霊夢23
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うpろだ1118
幻想郷。
機械と科学、文明の進歩に押し退けられた「幻想」達――
例えば吸血鬼、幽霊、鬼、月の民、太古の神々等が、時に遊び、時に喧嘩し、時に宴を開きながら、日々を楽しく――
それこそ、騒々しすぎる程に――過ごす、幻想の楽園とも呼ばれる世界。
そして、その楽園を支えているのが「博麗大結界」であり――
博麗神社に住まう「博麗の巫女」が、妖怪と人間との均衡の維持と共に、大結界の維持をその使命として請け負っている――
「……とだけ聞けば、随分と格好が付くんだがな」
幻想郷と「外」の世界、その境界に位置し、博麗大結界の中心である博麗神社の庭先で、その影はふうっと溜め息を吐いた。
身長は百七十を超える位であろうか。
出るべき所は出、締まるべき所は締まっている理想的な身体に、大陸風の青い服をゆったりと纏っている。
顔立ちはまるで作られた芸術品の様に整っており、流れる様な金髪、金眼と合わさって、
男女を問わず十人居れば十人を間違い無く魅了する、人の域を超えたと評しても全く問題の無い美しさを備えていた。
尤も――彼女の場合、本当に「人間では無い」のだが。
「一体、お前は何をしているんだ?」
頭頂から生えている、帽子に隠れた二つの獣耳を、彼女にとっての力の証であり、人外の証明である九本の金尾を揺らしながら、
彼女――八雲藍――は、呆れた様な声を出した。
「見て分からない?」
その声に応えたのは、縁側に腰掛ける一人の少女だった。
背丈は、目の前の藍と比べてやや低い位――尤も、彼女は女性としては高い部類なので、それなりの身長だが――だろうか。
背の割には少し華奢な身体を、紅白に色分けされた巫女装束――かなり特異な形状の為、一見してそれとは分からないが――で包み込んでいる。
赤いリボンで結わえられた黒髪を揺らし、その黒い瞳を僅かに細目ながら、少女――博麗霊夢――は、悠然と告げた。
「飲茶よ」
そして、手に持った湯飲みをゆっくりと傾け――まだ少し幼さが残っているが、それでも十分整った顔を、僅かにしかめる。
「……苦」
持っていた湯飲みを傍らのお盆の上に置き、一つ嘆息。
「全く……お茶位、もうちょっとまともに煎れられる様になって欲しいものね」
苦々しくそう言ってから、改めて視線を藍に向ける。
「それで? 紫からの用事ってのは?」
「大結界についてのことだ」
八雲紫。
式神である八雲藍の主であり、「境界を操る程度の能力」を持つ一人一種族の――幻想郷において、最強クラスの力を持つ大妖怪である。
一体、どれ程の歳月を過ごして来たのか――
記録によれば、博麗大結界の誕生の以前から存在しており、その創造に関わっているとも言われている。
時に賢者とも呼ばれる彼女であるが――その印象は一言で言ってしまえば「胡散臭い」であり、彼女を良く知る人妖達からも、
「何を考えているのか分からない」「虐めだ」「極上サド」「天才と⑨の差は紙一枚」「ゆかりん」
等々々……あまり、よろしい評価は受けていない。
尤も、彼女の式神である藍はそんな事は――ちょっとは思っているかもしれないが――少しも口に出さないが。
「結界の『揺らぎ』がようやく抑えられた様でな。これで、滞っていた『外』への送り返しが再開出来るとの事だ」
「そう」
その言葉に、霊夢は素っ気なく応じる。
送り返し――
幻想郷を覆う、博麗大結界。
この結界は『外』と『内』を隔てる壁であると同時に、外の世界で存在の薄れた――
『幻想』となったものを、幻想郷へと招き入れる機能を持っている。
この際に呼び込まれるものは大結界自体が選定するのだが――時折、結界そのものの『揺らぎ』、またはスキマ妖怪の手違い等々、全くの偶然によって人、物等が幻想郷に呑み込まれることがある。
大抵、物ならば好事家に引き取られ、人ならば妖怪の餌食となるのだが――人に関しては、幸運にも生き長らえる場合が存在する。
そして、妖怪の手から逃れ、人里へと辿り着くことが出来た者達は幻想郷の仕組みを、
この世界を維持している博麗の名を聞くこととなる。
多くの場合、彼等は元の世界への帰還を望み、霊夢と紫の手によって外の世界へと送り返されるのだが――
ここ最近、博麗大結界に『揺らぎ』が発生しており、来訪者を送り返すことが出来なくなっていたのだ。
その結界の不調を修正する為に紫が奔走し――ようやく、その作業が終了したというわけである。
「……お前は、何も感じないのか?」
結界の修繕、それに対する霊夢の淡泊な感想に、藍の口調に僅かな険が混じる。
無論、彼女の主である八雲紫、その苦労に対しての感想が一言だけという事に対する不快感、不満は存在する。
普段の態度がどうであれ、藍にとっての紫は敬愛する主であり、また、常に側に控えていたからこそ、彼女は大結界の修繕が
どれ程困難な作業であるかという事を知っている。
その苦労に対する、霊夢のあまりの無関心さ。
勿論、当事者である主が何も言わず、また、霊夢の無関心自体は、彼女の性質――何者にも捉えられない、無重力の巫女――であるから、気にしても仕方ない事とは分かってはいる。
だが、
「お前は――」
「あれ、藍さん。いらっしゃってたんですか?」
藍の声を遮る様に、何処かのんびりとした声が響いた。
出鼻を挫かれた格好になった彼女が視線を向けると、神社の向こう側から竹箒を手にした一人の若者が姿を現した。
背丈は、自分より頭一つ低い位だろうか。中肉中背、筋肉質というわけではないが、華奢というよりしなやかさを感じさせる肉体を、
