咲夜2



2スレ目 >>42


 声が響く。
 時と場を支配する、彼女の声が。
 「極意『デフレーションワールド』」
 時間が砕ける。
 空間が引き裂かれる。
 縮小する現在と過去。
 膨張する現在と未来。
 目くるめく螺旋の回廊を果てしなく。
 時は駆け上り、場は駆け下る。
 一切が同一であり、
 一切が無二であり、
 ただそこにあるのは、咲夜という少女の意思のみ。
 ならば、それを否定し弾劾し排斥する達意は何ぞ。
 唱えよう。
 我が、最高のスペルカード。
 おお主よ、今のみ黙示の時の先触れ告げること許したまえ。
 「極意『トゥ・メガ・セリオン』」
 獣が吼える。





 なぜ、よりにもよって人間であるこの僕にそんな役目が回ってきたのか。
 どう考えても不釣合いなその役目とは、レミリア様の護衛だった。
 紅魔館の厨房でゴーヤ入りカレーの製作に精を出していた僕は、なぜか咲夜さんに呼ばれて配置換えを言い渡された。
 「あなたは今日から、私と一緒にレミリア様の護衛をしてもらうわ。いいわね」
 「はあ」
 はあ、としか答えようがなかった。
 人選を間違えているとしか言いようがなかった。
 よりにもよってただの人間が、あの生粋の吸血鬼であるレミリア・スカーレット様をお守りいたしますですって?
 僕より強い妖怪なら、紅魔館に溢れている。
 門番の美鈴さんだって、この前森で怪異・お化けキノコに追いかけられていた僕を助けてくれた。
 それも弾幕でなく、ただの正拳一発で。
 「大丈夫でした? 森は危ないから一人で歩くのは駄目ですよ」
 そういって優しく助け起こしてくれた美鈴さんに、危うく惚れそうになったのは内緒だ。
 たとえ妖怪でも、女の子に男が助けられたなんて。
 嬉しいような、トラウマになりそうな。
 魔女パチュリーさんによると、人間にしか扱えない魔術や呪術はあるそうだけれども、そんなものにも僕は縁がない。
 せいぜい発火や発光の魔法がちょっと使えるくらいだ。
 「魔人にでもなれっていうんですか?」
 「ええ、そう。私の肩書きは『完全で瀟洒な従者』。あなたはそうね…………
 『異邦の魔人』でやっぱり結構ね。是非そうなってもらうわ」
 「ご冗談を」
 「残念ながら、本気」
 いつもと同じ、一部の隙もなくメイド服に身を包んだ咲夜さんの顔は、たしかに冗談を言っているようには見えなかった。
 「でも、見てのとおり僕はただの人間で……しかもこれといった魔術も体術もないんですけど」
 「心配ないわ。魔術はパチュリー様が、体術は私が教えるから。
 あなたには素質があるの。外から来たものだけが持つ幻想郷にない素質がね」
 咲夜さんに真剣にそう言われては、この昇進の機会に僕は頷かないわけにはいかなかった。
 「……分かりました。よろしくお願いします」
 「ええ、こちらこそ」
 咲夜さんが優雅にその右手を差し出したので、僕は軽く握手をした。
 けれども。
 咲夜さんがたとえ握手という形であれ、誰かに自分の体を触らせることなど滅多にないということに、
 僕はそのとき気づいていなかった。





