紫6



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 豪快な足音と微弱に揺れる畳。尋常ではないその音に無理やり意識を覚醒させられた。
視界に靄がかかり、状況がよくわからない。いつもよりかなり早く起床した事だけは確か
だろう。
 布団から上体を起こし、呆ける事数十秒。縁側と和室を隔離する障子が刹那の速度で開
かれ、勢い余って外れた。
 日の出の陽光を背にしなやかなシルエットに付随する、肌理細やかな九つの尾。
「起きろ! 大変なんだ、話がある!」
「……睡眠時間を後二時間程要求する」
 焦燥感に満ちたその顔に青筋が立つ。冗談は通じそうにない。
「ぜったい却下だっ! ぜぇぇぇぇぇったい!!」
 突入されて襟首を掴まれ、揺さぶられる。加減してない、死ぬ。
「おぉぁぁっ、わかった、わかりました。ちょ、死ぬって」
「だったら起きて居間に来てくれ。私と紫様からお前に相談したい事があるんだ」
 俺を放り投げて、足早に部屋を後にする藍。障子が吹き飛ばされて外から肌を硬直させ
る風が布団から出るなと呪いをかけてくる。春になったと言えども、朝は中々寒い。それ
を知ってか知らずか、藍の行為は嫌がらせにも思えた。
 ただ、藍の夜叉をも怯ます眼光と比べれば、冷風の呪縛なんて微々たる力か。
 勝手知ったる、とはよく言ったもの。藍や紫がいつの間にか我が家で寛いでいるのには
もう慣れた。早く顔を出さないと、小言が面倒になる。
 決心と共に布団を振り払い、居間へと足を向けた。

   ◆◆◆

 居間に入ると、茶を啜り煎餅の香ばしさを楽しむ藍と紫の姿が見えた。藍が勝手に用意
したんだろう。人の物を摘むなと言っても、聞いてくれた試しがない。
「やっと来たか。そこに座ってくれるか」
「俺の家なのに、そこに座れと言われてもなぁ……いいけどさ」
 並んで座る二人の対に位置するよう、掘り炬燵を囲んで座る。藍が淹れてくれた茶を啜
り、この辺りで艶かしい声で挨拶がくる……はず、なんだが?
「……紫? だよ、な?」
「ん? そうよ」
 目の錯覚だろうか。確かに紫だが、紫じゃない。自分でもよく意味がわからない。
 見慣れた姿より背が低く見える。表情も幼くなっている気がするし、声色も高い。服装
こそ変化は無いようだが、実際には服の方が大きくてダボついてる感じだ。
 要は……若返りと言えばいいのか。妙な術でも自分にかけたのかもしれない。大人の女
性独特の色香を文字通りばら撒いていた紫とは違い、こちらは十六か十七がいいとこのお
嬢様に収まってしまっている。
「容姿、変わってないか? またお遊びか何かか?」
 紫なら、即座に幼女になったり老婆になったりしても驚かない。彼女ならやってのけて
しまう。想像でしかないができる範囲だろう。
「本当なら当たり~ぱちぱち。って言いたかったんだけどね」
「は? 要は違うんだろ、じゃあなんなんだ?」
「うん……実は、困った事が起きちゃってね」
 紫の表情が曇る。いや、悲壮さえも感じ取れてしまう。藍までもが口を噤み、目を閉じ
て俯いている。小さな居間の空気が重くなった。
 紫の身に起きた厄災を想像しようにも、俺の自分の思考では範疇を超えている。自分で
思いついた程度じゃ、紫にとって"厄災"には至らない。
 なら、一体何が起きた?
「ねぇ……驚かないで聴いてくれる?」
 炬燵から乗り出して、上目遣いに見つめてくる。普段の紫も扱いに困るが、今自分の前
にいる若い姿の紫も、心臓に悪い。
「わ、わかった」
「実は、じつはね……」
 次の言葉を待った。
「戻り方がわからないっ!」
 ……
 ……
 ……
 一分間の凍結。
 どう切り返せばいいのか。どう突っ込みいれればいいのか。
「あ、驚いてる。もう、驚かずに聴いてって言ったじゃない」
「ゆ、か、り? お前、はっ倒されたいか?」
「押し倒すなら布団の上でお願いね。子供は三人ぐらい欲しいなぁ~」
「あのなぁ……」
 乗り出した状態から炬燵の上をつたい、俺の太股に座り込んできた。紫を横向きに抱き
かかえる形になり、小さな顔を鎖骨の辺りにおさめて身じろぎしている。
 やはり、若くなっている。身体も一回り控えめになっているし、帽子を被っていないか
らか若さに拍車をかけている気がしなくもない。
「ふふ……見惚れた?」
「ん、まさか」
 咄嗟に答えたが、呆けたのは事実。自分に渇を入れないとならない。
「でだ。藍、朝っぱらから障子壊してまで話があるってのは、紫の事か?」
「そうだよ。お前は莫迦げた話だ、というかもしれないが……困った事には変わりない。
少々長くなるがいいか?」
 藍が至って真顔なのは本当に何かあった証拠だ。紫がいくら真剣でも余程の事が無い限
り裏がある。その点藍は冗談や引っ掛けなんて考えもしないだろう。
「構わない、教えてくれ」
 促し、説明が始まる。俺の上で子猫よろしくしている紫は放置。引き剥がそうにも難癖
つけられて離れてくれそうにない。
 そもそも、情けないが……数々の誘惑に負けて離れようという気がおきなかった。

