咲夜17
新ろだ2-008
「――あら、まだ起きていたの?」
「……別に驚くことじゃないでしょう。私が部屋に来たぐらいのこ
とで」
「あなたがパーティーに出たのは今日が初めてだったから、ちょっ
と様子を見に来ただけよ」
「当然でしょう。あなたも私の部下なんだから。お嬢様やパチュ
リー様のお相手をするのは普通の人には大変だったんじゃないかし
ら。見るからに振り回されていたし、少し参ってる様子だったから。
……美鈴ぐらいね、あなたに気を遣ってたのは」
「それに昨日の朝からずっと働き詰めだったんだから。休まないと
身体を壊してしまうわよ」
「大丈夫、じゃないわよ! 明日も朝から仕事をするなんて。普通
の人間なのよ、あなたは。どうしてそんなに……」
「……明日は休んでていいって言ってもきっと無駄なんでしょう
ね」
「それじゃあ、あなたにいい所を教えてあげましょうか? そこな
ら十分な睡眠が取れるわ。一分ぐらいで」
「あるのよ、そういう場所が。あなたも、私の能力を少しは知って
いるんでしょう?」
「そう、そのまさかよ」
「私以外のすべての時間が止まってしまうけど、でも私が触れてい
るものは私と同じ時間が流れるのよ、つまり……」
「なにを慌てているの? もしかして不服なのかしら……私の傍に
いるのは。どうせなら試してみるぐらいはいいんじゃない?」
「じゃあどういう問題なのかしら……。あなたが無理をして倒れら
れても困るから、勝手にやらせてもらうわね。ついでに私も休ませ
てもらうつもりだから」
「ほら、手を出しなさい」
「――ようこそ私の世界へ。大丈夫、みたいね?」
「不思議な感覚……私以外がこの時の止まった世界に入門してくる
なんて」
「でも普通の世界に生きてきたあなたのほうが、ずっと不思議な感
覚かもしれないわね」
「空気が静止した音の響かない匂いも届かない世界……味気ないか
もしれないけど、生きている人間の感触だけは本物と何も変わらな
いわ」
「戸惑っているところ悪いけど、眠る用意をしましょう。別にあな
たのベットでもいいわよ? 元々用意したのは私なんだから」
「着替える必要は、ないわね。私にはいつでも着替える時間がある
からこのままでもいいし」
「ほら、早く横になって………………どうしたの? 眠れない?
顔が真っ赤よ、調子が良くないのかしら……何か心配なことでもあ
るの?」
「確かに、何時間でも止めていられるわけじゃないわ。空気の循環
は私たちが動かなければひどく緩慢だから、初めは少し息苦しく感
じるかもしれないわね」
「それに、しばらくしたらエントロピーの喪失が始まって、生物の
生きられる世界ではなくなってしまうから、実質それまでが連続し
て時間を止めていられる限界ね」
「……意味がわからない? つまり時間を止めていられるのはそん
な長くはないってことなのよ」
「もし手を離してしまったら、あなたが止まってしまうだけよ」
「あなたの心配してることがわかったわ。……きっと寝相が良くな
いんでしょう? うふふ、子供じゃないんだから」
「ごめんね、あなたにとっては切実だったわね」
「それじゃあ、こういう方法はどうかしら」
「ほら、こうやって背中に手を回せば……これで私から離れる心配
はなくなったでしょう?」
「肌寒くても、これなら少しは温かいものね。でも変な気を起した
ら……わかってるわね? ちょっとスカートを捲れば、ナイフが…
…」
「……どうしたの? さっきより顔が赤くなったわよ。逆に暑いく
らいだったのかしら」
「くっつきすぎ? 確かに顔、近いわね……それなら、することは
一つね」
「ほら……んっ……」
「こちょこちょこちょ……うふふ、くすぐったい? 私のお下げに
も、こういう使い方があるのよ。少しはリラックスできたかし
ら?」
「……え? キスされるかと思った……?」
「そ、そんなこと、するわけないでしょう! 私の顔が赤くなって
る……? いきなりそんなことを言い出すからよ! まったく、あ
なたったら……」
「あ、あなたとキスするだなんて……そんな、こと」
