パチュリー9



うpろだ259


もう息が出来なかった。
我慢して、自分を叱咤して上げていた顔も、もう上がらない。
力なく垂れてしまった。
どれほど時間が経ったろう。
私の笛のような呼吸音に足音が混ざる。
レミィのものとは違う、重いそれ。
床を踏みしめて、近づく足音。
気持ちが溢れる。
――嬉しい。
また、涙がこみ上げてきた。
さっきまでの物とは違う。
ぽん。と、私の頭に手が載せられた。
大きな、暖かな、優しい手だった。

「…………○○…っ……!」
「……貴方は……それでいいのね」

レミィが語りかける。
私に向けてではなく、○○に向けて。
彼女にしては、厳しい感情を込めたその言葉。
疑問を持たないでもない。
だけど、今はこの手のぬくもりを確かにしておきたかった。
私は疑問を頭の隅に追いやる。
それはすぐに幸せという名の霧に飲まれて、見えなくなった。

「…………そう。なら、いいわ。好きになさい」

そう言ってレミィは部屋を出て行った。
私は、知らない。
彼女が○○の何を知っているのか。
○○は彼女に何を言われたのか。
私は知らない。
ただ。

「…パチュリー…………ごめんな…………」

○○の言葉が。
酷く胸に痛かった。



↓↓↓



数年の時が経ち、私と○○の距離は縮まっていた。
有り体に言えば両思いということになる。
それでよかった。
私が望んだこと、それが叶っているのだから。
幸せだ、幸せだ。

「パチュリー? どうした、体調でも悪いか?」

いつしか○○は私を気遣うようになっていた。
それは優しさからきているのだと、思う。
○○の持つ優しさ。
それが私に、私だけに向いている。
なんて嬉しいことだろう。
なんて誇らしいんだろう。
今でもまだ、彼の優しさに触れるたび、頬がほころぶ。

「ん、大丈夫よ。心配性ね」
「ほっとけ。……ゴホッ」
「ほらほら、私より○○の方が不健康そうじゃない。今日はもう休みなさいよ」
「ああ、もうちょっとだけな」
「ほんとに? 無理してないわよね?」
「大丈夫だって。パチュリーじゃないんだから」
「もう! また人を馬鹿にして!」
「ははは。すぐに終わるから、待ってな。少し散歩しよう」

そう言って、笑いながら去っていく。
その背中に、「うん」と返事をして、私は本に向かった。
最近、本に触っている時間が減ってきている。
本に触るよりは、○○と話している。
本を見るよりは、○○の姿を追っている。
こんなにも、こんなにも私が彼を。
愛すと。
そんなこと思わなかった。
でも、でも。
もっと、もっと。
彼と触れ合いたい。
彼を知りたい。
彼の全てを、私の全てを。
知りたい。

「おーい、パチュリー? 行こうぜ」
「うん」

ドアから○○が顔を覗かせる。
軽く返事をしてから、私は本を閉じた。
さよなら、私はもう貴方達とは別の世界にいるの。
閉じこもって、一人枕を濡らしていた頃とは違うの。
さよなら、私はもっと幸せな世界に行くの。
○○と一緒に。



↓↓↓



「なあ、パチュリー。愛は永遠の物だって信じるか?」
「突然何よ……。まあ、その意見には賛成だけど」
「聞いてみたかっただけさ。気にするな」

紅魔館の庭を一緒に歩く。
大きくて、暖かくて、優しい○○の手を握って。
彼のもう一方の手には、一冊の本があった。
手の平からほんの少しはみ出す位の大きさ。
○○のいた世界では単行本というらしい。
図書館にも、いくつかそんな形の本を見たことがある。
手にとって、読んだことは無いが。
○○が読んだことがある、それでいて面白いという本を彼は持っている。
題名は『Lie』

「うそ? 騙したわね……」
「おいおい、何を騙すってんだ。とにかく、読んでみろよ。面白いぜ」
「……真っ白とか、そういうのじゃないわよね」

恐る恐る表紙に手をかける。
軽いタッチの、女子と男子の絵が目に入る。
色のついた絵が4ページほど続き、やっと題名が現れた。
そこで私は単行本を閉じる。

「…ライトノベルって言うんだ」
「ふうん、面白くなさそうね。いかにも陳腐だわ」
「そ、そうか……? で、でもさ、読んでみたら面白いってのもあかるかもしれないぜ?」
「ないわね。つまらない物はどこまでいってもつまらないもの」

目に見えて○○が肩を落とす。
相当気に入っていたらしい。
それを切り捨てられて落ち込んでる――?
少し、罪悪感を感じた私は
「まあ、時間があったら読んであげてもいいわよ」
と、言っておく。

「ま、まじか。サンキュ、パチュリー」
「ちょ、ちょっと、だからって抱き付かないでよ! 恥ずかしい…」
「あはは、パチュリーのほっぺたはぷにぷにしてるなぁ」
「もう! ふざけないで!」

