霊夢8
6スレ目>>430
「あ、茶柱だ」
手にした湯呑みのお茶の中のそれに目を留め、思わずそう溢したって前もこんな事あった気がする。
とりあえず妙な既視感はさておき、ちょっと得した気分になった。
どことなく水が流れるように、漫ろに空を行く雲をぼんやりと眺める。
こうやって先の事を何も考えずに中空を見やっているのは嫌いじゃない。というより好きだ
そうしてお茶をもう一口。
うん、悪くない。
「隣、いいかしら」
「あ、うん」
何時の間にか僕と同じく湯呑みを手に所持する霊夢が現れ、隣に腰掛けた。
その時発したよいしょ、という声に年齢を絡めて突っ込みを入れようとしたが、その後の報復を考え自粛。
霊夢は僕に話し掛けるでもなく、ただ横でお茶を啜っていた。
「お茶が美味しいわね」
「そうだね」
何だか最近、こうやって霊夢が僕の傍に来る事が多い。
ただ単に考えすぎなのかもしれないが、きっと回数を数えてみれば増えているのだろう。
いや、でもきっと偶然だ。
霊夢がここに来るのは別に僕がいるからではないのだろうと思っていた。
今日は天気も良く冬といえども暖かで、どこか春の訪れを感じさせる。
縁側で茶を啜るには絶好の日和だったからそうなのだろうと思った。
……ホントだよ?
「もう春も近いねぇ」
「そうね」
どちらかが何か呟いて、もう片方が何となくそれに同意して。
正にまったりという言葉がぴったりの今日の僕らであった。
何時しか独白も賛同の声も途切れる。
だがこの沈黙を気まずいと思う事はなかった。きっと霊夢もそうだろう。
慣れた、というニュアンスよりも、必要がない、と言った方がしっくりくるだろうか。
そんな僕らの間には、しばらくお茶を嚥下する音だけが響いた。
「……あ」
ふと、流れる雲を呆けて眺めていた僕はある事に気が付く。
無意識の内に漏れた声は霊夢には聞こえていないようだった。
それはあまりに平和で忘れていた、しかし忘れてはいけない事。
全く、よくも今まで失念できたいたものだ。
自分の莫迦さ加減に思わず苦笑を浮かべる。
見ると、湯呑みの中のお茶はとっくに底を突いていた
「ねえ、霊夢」
「何かしら?」
少しだけ居直った口調で言葉を紡ぐ。
そんな僕の雰囲気を察したのか、霊夢も先までと比べ幾分か真面目な態度になる。
いずれは尋ねようと思っていた事だ。
それでも躊躇いを感じてしまうのは、きっと僕が此処を好きなのだからなのだろう。
「僕が元の世界に帰る方法って、あるのかな」
一瞬、霊夢の表情が堅いものになる。
その理由を推し量ることは出来たが、それは些か確信し難いものだったので早々に意識から追い出す。
だが一瞬の事だ。
いつも通りに見える表情がもう霊夢の顔にはあった。
「無いことはないけど……。ま、春になったら帰れるわよ」
その霊夢の言葉を聞いた時、僕の胸に訪れたこの感情は欣快か寂寥か。
自分でもよく理解できない気持ちが躰の内で渦巻く。
その後に訪れた不言不語の空気は、何だか居辛いものだった。
程なくしてじゃあ、とだけ言い残して霊夢は立ち上がりこの場を後にする。
縁側から去る霊夢は勿論後姿しか認められず、その表情は分からないままである。
理由は分からないのに、なんとなくその背中に罪悪感を感じた。
「春になったら、かぁ……」
そうして一人になった僕は思案に耽る。
ふと、ここに流れ着いてから今までの事を思い返したみた。
確かに此処での生活はあちら側では出来なかったものばかり、というか出来なかったものしかない位で新鮮で楽しかった。
魔法使いやらメイドやら吸血鬼やら人形遣いやら鬼やら、上げれば切りが無いほど個性的で魅力的で幻想的な連中ばかり。
それに何より、霊夢がいる。
こればっかりはあちらの世界ではどうしても代えようがない。
たった今気付いたが、あの不思議な巫女さんは僕の中で中々に大きな存在になっているらしい。
だけど。
「そんな事ばかりも言ってられないんだよなぁ……」
そう、此方ばかりに目を向けていてはいけない。
同様にあちら側にいる人達――家族、友人、その他大勢もまた、掛け替えの無いものなのだ。