「そんなことより、早く眠りなさい! 疲れているんでしょう?」
「どきどきして眠れない、って」
「これだけくっついているんですもの、もう伝わっているわ」
「それじゃあ、もしかして私のも……?」
「同じだって分かったら、なんだか恥ずかしいわね……」
「……私、こんな近くに男の人の肌を感じることなんてなかったか
ら」
「今日だって、あなたのことが気になったから、この方法を試して
みて」
「そうしたら、あなたが思いも寄らないことを言うものだから…
…」
「だって、少し心配だったのよ。お嬢様やパチュリー様があんまり
あなたにちょっかいを出していると、紅魔館の使用人の仕事に嫌気
が差したりしないかって」
「……それであなたが逃げたりしたら、イヤだもの」
「そんなことはないって、よくそんな簡単に言えるものね」
「……私が、ここにいるから? え、あ……」
「わ、私の顔、そんなに赤くなってるかしら……あ、あなただって
相当なものよ」
「これじゃあ、いつまで経っても眠れないじゃない……」
「ねえ……さっき言ったことも、試してみる……?」
「……キス、してみるとか」
「今は、少し興味があるわ」
「……ちゅっ」
「うふふ、今日は頬に……だけよ。ちょっと恥ずかしいけど……」
「急に力が抜けて……眠くなってきた? 良かったじゃない、効果
覿面ね」
「しばらくこうしているから、ゆっくり休みなさい。時間がきたら
起してあげる」
「それじゃあ、おやすみなさい――」
「ちゅ……ん」
おしまい
チル裏
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いっしょにすりーぴんぐと言いつつもその実態はアールグレイの
DOKIDOKIディスクっぽいという……。そのため敢えて○○側の台詞
と地の文は省略していますので、細かい設定とか、どんな会話をし
ているのかは咲夜さんの台詞の前後から推測してください。
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チル裏
新ろだ2-013
紅魔館、言わずとしれた悪魔の館で、住人従者問わずその殆どが人外であり、また女性である。
しかし人間、或いは男性が全くいないと言う訳ではなく、ごく少数ながら住み込みかパートタイムで働く者もいた。
前者は紅魔館がメイド長であり、また払いは悪いが飯の食いっぱぐれがないので遊び半分に里の若い女性なども時折来る。
しかし十中八九が女と言う環境に気後れするのか里の男性が働く事は滅多になく、男は専ら生活基盤の無い外来人が働いたりしていた。
「拙い。もう薪が無くなりそうだ」
紅魔館に一人頭を抱えている男がいた。板張りの床の上に質素な椅子をおき、それに座る燕尾服を着た男である。
「煮炊きに使うのは残さなきゃいかんし、でも暖炉用も残さないとメイド長が怖い」
男がいるのは紅魔館の資材倉庫。食糧や備品など生活物資全般を保管し管理しているが、その中でも彼は燃料を主に扱う。
「風呂の制限強化でもやろうか」
その男は元は外来人であり数勘定に長けていた、と言っても妖精より数字に強いのは当然なのだが、為に需品をしていた。
数量の計算と消費量の算出、保持日数の推計が主な仕事だが基本は閑職で、無職を作らないようにしているに過ぎない。
「ひとまずメイド長に相談するか」
言って彼は立ち上がり扉の取っ手に手をかける。実際執事のような格好をしているが、彼にそのような権限は無いのだった。
ガタガタと窓ガラスが呻く。分厚いカーテン越しにも外の吹雪の音がよく聞こえ、どれだけ外が寒そうかが判る。
男はコンコンと二度扉をノックし返事を待った。居れば応えがあるし居なければ無い。
普段から気紛れな主人について回っている為に、メイド長はこの時間には居ると言う事が無く、捕まえられるかは運次第であった。
「どうぞ」
少しの時間の後に短い応諾の声。どうやら今は居るらしい。男は大きな扉の取っ手を掴むとゆっくり押し開けた。
