霊夢5
4スレ目 >>552(改訂>>554(うpろだ0034))
「暑い……いや、熱ぃ……」
夏の夕方前。
七夕も終わり、また平凡な夏が続く。
そんな中。
「くふぅ、まだか……?」
気を違えたのか、とでも言われそうだが。
俺はあろう事か――――――火の番をしていた。
「あっつー」
相手は、水を一杯に張った大釜。
お勝手の外、すぐ裏側のスペースに特注で組んだ、大き目で穴二つの竈。
そして神社の物置にあった大釜を、山から拾ってきた大量の薪で火に掛けている。
不完全燃焼にならぬよう、鞴で風を送り、経って数刻。
水撒き用の大きな柄杓で掬い上げ、手を翳してみるが、
「……温い」
湯気も立たず、手を突っ込めるほどの加減だった。
これではまだ、温めの五右衛門風呂が精々。
生憎と風呂を焚くわけでは無いのだ。この程度では程遠い。
「大丈夫ー?」
ふと、掛けられた声に振り向けば。
定期的に物音を立てるお勝手、その窓から覗く捩れた耳。
「んあ゛ー、こいつは思ったより長丁場だな―――水くれ」
「飲む用ー?」
「寧ろ頭から被りてぇ―――っと」
柄杓で湯を攪拌する。
幸いにして場所は日陰で、水場も近いので倒れるようなヘマにはならないだろうが、
これは正直堪える。
「はいどうぞー」
「ん?おおさんきゅ」
と、お勝手をもう一度―――
「はい頭からー」
「おぶふぁぁあッ!!!?」
俺の頭上から襲い掛かる、凄まじき水の奔流。
よく冷えた湧き水が、火照った身体から鮮烈に熱を奪い、汗を飛ばす。
「っぶはッ、いや確かにリクエストはしたがな、ホントに掛けるな水が勿体無い」
「でもそのままだと熱中症になるわよ?」
「水泳で何故準備体操するか知らんのか薬師見習いッ」
心配そうにお勝手から顔を覗かせる薬師、鈴仙=優曇華院=イナバに半眼を返す。
「ウチの兎は引っくり返ったら水風呂に沈めると復活するから」
「兎と人間様を同等に扱うな」
平等より対等。これ重要。
「あらウドンゲ、患者の調子はどう?」
「はいししょー、手の施しようが有りません」
「誰が何の患者だ」
月兎のとなりにひょっこり顔を出したのは、永遠亭の薬師。
「何って、巫女巫女熱中症」
「それも末期ですね、おいたわしや」
「人を勝手に可哀想な人認定するなッ―――で、其方の守備は?」
「霊夢の容態は異常無し。勿論、心身ともにね。
もともとのタフさに加え、誰かさんの対処と看病が効いた様ね」
「うむ、重畳」
彼女達が来たのは、この前の赤巫女騒動以降、療養していた霊夢を
慮っての事だ。
先日の応対が余程堪えているのか、境内に入ってきた二人の表情は、
それこそ通夜ものだったが、手土産の笹餅を次々と平らげる我等が現金巫女さんを見て唖然とし、
『次は熱いお茶が怖いわ』と言って催促する彼女にとうとう破顔、肩の荷を降ろしてくれた。
「音沙汰がさっぱり無かったから、大事になっては居ないかと思ってきたら、これだものね」
全く以ってその通り。寧ろ此方の方が非が大きいぐらいだ。
「はは、悪いな。彼女を静かに置いておこうと思ったら、何故か新聞屋もこなくてなあ」
「へ?あの鳥類、ここにも来てないの?」
「……魔理沙の仕業か?」
霊夢が御健体であることを最速で知るのは、当日の第一発見者である魔理沙のみ。
数日ゆっくりする事を話したので、気を利かせてくれたのか。
実力行使か否かが気になるところだ。
「しかし、また骨な事考えたわねぇ」
「なあに、これもまた夏ならでは、だ」
再び釜に集中すれば、もう湯気が上がり始めていた。
「さて、そっちは期待して良いんだな?」
「ええ―――イナバ印の饂飩、味は姫のお墨付きよ」
「最初は変なこじ付けでやらされたんだけれどねー……」
彼女たちが詫びの為と持ってきた『肩の荷』は、饂飩の製麺道具一式だった。
そのネーミングにこじつけて酔狂で仕込まされたものだが、企んだ主犯が妥協無用の鬼畜であったのと、
途中から『早いので多人数の食事に向く』と本人も乗ったようで、習熟を重ねたらしい。
最初は霊夢と二人で半信半疑だったが、笊に上げられたそれを手繰ってみると、中々に美味。
少なくとも量販品の讃岐では及ばない域のものであるのは確か。
そこで、俺は思いついた。
「―――夏こそ熱いものを食え、だ」
「それで釜揚げ?」
ざっつらいと。
俺が向こうで楽しんだ、実家伝統の食い方である。
暑さの僅かに和らぐ夕涼み、風に涼みながら冷茶を煽り、汗を手拭で払いながら、熱い饂飩を手繰る。
これもまた風流なり。
「確かに、夏場にこそ適度な発汗を行うのは、健康的ではあるわね」
と、薬師の太鼓判も頂いた。
あとは、実際の作業が問題だったわけだが。
何ぶん―――この二人にも、振舞うのである。
更に下手をすると宴会のように拡大、エライ事になる。
博麗神社で美味いものの抜け駆けは、そう簡単には行かないのだ。
それ故の大掛かりな準備。暑い釜を空調も無い台所で延々煮るのは勘弁なので、苦肉の策である。
我ながら少々無謀だとは思う。