白い作務衣に包み込んでいる。
顔立ちは二枚目と三枚目の中間位であり――その柔和な表情と、穏やかな光を湛えた細目からは、まるで大型の草食獣の様な、
穏和な雰囲気が漂っている。
「――っと。すまない、挨拶が遅れてしまったな、○……」
「○○」
藍が声を掛けようとするよりも先に、霊夢の声が境内に響いた。
再び言葉を遮られた事に藍が沈黙するが、構わず霊夢は言葉を続ける。
「裏庭の掃除は終わったの?」
「うん。ちゃんと終わらせたよ」
穏やかで、ゆっくりとした口調で○○は突然の言葉に答える。
「じゃ、次は階段の掃除をしてちょうだい――参拝客が転けたりしない様に、落ち葉なんかは特に念入りにね」
「ん。分かった」
「それと」
そして、霊夢は目を細め――僅かに視線を傍らの急須と湯飲みに向ける。
「今日のお茶だけど――煎れ方が雑だったわよ。お茶に苦みが出てる」
「ありゃ」
その言葉に、○○は小柄な身体を小さくし、申し訳なさそうに頭を少し下げる。
「ごめん。次からは気を付けるよ」
「分かったのなら、次からはちゃんとしてちょうだい。それと、階段の掃除は早目に終わらせる様に」
「うん――すいません、藍さん。ちゃんとした挨拶も出来なくて」
「……いや、私は構わないよ」
それだけを言うと、○○は境内の隅の倉庫に竹箒を仕舞い、代わりに小型の箒を取り出すと、それを持って階段へと歩いていく。
「……お前は分かっているのか?」
足下から見えなくなっていく後ろ姿。それを見詰めながら藍は先程言いかけた言葉を発する。
「彼も――○○も、帰ってしまうかもしれないんだぞ」
それに対し、霊夢は湯飲みに残っていたお茶を飲み干すと、淡々と告げた。
「別に……どうでもいいわ」
○○が博麗神社へとやって来たのは、およそ三ヶ月程前――丁度、博麗大結界に揺らぎが出始めた頃である。
突然に幻想郷へと放り込まれ、運良く神社へ――偶然、人里の守護者に助けられ――辿り着いた、典型的な外からの遭難者。
そして、博麗大結界の不調が回復し、「外」への道が開けるまでの間――○○は、博麗神社の一室を借り受ける事になったのである。
勿論、人里の空き家を借すという話もあったのだが――彼はそれを拒否し、神社を仮宿とすることを望んだのである。
最初は、霊夢はこの話に対して難色を示していたが、結局、人里からの食料援助が貰えることや、○○が神社の手伝いとしての
仕事を行うという事を条件に、渋々納得したのであった。
当初、幻想郷の有力な人妖達はこの来訪者がいつまで『保つ』のか――博麗神社は今や百鬼夜行、魑魅魍魎の溜まり場と化している為、ともすればその危険度、恐怖感は湖上の紅魔館、冥界の白玉楼、竹林の永遠亭、霊山の守矢神社等よりも遥かに高い――について注目していたのだが、しかし○○はそれらの危険な妖怪達に対しても決して過度な恐怖を抱くこと無く、寧ろ適度な畏怖と畏敬を挟んだ、今や幻想郷ですら半ば忘れられつつある『妖怪と人間との関係』を築いたのである。
「失礼だとは思うが……正直、最初は一週間も保てば長い方だと考えていたよ」
博麗神社へと続く石造りの階段。
参拝客自体が少なく、偶にやって来る妖怪等も空を飛んで神社へと訪問する為、滅多なことでは使われる事の無いその参拝道の中程で、藍は昔を懐かしむ様な口調で呟いた。
「あははは……」
少しの落ち葉以外、僅かな砂埃しか積もっていない階段を、しかし○○は一段一段丁寧に掃除していく。
「まぁ、僕は何の力も持ってませんから。今だって、藍さんが近くに居てくれているから、こうしてしっかり掃除が出来るわけですし」
苦笑しながらそう言うと、集まった少しのゴミをちり取りに集め、次の段の掃除に取り掛かる。
「……」
ゆっくりゆっくり階段を下っていく○○を、少し上の段から――流石に、そのまま立つのは気が引けるので浮かびながら――見下ろしつつ一緒に下っていた藍は、その言葉に眉根を僅かにしかめさせる。
確かに、力の無い人間が幻想郷の妖精、妖怪等と頻繁に接していくのは並大抵の事では無い。
特に、『生命の危機』に対する感覚が鈍化している外の人間が突然「それ」に触れると、最悪の場合発狂することもあり――そうで無くても、いきなり取って喰われる可能性がある。
だが、結局それは本人の気の持ちよう、運次第であり、鈍化しているからこそ、この世界の人外達に馴染み安いとも言える。
寧ろ――
「……どちらかと言えば、途中から、私達は霊夢の方の問題で保たなくなると考えていたがな」
その言葉に、○○の手が一瞬止まる。
「君には……霊夢がどう見えている?」
○○の接し方を知った妖怪達は、その考えに対して好感を――特に、年経た妖怪である程――抱き、
ある程度友好的とも言える関係を作っていた。が、それ故に、○○が博麗神社には長くは居られないだろうと考えていた。
他者との接触が深まれば深まる程、○○は霊夢の所に居るのが耐えられなくなるではないかと……そう考えていたのである。
幻想郷の管理を任される者。
博麗の巫女が負うその称号は、決して伊達や形骸で付いているわけでは無い。
霊夢は、過去に幻想郷に起こった様々な異変、その全てを解決してきたのである。
紅い月の吸血鬼。冥界を治める大霊。妖怪の大賢者。天蓋砕く鬼。永遠なる月の姫。死者を裁く閻魔。太古にクニを築いた神。
屈服させた者達が持つ力はどれも強大であり――それは、博麗の役割を明確に示すと同時に、
霊夢に、それを成せるだけの『力』が有る事を示していた。
その力は、それだけで側に居る人間の大半を恐れさせたが、それに、霊夢自身の性格が拍車を掛けた。
