紫15
───────────────────────────────────────────────────────────
うpろだ1038
それはごく最近の事。
帰宅した俺は早速PCの電源を入れて、いつものようにイチャスレを見に行くことにした。
するとその日俺は少々珍しいものを目にする事となった。
×××:八雲紫:云々
へぇ……ここは私達の色恋を扱っている場所なのかしら。
中々に面白い場所じゃない。
そう、コテハンである。
このスレでは基本的にコテハンは禁止されているおり、この様な事をするのはよほど諸注意を見ていない新参ぐらいである。
俺はすぐに自演か、或いは荒らしの類の犯行だと確信し、大人しく無視を決め込む事にした。
顔も知れぬ住人たちもどうやら同意権らしく、特にこのコテハンについて触れる事も無くスレは進んでいった。
しかしおよそ一週間後、丁度俺達が忘れかけていた頃に再びあのコテハンがスレに姿を現したのである。
ちなみに以下がその時のコテハンの言葉だ。
×××:八雲紫:云々
ねぇ、貴方達がここで作っている文章は貴方達の本心を綴ったものなのかしら?
実はこのスレには周期的にあれこれと厄介なものが出没する傾向があったりする。
しかし、こう言った類の厄介者がこのスレに現れたことは前代未聞の事だ。
そもそもここまで「女性」を意識させる様な言葉遣いをすると言うだけでも珍しい。
俺はしばらく考えた後、遂にそのコテハンに対してレスを書いていた。
尤も本来ならこれは許されざる行為なのだろうが。
×××:名前が無い程度の能力:云々
少なくとも俺達の東方キャラに対する愛に偽りはありません。
俺達はただ>>1の言葉を信念に、各々の想いを文章にしているんです。
無論、これは賢明な判断とは言えないから賛否両論となった。
多彩な個性を持った住人が住まうこのスレであるから「余計な事をするな」と批判的な発言をする人もいれば「その通りだ」と擁護してくれる者もいる。
俺は基本的に小心者であるから、これらのレスポンスを見た後「やはり余計な事をしてしまった」と言う一種の自責の念に駆られた。
そしてすぐに「謝罪の文章を書くべきではないか」と思い至った。
が、しかしそう思い立った俺の目に飛び込んできたものは、例のコテハンからのメッセージであった。
×××:八雲紫:云々
あら、そうなの……じゃあ折角だから良い事を教えましょう。
実は幻想郷でも最近インターネットが普及し始めていてね、その影響で今このスレは幻想郷の住人の監視されているわ。
尤も反応を見る限りあの子達も満更では無いようだけどね。
流石の住人達このレスには俄かにざわめきだした。
しかし不思議な事に、批判的な発言は殆ど見受けられなかったのである。
ただ受け入れられたかと言うとそういう訳では無く、丁度「触らぬ神に祟りなし」と言った感じの対応だったが。
するとこのコテハンは再びこの様なメッセージを書き込んできた。
×××:八雲紫:云々
例えば、そうねぇ…『留年皇』を見た後の幽香の反応は面白かったわ。
「随分と私の人物像って勘違いされているみたいじゃない。一度語り合ってみたいわ、主に拳で」とか言っちゃってね……赤面しながら。
ここだけの話、あんな幽香なんて今まで一度も見た試しが無いのよ。
その様子はまさに恋する乙女って感じでね。
他にも――
以下には延々と他の幻想郷の住人達の反応が記されていた。
それは勿論認知度の高い作品はさる事ながら他の小品や長編などについての感想までも、である。
だが、それ以上に興味を引いた記述は彼女(?)の最後の一言だった。
「――何にせよ、近いうちに貴方達の嫁が目の前に現れる様な事があるかも知れないわね」
なぜかその瞬間背筋に寒気が走った様な気がして、俺は何となく後ろを振り返った。
目に入ってくるのは当然の如く、見慣れた自室の風景。
俺はそんな当たり前の事に酷く安心して、それからしばらくネットを漂った後いつもの様に布団に入って眠りに落ちた。
「――起きなさい」
ふと、暗闇の向こう側でそんな声が聞こえた様な気がした。
内心で親が起こしに来たのだろうと決め込んで、再び安らかな眠り闇の中に身を委ねる事にする。
するとまた脳内でさっきの声が響いた。
「起きなさい、と言っているのよ」
今度はぞっとする様な冷たい声色。
言っての通り小心者の俺はその声に軽く悲鳴を上げながら飛び起きた。