 それから、僕の護衛としての訓練が始まった。
 もっとも海兵隊の訓練学校のような地獄の厳しさなどはなく、ただひたすら基礎の徹底と強化が繰り返された。
 朝は日の出とともに起床して朝食を摂り、湖の周辺をランニング。
 戻ってきたら筋トレを一式と、咲夜さんと体術の訓練。
 終わったら図書館に行ってパチュリーさんに魔術の講義を受け、午前中はそれで終了。
 昼食を食べ終わったら、今度は厨房に戻って夕食の仕込を行い、夕食の後は再び短い講義と軽い実技。
 多少の変更はあるけれども、それが大まかな流れだった。
 最初の二週間はさすがにきつかったけれども、人間の適応力はすごい。
 結果的に規則正しく健康的な生き方も手伝って、僕は徐々に護衛のスキルを身に着けつつあった。
 それにしてもすごいのは咲夜さんだ。
 朝も僕より先にいつも起きてきているし、講義とか体を休めているときもてきぱきと忙しく館の中を駆け回っているらしい。
 時間を止めて体力を回復させているとしても、その意志力は半端じゃないと思う。
 つくづく、尊敬に値する人だ。
 僕の方も咲夜さんに見習おうと、魔法の勉強に精を出した結果だろうか。
 「たいしたものね。この勢いならすぐにスペルカードだって取得できるわよ」
 パチュリーさんはそう言って誉めてくれた。
 僕はどうも魔術とは相性がよいらしくて、パチュリーさんの説明する魔法概念はわりと頭に入ってくれる。
 その日も、図書館の奥で僕はパチュリーさんに講義を受けていた。
 「いい? 魔法というものは個人個人で全く根幹から異なるものなの。使い手が自分の心の内をこの世界に投影した影響、それが魔法。
 心の中なんて二つと同じものはないでしょう? 心の純粋なカタチである魔法もそれと同じ。
 だから私は木火土金水と日と月を用いた精霊魔法を使うけれど、教わるあなたがそれと同じものを使う必要はないわ。
 個々で自分に最適の属性を選ぶ、それが練達の基礎なの。あなたは、自分の心が投影するものとして何を選ぶの?」
 「パチュリーさんと同じ精霊魔法じゃ駄目ですか? わりと実戦向きですけど」
 「いいえ、それはやめたほうがいいわ。私と同じ属性を選ぶと、既にアデプトである私に影響されて自分の属性が引きずられる。
 私を真似ようとして、本来私と違うはずのベクトルが私に無理やり傾いてしまう。それはあなたにとってよくないわ。
 何か別の―――そうね、あなたの元いた向こう側の知識をなぞったものがいいわ」
 「向こう側の――ですか」
 僕は立って、本棚に近づいた。
 莫大な量の書物が、暗くてよく見えない天井までひたすらに続いている。
 手に取ったそれが、目に付いたそれが、僕の属性だったら面白いかもな。
 まるで、運命が出会うように導いたかのように。
 僕は、とりあえず無作為に一冊の本を手に取った。
 終わりの方をめくってみる。

 ―ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。
  その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である―

 懐かしいな、学生時代に読んだことのあるヨハネ黙示録か。
 これを、僕の属性に選んだらどうなるだろうか。
 神に牙を剥く恐ろしい獣と悪魔たち。そして審判の時を告げるラッパを吹く天使たち。
 たしかに、ここ幻想郷にはない概念だ。
 よし、これを僕はスペルカードにしてみよう。
 僕の魔法の行き着く先は、そのとき決まった。





 「咲夜さん、それも僕が持ちますよ。重たいでしょ」
 「いいえ。その必要はないわ。これくらい平気よ」
 「でも…………」
 「自分は男だから、ということで気を遣う必要はないわ。私は従者だから、こういう仕事を受け持つのは当然よ。
 荷物を持ってもらうのはお嬢様のような方。私たち同士ではそんなにかしこまらなくてもいいわ」
 ある日、僕と咲夜さんは二人で買出しに出かけていた。
 石鹸や掃除用具など、日常品は紅魔館の中ではまかなうことはできない。こうして数週間に一度まとめて買出しに行く必要がある。
 お互いに両手がふさがるほどの荷物を抱えながら、紅魔館への道を歩いて帰っていく。
 飛んでいくこともできないこともないが、少々目立つ。
 僕は咲夜さんの分も持とうと言ったけれども、あっさりとかわされてしまった。
 親切心から言ったんだけどな。
 ……でも、たしかに咲夜さんはメイドだ。僕が荷物を持ってしまったら、それはメイドの仕事を奪うことになってしまうだろう。
 きちんと線引きができているところが、咲夜さんのえらいところだ。
 「でも、時間が余りましたね」
 「そうね。思ったよりも手早く済んだわ。……この格好じゃどこか休憩するのも難しいし…………」
 咲夜さんが首をかしげるのももっともだ。
 咲夜さんはいつものメイド服だし、僕は一応外出用にと執事の服を着ている。
 町では少々目立ってしょうがない。
 「なら、香霖堂へ行きませんか。あそこは色々品物だけはあって見ていて飽きませんよ」
 あの店は奇妙な店だけれども、幻想郷では見られない外の世界の品物を扱っているのだ。
 故郷が懐かしくなったときはよく行ったものだけれども、そういえばこのところトレーニングでごぶさたしている。
 「あそこ………。ちょっと、胡散臭い店なのよね」
 「いいじゃないですか。ただ見るだけですし」
 僕が熱心に勧めると、やがて半ば仕方なさそうに咲夜さんはうなずいてくれた。
 よし、善は急げだ。