『何者にも捕らわれない無重力の巫女』
端的なその言葉は、霊夢が誰にとっても平等という事を……誰もが、霊夢にとっては重要で無いという事を示していた。
好意も敵意も無く、親近感も拒否感も無く、憐憫も侮蔑も無い。
霊夢の持つその距離感は、力を持つ妖怪達には好まれたが……力を持たない人間にはその逆だった。
決して近づけず、決して分からず、しかし、何をしてくることも無い。
天賦の才を持ち、一人で何もかもが補えるならば――他人を求める必要など無いのだから。
全くの無関心。そして、それから来る断絶感。人間である筈なのに――人間味が感じられない。
故に――幻想郷内、幻想郷外の人間を問わず、彼女は恐れられた。
薄く。
冷たく。
硬く。
そして――鋭い。
それは、あるいは冥界の半人半霊の庭師の在り方を思い出させたが――
妖夢のそれが日本刀の様な剣士であるとするならば、霊夢は、日本刀の刃、そのものと言えた。
刃は見ず、刃は感じず、刃は語らず、刃は動かず、刃は求めず。
博麗として振るわれるまで、決して自分から誰かを傷つける事は無いが……振るわれれば、剣先の全てを斬り捨てる。
そして、その鋭さが分かるからこそ、誰も触れず、近づかない。
それ故に、霊夢の周りには誰かが集まる事はあっても――誰かが「居続ける」という事は、殆ど無かった。
「……実際、外から来た人間で、君ほど長く留まっていた者はいなかった」
何処か疲れた様に、藍はふうっと息を吐く。
「ある者は早々に居候先を移し、ある者は離れに籠もったまま出てこなくなり、ある者は――何も言わず、夜に此処を逃げ出したよ」
勿論、藍自身はその事についてとやかく言う気は無い。
彼等の様な恐怖感を、僅かでも抱いたことが無いかと言えば嘘になるし――
何より、霊夢が何も言わないのであれば、それに対して何かを言うべきでは無いと考えていた。
だが、だからこそ――○○が、何故此処に留まろうと考えたのか、その事への興味が頭から離れなかった。
「まぁ……まだ霊夢と接する機会の多い『内』の人間でさえ、殆ど近づこうとする者は居ないがな」
足下にある階段。殆ど使われた形跡が無く、掃除が必要な程汚れている様には見えないそれを、静かに見下ろす。
「……君は、どうして此処を選んだんだ?」
掃除の手を止め、じっと藍の言葉に耳を傾けていた○○は、そこで一つ息を吐くと、視線を上へ――博麗神社の方へと向けた。
「最初は……いや、勿論、今だって怖いんですよ。此処って」
ぽつりと、言葉を零す。
「返ってこないし、伝わってるのかも分からないし……一人じゃないのに、一人で居るみたいで」
「…………」
「でも」
そこで、○○は僅かに視線をずらし……神社の、その中に居る人、今は見えない人へと向ける。
「それって、霊夢も一緒なんじゃないかって……そう、思ったんです。僕がそう思ってるみたいに……霊夢も、僕が分からない、僕から返ってこない、伝わってるのか分からない……そう感じてるんじゃないかって」
止めていた箒を、再び動かし始める。
「当たり前なんですよね、他人が分からないなんて……でも、ちょっとだけ相手に触れれば……ほんの少し、心を想うことは出来るんじゃないかって」
丁寧に丁寧に、心を込めて掃除をする。
「自分が伝わるのが怖くて、触れられない。伝わってしまった自分が、相手に受け入れられないんじゃないかって……不安ばかりが大きくなって、心が動けなくて」
塵を纏め、ちり取りに入れて、次の段に取り掛かる。
「最初は、そんな風には思わなかったんですけどね……けど、此処の皆さんと色々話すうちに、霊夢と一緒に生活するうちに、そう思うようになってきて」
その動きは遅いけれど。
「だから、少しだけでも……触れて、伝えたいって思ったんです。いきなり、他人に頼って良い、何て言えませんけど……せめて、辛い時に、辛いって誰かに言えるって……そう思える様になって欲しくて」
確実に、進んでいく。
「……や、何か恥ずかしい事を言っちゃいましたね」
そこまで言った所で、○○は何かをごまかす様に、ちり取りの塵を屑籠へと持って行く。
「いや、私はそうは思わないがな」
その様子を微笑みながら見守りつつ、藍もその後に付いていく。
気付けば、階段の段も後僅かになっており……もう少しすれば、掃除も終わるだろうという所まで来ていた。
「まあ、霊夢は可愛いですから……ちょっとでも変われれば、きっと良くなると思いますよ」
その言葉に、藍は意地悪そうな笑みを浮かべる。
「可愛い、か……案外、一目惚れという事かな?」
「ちょっ」
その言葉に僅かに動揺し、しかし藍の表情を見た○○は、慌てて顔を背ける。
「……どうなんでしょうね。確かに、そう思うこともありますけど……」
そこで、僅かに溜め息を吐き、
「……やっぱり、僕も不安なんでしょうね」
自嘲気味に呟いた。
「それは……」
「藍様ー!!」
藍が何かを言おうとした所で、階段の向こう、里へと続く道の方から大きな声が響いてきた。
見たところは、○○よりも頭一つ二つ低いくらいだろうか。
藍と同じく大陸風の衣装に――藍とは異なり、動き安いデザインで纏められたものだが――身を包み、頭に緑色の帽子を乗せ、
黒い猫耳と二本の尻尾を備えたその姿は……
「橙?」
道を走って来るその姿は、紛れもなく藍の式神、橙のものだった。
普段は猫の集会に顔を出したり、遊んだり、時には藍の手伝いなどをしているのだが……
今回、藍が博麗神社への使いに出るにあたって、主である紫の使いとなる様、藍がマヨヒガに残してきたのである。
(何かあったという事か……?)
