紫8



うpろだ359


「・・・またか」
 手に取った新聞紙の一面にはこんな事が書かれていた。
  『またもや神隠し!』
 ここ最近まるで疫病の流行の様にして始まった、この一連の『神隠し』事件。
 『神隠し』と銘打つ位であるから、この連続的な事件の首謀者、目的、消えた者の行方は一向に分かっていない。
「ったく、誰がこんな事をやってるんだか・・・」
 朝食のトーストをかじりながら、ぼんやりと呟く。
 人を攫うと言うのは某国のお得意技とも言えるものだが、何せ今回は全く首謀者が見えていないのだ。
 普通の誘拐事件ならばほんの数名でも目撃者はいるものだが、今回の事件では目撃者は一切見つかっていない。
 要は『迷宮入り』なのだ。
「警察も早く犯人の尻尾でも掴めりゃ良いのにな・・・」
 民衆を守る為に存在する組織は今回の事件においては何の功績も作れていない。
 いよいよ、警察に対する国民の不信感も募ってきている。
 ただ・・・
「相手が本当に“化け物”ってんなら話は別か」
 最も、そんな事は有り得るはずはない。
 何せその“化け物”の大半は人間の空想が生んだ産物なのだから。
 生憎俺はその手のオカルトはあまり信じてはいない。
「さて、そろそろ行こうかね・・・」
 朝食を腹に収め、学校に向かう支度をする。
 天気は快晴。
 世間を震撼させる事件が続いているとは思えない様な天候だった。


 色んな意味で憂鬱な一日を終えた俺は、帰宅早々パソコンのディスプレイの前に腰を降ろした。
 電源を入れてお気に入りのサイトへ直行する。
「そう言えば最近の事件って、コイツなら出来るんじゃないか?」
 ディスプレイに写る女性、その名は八雲紫。
 ヤリコミ度が高い事で有名な某シューティングゲームのキャラクターの一人だ。
 “境界を操る程度の能力”を持つ彼女は、ゲーム中でも屈指の強さを誇る存在。
 同時に“仮に”存在するのなら今回の事件の首謀者とも考えられる人物とも言える。
「いや、でもまさかな・・・」
 相手は架空の存在だ。
 幾らなんでもそれはないだろう。
「もしそうだとしても、今は冬じゃないし」
 彼女は“人喰い”であると(設定上)言われている妖怪だ。
 しかしそれは冬眠の前が主だとされている。
 今、季節は夏。
 ならば彼女がこんな連続事件になるほど“人を摂取”する事もないだろう。
 そもそも相当頭が良いらしいので、事件として残すとは思えない。
「八雲紫・・・ま、空想の存在でしかないよな」
「あら、お呼びになったかしら?」
 瞬間、全身の体毛と言う体毛が逆立ったのを知覚した。
 同時に背後に現れた人の、いや“人以外のモノ”の気配。
「う、う・・・そ、だ・・・・・・ろ?」
 首を向けた先にいたのは、PC画面に写っている八雲紫その人。
 声帯が引き攣って、自分でも情けない程に上擦った声が出た。
「あら、酷い男性(ヒト)。 貴方がいないと仰ったから、私は自身の存在を証明しようと思って此処に来ましたのよ?」
 手に持った扇子を口に当てて、目を細める。
 ディスプレイと言うフィルターを通して見るのならその笑顔はさぞ美しく見えただろう。
 しかし今目の前にある笑顔に対して感じるのは、ただの“恐怖”だけだった。
「あんたが八雲紫・・・なのか?」
 何とか口に出してみるが、明らかに声は上擦ったままだ。
「ええ、私が八雲紫ですわ」
 どこか嘲るような彼女の声色は、絶対的な勝者のそれに似ている様な気がした。
「お、俺を喰う気なのか?」
 身体がガタガタと震え、同時に声も揺れてくる。
 頭の片隅にいる冷静な自分が「まるで天敵に狙われた小動物だな」と笑っていた。
「まだおやつの時間には早いんですの」
 ふぅ、と軽く息を吐いて彼女は言った。
 どうやらいきなり喰われる事は無いようだ。
「なら何故こんな所に?」
「そうね・・・」
 あまり問いばかり繰り返すと相手の機嫌を損ねかねない事は承知だが、これはある意味では俺の生死が係っているので訊いてみる。
「特に理由などは無いわね。 ただの気紛れ、と言った所かしら」
