魔理沙21
新ろだ951
「ちえっ」
小さな――悪態と言えるであろう呟きと共に、歩を進める少女がいる。やや積もってき
た雪をざりざり鳴らし、まるで踏みつけるように。
寒さのせいか首元にはマフラーが巻かれているのが常との違いだ。それ以外はいつもの
白黒。普通の魔法使い、霧雨魔理沙である。
「ったく」
再度悪態が漏れた。魔理沙の表情は普段よりも険しい。その顔を見るだけで彼女が怒っ
ているのだと誰もが認識できるだろう。
唇を尖らせながらぶちぶちと文句を言い、目を少し吊り上げているその表情は、魔理沙
にとっては珍しいのかもしれない。
怒るにしてももう少し快活に怒るのが魔理沙であるから。
「…………どこ行ったんだよぉ」
不意に魔理沙の様子が変わる。吐き出された言葉にはさっきまでの強さはないし、表情
も”しゅん”としたものになってしまっている。それまでの力強い足取りで無く、とぼと
ぼとした足取りで魔理沙は歩を進める。
怒っていたのも、そして今しょぼくれているのにも理由がある。
何処にも居ないのである。彼女の相方が。
クリスマスにしろクリスマスイブにしろ外の世界の習慣だが、誰が図ったか幻想郷でも
広く認知されている。そんな騒げる要素をこの楽園の住人達が見逃すはずもなく、現に今
日明日はあちこちでイベントが立ち上がっていた。細かいことは広がっていくうちにあち
こちで捻じれているようだが。
当の魔理沙はというと紅魔館でのパーティに参加するつもりだった。
ちなみに招待はされていない。
それを決めた魔理沙はまず人里へと赴いた。相方も誘おうと思ったからである。普段な
ら呼ばなくても勝手に家に来るのだが、何故か今日は来ていなかった。
珍しいと思いつつ家を訪ねてみれば不在だった。隣人に聞けば既に何処かに出かけたと
いう。それから思い当たる場所を回ってみたものの、結局見つかる事はなかった。
もしかしたら先に紅魔館に行っているのではないかと思いつき、魔理沙はそのまま紅魔
館に突っ込んだ。物理的に。
自分を誘わなかった事に文句の十や二十言ってやろうと意気揚々と参上したはいいが、
結局そこにも居なかった。
いい加減腹が立ってきた魔理沙は、もうあの変態は放っておいて自分だけパーティを楽
しもうと思い直していた。
でも楽しくない。
酒や料理はたくさんあったし、周りの連中も十二分に盛り上がっていた。
普段だったら朝までバカ騒ぎを続けられるだけの要素が揃っていた筈なのだ。
でも足りない。
隣が空いている事が、寂しくてしょうがない。
結局パーティも途中で抜けて、こうして家へと帰ってきてしまった。
「うー……さみー……」
魔法の森だろうが降る雪は関係なく積もり、周囲はもうすっかり雪景色である。そのせ
いか気温も相当低い。白い息を吐きながら、魔理沙はすっかり冷たくなった両手を擦り合
せながら呟いた。
いわゆるホワイトクリスマスなのだろうが、今の魔理沙にとって雪は寂しさを加速させ
るものでしかない。いっそマスタースパークで溶かしきってやろうか等と考えたりもする。
ふいに見やると既にある程度積もっている個所もあるではないか。
ようしと息巻いて懐から早抜きのように八卦炉を取り出して向ける。魔力の充填を始め
ようとして、その塊が白一色で無い事に気がついた。
はてと首を傾げて近付いてみる。雪の中から布のようなものがちょっぴりはみ出ていた。
「………………ま、さ、か」
それを見て一つの事柄を連想する。連想していやいくら何でもそれは無いだろうと思い
直すも、いやあいつならやりかねんとまた戻る。
それが嘘か真か、確かめるのは簡単である。
引っ張ってみればいいのだ。
雪を払いのけると布の面積が増えた。掴める程度まで雪を払いのけ、そこからは一気に
引っ張った。魔理沙は小柄だが魔法使いだ。身体能力をどうこうする術は少々心得ている
ので問題ない。
「………………………………オウフ」
ズボァーと、雪の塊の中から出てきたのは、行方知れずの魔理沙の相方であった。ちな
みに大分冷たくなりかかっている。
「何をしてるんだお前はあああああああああああ!!!???」
魔理沙の力の限りの絶叫が、雪の降り積もる魔法の森に木霊した。
■■■
「し、ししししし死ぬかとおもおおおももおおたたたた」
『死ぬかと思った』。そう発音したつもりだったが、俺の口は未だ冷気に侵されている
らしい。口から出てきたのは壊れたテープを再生したような変な音声である。
「さびいいいいいいいいいいい…………!!」
というか口どころか身体全部が支配下である。俺の意思なんてまるで無視して小刻みに
震え続ける身体。適度な熱を発するミニ八卦炉が神の賜物に思えてくる。
「ったく! 何を考えてるんだぜお前は!?」
魔理沙の怒号。次いでドカっという音と共に眼の前に置かれるカップ。中身は真っ黒な
液体だった。
「?」
「珈琲。熱いから気を付けろよ」