   ◆◆◆

 藍が言うにはこうだ。
 本日、紫を起こしに行ったら既に容姿が変化していた。理由は不明。加えて、紫本人の
思考にも影響しているとかで、本来の姿に戻る方法がわからないとのこと。紫の代わりに
藍がひたすら解呪? の方法を探す間、紫を俺に預かれという話だった。
 聴いてみれば単純かつ胡散臭さの塊だが、全くの嘘でもない。相手が相手、無碍にする
気もないし、紫も嫌がる素振りはない。藍の頼みを快諾することにした。
 正直な所、紫に関する相談を断る気なんて無い。無理難題以外なら。
「じゃあ、すまないが紫様の事を頼む。出費は出そうと思うけど……」
「わかってる。極力切り詰めて貧乏生活しといてやるよ」
 藍は俺の一言を軽く笑い、空の彼方へと消えていった。意図が伝わったと思ってもらえ
たようだ。
 次は、小娘の相手をしなくてはならないわけだが。
「貧乏生活は嫌よ? もっと優雅に暮らさないと人生損孫、ってね」
「表現に物凄い違和感があるんだが……まぁいいか。さて、どうするかな」
「子作り? 最低三人だからね」
「やめんかい。そういう洒落にならん冗談は」
 からかわれているのは百も承知だが、いちいち胸元に釘が刺さる。この程度で毎回早鐘
を打ってたら、精神が持たない。 だからといって冗談に付き合い続けたら結果が恐い。
微妙な駆け引きが毎回難しいのだ。
「冗談と思っているうちは冗談になってしまうのよ?」
 意味深な発言と共に、腕に紫が絡みついてくる。少々控えめになってもまだ存在感を保
つ双丘の弾みに思考が揺るがされる。
 同時に、服の大きさと紫の体格差が気になった。だらしなく見えてしまうのは、全体を
見てやはり寸法が合ってない。胸の辺りとか、特に。
「ふーむ……服、引き摺ってないか?」
「え? あ、そうね。このままだとちょっと大きいかな。あっ、いいのがあるよ」
 紫の指が何も無い空中で線をなぞる。空間に黒い線が入り、亀裂と化した。中に細い腕
を突っ込み数秒間、取り出されたのは新聞だった。
 渡されたそれは、不定期に鴉の妖怪が撒き散らしていくもの。中に目を通すと、人里の
一角に新しい商い通りが完成したようで、数名の外来人が協力して出来た『しょっぴんぐ
もーる』がどうとかって場所の特集がされていた。新しい趣向の服を売る店もあるようだ
し、最近人気の出ているカフェーや『ふぁみりぃれすとらん』とかいう食事を取れる場所
も開かれている。とにかく、目新しい物が大量にある。
「ぁぁ、あの地区完成したんだな……へぇ、面白そうじゃないか」
「どう? 行ってみない?」
 外来人のした事に興味があるのだろうか、紫の視線は連れて行けと俺に訴えかける。
「構わないけど……紫って、こういう軽い感じの場所好きだったか?」
 口調もなんだか、村の小娘達と然程差異を感じない。今日は違和感の売り尽くし市でも
開かれているんじゃないかと錯覚する。
「ねぇ、今の私はいくつぐらいに見える?」
「いくつって──十七、ぐらいか?」
「それなら、見た目も趣向も十七の、花も恥らう可憐な乙女なのよ」
「あっそ。さようで」
 自分で言い切る辺り、姿や口調は変わっても紫は紫のようだ。