まず目に飛び込んできたのが、赤い絨毯に大きな机と大きな椅子。絨毯は足を踏み出せば大きく沈み、椅子はと言えば赤い革で設えられた豪華なものだった。
これだけでどれだけ珍重されているかがわかる。まあ随分自分のところとは違うものだと男は内心で笑った。が、それを表に出す事無く、彼は踵をつけて言う。
「同志メイド長、もう燃料の残りが少なくあります」
後ろに金糸で誂えられた旗でもあればより風情も出ようにと思うが、まあどうでもいいとも男は思う。
無駄に赤々しく豪華な所為で、映画に出てくる赤い将軍のいる部屋のようだと思っただけだ。
「話し方はともかくとして、そんなに少ないのかしら」
椅子に座るメイド長と呼ばれた少女、と言っても良い年だろう、は綺麗な銀髪を両手で抱えながら言った。
何に頭を抱えているのかは男の知る事では無いし、大して興味も無い。
「ええ。数日中に無くなると言う事はありませんが、入荷しなければ今冬は心許ないかと」
なので特に気遣う様子も無く事務的に話す。少女もそれで立ち直ったのか目線を男に向けた。
「そうね、なにでそんなに薪を使っているのかしら」彼女がペン先を男に向けながら問う。
「まずは煮炊きと風呂ですね」男がすぐに返す。
紅魔館は兎角メイドの数が多いのでそれらの衣食住に関わるエネルギー消費はかなり大きい。
殆どがさほど役には立たない妖精メイドなのだが、見栄の関係から首を切らないと言う何とも貴族な館である。
「それ以外なら?」少しの考え事の後にまた少女が問う。
「図書間の暖房でしょうな」男はまたあっさりと言う。
だだっ広い紅魔館の図書館。その全館に対して暖房をしている訳では無いが、しかし結構な範囲を暖めているのも事実である。
特に館主は椅子に座れば一昼夜座っているような御仁なので殆どの暖房は無駄なのだった。
「あそこの机を壁で囲もうかしら。なら削減出来そうなところはあるかしら」
それが判っているからこその発言である。男は満足そうに小さく微笑み、また間髪入れずに答えた。
「お嬢様の暖炉」
「それは除外して頂戴」
豪くはっきりした声で男が言うと、少女は即座に拒否をした。
最初から受け入れられるとも思っていなかったのか、男はすぐに次の案を出す。
「風呂と炊事の時短、あとは談話室を小さくして熱の必要量を減らす」
「他には?」
コツコツとペンの後ろで机を叩きながら彼女が言う。
「パチュリー様を投入」男が言うと少女は顔に疑問符を浮かべた。
魔法かしらと問われると男は首を横に振り答える。
「図書館に保管されている古雑誌を燃やしてしまえばいいんですよ」
男の提案、しかし今度は少女がそれはできないと首を横に振った。
「お嬢様の御友人で紅魔館の客人の物よ。そんな事できる訳無いでしょう」
「8年前の週アスなんて役に立ちませんのに」男は肩を竦めながら言った。
「それで他に何か無いのかしら」
三度少女が問う。先程の提案は途中で打ち切られてしまっていた。
「薪を調達に行く。倉庫のA重油を使う。諦めて布団を被る」
「どれもダメよ。雪が酷いし炉を傷めるし仕事ができないわ」
男は口々に言い、少女は口々に拒否をしてため息をついた。
「つまりは生活に使うのを減らすしか無いのね」
至極残念そうに言う彼女。彼女も寒いのは苦手なのかもしれない。
「そうなります。まあ身の回りから削るのは節約の常です」
男もやはり残念そうに返した。
「それじゃあ、まずはどうしようかしら」
「風呂の時間を短くすればいいでしょう。人が多ければ保温にもなりますし」
少女に問われた男の提案。彼女はそれに眉間に皺を寄せて答えた。
「そうすればあなたが入る時間も短くなるわよ」
紅魔館には大風呂は一つしか無い。小さな物ならまた幾らかあるが、それらは主人などの使う物なので勘定に入れるべきでは無いだろう。
メイド達はその大風呂を時間を区切って使用していた。部門ごとなどでは無く単純な入れ替え制である。
そして男性の彼はまた短時間だが別な区切りで風呂を使用していた。風呂の時間を減らせばそれも減ると言う事だ。
「別に2日に一遍で構いませんし。と言うか桶2杯の湯があればなんとでも」
