか熱心に誘われ続けているのだ。
なぜ自分を、なのかがよく分からないのだが。



「みんな、貴方のことが好きだからですよ」
「そ、そうですか」



だそうである。
どういう意味を持ってそう言ってくれているのかはわからないが、単純に気恥ずかしさを感じる。



「…気になってたのだけれど、古明地とどういう出会いがあったの?」
「えぇと…それはですね……」



咲夜さんに尋ねられ、言葉につまりながらさとりさんを見る。
自分だけの話ならいざ知らず、さとりさんの話でもあるからなぁと考えてのことである。
それを察してか、さとりさんはこちらを見て微笑みながら。



「私は構いませんよ。お話ししてしまっても」
「さとりさんが良いのであれば、私は別に構わないんですけどね…」



そんな感じで、少しばかり昔話をすることになりました。





◇◆◇





話は人里にいた頃まで遡る。
その頃は人里の小さな古書店で働いていたのだが、そこではちょっとした決まりがあった。
それは、『里で鐘の音が響いたら、時間を問わず施錠する』というものだった。



「そのとき理由も聞いたんですが、教えてはもらえませんでした」
「…そこにいる覚妖怪が人里で嫌われていたから、といったところかしら?」
「えぇ…そうです。私たちも里に近づきたくて近づいているわけではないのですが…何分、地底では手に入らないものが必要なこともありまして」



パチュリー様が言い当てた理由をさとりさんが補足する。
まぁ、地底は人工的な太陽があるとはいえ、地上とはまるで違う環境という事、なのでしょう。



「その時私はある書店で店番をしていたのですが…鐘の音が鳴った時に施錠を忘れてしまったことがありまして」
「…その時が初めて、でしたね。貴方と会ったのは」
「えぇ…さとりさんが訪ねてきてくださいまして」
「最初は不思議に思ったのです…いつもは閉まっている書店が開いていたので」



人里で書店に来る人はそれほど多くないのか、それとも他の店があるのかは私にはわからなかったのですが、それほど客足が多くなかったので忘れていたという所です。
そんな折の珍しい来客だったので、珍しいなと思ったら。



『……?えぇ、私は貴方の知る通りですよ…良いのですか?お店を閉めなくて』
『いいえ、どうぞごゆっくり』



それが出会いでした。
私の不注意から始まった、というわけです。



「その時は、変わった人、と思いました。人里で心の底から私を拒絶しない人がいるなんて思ってなかったから」
「別に拒絶する理由もないなぁ、と思ってただけなんですけどね」
「…その時点で大分人間離れしてると思うわよ。だからここでも上手くやっていけてるんじゃないかしら」



お嬢様の突っ込みが入る。
そんなに珍しいのだろうか…?



「少なくとも、私が出会った人間の中では、貴方のような考えを持つ人は初めてですね」
「…はぁ」
「だからこそ、私は貴方に興味を持ったの。それ以来、私は地上に来る度、その店に通うようになった」



それから、人里で噂になるほど拒絶されるような人じゃないのでは、という印象を持つまで時間はかからなかった。
何度目かは忘れたけど、普通に雑談を楽しめるほどになった頃。



「…そして、私はある日、里の長に言われたのです。里を出ていくように、と」



私のその言葉に、誰も反論をしませんでした。
理由なんて、簡単にわかりますからね。



「里の規則を破ったことに加え、地底の住人であるさとりさんと交友関係を持ったことが、後に里に被害をもたらすと考えたから、なのでしょう」



とはいえ、次に住む場所が見つかるまでは里に残ることを許してもらっていた。
そんな中で里の外の仕事ということで紅魔館での仕事を見つけて。



「…そして今に至る、といったところです」
「お姉さま」
「…やめなさい、フラン」
「でも!」
「フランの考えてることは分かるわ…姉妹だし、私だってそうしたいという思いもある。けれどそんな事をした所で、もう何も変わらないわ」
「っ……でもこんなの」



話し終えたところでフランお嬢様が怒りを露わに、いまにも飛び出しそうになるのをレミリアお嬢様が止める。
フランお嬢様は納得いかない部分があるようだが。



「…フランドールさん。貴女の思いをぶつける相手は、私ではないですか?」
「……え?」
「元はといえば、私が彼に近づいたことが全ての始まりなのです…そう考えれば、彼にこんな思いをさせた原因は、私にあると考えてもいいはずです」
「っ…」