   ◆◆◆

「どうかな。似合ってる?」
「いいとは思うが……うーむ。目のやり場に困る」
「え? これくらいなら大丈夫よ」
 人里に完成したショッピングモールという商店街にある一つの店。着物類とは違い、洋
服と呼ばれる種類の物が多く並べられている。客の入りも多いようで、普段慣れない騒々
しさの中、試着した紫の姿を眺めている。
 似合っているのは認める。しかし……
「そんなに私の足が好き? 我慢しなくても、今晩満足するまで楽しんでいいから」
「ぶっ! ち、違うわ! 見せびらかすようでどうもな……って思ってただけだ」
 ほんの数秒だが、理性が欠けて凝視していた。これは、猛省。
 紫と俺で吟味した結果、白い長袖のチェニック・ブラウスに赤いスカート。踵が少し高
くなっているブーツに膝下を覆うソックス。最後にブラウスの上からかける横幅が結構あ
る太い黒のベルト。横文字ばかりで理解に苦しんだが、店員の言う外来人の流行に関して
熱心に教えられたお陰か、なんとかついていくことができた。
 一緒に選んだといっても、スカートは却下したかった。丈が短すぎる。ちょっと歩幅を
大きくして歩いただけで、見えてしまうんじゃないかと穏やかになれない程に。加えてス
カートから流れ出る細く白い脚。十人いたら十五人振り向かせた挙句、骨を抜ききってし
まうんじゃないかと思わせられてしまう。
 それはそれでマズイ。十五人全員が紫の毒牙にかかる。
「……気に入らない?」
「いや、そうじゃない。俺としては似合ってると思うが」
「うん、なら決めちゃおう」
  試着台から降り、帽子だけ被って今まで着ていた自前の服を隙間の中へ放り投げ、商
品の服装のまま店員のもとへ行ってしまった。少々遠目からだが、男の店員は既に鼻の下
が伸びている。あの姿は即効性の神経性麻痺毒だ。
 そういえば、全く値段を見ずに選んでしまっていた。近場に掛けてある適当な上着の値
札を見て……喉が詰まった。単品でこの額だ、紫が今着ている服装を全て買うと──
「ちょっと、紫待っ」
「お待たせ。買い終わったよ」
「たぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁ」
 遅かった。試着した服から値札が全て取り外されていた。
 床に膝をつき、倒れそうになる上体を両手で支える。出費は払うと藍から言われている
が、さすがに問題がありすぎる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、金がな……俺が悪いんだが」
「お金? 一圓一銭と払ってないけど」
「払ってない? そりゃどういう」
 視界が白くなった。
 ……頭に布らしき物がかかっている。頭を振り上げて紫を見ようとして、白。
 つまり、この目の前にある白と自分がしてしまった行為は非常にマズイ。
 とはいえ、あの紫がまさか白を選んでいるとは思わなかった。もっと妖艶かつ大胆な色
や形を好んでいるかと思いきや、なんとも基本的かつ標準要素の白──
 ベシッ! と大きく乾いた音と共に、強制的に床へ頭突きをした。
 額と後頭部が酷く痛む。
「い、いでぇ……」
「見るのは構わないけど、夜にしてね。雰囲気も何もないんだから」
「スミマセン」
 床に頭突きしたまま謝る。姿勢からして土下座だ。いや、自業自得の結果なのだから、
土下座で済むなら安い方だ。
 額をさすりつつ起き上がると、笑顔の紫がいる。俺に対する怒りを裏返しているのかも
しれない。もう一撃ぐらい来るのは覚悟の上。
 だが、次には紫は俺の腕を引き、耳を自分の口元へ寄せた。
『女の子の匂いは堪能できた?』
 小声でもとんでもない破壊力を持った一言。胸元に五寸釘が三本ほど突き刺さった気分
になった。どうしてこう、簡単に恥じらいなく言えてしまうのだろうか。
「正直に言ってくれたら、許してあげる」
 紫は俺の反応を楽しんでいる。酷い話だが、太刀打ちできない。どう足掻こうにも、紫
に転がされるだけだ。
「……堪能したわけじゃないが、かなり、その──熱くなる経験をさせてもらった」
「ふーん。及第点以下だけど、仕方ない。次に期待ということで」
 機嫌を直してくれたようで、俺の腕を取り店の外に出る。絡められた腕から感じる力の
入り方は、簡単には離れないという意思の表れだろうか。とりあえず、紫は笑っているの
で大丈夫だと思いたい。
「で、金払ってないってどういうことだ? 店員を誑かしたとか?」
「半分は当たり。半分はハズレ」
「誑かしたんじゃないか」
 やりそうな事だとは思ったが、まさか本当にやるとは。あんな焼いた餅以上に伸びきっ
た顔した店員相手なら、ちょいと色気を出すだけでコロリか。
「違うわよ。そうね、交渉よ、こうしょう。ほら」
「ん、なんだそれ?」
 紫の片手には紙の束。この店を宣伝する内容が書かれている紙切れだった。

