霊夢25
うpろだ1367、1368、1415
──何かが順調なときは、何かがおかしくなる。
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通り雨が過ぎ去ったのを見計らい、霧雨 魔理沙がいつもの格好でいつものように
博麗神社を訪れたのは、日が山の稜線を赤く染める夕刻のことだった。
愛用の箒から飛び降り、拝殿へ続く参道を歩く。湿った石畳の参道を踏みしめる
たび、水が勢いよく撥ねる音がする。
「霊夢ー?」
実入りの少ないことで有名な賽銭箱の前までやってきたが、目的の人物は見当たらない。
まあ、目的の人物がここにいること自体少ないことを経験則で分かっている彼女は、さっさと
裏手へと歩を進めた。
「霊夢ー?いるかー?」
だが、魔理沙の予想は裏切られた。
いつもなら裏手の縁側で、呑気にお茶を啜っている姿が、見当たらない。障子は開け放たれて
いるので、もしかしたら中で休んでいるのかもしれない。そう思い、もう一度名前を大声で
呼ぼうとして──
「お茶菓子ならないわよ」
障子の奥、居間の方から、御馴染みの呑気な声。続いて御馴染みの巫女服で、彼女──
博麗 霊夢が姿を見せた。
「さっき最後の一個食べちゃったから。次回の入荷予定は未定」
「そりゃ残念だな」
さして気にしない様子で、魔理沙は軽く笑い、縁側に腰掛ける。思ったより濡れていないのは、
雨戸でも閉めたからか。
「ま、お茶菓子はいいんだ。それより話がある」
「何かしら?夕飯は全く用意してないわよ」
「めしの話じゃないぜ」
こいつは私の事を一体なんだと思っているのか。そう苦笑しながら、本題を切り出した。
「宴会やろうぜ。宴会」
「…まあ一応聞くけど、どこで?」
「ここ以外に選択肢あるか?」
質問を質問で返すな。霊夢は軽く溜息をついて、しぶしぶ了承の構えをみせた。繰り広げられる
ある意味で地獄絵図と、いろんな意味で目も当てられない光景と、その後に待ち構える後片付けという
名の修行を思い出し、げんなりしながら。
「はぁ。で、いつ?」
「明日だ。主だった連中にはもう伝えてあるぜ」
とたんに曇る霊夢の表情。その急変ぶりは魔理沙に不審と疑念を芽生えさせるのに充分であった。
「無理ね。いくらなんでも急すぎるわ」
「別に今に始まったことじゃないだろ?」
気分屋や気まぐれが多いここ幻想郷では、今までにも度々戯れに宴会の日程が決まることがあった。
むしろ前もって日取られることの方が少ない。大抵はこのように、魔理沙や今は姿が見えない鬼の
伊吹 萃香や、他の人妖がまるでスペルカードルールのごとく、突然訪れて宴会の開催を宣言する
のである。
そして、会場の貸主にしてこの神社の主である霊夢は、計画性の無さに呆れながらも準備していく
のが、いつもの光景であるのだが──
「無理なものは無理。太陽が西から昇っても無理」
「おいおいよっぽどじゃないか。何かあるのか?」
一瞬、ほんの一瞬だが、魔理沙は傍らに立つこの巫女が視線を泳がせたのを見逃さなかった。自身の
抱く不審と疑念は、確信へと変わっていく。
「…今からちょっと、出かけるのよ。2、3日は戻らないから」
「また異変か?」
「別にそんなんじゃない。里から手伝いを頼まれてるの。樵夫の護りをね」
幻想郷では、人間を襲う妖怪が息づいており、霊夢は人里から度々そういった依頼を請け負っていた。
あんたも知らないわけじゃないでしょう、と彼女は付け加えて。
「ふーん。ま、それなら仕方ないな」
「ええ。次からはもう少し早めに言ってほしいわね」
「善処するぜ」
全くその気がない奴の科白よね、それ。口には出さなかったが、霊夢はそう考えて。
全く、もう少しマシな嘘をつくもんだぜ。口には出さなかったが、魔理沙はそう考えて。
わずかばかりの沈黙の後、魔理沙は勢いをつけて立ち上がると、立てかけていた箒を手に取った。
「帰るの?」
「ああ。日程が変わったことを伝えなきゃならないからな。素敵な巫女さんに断られたせいで」
「私の所為か」
「ま、その<里の手伝い>とやらが終わった頃に、また来るぜ」
里の手伝いという部分を心なしか強調して、箒に跨った魔理沙が、ふわりと宙に浮く。その一瞬後。
風と衝撃を残して、魔理沙は「星になった」。お得意の加速魔法だろう。
一人残された霊夢は、魔理沙が去った方角を見ながら、一人呟いた。
「里をダシに使ったのは拙かったかしら」
しかし、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。それよりも、早く行かなければ。あの様子では、
魔理沙は気付いたかもしれない。もしかしたら、宴会の話自体、私にカマをかけるための嘘かも