 「気紛れで死ぬのか、俺は」などと心の中で呟いて心底俺は絶望した。
 力のある者の前では何も出来ない。
 これは弱者の真理だろう。
「何も無いなら帰ってくれません・・・か?」
 微妙に狐狗狸さんにでも頼むように言ってみたが、
「少し話し相手になってくれません事?」
 どうやら俺の退路は無くなってしまったようだった。


 そんなこんなで話し始めて一時間程経過した。
 彼女は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままこちらを見ている。
 一方の俺は緊張と恐怖で胃に穴が開きそうな気分だ。
 一応二人分のコーヒーを淹れてみたが、その減り具合が明らかに違う。
「あら、コーヒーが冷めてしまいますわよ?」
「あ、ええ、まぁ猫舌なものですから・・・」
 猫舌なのは嘘ではないのだけれど、本当はここまで冷ます必要は無い。
 本当は単純に手を出すのも怖いからこうなっているだけだ。
「随分と怖がられたものね」
 俺の心を悟ったのか、少し落胆したような様子で彼女は言った。
「それは・・・貴女は人を食べるらしいですから」
 ライオンに懐く野ウサギがいないのと同じ事。
「食べないわよ」
「く、口では何とでも言えますよ・・・」
 心外だと言わんばかりの様子で弁明してくるが、正直その笑顔で言われても説得力は皆無に等しいと思う。
 すると彼女は、
「どうしたら信じてくれるかしら?」
 と、のたまった。
「いや、そう言われても・・・」
 “喰われない確証”など、どうすれば証明できると言うだろうか。
「貴方の考え方って結構独特だから面白いのよ」
「はぁ」
「でも貴方が私との会話を楽しんでいないって言うのは不平等でしょ?」
「そうですか?」
 意外な事に、彼女は人間の事をそこまで見下げてはいないらしい。
「そう。 だからね、出来たらもう少し信用して貰いたいなと思うのよ」
「・・・・・・分かりました、善処してみます」
 いきなりは難しいが、相手がそう願うのなら従ったほうが得だろう。
 俺の命は所詮、彼女の掌の中にあるのだから。
「ありがとう」
 一瞬だけ、彼女の笑みから胡散臭さが消えた。
 その一瞬だけの本当の微笑みは、溜息が出るほどに魅力的だった。
(綺麗だな・・・)
 元々、その姿は何も言わなければそこらのモデルなどよりよっぽどハイレベルなのだ。
 自然な笑顔が似合わないはずが無い。
 そしてその自然な笑顔に惹きつけられない男もそうはいないだろう。
「どうしたのかしら?」
 ご多聞に漏れず俺も見惚れていたらしく、彼女の声で我に帰ることになった。
「い、いや、綺麗だなって・・・」
「え?」
 まだぼんやりとしていたのか、ついつい本音が飛び出してしまった。
「あ! いや、あの、その・・・」
 誤魔化そうと躍起になるが、言葉が見つからずただ慌てふためくだけになってしまった。
「そう・・・ありがとう」
 何故だか彼女の方も少し頬を染めて答えてくる。
 むしろ軽く流してくれれば良かったのだが、そんな反応をされるとかえって恥ずかしさが込み上げてきてしょうがない。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 時計の針の音がやけに大きく聞こえてくる。
 何となく気まずくなった俺は話題を振ることにした。
「あ、あの質問があるんですけど良いですか?」
「何かしら?」
 彼女もこっちに合わせてくれたのか、素直に応じてくれる。
「最近の神隠しって、もしかして貴女が?」
「いえ、私じゃないわよ?」
「え?」
 じゃあ、一体誰が“あの事件”を起こしたのだろうか。
 彼女ぐらいしか、あちら側の世界で神隠しなど行う人物はいないはずなのに。
「最近どうも大結界の調子がおかしいみたいなのよ。 多分その影響でしょうね」
「大結界の調子がおかしい?」
「何でなのかはよく分からないけどね」
 博麗結界と言えば、(設定では)こちら側の世界とあちら側の世界とを隔てる結界の事だ。
 それが不安定になっているとなれば、あちら側に迷い込む人間が出てきてもがおかしくは無い。