「あ、ああああああありがとととととと」
どうしよう魔理沙が女神に見えてくる。
いや元から女神超えてたか。
震えて自由の利かぬ手で何とかカップを掴む。カップの持つ熱で指先にしびれる様な感
覚が走る。これは指が回復するまで持ち上げない方が賢明かもしれない。
「ああああ熱が愛おしいいいいいいい……!!」
少し経ってようやくカップを持ち上げ、中身を啜る。外からではなく中に直接供給され
た熱が、じんわりと身体に広がり満たしていく。ちびちびと珈琲を啜る俺を見て、魔理沙
が溜息を吐く。まあ呆れられているのだろう。その割に何故か微笑を受かべていたが。
カップの中身が空になる頃、ようやく俺の言語機能は復活していた。
「ふひー生き返ったー……いやあ本当ありがとうございます魔理沙さん」
「見つからないと思ったら、まさか生き埋めになってるとは思わなかったぜ」
「面目次第も御座いません」
「で。何でまたあんな事になってたんだぜ」
「いやあ。来てみたら何か魔理沙が留守だったからさあ、待ってようと思って適当なとこ
ろに座ってたらついウトウトと」
「こんな寒空で寝るなよ……何時来たんだ?」
「最近寝不足だったんでーすよぅ。昼頃かな」
「そうか、私が出たのもその位だから、入れ違った訳だな。まったくもうあちこち探し回
ったのが無駄骨だったぜ」
「あれ? 何か用でした?」
「うん、まあ。今日明日ってクリスマスなんだろ? だから紅魔館に押しかけようと思っ
てな。どうせお前も――」
「誘われなかったら俺泣いちゃう」
「ほら見ろ」
「…………そうか。誘いに来てくれたのか。ごめん」
「いいぜいいぜ気にするな、そんな細かいこと気にする魔理沙さんじゃないぜ」
ぺこりと頭を下げるとからから笑いながらそんな言葉が帰ってきた。同時に頭をガシュ
ガシュと乱暴に撫でまわされる。魔理沙を撫でた事は無数にあるが、撫でられたのは初め
てかもしれない。ちょっと新鮮だった。頬がじんわりとしている。熱が回ってきたのだろ
う。少し気恥ずかしいのでされるがままになっておいた。頭を下げていれば顔は見られな
いし。
「うわっ本当に冷たいなお前」
「もうなんか体温的に氷精目指せると思うんだ、今の俺」
「目指すなよそんなもん」
何が楽しいのか俺の頭をわしわしと撫でつづける魔理沙。何故か一向に解放される気配
が無い。身を委ねるのもいいが、どうにも会話し辛いので落ち着いたところでこちらから
身を引いた。
「さてと。そういう訳なら仕切り直しますかね」
「ん?」
「今からでも行こうって話。多少遅くはあるけ、手遅れってほどじゃないだろ。どうせま
だ騒いでる途中に決まってるし」
夜も更けてはいるが、まだ深夜という程ではない。それに紅魔館の連中なら、どうせ陽
が昇るまで騒いでいるだろう。
「あー……うん、いいや」
「ありゃ、そう?」
快諾されると思っていたのだが、俺の予想に反して魔理沙はふるふると首を横に振った。
今から行くのが単に面倒なのか、それとも言葉とは違い実は怒っているのか。
「まあお前が行きたいって言うなら別だが?」
「いや魔理沙が行かないなら行かねえよ」
問うてきた魔理沙の顔はいつもと何ら変わりが無い。口調も態度もそうだから、怒って
いる事は無さそうだ。一安心。
「……なあ。寒いの、もう平気か」
「うん? ああ、もう大丈夫大丈夫」
「じゃあちょっと表出よう。どの道、ある程度顔出したら帰るつもりだったんだぜ」
魔理沙がにっ、と笑って戸を指す。
少々疑問を感じつつもその言葉に頷いた。
「ささささささささささささむむむむいいいい」
「大丈夫じゃないじゃないか!?」
「いいいやだだだだいじょうぶぶぶぶ」
「めっちゃ震えてるだろ!!」
「冗談でしたー」
「…………」
「すいませんでした!!」
表情を消した魔理沙がこちらにミニ八卦炉を向けたので、その場で土下座した。
顔全部雪に埋まるくらい深々と。
「ったくもう、そういう冗談止めろよ…………し、心配するだろ」
「ちなみに今土下座したせいで顔面の体温低下がクライマックス。雪冷たすぎじゃありま
せん?」
「このバカが!」
そんなやりとりを続けながら、雪の降る中をざくざく音を鳴らしつつ二人で歩く。家の
直ぐ前まで来た辺りで先頭の魔理沙が足を止めた。こちらも足を止める。
「よーし」
魔理沙がその場でくるりと一回転し、愛用のトンガリ帽子の淵に手をかける。
そうして、その手を高々と振り上げた。
「よく見てろよ!!」
気付くのに数瞬かかった。いや何か魔理沙の周囲がぼうっと光ったのは直ぐ解ったのだ
が、それは何らかの魔法が発動した証に過ぎない。その魔法がどういう効力を持っている
のに気付くのに時間を要した。
――雪が総て星形になっていた。
ちらちらと、決して勢いがある訳ではないが、しかし降り続ける白い雪。それが総て淡
い光を放つ星形になっている。