ぱしゃり。
シャッターの音と、閃光がじゃれ合う私たちを包んだ。
光の方を向けば、カメラを構えた鴉天狗。
ニヤニヤと笑っている。
恥ずかしさにたまらず私は弾幕を張る。
それに巻き込まれた○○が悲鳴を上げて逃げ回る。
鴉天狗がそれをまた写真に収める。
きっと、明日の朝刊を飾るに違いない。

「そろそろ弾幕消してくれよ、パチュリー!」
「面白いからもうちょっとだけ、ね」
「こんな所だけかわいこぶるな!」
「失礼だこと。もうちょっと増やそうかしら」
「うわああ、許してくれパチュリー!」

今晩は腕枕でもしてもらおう。
私はそう一人きめて、逃げ惑う○○を眺めた。



↓↓↓



夜、私の部屋。
枕元に陣取る本の山を片付けて、○○の入るスペースを確保した。
意外と多いことに私は驚く。いやはや、本の虫とはよく言ったものだ。
私は本を食べて生きているわけではない。
きっと、幸せを食べて生きている。
生きている幸せ。
発作が起きない幸せ。
――○○がいる幸せ。
きっと、それが幸せ。

「パチュリー、俺風呂入ってくるな」
「え、まだ入ってなかったの?」
「ああ、時間取れなくてな。パチュリーはもう入っただろ?」
「ええ、はいっ――――入ってない!」
「ええ? 俺はともかく何でパチュリーが」
「入ってないの!」

自分でもよくわからなかった。
なんでこんなことを叫んだのか。
勢いに乗った口は、私の意思に反して言葉を発し続ける。
ああもう、恥ずかしい。
なのに止まらない。

「――だから、一緒に入ろう!」
「……………………………………………は!?」
「ああもう! 何回も言わせないで! その……、一緒にお風呂に入ろうって言ってるの!!」
「…………えーと、パチュリーさん? 自分の言ってる意味がお分かりで?」

もうこうなるとやけだ。
私は衣装棚に飛びつくや否や、着替えを手早く纏める。
もちろん、下着も何もかも全て含めて。
魂を抜かれたかのように――本当に抜かれているのかもしれない。さっきから反応が全く無い――突っ立っている○○の手をとり、
冷たい廊下へと駆け出した。



↓↓↓



人のいなくなった脱衣所はとても寂しいものだ。
ただ広いだけ。
ただあるだけ。
冷え切った空気はただ肌に突き刺さるだけ。
包み込むような暖かさなど持たない。

「……パチュリー」

それでも、人が入浴という行為に焦がれるのは何故だろう。
それはやはり、入浴という行為は、母親の胎内に似た感覚をもたらすからだと私は思う。
どうしようもない郷愁に駆られるのだ。
だから人は肌を湯に浸す。
入浴とは、二度と戻れない、桃源郷への帰り道なのだ。

「パチュリー」

ただ、その道は何処へも通じていない。
繋がっている所を強いてあげるならば、そのは黄泉の国だ。
二度と戻れない、とは二重の意味を持つことになる。
一方は二度とは戻れない理想郷を。
一方は二度とは戻れない現実世界を指す。
どちらを選ぶかは、入浴をするものが選べるものではない。

「パチュリー!」

一度入ってしまえば、行くか戻るか二者択一。
どちらの道を行くかは決められない。
完全に運任せのロシアンルーレット。
当たるか外れるか。
そんな危険極まりない橋の上を、人は渡るのだ。

「パチュリー!!」
「…………なによ」
「何で俺はお前と一緒に風呂入ってるんだ!?」
「いいじゃない、たまには」
「だからって――」
「はいはい、黙って後ろ向く」

ああ――、私も実は恥ずかしい。
必死に無意味なことを考えて、気持ちを逸らしてきたというのに。
この○○は、それこそ無意味なことをしてくれる。
ああ、本当に!
恥ずかしい!
何で私は○○の背中に触れているのだろう!?
タオル越しとはいえ、ひしひしと伝わってくるその肌の温もり。
硬い筋肉の感触。こんなに彼は強い体つきだった。
そして、脈打つ心臓。私の心臓と同じ。
早く、熱く。
一緒に刻むビート。

「……パチュリー」
「なによっ!」
「……………………近づきすぎ。当たってる」
「――――っ!」

脳があわ立つ。
言われてみれば、私の体は○○の背中に当たっている。
密着、というほどではないが、確かに当たっている。
密かに思う。○○に襲われやしないか、と。
まあ、それはそれでいいか。
開き直った私は、そのままの姿勢で○○の背中をタオルでこする。
そういえば、彼の背中を洗っていたのだった。すっかり忘れていた。
そして気付く。

「ねえ、○○? 痩せた?」
「――――どうしてそう思うんだ?」
「何となく……骨ばった感じがするわ。うん、絶対痩せてる」
「…………そうか」

シン。
無言の世界が訪れる。
もうもうと立ち上る湯気さえ、温度を失ってしまったかのようだ。
思わず、手が止まる。
縮こまってしまった○○の背に、問いかけても返事は無い。
ぺたぺたと、何かが這い寄る音が聞こえる。
私と、丸々の世界を壊す何か。
怖い怖い。
怖い!