それら全てを見捨ててまで、悲しませてまで僕はこちら側に留まる事など出来そうも無い。
僕は故意ではないといえ、何の前置きも無く彼らの前から消えてしまった。
きっと、いや必ず心配している筈だ。
少なくともそうさせてしまうほどにはあちらの人達を大切にし、大切にされていたという自覚はある。
「……どうしたらいいんだろうな」
中々難しい問題が僕の頭を擡げさせる。
もう余り時間も無いくせに、そう簡単には解決できない厄介な問題だった。
「…はぁ~」
解を導き出す事は出来ないものの、相も変わらず溜息だけはよく出る。
こちらとあちらの間でふらふらと揺れる天秤は、最後にはどちらに傾くのだろう。
懊悩としながら見上げた空は、僕の頭の中とは対照的に憎々しいほど晴れやかであった
日常というのは平穏なものだと考えられがちであるが、ドタバタと慌ただしい事でもそれが毎日毎日連続していれば、それも立派な日常と呼べる。
「よう」
だから彼女がこうして定期的にここに現れる事も日常と呼ぶべきなのだろう。
まあ受け入れ難い日常であるが。
日も沈みかけた逢魔ヶ刻。
空は宵に向けて、緋の色も黒橡に染まりつつあった。
いつも通り参道の掃除をしていた僕は、これまたいつも通りの挨拶をしてきた人物に答える。
「やあ魔理沙。どうしたんだい?」
一応形だけの問い掛けはしてみる。
だが魔理沙も自分がどんな目的でここに来ているか、僕が分かっている事など既にお見通しなのだろう。
彼女はこういうところで無駄に鋭い。
「そんな事言って、本当は分かってるんだろう?」
予想通り、質問を質問で返された。
うん、その通り。分かっているさ。
だけど分かっている事でも口に出したくない事ってあるじゃないか。
例えば、主に僕や霊夢が苦労する宴会の話だとか。
宴会では、盛り上がる連中は騒ぐだけ騒いで終わったらさっさと帰ってしまう。
まあそうでなくとも、皆勝手に帰ってしまうものだが。
だが博麗神社に居候の身の僕としては、文字通り目の前に拡がる光景というか惨状を無視できるほど義理人情が廃れてはいなかった。
というか、看過した場合の霊夢の対応が怖かった。
その為、片付けは主に僕と霊夢の二人で行う。
僕が来る前はこれを霊夢一人でやっていたんだし、と自分に言い聞かせてみるものの、やはり面倒は面倒だった。
避けられるなら回避したいものだ、と願いを口に出してみてもやはり気苦労は耐えない。
強くあれ、自分。
「……またかい?」
不快な表情と本日最大の溜息を隠匿しようともしない僕に対して、魔理沙はおう、と何故か胸を張って答える。
張っても大した事は無いなぁ、とは思っても口に出すほど僕は愚かではない。
そんな過ちは過去に一度で十分だ。あれは傷(と書いてトラウマと読む)になった。
「はあ……」
溜息を吐き出すのも何だか面倒になってきた。
特にアルコールを摂取したわけではないが頭が痛い。
半分の優しさはいらないから十分な効能がある薬が欲しい。
「そんなだと幸せが逃げるぞー」
「そんな簡単に逃げていくような幸福だったら、大した恩恵には与れないと思うんだけど」
「……ふむ、それも一理あるな」
万福は自分で掴み取るものであり、天禄などといった授かるようなものでは有り難味もあまり感じられない。
苦労して獲得したものほど得られるものも大きいのだ、というのが僕の見解である。
閑話休題。
「てなわけでよろしく」
何も理由が述べられていない上にあまりにも唐突なのだが。
まあ、これもいつもの事といえばいつもの事である。
彼女に僕の意見を通すというのは到底無理な事だからさっさと諦めるのが賢明だと判断する。
「……わかったよ。霊夢には言っておく」
きっと魔理沙の連れ合いになる人は苦労するんだろうなあ、とまだ現れないその人物に対して憐情を抱く。
僕のその返事を聞くと、魔理沙は満足そうに頷いた。
「じゃあ、夜になったらまた来る」
その言葉を最後に、魔理沙はつい先ほど来た道を引き返していった。
まさかこの事を伝えるためだけにわざわざここに来たのだろうか。
暇なんだか律儀なんだか、普通だと主張する本人には悪いが変わった人物だなあと思う。