 早速香霖堂へと足を運んで敷居をまたいだ僕たちだが、やっぱりその店はいつもどおりだった。
 誰もいない店内で、店主の霖之助さんだけがのんびり本を読んでいる。
 「こんにちは。少し見てますよ」
 「ああ、適当にどうぞ」
 と向こうは本から顔も上げはしない。この店、本当に商売する気がゼロだ。
 咲夜さんはちょっと呆れたような顔をしたけれども、意外とこまめに陳列棚の中を一つ一つチェックし始めた。
 僕も咲夜さんとは反対側の棚から見ていく。
 相変わらず節操なく色々なものがある。
 ビデオデッキの横にフランス人形。
 その上にはトランジスタラジオとチェスの駒が一式。でも肝心の盤がない。
 そうやってぼんやり見ているうちに、一つのものが目に留まった。
 懐中時計だ。
 古い作りのぜんまい式だけれども、デザインはシンプルかつ実に洗練されている。
 手にとって見ると、驚くほど軽い。
 蓋を開けて文字盤を見ても、うっすらとガラスが埃をかぶっているほかはまるで新品のようにきれいだ。
 こりゃ掘り出し物だな。
 「すみません、これいくらですか」
 僕は懐中時計を手に、店の奥にいる霖之助さんに声をかけた。
 「ああ、その懐中時計か。わりと安価かな」
 と霖之助さんは値段を告げた。
 一瞬聞き違えたのかと思ったほど、その値段は安いものだった。
 「そんなに安いんですか? だってこれかなり立派なものですよ」
 「ああ、そうだね。でもそれは幻想郷のものなんだ。製作者もはっきりしているし、用途と名称なんか当然知っている。
 僕は外から来た品物に興味があってね。あまりそれは興味がわかないんだ」
 自分の興味のあるなしで品物に値をつけるとは。
 誓ってもいい。
 絶対にこの店は繁盛しない。
 「じゃ、これ買います」
 「あら、個人で?」
 いつの間にか、隣に咲夜さんがいた。
 「ええ、無論。そうそう、それ、ちゃんと箱に入れて丁寧に梱包してくださいね」
 「はいはい、珍しいね。いつも君は包装を嫌がっていたのに」
 「…………まあ、心境の変化ですよ」
 とっさにそう答える。ちらりと横にいる咲夜さんを見たけれども、幸い気づいていないようだ。
 「よし、できたよ」
 とカウンターに置かれた小箱を取り、僕は財布からお金を払った。
 そして、そのまま。
 「はい、いつもトレーニングしてくださる感謝をこめて、咲夜さんに」
 隣に立つ咲夜さんに、そっと差し出した。
 「プレゼントです。受け取っていただけますか?」
 あっ、珍しい。
 心底驚いた顔の咲夜さんなんて、始めて見た。
 別に、これといった理由はない。
 ただ、自分のトレーニングにいつも付き合ってくれて、かつ色々と指導してくれる咲夜さんに何かお礼をしたかっただけだ。
 紅魔館にいては、なかなかそれはできない。
 ちょうど今、それがチャンスだと思ったのだ。
 「いかが…………でしょうか」
 さすがに沈黙が少し痛い。
 もしかして、懐中時計はお気に召さなかったかな。
 なんて思っていた頃、ようやく咲夜さんは僕の差し出した小箱を受け取ってくれた。
 「いいの…………?」
 「はい、気に入っていただけたら幸いです」
 にっこりと、咲夜さんは笑う。
 その笑顔が、胸に沁みた。
 「ありがとう。こんな言い方しかできないけれど、嬉しいわ」
 飾らない一言だったけれども、どんなお礼の言葉よりもそれは僕にとっても嬉しかった。

 結局、僕の方もまたプレゼントをもらってしまった。
 小さな銀色の十字架のペンダントだ。
 聖書神話の概念をスペルカードの基盤としている、と咲夜さんに以前言ったからだろう。
 「残念だけど、私は神を信じていないんだけどね」
 なんて言いながら。
 「僕だって、そんなに信心深くはないんですけどね」
 でもありがとうございます、と僕は大事に受け取った。
 僕たちのやり取りを見て、霖之助さんがニヤニヤ笑っていたのが気になるけど、気にしないようにしておこう。
 いくらなんでもプライベートという語くらいは知っているだろう。
 知らなかったら、文々。新聞に『香霖堂全焼!?』の記事が載るだけだけど。
 日が徐々に西に傾き始め、空が徐々に夕暮れの赤に染まっていく。
 ゆっくりと、僕たちはやっぱり二人で歩きながら紅魔館への家路を一歩一歩埋めていく。
 なんか、すごくほっとする時間が二人の間を流れていた。
 「でも、ありがとう。こんな風に形のある贈り物をもらうのって、本当に久しぶりだわ」
 隣の咲夜さんが、もう何度目だろうか、僕のあげた懐中時計の入った小箱を見ながら言う。
 「僕だってプレゼントをもらうのなんて久方ぶりですよ。ましてロザリオなんて」
 「ふふっ、あなたになんとなく似合いそうだったから」
 「もう気に入っています」
 早速僕はペンダントを首にかけていた。大きさも形も、目立たなくてちょうどいいくらいだ。
 大きすぎたら神父にされてしまう。
 「私も、大事に使わせてもらうわ」
 「そう言ってくれるとプレゼントした甲斐がありましたよ」
 よほど気に入ってくれたのだろう。
 感謝の気持ちって言うのは、ちゃんと形にするべきなんだと僕はつくづく感じた。
 「あなたも、だいぶ腕を上げたわ。鍛錬を続ければ、もうじき私の腕に並ぶでしょうね」
 ふと、咲夜さんは僕からも小箱からも視線をはずして、どこか遠くを見た。
 「そんな。まだまだ咲夜さんにはかないませんよ。実戦で相手してもらってもまだ一回も勝てていないんですよ」
 「今はね。でも、いずれあなたは私に勝つ。そうなれば、私から教えることはなくなるわ」
 「咲夜さん…………」
 なぜだろう。
 僕たちはそれを目指していたはずだった。
 でも、僕の訓練の終わりが近いことを告げた咲夜さんは、どこか寂しそうだった。
 そしてなぜだろう。
 僕も心のどこかで、何かを寂しく感じていた。
 その寂寞が、なぜ生まれたのかも分からないままに。