   ◆◆◆

 二十分? 違う。十分かかったのかさえ疑わしい。
 紫が店員と交渉したというのは、あの店の宣伝活動を臨時で受けた事らしい。数百枚の
紙を客になる可能性のある人々に手渡し、集客を図る。店の外に出て大声を出す呼び込み
に近いのかと思ったが、紙で視覚的に商品を訴えれる分、画期的なやり方だと思った。要
するに新聞か。
 俺もつられて紫と一緒に紙配りをしたが、彼女の服装自体が宣伝要素として強い主張を
していたし、容姿は大漁を招く高級の餌になって老若男女を問わず人を引き寄せた。紙は
すぐに消えてなくなった。
「さ、これで私の服に関してはなんのしがらみも無くなったわよ」
「なんという交渉術……紙を配るだけでこの服と同じ金額と思うと身震いがした。間違い
なくこれは新しい商売方法」
「雰囲気なくなるから商売の話はヤメテ」
 自分の中では心躍らされて高笑いしたくなるような稼ぎネタを前に、紫からぴしゃりと
想像の静止を受けた。
 今日の紫はいつになく"雰囲気"に拘っている気がする。いつもならだらだらしてるかく
ねくねしてるかで場の流れなぞお構いなしなのだが。これも、身体の変化が招いた副作用
みたいなものなのか。
「そんな野暮ったい考えはあとあと、面白そうなのはまだ一杯ありそうだし。ほら、早く
行きましょう」
「わ、わかった。わかったから腕を引っ張るな」
 何度目かわからない、紫に腕を取られ強引に引かれる流れ。
「あなたも男ならしっかり私をエスコートしてみなさい。こんな美少女捕まえて一緒に歩
けるなんて恭悦至極だと思わない?」
「自分で言うなよ、自分で」
 確かに、こちらが振り回される形じゃ、傍目からしたらみっともない。背筋を正し、紫
の横へ並ぶ。紫も立ち回りを弁えていると、俺と歩幅を合わせ行動で語ってきた。
「ま、恭悦至極の一片ぐらいは感じてるぞ」
「ふーん、今日中に私の魅力で埋め尽くしてあげるから覚悟してね」
「畏れ多くて失禁しそうだわ」
 それから、カフェーに行って紫から薦められた紅茶を楽しんだり、レストランで魚料理
を味わったり、新鮮な時間だった。紫は俺が知らない事については細かく説明をしてくれ
たし、進められた食事は美味かった。前々からだが、紫の博識な面は素直に感嘆する。
 その間、終始気になったのが周りの視線。俺はそこら辺に転がっている野郎だからいい
としても、紫は違う。これから流行になるかもしれない外来趣向の服を纏い、線は細く流
麗、癖のついた長髪は人間では得られない妖しい輝きを放つ。
 彼女は紫だが、八雲紫ではない。村人達が稗田家や寺子屋の女史から教えられた妖怪、
八雲紫ではないのだ。それゆえに、周囲の目は紫を人間と評価する。
 おかげで、紫の全身を舐め回す目と、俺を射殺そうとせんばかりの殺意の目。人の事言
えた義理ではないが、男達の助平根性丸出しの視線には辟易した。村娘達が紫に向けた羨
望の眼差しと比べたら月と鼈より差は歴然だ。
 一通り店を見終えてゆっくりと出口に向かう大通りでも、しかり。涎を垂らしたまま呆
然と紫を見る中年のオヤジを睨み付けて退散させる事数回。自分のしている事が用心棒み
たいで内心苦笑しか出てこない。
 複雑な心境で軽くため息をつくと、悟られたのか紫に小さく笑われた。
「私は気にしてないよ」
「俺は見ていて気分が悪いんだ」
 不快感が表に出ていたらしく、更に笑われてしまう。
「殿方の心をいとも容易に萃めてしまう私……それはそれは罪深き事なのです」
「だから自分で言うなよ。そんなのわかってるから」
「え? ……へぇ~」
 立ち止まり、紫の表情が一瞬鳩が豆鉄砲を食ったようになった。だがすぐに、ニヤニヤ
と含み笑いをしだした。
「もしかして妬いてくれてる? 独占欲?」
「……」
 返答しなかった。全力で否定したかったが、嘘になることもわかっている。だからと、
はいそうです妬いてます、独占欲が炸裂してます。とも言えるわけがない。
「ふふ、顔に出てるよ」
「うるさい」
「あはは、可愛い」
 反論しても手玉に取られて遊ばれるのが見えている。あえて紫の発言に口を挟まず放置
した。紫も俺の判断を見抜いたか、少しからかう程度で止まる。出口に向かい、外に出た
後も紫はずっと笑顔で俺に話しかけてきてくれて、いつの間にか俺も表情が綻んでいたみ
たいだ。
 見上げれば、日は傾いている。紫と過ごすこんな一日というのも、悪くないな。
「悪くない、じゃなくて最上級。でしょ?」
「サトラレたか!?」