だが、月並みで悪いが、そこが良いのだ。
「いいぞぉ?汗を掻く気持ちよさを手軽に感じられるってのは」
「うわぁ、暑苦しい」
「むう、この暑い中、タイマンで鍋と格闘する良さがわからんとは」
最近の人妖は貧弱で困る。
「ま、くれぐれも火傷などしない様にね―――巫女さんを泣かせることになるわよ?」
「当然―――ま、あとは待ってな、出来上がりまでそうは掛からん」
「麺、ここに置いとくからね―――はい、飲み水」
「応よ―――っふう」
渡された冷や水を煽り、三度釜と対面する。
火加減が落ちてきたのを確認、薪を放り、鞴を漕ぐ。
蓋を使わないのは、開けたときの蒸気が危険な為。
また、これ以上火力を上げると近づくこともままならないし、即興の竈が保つとも思えない。
故に適温まで眼は離せないのだ。
一人、釜との格闘が始まる。
暑いには暑いが、正直、伝う汗やら立ち上る蒸気やら、嫌いではない。
そう、これもまた風情だ。
「……巫女さんの為なら、えーんやこらー」
という本懐もあるし、やってやれないことは無い。
「―――お」
暫くして漸く、掛けた手間が実ろうとしていた。
水面が対流し、沸騰が始まっている。
「苦節半刻、待ちに待った、か」
柄杓で一掬いし、返せば、瞬く間に湯気が広がる。
湯に突き込めば、力強い対流が手応えを返す。
「yeah.完璧だ」
後は火に気を配ることは無い。残りの薪で充分に足る。
頃合とばかりに、山盛りの麺を積んだ籠を検める。
が、此処で慌ててはいけない。
先ず、沸いた湯を適量、近くの桶に分ける。
饂飩を茹でた湯をそのまま使ってはいけない。それは釜上げではない。
桶は既に湯に潜らせ、暖めて置いた物を使う。
これで茹でている最中に冷めると言うことも無い。
「そして―――もう一つ、っと」
言葉どおり、今度は鍋を用意し、釜から湯を適量移す。
鍋は竈の小火力側に置き、遠火に掛けて沸いた状態に。
―――全ては整った。あとは麺を放るのみ。
気を引き締める為に、水を一口煽る。
「―――そりゃ!」
湯が跳ねないよう、麺上げ用の笊付き棒で斜めから落とす。
感覚的な時間で数分。
眼を閉じ、本で読んだ知識や実家での実戦から学んだ数値に、この大釜の循環を加味し、
それと定めた刻を数える。
―――汗の乗った瞼を開ければ、湯気の中で踊る麺が白んでいた。
「ふんっ」
笊を落とし、対流を辿る様にして、麺を手繰るように纏めて掬い上げる。
早めで上げた為、硬めにしても未だ食べ頃には遠いが、これで良い。
「そーらそぉらそらッ」
ひたすら揉み洗い。強く丹念にしかし手早く。
「ハリー、ハリーハリーハリー、ハァリィィィィィィィィィィィィィ―――ッ!」
少々テンションが乗りすぎたようだ。
先程の鍋に放り、対流の中で洗わせる。
僅かに空気に触れた時間と、水に触れた時間、麺の打ち粉の含有の有無による僅かな水質の違い。
これらが釜揚げを左右する。
ここで麺を上げれば―――
「―――完璧だ」
食べ頃―――そのほんの一歩手前。
これを桶に放ち、後は余熱で暖まれば最適だ。
桶に蓋をし、ほんの一時。
―――蓋を開け、笊で器用に一本掛けて、それを啜る。
「グ レ イ ト 上 手 に 出 来 ま し た ー ッ ! ! !」
改心の咆哮を、上げた。
―――食卓。
「さあ、食え」
真ん中に桶を据え、四人で囲んだ食卓。
風鈴の音だけがBGMの、夕涼み。
全開にした縁側一杯に、いつも見慣れたパノラマが広がる。
「―――って、つゆは何?それとも醤油のみ?」
「慌てなさんな霊夢さん、取って置きがありますぜ」
そういって俺が取り出したのは、鰹の出汁から作った麺つゆと、裏ごしした梅干し、温泉卵、そして数多の薬味。
まず、麺つゆを空ける。キッチリ追い鰹で仕上げさせてもらった。濃いものを少な目が良い。
次に裏ごしした梅を落として溶き、それらを釜揚げの湯で適度に割り、仄かに温める。
そこに温泉卵を落とし、ほんのひと混ぜ。
「はいどうぞ、召し上がれ」
と、第一号を霊夢にぷれぜんつ。
師弟二人もほおほおと頷きながら、見よう見まねでつゆを拵える。
「随分と手を掛けるわねぇ―――では」
そこでふと、霊夢が動いた。
白袖を外し、頭のリボンを一旦外し、テール部に纏める分量を多めにして、結わえ直す。
あーポニテ巫女可愛え。って、これは嫌な予感がする。
それを見て、他二人も動く。
永琳は帽子を取り、自慢のおさげをピンで纏め、お団子に。
鈴仙も後ろ髪を籤で纏め上げ、前髪もピンで避けた。
俺は思った。
……こいつら、ヤル気だ。
「「「いただきまーす♪」」」
「……俺の分、残るよな」
数刻後。
縁側には夜空に飛び立つ二人と、満足げに見送る巫女さん、
そして _noミそ な俺の姿があった。お約束。
「それじゃ、ご馳走様でした」
「今後ともイナバ薬局をご贔屓にー」
「二度と来るなよあ゛ー畜生ぉーーーーッ!?」
俺の感想:全員容赦ナサス。
何ですか!?数十行にも渡る俺と釜のタイマンはけーねに無かったことにッ!!?