しれない。内心の僅かな焦りをおくびにも出さず、彼女は居間へ戻り、縁側からは見えないように
置いていたものを片手に一つずつ掴むと、再び縁側へ出た。
藍色の風呂敷と、リュックサックを手に。
どちらも中身が詰まっているのだろう、風呂敷は丸く膨れており、御召茶色をさらに濃くしたような
オリーブグリーンのミリタリー調のリュックも心なしか、全体的に張っている。
二つを傍らに置き、霊夢は軽く頭を垂れ、小言で何事かを呟くと。
ふいに、空気が割れた。
空気だけではなく、青白い光を放ちながら、霊夢の目の前が、割れた。
虚空にポッカリ開いた、人一人が通れるくらいの裂け目。
先は暗くよく分からないが、床と壁があることだけはかろうじて見て取れる。
「…よし」
顔を上げ満足そうに頷くと、靴を履き、リュックを背負い、風呂敷を掴む。それは完全に遠出の出で立ちで。
彼女は裂け目へ歩を進めた。その表情は、まるで待ち人に会いにいくような、わずかに喜びの混じったもので。
「ほんとうに、久しぶり」
誰に向けたのでもない呟きと共に、霊夢は裂け目の向こうへと消えた。
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──誰もが嘘をつくが、誰も聞く耳を持たないので問題にならない。
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「皆そろったかしら」
太陽は西の向こうへの傾き、月が東の向こうより顔を出す。
昼と夜の、曖昧な境界。
人間の時間と、妖怪の時間の境界でもある。
「魔理沙が、まだね」
「そのうち来るんじゃない?寄るところがある、と言っていたけれど」
この湖畔に聳える吸血鬼の館も例外でなく、主が活動を始める時間であり、館の雰囲気が変わるのも致し方ない。
もっとも、今日はすでに主はとっくに目を覚ましていたが。
かちり、と陶器があたる音。カップをソーサーの上に置くと、館の主にして、夜の王たる吸血鬼、
レミリア・スカーレットは薄く濡れた唇を開いた。
「まあいい。とっとと話を始めるわ」
「…巫女のことね」
いつもは図書館に篭り知識を貪り続ける魔法使い、パチュリー様が図書館から出るとは珍しい。いつもはお嬢様が、図書館まで出向いて一緒にお茶を嗜まれるのに。
やっぱり少しは、あの紅白巫女の事が気になるのかしら。それともただの暇つぶしかしら。
自身の主たるレミリアの側に仕えながら、この中では唯一の人間、十六夜 咲夜はそんな事を思った。
「噂は少し前に、私も耳に挟んだけれど」
「私も多少は聞いている」
そう言って、七色の人形遣い
アリス・マーガトロイドは、カップの紅茶を一口。お供の人形はテーブルの上、彼女の側でちょこんと座っている。
その隣には、人里の守護者たる半人半獣、上白沢 慧音が、難しい顔をして座っていた。
「週末になると姿をくらます巫女、ね…」
パチュリーの呟き。それがこの幻想郷の錚々たる面々が集まった原因である。
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それは数ヶ月前、霊夢が宴会の予定をキャンセルした事に端を発する。
いつものように思いつきで宴会を計画したが、その日はだめだ、他の日にしてくれとの霊夢の申し出に大して気にもせず、皆は了承したのだが。
次もまた、都合が悪いと断られ。その次も、そのまた次も。
流石に不審を持ち始めた彼女達は、楽園の素敵な巫女が一体どんな素敵なことを始めようというのかを探るため、こうして会合を持ったのである。
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「金曜、土曜、日曜は決して、宴会には参加しないし」
「その間は留守にしている」
「そして月曜の朝には、何事もなかったのように神社にいる、ね」
パチュリー、慧音、アリスの三人が、今まで自分達が噂に関して見聞きしたことを口走る。
「本当に留守にしているの?中で篭って、何かロクでもないこと考えているんじゃない?」
レミリアが疑問を口にしたと同時に、この応接間の扉が勢いよく開け放たれた。
「遅れたぜ」
白黒の魔法使い、霧雨魔理沙が堂々とした様子でつかつかと歩き、空いているアリスの隣に着く。それと同時に差し出される、一組のカップとソーサー。
「早いな。さすが瀟洒で完全な従者だ」
「ふふ。褒めてもそれ以上は何も出ないわ」
微笑を残し、咲夜は定位置へと戻った。
「で、どこまで話は進んだんだ?」
「誰も何も分からない、ってことは分かったわ」
魔理沙の問いに、パチュリーは紅茶を口にして答える。そうか、と一言の後、急に魔理沙はにやりと笑い、慧音を向いた。