「○○! ねえ、どうしたの!? ○○!!」
「――ああ、ごめんな」

困ったような声音。
とても、とてもとても、胸に突き刺さる。
その声は消え入るようなか細い声で、彼がどこか遠くに行ってしまったかのような。
そんな感じがした。
怖い。どこかに行ってしまいそうだ。
彼は、何処へ向かおうとしているのだろうか。
少なくとも、理想郷ではない。
なら――。

「――いやっ!!」

悲鳴を上げた。誰が?
私だ。
狂ったように、○○の背中に抱きついていた。
自分がなにをしているのか、分からなかった。
だけど、こうしていないと彼がどこかへ行ってしまいそうで。
それがとてつもなく怖くて。
彼がどこかへ行ってしまったら、私はどうやって生きればいいのだろうか。
一人は嫌だ。一人は怖い。
だから、今腕の中にあるこの温もりを失くしたくない。

「……パチュリー。大丈夫だから、俺はどこにも行かない、大丈夫」

優しく○○が私に声をかける。
それでも、それは。
今にも消えそうな、小さな声だった。
その声が腕をすり抜ける感触がする気がして、私はさらに言葉を紡ぐ。

「○○……怖いよ。どこにも行かないわよね? ずっと私の傍にいてくれるのよね!?」
「ああ、どこにも行かない。ずっとパチュリーの傍にいる」

ゆっくりと○○の身体が私のほうを向く。
見あげた瞳は優しく光っていて、暖かだった。
自分の立場も忘れて、○○に抱きつく。
大きな、暖かで、優しい手が私の頭を撫でる。
あの日のように。

「…………○○…さん? パチュリー様?」
「「~~~~っ!!」」

不意に、声がした。
私と、○○以外の、誰か。
固まりかけた視線を向ければ、タオルで体を覆った門番の姿。
怪訝な視線を私たちに向けている。
再び、頭があわ立つ。
大変な所を見られた。
どうしよう、どうしよう。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。

「――――ロイヤルフレアああああああああああ!!」
「待てパチュリー俺が巻き込まれるっ!!」



↓↓↓



「ふぅ…………」


肩が重い。
魔道書を自身の手で書き写すことは、持ち主自身の魔力を増幅させる。それを書いた魔術師を理解することにつながるからだ。
それゆえ、多くの魔道書には手写しによるコピーが存在する。
そして今、私はそのコピーを作り出している真っ最中だった。
最近、魔力が落ちてきているような気がしてならない。
何気ない、ふとした瞬間、力がないような錯覚を覚える。
試しにスペルカードを発動させると、きちんと精霊を使役できるのだが……どうしても不安感が拭えない。
まさか、魔法が使えなくなる?
そんな不安を掻き消すため、私は魔道書を必死に書き写していた。


「――と、インクが切れちゃったわね…。○○、そこのインク瓶取ってくれない?」


藁半紙を走るペンが、色をなくした。ただ、インクが切れただけ、ただそれだけだ。
インク瓶のそばに居た○○に、声をかける。
「おう」と返事をし、○○はインク瓶を握り締めた。


――ゴドン。


そしてインク瓶が、机の上に転がる。黒い染みが津波のように机の上を這う。
○○は驚いたように自分の手の平を見つめている。
その表情は、何かを酷く怖れているように見えた。
かたかたと○○の肩が小さく震えている。なぜ……?
私の視線に気づいた○○が、弱々しく笑みを浮かべる。


「は…はは…………手が滑っちまった…。はは、ははは…」
「ど、どうかしたの? 真っ青よ…?」
「いや、何でもない。ああ、ほら手洗ってくるよ」


そう言って足早に部屋を出ようとする。
真っ青な、人がするような顔色でない、死人のような顔色…………。
――死人!?
自分の言葉に背筋が凍る。嫌な予感がする、途轍もない嫌な予感が。
机を叩いて立ち上がる。思わず叫んでいた。
「私も付いていく」と。


「来るな」
「だってそんな死にそうな顔して……」
「来るなと言ったっ!!」


叫んで○○が部屋を出て行った。
まさか、○○があんな声を出すなんて、正直怖かった。
力なく椅子に腰を下ろす。天井を見上げて目を閉じる。
わからない、彼の考えていることが。私だってもう、分かってるのに。
その身に何かを患っていること、もう彼が長くないこと。
なのに……。


「そばに居させてくれないのね…………」


そっと、古い引き出しを開けるように、思い出す。
彼がこの紅魔館に居つくようになった時のこと。
この図書館に彼が居つくようになったときのこと。
私が――彼を好きになった瞬間。