 「傷符『インスクライブレッドソウル』!」
 咲夜さんの両手に持ったナイフが凄まじい勢いで振られると同時に、僕の放った頁は尽く寸断されて散った。
 文字通りの紙ふぶきが紅魔館の庭に舞う。
 相手の動きを封じ、魔力を奪い、無力化せしめるはずの聖書を書写した頁が。
 ただのメイドの持つ、銀のナイフ二振りによって。
 空気さえも切り刻むそれは無数の真空を生み出し衝撃波となり、僕自身に襲い掛かってくる。
 「聖壁『巡礼の迷路』!」
 とっさにスペルカードを宣言と共に展開させる。
 周囲に無数の頁が現れ障壁を形成するが、それらも片っ端から切り刻まれて散っていく。
 何だよこの威力は。咲夜さんの実力ってどこまであるんだ?
 手持ちの頁の殆どが意味を成さない紙くずと散ったとき、既に咲夜さんの姿は目の前から消え、
 「はい、チェックメイトよ」
 すっと、僕の首筋に後ろからナイフが当てられた。
 「また同じ。こちらの攻撃に防御一辺倒。カウンターを狙う気がないの?」
 「…………すいません」
 時間を止めるメイドは、僕の後ろからひょっこりと姿を現した。
 軽くため息をついてから、ナイフをしまう。
 「そこさえ改善できれば、あなたはもっと強くなれるのに」
 厳しいけれども優しく、咲夜さんは少し居心地が悪い僕を見て告げる。
 最初は手も足も出なかった咲夜さんだけれども、最近ようやくまともに戦えるようになってきた。
 けれども実力差は見てのとおりだ。まだ一度も勝つことはできない。
 どんなにこちらが攻撃しても、一瞬で戦況はひっくり返される。
 あの時間を止める能力からは、森羅万象は逃れられない。
 「精進します…………」
 「でも腕はますます上がっている。それは事実よ。そのことは誇りに思って」
 「はい」
 「頑張って。――あなたには期待しているわ」
 「そうやって励ましてくれると、少しは自信が付きます。ありがとう」
 素直に例を言うと、少し咲夜さんは照れたみたいだ。
 「べ……別に…………。お嬢様をお守りするにはそれなりの力がないと困るから」
 何だか頬も赤くなったような気がするのは、ひいき目だろうか。
 「少し休みなさい。魔力の減少は即体調に出ないから無理しがちだけど、しっかりと休まないと後が大変よ」
 「分かりました。お疲れ様です」
 「ええ、またね」
 咲夜さんが紅魔館に戻っていくのを横目で見ながら、僕はとりあえず手近にある樹に背中をもたせ掛けて座り込んだ。
 後どれだけ、僕は強くなればいいんだろう。
 そして――――
 後どれだけ、僕は咲夜さんと共にいられるんだろう。
 だんだんと、僕は気づいてきた。
 このトレーニングを通して、僕は咲夜さんのことが好きになりつつある。
 あの一部の隙もない、まるで人形のような作り物めいた美しさ。
 触れることのできない、ショーウィンドーの向こうの宝石のような可憐さ。
 どこまでも、完全で勝者であり続けられる少女。
 気がつくと、僕は咲夜さんのことが好きになりつつあった。
 だから内心思っている。
 いつまでも、このトレーニングが続けばいいな、と。
 そうすれば、ずっと咲夜さんと共にいる理由がある。
 そうでもしなければ、忙しい咲夜さんのことだ。とても僕のような個人を構ってくれることなどないだろう。
 でも、それは勝手な願いだ。僕は強くなって、護衛の任に付かなければならない。
 ならば後、どれだけこんな満ち足りた時間が続くんだろう――――