「なあ慧音、明日里の方で大きな仕事でもあるのか?」
「ん?いや。私は聞いてないな」
一際深くなる魔理沙の笑み。それはどこか勝ち誇っているようで。
「おかしいなあ。霊夢の奴、明日は樵夫の護衛があるからって言ってたんだがなぁ」
「…どういうこと?」
アリスが口を開いた。
「嘘だよ、嘘。私に嘘ついてまで、何かしたいんだろうさ」
「何したいのよ?」
「それが分かれば、こうして集まる必要もないぜ」
そうして、魔理沙はカップに口をつける。
「…今までの理由、体調不良や急用も」
「おそらく全部、デタラメだな」
パチュリーの先を、慧音が続けた。
よく考えれば、週末にだけ予定が入ったり体調が悪くなること自体、そうそうありえないのだ。しかし霊夢は幻想郷を預かる博麗の巫女。
きっといろいろな仕事があるのだろうし、そのせいで体調がすぐれないこともあるだろうと、皆頭の片隅では理解していた。
おそらくそれを理解した上で、自らの行動を霊夢は隠し続けていたのだろう。
「霊夢は一体、何をしているのか…」
「ふふふ。知りたいかしら」
レミリアの言葉に答える、何者かの声が響く。しかしここにいる全員が、何者であるか大方の見当はついているので、誰一人取り乱しはしなかった。
「…お前を呼んだつもりはないぞ、隙間」
振り向こうともせずに、ただ紅茶を味わうレミリア。その後ろ、天井近くにそれは浮かんでいた。
虚空に走る亀裂。いや隙間というべきか。その縁に足を組んで腰掛ける、優雅でどこか胡散臭い女。
八雲 紫がそこにいた。
「つれないわね。せっかくあの子が何をやらかしてるか教えてあげようと思ったのに」
片手の扇子をぱたん、と閉じて、紫はカーペットの上に降り立った。どういう仕組みなのか、紫が飛び降りたあの隙間はぴったりとその口を閉じると、霧散してしまった。
「私にも紅茶、いただけるかしら」
「…咲夜」
「畏まりました」
従者の僅かな逡巡に気付き、主は指示を下す。ティーポットとカップが乗ったワゴンを押して、咲夜は魔理沙の隣に座った紫のもとへ歩み寄り、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。
「ふふ。たまの紅茶もいいわね」
「紅茶の話なら後でいい。霊夢の話だ」
ただの人間ならそれだけで気を失いそうな視線で、レミリアは紫を睨みつけた。
「何を知っている」
「何もかも、よ。隠し方がうまくて、私も気付いたのは最近」
そんな視線も全く意に介さず、ただ紅茶を味わう紫。
「霊夢がついた嘘の話か」
「違うわよ。結界の方」
結界?なぜここで結界の話が出るんだ?紫以外の全員が頭に?なマークがつきそうだった。
「まあ、あなたたちは結界をどうこうできる訳じゃないから、仕方ないけれど。あの子、博麗大結界に細工したのよ」
博麗大結界。
人間達が多く暮らす現代──いわゆる「外の世界」と、ここ「幻想郷」を隔てる、決して超えられない壁。幻想を呼び寄せ、溜め込む網。
そしてそれを管理するのは、この八雲紫と、博麗霊夢。
「結界に細工、だと?」
慧音の問いに、紫は頷いた。
「ええ。とても巧妙に、ね。正直言って、あそこまで出来るとは思ってなかったわ」
「一体霊夢の奴、何したんだ?」
魔理沙の疑問も、最もだ。
紫はふふ、と笑うと、先を紡いだ。
「結界に穴を開けて、扉をつけたのよ。それが一番分かりやすい例えね」
「あいつ、そんなことを…」
「ええ。しかも自身以外は開けられないように鍵までつけて、その上幾重にも隠蔽して、ね」
どれだけの力を使ったのやら、と少し呆れて、紫は溜息を漏らす。
「私が気付いたのも、ホント偶然みたいなもの。下手をしてたら、今でも気付かないままよ」
「じゃあ、霊夢の奴…」
「そう。あの子、私たちに隠れて外の世界に出入りしてるわ」
疑問が、氷解していく。
週末だけ姿が見えないのも。
自身の行動を、欺き続けていたのも。
そして残るは、最大にして最高の疑問。
「目的は、何なの?」
アリスがそれを口にした。ここにいる、紫以外の全ての人妖を代弁して。
次の言葉に、全員は耳を疑った。
「恋人と逢引、って言ったら、信じる?」
「な…!」
「へ?」
「は?」
「え?」
それぞれが、呆けたような顔をして。一方紫は、どこか微笑ましい顔をして。
「…お、おい紫。っここに来て冗談はななしだぜ」
「ふ、ふざけているのか!隙間!」
魔理沙は思いっきり動揺し、レミリアは騙されたと感情を露にして。
「んもう、信用ないのね、私」
「…自覚してるなら直せばいいだろう」
こめかみに手をあて、やれやれと溜息をつく慧音。大して気にも留めず、紫は笑みを浮かべたままで。
「なら、実際に見に行ったほうが、早いでしょ?」