つーか骨折り損にしたって殆ど食べれないってどうよ!?
「しかも全く悪気に思って無ェし……しくしく」
「いいじゃないの、良い手並みで御座いました♪」
一番量を食った巫女さんが大変素敵な笑顔を向けてくる。これだけが成果だなぁ。
が、ちょっと気落ち気味の俺は、少し拗ねて見た。
「……ああ、そうかい」
「食べたいの?」
「Σ食用だったのか!?あれ!?」
「いや無いけど。じゃなくて、饂飩の方よ―――はい」
かたん、と食卓に置かれたのは、平皿に広げられた、一人分の饂飩。
饂飩の上にはかき揚げ、そして鰹の香りがする徳利。
つゆかけ饂飩。俗称ぶっ掛け麺。
「流石にあんなに暑い思いする義理は無いから、これで勘弁ね―――どうぞ」
―――何だか涙が出てきた。
「ほらほら、また塩っぽいの食べるつもり?」
「有り難ぇ……い た だ き ま す ッ」
「大変馳走になりました(ー人ー)」
「早ッ」
そして今。
釜その他を片付け、程よく満たった腹をさすりながら星を眺める。
縁側には@蚊取り線香。
「うむ、風流だ」
残念ながら釜揚げで汗を掻く事は出来なかった訳だが、まあ良いのだ。
何せあの巫女さんの手料理、しかも自身が食べる為でなく、俺の為である。
腹より寧ろ、心が満腹。
「―――今日は、実に良い夜だ」
「本当にね―――ほーれ隙有り」
「ぅひゃぁ」
頬に冷たい不意打ちを喰らい、情けない声を上げてしまう。
横を見やればグラス一杯の麦茶と、「どうぞ」と舌を出して微笑む霊夢。
「あ、ああ、頂く」
神様、先程から巫女さんが次々と反則を繰り出してきます。
堪りません。KOです。
「んー、夏は麦茶よねー」
「!?」
更にあろう事か、肩が接するほどの隣にくっついて座りやがりました。
麦茶を煽る横顔、仄かに汗ばみ上気した肌。
しかも髪型がそのままなので、首筋のラインがそのまま。
堪りません。故意にしろ天然にしろ反則です。
「ん?どうしたの?」
しかも風に乗って彼女の匂いがする。
生活上、あまり肉類を率先して食べず、茶を良く飲む為か、霊夢の体臭はそういったものとは
少々縁遠く、寧ろ気のせいか緑茶の香りさえ感じる。
「……」
思わず、口を湿していた麦茶を嚥下する。
ごくり、と喉が鳴った。
悟られないよう身を竦め、心を静める。
「いや、ちょっと昼間のが少し響いてるらしい―――少し、火照る感が残ってる」
「そう?また大変だったものねぇ」
そして霊夢はまた麦茶を煽り―――眉を顰めた。
感付かれたか?と思ったが―――そんな予想を、遥かに超えていた。
「―――む」
「うわ!?何すんだ?」
いきなり胸倉を掴み、こちらに引き寄せる。
鼻が触れるほど近付き、そこで彼女は―――眼を閉じた。
息の詰まる―――そんな一瞬。
「汗臭い」
「がーん」
次にこちらを見た視線は半眼。
放たれた言葉は、俺のプライドその他諸々を一太刀に袈裟で両断、余波で木っ端微塵に粉砕した。
……こっちに来てからはずっと毎日風呂入ってたのにッ OTL
「そーいえば薪の匂いがするわねー。あと少し埃臭いわよ?」
「う゛ッ」
水を被ったときに流れたかと思ったが―――寧ろ服に染み付いたのだろう。
―――と。
「しょうがないわねー。ほれ、風呂入るわよ」
「ぅお引っ張るな引っ張―――はい?」
今、この巫女は何と言った?