『じゃあ――ここにいる?』
『え? 俺……何も出来ないから…』
『話し相手にでもなってくれればいいわ』



↓↓↓



本棚の影からまろび出てきたのは、一人の男だった。
その姿は、知っている。レミィが食料だと言って、何処からか仕入れてきたものだ。
それが何故ここに、とは思った。けれど、憔悴しきった彼の様子には、小動物のような可愛さがあった。
哀れみを感じた、と言えば、それはそれで間違ってはいないのだけれど。


「あ…あんたは……人間か…………?」
「魔女が含まれるならね。……どう、紅茶でも飲んでいかない?」
「……………………」
「焼き菓子もあるわよ。と、言うより、貴方は淑女のティータイムを邪魔して詫びの一つも入れないのかしら」


おずおずと、男は椅子に腰を下ろした。
私は手を叩いて、リトルを呼ぶ。本棚の向こうから間の抜けた声が返ると、間も無くリトルが姿を見せた。
その姿に、男が驚く。そして、リトルがくすくすと笑った。
何せ悪魔なのだ、人間の怖がる姿を見て喜ぶのも仕方あるまい。
「彼に紅茶を。あと、何かお菓子を持ってきて」
「承知しました」
恭しくリトルが飛び去る。普段はそんな事しないくせに、この色魔が。
男のほうに目をやると、椅子の上で小さく縮こまったままになっていた。


「そんなに怖がらなくてもいいのに。彼女はそんなに悪い子じゃないわ」
「…………だって、」
「種族が違うのだもの、怖いのは仕方がないと思うわ。でも、だからって、無下に拒絶することは無いと思うのだけど」
「――…………」


また、本棚の向こうからリトルが現れた。手には、香り立つ紅茶。
男の前にコトリとおいて、一歩下がる。
「どうぞ、召し上がれ」
男がリトルの方を窺いながら、ティーカップに口をつける。
その目が、驚くように少し開かれる。


「美味しい……」
「…恐悦至極に存じ上げます」
「そういえば、名前聞いてなかったわね。貴方、名前は?」
「……○○…です。貴女は…?」
「パチュリー、パチュリー・ノーレッジ。パチェって呼んでも構わないわよ。あと、この子はリトル」


リトルが腰を折る。今まで、見たことも無いような丁寧さだ。この色魔め。
男――○○がそれに応じて、頭を下げた。

ああ――。

私は思う。
この人間は羨ましい。私にないものをきっと持っている。
私がなくしたものを、きっとまだ持っている。
コクコクと、紅い茶を飲み下す様を見て思う。


ああ――、なんて人間は愛おしい存在なのだろう。


だから、私は彼を近くに欲しがった。
もしかすると、私は彼が欲しかったのではなく、彼の持つ何かが欲しかったのかもしれない。
何れにせよ、途中から彼を本当に欲しがっていたことは間違いないのだけれど。


「○○、無理させてたのかしら。私が、貴方に甘えて、貴方に無理をさせてたのかしら」


きっと、彼なら「そんなことはないさ」って言ってくれるだろう。
彼は、優しいのだ。本当に、本当の意味で、優しい。
それ故に、きっと、いろいろと背負い込みすぎた。
レミィはこのことを分かっていたのだろうか。彼の命に限りがあること。
いや、それ自体は誰でも分かるだろう。私でも、リトルにも、レミィでさえ、いつかその命の灯が消える。
そんなこと分かっている。分かっているけれど……。
流れる涙を止めることはできない。


「今まで助けてもらった分、甘えさせてくれた分、返すわ」


貴方の命は私が助ける。
そう心に決めて、ベッドに眠る○○の唇にキスをした。



↓↓↓



「パチェ」
「…○○? 何やってるの、身体が冷えるわ。ほら、早く入って」


自室にいると、時折○○が訊ねてくることがある。
私と彼は、もう一緒の場所で寝起きしていない。
図書館は彼の身体に悪い。そう言って、出て行くように仕向けたのは私自身だ。
寂しくは無い、いつ何時でも彼を感じていられるからだ。
こうやって、彼のために薬の研究をしている時だって。


「○○、調子はどう?」
「こうやってここにいることが答えにならないか?」
「…………そうね」


彼がこうやって私のところに来たのはもう半年ぶり、いやそれ以上だ。
段々と、彼が床にいる時間は長くなっている。
初めの頃は一日おきに私のところに来ていた。
それが一週間ごとになり、一月ごとになり、二ヶ月ごとになり……。
次は何時来れるのだろうか、それが気になる。それとも――。
「まさか、ね」頭を振って、嫌な考えを振り払う。


「パチェ、今日の薬はあるのか?」
「ええ……ちょっと待って」


紫色の液体を、ベッドに座る○○に差し出す。
○○はそれを「パチェ色だな」といって飲み下した。
頬が赤くなるのが分かる。○○を振り向くと、確信犯的な笑みを浮かべてこちらを見ていた。おのれ、○○。
それにしても、私は何て無力なのだろう。
図書館の主だ、大賢者だと言われても、こうして目の前にいる愛しい人さえ救えないのだから笑ってしまう。
苦笑する私の頭に、手が置かれた。誰の、とも言う必要などない。
こんなに大きな、暖かな、優しい手は○○以外の誰が持っているというのか。