「もっとも直に博麗の巫女が何とかするでしょうね。 それが彼女の役割なのだし」
「なら安心ですね」
 それならば近い内に謎の『神隠し』事件には終止符が打たれる事になるのだろう。
 無論、こちら側には何も分からないまま。
「信用してくれるかしら?」
「一応」
 事件との関連性が無い以上、今の彼女が食物を求めてこちら側に来た可能性はある程度否定できる。
「そう、良かった。 ならば私も訊きたい事があるのだけど・・・」
「どうぞ。 俺が答えられることなら答えますよ」
「まず、この世界の・・・・・・・・・」
 それからの会話は不思議なくらいにスムーズに進んでいった。
 多分、彼女がむやみやたらに自分の同族を殺している訳ではないと分かったからだろう。
 問答の中で彼女が時折見せる自然な笑顔は、やはりどうしようもないくらいに美しいものだなとか思ったりしながら時間は過ぎていった。


 光陰矢の如し。
 楽しい時間ほどその経過は早く感じるものだ。
 結局ガチガチだった最初の一時間とは比べ物にならないほど俺は彼女との会話にのめり込んでいて、気が付けば時計の針は9時を指していた。
「あ、もう9時か」
「あら、もうそんな時間?」
 彼女も時が経つのを忘れていたのか、俺の言葉を聞いて初めてその事に気が付いたようだった。
「あの・・・平気なんですか?」
「何がかしら?」
「あまり此処にいると、貴女の式達が心配するでしょうし・・・」
「そうねぇ」
 本来なら彼女がこちら側に長居する事などあまりないはずだ。
 目の前の女性が架空の存在でないのなら、その配下である二人の少女も実存するだろう。
「そろそろ戻った方が良いのでは?」
「ええ」
 しかし彼女は一向に動こうとしなかった。
 不思議に思って声を掛けてみる。
「あの?」
 僅かな沈黙があって、彼女は口を開いた。
「・・・・・・ねぇ」
「はい、何でしょう?」
「・・・・・・・・・・・・」
「?」
「・・・・・・貴方、幻想郷に興味はあるかしら?」
「ええ、割とありますけど」
「なら来ない?」
「・・・・・・・・・え?」
 いきなりのお誘いに思考回路がフリーズした。
 そもそも俺みたいな一般人を幻想郷に連れて行ってどうするのか。
 やっぱり喰うのだろうか。
 いや、それはない事を祈りたい。
「・・・・・・嫌ならいいのだけど」
 寂しそうな表情でそんな事を言う。
「嫌じゃないですけど、いきなりだったから・・・」
 内心「行きたい」と言う想いはあるのだが、やはり行くのにはそれなりの準備が必要だろう。
 黙って消えたら、俺も『神隠し』事件の被害者に加わる事になる。
 でも彼女の誘いが魅力的なのも確かだ。
 ならば・・・
「・・・少し待ってて下さい。 用意しますから」
「え?」
 一度しか買えない『運命の切符』を逃すなんて出来ない。
「ちょっと、貴方本気なの?」
「ええ、本気です」
 大き目のスポーツバックを取り出してきて、その中に衣服やら必需品やらをドカドカと詰め込む。
 数分後にはスポーツバックは限界まで膨張していた。
「・・・・・・・・・」
 はち切れんばかりのバックを、彼女は目を丸くして見ている。
 そんな彼女に俺は言った。
「さ、支度が出来ましたよ」
 必要なものは全てバックの中にある。
 これで外出の準備は万端だ。
「どこへでも連れ去って下さい、八雲紫様」
 少しだけ、おどけたように言ってみる。
「・・・・・・・・・」
 彼女は一瞬ポカンとした表情をしてから、
「そうね、ならば“神隠し”と言うものを見せてあげるわ」
 妖しげな微笑を浮かべ、そう言ったのだった。



斯くして、少年は幻想郷へ旅立った。

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うpろだ360


「ん・・・」
 光が差し込んで、沈んでいた意識が浮上する。
 瞼を開ければそこには見慣れた天井。
 横を見やれば赤く輝く夕日。
「・・・ん~」
 布団の上で伸びをして、同時に深呼吸をする。
 寝ぼけた脳に酸素が行渡って、ゆっくりと思考が鮮明になっていく。