さとりさんが名乗り出る。
第三者から見れば、確かにそういう事なのかもしれないし、実際その通りと思うかもしれない。
…けれど。



「…いい」
「え?」
「だって…私も貴女の気持ち、分かる気がするから」
「……ありがとうございます、フランドールさん」
「…ん」



フランドール様はその思いをさとりさんにぶつけることはなかった。
さとりさんのお礼に、フランドール様は本当に短く返す。



「…私、間違ってないよね?」
「えぇ…完璧です、フランドール様」
「うん」



不安そうに尋ねてくるフランドール様に答えを返すと、いい笑顔を返してくれた。
私がここに来たばかりだったら、きっとこうはならなかったかもしれない。



「…随分成長したわね、フラン」
「そう、かな…そんなに変わってないと思うけど」
「そう言える事自体が、成長した証なのよ」
「…ん」



パチュリー様の言葉に恥ずかしそうに返すフランドール様。
その様子は、烏滸がましくも微笑ましく見えた。



「…傍観者決め込んでるようですけど、貴方も渦中の人物、ですからね?」
「あ、はい」



さとりさんからの突っ込みが入り、我に返るのが今回のオチ。
お後がよろしいのかどうなのか。





◇◆◇





そんな感じで話をした後、特に何かが変わるわけでもない、新たな一日。
図書館で小悪魔さんの手伝いをしていた時のこと。



「…ねぇ、ちょっといいかしら?」
「はい?」



パチュリー様に呼ばれ、振り返る。
こうして呼びかけられることはそうないので、何だろうと振り返る。



「頼みたいことがあるのだけど…古道具屋まで行ってもらえるかしら?咲夜に頼もうと思ったのだけど、今手が離せないらしくて…」
「私がですか?構いませんが…」



仕えている身である以上、断る理由はどこにもないのだが、懸念点があるとすれば。



「道中…大丈夫ですかね?」
「そうね。そういえば貴方、弾幕打てないのよね…すっかり忘れてたわ」



パチュリー様が一瞬考える。
…練習したほうがいいのだろうかと、少しだけ本気で考える。



「…なら、こぁ。貴女、ついていってあげなさい」
「あの、でも図書館の整理は…」
「どっちが優先すべきか、考えればわかるでしょ?」
「…ですね」



そんな感じで小悪魔さんと一緒に古道具屋…おそらく香霖堂だろう。
優先順位を高くしてくれるのはありがたいが、少しだけ気恥ずかしい。



「それじゃ、お願いね。店主に頼んでたものを受け取ってきてほしいのよ」
「言えばわかりますかね?」
「分かるようにはしてあるわ」
「…承知しました」



要領は分かった。
小悪魔さんも承知したのか。



「では、行きましょうか」
「えぇ」



そんな感じで出発するのだった。





◇◆◇





香霖堂まではあっさりと到着し、お使いも実にあっさり終わった。
道中心配していたことは、全く起こらず、一人でも大丈夫だったんじゃないかと思うほどに。



「なんか、一人でも大丈夫だったんじゃないですかね、これ」
「油断は禁物ですよ。そうやって気を抜いた時が一番危ないんですから」



ご尤も。
とはいえ、あまりにスムーズすぎて怖いくらいなのだが。



「帰ります?」
「そうですね」



別に長居する理由もないので帰ろうとする。
そして、外に出てふと陰に目をやると。



「…お」



車があった。
ここに来る前は普通に道路で普通に走っていたので、忘れられた、ということはないはずだが。



「どうしまし…なんですこれ?」
「あぁ、これは…」



立ち止まった私に気付いた小悪魔さんが私の視線の先にある車を見て尋ねてくる。
それに答えようとすると。



「…君、それを知ってるのかい?」
「え?あ、はい」



店主に尋ねられ、返事を返す。
すると、それに興味を持ったのか。



「そうなのか。それなら使い方を教えてもらえないかな?『目的地まで早く行くための道具』ということは分かっているんだが、使い方がね…」
「一応、動かし方は知ってますけど…宜しければ私が少し動かしましょうか?」