「パチェ、俺を気遣ってくれるのは嬉しいけどな。お前が身体壊してちゃ笑い話にもならないぜ?」
「○○は…………私に何か要求しようとか思わないの?」
「こうやって薬貰ってるじゃないか」
「そうじゃなくて。もっと、こうして欲しいとか、ないの? 
 私、貴方に甘えてばかりで…………」
「よしよし、そんなに悲しそうな声出すな」


○○が私の頭を撫でる。
手の平から伝わる暖かさが、心に染み入って、これから先を思わせて。
涙が出る。
○○の手を胸に抱いた。泣いてはいけないと、頭では分かっているのに、どうしても涙が止まらなかった。
出来ることなら「死なないで」と叫びたかった。
大きな声でそう言えたら、そう泣けたら、どれだけ楽になるのだろう。
でも、それは許されない。○○が泣かないのだから。
助けると、言った私が泣いてどうする。そう自分を叱咤した。


「なあ、パチェ? やっぱり、俺もお前に甘えていいか?」
「う…うん! うんうん!」
「じゃあさ、今日一緒にねないか?」


…………はいい!?
ねるって、ねるって……!
○○を見あげると、照れくさそうに笑って、後ろ頭をかいている。


「○○……ねるって…。そのベッドで?」
「ああ、一々図書館まで戻るのか?」
「二人きりで?」
「もちろん。それとも、大人数の方が趣味なのか?」
「え……あ……う……うう…………むきゅうぅ……………………」


「あ、おい、パチェ!?」
視界の端で○○が手を伸ばしている。
けれど、それよりの早く私の身体は床に倒れこんでいた。
これからきっと私と○○は、一時の甘い夢を見る。


――つかの間の。そして、最後の。


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うpろだ268


「ふぅ…………」


肩が重い。
魔道書を自身の手で書き写すことは、持ち主自身の魔力を増幅させる。それを書いた魔術師を理解することにつながるからだ。
それゆえ、多くの魔道書には手写しによるコピーが存在する。
そして今、私はそのコピーを作り出している真っ最中だった。
最近、魔力が落ちてきているような気がしてならない。
何気ない、ふとした瞬間、力がないような錯覚を覚える。
試しにスペルカードを発動させると、きちんと精霊を使役できるのだが……どうしても不安感が拭えない。
まさか、魔法が使えなくなる?
そんな不安を掻き消すため、私は魔道書を必死に書き写していた。


「――と、インクが切れちゃったわね…。○○、そこのインク瓶取ってくれない?」


藁半紙を走るペンが、色をなくした。ただ、インクが切れただけ、ただそれだけだ。
インク瓶のそばに居た○○に、声をかける。
「おう」と返事をし、○○はインク瓶を握り締めた。


――ゴドン。


そしてインク瓶が、机の上に転がる。黒い染みが津波のように机の上を這う。
○○は驚いたように自分の手の平を見つめている。
その表情は、何かを酷く怖れているように見えた。
かたかたと○○の肩が小さく震えている。なぜ……?
私の視線に気づいた○○が、弱々しく笑みを浮かべる。


「は…はは…………手が滑っちまった…。はは、ははは…」
「ど、どうかしたの? 真っ青よ…?」
「いや、何でもない。ああ、ほら手洗ってくるよ」


そう言って足早に部屋を出ようとする。
真っ青な、人がするような顔色でない、死人のような顔色…………。
――死人!?
自分の言葉に背筋が凍る。嫌な予感がする、途轍もない嫌な予感が。
机を叩いて立ち上がる。思わず叫んでいた。
「私も付いていく」と。


「来るな」
「だってそんな死にそうな顔して……」
「来るなと言ったっ!!」


叫んで○○が部屋を出て行った。
まさか、○○があんな声を出すなんて、正直怖かった。
力なく椅子に腰を下ろす。天井を見上げて目を閉じる。
わからない、彼の考えていることが。私だってもう、分かってるのに。
その身に何かを患っていること、もう彼が長くないこと。
なのに……。


「そばに居させてくれないのね…………」


そっと、古い引き出しを開けるように、思い出す。
彼がこの紅魔館に居つくようになった時のこと。
この図書館に彼が居つくようになったときのこと。
私が――彼を好きになった瞬間。


『じゃあ――ここにいる?』
『え? 俺……何も出来ないから…』
『話し相手にでもなってくれればいいわ』



↓↓↓



本棚の影からまろび出てきたのは、一人の男だった。
その姿は、知っている。レミィが食料だと言って、何処からか仕入れてきたものだ。
それが何故ここに、とは思った。けれど、憔悴しきった彼の様子には、小動物のような可愛さがあった。
哀れみを感じた、と言えば、それはそれで間違ってはいないのだけれど。