 それから服を着替える。
 何となく自分が着ていた寝巻きを見やる。
「明らかに趣味が変わったわね」
 ピンク色のランジェリーは夕日を浴びて少し透けていた。
 そう言えば、少し前まではこんなに華やかなインナーは着けていなかったはずだ。
「やっぱり彼の影響かしらね」
 小さく呟いて、頭の中に彼を思い描く。
 網膜の向こうに映った彼は少し恥ずかしそうに私に微笑みかけていた。
 それだけの事。
 そんな些細な事で私は胸の奥が甘く、切なく疼く様な気がした。
「っと・・・ 何を考えているのかしら、私」
 頭を振って、気を静める。
 軽く息を吐いてから、襖を開けて縁側へ出て居間へと向かう。
 少しすると、居間が見えてきた。
「あ、紫様起きられたのですか。 今食事をお持ちしますので、少々お待ち下さい」
「紫様、おはようございます!!」
 居間へと足を踏み入れた私に、橙と藍が交互に声を掛けてくれる。
 そして、
「おはよう、紫さん」
 今一番気になっている彼が声を掛けてくれる。
 その微笑みに自然と私の頬が緩むのが分かった。
「おはよう」
 だから私も自分なりの最高の笑顔で彼等に答える。
 ああ、そう言えばここ最近上辺だけの笑顔よりも心から笑顔を浮かべている回数が増えてきている様な気がする。
 腰を降ろして、藍の作る朝食(正確には夕食)を待つ。
 と言ってもすぐに食事が運ばれてくる訳ではないので必然的に時間が空く。
 だからその暇な時間は彼等と会話で消費する。
「あら、今日も派手にやったみたいね」
 彼の頬に掠り傷があるのを見つけたので言ってみる。
「ははは、やっぱり分かりますか」
 苦笑しながら彼が答えた。
「○○ってば、全然回避出来てないんだもん。 あたしも一応手加減してるんだよ?」
「そんな事言っても俺は所詮人間だからな」
 よく二人は弾幕ごっこ(と言っても橙が一方的に攻めるだけ)をしている。
 彼はあんまり乗り気ではないようだが、無邪気な橙を無碍に出来ないのか結局今の様に毎日ボロボロになっている。
「えー、もっと頑張ってよ~ そうじゃないと面白くないよ」
「無理言わないでくれよ・・・」
 そんな二人の様子が何となくおかしくて笑ってしまう。
「ゆ、紫さんも笑ってないで何とか言って下さいよ」
 顔を引き攣らせながら、彼がそんな事を言ってきた。
「そうねぇ・・・」
 少し意地悪してみようかしら。
「○○も殿方ならば、女性の要望に応えてあげるべきではなくて?」
 いつもの様に口元へ扇子を当てて笑ってみる。
「ほ~ら、紫様もそうだって言ってるよ?」
「ご、ご無体な・・・」
 私の言葉に勢いを得た橙が喜色満面で○○に笑いかける。
 対して彼はいよいよ顔色が悪くなってきた。
 これは少し厳しかったかもしれない。
 このままでは少々彼が可愛そうなので救い舟を出して上げる事にする。
「でも、そうねぇ・・・ 橙としてはやっぱり歯応えがあった方が良いわよね?」
「うんっ!」
「ならば、私が少し彼の事を鍛えてあげるわ。 そうしたら今度弾幕ごっこをする時はもっと楽しくなるかもよ?」
「・・・・・・そうだね! その方が面白くなりそう!!」
「ふふ、もしかしたら○○が橙の事を追い抜いてしまうかもよ?」
「わわわ・・・それは大変だ! よ~し、あたしも少し外で鍛えてきますね!!」
 言い残して橙はまるで風の様に外へと飛び出していった。
 後にはホッと溜息をつく彼と私が残される。
「助かりました・・・」
 「ありがとう」と深々と頭を下げてくる。
 そんな彼の様子は満更でもない。
「あら、果たして助かったのかしら?」
「え・・・」
 私の言葉に再び彼が凍りつく。
「今のは一時しのぎにしかなっていないのよ?」
「・・・やっぱりそうですよね」
 内心分かっていたのだろう、彼は苦笑した。
「安心なさい、私が手取り足取り教えてあげるから」
「本気ですか?」
「ええ、本気よ」
 実際彼にはもう少し、せめて人間としては強くなってもらいたい。
「・・・・・・・・・」
 彼は暫く考えるような素振りを見せた後、
「じゃあ、その・・・ よろしくお願いします」