風呂『入る』?『入れる』でも『入れ』でも無く。
そりゃ普通、自分が入るときに言う言葉である。
ちょっと待て、まさか―――
「どお?洗い残しとか感じたら言ってね」
「……ぉぅ」
流されるままに、風呂場。
服は籠に纏められ、洗濯に回された。
そして俺の今の姿は、手拭一丁。
この風呂場、一人分と言う割に、そこそこの広さで作られているが、
それでも二人で入ると狭く感じる。
先日までは一人で入っていただけに、尚更だ。
「……なに硬くなってるのよ」
「かかか硬くくくくななななっっててててなんかかかかかか」
「……呆れたわね」
喧しい。ただ二人っきりになるのとは訳が違うのだ。
微妙に反響する声はお互いの距離を意識するし、音も同じ、
何より――――――二人とも手拭一枚で、服など着てない訳で。
「……この間とか、そういうのに無縁でもないのに、この人は」
「っ」
不意に、耳元で囁かれた。
いかん、心臓がッ、心臓がッ―――
「ほれほれ煩悩退散ー」
「ぅぶぉはぁああぁッ!?」
次の瞬間、頭から冷水。
デジャヴを激しく感じる。それも割りと最近に。
「っげほっ、げほっ―――キサマ俺を心臓麻痺で死なす気かッ!?」
急転直下な心拍数ならノートも要らん!アレで逝っても自然条件と見分けつかんし!
「あはは、ごめんごめん。
―――ねぇ」
そこで、背後から聞こえる声が、神妙な色を持った。
俺は黙って、声に耳を傾ける。
「例えば、さ。
―――この前の夜、待ってたわよね」
「―――ああ」
「お風呂、立てておいてくれたわね」
「着替えもな。悪いとは―――そのときは思ってなかった。すまん」
「そこはそれ。
―――お粥、美味しかったわよ」
「残り物で、しかもおじやだが」
「塩っぱくなっちゃったけどね。
―――胸、貸してくれたわね」
「その前に鼻水垂らしたのは俺だしな」
「まったく、酷い話よねー?
―――眠るとき、一緒に居てくれたわね」
「厳密に言うと押s」
「そこは言わぬが花。
―――今日、ちゃんと二人のフォローもしてくれたよね」
「そういう後引くの、嫌だものな、お前」
「皆……私の為よね?―――何で?」
こちらにとって、解りきった質問。
「きっぱり言って、霊夢の為だよ」
「何で?」
それに対して、俺は少し間を置く。
色々有るには有るのだが、面倒なので敢えて纏めると―――
「要は―――お前がそこに、居るからだな」
「―――」
結局、こんな気障で飾った言葉しか出てこない。情けない話である。
が、実際どうしようもないのだ。
お茶を飲んで日がな呆けて。
賽銭無くてもぼやくのみ。
『お仕事』の時はちょっぴり怖くて。
人妖問わず、裸足で逃げ出す。
努力と言う言葉と無縁で。
でも手を付けると、簡単にこなしてしまう。
何処か人と距離を置き。
だけど礼儀はしっかり通す。
喜怒哀楽激しく、気ままに動き。
思いっきり怒り、笑い、そして泣く。
親切の押し売りは嫌いだけれど。
義理堅く、受けた恩は必ず返す。
有りのままで、変わらぬままで。
でも有りのままである事に手は抜かない。
常に、自分に正直者。
逃げも隠れもするし嘘も時折付くけれど、自分にだけは正直者。
そして、それらを全て、他人に背負って貰おうと思っていない。
弁解しても弁護は要らない。
そんな霊夢に、自分は魅入られてしまったのだろう。
だから。
「俺は―――お前が良いならそれでいいんだ」
このとおり、ヘタレな骨抜き宣言も真顔でしてしまうのだ。
「―――俺の方から、良いか?」
「―――ん?」
が、俺だって損をするのが好きと言うマゾ体質ではない。
「―――何でお前は、俺にちゃんと『お返し』をくれるんだ?」
どんな答えが返ってくるのか、俺は見当が付いていた。
「そりゃ、善意を無償で貰うのも―――すっきりしないでしょ?」
―――そうなのだ。
この巫女さんも大概なのだ。
善意はきっちり返礼するものだと―――欲されたわけでもなく、返してくる。
その価値観はあくまでも自身主体だから、誤解されがちなのだが―――
「世の中ギブアンドテイク、って言うんだっけ。受けた恩は返さなきゃ―――違う?」
とてつもなく、義理堅いのだ。
「……それで、俺の心臓に優しくないアプローチ各種まで返してくれるわけか……?」
「……その、男の人って、さ。そーいうのが……好みなんでしょ?」
―――価値観が、どうにも『世間離れ』過ぎるのが玉に瑕か。
これでは、色々と誤解されてしまう上に、色々と紙一重である。
「―――っはははははッ」
「な、何よ?」
「一つ言っとく。
ギブアンドテイクは経済の基本原則。
なので―――恩は返す、って用法は、一般的には常用外だ」
「そーなのかー?」
「そーなのだ―――で」
俺は前を見た。
そこには丁度鏡が置かれ、肩越しに霊夢の顔が見える。
鏡を介して、霊夢と目線を合わせる。
「何でそんな事を聞いたのさ」
「だって―――普通、異性に尽くすって言ったら、好きだからとか、愛してるから、って返すんじゃないの?」
「ふむ」
出所は魔理沙か、或いは知識人達の書斎か。
「ま、俺の場合、当て嵌めても良いと思うよ」