「あ…あんたは……人間か…………?」
「魔女が含まれるならね。……どう、紅茶でも飲んでいかない?」
「……………………」
「焼き菓子もあるわよ。と、言うより、貴方は淑女のティータイムを邪魔して詫びの一つも入れないのかしら」


おずおずと、男は椅子に腰を下ろした。
私は手を叩いて、リトルを呼ぶ。本棚の向こうから間の抜けた声が返ると、間も無くリトルが姿を見せた。
その姿に、男が驚く。そして、リトルがくすくすと笑った。
何せ悪魔なのだ、人間の怖がる姿を見て喜ぶのも仕方あるまい。
「彼に紅茶を。あと、何かお菓子を持ってきて」
「承知しました」
恭しくリトルが飛び去る。普段はそんな事しないくせに、この色魔が。
男のほうに目をやると、椅子の上で小さく縮こまったままになっていた。


「そんなに怖がらなくてもいいのに。彼女はそんなに悪い子じゃないわ」
「…………だって、」
「種族が違うのだもの、怖いのは仕方がないと思うわ。でも、だからって、無下に拒絶することは無いと思うのだけど」
「――…………」


また、本棚の向こうからリトルが現れた。手には、香り立つ紅茶。
男の前にコトリとおいて、一歩下がる。
「どうぞ、召し上がれ」
男がリトルの方を窺いながら、ティーカップに口をつける。
その目が、驚くように少し開かれる。


「美味しい……」
「…恐悦至極に存じ上げます」
「そういえば、名前聞いてなかったわね。貴方、名前は?」
「……○○…です。貴女は…?」
「パチュリー、パチュリー・ノーレッジ。パチェって呼んでも構わないわよ。あと、この子はリトル」


リトルが腰を折る。今まで、見たことも無いような丁寧さだ。この色魔め。
男――○○がそれに応じて、頭を下げた。

ああ――。

私は思う。
この人間は羨ましい。私にないものをきっと持っている。
私がなくしたものを、きっとまだ持っている。
コクコクと、紅い茶を飲み下す様を見て思う。


ああ――、なんて人間は愛おしい存在なのだろう。


だから、私は彼を近くに欲しがった。
もしかすると、私は彼が欲しかったのではなく、彼の持つ何かが欲しかったのかもしれない。
何れにせよ、途中から彼を本当に欲しがっていたことは間違いないのだけれど。


「○○、無理させてたのかしら。私が、貴方に甘えて、貴方に無理をさせてたのかしら」


きっと、彼なら「そんなことはないさ」って言ってくれるだろう。
彼は、優しいのだ。本当に、本当の意味で、優しい。
それ故に、きっと、いろいろと背負い込みすぎた。
レミィはこのことを分かっていたのだろうか。彼の命に限りがあること。
いや、それ自体は誰でも分かるだろう。私でも、リトルにも、レミィでさえ、いつかその命の灯が消える。
そんなこと分かっている。分かっているけれど……。
流れる涙を止めることはできない。


「今まで助けてもらった分、甘えさせてくれた分、返すわ」


貴方の命は私が助ける。
そう心に決めて、ベッドに眠る○○の唇にキスをした。



↓↓↓



「パチェ」
「…○○? 何やってるの、身体が冷えるわ。ほら、早く入って」


自室にいると、時折○○が訊ねてくることがある。
私と彼は、もう一緒の場所で寝起きしていない。
図書館は彼の身体に悪い。そう言って、出て行くように仕向けたのは私自身だ。
寂しくは無い、いつ何時でも彼を感じていられるからだ。
こうやって、彼のために薬の研究をしている時だって。


「○○、調子はどう?」
「こうやってここにいることが答えにならないか?」
「…………そうね」


彼がこうやって私のところに来たのはもう半年ぶり、いやそれ以上だ。
段々と、彼が床にいる時間は長くなっている。
初めの頃は一日おきに私のところに来ていた。
それが一週間ごとになり、一月ごとになり、二ヶ月ごとになり……。
次は何時来れるのだろうか、それが気になる。それとも――。
「まさか、ね」頭を振って、嫌な考えを振り払う。


「パチェ、今日の薬はあるのか?」
「ええ……ちょっと待って」


紫色の液体を、ベッドに座る○○に差し出す。
○○はそれを「パチェ色だな」といって飲み下した。
頬が赤くなるのが分かる。○○を振り向くと、確信犯的な笑みを浮かべてこちらを見ていた。おのれ、○○。
それにしても、私は何て無力なのだろう。
図書館の主だ、大賢者だと言われても、こうして目の前にいる愛しい人さえ救えないのだから笑ってしまう。
苦笑する私の頭に、手が置かれた。誰の、とも言う必要などない。
こんなに大きな、暖かな、優しい手は○○以外の誰が持っているというのか。