そんな藍の気持ちを知ってか知らずか、橙は猛然と二人の方へと疾走すると、鼻先一歩手前で急停止した。
ぶわっと砂塵が舞い上がり、一瞬、藍と○○の視界が黄色く染まる。
「……橙。もう少し落ち着きなさい」
「ご、ごめんなさい……」
やや低いトーンの藍の言葉に、橙がしゅんと項垂れる。
「こんにちは、橙ちゃん」
そこに掛けられた○○の言葉に、今度はぷうっと頬を膨らませた。
「もー、○○さん。橙で良いって言ってるでしょ」
「いや、ごめん……」
因みに――○○が八雲一家と関わりを持つ様になった切っ掛けが、この橙だ。
偶然から水に落ち、式が剥がれて溺れかけていた橙を、偶々通りかかった○○が助けたのだ。
その後、橙と一緒にやって来た藍、紫と出会い、博麗神社で暮らすうちに出会う機会が増え――今の様な関係に至ったわけである。
「橙。それで、一体何があったんだ?」
「あ! えっと、紫様から手紙を預かって来ました」
藍の言葉に、頬を膨らせていた橙がぴっと姿勢を正す。
「手紙?」
その内容に、藍は首を傾げた。
紫は境界を操る能力を持っており――わざわざ手紙を言付けなくとも、スキマを使えば一瞬で会話が出来る筈なのだが。
「はい。これです」
そう言って、橙が懐から取り出したのは……
『………………』
それは、ピンク色の小さな封筒だった。
ご丁寧にハート型のシールで封がされており、隅にはやたらと丸っこい字体で、
「貴方のゆかりんより」
と書かれている。
「………………ありがとう」
何とか平静を保ちつつ、藍は封を丁寧に破り、中の文面(これまたピンク色の、端々にハートがあしらわれた)に目を通す。
「……橙。○○の掃除を手伝ってきなさい」
「え?」
「はい、分かりました」
突然の言葉に、○○が疑問の声を上げる。
「いえ、良いですよ。そこまで残ってないですし」
「いや、済まないが橙に掃除を教えてやってくれないか……どうにも、まだ掃除が苦手な様でな」
「……分かりました」
藍の様子から何かを察した様で、○○は道具を持ち直す。
「橙。もし、分からない事があったら……」
「○○に聞く!!」
「よろしい」
そして、博麗神社の階段へと向かっていく一人と一匹の後ろ姿を見送ってから、藍は静かに呟いた。
「それで、一体何の用ですか? ……紫様」
その言葉を待っていたかの様に、突然、藍の横、何も無い筈の空間が『裂ける』。
「やぁねぇ。そう怖い声ださないでよ~」
そして、その中から一人の女性が姿を現した。
年齢は藍よりも少し上位だろうか。流れる様な金髪を短く纏め、頭には白い帽子、手には薄いピンクの日傘を持っている。
身に纏うのは和とも洋ともつかない、華美ではあるが、しかし決して下品では無い服装。
そして――芸術品の様に整えられた美貌に、幼女の様な老女の様な、まるで万華鏡の様に印象を変える表情。
そして、かって大陸を席巻した九尾の狐である藍すらも上回る妖力を、
まるで香でも焚くかの様に、うっすらと周囲に漂わせている。
彼女こそが藍の主であり、妖怪の大賢者とも呼ばれる、八雲紫であった。
尤も、
「良いでしょう? 偶には、こう、あの日の甘酸っぱい青春を思い出さない?」
「……そんな理由で、こんなけったいな物を使ったんですか……」
言動だけを聞く限りにおいて、とてもそうは見えないのだが。
「で? わざわざ橙に使いを出してまで、一体何なんです?」
手にある手紙には、簡潔に、二人だけで話がしたいと――これまた、やたらに丸っこい字体で――書かれている。
「そうねぇ……」
そこで、紫は扇子を広げながら、視線を○○と橙が歩いていった方へと向ける。
「良い子ね。あの子」
「……そうですね」
言わんとする所は分からないが、取り敢えず、藍は頷く。
「ちょっと意気地が足りないけど、優しいし。橙とも良く遊んでくれるしね」
「…………」
そこで、紫の表情が、僅かに歪む。
「だから……彼に、ちょっとだけ贈り物がしたいのよ」
「贈り物……?」
「そ、贈り物」
視線を、少しだけ上に向ける。藍も釣られて視線を向けるが……視界を埋めるのは、階段ばかりである。
尤も……彼女の主には、何かが見えているのかもしれないが。
「少しは素直になりそうだけど、まだまだ甘え方を知らないお嬢さんとの関係に、ちょっとだけね」
「それは……?」
「まあ、当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うしね。他にも協力者は募ったし……ささやかなお節介よ」
だから、と言葉を繋ぎ、
「藍。協力しなさい」
妖怪の賢者は、何処か面白む様な笑みを浮かべながら、そう告げた。
「……マヨイガに?」
「うん。紫さんが手伝って欲しい事があるって」
博麗神社の居間にて、朝食を摂りながら○○はそう言った。
「何でも、時間が掛かるらしくて……早くても、一週間位は掛かるみたい」
「そう」
別に、マヨイガに○○が行くのは今に始まった事では無い。
橙を助けたあの時以来、○○は八雲一家とは多少の付き合いがあるし……
霊夢がマヨイガまで○○送り届けた事も、二度や三度では無いのである。
しかし、一週間などという長期間拘束する事は今までに無かったし、なにより、
「わざわざ直接迎えに来るなんて……紫も、何をやるつもりなのかしらね」
いつもなら霊夢に○○を送らせる所を、今回は紫が直接○○を迎えに来るらしい。
普段、面倒臭がって自分から足を運ぶことをしない紫にしては、酷く珍しい事と言える。
あるいは――それだけ、重要な事というだろうか。
尤も、それを気にした所でどうにもならないし……気にするつもりも無い。
「必要な荷物は紫さんが用意してくれてるみたいだから……後は、僕があっちへ行くだけだって」
「用意周到なことね」
それだけ言って、霊夢はゆっくりとお茶を啜る。
「うん。そろそろ時間だから、僕は玄関に出るけど……霊夢は?」
「別に。私はお呼びじゃないんでしょ」
「挨拶くらいはした方が良いよ?」
その言葉に何も応えず、ただひらひらと手を振るだけで返事をする。
○○がその様子に苦笑し、そしてゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、行ってきます」