しかし、と、敢えて格好つけて、言葉を吐いてみる。
「俺の『愛』の対象は、『博麗霊夢』って存在そのものだからな」
「はぁ?」
「いや、だから何が言いたいかと言うとだな」
「別に、霊夢の思うとおりにしていれば良いよ、ってこと」
「……じゃあ例えば。恩、返さなくても良いのかしら」
「おいおい―――」
溜息を吐くしかない。
「逆に聞くが―――返さずにおれんだろ、お前」
「タダより高いものは無いわ―――霖之助さんみたいに、毎日硬い事言われっぱなしじゃ面倒だもの」
「言わないって言ったら―――」
「信用に値しないわね、少なくとも口約束は」
ホレ来た。そして次のトンでも発言は―――
「で、森近さんはこういうのの対象外か?」
「こんな事して、喜ぶと思う?」
こーいう事である。
ちゃんと返す対象と形を選んでいる辺り、大概だ。
「……ほんと、大概な巫女さんだ」
「それが何か?『愛』に傷でも付いたとか?」
「いーや――――――今これ以上無い位、お前が愛おしくてしょうがない」
良いじゃないか、義理でも。当たり前でも。
「返さないかもしれないわよ?返せないかもしれないわよ?」
「別に良いっての。―――それで、霊夢が霊夢らしくあるって言うなら」
もともと帰ってこなくて元々のものだ。
義理深く返してくれるって言うなら―――これ程の事はそうそう無い。
「さて、また聞き返すが」
「何?」
「それじゃあ『惚れ直した』って言ったのは何さ」
鏡の向こうの霊夢は―――
「そんなあなたが有り難くて―――いつも惚れ惚れするわ、ってこと」
そのまま頬を染めて、十八番の笑みを返してきた。
「本人では当たり前のつもりなんだが」
「何よ、結局私と同じじゃないの」
ああ、つまり。
「お互い、確かめるまでも無く―――」
「今はもう首っ丈、と言うことなのね―――」
全く、厄介な相手に惚れてしまったものだ。
そうして、何事も無く背中を流されて、二、三程談笑したのみで、風呂から上がった。
今は二人、整えた寝室の縁側、仲良く並んで麦茶片手だ。
隣にいる霊夢は、いつものリボンが無い。あれも巫女服の一部なのだろうか。
髪を下ろした彼女は、どこか神秘的で―――妖艶な空気さえ感じる。
灯篭の灯りに照らされる瞳は、僅かな紅色。
『お仕事』の彼女に良く見られる色。
ただ明彩に乏しく、光源に照らされないと解らないようだ。
……初めて逢った時、俺に襲い掛かったデカイ狗妖をぶち撒けた時と同じ色だ。
あれは未だにトラウマであるが―――
「……失礼なこと、考えてなかった?」
「考えた」
「む、はっきり言うのね」
「事実だ。悪いとも思う。癇に障ったら謝る。でもな」
「―――その色、綺麗だ」
その時、血風の向こうに見えた紅白の蝶は、確かに綺麗だった。
それもまた、魅入られたという事だろう。
思えば、彼女は『人の幻想』なのかもしれない。
人は、万物を統べる者であり。
人は、万物と等しくあるものであり。
人は、万物を操るものであり。
人は、万物に恵みを受けるものであり。
人は、それらを持ちながら、全てを棄てられるものであり。
人は、現実にありながら、幻想を歩む。
そんな、人の夢と希望と高慢さがない交ぜになって、結実したもの。
例えば、そんな空想。
「でも有難う」
ふと思考に没入していた俺を、そんな鈴の音のような声が呼び戻す。
―――巫女の声色は、魔除けの鈴の音色。
酒も入ってないのに、そんな気障な思考が沸いてくる。
眼の前の巫女の魅力は、こっちの頭まで春にするようだ。
「この眼、そうやって褒めたのあなたが初めてよ」
そう、この『有り難う』が、俺の心を掴んで離さないのだ。
つくづく、とんでもない人に惚れたものだと思う。
これは中毒性がある。そして俺は末期。
うむ、こんなことを言っている辺り、どうしようも無い。
「―――何だか悪いわね、褒められっぱなしで」
「良いんだよ、好きでやってるんだ。
―――紅白の蝶の止まり木は、花なり何なり無いとお気に召さないようだしな」
「いや、確かに枯れ木なんて留まる気は無いけど―――
そうね、止まり木ねえ」
そこで霊夢が意地の悪い表情をする。
また何か人を弄くり倒す良い手を思いついたようだ。
拙い、そこで楽しみにしている辺り、俺は色々ともう駄目だろ―――
「ねえ、その止まり木さ」
「うん?」
「受粉を誰かに手伝ってもらわないと、実らなかったりする?」
「―――」
俺は暫く考え―――
「ッぶふぅッ!!!」
「ひゃっ!?こっちに飛ばすな汚いわねー」
その意図に気付いた瞬間、盛大に吹いた。
せめてもの道連れに、盛大に吹き付けてやる。
滴る雫やら、麦茶色でまた艶やかに染めあがった巫女が出来上がるが、そんなことを考えている余裕は
俺のグラスハートには無い。
「っぐ、じ、実を言うとそう見えても、この辺り初心なので、デリケートに扱ってくれると嬉しいかな……ッ」
「飲ませて酔わせて、の行はオーケーなのに?」
「歯に衣を着せろって事だよ……っふう」
少しでも暴走気味のまいはーとを落ち着かせる為に、麦茶を一服。