「さて、と」
掃除は早めに切り上げて神社に戻る。
宴会の話は霊夢にも伝えなければいけない。
事の顛末を話し終えた後の霊夢の不機嫌そうな表情が、今からでもありありと想像出来た。
まあ、多少の愚痴は聞いてあげるとしよう。
重くなる気を紛らわすかのように、なるべく軽快な足取りで神社へと戻った僕であった。
――そして迎えた夜。
或る所では意気揚々、また或る所では死屍累々。
鬼っ子と天狗が飲み比べをしながら得体の知れない笑い声を上げて酔い潰れていたり、
白玉楼の主が他人の料理にまで手を出そうとするのをその従者は敢えて見て見ぬ振りをしていたりといつも通りの宴会の風景が広がっていた。
僕にとっての平常もずいぶんと歪んでしまったものだ。
「……っぷはぁ」
ドンチャン騒ぎをしている連中から離れ、憂さ晴らしに、と一杯呷る。
もうこうなってしまった以上仕方が無いと、毎度の経験から学習している。
ならば先の事は暫し忘れて、今を楽しむのが得策であろう。
未来ばかりを気にしすぎて今を疎かにするのはきっと馬鹿な事だ。
――それが何に対して向けられた言葉であるかは深く考えないようにした。
「随分と飲んでるのね」
突然、というほど驚いたわけでもないが、それぐらいのタイミングで霊夢が現れた。
「そうでもしないとやってられないというか……」
まごうことなきヤケ酒である。そして僕は未成年。
こんなんでいいのか。
でもまあ周りの環境がそんなんだしいいか、と切り捨てる。
霊夢は昨今と同様、僕の隣に腰掛けた。
だがそれだけでそれ以上は何もしない。
何かを言いそうで、だけど言い出せずにモジモジしている様だった。
霊夢から何か話がある様子はあるので、僕はそのまま待っている事にする。
「○○は……」
しばらくして霊夢が口を開ける。
うん、という相槌は自然と漏れた。
「春に、なったら、その……」
紡ぐ言葉は小さすぎて、最後の方は良く聞こえなかった
しかし続く言葉が何であるかは言わずとも分かる。
だから霊夢が言い難いのであろうその言葉は、僕の声で遮った。
「まだ迷ってる、っていうのが正直な気持ちかな」
こちらに在るものとあちらに在るもの。
そのどちらも大切で、どちらも何ものにも代えられない。
それは優柔不断という一言では片付けられないほど難しい。
「……そう」
そう呟いた霊夢は、僕の返答に何を思ったのだろう。
残念ながら僕がそれを知る事は出来ない。
そして再び訪れた沈黙。
だがそれは割と早くに打ち切られた。
「おぉーーーーい、れいむーーーー!!」
この声はきっと魔理沙のそれだろう。
遠くからなのにこの声量。
彼女なら良い歌手になれるとその時僕は確信した。パートはソプラノだ。
「呼んでるみたいだし、行くわ」
霊夢は苦笑して立ち上がる。
その顔についさっきまでのどこか暗い表情はもう見られなかった。
この場から去る霊夢の後姿をぼんやりと眺める。
と、視界が歪み、それと共に来る頭部への痛み。
「ぬぅ……飲みすぎたかな?」
頭を押さえながら体を起こす。
足は中々に安定していない。これは完璧に酔っている。
「ちょっと、冷ましてくるかな……」
きっとその必要があるだろう。
我慢しても良い事は無いし、これ以上悪化したら拙い。
揺らぐ三半規管に力を入れて歩を進める。
俗に言う千鳥足にも近い足並みで、僕は宴会の喧騒から離れていった。
「はぁー……」
吐き出した息は周囲の大気との温度差により凝結し、僕の目に白く映りそして消える。
火照った体にはこのぐらいの温度が心地良い。
酩酊状態にあった頭も、漸く普段通りものが考えられるほどに回復してきた。
「さて」
心機一転、とまではいかないが、再び僕を悩ませる問いに対峙する。
いつまでも逃げているわけにはいかない。
少ない脳を最大限に活用して答えを弾き出さんとする。
うんうんと唸りながら歩いていると、ふと妙な気配を感じた。
「……ん?」
足を止める。
あくまで気配なので確実ではないが、ここは少し神社から離れている。
油断は出来ないだろう。
――神社から離れている?