   ◆◆◆

 夕食は何故か、昼間に食ったレストランの魚料理以上に豪勢な品揃えになった。
 紫の邪眼……ではなく、魅惑の熱視線に精神を彼岸に旅立たせてしまった魚屋のおっさ
んや八百屋のおっさんや肉屋の──以下略。これも一圓一銭と払っていない。おすそわけ
という大義名分? で紫が貰ってしまったのだ。彼らの奥さん達が頭に角を生やして般若
に変わり果てる姿を幻視して、青ざめた。精神だけでなく肉体も彼岸へ旅立ってしまうよ
うなら、せめて曼珠沙華を手向けてやろう。逆効果かもしれんが。
 藍が既に帰ってきており、調理は全て藍に任せた。紫の身体に関する収穫が全くなかっ
たようで、『この煮え切らない感情を発散する為に何か打ち込める物をくれ!』と、食料
の詰まった麻袋を全部掻っ攫って行った。
 大量の料理を造りきって満足したのか、藍は夕食に参加もせず立ち去ってしまい、俺と
紫で消化──紫が八割がた──した。あれだけ食べれば腹が出ても不思議じゃなかったが、
全く出ていなかった。出ていなくても不思議じゃないか。
「ふぁ……ねむぃ~。お布団~」
「お前は子供か? いい加減、自分でやってくれよ」
 と言いつつも、結局用意してしまう自分がいる。前々から紫や藍、橙も遊びに来て寝て
いく際は、藍が手伝ってくれない限り毎回俺がやらされる。
 ごろごろと居間で伸びている紫を放置し、自分が寝床にしている和室に布団を敷き、適
当な布を持って戻る。一緒の部屋で寝るってのは色々問題がある。
 戻ってみれば、既に寝巻き姿の紫がさっきと同じ姿で寝ている。服は、隙間に放り込ん
だのだろう。変な所で器用だ。
「用意できたぞ。ほら、寝てないでさっさと行けって」
 案の定、紫は起き上がらず芋虫になっている。こういう場合、次に来る言葉は……
 "部屋まで連れて行って下さらない?"だ。
「ねむぃ~、つれてってぇ~」
 思ったとおり。語彙は違えど同じ意味だ。
「はいはい」
 紫の身体をゆっくりと持ち、抱き上げると、紫の両腕が首元に回され上体が密着する。
部屋に運ぶ毎にやってくる事なので展開には慣れたが、平静でいられるかと問われれば、
答えは否。毎度ながら、心臓の鼓動が伝わってしまわないかと緊張する。からかわれる話
の種にされるのは面倒だ。
 寝床に着き、紫を布団に横たわらせようとして……首に回された腕の力が強まった。
「どうした?」
「お願い、していい?」
 沈んだ声色。ふざけていた紫の態度が掌を返し、しおらしくなった。上目遣いに潤んだ
瞳を向けられ、息を凝らしてしまう。
「ぎゅうって、して欲しい。ぎゅうって、ね?」
 始めてみる、懇願の表情。例え裏があろうと、俺には断れない。
 無言のまま、畳の上に座る。紫を太股の上に座らせ、望み通り力強く抱き寄せた。紫も
腕の力に流されるまま、懐に顔を埋めてくる。数十秒か、数分か。何も言葉にせず時間が
過ぎていった。ただただ、互いの暖かさを与え合っていただけの時間。
「……戻れる、かな」
 何のことを言ってるのかすぐには理解できなかった。紫が物事に対して心配事を口にす
ると想像できなかったから。
 気付いて、わざとため息をついた。
「当たり前だろ。お前は誰だ?」
「幻想郷唯一の絶対的美少女、紫ちゃん」
「……」
 一寸でも紫を気遣おうとした俺が莫迦だった。紫の肩が小刻みに震えている。声に出て
いないが、心底笑われている。
「はったり言えるようなら、大丈夫だろ」
「酷い言い様ね」
「お前の方がよっぽど酷い女だ」
 首から腕を引き剥がし、布団に寝付かせる。「早く寝ろよ」と一声かけ、部屋を出よう
とした。
「一緒してくれないの?」
 一緒の布団で寝ろ、という意味か。俺は首を横に振った。
「昼間に『俺に女の身体を堪能させろ!!』って散々言ってたのに」
「言ってない。断じて言ってない」
「うぅぅ……私との関係はあなたにとってはただの遊び──」
「人で遊ぶのもいい加減にしろって」
「ぶーぶー」
 疲れた。