そう言って、居間から出て行く。
その後ろ姿を何となく見詰めながら……霊夢は頭の片隅に、何かぼんやりとした、ざらっとした気持ちを感じていた。
それが、一体何だったのか……霊夢がそれに思い至るのは、これから、八日程の日数を必要とする事となった。
一日目:
本日晴天。
昨日よりも食料の消費が少なくて済んだ……一人居ないからだろうか。
境内の掃除と、階段の掃除をやっておく。いつもやらせていた所為か、少し手間が掛かってしまった。
昼に幽香がやって来た。どうやら、○○に用があったらしい。
マヨヒガに行ったと言うと、にやぁっとした笑みを浮かべて、
「ようやく愛想を尽かされたのかしら?」
とだけ言って、早々に帰っていった。
夜は早くに布団に入った……何故か、今日は布団に入るのが早かった気がする。
二日目:
本日も晴天。
晴れのうちに布団を干しておくことにする。使っている布団を全て干すと、流石に疲れる。
境内の隅に昨日掃除し忘れた箇所を見つけたので、今日は早めに掃除を開始する。
それでもあまり塵が溜まっていないのは、一昨日に掃除させていた所為だろうか。
昼に、幽々子と妖夢がやって来た。そろそろ桜が散る頃なので、見に来たらしい。
○○の事を聞かれたので、昨日と同じ様に答えた。すると、
「あらあらまあまあ。そうなのぉ」
と、また幽香と同じ様に変な笑みを浮かべた。
帰り際、妖夢が境内を見渡してこう言った。
「掃除には、人が現れます。○○さんは、本当に心を込めて掃除されていたんですね」
三日目:
本日曇り。
早々に掃除を開始する。隅まで徹底してやると流石に時間が掛かったが、その分、綺麗になった様に思う。
久しぶりに時間が空いたので、昼に飲茶をする。茶葉が少し古かった所為か、少し苦みがあった。
夕方に映姫と小町がやって来た。彼岸からこの二人が来るとは珍しい。
何か異変かと尋ねると、本日は珍しく非番との事だった。ご苦労な事だ。
珍しく、映姫が説教をしなかった。ただ一言、
「あなたに積める善行は、もっと素直になることです」
とだけは言っていたが。
四日目:
本日雨。
境内の掃除が出来ないので、室内の掃除を重点的にした。
その中で初めて○○の部屋に入ったが、随分と綺麗に片付いていた。
こちらで買った物などは元々殆ど無かったが、向こうから一緒に来た僅かな私物等が無かった。
紫が持って行ったのだろうか。何に使うのかは分からないが。
がらんとした部屋だったが、何故か、掃除に時間が掛かった。
五日目:
本日晴天。
まだ境内が少し湿っているので、掃除は後日に回す事にする。
午前には何もせず、昼に庭を眺めながら飲茶をする。茶葉を変えた所為か、随分と美味しかった。
ふと、お茶の煎れ方は大して違わない筈なのに、何故こうも味が違うのかと考えた。
買い出しに出ようかと思ったが、思ったよりも食料が残っていた……食欲が減っているのだろうか。
夕方、レミリアと咲夜がやって来た。どうやら、○○に用があったらしい。
掻い摘んで事情を話すと、レミリアはやたらと嬉しそうに、
「そろそろ私の物になるかしらね……」
と呟いていた。何故か、イラっとした。
六日目:
本日も晴天。
明日には○○が帰ってくるらしいので、取り敢えず食料を買い足しておく事にする。
その時、里で慧音と、珍しく妹紅に出会った。何でも、竹林の小屋の修理に必要な資材を買いに来たらしい。
「何か良いことでもあったか?」
そう聞かれたが、特に思い当たる事が無かったので、「別に」とだけ応えた。
そして、七日目。
珍しく目が早く覚めたので、境内の掃除を早めにやっておくことにした。
山の神社に比べると多少手狭ではあるが、それでも、一人で掃除するには、境内は十分広い。
竹箒で地面を撫でる様に掃きながら、隅から中心へと向かう様に塵を纏めていく。
元々参拝客など殆ど居ないので、静かなのはいつもの事だが……それでも、朝の静けさには、何処か心が落ち着く。
ざっ。
ざっ。
束ねられた竹が、地面に擦れて乾いた音を境内に響かせる。
――……ィィィィィイイイイイイイ!!
不意に、耳に甲高い音が届いてきた。空から聞こえて来るその音は、段々とその音量を、高さを上げていく。
見上げてみると、晴れた空の一点から、黒い何かが後方に星を撒き散らしながら突っ込んでくる。
見間違い様も無い。あの独特な星型の弾は……。
瞬間、その黒い何者かは轟音を上げながら境内へと墜落……否、着陸した。
境内の端に落ちたかと思うと、砂煙を巻き上げながら地面を疾走し……ぎりぎり目前で停止する。
もうもうと立ち上がる砂塵が晴れると、中から小柄な影が姿を現した。
短めに纏められた金髪に、頭には大きな黒い帽子。
身に纏うのは黒と白の布地で出来た、フリルを多目にあしらった洋風の服装。
強い意志を感じさせる瞳に、まるで悪戯猫の様な、何処か人なつっこい表情。
そして、手に持つのは木製の箒と、ヒヒイロカネで作られた、八角形の小さな炉――八卦炉。
恐らく、結界でも張っていたのだろう。砂の一粒も被る事なく、その人物――霧雨魔理沙は、砂埃の中から姿を現した。
「よう、霊夢。元気だったか?」
……人の神社の境内に一直線の爪痕を刻んでおきながら、よくそんな事が言える。
尤も、今に始まった事なので、とやかく言うつもりも無いが……。
「元気よ。追加の掃除が出来る位にはね」
「そうか、それは良いことだぜ。私も茶を飲める位には元気だがな」
そう言って、魔理沙は視線を縁側に用意された急須と湯飲みに視線を向ける。
私はふうっと溜め息を吐いて、掃除は後回しだな、と考えていた。
縁側に腰掛け、急須から注いだお茶を、静かに喉へと流し込む。
程良い温度と茶葉の香りが、僅かに喉を、鼻をくすぐる。
尤も、魔理沙には少々熱いらしく……ふぅふぅとお茶に息を吹き続け、中々飲めていない様だが。
やがて、自力でお茶を冷ますことを諦めたのか、お茶の入った湯飲みを盆の上に置くと、
別に用意してあった羊羹に手を伸ばし始めた。
「それで、一体何の用?」
そんな魔理沙の様子を横目に眺めつつ、私は話を切り出した。
「……う~ん」
そんな私の言葉に、魔理沙は珍しく言葉を濁した。