「……しまった」
自分で言った事を振り返り、周りを改める。
物を考えながら歩いていた為か結構な距離を進んでいた。
神社は目視できる位置にあるが決して近いともいえない。
相変わらず注意力が足りていない自分を咎め、足早に神社の方向に戻ろうとする。
が。
がさがさがさがさがさがさがさ――――
「!」
疑心は確信に変わる。
明らかに耳に届いた物音。最早疑いようは無い、近くに何かいる。
上着のポケットから護符を取り出したその瞬間。
――――それは暗闇から躍り出た。
「ガアアアアアアア!」
「……っく!」
驚いている暇は無い、即座に護符を突き出す。
『――――森羅結界』
「ギャン!?」
広がる障壁、起こる衝撃。
僕に噛み付かんと飛び掛ってきた妖怪が派手に吹き飛ぶ。
護符は与えられた責務を終え、音も無く散ってしまった。
初めて行使するその力に暫し呆けていた僕だが、こんな状況では一瞬の迷いが死に繋がる。
気を引き締め、残り少ない護符を再び構える。
以前、妖怪とは人間の恐怖心が生み出した幻想で、妖怪を見つめ直すことで人間が何を恐れているのか浮かび上がってくる、と講釈を受けたことがある。
なるほど確かにその通りだが、不幸な事に此処では幻想ではなく実体として現れていた。
「くそ……」
思わず悪態をつく。
見れば狼に似た姿をしたその妖怪はもう既に起き上がり、跳躍の為に姿勢を低く落としていた。
じり、と僕が後退りするのに従い、妖怪も一歩前に出る。
一触即発、という言葉が今の状況をそのままに表していた。
息を呑む。
似たような経験は一度した事があったので以前より落ち着いてはいたが、如何せん状況が状況だ。
心臓は目の前の相手に聞こえるのではないかというほどに高鳴っていた。
何とか均衡を保ったまま、一歩一歩亀の様に後ろへと歩を進める。
振り返ることはしない。目を離した隙に飛び掛ってくるかも分からないからだ。
とはいえ妖怪も学習はしているようで、無闇に飛び掛ってくる様子は無い。
このままいけるか?と希望を持ち始めた頃、僕はある事に気付く。
妖怪が、不気味なその口を大きく歪ませた。
そこから連想できたのは、笑み。
何故、と僕が疑念を抱くより早く、それは訪れた。
「っぐぁ!?」
突如として左足に走る鋭い痛み。
そして崩れる体を僕は制御できなかった。
「う……っあぐ」
うつ伏せに地面に倒れ伏す。
咄嗟の出来事であったため、顔面を打ち付けてしまった。
一時痛みに悶えていたが、後方から聞こえる荒い息遣いに自我を取り戻す。
何事か、と後ろに向けた僕の目には、もう一匹の妖怪が映っていた。
「まさか……仲間…が……」
足から流れ出る血が僕に生命の危険を告げるが、それと共に遠のく意識を繋ぎ止めるので精一杯だった。
ただ、じゃり、と妖怪が近づいてくる足音だけが嫌にはっきりと聞こえる。
死が一歩、また一歩と、僕を焦らせる様に確実ににじり寄って来た。
その表情は先ほどと同じく、大きく歪んでいることだろう。
「……っく……うぅう!」
起ち上がって逃げ出したいが、激しい痛みに遮られてとてもじゃないが敵わない。
生を引き伸ばそうと諸手で地を掴み、這いずる様に前へ進むが成果は乏しかった。
結局得られたものは、焦燥の代わりの絶望のみ。
「畜生……」
手の先、脚の先と体の端から順に感覚が薄れていく。
もう顔に張り付く地面の冷たささえ感じられないのに、妖怪がすぐ傍にいるという事は感じられた。
世界がこんなに暗いのは、きっと夜である所為だけではないのだろう。
途切れかける意識の中、何時の間にか愛しいと感じていた彼女を思い浮かべる。
(…………れ…い……………む…)
僕は、こんなところで終わってしまうのか。
強い無念と後悔の念を感じながら、僕の意識は闇に堕ちていった。
「ぅ……」
五感が芽生える。