 「お疲れ様です~」
 僕がぼんやり空を眺めていると、いきなりそんな声と共にひょいと覗き込まれた。
 「あ、美鈴さん」
 「えへへ~、ずっと見てましたよ。最近どんどん腕を上げてすごいなーって思ってました」
 門番の美鈴さんはにこにこしながら腰をかがめて僕に視線を合わせる。
 この人も妖怪らしからぬ人だ。美人だしスタイルもいいし、実は結構こまめで気が利く。
 そもそも、最初に行き倒れていた僕を森で拾ってくれたのもこの人だったよな。
 「どうしました?」
 尋ねた僕の目の前に差し出されたのは、急須に湯のみ、それに饅頭の乗った皿が置かれたお盆。
 「休憩するんでしょ。ご一緒にどうですか?」
 お茶に誘われて断る理由などない。
 「もちろんです。いやむしろご一緒させてください」
 「はい、じゃあ、お隣よろしいですか?」
 と美鈴さんは僕のとなりにちょこんと腰を下ろす。
 門番の業務はいいんだろうか。まあ、こんなのどかな日に紅魔館を強襲する敵なんかいないだろうけど。
 魔理沙も霊夢も今日は家でのんびりしているころだろう。
 急須から注がれたお茶は日本茶だった。
 「てっきり烏龍茶かジャスミンティーかと思っていましたよ」
 「ここに来てから覚えたんですよ。この方が受けがいいですし。あなたも日本人ですから紅茶とかよりいいかなって思って」
 一口口に含んでみると、爽やかな香りがいっぱいに広がる。
 「おいしいです。苦味も少ないし僕は好きですよ」
 「ありがとうございます。そう言っていただけると煎れた甲斐がありました」
 さっそく饅頭にぱくつきながらもごもごと笑う美鈴さん。
 僕もまた、遠慮なく皿に手を伸ばして饅頭をほお張ることにした。
 しばらく無言で味覚を楽しませているうちに、ひょいと美鈴さんがこっちを見た。
 「さっきの続きですけど、本当にあなたは強くなりましたよ。もう咲夜さんとかかなり焦っているくらい」
 「そんな。まだまだ余裕でしょ」
 「いいえ。私は咲夜さんと付き合いが長いから分かりますけど、咲夜さんって追い詰められても顔にも態度にも全然出さないです。
 だから、ほんの少しの雰囲気の違いで見分けるしかできないんですけど、私の目から見たらだいぶ焦ってましたよ。
 やっぱり思い入れがある人を育てるって大事なんですね。それだけ身を入れて教えられるからちゃんと育っているんですよ」
 うんうんと美鈴さんはうなずいている。思い入れ? どういう意味だそれ。
 「何ですかそれ? 僕はお嬢様の護衛を任じられたから、それに見合うようにトレーニングしてもらっているだけですけど?」
 妙なことを美鈴さんが言うと思って聞き返すと、逆に美鈴さんのほうが妙な顔をした。
 「お嬢様の護衛ですって? そんなものいりませんよ。全然そんな話私知りません」
 「ええ? 僕はてっきりみんな知っていると思って…………」
 「全く話題に上ることもないですよ。誰から聞いたんです、そんなガセネタ」
 足元に、突然穴が開いたかのような気がした。
 いったい、どういうことなんだ。
 なぜ、僕はこんなことをしていたんだろう。
 「ねえ、誰からなんです?」
 自分でもギクシャクしていると分かる動きで、美鈴さんの方を見る。
 「さ、咲夜さんからですけど…………」
 「ええええっッ!? ど、どうして咲夜さんそんなことを?
 だって、護衛なんてレミリア様は十分お強いし、それに咲夜さんが既にいるのに…………」
 「僕に聞かないで下さいよ。本当に、護衛なんて話はないんですね?」
 「ええ、レミリア様からもそんな話は一切聞いていないです。私はてっきり、咲夜さんがあなたに個人レッスンをしているんだとばっかり………」
 お互いの顔を見合わせても、そこには疑問以外の何の感情もない。
 どういうことなんだ。
 咲夜さんの言った、護衛の役というのは全くの嘘だったのか。
 美鈴さんが僕をだますことはないはずだ。その必要がない。
 でも、それは咲夜さんだってそうだ。だます理由も必要もない。
 いたずらならとっくにばらしてもいいはずだし、何よりもこんな大掛かりないたずらをしたら咲夜さんのほうが大変だ。
 だったら、なぜ咲夜さんはそんなことをしたんだろう。
 わざわざ僕に嘘の昇進をさせて、多忙の合間を縫って僕に付き合って。
 「もしかしたら………咲夜さんってあなたのことが好きなのかもしれません」
 突然美鈴さんがそんなことを言い始めて、僕の頭は一瞬真っ白になった。
 「そ、それはどういう意味なんですか中国さん!?」
 「名前を間違えないで下さい! 私は紅美鈴です中国じゃありませんひどいです!」
 「あっあっごごごめんなさい! でもいきなり好きだなんてそんなわけがないと思ったらつい混乱しちゃって」
 頭を下げて何度も謝ると、少々むくれていたけれども美鈴さんは「じゃあ、しょうがないですね」と機嫌を直してくれた。
 「えーとですね、咲夜さんって無駄なことはしない人なんですよ。だから、いたずらとかかつぐ目的とかじゃないです。
 それに、私は門番だからずっと見ていましたけど、すごい咲夜さんの指導って熱が入っていたんです」
 ああ、それは同感だ。たしかにとても熱心にあれこれと教えてくれた。
 ほんと、最初は体術のイロハもダメだった僕がここまで成長できたのも、ひとえに咲夜さんのおかげだと思う。
 「こう言っちゃっていいのかな、もう真剣そのもの。あなたは特別な人ですって気がばっちり見えちゃってましたよ」
 「気ですか?」
 「ええ、私の能力です。感情とか思いとかって気に表れるんですよ。咲夜さんは普段はクールで誰に対してもちょっと冷めているんです」
 「僕のときでも同じでしたよ」
 「それは自分を抑えているから。気は偽れません。咲夜さんの気の流れは、あなたのときだけは全然別でした。
 あなたに関心を持っていることなんて、私から見たら丸わかり。あなたにはちょっと信じられないかもしれませんけど、私には分かります。
 誰に命令されるでもなく、あなたの訓練をしているなんて、これはあなたのことを好きだとしか私には思えませんよ」
 「僕を………好きだと…………」
 「嫌でした? もしかして咲夜さんのこと嫌い?」
 「いえ、その…………むしろ………僕も好きかな…………と」
 「うわぁ、それって最高じゃないですか。両思いですよ両思い」
 手を叩いて喜んでくれる美鈴さんだけれども、僕は突然のことにどう反応していいのか分からない。
 あくまでもこれは憶測だけれども、咲夜さんとは両思いになれたのだろうか。
 だとしたら、すごく嬉しい。
 だとしたら…………
 「ならば、きちんと訓練をつんで、咲夜さんを負かしちゃうんですよ」
 美鈴さんはそう強く言ってこぶしを握り締める。
 「咲夜さんのことですから、生半可なことじゃ気持ちは伝わりません。ここまであなたに付き合ってくれたんですから、
 しっかりとその気持ちにこたえなきゃダメですよ」
 目が合うと、美鈴さんはうん、と大きくうなずく。
 そうだ。
 たしかに、そのとおりだ。
 だとしたら、僕はなおさら強くならなくては。
 咲夜さんの期待に応えられる人にならなくては。
 その暁には、きっと。
 僕は、咲夜さんに好きだと伝えられるのかもしれない。