心底どうでもよさそうに言う男。実の所割当時間中にも妖精メイド達に乱入されるので時間配分はあまり用をなしていないのだ。
だが彼の目の前にいる少女は自分用の風呂を使っているのでそれを知らないし、また男も教えるつもりは無い。言えば面倒になりそうだったからである。
「そう言う訳にもいかないわよ。まったく、身綺麗にしなさい」
しかして彼の心中実態を知らない彼女はそのように言う。身を正せと。
実際には男も一応風呂には入っているし、時間が無い時は濡らしたタオルで体を拭く程度はしている。
「ほら、髪もこんなにボサボサじゃない」
しかし髪の毛は面倒なので適当だった。癖毛なので櫛を入れても整いにくく、諦めていたと言っても良い。
だが彼女は彼の事情など当然知らない。なので彼女は彼に近づき、無駄な足掻きと言う物を始めた。つまりは整髪を。
「何やってるんです? メイド長」
「髪を整えているのよ。ほら後ろ向いて」
数度前髪を整えると、彼女は男を反転させるように手で回した。彼はそれに逆らわずに回れ右をする。
後ろを向くとざくざくと髪に櫛が入り、その度に彼女が顔をしかめる。櫛の通りが悪いのと、整えた端から跳ね上がるのが大層不満らしい。
「ああもう襟で髪が丸まってるじゃない。偶には切りなさい」
「切るにも妖精に任せると不安ですし」
「なら私がやるわ。服を脱いでその椅子に座りなさい」
言って自分が先程まで座っていた椅子を指差す少女。椅子の下にはいつのまにか新聞紙が敷かれ髪の毛が絨毯に落ちないようになっていた。
しかし彼に服を脱ぐ気配は見えない。腕前が判らないので不安と言う以上に恐ろしい事があったからだ。
「ほら早く脱ぎなさい」
だが彼の胸中を察する事のない彼女は、ナイフで髪を切る真似をしながら男を恫喝する。
そうナイフ。鋏は見当たらない。なぜナイフで髪を切ろうとしているのか。男にはそれが堪らなく不安だった。
ナイフで脅されては脱がない訳にはいかない。けれども妙な髪型にされるのも嫌だ。
考えている間にも少女はナイフを頬に当てながら、服の襟に手を伸ばしている。
「咲夜さんちょっといいで……何やってるんですか?」
「散髪」少女がなんと言う事も無いと言う風に答える。
結果、男の二律背反は不意の闖入者が現れるまで続いた。
「それでどうしたの? 美鈴」
「ええ、外で使う薪が切れたので貰いに来ました」
咲夜と呼ばれた少女が問い、美鈴と呼ばれた赤毛の女が答える。男は外されたシャツのボタンを掛け直していた。
女はなぜ男が脱がされていたのかとても訊きたそうにしていたが、二人とも不機嫌そうな顔をしていたので自重していた。
まさかこんな所で逢い引きは無いだろうけど、彼女は思う。
メイド長の居室は主人が来たりメイドが来たりとそれなりに騒がしい。密会には向かないのだ。
まあ咲夜さんが何か変な事をしようとしたのだろうな、と彼女は一人で納得しておく事にした。
少女は周りには瀟洒で通っているがその実結構抜けている所があるのだ、と女は心の内でクスリと笑う。
あくまでも今のうちはそう思っておくだけで、後でちゃんと男に顛末は聞くのだが。
「ですって。出してあげなさい」
「資材部は反対する」
などと女が考えている間にも男はネクタイを締め直すと待っていたのだろう少女言われ、そして男はそれを拒絶した。
薪を要求した女は断られるとは思っていなかったらしく、ひどく驚いた様子で強く男を問い質す。
「ちょっと、何で反対するんですか」
「薪がもう少ないそうよ」
少女が男の言を代弁する。女はそんなに少ないのか、と言う風な顔を作り男はコクリと頷き言った。
「資材部は次の三案を提案する。1我慢。2我慢。3我慢」
「我慢しか無いじゃないですか」
男の無茶に女はブンブンと腕を振り回しながら抗議する。
いい年に見えるのだが、子供っぽい仕草も可愛らしいと思える愛嬌を彼女は備えていた。
「じゃあ武装強化と戦線の縮小も提案しておこう」
ガクガクと肩を揺さぶられながら男は追加する。彼女はその提案に眉間に皺を寄せながら訊いた。