目が光を捉え、耳が音を吸い込む。
そして肌に感じる程よい圧迫感から推測すると、どうやら僕は布団を被って寝ている体勢にあるようだ。
まず目が覚めた僕が視認したのは、仄かに薄暗い見慣れた天井。
そこからここがいつも僕が寝泊りしている神社の寝室だと理解するのにはそう時間を要さなかった。
不意に視界の端に人影らしい物を見つける。
とりあえずその誰かを何者であるか確認するため、横たわっている体を起こそうと試みた。
が。
「……っつぅ」
左足に走る痛みに顔を顰める。
忘れていた、というには大層すぎるほどの激痛だった。
どうやら僕は自分で思っている以上に鈍感なようだ。
なるべく足に負担を掛けない様、主に手を使って上半身だけ起こす。
そして僕が目に留めた人物は布団に体を預けどうやら眠っているようだった。
「……霊夢」
顔は突っ伏しているので分からないが、この独特な衣装からして十中八九間違い無い。
まあ独特といえば、幻想郷の住人すべてに当て嵌まる事でもあるが。
彼女に看病疲れをさせてしまったのだと思うと心が痛む。
――――看病?
「あ」
そして自分の身に起こった事を今更ながら理解した。
脚に突き刺さる痛み、近寄る死の恐怖、そして途切れた意識…………。
もう助からないだろうと踏んでいたが、今もこうして生き永らえているという事は霊夢が助けてくれたのだろうか。
暫し思考していると、僕が動いたからか霊夢が眠たそうに面を上げる。
「……んぅ……」
目が合う。
霊夢の目線の先には当然ながら僕がいて、僕の姿を確認すると霊夢は大きく目を見開いた。
寸時見詰め合う二人。
そして訪れる沈黙。
双方ともに何も言わない。というか言えない。
時計の針を刻む音だけがやけに五月蝿く感じられた。
「――えーっと、おはよう、でいいのかな……?」
とりあえず、笑いかけてみる。
何とか言わなくてはという出所の分からない使命感に駆られ僕が発した言葉は、何だかとっても微妙なものになってしまった。
つくづく自分の即興性の無さには呆れ返るばかりである。
そういえば、部屋の明るさから察するに今は夜のようだ。
僕は随分と切羽詰っていたらしい。
だがその的外れな挨拶を受けても尚霊夢は止まったままで、どうしたのだろうと僕が心配した時。
ぼふっ
「……おっ?」
次の瞬間、僕の視界には再び先ほどの見慣れた天井が。
突然の出来事ではあったが、僕の胸に感じる圧力から何が起こったのか理解するのはそう難しい事ではなかった。
というか動けないんですがこの体勢。
と、不意に僕の耳に届けられる僅かな音。
「……霊夢、泣いてる?」
「ふ………ぅっ……ぁ…………」
返事の変わりに漏らされた嗚咽は、何よりも端的にその事実を僕に伝えていた。
しかしこれは困った。
この状態では起き上がろうにも起き上がれない。そうさせてくれない。
とりあえず理由を問わねば始まらないだろうと僕が思っていた丁度その時、それは微かに聞こえた
「ぉぃ………な……で」
それはとてもとても小さな声だった。
注意して聞かなければ聞き落としてしまう、しかし彼女の本心だった。
「おぃ……かなぃ……」
必死に、一途に。
唯その思いを伝えようと、彼女は僕に縋り付く
「おいて、いかないで……!」
そう、彼女の本心。
初めて一人でいる事に孤独を覚えた彼女の、
「私を、独りにしないでよぉっ!」
心からの、叫びだった。
「霊夢……」
真情を吐露し終えると、彼女はまた僕の胸に顔を埋めて肩を震わし始めてしまった。
全く、女の子を泣かせてしまうとは。
つくづく、僕は救いようの無い莫迦である。
「とりあえず、僕を起こさせてくれないかな?」
このままじゃ話も出来ないよ、と苦笑しながら子供をあやす様に背中をぽんぽんと叩く。
数刻そのままでいた霊夢だが、落ち着いたのか漸く面を上げてくれた。