いつもならハキハキと用件を話す所だが……珍しく、何か言い辛い事があったらしい。
大方、パチュリーかアリスとでも喧嘩をして、その仲介を私に頼みに来たのだろうか。
面倒だが、後に周囲を巻き込む弾幕喧嘩を繰り広げられるよりは、遥かにマシである。
「あのな、」
そんな事を考えていると、言いにくそうにしていた魔理沙が、やっと口を開いた。
普段と違う真剣な口調に、何か妙な感覚を感じる。
自分の『勘』は良く当たるのだが……それが、何か嫌な感じを告げている。
「実は、○○の事なんだが……」
「○○?」
魔理沙の口から出た以外な名前に、思わず声を上げてしまう。
だが、そんな事を気にする余裕は私には無く……
寧ろ、さっきから感じていた嫌な予感が、むくむくと大きくなっていく。
「いいか、落ち着いて聞けよ」
それが意味する所を考えるより先に、魔理沙が、重々しく口を開いた。
「アイツが外に帰ったって話、知ってるか?」
吹き抜けた風が、ざあっと音を立てた。
八日目。
○○が此処から居なくなって――八日。
もうすっかり日が沈み、薄暗い闇に包まれた神社の一室。
四日程前に掃除して、それ以来一度も入っていなかった○○の部屋を、私は黙って片付けていた。
部屋に置いてある小物、生活用具を押し入れに仕舞い、○○が――正しくは、紫だろうか?――
持って行かなかった僅かな私物を纏めていく。
尤も、殆どの荷物を持って行かれ、主が戻ってきていない部屋の中には驚く程荷物が少なく……
荷物を片付ける事自体は、一時間も掛からずに終わってしまったのだが。
いよいよ区別無く荷物の殆どが片付けられた部屋の中には荷物が殆ど無くなり……
後に残ったのは、部屋の片隅に纏められた○○の私物だけになってしまった。
ほんの僅かな面積の中で、○○がこの部屋の住んでいた事を主張する荷物達。
両手の指ほどの数も無いそれらを静かに眺め……そして、一つ一つを、ゆっくり手に取る。
残す為では無く――捨てる為に。
使われる事の無い塵は、分別無く捨てて良いわけでは無い。特に、それが外の物ならなおさら。
尤も、外の物は殆ど無く――考えてみれば、外に帰るつもりならば、持って帰るのは当然の判断だろう。
あの紫が、その程度の事に気付かない筈が無い――あるのは、幻想郷の何処でも手に入る様な、僅かな小物ばかりだった。
ゆっくりと分別しながら、私は、昨日の魔理沙の話の内容を思い出していた。
『昨日、ちょっとした用事でマヨイガに行ったんだが……あそこにしては珍しく、やけに人の姿が目に付いたんだ。
で、偶々前を通り掛かった奴に話を聞いたんだが、何でも紫が、ここ一週間位前から、今まで外の世界に帰れなかった奴等を、
一人一人送り返していたらしい……残るって言った奴は残したらしいが』
そこまで言った所で、魔理沙はふうっと息を吐いた。
『で、その時、そこに集まった奴等の相手をしてたのが――○○だったんだ』
言葉を、紡ぐ。
『何でも、紫に頼まれてそんな事をやってたらしいんだが……その日の一番最後、外に帰る最後の人間が、自分だって言ってた』
何処か、陰のある表情で魔理沙は続ける。
『どうしても、会わないといけない人が居るってな……流石に、どんな奴かまでは教えてくれなかったが。
……で、此処の事はどうするんだって言ったんだが』
ちらっと、こちらを視線を向ける。その表情は、やはり暗い。
『ごめん。そう、霊夢に伝えてくれって頼まれたよ。その直ぐ後に、紫と藍に連れていかれてな……後の事は、分からない』
丁度その時、目の前に『文々。新聞』の号外が落ちてきた。
そこにはただ一言、
『来訪者、幻想郷を去る』
とだけ、印刷されていた。
「……ん?」
分別していた荷物の中から、一つだけ、幻想郷では見慣れない物を見つけた。
つるつるとした手触りで、暗い中でも僅かに光を反射するその小さな機械は……。
「確か……携帯電話、だったかしら」
○○が、この機械の事をそういう風に言っていた様な気がする。
確か、『ばってりー』が切れたとかで、今はもう使えないらしいが。
何でも、遠くに居る相手と話しをする為に必要な道具だと言っていたが……その話を聞いた時、私は何と言っただろうか。
「…………」
何となく手で弄んでいると、中程から機械が折れ、二枚貝の様にぱかっと開いて、中を露わにした。
そこには、十を超える数のボタンがあり……それ以外の部分を、黒ずんだ、一枚の小さな鏡の様な物が覆っていた。
と、不意に、その鏡がパッと光を放った。どうやら、まだ動くらしい。
鏡の隅で『カメラ』という文字が僅かに躍ると、鏡の中に、何処かの風景が映し出され始めた。
「…………」
移り変わっていく風景。それは、私にとっては馴染みの深い……幻想郷の物だった。
あるいは里の風景であり、あるいはマヨヒガであり、あるいは……此処の、博麗神社の風景だった。
此処に居る者にとっては当たり前の、誰もが一度は見たことのある風景。
だが、彼には……○○には、それは、当たり前では無かったのだろうか。
音も無く移っていく風景、やがて、それは幻想郷の住人達に移り変わっていく。
魔理沙が居た。アリスが居た。咲夜が居た。妖夢が居た。
パチュリーが、レミリアが、幽々子が、永琳が、鈴仙が、輝夜が、妹紅が、慧音が、萃香が、映姫が、小町が、早苗が……。
そこに映る誰もが笑っていて、誰もが、○○を見詰めていた。
流れていく人の中、最後に映ったのは……
「…………」
それは、縁側に腰掛けている自分の姿だった。
視線を鏡に、○○の方を見ておらず……ただ黙然と、湯飲みを持って座り込んでいる。
それを映した後、鏡はちかちかと点滅し……やがて、何も映さなくなった。
「…………もう、動かないのね」
多分、少しだけ残っていた『ばってりー』が、無くなってしまったのだろう。
○○が見ていた物を、人を映した後……力尽きてしまったのか。
恐らく、もう写真を映す事も無いし、遠くの人と、話すことも出来ない。
もしかしたら……
「○○と、話せてたかもね」
それだけを呟いて、それを、そっと『分類不能』に選り分ける。
そして、分別の出来た塵を部屋の隅、屑籠の中に入れて、改めて部屋を振り返った。
もう、何も残っていない……片付けられた部屋。