次の瞬間、応接間には彼女達の姿はなく。
人数分のティーカップから、紅茶の湯気だけが静かに揺れていた。
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──思慮分別がある人間は何も成し遂げられない。
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「いたた…」
「何なのよ、一体」
「どういうつもりだ、紫…」
非難がでるのも致し方ない。
紅魔の館で紅茶を前にとんでもない事を告げられて、数瞬の後にこの所業である。
「ここは一体…」
瀟洒な従者が辺りを見回す。暗くて全容ははっきりしないものの、さして広くもない部屋のようだ。
床はどうやら板張りのようで、靴で軽く踏みしめると、ごつごつという堅い感触が返ってきた。
「ふふ。今に分かるわ」
誰もが「うわ嘘くせー」と疑念の目を浮かべるような笑みのまま、事態を追いやった張本人、八雲紫は
左手を軽く、彼女達の目の前の壁のようなものに当てた。
「でも、声を出しちゃだめよ。気付かれちゃうから」
言いながら、壁に当てた手をわずかに引く。
すると、その手にあわせて壁が動いた。まるで襖を開けたかのように、軽く、音もなく。
ほんの数センチ開いた、壁の隙間。幻想郷ではお目にかかれない、白く強い光が漏れる。隙間の目の前の
魔理沙は、思わず目を細めた。
「見て御覧なさい。そこにあるのが、真実よ」
紫の言葉に吸い寄せられるように、少しだけながら明かりに慣れた目で、魔理沙は隙間を覗き込み。
「なっ!”#$%」
目の前の光景に我を忘れて声を張り上げようとして、それはパチュリーの手によって塞がれた。
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──紫の策によって、魔理沙達が強制スキマツアーに参加させられる少し前。
キーを回すと、エンジンが低く唸るのを止めた。それと同時に、カーステレオも沈黙する。
助手席に置いてあったバックを掴んで、青年──□□は車を降りた。
辺りはすでに夜の帳が降りきって、建物の輪郭も曖昧で。
その中で四角く切り取られた家々の窓の白い明かりと、この砂利敷きの駐車場をぼんやりと照らす蛍光灯が、存在をはっきり示していた。
「終わった終わった。今日は飲むぞー」
ぐるりと軽く肩を回し、首を回す。階段を踏みしめる音も、心なしか軽い。
今日は世間一般でいう、「花の金曜日」。その後に続くのはもちろん、土曜日、日曜日。いわゆる週末である。
最も、□□の足取りを軽くさせているのは、それだけではない。
世間の大多数に漏れず、明日と明後日は彼も仕事の枷から解き放たれる日であり──
最愛の人に、会える日である。
階段を上りきり、アパートの二階へ。一番奥が、□□の部屋である。
玄関ドアの隣、台所の窓は──明るい。
さらに心が軽くなるような錯覚を覚える。
おそらく、夕餉の支度をしているところなのだろう。
玄関前に立った□□はドアノブに手をかけず、呼び鈴を押した。
ちょっとした悪戯だ。
「はーい」
ドア越しに聞こえる、軽やかな声。
間違いなく、今週も彼女は来ていた。
「宅急便ですー」
わざと太い声で答える□□。
うまく騙せただろうか、などと考えていると。
「っと」
突然ドアが開いたかと思うと、軽い衝撃を感じ。ばたんと扉が閉まる音を感じ、その次に心地よい圧迫感を、背中に回された手の温もりを、鼻をくすぐる甘い香りを。
「…おかえりなさい」
胸元に顔をうずめる、最愛の人──博麗 霊夢。
□□もその腕を、彼女の細い背中に回し、霊夢の耳元で囁く。
「本当に宅急便のあんちゃんだったらどうするんだ…」
「だってすぐ分かるもの」
即答である。
「□□の足音、□□の気配。私には全部まるっとお見通し、ってね」
「あのドラマ好きだな、霊夢も」
「こっちにいるときは、必ずでえぶいでえ、だっけ。見てるから」
でも、と付け加えると、霊夢は顔を上げた。
それはいつまでも見ていたいと思うような、春の陽気にも似た柔らかい笑顔で。
「□□の方が好き。もっと好き」
「…俺も」
抱き合う二人の顔が、さらに近くなって。
「ん…」
互いの唇を重ね。
やがてそれが名残惜しく、ゆっくりと離れると、二人はどちらともなく囁きあう。
「一週間って長すぎる。あの悪魔の狗にでも言って、時間を早めてもらおうかしら」
「はは。そいつはいいかもな」
咲夜本人が聞いていたら「不可能ね。というか絶対に嫌」とにべもなく却下されそうな事を、霊夢は口にした。
□□はそれに、笑って相槌を入れ。
「…汗臭くないか?一応職場の風呂は浴びてきたけど」
ふと疑問を口にした□□に、軽く首を横に振った。