一応免許は持ってたので動かせるはず。
窓から中を少し覗くと、鍵は既についている。
…やっぱりマニュアルかー。



「それなら頼んでもいいかな?実に興味深い」
「分かりました」



まさかここで車の運転をすることになろうとは。
まぁ、少しだけだろうしいいか。





◇◆◇





そして、車に乗り込む。
助手席に店主。後ろに小悪魔さんに乗ってもらう。



「えーと、動かす前にお願いがあるんですけど」
「何だい?」



場合によっては危険を伴うので、シートベルトを着けてもらい、レバーとかに触らないでもらうようにしてもらう。
動かすには動かせるがプロってわけでもないので、下手なことをされると事故る。
ま、安全のためにね。



「そんなに危険なのかい?」
「…だからこそのそのベルトですよ」
「……」



店主の質問に返すと、黙られてしまった。
脅すつもりはなかったんだけどまぁ……うん。



「…さて、それじゃいきますかね」



変な空気になったが、気を取り直して、キーを回すと、エンジンがかかる。
…燃料は満タンだが、なくなったらどうするんだろうと考えながら、とりあえず近くを回ることとなった。





◇◆◇





そんなこんなで、湖の周辺まで行ったりしながら車を走らせ。



「……っと、こんなところでどうですかね?」



店の前まで戻ってきて、キーを回してエンジンを止める。
ふと隣を見ると、ポカーンとしていた。



「ここまでスピードが出るとは思わなかったよ…ありがとう」



少し顔を青くしながらお礼を言ってくる店主。
あまり慣れていないのだろうか?
…久々の運転ではあったが、せいぜい80ぐらいしか出してなかったと思うけれども。



「…ちなみに、もっと速いスピードも出せましたよ?」
「いや…もう十分だ」



どうやら若干恐怖を与えてしまったらしい。
途中から小悪魔さんが静かになってしまっていたが、どうしたのだろうと後ろを振り返る。



「…」



…気を失っていた。
まじですか。
もっと速いスピードの方、普通にいるでしょう。
実際に会ったことはないけど、某天狗の方とか。
でもまぁ自分の意志に反して速度が出るのは怖いのだろう。
…ジェットコースターとかね。





◇◆◇





そんなこんなで、あれから小悪魔さんも復活し。



「…大丈夫ですか?」
「はい…あのスピード感は慣れないと……」



自分で飛んでスピードを出すのとは違うのだろうと察する。
私は自力で飛んだりできないので分からないが。



「…あの、ちなみに動かし方分かりました?」
「あぁ…何となくはね。ただ、動かそうという気は起きないね」



実に勿体ない、というか車がちょっと可哀そうに見えたが、引き取るほどのお金もないのでそれ以上は何も言わない。
その様子を見ていると。



「君、よければこれを売ろうか?」
「…いえ、お金がそんなにないので」



そこそこもらっているが、おそらくこれを買い取るほどにはなっていないだろう。
実際、そんなに簡単にお金がたまるわけもなく、店主に提示された額に達してはいなかった。



「ふむ…まぁ、また来るといい。見るだけならタダにしておくし…多分そう簡単には売れないだろうからね」
「でしょうね…」



動かせないとただの大きな置物と見られても仕方がないですからね。






◇◆◇






翌朝。
人間からすれば清々しい青空。
お嬢様からすればきっと忌々しい青空。



「……」



そんな中、軽く頭痛がしている。
体がだるいかというと微妙ではあるのだが、そこまで致命的でもないと思い、仕事に移る。



「……貴方、大丈夫?顔色悪いけれど」
「そうですか?」



咲夜さんの心配に返事を返す。
大丈夫って意味で返したのだが、却って心配そうに見られる。
そのように心配されると逆に自分が体調悪いのかと思ってしまうので、さっそく仕事に入ろうとする。