雪は特殊な形の結晶だが、それは拡大してみなければわからない。しかし今俺の周囲に
降る雪は眼で見てわかる程度の星形を保っていた。
試しに一つ手の上に救い取ってみる。それは普通の雪と同じように、俺の手の体温で少
しずつ溶けて形を崩していく。そして普通の雪とは違い、微かな光を散らしながら空気中
に消えていった。
「……すげえ」
「ふふん、大成功だぜ」
実際結構感動している訳だが、人間感情が一定を超えると逆に表現がシンプルになった
りする。というか今の俺がそうな訳だが。
星の雪が降る中、魔理沙が満面の笑みで立っている。星だけでも綺麗なのに、その中に
魔理沙が加わるともうどうしていいか解らない。胸が詰まって言葉が出てこない。
「これ……どうしたのさ」
「ん。クリスマスってのは騒ぐのもあるけど、親しい奴には贈り物をするんだろ?」
驚いた。てっきりバカ騒ぎできる日程度の認識しかしてないだろうと思っていたのに。
まあバカ騒ぎはともかくお祭りのような物であるのは合っているが。
ちなみに俺は教えていない。意地悪とかで無く、後々のサプライズに利用しようと思っ
ていたからだ。
「じゃあ、これって……」
「お前にやるよ。私の贈り物は」
輝きが降り続ける世界の中で、魔理沙が両手を広げて言った。
「――”これ”だ」
「いや、その、ありがとう……すげえ嬉しいよ……」
「ふっふっふっ」
魔理沙がとても満足そうに――若干小悪党じみているともいえる笑いをこぼす。
俺の方はというと感動が強すぎて上手く言葉に出来ないでいる。本当はもっと感謝を伝
えたいのだが、思考が上手く回らない。
魔法は決して万能ではない。何かを起こす為には相応の対価が必要になる。目に見える
周り総ての景色が輝いているから、これは相応に大きな魔法だろう。
きっと準備に手間も時間がかかっただろうに。それを思うと、もっともっと感謝の意を
示したいと思う。目の間で笑っている女の子にそれを伝えたくてたまらない。
「ええと、そのさ。正直後だしにはレベルが不足してると思うんだけど……」
「ん?」
一歩前に出て、魔理沙の方に近付いた。ポケットから箱を取り出して、それを差し出す。
「これ俺の方から、プレゼント」
掌に乗る程度の小さな包みだ。一応リボンでラッピングしてあるが、この景色に比べた
らどうも見劣りする気がする。いやそもそも”中身”が釣り合っていない。果たしてこの
景色に対するお返しとして十分なのかどうか。
「開けていいか?」
やっぱ止めようか等と考えている間に、小箱は魔理沙の手に移っていた。既にリボンに
手がかかっている。今にも開けそうだ。
「どうぞ。うん、そんなにさ、大したもんじゃないんだ、本当」
「……あ」
中身はペンダント。銀細工で、星が幾つか連なった形。中央辺りに小さな加工した鉱物
が嵌め込んであるものだ。
「これ、くれるのか。私に?」
「ごめん……こんなに綺麗なもの用意してくれたのに、俺そんなのしか用意してなかった
や。こんな事なら、もうちょっとちゃんとした、良い物――」
「いいや! もらったからな! これは私がもらったからな!!」
言い淀む俺に対して、魔理沙の方は怒号に近いくらいに声を張り上げながらペンダント
を掲げて眺めている。
「付けてみる!」
「一応、ちゃんと作ったつもりだけど、やっぱ形とかアレだから、もし気に入らないなら
返し――」
「待て。お前今何て言った?」
「気に入らなかったら――」
「その前」
「ちゃんと作ったつもりだけど」
「作った? お前が?」
「うん。石以外の素材は調達したけど、デザインも加工も殆ど俺がやった。だからちょっ
とあちこち粗が……」
「ぜっっっっっったい返さない!!」
ペンダントを胸で抱くようにして抱え込み、魔理沙が身を捩った。その動作があまりに
も力一杯だったのでちょっと笑ってしまう。
ふいに魔理沙があ、と声を上げると身体を戻し、こちらに近づいてくる。そして持って
いたペンダントをこちらに差し出す。
もしかしてクーリングオフだろうかと俺が心中で冷や汗を流していると、魔理沙は俯き
ながらぽつりと呟いた。
「つけて」
か細い声。普段と違い、快活さで無く恥じらいに満ちた声。表情は帽子に隠れてよく見
えない。だから帽子を取った。
「あっ……」
耳まで真っ赤なのは、多分寒さのせいじゃないだろう。帽子を取り戻そうと手を伸ばし
てきたので、帽子を自分で被った。身長差があるから、これで手は届かないはずだ。
「か、かえせよぉ……!」
「付けるんだろ。帽子があったらよく見えないって。だからボッシュート」
「うぅ……」
ペンダントを手から取って、留め金を外す。鎖を魔理沙の首に回して、ちょうど後ろの
辺りで金具を留めた。そんな事をすれば体勢は当然抱き合う一歩手前まで近づくことにな
る。事実目の前には魔理沙の顔があった。
「……えーと、メリークリスマス」