 「咲夜さん、あなたに伝えたいことがあります」
 「…………私も、あなたに言わなければならないことがあるわ」
 頁が袖口から引き出される。
 ナイフが腰から引き抜かれる。
 「始めましょうか。完全で瀟洒な従者!」
 「始めましょう。異邦の魔人!」

 全てのスペルカードを、突破した。
 「時符『プライベートスクウェア』!」
 「出でよ、天使召喚『ヨフィエル』!」
 止まる時間は、翼を広げ祝福を与える天使の加護によりほぼ無効化する。
 「幻葬『夜霧の幻影殺人鬼』!」
 「来たれ、堕天使召喚『エリゴール』!」
 無数に交錯しつつ飛び交うナイフは、甲冑をまとり槍を手にした堕天使がなぎ払う。
 初めてだ。
 ここまで戦いが長く続いたのは。
 けれども、どちらも体力と精神力を限界まで消費している。
 「強く――――なったわね」
 「咲夜さんの………おかげですよ」
 肩で息をしながら、僕はそれでも笑って見せた。
 「変わらないわね。そういうところ」
 対する咲夜さんは、傍目から見ると息一つ乱れていないように見える。
 けれども、美鈴さんじゃないけれども僕には分かる。
 何回となく、スペルカードとスペルカードをぶつけ合わせてきた僕には分かる。
 おそらく、これが最後。
 咲夜さんが僕に教えるべき、最後の試練。
 「ならば、見せてあげる」
 引き抜かれる、最後であるはずのたった一枚残ったスペルカード。
 「これにあなたが耐えられるならば、もはや全てが終わり」
 右手の中で、カードは輝きながら消えていく。
 「私があなたに教えられる、最後にして最大のスペルカード――」
 静かに、こちらに向けられるナイフ。
 咲夜さんが手を離す。
 ナイフは地に落ちることなく、ゆっくりとこちらに向かって宙を進んだ。
 僕は見た。
 宙を這うように進むナイフが、2本に分裂したのを。
 2本が4本に。
 4本が8本に。
 8本が16本に。
 16本が32本に。
 32本が64本に。
 64本が128本に。
 128本が256本に。
 倍々に増え続けていく。
 目の前を覆いつくし、増殖し空間を埋め尽くしていくナイフ。
 1024本が2048本に。
 生み出される、過去と未来の姿。
 あり得たかもしれない可能性を、強制的に引き出し形としていく。
 ただの一本のナイフが、決して回避を許さない無慈悲な布陣と化す。
 16384本が32768本に。
 32768本が65536本に。
 65536本が131072本に。
 これが、彼女の最高のスペルカードか。
 そして、宣言が響く。
 「極意『デフレーションワールド』」
 世界が、彼女の意思に従う。