そこでふと霊夢は腕を組み、眼を閉じ黙考のジェスチャー。
そして半眼でこちらを見ると、
「半脱ぎなら良いのね、マニアックな人ねぇ」
「ぶ ふ ぉ ぁ ッ !!!」
そのまま肩を抱き、頬を赤らめて身を捩る。
貴様、俺を噴水扱いか。
「ど っ か ら 仕 入 れ た ッ !!!!!?」
「巫女の習俗史は習ったって言わなかった?」
「大昔にそんな単語はありません(キッパリ)―――永琳か、永琳だなッ?」
よってたかって人の純情ズタボロにするのがお好きなようで。クソッなんて時代だ。
「おお……お゛お゛お゛お゛……ッ」
「あ……本当に御免、徹底的に凹ませるつもりじゃなかったの」
うん、僕はもう色々限界です。
「―――霊夢」
唐突に、首と目線だけで霊夢のほうを向く。
ヒュガッ、とか微妙な擬音が視覚出来そうな勢いだっただろう。
「何?」
それを訝しげに覗き込む、博麗の巫女。
後ろ髪がしな垂れ、また僅かに汗ばんだ首筋に絡む。
―――石鹸の、匂いがした。
「……いつも先手を打たれては、沽券に関わるので―――いいか?」
「うん」
「で、聞いておきたいんだが」
「勿体振るわね、何?」
「今このタイミングで―――」
「染め上げてみたい―――って言ったら、何を想像する?」
「―――」
一拍置いて、
「―――あ」
霊夢の顔が茹で上がり、眼が僅かに見開かれる。
うん、実に貴重な表情。ブン屋が出歯亀しているなら、ネガごとぶん取って独り占めしたい。
だが、その表情も一瞬。
「ん、解った」
頷き、上半身だけでこちらに向き直る霊夢。
瞳は潤み、一抹の不安定さを得る。
「やっぱり少し不安かな」
「攻撃側なら容赦ないのによぉ―――狡い言い分だ」
「冷めた?」
「寧ろ熱暴走中です」
霊夢の肩を優しく抱き、引き寄せる。
彼女の方は、片手でこちらの手を握り、
「先に謝っておく……後始末とか」
「後始末は、その時考えれば良いじゃないの」
もう一方の手で、灯篭を開け、蝋燭を取る。
「そっちじゃなくて」
「ん、それなら―――いいの」
霊夢はその桃色を乗せた唇で、灯っていた火を吹き消した。
「そう―――染めても、いいのよ」
カラン、と。
グラスに残った氷がひとつ溶け、底に落ちる音が聞こえた。
「―――夜が明けるまで―――何とやら、か」
「暑い夜に―――なりそうね」
(省略されました。全てを読むには零戦でFALKENの6時を攻めてガンキルして下さい)
//////////////////////////////////
あだるてぃー仕立て。
グレイズとはこういうことだッ(台無し
4スレ目 >>592
チリーン…チリーン…
風鈴の音が、博麗神社に響く。
喧しい蝉の鳴き声はまだ聞こえはしないが、うだるような暑さの中、僕と霊夢は縁側で横になっていた。
「暑い…」
「…次暑いって言ったら罰金よ」
「ううう…」
チリーン…チリリーン…
生暖かい湿気を含んだ風が、僕たち二人の横を通り過ぎていく。
「仕方ない」
僕は呟くと立ち上がり、縁側の庇の下から出た。
疑問符を浮かべる霊夢を横目に僕は神社の境内のとある場所に向かった。
「霊夢、井戸を借りるよ」
────────────────────────────────────────────────
手押し式の井戸から溢れる冷たい水。
流石井戸水。一年通して温度の変わらないってのは素晴らしい。
僕は桶いっぱいに水を溜め、それをおもむろに被った。
「うひゃ~~! これは効く~!」
骨の髄まで冷やされる快感に僕は思わず叫んでしまった。
続けてもう一杯。
─バシャーン─
「あら、面白いことやってるのね」
てくてくと歩いてきた霊夢が僕に声をかける。
「霊夢もやるか? 冷たくて気持いいぞ」
水の入った桶を見せる。
「遠慮しておくわ。服も着ているし、そんな事しなくても他に方法が
─バシャーン!─
言い終わる前に、僕は水を霊夢にぶっかけていた。
「涼しくなったかい?」
顔に張り付いた髪の毛を救い上げ、ぷるぷると顔を左右に振る。
「…やったわね?」
ニヤリと、無邪気な顔を浮かべた霊夢が飛んできた。
その後はもうぶっかけ合いだ。もちろん水の。
桶を奪い合い、頭から背中から、お互いに遠慮なく水をかけ合う。
ひとしきり水をかけ合った後、僕のほうから停戦を持ちかけた。
「流石に、もう、疲れた…」
「そうね、もう終わりにしましょうか…」
霊夢の方も結構疲れていたようだ。肩で息をしている。
「んじゃまぁ着替えますか。この気温だと外に干しておけばすぐに乾く…ッ!?」
その時僕は気付いた。いや、気付いてしまった。
わなわなと震え霊夢を睨む僕に、向こうも気付いた。
「どうしたの?」
腕をゆっくりと挙げ、霊夢の一部分を指差す。
「霊夢…お前、”サラシ”はどうした?」
? と疑問符を浮かべ、霊夢が自分自身の胸を見る。
サラシを巻いていない状況で水をかけ合ったものだから、その…なんていうか、服が素肌に張り付いてて、その…
暫く霊夢は硬直し、そのままゆっくりと顔を上げた。
ものすごい笑顔だった。