「別に気にならないわよ。それに…□□の匂い、嫌いじゃ、ないし…」
さすがに少しは恥ずかしいのか、最後の方は尻すぼみになったが。
「霊夢は匂いフェチか」
「もう、ふざけないでよ。私今すっごい恥ずかしいんだから」
「悪い悪い。でも俺だって霊夢の匂い、好きだ」
ふふ、と微笑んで、霊夢は照れたように笑う□□を見上げた。
「□□だって、匂いフェチじゃない」
「そうかもな。全く似たもの同士だ、俺達」
「ホント。どうしようもないわね」
それでも、お互い満更でもないようで。
二人の体がするりと離れると、玄関の扉を開けて、素敵な巫女さんは最愛の人を誘う。
「早くご飯にしましょ。もうほとんど出来てるから」
「冷蔵庫に材料あった?」
「少しね。あとはいくらか、あっちから持ってきたし」
誘われるまま、□□も玄関をくぐり。
「今日は何かな、ってこりゃまた豪勢な」
「先週は来れなかったから、その分少し頑張ってみたの──」
幸せな、聞く人誰もが鼻から和三盆を噴き出すような幸せな会話は、扉の閉まる鉄の音と共に聞こえなくなった。
静かな夜の中に、虫の音が微かに響く。
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「ごちそうさま」
「お粗末様。お酒出す?」
「テーブルにある缶、先に空けちゃおうよ。飲まなかったらもったいないし」
「それもそうね」
あらかた食器を片付けた霊夢が、台所から戻ってきた。□□はテーブルから少し離れて壁に寄りかかり、時折手に持った麦酒缶をあおる。
「隣、いい?」
「どうぞ」
「…ありがと」
近くにあった座布団を自身の隣まで引くと、彼女は□□の用意したそれの上で膝を折り、隣に落ち着いた。
「霊夢のイメージって、正座だよな」
「そうかしら」
「あっちで世話になってた頃は、よく正座でお茶してるの見てたからかな」
傍らの缶を霊夢に渡し、何の気無しに呟く。
そのまま思考は数ヶ月前、□□が幻想郷で、霊夢の所で居候をしていた頃へ遡る。
「乗り物ごと幻想郷に、っていうのは珍しかったわね」
「ツーリング中だったし。トンネルを抜けたらそこは幻想郷だった、ってな。あん時は泣きそうだったよ」
「実際泣いてたしね」
いたずらっぽく笑う霊夢。□□は少しだけ、拗ねたように。
「いや、ありゃ泣くって。弾幕なんていきなり見せられたら」
「怖かったでしょう?」
「確かに怖かったけど、あれは妖怪に襲われかけた俺を守るためだったしな」
「正義の味方、なんていうつもりはないけど。それが博麗の役割だから」
ぷしゅ、と霊夢が、チューハイ缶のプルトップを開けた。
初めこそ苦戦していたものの、今ではすんなり開けられるようになった。
「缶開けるのもすっかり慣れたな」
「缶だけじゃないわよ。洗濯機も掃除機もコンロも、でえぶいでえもそれなりに使えるようになったつもりだけど」
「もしかしてまた、洗濯物持ってきたのか?」
「当たり前じゃない。洗濯板でごしごしなんてもう億劫でやってられないわよ。神社にも欲しいわね、あれ」
こちらに来るようになって、霊夢は洗濯物を必ずといっていいほど持ち込むようになった。一週間分溜め込んで、一気に洗って乾かして持って帰るのだ。
「もしかして霊夢、うちの全自動洗濯機が目当てなんじゃ…」
「そんなわけあるかっ!」
怒られました。
「うそうそ。冗談だよ冗談。マイケルじょーだん」
「さすがにそれは古いわよ…」
呆れながら立ち上がる霊夢を横目に、彼はとっくに幻想となったギャグに思いを馳せてみる。
「ねえ、足広げてくれる?」
「ん」
言うとおりに、フローリングの床に投げ出した両足の間を広げ、自分の前にスペースを作ると、彼女はそこに腰を下ろした。そのままゆっくりと、 □□に背中を預ける。
彼も霊夢の脇から両腕を回し、後ろから抱きすくめる格好になった。
「やっぱりこっちの方が落ち着くわ」
「素敵な巫女さん専用背もたれだからな」
「最高の贅沢ね」
頭を□□の胸に預けた霊夢の顔は、普段ほとんど見ることのできない、幸せと嬉しさに満ち溢れている。
「そういや袖、ないんだな」
「水仕事だと邪魔になるし、暑いじゃない」
いつもの巫女服なのだが、独立した袖の部分を取り払っているせいか、やけに涼しげに見えた。
腕の白い肌と、歳相応の華奢な肩のラインが艶かしい。
「なんか、その、色っぽいな」
「…助平…ちょ、ちょっと…」
からかうような霊夢の口調が一転、わずかに艶が混じった困惑に変わる。
□□は気にせず、彼女の肩に口付けていく。
「んんっ…ゆ、湯浴みしてからにしようよ…」
「ごめん、我慢できない」
霊夢の顔を振り向かせると、□□は顔を近づけ、軽いキス。