「さて、まずは……」



と、振り返ったところで足が縺れ、視界が傾く。
体制を立て直そうとするが上手くいかずそのまま倒れこんでしまう。



「…っと、大丈……!?」



予想以上に体調崩れてたのだろうか……



そんなことをぼんやりと考えながら、床に倒れたことを忘れ、意識を手放した。






◇◆◇






「ん……?」



ぼんやりと目を覚ます。
ここ最近はよく知っている天井。
うん、紅い。



「……」



仰向けに天井を見上げ、事情を察する。
倒れた、ということか。
微妙な布団の重みを感じながら、時計の秒針が時を刻む音だけが響く。



目を閉じると、ぼんやりとこれまでの事が思い浮かんでくる。
外の世界から突然この幻想郷に来た事。
人里で過ごしていたら、些細なきっかけから、この紅魔館で働くことになった事。
外の世界では画面越しでしかなかった世界。
その世界で自分は今、日々を過ごしている。
それ自体が、非現実。



そもそも、自分は何故ここで働かせてもらえているのだろう。
何の力もない、ただの人間だというのに。
咲夜さんなら、分かる。
あの人は、特殊な力を持っている。
下手をすれば、純粋な力すら劣るだろう。
自分は所謂現代っ子だから。
自分は、何かの役に立てているのだろうか?



それに何より、ここの住人同士の関係は完成されていると、単純に思う。
レミリアお嬢様と、仕え方は違えど尽くす咲夜さんと美鈴さん。
お嬢様の妹で、傍目には分かりにくくとも分かり合っているフランドールお嬢様。
お嬢様の友人のパチュリー様、使い魔の小悪魔さん。
この関係は完成されていると純粋に思うし、誰もがきっとそう思っているのだろう。
この里に限らず、外…すなわち現代の人も。
だからこそ、皆に気にかけてもらえることが嬉しい反面、心苦しさも感じる。
こんなに良い関係の中に、自分が入り込んでしまうことへの罪悪感。



「…はぁ……」



思わず、溜息。
どれだけ悩んでも、答えが出るはずもない。
誰かに相談しようにも、きっとできない。
それは、この罪悪感を肯定されてしまうことへの恐怖からだと、自分でも思う。
だからこそきっと、知らずのうちに仕事で無理をしていたのかも、と今更ながらに思う。
そんな事をしても解決にならないと分かっていても。



…駄目だ、どうにも思考が良くない方向に進んでいる気がする。
体調が悪いから?
本当にそうなのかは分からないが、今は休んだほうがいい気がする。
そう思い、もう一度眠ろうとしたとき、ふとノックの音が響いた。






◇◆◇






「失礼しまぁす…っと、起きてたんですね。お加減はいかがですか?」



申し訳なさそうに入ってきたのは美鈴さんだった。
さっきの考えを振り払うように軽く息を吐いて上体を起こす。



「…えぇ、おかげさまでそれなりには」
「それは何よりです」
「ありがとうございます……それより、門番のお仕事は?」
「お嬢様に頼まれて、貴方のお見舞いに来たんですよ」
「…そう、なんですか」



言いながらベッドの脇に椅子を用意して、手に持っていた小さな土鍋が乗ったお盆を近くの机に置く。
そのまま、私の額に手をやり。



「…でも、まだちょっと熱はあるみたいですね」
「自分でもそんな気はしてはいました。だからまぁ、それなり、と」
「なるほど。でもそういう時は寝てないと駄目ですよ」
「いえ、折角来てもらったのに寝ているわけにも」
「病人が変な気を遣わない」



言いながら、美鈴さんに肩を押され、ベッドに逆戻り。
普段でさえ彼女には力で敵わないのに、今は体調不良で力が落ちていれば、されるがままになるのは明白だった。



「本当はお嬢様が来るつもりだったそうなんですが、人間の、まして弱った相手にお嬢様の魔力は毒になるってパチュリー様に釘を刺されたんです」
「はぁ」
「話を聞く限りだと風邪かそれに近い病気だろうなというのは分かってまして、お嬢様にも説明したんですけれど…」



そこで、ばつが悪そうに言葉を濁す美鈴さん。
けれど、苦笑しながらすぐにあとを続ける。



「人間は脆いから、簡単に死んでしまう。大丈夫だと思って油断したら、彼を喪ってしまうかもしれない。そんな事になったら私はきっと壊れてしまうから。だから助けて欲しい、って」
「…なんだか、生死の狭間を彷徨ってるみたいになってますね」
「あの方の周りには人間はいるとはいっても、人間離れした方が多いですからね…貴方のような純粋な人間、という存在が分からないだけだと思います」