ただ目が笑ってなかった。ついでに背後にドス黒いオーラが見えていた気がする。
「あなた、まさかコレが目当てで…」
「違う! 誤解だ霊夢! 僕は決して霊夢のT☆K☆Bを見たいがためにこんな事をしたんじゃなくて
問・答・無・用
博麗神社の境内で爆発音が起こった。
後日
「博麗神社にて真昼間から汗水垂らしながらの(小文字で”水の”)ぶっかけバトル!」
とかふざけたタイトルで新聞を出した烏天狗の小娘を霊夢と美味しく頂きました。
もちろん性的な意味で。
────────────────────────────────────────────────
4スレ目 >>676
俺にあまり力はないけどいっしょに幻想郷を護ろう。→霊夢
────────────────────────────────────────────────
4スレ目 >>883-885
(4スレ目)>>231のパラレル、ひらたく言えば霊夢ルート
博麗神社にて
ほうきを上手に使うコツ。それはごみを引きずるようにゆっくり掃くことだ。
あせって勢いをつけてしまうのは素人の犯しがちなミス。これではごみが飛び散りいつまでやっても掃除は終わらないだろう。
最初はじれったく感じるに違いない。しかし、なんでもそうだが、意識して続けていれば思っていたよりも早く慣れるものだ。
僕ほどの達人になると自然な動きの中で行うことも可能。いや、それだけではない。
僕の体には、咲夜や妖夢でさえ手出しのできない人間の身体能力の限界に肉薄しなければとうてい実行できないような驚異の(省略)。
その掃除法を可能にしているのはヒラメ筋を中心とした日々の弛まぬ筋力トレーニングであり、(省略)。
とはいえ、これを習得するにはあまりにも多くの月日を必要とするので(省略)。
そんなあなたのために開発されたのがこの○○スペシャル(省略)。
○○スペシャルはあなたに快適な掃除(省略)。
○○スペシ(省略)。
(省略)。
「なんてこった。こんな素敵なアイテムがたった一万円だなんて、今すぐ買うしかないね? 霊夢?」
「あんた、いったい何の話をしているの?」
「……」
それはこっちが聞きたかった。
「いや、掃除はまじめにやってるよ? 屋内はもうすっかり片付いたから、あとは外をかるく掃けばおしまい」
葉っぱのぎっしり詰まった賽銭箱にかけたまま、さぁ褒めろ、と言わんばかりに胸を張ってみせた僕に対して霊夢は。
「ふーん。そのへんはさすがよね。やっぱり」
と、えらく淡白な反応を示してくれた。
彼女のそっけない態度にはとうに慣れている。僕は気にせずにこの後の予定について彼女と話し合うことにした。
「掃除は午前中に終わるから、昼はゆっくり休んでそれからつまみの準備をはじめれば問題ないと思うよ」
「そうね。お昼は用意するからあがって行きなさいな。おにぎりくらいしか用意してないけど」
どこからともなく聞こえてくる鬼の悲鳴を聞き流しながらうなずいてみせる。
その申し出は正直ありがたかった。仮住まいの食糧倉庫は昨晩を以ってお役御免となっている。
今夜の宴会まで食事にはありつけまいと考えていたので願ってもいない言葉だった。
そうと決まれば話は早い。境内の掃除を丁寧かつ速やかに済ませてしまおう。
合言葉は「ゆっくり急げ」だ。
目が覚めてまず目に入ったものが木々の枝葉とまばらに見える青空だったことに軽く驚いた。
しかし、それも今のいままで僕が枕代わりにしていたものが霊夢の腿だったことに気がつき、吹き飛んだ。
即座に起き上がる。午睡のために中断した仕事のことが頭にあった。
すると、それを妨げるものがあることがわかる。彼女の手がちょこんと肩にのっかっていたのだ。
ただそこに置かれているだけ。そんな小さな手を退けることに、どういうわけか僕はためらいを覚えた。
大木に背を預けたまま目を閉じている霊夢をちらりと見やり、上半身を半端に持ち上げた状態で様々なことを考えるでもなしに考えてみる。
お昼のおにぎりは本当に大きかった。萃香は何を食べたのだろうか。鬼がおにぎり食えないって、そりゃただの冗談じゃないのか。
夜は少しいいものを食べさせてやりたいものだ。宴会。夕飯の支度。
かくて思考はループし、残った仕事を再確認するはめになってしまった。
今晩の宴会に出すものを用意しなければならない。僕は再び起き上がって台所へ向かうことに決めた。
肩にかかった霊夢の手を両の手でそっと包み込んで腿の上に乗せる。さっきまで僕の頭があった場所だ。
ぽた。
今度こそはと立ち上がろうとした僕の耳に水の落ちる音が届いた。
見上げると瑞々しい緑のむこうに気味が悪くなるほど青い空が広がっている。
それではと振り返ると、果たして霊夢の袴が幽かに滲んでいた。
鮮やか赤がくすんでゆく様をじっと眺め、それからじりじりと視線を上げる。
するとやはり霊夢がはらはらと涙を流して―――いなかった。
彼女の顔には泣いていたような形跡はまったくない。寝息も至極穏やかで、まるで図ったかのようだった。
「……あれ?」
「……」
思わず天を仰ぐ。狐にでも化かされたか?