 真剣な表情でそう言い切った。
 その澄んだ表情に一瞬だけドキッとする。
 だけどその本心を悟られるのは何だが躊躇われて、
「・・・その願い確かに聞き入れましたわ」
 なんておどけた様な言葉を返してしまった。
 でも、内心彼に期待していると言うのは本当の事。
 強くなって欲しいのは、彼に守ってもらいたいから。
それはきっと如何なる女性の心の内にある一種の夢。
 私、八雲紫は今、確かに彼に恋している。


 さて、そもそも彼。
 ○○とはどういった人物なのか。
 端的に言ってしまえば、彼は外の世界の住人であって同時に無力な一般人だ。
 別に何か特殊な力を持っている訳でも、秀でた才がある訳でもない。
 しかし彼は他の人間と明らかに異なっている点があった。
 彼は人の身でありながら、時折何かを悟った様な表情を見せる事があるのだ。
 “心の境界”を弄れば彼が何を考えているのかは分かるが、それはとても失礼な気がするので出来ない。
 何よりも、私はそんな手段で彼の心を知りたくない。
「ふぅ・・・」
 食事を終え、縁側で小さく溜息をつく。
 ここ最近本心からの笑顔が増えた反面、溜息を吐く回数も増えた。
 思えば何とも典型的な“恋煩い”の症状ではないか。
 “恋”と言うものは知識としては知っているが、実際に本気で経験した事なんて無い。
 律しようとすればする程、想いは加速して処理が追いつかなくなってしまいそうになる。
「はぁ・・・」
 幾度目かの溜息。
 もう数える事も意味が無いように感じる。
「どうしたんですか?」
 ふいに横から彼の声が聞こえた。
 振り返れば、珍しいものを見たような彼の顔。
「いえ、何でも無いわ」
 平静を装ってみるが、どこまで演技できている事か。
「隣、良いですか?」
「どうぞ」
 律儀に一声掛けてから彼は縁側に腰掛けた。
 そうして私と同じ様に外へ視線を向ける。
「此処での暮らしはどうかしら?」
 何気なしに訊いてみる。
 彼は少し眉を寄せてから、
「なかなか気に入ってますよ」
 と嘘偽りの無い笑顔を浮かべた。
 その笑顔がまた眩しくて、心臓が跳ねる。
「・・・それは良かったわ」
 今の笑顔は少々不自然になってしまったかもしれない。
「それから今更ですけど、本当にありがとうございます」
「え?」
 突然の改まった礼に少し驚く。
「だって、俺ここに着てから何も出来ていませんから」
「何を言っているの、私は興味があったから貴方の事を連れて来たのよ? それに貴方は何もしていない訳ではないわ」
「そうでしょうか?」
 不思議そうな顔でそんな言葉を返してくる。
 全く暢気なものだ、と思う。
 私を“こんな状態”にさせておいて・・・
「貴方がここに着てから藍や橙の様子が変わってきているのよ? 橙は遊び相手が出来て嬉しいと言っていたし、あの藍も良い話し相手が出来たって喜んでいたわ」
 同じ女であるからよく分かる。
 藍も橙も、おそらくは彼に対して好意を抱いている。
 多分このまま順当に行けば、その感情が別の感情に推移するのも時間の問題だろう。
 正直私は気が気でない。
 それなのに彼は、
「そうなんですか? 橙の事については分かりますけど、藍さんがそう思っていたなんて知らなかったな」
 心底驚いた様な表情でそんな事を言う。
 幾らなんでも鈍すぎはしないだろうか。
 一度、乙女心と言うものについてみっちりと教え込んだ方が良いかもしれない。
「・・・・・・・・・全く、困った男性(ヒト)ね」
「?」
 幸い、呟きは聞こえなかったらしく彼は首を傾げているだけだった。
「兎に角、貴方が着てからマヨヒガの空気が変わったのよ。 貴方は何もしていない訳ではないわ」
「そんなに大層な事をした気は無いんですけどね・・・」
 苦笑しながら彼が答える。
「むしろ俺は戯言ばっかり言っている気がしますよ」
「そうかしら、私は面白いと思うけど?」
 これは私ばかりではない。
 橙はどうだか分からないが、少なくとも藍は私と同意見のようだった。
「そう言ってくれるのは貴女だけですよ」
 そんな事を言って、少しだけ寂しげな笑みを浮かべる。