 時空が縮小する。
 誰も知りえない、あまりにも異様な感覚に五感が悲鳴を上げる。
 過去、現在、未来が混在して同居して一度に自己を主張する。
 逃げ場がない。
 今ここにいる自分なんていう明確なものがなくなる。
 今? ここ? 自分? それは何だ?
 全ては咲夜の世界。
 彼女のみが観測を許される絶対固有空間。
 ナイフが――――
 空を埋め尽くし、地を埋め尽くし、宙を埋め尽くすナイフが――――
 いっせいに、こちらを向く。
 全てが同時に襲い掛かる。
 分かっているけれども、回避も防御もできはしない。
 時空が彼女の支配下に置かれている。
 排除されるべきは自分。
 だが、唯一支配されていないものがある。
 それは、僕自身の意志だ。
 応えよう。
 彼女の思いに、応えよう。
 ならば告げるべし。
 我が、究極のスペルカード。
 ヨハネの幻視した終末を、ここに具現させる。
 おお主よ、我に汝の僕と同じ幻影目にすること許したまえ。
 「極意『トゥ・メガ・セリオン』」

 ―わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。
  これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、
  頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた―

 世界が書き換えられる。
 いつか起きるべきものなのか、もう既に起きてしまったのか。黙示の時が立ち現れる。
 周囲は無限に広がる海。
 そこから、一匹の凄まじく巨大な獣が上ってくる。
 様々な姿かたちの混ざり合った奇怪な姿の獣が。
 その姿は獅子。
 その姿は熊。
 その姿は豹。
 その姿は蛇。
 その姿は猿。
 その姿は王冠を頂く人。
 それは――――
 七頭十角の大いなる獣。
 神にさえ牙を剥き、人の世を惑わす悪魔の化身。
 「神様なんて(゚⊿゚)イラネ」とか「聖書(・へ・)ツマンネ」とか書いてあるのにはげんなりするけど。
 吼える。
 七つの頭を振り上げ、獣が吼えた。
 人の蛮声にも似た絶叫が森羅万象を怯えさせ、終末の時は来たれりと告げ知らせる。
 世界が、砕けた。
 十六夜咲夜という個人の支配する世界など、大審判の時には何の意味があるだろうか。
 ガラスが割れるかのように、デフレーションワールドが崩壊した。
 彼女の意思の支配する世界が終わりを告げ、黙示録の獣に飲み込まれていく。
 いつかは、僕たちの住む世界もああなってしまうのだろうか――――
 張り詰めた五感が、正常な世界に戻ったことを教えた。
 やがて海は去り、獣の姿は見えなくなる。
 そこは再び、いつものトレーニングをしていた紅魔館の庭だった。
 立ち尽くすのは、僕だけ。
 咲夜さんは、地に倒れていた。
 僕は、初めてこの人に勝つことができた。