「つまりは?」
「着込むか館の中に入れ」
あっさりと男が言う。女は大きなため息をつくと言った。
「駄目ですよ。門番が門にいないで何するんですか」
「ドアマンでもやればいいじゃない」
「向こうが見えないのにどう扉を開けろって言うんです」
残念そうなのは彼女も寒いのが嫌いだからなのだろう。それなりに温かい館は誰でもやはり恋しいのだ。
特に外回りの者は雪に埋もれながらになるので、熱源への執着は一際強い。
なので男も適当なタイミングで薪を渡そうと考えていた。節約しなければならないので、若干量を減らしてだが。
「それじゃあ諦めるしかないね」
「じゃあ資材で使うのをちょっと貰っていきましょう」
しかし今は彼女をからかうのを止めるつもりはなかった。少なくとも制止が入るか時間が来るまでは。
「あなた達仲良いわねえ。随分長い付き合いに見えるわ」
今までぼんやりと二人のやりとりをみていた少女が不意に口を開く。
声には心なしか苛立ちが感じられ、男はそれを部屋で五月蝿くされたせいだと思った。
「そうですか? 咲夜さんも兄弟みたいに見えましたよ」
女が笑顔で答える。彼女も少女の苛立ちは感じ取っていたが男とは考えが異なる。
恐らくは自分の持っている感情と同じなのだろうと、そう彼女は考えていた。
「キョウダイ?」
少女が問う。誰も、もしかすれば主人も本人すらも実際の年齢を知らないのかもしれない少女が問う。
「あら美鈴、どちらが年上なのかしら」
目を細めながら、また太腿の膨らみに手をかけながら少女が問い、辺りを不穏な空気が包む。少女は心なしか重心を前にずらし、女は半歩後ろに下がった。
「いやだなあ咲夜さん。咲夜さんが妹に決まっているじゃないですか」
弁明するように、顔の前で顔の前で両手をパタパタと振りながら女が答える。
「そうかしら。私の方が年上みたいに聞こえたのだけれど」
なおも追及を緩めない少女。少女も女であるから年齢は気になるらしい。
冷や汗を垂らしながらもう一歩後ろに下がる女とそれを追うように半歩踏み出す少女。
「それじゃあ仕事がありますので、私はこれで」
剣呑な気配を感じ取った男がまず失せた。挨拶をするとくるりと背を向け、一目散に部屋から転げ出る。
自然と視線は残された一人に注がれ、
「あはは、私も仕事に戻りまーす」
言ってその一人も乱暴に扉を開けると男の歩き去った方に逃げた。
声をかける暇も無く少女は一人部屋に取り残され、しょうがなさそうに腿のナイフ入れから手を離した。
「待ってください」
大きな声がする。それほど離れていない男に女が声をかけたのだろう。
ドタドタと言う忙しい足音はすぐに小さく、またゆったりとした拍子に変わった。どうやら追いついたらしい。
「まったく美鈴ったら」
廊下から笑い声が聞こえる。少女には聞きなれた高い声と最近加わった少し低い声。
二つの声は仲よさそうに談笑しだんだんと遠ざかっていく。彼女を置いて。
「まったく……」
寂しそうな彼女の呟きを聞く者は誰もいなかった。
新ろだ2-081
予報外れの雨が降り出したのは、繁華街を抜け出て少しだけ進んだ時。
暗闇を照らす明かりが徐々になくなって、辺りが閑散とし始めてからだった。
当然傘を持っているはずはなく、さりとて自宅へは、移動手段が自転車であることを加味してもまだしばらくかかる。
最後のバスも発進し、街に戻る気分にもなれず、どうしたものかと思っていたところ、ふと視界の端に光を見つけた。
記憶にないその光におやと首を傾げてみるものの、それほどこの辺りに詳しいわけでもないことを思い直し、明かりの方へと足を進める。
その正体は、控え目なネオンの下、"Scarlet"の看板を掲げた小さなバーであった。
* * *
カラン、カラン
扉を開けると、控え目な鐘の音が広くない店内に響き渡った。
「…いらっしゃいませ」
水滴を払って中に入ったところで、カウンターの向こうに立つバーテンダーに声を掛けられる。
凛とした、それでいて鈴の音を転がしたような綺麗な声だった。