「何だ、それ?」
「こういう挨拶するんだよ。外はな」
「そうか、じゃあ――めりーくりすます」
「ああ、メリークリスマス」
魔理沙の胸元で銀色のペンダントが、星の雪に照らされて光っている。ご要望通りに付
け終えた。もう離れるだけだ。そう解っているのに、首に回していた手を魔理沙の肩に置
き直す。そのまま顔を前に出そうとしたところで、唇に感触。考えている事は同じだった
のか、こちらがする前に向こうからキスされる。
ちょっと面喰ってしまったのが情けない。なので、離れた隙を狙って不意打ち気味にも
う一回。今度はこっちからキスをした。
肩に置いていた手を下ろし、手探りで魔理沙の手の先を探す。直ぐに見つかったそれ、
魔理沙の指とこちらの指を絡めるように握る。さすがに外は冷えるからか、魔理沙の手も
ちょっと冷たくなっていた。
星の雪が輝く世界の中で、絡めた手が温かくなるまでキスをし続けた。
「えへへへへ」
ソファにだらしなく、身を沈める様に寝っ転がった魔理沙がそんな甘ったるい声を出し
ている。胸元で揺れる銀細工を掲げて、灯りに当てたりして、飽きる事無く眺め続けてい
る。そうして時折にへにへ笑うのだ。
何か渡した後はもうちょっと造形頑張れたんじゃないのかとか、デザイン駄目なんじゃ
ないかとか後悔が結構押し寄せていたりする。でもあんな顔が見れたのだから、頑張った
意味は十二分にあった。なに、今回の不満後悔は次に生かせばいい。
ちなみに指輪にしようか二週間悩んだのは秘密な。
「うえへへへへへ」
いかん何か蕩けているぞあのお嬢さん。
「まあ。気に入ってもらえたら、何よりだよ」
「正直な。すっごく嬉しいんだぜ。とんでもなく手がかかってるだろ、これ」
「……んな大袈裟な。素人細工だって」
「だとしても……いや、だからこそ嬉しいんだよ。えへへへへへ」
駄目だ。何かめちゃくちゃくすぐったいぞ。
「……あ。もしかして寝不足だったのって」
「うん。まあ結構ギリギリだった」
「そうか……うーむ」
魔理沙はソファからがばっと起き上がり、腕を組んで何やら思案している。そうしてふ
いにこちらを見たかと思うと、両腕を広げて見せた。
「よし! 来い!!」
「なになになに!?」
「お前寒そうだから私が直にあっためてやるぜ!!」
「落ち着け! とんでもない事口走ってるから!!」
「本気だぜー?」
にやにや笑いながらこいこいと手招きする魔理沙。
「いやでも、ほらもう寒くないし! 大丈夫だって!!」
ちなみに今の俺は毛布のお化けみたいにぐるぐる巻きになってます。何だかんだでずっ
と外に居たせいか身体は結構深刻な熱不足だったらしい。
「…………嫌か?」
断れるかこんなもん。
ふらふらーと引き寄せられるかの如く近付いて、そのままぼふりと抱き付いた。
ちょっと目測を誤ったので、俺の頭はちょうど魔理沙の胸辺りに位置してしまっている。
さすがにこれは怒られるかと思ったが、そんな事は無く。むしろ胸の位置に来た俺の頭を
魔理沙が抱え込むように軽く抱き、そのままソファに揃って倒れこんだ。
酷く暖かった。後柔らかい。いい香りもする。抱き枕ではこうはいくまい。
そう間を置かずに、魔理沙の体温がじんわりとこちらに伝わってくる。それに加えて香
りが酔う程に濃い。至近距離なのだから当り前だが。
俺の頭を抱えたまま、魔理沙がぐりぐりと俺の頭に頬を擦りつける。こちらはより顔を
埋める様にもう少し強く抱き着く。身体へ回した腕の先の指で、黄金色の髪を絡めて弄ぶ。
特に会話も無く、体勢を変えることも無く、ただそうやって抱き合っていた。
というか意識がやばい。
さっきも言ったが結構時間ギリギリだったのだ。驚かせようと思って、そういう素振り
は悟られないようにしていたし。瞼が勝手に閉じていく。何か声を出そうと思って口を動
かすが、声にならない音が漏れるだけだった。
耳元に温かく、少しぬるりとした感触があるのを感じ取る。これはもしかして耳を甘噛
みされているのだろうか。ただ俺の顔は強くは無いがしっかりとホールドされているので
視線は動かせない。魔理沙がどういう表情で何をしているかは解らないのだ。
それに限界が近い。動かした筈の首も腕も、意思に反して動くどころか力が抜けてだら
んとしている。
それでも何とか抗おうと、ギリギリの淵にあった意識は、
「――――ありがとう。おやすみ」
そんな甘さを含んだ囁きを合図にして、眠りの中に落ちて行った。
それがイブの出来事。
翌日――つまるところ当日はというと。
「待って! タイム! 本当にタイム! 本当に素人仕事だからそれ!! だから物理的
に隠してくださいお願いします――ッ!!!!」
「やーなこった!!」
贈ったペンダントを誇示するように、胸を張った魔理沙があっちこっちを回るのを後ろ
から追いかけまわす一日になった。
行く先々でからかわれるわ、騒ぎに巻き込まれるわで、結局クリスマス当日は忙しく騒