「パチェ、俺を気遣ってくれるのは嬉しいけどな。お前が身体壊してちゃ笑い話にもならないぜ?」
「○○は…………私に何か要求しようとか思わないの?」
「こうやって薬貰ってるじゃないか」
「そうじゃなくて。もっと、こうして欲しいとか、ないの? 
 私、貴方に甘えてばかりで…………」
「よしよし、そんなに悲しそうな声出すな」


○○が私の頭を撫でる。
手の平から伝わる暖かさが、心に染み入って、これから先を思わせて。
涙が出る。
○○の手を胸に抱いた。泣いてはいけないと、頭では分かっているのに、どうしても涙が止まらなかった。
出来ることなら「死なないで」と叫びたかった。
大きな声でそう言えたら、そう泣けたら、どれだけ楽になるのだろう。
でも、それは許されない。○○が泣かないのだから。
助けると、言った私が泣いてどうする。そう自分を叱咤した。


「なあ、パチェ? やっぱり、俺もお前に甘えていいか?」
「う…うん! うんうん!」
「じゃあさ、今日一緒にねないか?」


…………はいい!?
ねるって、ねるって……!
○○を見あげると、照れくさそうに笑って、後ろ頭をかいている。


「○○……ねるって…。そのベッドで?」
「ああ、一々図書館まで戻るのか?」
「二人きりで?」
「もちろん。それとも、大人数の方が趣味なのか?」
「え……あ……う……うう…………むきゅうぅ……………………」


「あ、おい、パチェ!?」
視界の端で○○が手を伸ばしている。
けれど、それよりの早く私の身体は床に倒れこんでいた。
これからきっと私と○○は、一時の甘い夢を見る。


――つかの間の。そして、最後の。



↓↓↓



「……ねえ、どうやったらそんなになるのかしら」
「そんなって……生きてきた年月が違いますから…」
「私と対して違わないくせに……!」


恥ずかしげに頬をかく、リトルを睨みつける。
その肢体が羨ましい、タオルの向こうの膨らみが羨ましい!
何で私はこんなにも……ここがないのか。断崖絶壁だ、日本海か!?
…………よし、今ぺったんことか幼児体形とか言った奴、前に出なさい。賢者の石で灰にしてくれる。


「まあ、あまりに強い魔力は成長を阻害するって言いますね」
「そうなの? そんなの聞いたことないんだけど」
「ええ、図書館の蔵書の中にありました。確か……
 『身に余る魔力はいずれ術者に死をもたらす。
 それは魔力とはそもそもが人の持てるものではないこと、
 そして人にとって毒であることに他ならないからだ。
 まして、魔力を持つ人間が成長することはまず考えられない。
 魔力を行使するには若き意志、瑞々しい肉体が必要となるからだ。
 つまり、魔力を持つものはヒトとしての輪廻をはずれ、長き世を傍観するものとなる。
 しかし、例えばの話だ。ここに強大な魔力、しかしヒトの世に干渉できるものがいたとしよう。
 それはもう、ヒトではなく正真正銘の化物であるといえよう。
 何故か、それは私が書き記せるものではない。
 何故なら、私はこの身に魔力を持つものであるが、化物では無いからだ』
 だったと思います」
「よくそんな長い文章暗誦出来るわね…」


得意げなリトルを半ば呆れるような視線でねめつける。
要するに、彼女が言いたいことは、
『魔法使いなら成長しなくて当然』
だろう。
……慰めになるわけない。


「まあまあ、セックスアピールは人それぞれですから」
「ちょっと待って。私そんなことするって言ってないわ」
「じゃあ何でこんな時間にお風呂入ってるんですか?」
「それは――……薬品臭い身体で○○と寝るわけにはいかないし……」


やっとのことで、言葉を紡ぎだす。
リトルの胸から視線を離せば、湯気に満ち満ちた浴場が見える。
私とリトル以外の姿はなく、閑散としている。
この状況、○○と混浴したあの夜を思い出す。また門番は来るのだろうか。
先刻、不覚にも、あまりの興奮に気を失ってしまった私は、気がつけば○○の腕の中にいた。
薬品臭い身体のままことに及ぶのはあまりに恥ずかしい、そう言って私はリトルと共に逃げ出した訳だ。
……何か勘違いをしているような気がしないでもない。


「んー、でも何で○○さんはそんな際どいことを言い出したんでしょうね?」
「私に聞かないでよ……」
「そうですね、どうせすぐ忘れちゃいますし」
「え……忘れる…?」
「ええ、きれいさっぱり。やっぱり、○○さんとパチュリー様じゃ寿命が全然違いますもの。
 ○○さんと過ごした時間なんて、一瞬ですよ。長いスパンで見れば」
「私は……忘れない、○○のこと絶対忘れない」
「無理無理、無理ですって。大体パチュリー様、どうやって私を使い魔にしたか覚えていませんよね?」
「……………………」
「ほらぁ! 絶対忘れますって、間違いなく。ま、そのほうが楽なんですけどね」


「私、先に上がりますね」
そう言ってリトルは軽い足取りで浴場を後にした。
残された私は裸で突っ立ったまま、足元を見つめ続ける。
いつか……○○を、○○と過ごした日々を忘れる……?
そんなこと、そんな恐ろしいこと、絶対ありえない。
だって私は、彼と出会った日のことを、彼の笑顔を、彼の仕草を、癖をいくらでも思い出せる。

でも、だからってこれから先、百年経ってもオボエテル?