   ◆◆◆

 魚の焼ける匂いで、意識が戻った。居間と土間は隣合わせで、炊事場もすぐ近くにある
ため、何かすればすぐに居間へ空気が流れてくる。昨日の晩に使い切らなかった鯵の残り
を使っているのだろうか。
 その前に、誰が炊事場を使っているんだろうか。紫は……ありえない。
「藍か?」
「起きたか。勝手に使わせて貰ってるよ」
 若干遠くから、藍の声がする。「一向に構わんよ」と軽く返答し、起床。自分も土間へ
出て朝食の手伝いに入った。
「紫は起きてるか?」
「風呂場に行った。そのうち戻ってくる」
 まさか。と笑おうとして、言葉の主が藍だと気付いた。
「……今日は天変地異が起きそうだな。龍神様が拝めるかもしれない」
「たわけ。拝む対象が閻魔王になるぞ」
 違いない、と口にせず苦笑した。
 米を炊き、味噌汁を温め、沢庵を切り、焼けた鯵を皿に移す。昨日の残りであるムカゴ
の塩茹でもある。朝から贅沢な話だ。
「らーんー。朝ごはんまぁ~だぁ~?」
 居間から間抜けた声と、茶碗を鳴らす音が耳に入った。絶対的美少女様が戻ってこられ
たようだ。
 思うに、どちらの姿にしろ大人しく清楚にしてたら様になった──違う。それ以上の結
果が簡単に出るはずだ。
「清楚とかありえないから」
「お前にまでサトラレたっ!?」
 冗談はさておき。
「もぅ、遅いわよ。後十秒遅かったら……あぁ、考えるだけでも恐ろしい」
「嘘をつくな……ん。戻れたのか?」
 そこにいたのは、俺の良く知る紫。正真正銘、八雲紫。容姿も体格も服装も、雰囲気も
全て元に戻っていた。
「ええ、お陰様で。とっても楽しい一日を過ごさせて頂いたわ」
「は?」
 戻れた理由と、紫の発言がかみ合わない。隣で藍がガクリとうな垂れた。
「つまりだ、私とお前は見事に紫様の"お遊び"に付き合わされたんだよ」
「ま、まぢで?」
 紫は満面の笑みで「ええ、まぢの中のまぢよ」と答えてくれた。
「あ、あ……あんですとー!!!!」
 歳をわきまえず大声を張り上げてしまった。自分の中で小さな何かが輝いて弾けた感覚
に襲われたが、別段なにも起きなかった。
 藍が説明するには。俺が最近知り合いから貰った画集──あんま世間体として表に出せ
ないもの──を、綿密に隠しておいたに関わらず紫が見てしまった。で、紫自身が画集の
内容を参考に制御し、あたかも大問題だと俺と藍に立ち回った。敵を欺くにはまず味方か
らとはよく言ったものだが、藍まで騙されているとは。油断した。
「紫にしては、よくこんな面倒な……いや、凝った事をしたもんだな」
 からかわれる分には慣れている。ただ、今回はやけに大掛かりな気がした。性格は変わ
らず少々捻くれていたが、それ以外は本当に若い村娘。演技の質も妖怪級か。
「だって、あなたって今の私だと扱いがぞんざいなんですもの。画集のお陰であなたの好
みもわかったし、物は試しと箱を開ければ大成功ね」
「あ、あの画集は別に! 知り合いの押し付けだし、好みとかそういうのじゃ」
「ふふ、焦ってるわよ。"あの"私にはとっても優しくて親身だったわよ? 昨晩の私を抱
くあなたの腕、とても逞しく感じましたわ。思い出すだけで身体が火照ります」
「ぐ……」
 自分の身体を抱いてくねくねと腰を振る紫。何か言ってやろうにも反論しきれない。俺
の本心は昨日の行動が雄弁に語ってしまっている。
「できれば、もっと私の事を大切に想って頂けると幸せに存じます」
「俺は紫をぞんざいに扱う気は……そう、だな。すまなかった」
 紫に向かって、大きく頭を下げた。過去を振り返れば、最初は働き蟻よろしく紫に振り
回されていたが、慣れて来ると結構聞き流したり適当にあしらったりしていた。
「どんな姿であれ、紫は紫だ。俺は紫の気分を害したのは事実。申し訳ない」
「率直で誠意あるお言葉、嬉しく想いますわ。でも、気分を害した訳ではないの。気にし
すぎてはダメよ?」
 許しの言葉に対し、感謝の意を伝えようと頭を上げて……眉間に皺が寄った。近場で俺
達を見据えていた藍からも、心労の気が詰め込まれたため息が漏れた。
「……ナニヲシテイル」
「え? だって、こっちの方がすっごく楽しいし。特にあなたの反応が」
「そういう問題じゃないだろ!?」
 目の前にいたのは紫"ちゃん"だった。俺と目が合うなり犬ばりの飛び込みで抱きつかれ
た。昨日とは逆にこちらがぎゅうっとされた。
「勘弁してくれー」
「ダーメ。どんな姿でも私は私よ? まず、愛情の嗜みと言えば食事のア~ン、よね? 
でも、あなたとなら口移しでもいいわ。早く朝食にしましょう、ね?」
「おい、藍たすけ……あ、いねぇ! 逃げたな!? 薄情者がぁぁぁぁぁっ!!」
 やられた。この収拾つかない状況どうしろって言うんだ。