がしい一日だった。
二人っきりの時間はあまり無かった気もするが、何だかんだで楽しかったから構わない
だろう。
それに、二人の時間はこれから無数にあるのだし。
新ろだ1019
2月14日。霧雨邸。
「なーんか最近外の世界のあれやこれやが輸入されてる気がすーるなあ」
幻想郷新参の俺がこんな事を言うのもおかしな話だろうけど。
2月14日と聞けばバレンタインデーを思い出すのは割と当たり前の事だが、それはあくま
で”外”での定義だろう。幻想郷内では行事はおろか、そもそも単語自体が存在していな
い筈である。
だというのに当日になっていればさも当然とバレンタインが行われているのだから不思
議に思いたくもなるものだ。
「チョコがもらえるんだからいいじゃないか?」
首を傾げた俺を見て、呆れたように魔理沙さんが仰った。
バレンタインがさも当然のように幻想郷に存在していた事をひとまず置いておこう。
問題はそれだけじゃない。定義が何かおかしいのである。
――俺の知る限りバレンタインはチョコを投げまくる日では無かった筈だ。
洋菓子版の節分じゃあるまいし。
そもそも何を祓うんだ。
いやむしろ寄ってくるじゃないか。
ともかく現実幻想郷にバレンタイン広まっていると言う事は、当然誰かが広めたんだろ
う。ま、それが誰かはこの際あまり関係ない。
問題なのは過程だろう。
推測だが、人から人へと伝わる際に、バレンタインという日に行なう行事内容が変質し
てしまったに違いない。
「こいうの伝言ゲームの恐怖なのかねえ」
しみじみと呟いた俺を見て今度は魔理沙が首を傾げていた。
「まーそれにしても大漁でしたねえ」
説明するのもやや面倒なので、話題を変える事にした。視線をテーブルの上にどっさと
乗ったチョコの山へと向ける。
そんな風に幻想郷のバレンタインは俺の知るものとはかけ離れており、とりあえずチョ
コをばら撒くとか、投げつけるとかそんなものになってしまっていた。一部の正しい知識
を持っていた部類は流石にそうなっていなかったが、大多数が間違った認識のまま洋菓子
を獲物としての大雪合戦の有様である。
で、俺と魔理沙は投げまくられるチョコをひたすらパク……じゃなかったギッ……でも
ない、そうそう蒐集。蒐集しまくった訳だ。
戦果は何か思いのほか凄まじく、おかげで当分おやつには困らない有様である。気を付
けんと何の変哲も無く糖尿になりそうだ。
「私はともかく」
蝙蝠の形――これだけで何処のか言うまでもない――を片手で弄びながら、魔理沙がふ
いに呟いた。
「お前、随分乗り気だったな?」
「……………………」
「……ん?」
「俺は魔理沙の後を付いて行くって行ったじゃないかっ!!」
「そんな台詞は聞いた事ないが、とりあえず私の目を見てもう一回言ってみろ」
窓の外を見ながら高らかに叫んだ俺に冷たく言い放った後、魔理沙がやや小さな両掌で
俺の顔をわっしとホールド。そのまま力任せにぐいんと顔を向ける。
背丈は俺よりずっと小柄ながら流石魔法使い。敵いやしない。ええ、実は大人げないく
らい全力で抵抗していたりするのに。
「か……顔が近いよう……」
「気持ち悪い」
「……あの地味にヘコむんですけど」
「で、本音はなんーなんーだーぜー」
むう。これは譲ってくれないパターンと見た。
しょうがない、答えるとしましょうか。
「――投げてるのが女の子な以上全力でもってキャッチせざるを得ないでしょう?」
「ああ、相変わらず私には理解できん理由か」
サムズアップした俺を見て、魔理沙は酷く冷たい目をしていた。
「それにしても」
さて、集めに集めたチョコであるが、無論このまま置いておく訳にもいかない。
で。食べる事になった訳だ。
まあ当然の流れではある。ただ俺の眼前には小さな鍋が一つ。中にはええ感じにとろっ
たチョコがどろっている。何か我ながら頭の悪い表現だが、要は溶けたチョコが溜まって
いるってことだ。
「チョコフォンデュってのにどうして行き着いたのか若干疑問に思わざるをえない」
「んー……」
俺の疑問の声に魔理沙からのちゃんとした返答はなく、生返事のみ。視線をこっちに向
ける事なく、魔理沙は火加減を見つつどろんどろんになったチョコをかき混ぜる。
「アリスから聞いたんだが」
「もうその名前だけでエマージェンシーなんですがねえ……?」
某マーガトロイドさんのせいで俺はすっかりヘタレ呼ばわりである。違うやい。俺は奥
ゆかしいだけなんだ。
「バレンタインって、本当は親しい相手にチョコを贈るものなんだろう?」
「んー……まあ厳密にはそれも二次的なものではあるんだけど、まあ世間一般的な認知で
はそれで合ってるんかね」
「家族とか――恋人とかに」
どうしよう、顔を伏せた魔理沙から何かただならぬ気配を感じる。理性と本能が頭の中
でヒアウィゴー……あれ、退く選択肢最初から無し?