あまり、責めないでくださいね、と続ける美鈴さん。
責めるどころか、そこまで気を使わせてしまって申し訳ないという罪悪感。
早く治して復帰しないとなぁ。



「…あの、もし私の勘違いだったら申し訳ないんですけど、何か…悩んでたりします?」
「え?」



突然の問いかけに美鈴さんを見る。
彼女の眼は何かを見透かそうとするかのようにこちらを射抜いているように見えた。



「な、なんでまた突然?」
「突然というか…ずっと気になってたんです。以前のパーティの時も、なんとなく純粋に楽しんでるというよりは、何かを抱えながら、というかなんというか…」



それに、と続ける。



「趣味とか、貴方自身の話をまるで聞いたことがなかったなって」
「それはまぁ…職場ですから。そういった話は…」
「…そういう所も、真面目だなと思いますけど…もう少し、肩の力を抜いてもいいと思いますよ?」
「そう、ですかね?」
「…えぇ。何だかんだで、皆で悩んでたんですよ?貴方との会話の糸口が見つけにくい、って」



そうだったのかと思いつつ、ふと苦笑する。



「私なんかにそんなに気を遣わなくてもって思うんですけどね…」
「その考え方がダメなんですって。そうやって貴方が壁を作ってるから、誰かが踏み込もうとしても踏み込めない。結果として距離が縮まらず、変に気を張ってしまう。悪循環ですよね?」
「う…」



実際言いたいことが理解できてしまい、何も言い返せない。
とはいえ、職場の付き合い関係でそこまで話すものなのだろうかと思ってしまう。



「…もう少し、肩の力を抜いてはどうですか?フランドールお嬢様とはお話しできてるんですから、大丈夫ですよね?」
「……えぇ、わかりました。時々、雑談などお誘いしても?」
「えぇ…ですがまずは、その他人行儀な言葉遣いから、ですかね?」
「それは追々、ということで」
「えぇ、期待してます……さ、今はもう少し休んでください。貴方は病人なんですから」



実際、布団に潜っているせいか、眠気が結構来ていたので。割とすぐに睡魔のせいで美鈴さんの姿がぼやけていく。






◇◆◇






そんなこんなで翌日。



「…ふむ」



上半身を起こす。
大分気分がすっきりしている…熱が引いたのだろう。
まだ少々眠気がさしているが、これはいつものことだし気にしていない。
ベッドから降りて着替えようとしていたところで。



「…何やってるの?」
「パチュリー様?」



カチャ、と音を立てて戸が開いたと思ったら、パチュリー様が本を抱えて部屋に入ってくる。
立ち上がろうとしたところだが思わぬ来客に動きを止めてしまう。



「おはようございます」
「えぇ、おはよう。ところでベッドから起き上がってどこに行こうとしてたのかしら?トイレ?」
「あ、いえ…大分よくなったので仕事に復帰しようかと」



そう言い切ったところで、パチュリー様に溜息をつかれる。



「…貴方ね、昨日あれだけの熱を出して倒れたのよ?そうすぐによくなるわけないでしょう。向こう一か月は様子を見るわよ」
「……長すぎやしませんかね」



一日でここまで回復するのであれば、どれだけ長く見積もっても今日明日程度休めば十分だと思うのだが。



「一か月で大丈夫かしら。それとも医者を呼ぶ?それとも手術……」
「……」
「咳一つでも死に至る病の兆候ということもあるし、熱があれだけ出ていたとなると…」



なんだかパチュリー様の中で凄い重篤な病気にされていそうな気がする。
医療系の情報というのは、情報だけで言うとかなり相手を脅すような記述がある。
とはいえ素人では完全にそんなことはないと否定できないものだが。



「えっと、そこまで深刻に考えなくても…」
「その油断が命取りよ。まして貴方は私達とは違ってか弱い人間なのだから、用心なさい」
「……」



うーむ。
多方面の知識をもつパチュリー様らしいといえばらしいが、見事に知識に振り回されてるような。
どうすれば落ち着いてもらえるのだろうか。



「…実際、熱も下がってると思いますよ?」
「………本当かしらね」



うわ、すごいジト目。
全然信用されてないですな。
いや、あるいは心配なのか。



「難なら、確かめてもらってもいいですが…」
「…………そうね」



軽い気持ちでそんな風に言う。
実際手で額にでも触れてもらえれば分かるだろう。
けれどパチュリー様は一瞬間を置いて考えた挙句の返答。
そこまで悩むことだろうかと考えていたが。