再び袴に目をやるともう乾いてしまっている。夏ももう終わりだというのに。太陽も最後の一仕事と張り切っているのだろう。
こうなると、先ほどの水音も袴の染みも本当にあったのか疑わしくなる。
幻だったのかもしれない。それは実に魅力的な考えだった。ここではこんなことは日常茶飯事なのだ。
だいたい、霊夢に泣くようなどんな理由があるというのか。少なくとも、僕にはそんなものは思いつかない。思いつかないのだ。
もう振り返るまい。先ほどの出来事を幻と決め付けると、立ち上がって風を切る音がするほどの勢いで木立の外へと歩き始める。
――むきになっちゃって。
いつから見ていたのか。霧状になった萃香が茶化してくるがきっぱりと無視して木々の間から抜け出る。視界がさっと開ける。
彼女の言葉遊びに付き合う気などまったくない。
そもそも、僕はむきになんかなっていないのだから何を言われようが痛くもかゆくもなかった。
知らず握り締めていたこぶしから力を抜き、少し大げさに肩をすくめてみせる。いまの僕はさぞ嫌なやつに見えることだろう。
――へぇ、そういう態度とっちゃうんだ。それなら「…………な……で」……え?
歩みが止まる。
いま、何が聞こえた?
「おい」
――私じゃないよ。声、ぜんぜん違ったろ?
そう。それはわかっている。彼女ではない。僕でもない。ならば残るはひとりだけだ。
しかし、いま訊ねているのはそういうことではない。
「そうじゃなくってさ。『何て言ってたんだろう』って意味」
――あ、ああ、そういうことか。たしかに人間の耳には聞き取り難かったかもね。えっと、「――――――――――」かな?
眩暈がした。
空を見上げる。
あの手を伸ばしても届かぬ高みにある青い何かを見つめているうちに、ふっと、このまま誰にも気づかれずに消えてしまいたいと思った。
遠くから歓声が聞こえる。
もうじき僕とは縁がなくなる人々の声。
それをかみ締めながら、僕は一人の妖怪と対峙している。
八雲紫。
特異な能力を持つものが多くいる幻想郷においてなお突出した能力を持つ女。
幻想の中の幻想。一人一種族の妖怪。
彼女がいま、僕の敵として目の前に立とうとしているのだ。
これを脅威と言わずして何と言おう。
「宴も酣」
しかし。
「楽と苦の境界」
どうしたわけだろう。
「じきに酔いつぶれて倒れてしまう」
いまの僕は。
「翌日彼女達を襲うのは地獄のような二日酔い」
ちっとも。
「そして、大切な友人を失ったという埋めることのできぬ寂寥」
ちっとも彼女を恐れてなんかいない。
「○○。あなたがここに留まらぬと言うのなら、私は殺してでも引き止める。それでいいかしら?」
――その瞬間。何かがズレた。
遠くに見える薄明かり。みんなが火を囲んで酒を飲んでいる風景。
先ほどまで確かにそこにあったはずのものが、いまではどこか白々しい。
まるで、壁にかかった絵を見ているような感覚。
はっきりとわかる。僕はあそこに帰れない。
「わからないなりに事態を把握しているみたいね。こういうこともできるの。
さぁ、いますぐ私に殺されるか外へ帰るのを止めるか、選びなさい」
そう捲し立てると、紫はプイとそっぽを向いてしまった。
そんな彼女のほうへ僕は一歩一歩進んでいく。一歩。二歩。三歩。
そうしてお互いの息がかかりそうなほど接近し、彼女がこちらに向き直った瞬間。
僕はヒョイと脇に退いた。
訝しげな紫を尻目に僕はさらに進む。神社の焚火を目指して歩き、歩き、歩く。
ふと、背後の紫がどんな表情をしているか気になった。
が、すぐに振り払う。放って置いてもすぐにわかることなのだ。僕は歩数を数えながら進み続けた。
歩数が三桁に突入するかという頃、再び目の前に八雲紫が現れた。
むき出しになった木々の根の形状。枝葉のつき方。すべてが先ほど僕達が立ち会っていた場所のものと一致していた。
ループしている。
自分の予測が的中していたことに若干の満足を覚えながら、紫の表情を伺う。
無。
いまの彼女からはどんな感情も読み取れそうにない。そんな表情。
しかし、不意に。
「覚悟は」
仮面に亀裂が入る。
「できているのよね?」
殺される覚悟はあるのか。そう訪ねる彼女の顔はなぜか悲しみに歪んでいた。
それを見て、鈍感な僕もようやく気がついた。僕が彼女を恐れるはずがない。
「あなたは僕を殺せない」
なぜなら。
「三回。あなたが注意を喚起した回数です。もしも本気なら、二回目以降はなかったでしょうね」
なぜなら、彼女は僕をこんなにも気遣ってくれている。
黙ったまま彼女とすれ違う。
今度は何ごともなく戻ることができるだろう。
徐々に近づいてくる明かりを見つめながら、いつか誰かが言った言葉を口ずさむ。
「『行かないで』か」
────────────────────────────────────────────────
最終更新:2010年05月13日 00:42