「――ほら」
よく考えるまでも無く、チョコフォンデュは果物やら何やらに溶けたチョコを付けて食
べる食べ方だ。それはつまりチョコだけでは出来ない食べ方である。
どうしてここには――溶けたチョコ意外何も用意されていないのだろう。
「”これ”、私からのバレンタインチョコだぜ」
「――ッ」
溶けたチョコを絡めた、魔理沙の指が鼻先に突き出される。チョコレートが灯を受けて
てらてらと光っていた。それにしても近い。顔を少し動かせば――動かさなくても、舌を
ほんの少し伸ばせば、そのチョコレートに塗れた細い指に到達するだろう。
「まり、」
「はやくしないと垂れちゃうな」
こっちの言葉を封殺するかのようにぴしゃりと言い放たれる。俺の顔がどんな惨状にな
っているかは鏡が無いから判別する事は出来ない。反して見える魔理沙の顔は赤い。耳の
先まで真っ赤だ。露出している肌の部分は完全に熱が入ってると見て間違いないだろう。
ただ、その目は思いのほか――いやまるでブレていない。どころか何やら光を灯しなが
ら、じいっとこっちを見つめ続けている。
俺は別に壁を背にしている訳ではないので、退こうと思えばいくらでも退ける。でも身
体が後ろに動くことはなく、むしろ少しでも気を抜けば前に傾きそうな有様なのが正直な
ところである。だがここで前に傾いたら、何か切れてはいけないモノが切れてしまう気が
する。
”受け取り”を拒否するつもりは皆無だが、このまま進行してしまうのはよろしくない。
思考の端に麻痺するかのような感覚を自覚しつつも、意を決して今は首を後ろへ――
「えい」
動かす前に、口の中に指をねじ込まれた。
「言っておくが、受け取り拒否は許さないぜ」
何があったのこの子。
何で今日はこんなに攻め攻めなの。
「お前の趣向は相変わらずよくわからんがな、それでもお前が”他の女の子からチョコ
レートを受け取って喜んでいた”と言う事は私にも解読出来るぞ」
今更解った。さっきの冷たい目はてっきり何時もの蔑みだと思っていたのだけど、どう
やらもっと単純に――怒っていただけらしい。
「……ッ」
真っ赤になってぷうと頬を膨らませたその表情は愛らしいと言えるのに、こっちの口腔
に突っ込んだ指はゆっくりと口蓋を撫でる。チョコレートに塗れたままの指先で。
感覚が麻痺して行くような気がした。それは視覚と触覚の受け取る情報のギャップのせ
いか、それとも単に刺激が強すぎるだけなのか、はたまた俺の精神がコンニャクなのか。
「……んっ」
少しだけ動かした舌が指の表面を這った。くすぐったのか、魔理沙が小さく声を漏らす。
いい加減我慢の限界というフレーズは割と見かけるが、この場合、限界なんてタガはとう
の昔に決壊しているのが正しい。
「えっ、な――」
さっきからずっと宙ぶらりんだった両腕で、魔理沙の伸ばされている右腕をがっしと掴
んだ。逃げられる心配が無くなったので、さっきからずっと口の中にある細い指の――そ
の表面に舌を這わせる。というか、もっとストレートに言うと、”しゃぶる”。
「ふっ……ん……」
外に出てきた指先と、口とで唾液の糸が繋がっている。もうその画だけで頭がくらくら
する。すっかり流されてしまっているのは俺だけでないのか、魔理沙の方も先程までとは
趣の違う光を瞳に宿している。熱に浮かされたような焦点が合っていない様に見える――
でも瞳はいまだこちらを見続けている。
チョコレート塗れで真っ黒になっていた筈の指先は、すっかり何時も通りの肌色に戻っ
ている。でも口の中に入っていなかった部分にまだ少し残っていたので、改めてそこから
もチョコレートを舐め取った。魔理沙が手にうっすら汗をかいていたのかもしれない、さ
っきと少し味が違った。
確認を取る事も無く、掴んだままの魔理沙の腕を傍らの小鍋へと持っていく。抵抗はな
い。むしろ逆だ。魔理沙の方もこちらの動きに合わせるように腕を動かしている。
自分の手ならともかく、手首を掴んだ他人の手であるので少々力加減を誤った。指先ど
ころか手のほぼ全体が溶けたチョコに浸かり、手首の先がほとんど真っ黒になってしまっ
た。それを構わず持ち上げて――さっきの位置へ、口先へ。ぽたぽたと黒い雫がテーブル
や副の上に落ちているが、それを気にしている余裕はないし。そもそもする必要が無い。
舐める舐めとる舐め尽くす。少しずつ少しずつ、そして満遍なく。今もなお滴り続ける
チョコレートに構いもせず、指を舐め続ける。
「……っ、……ぅっ」
溜息のもう少し手前のような、嗚咽のような小さな声の成り損ないが聞こえてくる。掴
まれて舐められているのとは逆の指先は、魔理沙自身の口元に運ばれて銜えられている。
きっとくすぐったくて声が出てしまうのが恥ずかしいのだろう。そんな事よりもっとず
っと恥ずかしいことをもうしてしまっているのに、今更だとも思うけど。
というかこれは、恥ずかしいというか、変なことかもしれないが。