 「あ、気が付いたんですね」
 芝生に横になった咲夜さんが眼を開けたので、僕は側に座ったまま身を乗り出した。
 「あなた…………」
 「よかった。たいした傷もなくてほっとしましたよ。美鈴さんに治療してもらいましたから、あとはしばらく寝ているだけです」
 気を操る美鈴さんは、治療だってできる。
 いつになくぼんやりとした様子で、咲夜さんはこっちを見ていた。
 まだ、この人に勝利したという実感がわかない。
 時空を縮小させ、過去と未来を同時に混在させ、それら全てを同時に襲い掛からせる極意「デフレーションワールド」。
 けれどもそれは、僕の極意に敗れた。
 極意「トゥ・メガ・セリオン」。
 黙示録の時を一時的に呼び出し、あらゆる魔法を破壊しあらゆる結界を粉砕する圧倒的なスペルカード。
 よくもまあ、そんな大それた魔法を身につけることができたものだ。
 あの日、咲夜さんが僕を存在しないはずの護衛の役に任じたときから、何もかもは始まった。
 いったい、どうして…………。
 僕が黙ったままじっと咲夜さんを見ていると、咲夜さんは視線を逸らして真上を見上げた。
 今日も、紅魔館の外はいい天気だ。
 「何も聞かないのね」
 「え…………?」
 「知っているんでしょう。本当は護衛の役なんてないってこと」
 きょとんとして咲夜さんを見つめたまま固まっていると、ちょっとだけ笑って
 「なんとなくよ。こうして刃を交えているとね、色々なことが分かってくるの。だからなんとなく、そうじゃないかって思って」
 「ええ、知っていました。だとしたら、どうしてこんなことをしたんです?」
 尋ねると、咲夜さんはごろりと向こうを向いてしまった。
 「…………見たかったのよ」
 「何をです?」
 「あなたが………強くなっていくのを」
 何も言えずに、僕は咲夜さんの独白を聞いていた。
 「恥ずかしい話だけどね。あなたのことが気になって仕方がなかった。ずっと、あなたのことを考えていた。
 でも、私はメイド長であなたは料理係。一緒にいることなんてできない。だから、私は嘘をついたの。
 護衛役が回ってきたとしたなら、あなたと私が一緒にいてもおかしくない。
 あなたと一緒にいられる理由ができるって、そう思ってしまった。
 だって…………私はあなたのことが、好きだから」
 「咲夜さん…………」
 「変な話よね。こんなの職権乱用だって分かってる。でも……でも…………、
 こうするよりほかに、あなたといられる方法なんて思いつかなかった…………」
 ああ、そうだったのか。
 僕は、どうして気づかなかったんだろう。
 ずっと、咲夜さんは完全な人だと思っていた。
 人形のように精緻で、華麗で、一部の隙もない完璧な従者だと。
 でも、そんなのは間違いだ。
 咲夜さんだって、一人の人間だった。
 ドジだってするし、迷いもすれば間違っていると分かっていてもやってしまうこともある。
 その内面は、普通の女の子だった。
 どうして、僕はそれに気づかなかったんだろう。
 ただ、咲夜さんの表面しか見ていなかった。
 もっと、この人の思いを酌んでいれば、こんなに思いつめることなんてなかったのに。
 「咲夜さん、聞いていただけますか」
 優しく声をかけると、咲夜さんはゆっくりとこっちを向いてくれた。
 少し緊張するけど、目を見てはっきり言った。
 「僕も、咲夜さんのことが好きですよ」
 咲夜さんの目が、大きく見開かれた。
 「……本当、なの……?」
 「はい。最初は分からなかったですけど、今ならはっきり言えます。こうやって、咲夜さんとずっといたから言えるんです。
 僕は、咲夜さんのことを愛しています」
 はっきりと、告げることができた。
 決して、咲夜さんとのトレーニングは無駄なものじゃなかった。
 ここまで時間を共にできたから、こうして告白することができたのだ。
 「受け取って…………いただけますか?」
 咲夜さんは、うなずいた。
 「はい。喜んで」
 その笑顔に、また心が痛いくらいに震わされる。
 泣いてしまいそうなくらいに、嬉しさを感じて。
 照れ隠しに、僕は立ち上がった。
 「よしっ! ならばこのことを紅魔館じゅうに報告しましょう」
 言って倒れたままの咲夜さんの背中とひざの裏に手を伸ばして、
 「きゃっ!?」
 一気に抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこという形だ。
 「『僕たち付き合うことにしました!』ってね。きっと祝ってくれますよ」
 「ちょっ、ちょっと、そんなの恥ずかしいわよ」
 「いいじゃないですか。隠すようなことはないですよ」
 こうやって人一人を抱き上げる筋力だって、咲夜さんとのトレーニングで培ったものだ。
 咲夜さん、あなたのしてくれたことは、決して無駄なことなんかじゃなかったんですよ。
 抱き上げると不意に、咲夜さんは僕の首に手をやった。
 「あら、これ…………」
 「ええ、いつもつけていますよ。咲夜さんからの贈り物ですから」
 例の十字架の首飾りに、咲夜さんは指を滑らせた。
 「私も、あなたからもらった時計はいつも使わせてもらっているわ」
 「よかった。実際に使えてこそ時計ですから」
 かすかに咲夜さんは笑った。
 「こんなふうにあなたにめぐり合えたなんて……ちょっとは神様も信じていいかもね」
 「あはは、実は信心深くはないですけどね、僕も」
 僕たちはそのまま、どんどんと門をくぐって紅魔館のほうへ向かっていく。
 咲夜さんは最初恥ずかしがっていたけれども、やがて諦めるように苦笑した。
 「もう、仕方のない人ね。でも………そんなところが好きになっちゃったんだけど」
 そして、そっと僕の頬に。
 頬に触れた唇の感触は、完全で瀟洒な従者からの贈り物ではなく、
 十六夜咲夜という女の子からの贈り物だった。


最終更新:2010年05月15日 23:06