「現実世界って結構シビアなんですよ。 ただ単純に自分の感性を形にしてみても、大衆がそれを受け付けられなければ批判されるんです」
 そう語る彼の表情は真剣そのものだ。
「でも万人に通じるものなんて無いと思うんです。 ですから本当の意味では人は他人の価値を否定する事は出来ないと思うんです」
「人は人を否定出来ない、と言う事かしら?」
「ええ、もっともどこまで正しいかは分かりませんよ。 何せ俺も人間ですからね」
 肩を竦めてみせる。
「でも貴女を始めとして、幻想郷の住人は純粋に評価対象の良し悪しを見てくれる。 その辺りは本当に好ましいですよ」
 「もっとも理屈で動く人はどうだか分かりませんが」と、彼は笑った。
「・・・・・・だから、感謝しているんですよ?」
 ふいに彼が立ち上がった。
 直後に感じる人の温もり。
「特に貴女には・・・ね」
 耳元で彼が囁いた。
「な・・・・・・」
 状況を理解した途端、抑えていたはずの“感情”が暴れ始める。
 身体が経験した事が無いほどに熱くなって、狂ったかのように心臓が踊り始める。
 同時に甘い疼きが脳髄を侵して蕩かしていく。
 “もっと近くに感じたい”
 その想いが理性の壁を越えようとする瞬間、それを見計らったかのように彼は身を引いた。
「はは・・・ 少し悪戯が過ぎますね」
酷い。
 これでは生殺しではないか。
「そ、そんなに怒らないで下さいよ」
 どうやら本心が表情に出ていたらしい。
 さっきまで悪戯っぽい笑みを浮かべていた彼は、急に怯えたような目で私の事を見ていた。
「怒ってなどいないわよ」
 内心少し不満な訳だが、別段怒っている訳ではない。
「そ、そうですか? 良かった」
 私の言葉に彼はホッと息を吐いた。
「ん、そろそろ時間かな・・・ それじゃお使いに行ってきますね、紫さん」
 おそらく藍が頼んだであろう。
 彼は一礼すると、少しだけ小走りで縁側を歩んでいった。
 その姿をぼんやりと見送ってから、私はまた溜息を吐く。
「・・・本当に、どうしてしまったのかしらね」
 耳元をそっと撫でる。
 まだ、彼の囁きが残っているような感じがした。
 もう駄目だ、これ以上は・・・
「・・・もう、我慢出来ない」
 想いとは不安定なもの。
 確実なものが無ければ忽ち風化して壊れてしまう。
 だから私はもう待つ事を止めることにした。
「覚悟なさい○○」
 今はいない彼に向けて宣戦布告をする。
 さあ、これからが正念場だ。
 やるからには全力で当らなければ。
 せめて悔いが残らないように。


「あー・・・」
 唸りながら寝返りを打つ。
 寝入ってからおよそ一時間、急激に意識が覚醒してしまった。
 さっきから何度も寝返りを打っているが、眠気に見放されたのかまるで眠れそうに無い。
「仕方ないな」
 寝られない時は何をやっても眠れないものだ。
 自分を納得させて俺は床から起き上がり、縁側へと向かう事にした。
 幸い夜ともなると、日中に比べて気温が下がるので幾らから過ごしやすくなる。
 俺は適当な場所に腰掛けて少し思考を巡らせる事にした。
「・・・・・・やっぱり夕方のアレはやり過ぎたかな」
 アレ、とは紫さんの耳元で囁いた事だ。
 普段彼女はよく俺をからかう事があるので、今回は逆に彼女の事をからかって見ようと思ってやったのだ。
「つか、明らかに怒ってたよな・・・」
 多分あれがジト目と言うものなのだろう。
 しかも微妙に不機嫌オーラが漂っていた。
 でも心なし瞳が潤んでいたような・・・
「・・・ないな」
 きっとそれは茹だった俺の脳が見せた幻想に違いない。
 何せ相手は数え切れない程の歳月を生きた大妖怪。
 俺如き青二才相手にそんな感情を抱くなんて考えられない。
「むしろ逆鱗に触れたんじゃ・・・」
 だとしたら拙い。
 相手は妖怪、自分は人間。
 二つの種族の間にある差はどうあっても埋められるものではない。
 逆鱗に触れたのならば、制裁は覚悟するべきだろう。
 最悪、殺されるかもしれない。
「・・・・・・・・・」
 ああ、何を今更怯えているのだろう。
 そもそも此処に来た時点で覚悟はしていたはずじゃないか。