「…………ふ、ふぅ」
「…………っぁ、」
指先の感覚に集中しているのか、それとも声を我慢するのに必死なのか。どちらにリ
ソースが割かれているかは知らないが、魔理沙は俺が腕を片方離した事に気がつかなかっ
た。指先からチョコレートを丹念に舐め取る作業を続けながら、そろりそろりと指先を鍋
の中へ、数回振って、指先にチョコレートを付ける。
「声我慢しなくてもいいのになあ」
自覚が無かったのか、俺の言葉に対して魔理沙は肩をビクリと震わせた。
「が、我慢なんか……してない……」
ああやっぱり。
「時に」
そう言えば、口から指を離すと思った。
「外にはね、逆チョコってのがあるんだよ」
このために気付かれないように位置を調整していた腕を素早く動かして、魔理沙が反応
する前に、その唇にチョコレートを付ける。
「ああ、失敗失敗」
片方の腕はもう掴んでいる。だから、空いている方の腕で、さっきまで銜えられていた
指先の根元を――手首をやんわりと掴んだ。
「口の中に、入れないと」
抵抗は無いし、もし――万が一されたとしても、たぶん力尽くでどうにかしようとした
かもしれない。みっともない話、その位壊れていた。
くちづける。
唇の周りに付いたチョコレートを舐め取って、唾液と混じってしまったそれを流し込む。
身体が勝手に前のめりになって、段々魔理沙に覆いかぶさる形に変わっていく。
それでもやはり抵抗はなくて――むしろ、向こうは向こうで倒れて行っているような気
すらする。
「…………っ、」
「ん、……ぅ――ん、――ッ!?」
魔理沙の舌を探り当てて、それを吸った。舌を絡めながら、魔理沙の小さい口の中全部
に舌を這わせて、そこにあった唾液を――チュコレート混じりで酷く甘ったるくなってし
まったそれを、一滴も残すまいと吸って、無くなったら舌を強く吸って。息が切れた事で、
それら全部を嚥下した。
「飲んじゃったよ……飲ませなきゃいけなかったのにな……」
「あ……ふぁ……」
もう指先に付いたチョコは乾いていたし、そもそも量も残っていなかったので、未だに
多量のチョコが付着した魔理沙の手に再度舌を這わせた。傍らの鍋に残っているのだから、
そっちから補給するのが正解だろうけど、もうそれすら考えられなくなっていたんだろう。
俺は両腕使って魔理沙の両腕を掴み上げている状態だけれど、そもそも魔理沙はその程
度振りほどける筈だ。口の中にチョコを補充した俺を見て、魔理沙が小さく息を飲んだ。
「ああもう、どうしてくれる……理性の弱さを自覚してるから、普段こういう空気になら
ないようにしてるのに……」
濡れた瞳は拒むどころか待っているように見えた。
両手を離して、魔理沙の後頭部と腰に回した。ゆっくりと体重を傾けていって、そう時
間もかからずにボスンと言う感触と共にソファの上に着地した。
「ぜ……全部は……駄目だからな…………前みたいに丸一日、動けなく、なっちゃう……」
「い……今更、そういう事言うか…………」
言葉はそんなのなのに、両掌をしっかりとこっちの掌に絡めてくる。片方はチョコが付
いてベタついていて、動かす度に耳元でにちゃにちゃと音がした。
身体から一切の力を抜いて、重力に身を任せたい衝動を足蹴にしつつ、覆いかぶさった
状態で魔理沙に口付ける。今度こそ、口の中にあったチョコレートを流し込んだ。
耳元で、にちゃにちゃと音がした。俺が動かしていないのに音がすると言う事は、もう
”片方”が動いている事だ。わざわざチョコレートの付いた腕を動かしている。
もっとして、と。
おねだりされている。
リザルト。
半日行動不能。
~eternalnocturne それが君と奏でる曲~(新ろだ2-023)
ああ、俺はどうすればいいんだ、人生でこれほど悩むことがあるなんて思わなかった
~eternalnocturne それが君と奏でる曲~
「朝か…」
いつもはさっぱりと目をさましてくれる、太陽の光も、心地よい鳥の鳴き声も、今はただの汚い光で耳障りなうめき声だ
「…顔洗えばすっきりするだろ…」
ひどくけだるい体を無理やり動かして、外の井戸に向かった
昨日、俺は大分夜更かしして酒を飲んだ、それくらい自棄になっていた
何か嫌なことがあったわけじゃない、ただ突然浮かんだ不安を忘れるために酒を無理やり流し込んだ
でも…忘れられなかった
パチャパチャ…と、異常なほど冷たい水で顔を洗う、目は覚めても、気持ちは覚めない
こんな俺の心も知らず、空は雲ひとつない快晴だった
「おはようございます、慧音先生」
「ああおはよう…○○、どうした?ひどいクマだぞ…」
仕事場の寺子屋で慧音さんに挨拶をしたら第一声がそれだ、そんなにひどいクマなのか…
「ちょっと調べごとで、遅くまで起きてたんです…」
「ふむ…無理をするなよ、自分の健康を第一に考えるんだぞ」
「はい…ありがとうございます…」