 ──結局、紫の十七歳仕様は当分続きそうだ。嫌じゃないけど……疲れるよ、ホント。



終?
てか続けんの?

6スレ目>>819


おまけ(グレイゾーン表現あるので注意)

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ω^)_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 夜。部屋の隅から月の光が淡く差し込んでいる。深夜か、それとも黎明時か。
 目が覚めた。厠に行きたい訳でなし、悪夢に魘された訳でなし。己の中に理由を求め巡
るが、結果は得られず。
 こんな事もある。理由なく夜中に目が覚めるなぞ、深く考える意味はない。
 ……
「ん~……くふっ」
 理由があった。その理由は非常に納得でき、かつ頭の痛いものだ。
 自分が寝る前にはなく、今起きたらあるそれ。二の腕にくっつく押しては跳ね返る弾力
高き肉圧の球。わざとらしく、寝息が俺のうなじに当たるよう顔を密着させて寝る行為。
極めつけは、ちょっと魔が差したらどうぞご自由にお手にとってお試し下さいが出来るよ
う、人の手を内股に挟み込む大胆さ。
 こんな羞恥心の欠片もない誘惑方法を平然とやってのける奴は一人だ。そこに痺れもし
ないし憧れもしない。
 ……肉体的には色々痺れる。情けない話だ。
 抱き枕にされている片手を木材のように微動だにせず、頭の少々上に位置する和燈に火
を灯す。あっちを少しでも動かそうものなら『七番のお客様開始しました~』と脳内で行
進曲がかかった挙句に、確変起こしてお子様三人取ったどー!! まである。
 我ながら何て莫迦な発想だろう。助平の中の助平じゃないか……
 周囲が明るくなり、隣で気持ちよく寝ている侵入者の顔がはっきりと視認できた。
 加えて……また"お遊び"だ。これが本当に、心臓に悪くて仕方ない。
「ゆかり! お前、なんで居間にいるんだよ。藍と一緒にあっちで寝ろって!」
「ふぁ……ぁ、あふ。なぁにぃ~?」
「なーにー? じゃない。なんで勝手に入ってくるかお前は」
「ぇー、いいじゃないのぉ。私とあなたの関係なんだし。それにほら、あなたの友人なん
て、霊夢と萃香の三人で仲良く寝てるじゃない。お兄ちゃーん、なーんて」
「阿呆か。あんな真性と一緒にしないでくれ」
「あらー、酷い言い方」
「とにかくだ。早く部屋にもどぉぉぉぉぉっ!!」
 毛布をめくれば玉手箱。一気に脳が覚醒したついでに一気に血圧も上昇した。本気で鼻
から血の滝が出そうな勢いがある。
「あ、これ? 可愛いでしょう? シースルーって言うの」
 和燈の淡い赤でもくっきり映る細身のライン。透けて見える肌。一部に添えられた下着
であろう黒。そして"お遊び"中である結果の、齢十七の若き姿。
「なんて格好してんだお前はぁ! はしたない! 全く持ってはしたない!!」