その時に認めた彼女の顔の涙の後が僕の心を締め付けたが、これも僕の所為で流させてしまった涙だ。
目を背ける事は許されない。
「ねえ霊夢」
問い掛けるも返事は無い。
ただ伏せていた顔を少しだけ上げてくれた。
いつもは綺麗なその顔も涙で濡れてしまっている。
霊夢の姿は普段の彼女からは想像出来ないほど弱々しく、雨に打たれて震える子犬、乃至親と逸れた幼子の様だった。
だがそれも仕方が無い。
そうさせてしまったのは僕自信なのだ。
彼女はとても強かった、きっとこんな拙い言葉では言い表せないほど、とても。
でも、僕が現れてしまった。
以前僕が霊夢に助けられた時の彼女の反応から考えて、僕はきっと異常だったのだろう。
そんな僕との出会いが彼女から弱さを引き出してしまったのだ。
博麗として、その身が果てるまで独りで生きていこうと心に決めていた彼女に、人と触れ合う事の温かさを与えてしまった。否、思い出させてしまったというべきか。
僕が彼女の、その尊い決意を蔑ろにしてしまった。
――――けど。
だけど、僕はこの選択が間違っているとは思いたくなかった。
これからの道のりをたった独りで、誰の温もりも受けずに生きていくのはとても辛い事だ。
そんな冷たい人生は見ているこちらまで悲しくなってしまう。
ならば気が付かなければ良かったのかもしれない。
彼女の悲壮な決意も、知る事が無ければ何事も無くそのまま維持されていたのだろう。
――だけど、もう遅い。
僕は気付いてしまった。霊夢の悲しい決意に。
確かに僕は莫迦だが、目の前で苦しい思いをしている女の子を放っておけるほど愚かではない自覚はある。
「ねえ、霊夢」
労わりと優しさと、そして愛しさを込めてもう一度。
霊夢はか細い声でだが、うん、と返してくれた。
僕が彼女を弱くしてしまった。
そんな責任からではなく、何よりも自分の意思で僕は霊夢と共に在りたい。
その事を今、再認識した。
幸い霊夢もそう思ってくれている。
ならば――――
「僕、春になったら元の世界に戻ろうと思うんだ」
僕の決意を余す所無く伝えよう。
霊夢の悲しみに濡れた顔が更に強張った。肩だけでない、全身が小刻みに震えている。
恐らく彼女の予想、というか期待していた言葉とは違ったのだろう。
辛うじてどうして、とだけ彼女の口から零れた。
だけど霊夢の予想とは裏腹に、僕の胸の内は彼女とは正反対だった。
とりあえず彼女の痛々しい姿はいつまでも見ていたくは無いので、僕も速やかに次の言葉を発する。
「――――そりゃ僕の親とかにお別れをしてこないといけないし、ね」
伸びる土筆、囀る鶯、麗らかな日和、舞い散る桜。
――――――総じて、春。
春を告げる妖精が空を飛び回るのも、もう珍しくはなくなった。
ぽかぽかと暖かな日差しが気持ちいい。
春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので、こうしてまどろんでいると夢の世界へ直行してしまいそうになる。
そうになる、というか…………これは本当に…直行…………
………あー………眠…………
「こら」
何物かの声が聞こえると同時に頭に走る衝撃。
それは眠りの淵に陥っていた僕を覚醒させるのに十分な威力だった。
ぉおおお、頭が揺れるうううぅ。
「あ痛たたたた……。霊夢?」
振り返った僕の目に映っていたのは、微笑ましさ一割、呆れ九割といった表情を浮かべて玉串を携えている霊夢だった。
恐らくはその玉串で僕を夢の世界からサルベージしたのだろう。
もうちょっと愛情の篭もった起こし方が良かったものだが。
「全く……。ほら、そろそろ時間よ?」
「………時間?」
眠気に加えて先ほどの打撃もあったため、記憶をうまく呼び覚ませない。
――――今日は何かあったっけな?