店内の灯りはランプによって提供される僅かなもののみで薄暗かったが、それでも直感で、このバーテンダーがおそらくは途方もない美人なのだとわかる。
そしてその予感は、カウンターへと足を進めた時、確信に変わった。
まさしく、息を呑むような美人だったのだ。
まず眼に入ったのが、この国では珍しい銀色のショートヘア。
そしてその髪の下に覗く、端正などという言葉では表しきれないほどの整った顔立ちである。
無表情さも相まって、それはさながらひとつの人形のようだった。
或いは、絵画のよう。
いずれにせよ、完成された芸術品(アート)に近い印象を受けたことは間違いない。
身に纏った黒いスーツも、彼女の持つ銀色の美しさを飛躍的に高める一要素である。
彼女は静かにこちらを見ながら、グラスの一つひとつを丁寧に磨いていた。
背にした棚には数え切れないほどのボトル。
ランプの灯りが照らし出す古ぼけた店内の風景でさえ、彼女という存在には異様なほど似合っている。
「…何になさいますか」
カウンターの適当な位置に腰掛けると、見計らったように尋ねられる。
しかしあいにくのところ、ここへは雨宿りに入っただけ。
何かを飲む気は初めから無い。自転車とはいえ、飲酒をした後では立派な違法運転だ。
とはいえ何も注文しないのもそれはそれで不愉快な客だろう。それはこの手の商売を行う人間にとって最低の冷やかしである。
さて。どうしたものか。
少しだけ、悩んだ顔をして見せる。
だが、実は入店する前から、この矛盾を解消する算段は立ててあった。
彼女の視線を受け流すように、軽く店内を見渡す。
すると意外な事実が眼に飛び込んできて、少なからず驚かされた。
店内に、誰もいないのだ。
俺と、バーテンダーの彼女。
それを除けば、誰一人として。
「…どうなさいました」
スゥと彼女の瞳が細められる。
俺は店の一角を指し示した。
そこには、ランプの灯りを受けて静かに佇む、一台のビリヤード台。
「あれを使いたいのですが」
俺はビリヤードをしたいんだ。そう思わせるように、極力努めて言った。
店内にビリヤードの娯楽施設が置かれているバーを、和製英語でプールバーという。
曰く、一昔前の日本で流行を巻き起こしたものであるため、ある意味で日本らしさが出ているバーなのだとか。
ビリヤードはほとんどしたことがないが、それは問題でない。
アルコールを摂取せずに雨を凌げるのであれば、何もせずに待つより幾分ましという程度だ。
「かしこまりました」
その言葉を受けて、バーテンダーはカウンターの下からキューと球を取り出した。
狙い通りにそれらを受け取り、台の方へと歩いていく。
そこでふと気付いた。
自分を追って続いてくる、もうひとつの足音。
「もし…?」
我ながら情けない声を出したものだと思う。
振り返らずともわかるのにそうしてしまっていたのは、
この薄暗く、それでいてどこか蟲惑的でもあった店内の雰囲気に、自分が知らずの内、心の端で恐れを抱いていたからなのかもしれない。
しかし、はたして俺の後ろに佇んでいたのはバーテンダーの彼女であった。
その手には、一本のキュー。
「キューなら、間に合ってますよ?」
言いながら、自分の手に持つキューを掲げて見せる。
しかし彼女は、静かに首を振って答えた。
「失礼ながら、お客様には連れの方が居ないとお見受けしました。
御覧の通り店内には他のお客様も居られませんので。…僭越ながら、私めがお相手をさせていただきます」
* * *
結構だの、客に退屈はさせられないだのと、その後しばらくは無意義な問答を繰り返していたが、結局折れたのはこちら側だった。
ただ、先に述べたとおりビリヤードに関しては経験に乏しく、対戦しようにもルールさえロクに知らなかったので、
少しだけコツを教えてもらった後、実践に踏み込んでみるという形で了承してもらう。
「まず、キューの持ち方ですが、キューがぶれないよう先端に手を添えて支えます。これをブリッジと言います」
言いながら、彼女は左手の親指と人差し指で輪を作ってキューを通し、残りの指を大きく広げて台の上に固定した。