「じゃあ…確認するからじっとしてなさい」
「?…はい」



指示に従い、その場に落ち着く。
するとパチュリー様は手を伸ばしてくるのではなくこちらにのしかかってきて。



「……ん」



私の肩に両手を置き、額どうしを触れ合わせてくる。
驚きで前を見れば、パチュリー様の不健康そうにすら見える白い肌に僅かな紅潮。
こちらを見つめるパチュリー様の瞳に自分が写っていることが確認できるほどの至近距離。
それほどの距離になれば女性らしい彼女の体がこちらに押し付けられる形になる。



「…少し、熱くないかしら。それに心臓の音が大きく聞こえる気がするわ」
「それは…そうでしょう」



むしろあの状態で平常心でいられるわけがない気がする。
額を放して指摘をしてくるが、のしかかった体勢で体を押し付けられたままなのは変わらず。



「…凄い、ドキドキしてるわね、貴方」
「絶対、体調不良のせいじゃないと思います」
「……そう」



すると、何を思ったのかこちらの首に腕を回して抱き着く体勢になって。



「…私も、凄いドキドキしてるの……分かる?」
「……なんとなく、ですけど」
「どうして、だと思う?」



目の前で吐息を感じさせられながらの質問に一瞬息が詰まるほどの緊張が走る。



「あらあら、主の私を差し置いてお楽しみかしら」
「っ!!?」



パチュリー様の背後から届くレミリアお嬢様の声に、まるで磁石の同じ極を合わせたように離れる。



「と…とにかく。今日一日は休んでいなさい。分かった?」
「承知しました…」



慌てて歩き去りながらそう言い残すパチュリー様。
飛んでいかないあたりに動揺が見て取れる。
喘息大丈夫なのだろうか…



「やれやれ…油断も隙も無いわね」
「…え、と。お嬢様…今はお休みの時間では」
「………たまたまよ。たまたま」
「そうですか」



物凄い間があったことに関しては触れないでおこう。



「で?パチェに休むように言われたようだけど、体調はどうなの?」
「あ、はい、概ね良好です」
「…そう。まぁ今日あたりは休んでいなさい。咲夜には私から話しておくわ」
「いえ、そこまで気を遣っていただかなくても…」



さすがに手を煩わせてしまうのも申し訳ないと思ったのだが。



「…休んでいなさい?」
「……御意」



有無を言わせぬ笑顔で言われ、思わず頷く。
初めて見たのですが、怒りから出る笑顔って分かるものなのですね…





◇◆◇






「全く…」



溜息をつきながら咲夜を探す。
あぁ言った以上、伝えずに戻るわけにもいかないだろう。
とはいえ、メイド長をやっている以上、館のどこにいるかなど分かるはずもなく、日向に出ないように場所を選びながら館を移動する。



「…お嬢様?」
「あぁ、やっと見つけた。咲夜…あいつは今日も休ませておくわ」
「あ、はい。それはまぁ昨日の今日ですから私もそのつもりではいたのですが……」



咲夜の言葉にまた一つ溜息。
つまりはあれか、体調不完全の癖に仕事に戻ろうとしてたのかあいつは。



「…まぁいいわ。そんなわけだから咲夜の負担は増えてしまうだろうけど…」
「問題ございませんわ。今までそうだったのですから」
「そう」
「それに……」
「?」



言葉を止める咲夜。
いつもははっきりと物を言うのに珍しいと思う。



「…早くよくなってもらわないと、困りますから」
「……そうね」



あいつが来てから、この館の中の雰囲気がちょっと変わったわ。
美鈴はもともと人当たりがいいから些細な変化だけれど、パチェや咲夜は本当にいい顔をするようになった。
フランも夢中になれることを見つけて、明るい子になってくれた。
ここは人に恐れられる悪魔の館だというのに。