少し抵抗するような素振りを見せてもぞもぞと体を動かしていた霊夢はとたんに動かなくなり、□□に縋り付く。
「っはあ…霊夢、いい?」
「っ…はぁ、うん…」
長い滑らかな髪が、ばさりと床に広がった。
霊夢の体をゆっくりと横たえて、□□が覆いかぶさって行き──
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「こ、これは…」
「いろんな意味ですごい光景だな…」
アリスと慧音は、隙間の向こうで繰り広げられる甘い桃色の景色に、思わず息を呑んだ。
「ん?どうしたんだパチュリー?」
「何か私が止めなければいけない、そんな気がするのよ。そこまでよ!っていう科白が、頭の中から離れないわ…」
謎の衝動に駆られるパチュリー。一方の魔理沙は、再び隙間を覗き込んだ。縦に一本の隙間に、紫を除く全員が張り付いており、その顔は例外なく赤みが増していた。
「ひとつ、引っかかるんだけど」
「どうしたんだ?アリス」
「相手の男、見覚えある?」
アリスの問いに、レミリアが答えた。
「…記憶にないわね」
「だな。初対面だぜ」
他の面々も、次々に否定の意を表す。それを見たアリスも、そうよね、そのはずよね、と同意したが──
「でも、どこかで会った気がするのよ」
今隙間の向こうで、霊夢に口付けの雨を降らせている男、□□の顔を見た時から、思考の片隅に生まれた違和感。
初対面のハズ。でも、何かか違う。おかしい。それは遠い過去か、昨日か。曖昧でおぼろげな記憶。
「──私もだ。奇妙だな、顔も知らない人間のはずなのだが」
「話したことさえある、そんな気がするわね」
その違和感は慧音もパチュリーも、初対面と言い切った魔理沙にさえあった。
一体それが何なのか、彼女達にもはっきり分からなかったが。
空中の隙間に腰を下ろし、ただ僅かに微笑みを浮かべるだけの紫は、記憶を辿り始める。
──□□という青年が、幻想郷を去ったあの雨の日の事を。
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うpろだ1381
「夏も終わったなぁ。昨日が中秋の満月だろ?」
「相変わらず暑いけどね・・・」
「そうか?外の世界のが夏は暑かったんだが・・・」
「じゃ外の世界は地獄よ。」
縁側でぐでーっと寝そべっている霊夢の隣に座る。幻想郷の夏は言うほど暑くなかった。
いやまぁ夏である以上蝉は鳴くし、それなりには暑いが外の世界の夏はこんな物じゃない。幻想郷は外の世界の温暖化と関係無いのかもしれん。
「あんたもよく平気ねぇ・・・」
「まぁ幻想郷の人間は幻想郷でもへばるか。」
「何か涼しい物持ってきてぇ~」
霊夢が横目で見てきた。仕方ない。
ため息をついて、せっかく座ったばっかりだと言うのに立ち上がる。
・・・たしか奥の棚にまだ残っていた気がするが。
っと奥の部屋へと移動し、そこにある棚の中身を漁り出す。
「お、あったあった。」
目的の木箱を発見。この棚は霊夢の護符のおかげでひんやりしている。
そういや夏の頃はこの棚に手突っ込んでばかりいたな。霊夢。
縁側なだけまだマシか。
さっさと持っていってやろう。そろそろ三時くらいだし。
「何それ?」
木箱睨んでだれる霊夢。猫みたいだな。こいつ。
「あー、ワラビ餅。夏に涼もうと思って里で買った奴が結局手つけてないだろ?」
「あ・・・」
完全に忘れていたらしい。腐らなくて良かった。
「ほら。少ししゃんとして。」
霊夢の隣に座って木箱を開ける。「仕方ないわねぇ」とつぶやいて起きあがった。
木箱の中身は、ご存じワラビ餅、本来のワラビ餅って結構濁った色なんだなぁ。外で買っていたワラビ餅は無色透明で清涼感が出ていたが。
袖から爪楊枝を二つ出して適当に刺す。ワラビ餅独特の柔らかい感じが爪楊枝を刺激する。
「じゃいただきまーす。」
爪楊枝刺した瞬間に一口でたべやがった・・・こいつ。
「ん~ひんやりしておいしい~」
「やっぱりお前甘い物には目が無いないのな。」
「そりゃ女の子だもん。」
めちゃくちゃ満足そうで何よりだ。
「○○も食べたら?おいしいわよ?」
と言いつつもう三個目食べてるよ。まぁ食べやすいけどさ。ワラビ餅は。
「ん?じゃあ。ひょいっと。」
ひょいっとワラビ餅の一切れを口に放りこむ。柔らかい感じときなこの味がマッチして・・・・
「旨い。」
「でしょ?」
ふふふんと満足している霊夢。可愛いなぁ。
「何考えてた?」
「イエナニモ」
ジト目で俺を睨みながらもやっぱり爪楊枝は止めないのね。こいつ。
少女と青年間食中・・・
「さて、最後となった訳だが・・・」
「ねぇ○○。勿論譲ってくれるわねぇ?居候の身なんだし。」
「ん?これを持ってきたのは俺だぞ?」
「フフフフフ」