台に置かれているのは、何の模様も入っていない白い球がひとつ。説明を続ける彼女の瞳は、正確にそこへ向けられている。
「そして球を打ちます。勢い良く打ちたい場合、球の中央から僅かに上辺りを狙って突いてください。
突いた後、キューを前へ出したままにすることで、当てた後の球の軌道は著しく安定します。参考までに」
スコン、と良い音を立てて、突いた白球が台の上を走りまわる。
威力、スピード、共に素人目から見ても文句なしのショット。
職業柄か、さすがに大した腕前である。
ちなみにビリヤードの中で最も初心者向けなルールを尋ねたところ、ナインボールと呼ばれるものを提唱された。
もっと簡単なルールもあるのだが、逆転性があるため初心者にも勝ち目は充分にあるということらしい。
「順番は、通常バンキングと呼ばれる方法で決めるのですが…………今回はコインにしましょう。先攻の人間が、ブレイクを行います」
「先攻はバーテンダーさんに譲りますよ。あの球を崩す自信、俺にはありませんから」
ちらりと眼をやった先にあるのは、ひし形に並べられた九つの球。
数字の小さいものから順に落としていき、中央に配置された9番目の球を仕留めれば、勝ちだ。
彼女はわかりましたと言うと、所定の位置まで歩いて行く。
「―――――十六夜、咲夜」
その途中、微かにそんな声が聞こえた気がして、俺は思わず顔を向けた。
「私の名前です。お呼びください」
「十六夜さん―――――ですか。………綺麗な名前ですね」
世辞でなくそう言うと、彼女は初めてクスリとだけ笑い、すぐに真剣な面持ちになってキューを構えた。
その仕草は瀟洒そのもので、名前負けどころか、名は体を表すという成語がこれほど当てはまる人物もそうはいないだろうと改めて思う。
十六夜とは即ち、一日だけ僅かに欠けた丸い月。
その十六夜の『昨夜』なんて、まるで満月そのものを指しているようではないか―――――
スコン!
痛快な音とともに崩された球の群れは、目まぐるしくテーブルを駆け巡ってあちらこちらに四散した。
その内3つほどが、弾かれた勢いでポケットの中へ姿を消す。3番、4番、7番が落ち、残された球は6つになる。
そして俺の番が回ってきた。本来は球を落とした十六夜さんが続投するのだが、ハンデということらしい。
「ナインボールでは、キューボールをまず一番小さい数字に当てなくてはいけません。
先程のブレイクでまだ1番は残っていますので、それを狙って突いてください」
狙いをつけている俺の横に立ち、十六夜さんが教えてくれる。
幸い、打つべき白球と当てるべき1番はさほど遠くないところで止まっていた。
さらに言えば、延長線上にはポケットもある。
ここまで気を使って打ってくれたのだとしたら、本当に大した腕だ。
シュコン
十六夜さんのショットより幾分軽い音を立てて、弾かれた赤球がテーブルから消える。
「お見事です」
「ありがとうございます」
照れくさかったので彼女の方を向かずに答えたが、内心は初めてのショットで球を落とせたことに随分気を良くしていた。
しかし、次に狙うべき2番の位置はテーブルの対角線上。案の定ショットは成功せず、白球がむなしく台座の上を駆け回るだけに終わる。
「この場合、次のプレイヤーはキューボールを好きな位置において始めることができます」
そう言うと、十六夜さんは白球を2番に隣り合わせて置き、あっさり仕留めてしまった。
例によって危なげのない、鮮やかな手並みである。
その後もしばらくゲームは続いた。
球を落とすのはほとんどが十六夜さんの方であったが、俺としてはあまり気にしていなかった。
勝負が決まるのは、9番が落ちた時。
だが、実のところは勝敗以上に、これほどの女性とビリヤードをして過ごすという、
夢のような時間に幸福をかみしめていたからだろう。
時折見せる、クッションの跳ね返りを利用したトリックショットや、テーブルに腰掛けて背中越しに打つバックショット。
それらは間違いなく彼女の技量の高さの象徴であり、同時にひどく魅力的な容態を醸すものでもあった。
スカン!