「八雲紫は冬には冬眠する。 その際には人間を蓄える・・・」
 蓄える、つまりは“喰う”のだ。
 元より妖怪は人間を食べるものであるから、その行為自体は自然な事だろう。
 しかし被捕食者としてはそれを“自然な事”で済ます事は出来ない。
「・・・まぁ、元より冬までの命だとは思っていたけど」
 言っていて薄ら寒くなる。
 だが、どんなに逃げようとも逃げられるわけも無い。
 何せ相手があまりにも悪すぎるのだ。
「ふぅ・・・」
 もっともただで死ぬ気は無い。
 せめて死ぬのであれば最期に盛大に何かをやって見せよう。
「そう」
 何せ俺は・・・
「俺は彼女を愛しているんだからな」
 そう、あろう事か俺は彼女に対して“愛情”を感じているのだから。
 もっともその想いが成就する事など考えていない。
 意味が無いからだ。
「愛も憎しみも、生きていて初めて告げられる」
 死に逝く未来ならば、想いを告げても意味は無い。
 告げられた相手はただ辛く感じるだけだ。
「生きられぬのなら証を刻めばいい」
 それは言葉か、それは歴史か、それは・・・傷痕か。
「俺は彼女の心に残れればそれで良いんだから・・・」
 ああ、何て酷い考えだ。
 どうしようもない。
 でもどうしようもなくしてしまったのは彼女だ。
 彼女が俺の戯言を「面白い」と言ってしまったから。
 俺を肯定してしまったから。
「歪んでるな、俺・・・・・・」
 何故だろう、それが自分の心情のはずなのに目頭が熱くなってくる。
「死にたくないな・・・ 死んだら俺は彼女の傍にはいられない」
 霊になる、と言う手だってある。
 でも俺にはきっと其処に至るまでの精神力は無い。
 だから死んだらそれで終わり。
「・・・俺には八雲紫(かのじょ)に愛される未来なんて無いのか」
 そもそも相手はこっちをただの肉としてしか見ていないかもしれない。
 久しく、俺は頬を熱いものが伝っていく感覚を味わった。
「・・・・・・未来はまだ決まってはいないわ」
 声の方を見やると、そこには紫さんが立っていた。
 彼女は本来夜に起きている事の方が多かった事をすっかり失念していた。
「運命論者ではない、貴方はそう言ったでしょう?」
 それはかつて俺の言った事の確認。
「・・・いつから其処に?」
「さあ? いつからでしょう?」
 問いに対して、彼女は見慣れた胡散臭い微笑みで答えた。
 身体中の筋肉と言う筋肉が引き攣り、目の前が白くなっていく気がする。
「・・・答えが知りたいかしら?」
 何に対しての答えなのだろうか。
 俺にはそれを知る術は無い。
「答えが欲しいのなら来なさい」
 彼女はそう言って縁側を歩いていく。
 俺は何も言わずにそれに従った。
 如何なる答えであろうと、ただ受け入れようと心に誓って。


 彼女の部屋に入った事は何度かある。
 しかし夜ともなると同じ部屋でもどこか違って見えてくる。
 特に今の場合は状況が状況だけに。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 重苦しい沈黙が続いている。
 まるで空気が鉛にでもなってしまったかのように、呼吸をするのも苦しく感じる。
 俺と彼女は部屋に入ってから互いに立ったままだ。
 彼女はなぜか座る気配を見せないので、俺もそれに倣っているのだ。
「ねぇ・・・」
「はい」
 彼女はこちらに背を向けたまま小さく言った。
「貴方、自分は私に愛されないと言ったわね」
「ええ」
「なぜかしら?」
 やはり彼女は振り向かないままで問う。
「・・・・・・言うまでも無いのでは?」
 不思議と冷静だった。
 一種の極限状態であるにも関わらず、なぜか俺は自分でも驚くほどに冷静だった。
「私は貴方の口から聞きたいの」
 一瞬だけ、彼女がこちらを見た。
 黄金色に輝くその瞳が射抜くように俺を捉えていた。
「人間と妖怪は相容れないからです」
 その視線を威嚇ととって、俺は総てをその一言に込めた。
 どんな理由も、最終的にはこの一言に集約出来ると思ったから。
 でも果たしてそれは俺の本心なのだろうか?