無理矢理、不格好な笑い顔で心配かけまいとする俺を、心のどこかの俺が嫌に冷静に無様だと嘲笑った
「きつくなったら言えよ…ああ、そう言えばさっきお前のことを妹紅さんが探していたぞ」
「え…?妹紅さんが?」
内心俺は心臓が砕け散るほどに動揺したが、そこは抑え込み動揺をなるべく表に出さなかった
「ああ、なんでもお前を探しているそうだ、仕事が終わった後で人里南のはずれに来てほしいそうだ」
「はぁ…じゃあ、仕事の後に妹紅さんと合流しますよ」
「うむ、そうしてくれると助かるな…じゃあ、今日は五時限目の歴史に必要な資料をまとめておいてくれ」
「はい、わかりました」
思考の暴走をぎりぎりのラインで押さえ続け、寺子屋の資料室に向かった
「…駄目だ、仕事に全然集中できない~」
お昼ちょっとすぎまで今日つかう資料を整理していてもまだ仕事が終わらない
「○○…重症だな、そこまでできたのなら十分だ、あとは私がやっておく」
と、そんな資料室で悶絶する俺に慧音さんが声をかけてきた
「え、俺の仕事だし、そんな…」
「かまわん、どうせそんな状態では仕事までほとんど手がまわらんだろう…悩みでもあるのか?」
「え…?別に…」
「隠すな、そんな状態では仕事もろくにできんだろう、悩みを解決して来い、そして明日からすっきりさっぱり心機一転…」
そこで慧音さんは一呼吸おいて
「決着付けて、仕事に集中できるように、心身ともに整えておくように」
「…すいません、ありがとうございます」
慧音さんに感謝を抱いて寺子屋を後にした…昼休みに遊んでいる子供たちがまぶしく見えた
「…やれやれ、○○の奴、あれで隠せているつもりなのか…?恋慕の情で悩んでいるのがあれほど明確にわかる奴もそういるまい…」
苦笑いしながら慧音は資料の整理に移った
新ろだ2-121
“魔が差した”という言葉がある。
ふと湧き起こる出来心。邪念。こんな言葉が似合う状況といえば、往々にして良からぬ物と相場は決まっている。
これから語る小さな事件は、唾棄すべきと言っても過言ではない、出来る事なら記憶から引きずり出して丸めて
ポイしてしまいたい人生の汚点であり、誰も目を通さずに闇に葬られる事を願わずにはいられない。
そう、敢えて言い直そう。魔が差したのだ。
光陰矢の如しとは良く言った物。あれだけ冷え込んだ卯月ともあっという間に別れを告げ、もう皐月である。
暑さより寒さを好む身としてはこれから来るであろうじりじりと肌を焦がす季節に若干憂鬱にならざるを得ない。
深々と降り積もる雪が恋しくてたまらない。いや、そんな誰に聞かせる訳でもない個人的嗜好などどうでも良い。
今専心を向けるべきは目の前に鎮座している一つの造形物。黒と白のエプレンドレスに同じ配色の先の尖った帽子。
眩い金髪のナイスガール、霧雨魔理沙嬢。彼女の人形だ。人形と言ってもマーガトロイド嬢の使役するような布製の物とは違い、
よりしっかりした材質で出来ている。そのテの知識は疎いが、ガレージキットに近いと思われる。観賞用にとマーガトロイド嬢に
依頼したのだが、予想を遙に上回る出来に感嘆の意を禁じえない。
何故こんな物を作らせたのか。その理由を言うならば、惚れたからに他ならない。彼女とのファーストコンタクトからこの想いを
抱く迄にはとても一言では言い尽くせない物語があるのだが、長くなるので割愛する。そんな事に時間を費やしている場合ではない。
「………」
一通り視姦…もとい鑑賞を終え、ふとドブ色の好奇心が疼いた。
――スカートの中はどうなっているのだろう――
こういった造形物を所持する物の多く、いや殆どはここに行き着くのではなかろうか。高嶺の花、手の届かぬものと日々募らせる
想いの矛先。その厳重な防護の先にある理想郷。
手が伸びる。本能のままに突き進む好奇心とそれを止めんとする理性が混ざり合い、今回は本能に軍配が上がった。
小さな彼女を傾け、その理想郷をこの目に焼き付
………
……
…
唐突に自我が帰ってきた。時計を見ると、三十分ほど過ぎていた。
左手には小さな想い人。右手には、役目は終えたと言わんばかりに休眠に入ろうとする男の誇りとも呼ぶべき人生の相方。
加えて全身を襲う虚脱感から導き出せる答えは只一つ。
「おっ邪魔―!何やって…ん…」
自責の念に打ちひしがれる暇も無く、突然の来訪者が姿を現した。見まごう事などある筈が無い。霧雨魔理沙その人だ。
元気の塊とも呼べる彼女が、今は信じられない物を見るような顔で硬直している。無理も無い。自分を模した人形を握り締め
自身を慰める友人の姿を見たら、誰だって同じ反応をするだろう。
「や、お、落ち着け魔理沙。これはだな……」
「……ば」
「ば?」
最後に見たのは、必殺の閃光を放たんとする手のひらサイズの八卦炉だった。
「ばかぁぁぁぁぁっ!!!(訳:言ってくれればいつでも見せてやるのに)」
終わっとけ
最終更新:2010年10月15日 01:50