別に、この作業は初めてというわけでは無い。今までに、何度もやって来た。
この部屋も……誰かがやって来る度にその人の色に染まり、そして直ぐに、その色を抜き取られた。
色が付く度に、その色を抜く。
何度も何度も繰り返し……何度も何度も、一人でやってきた。
誰も手伝わない。手伝う必要も無い。一人出来るから……一人になったからやる事だから。
だから、別に平気だ。
平気なんだ。
『ごめん』
「…………」
魔理沙に言付けたという、○○の言葉。
最後に、私に伝えたかった、言葉。
どうして、
「……ごめんなのよ」
最初は、何も言わなかった。ただ其処に居るだけ。今までと何も変わらない。そう思っていた。
そのうち、何かやらせて欲しいと言う様になってきた。面倒だったから、適当に身の回りの仕事をさせていた。
掃除は下手くそで、料理もいまいちで、お茶も美味しく煎れられ無くて……。
いつも手間ばかり掛けさせて。
最初は放っておいたけど、段々目に付くようになって。
度々に、色々教える様になって来て。
飲み込みが悪くて、中々上手に出来なくて……それでも、いつも一生懸命にやっていて。
私が怒る度に、いつも『ごめん』って謝って。
段々、仕事も上手になってきて、レミリアや紫なんかから『家に来ない?』って誘われるようになって……でも、いつも断ってた。
分からなかった。
「どうして……」
どうして、居てくれたのか。
怒るばかりだった。何も言わなかった。無視した事だって、一杯あった……それでも、いつも此処に居た。
分からなかった。
○○が、何を見ていたのか。
○○が、何を感じていたのか。
○○が、何を求めていたのか。
そして――怖かった。
「……怖い?」
その気持ちに気付いて……何かが、心の中で動きだす。
○○が、私の事を怖がってるんじゃないかって、怖かった。
嫌われたくないって、思った。
触りたかった。でも、受け止めて貰えるのか、不安だった。
触れなければ、そんな事も考えなくて済むって……でも、その事にも耐えられなくなってきて。
信じたいのに、信じれなくて。
伝えたいのに、伝えれなくて。
だから、その度に心の奥に押し込んで……見ない様にしてきて。
○○の事も、知らない様に、考えない様に、分からない様にしてきて。
だから、本当に分からなくなった。
今まで、○○が何を見てたのか、何を考えてたのか、何で……『ごめん』って、言ったのか。
「あ……」
つぅっと、涙が頬を伝う。
慌ててそれを拭おうとして……持っていた携帯電話が目に入った。
○○が忘れた、残していった物。
彼が見ていた物が入った、小さな機械。
思わずそれを開いて……しかし、その小さな鏡は、先程とは違って何も映さない。
項垂れ、力なく、部屋を見渡す。
だが、その部屋には何の色も……○○の痕跡は、何一つとして、残っていなかった。
当然だ。
さっき、片付けてしまったのだから。
――自分が、色を抜いてしまったのだから。
「っっ、ふぁ…………」
目蓋に熱が籠もり、声が、涙が溢れそうになって、
「ただいまー……」
その声が、聞こえた。
「すっかり遅くなっちゃったな……」
そう小さく呟きながら、○○はゆっくりと神社の玄関をくぐった。
時間は、もう九時を回った位だろうか。人里から離れている事もあってか、
辺りはしんと静まりかえっており、虫の鳴き声が僅かに聞こえてくる位で、それ以外には何の音も聞こえてこない。
「霊夢、もう寝てるかな……」
一つとして明かりが無く、薄闇に沈み込む様な屋内の様子を見ながら、○○は静かに自室へと歩いていく。
元々、幻想郷の住人は夜はそこまで遅い方では無い。外の世界と違ってテレビ等があるわけでも無いし……
何より、妖怪の活動時間である夜に、外に出るのは危険だからだ。
霊夢の場合、妖怪に対する危険という事はあまり無いが……夜が退屈なのは共通するらしく、
この時間にはいつも寝てしまっていた。
だから、明かりの落ちた神社の様子を見て、取り敢えず霊夢を起こさない様に気を付けながら自室へと向かい、
「ふぅっ……?」
障子を開けた所で、部屋の異変に気が付いた。
暗い為に細かくは分からないが……まず、部屋の中に荷物が殆ど残っていなかった。
紫さんがマヨイガに運んだ最低限の物はともかく、それ以外の物、生活雑貨などが無くなってしまっている。
そして、空っぽになった部屋の真ん中に……部屋に置いていた携帯電話を手に持って、誰かが立ち尽くしていた。
暗がりでもはっきりと分かる赤いリボンに、紅白の改造巫女装束。
「霊夢……?」
表情までは判然としないが、その独特の服装は見間違い様も無い。
しかし、何故自分の部屋に居るのか。
その事を考えかけて、
「どうして……?」
霊夢の声で、思考が断ち切られた。
「え……?」
「帰ったんじゃ、無かったの……?」
「いや、だからただいまって……」
「違う!!」
突然の大声に、思わず身を固くしてしまう。
「だって、だってぇ…………私、わたし、は」
声が、震える。
闇に慣れてきた目に、霊夢の表情が……頬を伝う涙が、飛び込んでくる。
「え……?」
「怖くて、意地悪、して……だから、だから……」
ボロボロと涙を流しながら、それでも、霊夢は必死に言葉を続ける。。
「向こうに、帰っても、当然だって、で、も……此処に、帰って来て欲しく無くって……今だって、嬉しい、のに、怖くて」
言葉にならない心を、伝えようとする。
「怖いんじゃ、ないかって。私が、怖いんじゃないかって。怖くて、っ怖く、て……」
やがて、その場にへたりこんでしまった。項垂れ、僅かに震えながら、涙と一緒に言葉を零す。
「嫌なのぉ……もう、怖いのが、怖いのは……っく……もう、嫌ぁ……」
それは、言葉としては、あまりに不十分だった。
足りなくて、抜け落ちていて、ばらばらで。
でも――伝えたい想いは、その気持ちは、確かに伝わってきたから。
だから……震える霊夢の華奢な身体を、そっと抱き締めた。
抵抗もなく、すっぽりと収まってしまうその小ささを愛おしく思いながら、出来る限り優しく、言葉を紡ぐ。
「あのね、霊夢……僕だって、霊夢の事が……霊夢が分からなくって、怖いよ」
腕の中で、びくっと霊夢が震える。
その震えに、僅かな罪悪感を感じながらも、言葉を続ける。