「だから私に愛されないと言うの?」
 小さく頷いて、肯定する。
 すると彼女は振り返って言った。
「・・・ならば逆に問うわ。 貴方は私を愛してくれないの?」
「それは・・・」
 酷な質問だ。
 本音で言えば俺は彼女を愛している。
 しかしそれを告げた所で何になると言うのか。
「私は貴方を愛しているのよ?」
「それは食料としてでしょう?」
 いつものジョーク。
 でも今この言葉には冗談を込めたつもりはない。
 それが真理であると疑わなかったからだ。
「いいえ」
 けれど彼女はゆっくりと首を横に振った。
「私は貴方を愛しているわ」
 そして微笑んだ。
 その黄金色の双眸から、透明な涙を零しながら。
「好きで好きでしょうがないのよ? もうそれこそ狂ってしまいそうな位に」
「っ・・・」
「貴方を想うだけで、こうして涙が溢れてくるのよ?」
 なぜそんな綺麗な笑顔を浮かべられるのだろう。
 俺は何も答えられずに顔を俯かせた。
 と、ふいに感じた事のある甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「なっ!」
 気が付けば、俺は彼女に抱きつかれていた。
 同時に片手に感じる質感。
「そのナイフは妖怪を殺す事が出来る概念付加を受けたもの。 無論、私でも殺せるわ」
 利き手に収まった小さなナイフ。
 目の前には彼女。
「もしも貴方にとって私が恐怖の対象でしかないのならそれで私を刺せば良いわ。 だから・・・」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、教えて頂戴。 貴方は私をどう想っているの?」
 耳元で彼女が囁く。
 俺は・・・
「卑怯ですよ・・・・・・」
 軽い音がして、ナイフが床に落ちた。
「そんな事、出来る訳ないじゃないですか・・・」
 そうして俺はそっと紫さんの事を抱きしめた。
「俺だって狂う位貴女の事を愛しているんですよ?」
 涙で視界が滲む。
 頭では分かっていても、心では割り切れない。
 それが感情と言うものだから。
「たとえ貴女にとっては食料でしかなくても、路傍の石と同じような存在であっても」
「・・・・・・」
「俺は貴女を愛している」
 目を逸らさずに、彼女の瞳をしっかりと見つめて言い放った。
 そして自分で言って初めて分かった。
 これこそが自分の偽り無い本心なのだと。
 数瞬の後、彼女はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「・・・その言葉を、私がどれほど待っていたと思う?」
 聖母のように、全てを包み込むような眼差し。
「ちゃんと言えるじゃない」
 熱く潤んだ瞳が揺れている。
 ふいに、視界一杯に彼女の顔が広がって。
「愛しているわ、○○」
 唇に柔らかな感触。
「――――――」
 思考が明滅を繰り返す。
 喜び、驚き、幸せが三原色のように混ざり合って多彩な感情を生む。
 やがて感情はただ一つに収束して、俺はその想いを心の底から受け入れた。
 収束した結果に生まれた感情の名は“愛”。
「・・・はぁ」
「・・・ふぅ」
 永遠とも一瞬ともつかない時間の後に、重なった唇は離れた。
 意図せずして熱っぽい吐息が零れた。
「もう離さないわよ」
 頬を紅潮させながら、上目遣いに宣言してくる。
 その姿に愛おしさが加速していく。
「望むところです」
 こちらももう歯止めは効かない。
 彼女に誘導されて、建前と本音の境界を踏み外してしまった以上後戻りなんて出来ない。
 俺は再び彼女に口付けた。
 彼女もまたそれに答えてくれる。
 今度は互いの舌を絡ませて、より熱く深く繋がり合う。
 水音が部屋に響き渡る頃には、どちらからとも無く床に転がっていた。
 そして俺たちは―――――――――――



  斯くして、二つの想いは繋がった。

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最終更新:2011年02月26日 22:47