「…お嬢様?」
「ん?」
「何か良いことでもありましたか?」
「んー…あったというより、現在進行形で、ある、といったところかしら」



そしてこの雰囲気を悪くないと思ってるあたり、私も相当丸くなったのだろう。
ここまで変化を与えたのが誰かなんて、言う必要もないだろう。
知らぬは本人ばかりなり、なんてね。



「…咲夜」
「はい」
「単刀直入に聞くけど……あいつの事は、好き?」
「…………はい」



私の質問に驚き、頬を染めながら小さく返す咲夜。
おーおー、一丁前な女の子しちゃってまぁ。



「そう。ならそっちの意味では、これからはライバルかしらね」
「はい……はい?」
「じゃ、私は休むから…また後でね」
「ちょ、お、お嬢様、今のは…!?」



けど、そういう意味では私だって負けるつもりはない。
咲夜はもちろんだけど、フランもあいつに懐いてるし、パチェもあれは間違いないだろうし。
挙句の果てには古明地のところもそうだし、敵は多いわね。



「貴方の運命…私のものになるがいいわ」



だが、負けてやるつもりはない。
これは吸血鬼という妖怪としての争いではない。
女としての争いだ。
こんな事昔は馬鹿らしいとも思っていたが、いざ始まってみれば、これほど夢中になれるものもなかなかない。



ほんの少しだけ高鳴る胸の鼓動すら心地よい。
この心地よさの中、今少し、休息をとるとしよう…





◇◆◇






「んー……」



暇だ。
風邪をひいて一人で布団に潜って休むなんて何年ぶりだろうか。
だからだろうか。



「……暇」



何をして過ごせばいいのか分からない。
かといって眠くもないので、寝るに寝られない。
どうしたものやら。



「暇なの?じゃあ一緒に遊ぶ?」
「…?」



そんなことを考えてきたら、どこからか聞こえてくる声。
懐の辺り…?
布団を軽く捲ると。



「見つかっちゃった。おはよ、おにーちゃん」



そこにいたのは、古明地さとりさんの妹、こいしさん。
いつの間に潜り込んでいたのかは分からないが、布団の中でこちらに抱き着くように身を寄せてきている。
見る人次第では誤解を招く光景である。



「えーと…こいしさん?」
「もー、私のことは『こいし』って呼んでって言ってるのにー」



軽く冷や汗をかきながら名前を呼ぶが、訂正される。
頭の中では呼び捨てできてもいざ実際にやろうとすると出来ないもので。



「それに、お姉ちゃんと結婚したら私妹になるんだよ?今からでも慣れておかなきゃ」
「……」
「それとも、お姉ちゃんより私?私は全然おっけーだよ?」
「こいしさん…いくら無意識とはいえそれは……」



さすがに冗談ではすまない雰囲気になってきた気がしたのでこいしさんを止める。
しかし、返ってきたのは予想外の反応で。



「…無意識のつもりはないんだけどな」
「はい…?」
「私のことをこうして意識してくれる男の人は貴方だけ…だから…ね?」



いつもの明るい表情ではなく、真剣なまなざしのこいしさん。



「だから…私のこと…ちゃんと『意識』してほしいの。貴方に…」



館の赤のせいか、ほんのり頬が染まったこいしさんの顔が近づいてくる。



「お姉ちゃん達には悪いけど…私だって、本気だから……」



そのまま、零距離になり、唇が触れる。
触れるだけの軽い口づけ。
やがてすぐ離れて。



「ちゃんと私のこと…意識してくれなきゃ、嫌だよ?」
「はい」
「『こいし』って呼んでくれるの…楽しみにしてるね?」



それだけ言い残し、こいしさんは文字通り『姿を消して』しまった。
私の意識の外に出てしまったのだろう。



「あれで意識しないとか…無理でしょう……」



こいしさんと触れ合った口元を掌で押さえながら呟く。
今度彼女と会ったら、どういう顔をすればいいのかよく分からない。



「…余計寝られない」



寝られるほど落ち着けない。
明日には平静を取り戻すことができるのだろうか。
不安に思いながら、今日も一日が過ぎていくのだった。



うpろだ0066,うpろだ0073
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最終更新:2018年03月27日 00:17