いかん、全く心当たりが……あ。
「……あ」
思ったままを口に出してしまった。
一方で霊夢はやれやれといった感じの呆れ顔。
そうだった。今日は僕があちらの世界に行く日だ。
やっと思い出した僕は、未だ気だるい感じの残る体をよっこいしょ、と起き上がらせる。
その時霊夢に年寄り臭いわよ、突っ込まれた。
くそぅ、この前僕は我慢したってのに。
細かい事はさておき、特に準備するものも無い為そのまま境内に向かう。
果たしてそこには人影が。
この際、人じゃないじゃんという突っ込みは胸の内に留めておく。
「あら、漸く来たわね」
そこに立っていたのはスキマ妖怪の八雲紫さん。
文字通り妖しくて怪しい、そんな雰囲気の漂う女性である。
霊夢曰く、冬の間は冬眠していて最近になってやっと日の当たる世界に戻ってきたらしい。
……熊?
「すいません、お待たせしました」
「それじゃ早速開くけど……随分と身軽なのね?」
紫さんが僕を眺めて言う。
確かに今の僕が身に付けているのはいつもの服と小さな鞄ぐらいのものだ。
その理由は、ここに来る時に僕が持っていたものが少なかったという事もある。
だが、何より――――
「ええ。僕の家は此処ですから」
決意に満ちた表情で告げたという自信があった。
「ふふ、そんな事言われるなんて霊夢も幸せ者ね」
紫さんが扇で口元を隠しながら霊夢を横目でちらりと見る。
対する霊夢はジト目で紫さんを見据えていた。
だがそんなにも頬を紅くしているようでは迫力も何も無い。
そこから感じられるのは可愛さだけだった。
「○○、にやけてるわよ」
何時の間にか霊夢がこちらを向いていた。
おっと、知らぬ間に霊夢の顔を魅入ってしまっていたらしい。
しかしこのまま霊夢にイニチアシブを取られては不味いので、即座に僕も切り返す。
「しょうがないよ、可愛いんだから」
う、と小さく漏らし更に顔を朱に染める霊夢。
思わず顔を伏せてしまうその仕草も余計に可愛い。
こうした珍しい表情が見られるのはいいが、からかうのもこれぐらいにしておこう。
見れば紫さんも待ちかねているようだ。
「じゃ、霊夢」
「ん」
霊夢が伏せていた顔を上げ、応える。
それを確認した僕は紫さんの方へ歩いていった。
「お願いします」
「はいはい。じゃあ、いくわよ」
何も無い空間を、紫さんの扇が撫でる。
するとその軌跡から裂け目が生まれてみるみる拡がっていき、ぽっかりと穴が生まれた。
その向こうに見えるのは、懐かしさを感じる元の世界。
これから僕は元々の世界に行って、そこの人たちに別れを告げてくる。
期間は一ヶ月間。
その時間が終わるとまた紫さんがこちら側に戻してくれる事になっている。
一緒に生きていくと決めた。
お互いがお互いを必要としているならこの方法が一番手っ取り早い。
すなわち、ここで霊夢と一緒に年月を経る事。
それが僕にとっても霊夢にとっても最善の策だと思えた。
こちらとあちらの境界へ、一歩踏み出す。
ここを越えれば世界は変わる。
案外あっけないもんだなあ、なんて思ったりした。
――と、忘れるところだった。
「霊夢」
後ろを振り返り呼びかける。
霊夢はそれに応えて顔を上げた。
もうここが僕の家。
変えるべき場所はこちらの世界にある。
ならばこう言うのが最も相応しいのだろう。
「行ってきます」
ここで僕の帰りを待つ彼女の為に。
何時か帰ってきたその時に言いたい、その言葉は胸に秘めて。
僕は笑顔で一言告げた。
「行ってらっしゃい」
だから彼女も笑顔で告げる。
何時か僕が帰ってきたその時には、きっと言いたい言葉があるのだから。
だけど今はやっぱりその言葉は胸に秘めて。
少しでも会えなくなるのは寂しいけれど。
その分再開は嬉しくなるから。
その日を迎える待ち遠しさを、今は心の糧にして。
――――僕は世界を飛び越えた。
大丈夫。君にまた会える少し先の未来までは、独りで歩いていけるから。
だからその時は、こう言い合いたい。
平凡だけど、心から望んだそんなやりとりを。
「ただいま、霊夢」
「お帰り、○○」
────────────────────────────────────────────────
最終更新:2010年05月13日 01:10