そんなことを考えている内に、テーブルの球は徐々に少なくなっていく。
そして最後に残された9番ボールを落としたのは、やはり十六夜さんの方だった。
「……チェック、です」
「そのようですね」
相手の勝ちを認める言葉は、意外と素直に口に出た。
それは、彼女の卓越した技量に心から感服していたからかもしれないし、
途中から、勝負以外のものにも価値を見出していたせいかもしれない。
「…楽しんでいただけましたでしょうか」
「ええ。十六夜さんの見事なプレイも含めて、とても」
「光栄です」
いずれにせよ、恭しく頭を下げる彼女はどこまでも瀟洒そのものだ。
浮ついた言葉にも静かに頬を緩ませる辺り、本当にできたバーテンダーであると思う。
「…しかし、次はもう少し頑張ってみますよ」
ふと時計に目をやると、時刻は0時を回るところだった。
あと一回。欲を言えば、二回くらいはゲームを出来るか。
手早く頭の中で算段を立てる。
そんな時だった。
ヒュゥゥゥゥ………
不意に生暖かい風が吹いてきて、思わず顔をそちらに向ける。
そして疑問符を浮かべた。
閉めたはずの扉が、いつのまにか広々と開け放たれていた。
誰か来たのだろうか。そう思ったが誰もいない。
いつの間にか、雨も止んでいる。
しかし何より気になったのが、自分の目には横に立っているはずの十六夜さんが、どうやってか扉を開け放ったように見えたことだった。
訝しげに振り返る。彼女はここにいるだろう、と。
そう信じて見た先の彼女は、なぜか困ったように、加えてどこか残念そうに、静かに頭を振っていた。
「……申し訳ありませんお客様。本日は、これまでとさせていただきます」
「え……?」
唐突すぎるその言葉に、返すことができたのは、たったそれだけ。
そんな俺に構うことなく、淡々と、彼女は続ける。
「じきに日付が替わります。そうなれば、この一時の逢瀬も終わり。
夢は再び夢へ。現もまた、再び現へ。
その境界を誤魔化した『賢者の悪戯け(エイプリルフール)』も、これで終わりということですわ」
彼女の言葉を聞きながら、俺は短い、異国の歌のようだと思った。
言っている意味はわからない。しかし、言いたいことだけは、感覚や直感といったものが漠然と捉えていたからだ。
心のどこかでわかっていたのだろう。
こんなにも素晴らしい人が、普通であるはずがないということ。
こんなにも素晴らしいひと時が、現実であるはずがないということ。
だからこそ、言い終えると同時に彼女の輪郭がおぼろげになったとしても、本当に取り乱すような真似はしなかった。
古ぼけた店内が急激に色褪せていく。
彼女がいることで、はじめて完成形となり得たこの空間が。
それはつまり、夢から覚めるということ。
――――――彼女との別れが、近付いているということ。
「十六夜さん!」
それでもそこから先の未来を少しでも引き延ばしたくて、気付けば声を出していた。
微かに眼を見開く彼女。
あれだけ美しかったその姿も、今や揺らぎだした世界の中ではひどく異質だ。
だが、それでも構わず、問いかける。
「また、会えますか」
そこに返ってきたのは、少しだけ驚いた彼女の顔。
しかしそれも、次第に穏やかな笑みへと変わっていき。
「ええ、またいつか」
これまでで一番の微笑みとともに、彼女はそう返したのだった。
* * *
数日後、再びその場所を訪れた時。"Scarlet"は跡形もなく姿を消していた。
延々と続く雑木林が、あたかも最初からそこにあったかのように、我が物顔で広がっている。
それを見て、ひどく驚く半面で、どこか納得している自分もいた。
嘘でも後から取って付けたでもなく、そんな気が、していたのだ。
今となっては最後に交わした約束だけが、彼女とつながる唯一の糸だ。
思えばあの日は四月一日。
得体のしれない、力ある何かが俺に見せた、ちょっとした嘘(エイプリルフール)だったのかもしれない。
――――――――――
覚めない夢は無いという。
でも、人は生き続ければ、また夢を見れるんじゃないだろうか。
最終更新:2010年10月15日 22:15