「ハハハハハ」
「「ふんっ!」」
小戦争勃発。双方爪楊枝で爪楊枝をはねとばして激しいワラビ餅争奪戦となった。
「食らえ!一念無量劫!」
「何の!天女返し!」
「ぐっ!」
めちゃくちゃ低レベルな争いです。はい。
とそんな事突っ込んでるうちに爪楊枝がリングアウト。霊夢の爪楊枝がワラビ餅へ直行し・・・
「もぐもぐ。」
人生の勝利者・霊夢
負け犬・○○
「むぅ・・・」
「あんたも甘いわねぇ・・・」
「惚れた弱みって奴かねェ。」
「んなっ!」
「へへ。赤くなった赤くなった。」
「全く、冗談でもそんな事言わない。」
「ん?あながちまんざらでも無いぜ?」
「ひゃうっ!」
すげぇ。赤くなってる。あの霊夢が。あいつも女の子らしい所あるんだなぁ。
「あらー。霊夢も可愛いわねぇ。藍。カメラ持ってきてー」
「「帰れ。」」
幻想郷は今日も平和です。
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うpろだ1386
最近調子が変だ。
博麗霊夢がそう気づいたのはつい最近のこと。
最初はささいなことだった。
掃除をしている最中に、唐突に涙が溢れそうになった。その時は風が目にしみたのだと思った。
縁側で一人茶を飲んでいると、隣が寂しく感じた。これは気のせいだと誤魔化した。
しかし、時が経つにつれ、何をしていても、それこそ寝ているだけでも孤独感を感じた。
「何かしら……」
思い当たる節がない。
最近姿を見ない紫のいたずらにしても雰囲気が違った、妙に手が込んでいるししつこすぎる。
魔理沙に、何か自分に変なことは無かったか?と聞いてみるも。
「そんなことを聞いてくる霊夢が一番変だぜ」
と逆にからかわれた。他に知っている人妖全てに聞いても似たような答えしか返ってこなかった。
「まいったわね…」
このまま頭がおかしくなっては困る。少し嫌だが永遠亭に行こう。
そう決心して神社に帰る。
――ガラガラガラ
玄関を開けるとそこはいつもの光景。だがやはり感じる既視感、そして孤独感。
「……ふぅ」
正体の分からないそれに気持ち悪さを覚えつつも、とりあえず茶を飲もうと戸棚を開ける。
――ハラリ
何かが落ちた、目を向けるとそれはスペルカードだった。
「私のじゃない…じゃあ誰の?」
既視感を今までに無いほど強く感じるそれに興味を抱かずにはいられず、カードの名前を確認した。
「○○…?人の名前かしら……」
その名前に懐かしさを感じて、記憶を探ろうとした、その時―
『そうだな…じゃあこのカードの名前には俺の名前をやろう!』
何処からとも無く唐突に響く男の声。
「だれ!!」
思わず叫ぶも、誰もいない。
『霊夢…たまには俺を頼ってくれよ、そんなに頼りないか?俺』
あるはずの無い声、聞いたことも無い――否、本当に?
「違うわ…私は知らない、こんなの知らない!!」
必死に怒鳴るも声は止まらない。
『霊夢、紫さんから呼び出されたからちょっと行ってくるよ、なんか大事な話があるらしくてさ』
「あ……あ…」
思い出してはいけない、そう思いながらも抵抗はできなかった。
全てが霊夢の頭を駆け巡る、消えていたもの、全て。
『…助かったよ…あの…君は?』
『俺は○○、まあしばらく世話になるよ、よろしく』
『霊夢、大丈夫か!!』
『何だ?もうしばらくここに住んでいいのか?』
『どうしてお前はいつも……』
『悪かった、ごめんな、霊夢』
『好きだ霊夢、結婚してくれ!!幸せにする!!』
次々と霊夢の中に響いては消えていく声。
「あ…ああああ…!!」
――ギシリ
何かが、軋んでいる。
『愛してるよ、霊夢……ごめん…』
――ガシャン
そして、壊れた――
「いぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
霊夢が気がついたとき、神社は酷い有様だった。
ほぼ全てのものは壊れており、大事にしていたはずの賽銭箱も粉々に砕けていた。
しかし、そんなことは気にも留めず霊夢は立ち上がると、周りを見渡し理解した。
これは自分がやったのだ、と。しかし、そのことに関しての後悔はかけらも感じない。
もはや全てがどうでも良かった、神社も巫女としての仕事も、賽銭もすべて。
「痛っ…」
壊している最中にどこかで派手に打ったのか、踏み出した右足が酷く痛かった。
「痛い…ですって?」
おもむろに呟くと、おもむろに右足を振り上げ思いっきり地面を踏みつける。
当然痛い、だが霊夢は気にせず、寧ろさらに勢いを増して繰り返す。
「こんな痛み…!!」
こんな痛みが何よ!!こんな痛みが………!!!
○○を――最愛の人の事を何もかも忘れていた私が、こんな…こんなくだらないもので済んでいいはずが無い!!