私の中、猜疑心が語りかけてくる。
お前は、そんな事を言って、絶対に忘れてしまうだろう。
いつもいつも、自分を過信して失敗するくせに。
そうだ、今だってそうだ。自分には永琳には無い技術がある。
そう過信して、○○を診察させなかったのは誰だ?
永琳に診せさえすれば、天才の彼女だ、○○を治してくれたに違いない。
そういったレミリアを無視したのはだれだ?
レミィは、私を、私と○○を思って言ってくれたのに!


「やめて……!」


ああ、なんて嫌な奴なんだ、私は。
友を思う友を、無下に、傲慢に下した。
そのせいで○○は……死ぬ!
ああ、なんて可哀想なやつだ、私は!


「違う違う違うっ!」


耳を塞いだ。頭を抱えた。
冷たい床に倒れ臥した。もういっそ、このまま喘息の発作でも起こればいいのに……。
耳なんて聞こえなければいい、言葉なんて発せなくていい。
何も考えたくない。
ソウスレバワスレラレル。


「パチェ?」


○○が死ぬなんて真実。



↓↓↓



「落ち着いたか?」
「うん……ありがとう、○○」


本当、この男は何て都合よく現れるのだろう。
私が寂しい時、都合よく現れては抱きしめてくれた。
私がイラついている時、焦ることは無い、ゆっくりやろうぜと、励ましてくれた。
本を持って行かれた時、一緒に取り返しに行こうと、肩を叩いてくれた。
いつも優しく、時には辛く。影のように私の傍にいて、ほのかに微笑んで。
彼を――忘れたくない。


「○○…………お願いがあるの」
「ん、いきなりどうした?」
「…抱いて」


「あ? いきなりどうしたよ」
○○は驚いた声を上げる。それは仕方ないと思う、私だってそんな事言われたら驚くほかない。
でも、私は何かに突き動かされるように○○に言っていた。
抱く。それ即ち彼氏と彼女、そんなものを飛び越えて、男と女の関係で、ということだ。
その行為は、死ぬまで私の身体に疵として残る。
それでいい、私はそれが欲しい。彼を忘れないために、欲しい。


「ねえ、抱いて」
「パチェ、冗談にしてもつまらないぜ?」
「冗談なんかじゃないわ。…お願い」


○○の言葉を無視して、パジャマのボタンを外してゆく。
少しずつ肌蹴てゆく服と、露出していく肌。冷たい空気が素肌に触れる。
かじかんだように動かない指で、一つ一つボタンを外していく。
その手に、大きな手が重ねられた。大きな、暖かな、優しい手。


「パチェ、俺はそんなつもりで……」
「違う、違うの、○○は悪くない。私は、あなたを忘れたくなくて、こうするの」
「パチェ……」
「……○○…どうして?」


どうしてそんな目で見るの!?
私は何も悪いことしてないじゃない、何が悪いっていうの!?
彼氏と彼女なら当然でしょ!? 男と女なら当然でしょ!?
何で、止めるのよ! 何で邪魔するの!
私は貴方がほしいの、全部知りたいの! なのになんで貴方は私に知らせてくれないの!?


「パチェ!」
「っ!」


首が曲がるかと思った。
あまりにも強い、あまりにも優しい衝撃だった。
気がつけば私の頬は真っ赤に腫れていた。呆然とそこに手をやる。
口の中は血の味がする。生理的反射で、涙が頬を伝った。
○○に頬を張られたと気付くまで、時間がかかった。


「ごめん、パチュリー。俺、やっぱ一人で寝るな。
 あと、もう薬はいらないから。俺ももう長くないし。
 だから、きちんと睡眠は取れよ。……じゃあな」
「待っ……!」


○○が去ってゆく。ドアの向こうへ、私の手の届かない所。
その先にあるのは暗い闇だけなのに。そんな暗夜航路を行くと、一人で行くと○○は言う。
こうも言った。『私は必要ない』そう言った。

それ見たことか!

もう一人の私がせせら笑う。
お前は必要ないと、笑う。さあ、寝てしまえ、忘れてしまえと、囁く。
私は貴方の身体が欲しかったわけじゃない。
貴方の心が欲しかったのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。


「おやすみ、パチュリー」


ドアは閉じる、閉じる。きっと、二度と開かないだろう。
私はただ、それを見つめるだけだった、何も出来ず、ただ見つめるだけだった。
何も考えられない、考えがまとまらない。
呆けたように、ドアを見つめ続けた。それが開くことを願って。
だけどそんな都合のいいことはもうない、あるはずもない。


――彼は死ぬのだから。


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最終更新:2011年02月27日 00:10