 即座に目を閉じ、自由の効く片手で床を叩いて怒るが、冷静に考えて危険な事を把握す
る。いつもの寝巻きでなく、肌丸出しの寝方をしているわけで。だとすれば、紫の内股で
行動を抑制している手の感触は寝巻きのそれではない。
 生・内・股。
「ぐはっ」
「え、ちょっと。この程度で鼻血出さないでよぉー」
 仰け反り、鼻の中が強烈に熱くなった。紫も予想外だったようで、監禁していた腕は意
図なく解放された。手首から先が暖かくて、精神が揺らぐ。
「お、おまえのせいだろぅが……」
 仰向けに横たわり、近場にあった手拭いを当てて鼻頭を押さえる。顔が自分の血で汚れ
てるらしく、誰かに思い切り殴られた後に見えるかもしれない。
「もっと女性の身体に慣れて貰わないと困るのよ。裸でもないのに」
 そういう問題じゃない。紫そのものが自分にとって破壊的な存在なんだ。どうせからか
われるだけなので、口にする気は毛頭ないが。
「はいはい、わかったから部屋に戻れ。俺の血が肌についたら、藍に誤解されるぞ」
「誤解されても別に問題ないよ? なんてね、仕方ないなぁ」
 子供をあやすような笑顔で、俺の鼻をツンと突いてくる。途端、鼻の奥に詰まった血の
感覚が消滅し、口の中に広がっていた嫌な味も消えてしまった。
 止血している。また流れ出す兆しはない。
「どう?」
「あ、あぁ……止まった。大丈夫だ、ありがとう」
 上体を起こし、礼を言うと「どういたしまして」と笑顔が返ってくる。
 内容は詳しく聞く気はないが、紫は何かしらしたのだろう。
「ふふ、貸し一つね」
「何が貸しだよ。原因はお前じゃないか」
 呆れて軽く紫の額を小突くと、嬉しそうに笑う紫。笑顔を見る限り、何の変哲もない可
愛い女の子。元の姿であろうと、笑顔の魅力に変化はない。人であろうと妖怪だろうと、
好きな笑顔というのは、宝とも言えるはずだ。
 この性格が改善されたら、本当に何も言う事ないんだが。
「それにしても……これじゃ駄目」
「何が駄目なんだ?」
「あなたよ、あなた。女性の勉強がぜんっぜん! 足りてない」
「は? お前は何を言って──」
 紫に馬乗りされ、押し倒される。二人の上に毛布を掛けなおし、またしても二人一緒の
空間に戻されてしまった。
「今日という今日は、私の"特別れっすん"を受けてもらうからね」
「と、とくべつれっすん? 欠席はできる?」
「強制よ」
 和燈の光に照らされた紫の笑顔は妖艶すぎて、邪悪にさえ見えた。身の危険が迫ってい
るのは自明の理。なんとかして逃げ出さないと明日がない。
 恐るべし、十七歳。
「ふふふ……観念しなさい。それじゃ、明かり消すよー」
 まずい。明かりが消えると……ボクの冒険がここで終わってしまう。
「ちょっと! おまっ、アーッ!!」

 せかいは くらやみに つつまれた。

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最終更新:2010年05月21日 06:59