「うっっぐぅぅぅ!!」
忘れていた自分への怒りと○○を殺した相手への憎しみがない交ぜになり、まるで獣のような呻き声を発した。
「殺してやるわ……」
○○を殺した相手はわかっていた、八雲紫。
幻想郷全ての人間から○○だけの記憶を消して、痕跡もほぼ消去するなんて大それたことができるのは彼女だけだ。
さらに、最後に○○が会ったのも…彼女だけである。
「紫ぃぃぃ……紫ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!」
目からは血の涙を流しながら、憎悪そのもののような叫びをあげ、霊夢は飛び去っていった。
最早、博麗の巫女の面影はそこには無かった。
そこにあるのは、憎しみに身を焦がす一人の女がいるだけだった
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うpろだ1388
「残念だけど、あなたはもうこの世界には居れないわ」
珍しく静かな声で紫さんは言い放った。
冗談ではない事は表情を見れば分かる。
不思議なのは、妙に納得している自分がいた事だった。
それでも、やはりしっかりとした言葉で理由を聞きたい。
「理由を聞いていいですか?」
「霊夢――いえ、博麗の役割は知っているでしょう?」
「はい、あまり詳しくは知りませんけど」
「その為には大きな力が必要であり、それを持っているのが霊夢。そして最近、彼女の力が少し弱まってきているのよ」
「その原因が俺って事ですか」
「えぇ、そうよ」
俺の確認を、紫さんはもう寝るのか、と聞いた時と同じ調子で返してきた。
「これ以上、霊夢が弱くなると向こうの境界が曖昧になってしまうの。そうすれば向こうから迷い込んでくる人間が増え、ここは全てを受け入れるが故に耐え切れなくなる」
難しすぎて分からない。
いや、分からないフリをしているだけなのかもしれない。
そうしていれば霊夢から離れる事はない、と心のどこかでそんな望みのような物を持っているのかもしれない。
もちろん、そんな望みは叶わないという事も分かっている。
「その根源があなたであり、あなたが霊夢に近付かなくなればこの心配は消えるでしょう」
「つまり、近付かないと宣言すれば俺は消える必要もないんですね」
「あなたにそれが出来る?」
「愚問ですね、紫さんも分かっているはずです」
「そう、よね。出来るはずが無い」
その声に悲しげな色を含んでいた気がするのは、きっと気のせいだろう。
「なら、仕方ないんですかね」
「えぇ、仕方ないのよ」
俺が笑って聞くと、紫さんもいつもの笑顔で返してきた。
ただ、その笑顔はどこか無理して作られてるような、不自然さがあった。
何となく、そんな不自然な笑顔で見送られるのは嫌だな、と。
「どうせ消えるんだ、一つくらい願いを聞いてもらってもいいですか?」
俺の言葉に、紫さんは怪訝な表情をしながらも先を促した。
いきなり連れてこられて「消えろ」と言われたんだ。
これくらいの欲を言っても、バチは当たらないだろう
「一日だけ、猶予を。好きな女の子に心の底から"愛してる"って、言いたいんですよ」
それから一日の猶予を貰い、また紫さんに会いに行った。
「さぁ、一日経ったわ」
「そうですね。やる事はやれました。言いたい事も言えました」
あとは――
迷いなくこちらへと歩み寄ってくる紫さんの姿に、少しの恐怖を覚えてしまい、黙っていられなくなる。
「そういえば、俺が消えた後はどうするんですか?」
「幻想郷における全ての者に、あなたと過ごした今までのことを『無かった』ことにしてもらうわ」
俺の前まで来た紫さんが片腕を伸ばし、肩を掴んできた。
「それは賢い選択ですね。猶予を貰った一日が無駄になっちゃいますけど」
「――いいえ、無駄にはならないわ。ここにあなたがいた歴史は消え去らないのよ」
そう言い、一度顔を伏せる。
紫さんの手に力が込められ、肩を痛いくらいに握りしめられる。
「そう……消えない、のよ……」
「紫さん?」
俺が声をかけてからしばらくして、掴まれた肩から全身にかけてじんわりと感覚が無くなっていくのが分かる。
それが何を意味するのか、悟った俺は目を閉じる事にした。
「ここに――幻想郷に来て、後悔してる?」
目を閉じた暗闇の中、目前から聞こえる声。
柔らかく優しい、それでいて申し訳なさそうな、紫さんの声。
一番に思い浮かんだのは、やはり霊夢の笑顔だった。
それが引き金となったのか、霊夢だけではなく、みんなと過ごした日々が映像となって目の前を駆け巡った。
「いえ、ここに来なければみんなに会う事も無かった。こんなに一人の女の子を好きになる事も無かったと思います」
「むしろ感謝してるくらいですよ、ここに来て良かったって」
「ただ、欲を言えば最後まで霊夢と一緒に居たかった」
紫さんは何も言わない。黙って聞いてくれたのだろう。
ふわふわと身体が浮くような感覚。
もう、意識を手放す寸前で。
「ごめん、なさい、○○」
最後に聞こえたのは、紫さんの涙声だった。
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最終更新:2010年05月14日 00:48