「でもね……その気持ちよりも、一緒に居たいって気持ちの方が、大きいんだ」
霊夢の頭を、そのさらさらの黒髪を優しく撫でる。
「もっと話して、もっと遊んで、もっと怒られて……もっともっと、色んな事をして……今よりもっと、霊夢の事を、知りたいって」
だから、と言葉を繋ぐ。
「一緒に、頑張ろう? 側に居て怖いって気持ちより、一緒に居て幸せだって、楽しいって……そういう気持ちの方が大きくなるように」
少しだけ霊夢から身体を離し、その目を……涙で潤んだ瞳を見詰める。
「僕はもっと、僕を教える様に頑張るから……だから、霊夢をもっと、教えて欲しいな」
ね? と言うと、霊夢は瞳をさらに潤ませながら、こくり、と頷き……、
「……っく、う、あ、ああ……うわぁぁぁああああああああああああああああああああああああ」
大声で泣き始めた。
もう一度、霊夢を優しく抱き寄せて……その震える声を、零れる涙を、ただ黙って、抱き締めていた。
「……どう? 少しは落ち着いた?」
「…………うん……」
あれから、どれ位の時間が過ぎただろうか。
今、僕と霊夢は、博麗神社の居間で、一緒に遅めの夕食を摂っていた。
あの後――泣き続けていた霊夢をゆっくりと落ち着かせて、
抱き締めていた身体を放した後――霊夢のお腹が、ぐぅっと音を立てたのである。
何でも、僕の部屋を片付けた後に夕飯にしようと考えていたらしく……そこに僕が帰って来たので、夕飯がまだだったらしい。
もう夜も遅くなっていたので、取り敢えず、有り合わせの食材で軽めの夕飯を作り……今に至るというわけである。
「…………」
「…………」
ちゃぶ台を挟んで向かい合って……しかし、言葉が出ない。
二人きりになって霊夢の顔を見ると……自然に、さっきの事が思い出されてしまう。
改めて考えると……さっきは、もの凄く恥ずかしい事をしてしまった様な気がする。
それは、正面の霊夢も同じ気持ちの様で――首筋まで真っ赤に染めて、俯いてしまっている。
何か、何か無いか。
そう思い、記憶を探っていた所で――ある事に気が付いた。
「……寝場所、どうしよう」
「…………」
今まで使っていた部屋は、霊夢が片付けてしまっていたが……元々、そんなに物があったわけでも無く、
寧ろ物が無い方が寝床を確保するのに都合が良い様に思っていた。
だが――話を聞いてみると、どうやら部屋を片付けるにあたって、先に布団等を片付けてしまったらしい。
博麗神社で使っている寝具は、大抵は使う部屋に片付けるのだが……客間など、普段は使わない所に使う物の場合、
神社の敷地内にある、小さめの倉庫の中に仕舞ってしまう。
そして今回、使っていた寝具をその倉庫の中に片付けてしまった為……寝場所はあっても、寝る為の道具が無い、
という状況になってしまっているのである。
流石に、今の時間から倉庫を開ける気にはならないので、取り敢えず何か身体に掛ける物を借りて、床で寝ようかと考えて、
「……あのね」
「ん?」
霊夢が何かを呟いた。
ちらっと視線を向けると、霊夢は先程よりもさらに赤くなっており……紅白二色が、紅一色になっている。
一体どうしたのか、そう思った所で、霊夢が言葉を続けた。
「一緒に寝れば……良いんじゃ、ない?」
「…………」
一瞬で顔が赤くなり、鼓動が跳ね上がる。
いや、確かに、霊夢の分の布団はあるだろうけど、
「いや……それは、流石に不味いんじゃ……」
と、思わず言った所で、霊夢が小さな声で……しかし、はっきりと言った。
「襲ったりなんか、しないもん……それに、襲われたって、構わないし」
その言葉に仰け反り掛けた所で、
バタぁンっっっ!!!
背後で、何かが倒れる音がした。
慌てて振り向くと、其処には……、
「いや、これは、決して覗き見をしていたわけでは無くてその!?」
文さんが居た。
「あららぁ……中々積極的じゃない?」
幽香さんが居た。
「その、これは……不純異性交遊はいけませんよ!??」
映姫さんが居た。
「いや映姫様。流石にそれじゃ誤魔化せないですって……」
小町さんが居た。
「いいわねぇ~。私もあま~い恋がしたいわぁ」
幽々子さんが居た。
「……(真っ赤)」
妖夢さんが居た。
「霊夢に取られちゃったか……けど、いつでも紅魔館は貴方を歓迎するわよ」
レミリアさんが居た。
「お嬢様、今はそれどころでは無いと思いますが」
咲夜さんが居た。
「いや、まぁ、なんだ。青春についてとやかく言う気は無いが……」
慧音さんが居た。
「ちょっと慧音。絶対不味いってこの状況」
妹紅さんが居た。
「……結婚式には、呼んでくれよ?」
魔理沙が居た。
「藍様ー。襲うって何ですか? 食べちゃうんですか?」
橙ちゃ……橙が居た。
「橙。もっと大きくなったら自然に分かるから…………本当に済まない、○○」
藍さんが居た。
「うふふふふふふふ。霊夢、可愛いわぁ」
紫さんが居た。
……そこに広がっている光景に、絶句してしまう。
どうやら、障子の向こう側から、こちらの様子を窺っていたらしいが……何で、こんなに人数がいるのか。
「……あは」
と、背後から何やら凄まじい圧力を感じた。
「…………あははははははははははははははははははははははは」
視線の先の人妖達の顔が、見る間に蒼白になっていく……多分、僕も同じ様な顔をしているだろうけど。
「そうねぇ…………今、すっっっっっごく機嫌が良いから、特別に」
慌てて逃げだそうとするが、しかし、どうも不可視の結界が張られているらしく、
押し合いへし合いするばかりで、全く動けないでいる様だった。
僕は逃げる必要が無いって分かっていたけど……それでも、背後の霊夢の圧力に、思わず姿勢を正してしまう。
「二四時間耐久『夢想封印』『八方鬼縛陣』『陰陽鬼神玉』『夢想天生』フルコースで許してあげるわ」
「「「「「「「「「「「「いやぁぁああああああああああぁぁぁぁあ!??!?!!?」」」」」」」」」」」」」」」
結局、その日は霊夢と同じ布団で寝ることになったけど……意識しすぎて、寝る事は出来なかった。
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最終更新:2010年05月14日 00:30