しかし目の入ったのは見慣れた自室では無かった。
無限に続く闇、とでも評するべきか。
兎に角俺が寝そべっていた場所はそんな感じの空間だった。
しかも奇妙な事に辺りは距離感を喪失させられそうな程の闇に覆われているに、自分の身体だけは日に当たっている様に浮かび上がっているのだ。
だからと言って、突然こんな空間に来て平静を保っていられるほど俺は冷静じゃない。
すぐに不安に駆られた俺は周囲をグルリと見渡して、どこかに人がいないかを確認する事にする。
と、困惑する俺に先程の声が宙から聞こえてきた。
「やっとお目覚めね」
声の方に目を向けると、そこにいたのは一人の女性が立っていた。
そしてすぐにその女性は俺の良く知っている人物であると言う事を俺は理解してしまった。
「…………八雲、紫……?」
「ご名答よ、名前が無い程度の能力さん。私は八雲紫、境界を操る幻想郷の大妖怪」
「……本物……なのか? ……本当にあんたが、あの八雲紫なのか?」
「あら、思いの外観察眼の無い人ね。てっきり分かっているものだと思っていたのだけど」
生憎と『コスプレ』と言うものがある手前、いきなりそれっぽいものが現れたところで無碍に信じる事など出来ないのが俺の性分だ。
やはり物的証拠でもなければ信じられない。
「出来たらあんたが八雲紫だと証明する何かを見せてくれないか。この世界ってのは如何せん贋物が多いんで、簡単に誰彼を信用する訳にはいかないんだ」
「目に映る事実も受け入れられない……なるほど、常識に縛られた世界の住人の言い分ね。良いわ、それならば証明してあげましょう」
そう言って彼女は中空に軽く指を走らせた。
瞬間、聞いた事も無い音がして彼女が指を走らせた場所に一本の線が走った。
次いでこれまた言葉では表現出来ない様な音と共に空間が裂け始める。
これが……境界を操る能力?
「……ほら、もっとこっちにいらっしゃい。そしてよく御覧なさい。もしこれでも不満があるのなら、今度は妖怪でも出してあげるから」
「け、結構です、貴女が本物の八雲紫であると言う事はもう十分に理解できましたから」
「……あ、そうだわ、どうせなら霊夢でも呼びましょうか? あ、なんだったら幽香でも良いのよ?」
「も、もう十分ですから! むしろ怖いから止めてください!!」
「まぁ、随分とつれないのね……ノリの悪い殿方は嫌われますわよ?」
「貴女のノリについて行ける人なんて幻想郷にだっていないでしょうに……」
言葉に違わぬ胡散臭い笑顔も、確かに彼女が八雲紫たる証拠になっている様な気がした。
「時にここはどこなんですかね、紫さん?」
ふと俺は兼ねてよりの疑問を解消するべく彼女に問い掛けた。
「そうね……所謂『無意識の世界』、もっと簡単に言えば貴方の『夢の世界』って所かしら?」
なるほど理解し易い事この上ない。
つまりよく二次元世界などで見られる世界に俺はいる訳だ。
それに彼女のスペカの中に『夢と現の呪』と言うのがあり、これを加味すれば彼女は俺の『夢と現実の境界』を操作して入り込んできた、と考える事もできて理論的だ。
だがしかし、入り込んできた過程は良いとしてもその理由がイマイチ解せない。
そこで再び俺が口を開こうとした矢先、それを遮るように彼女が続けた。
「そうそう、貴方の元に現れた理由だけど何てことは無いの。貴方が私の言葉に反応してくれたから、ただそれだけの事よ」
「それはまた随分と……会うなら俺よか適している人が絶対いると思うんですけど」
「そりゃいるでしょうね。でも言葉も返してくれない殿方に会いに行ってもしょうがないじゃない。その点、貴方は馬鹿正直な返答してくれたから真摯な人だと見込めたのよ」
「……もしかして遠巻きに馬鹿にしていません?」
「正直は人の美徳。私は貴方を褒めてあげたのよ」
「そこはかとなく棘を感じますが」
「まぁ、疑っては駄目よ? 疑っては折角の美点が汚れてしまいますわ」
「は、はぁ……そうですか。じゃ、次の質m」
そう言おうとした俺の口は(スキマから出てきた)彼女の手によって遮られてしまった。
「質問攻めはもう良いでしょう? そろそろ私からも質問をさせて頂戴な」
ふわり、と。
まるで風に舞う花弁の様な動きで彼女は俺の眼前に近寄ってきた。
突然の事に思わず出そうになった悲鳴を何とか喉の奥で押し留める。
「一応確認をしておくけれど、貴方があの場所で言った言葉に嘘は無いのよね?」
「当然ですね。俺達は自分の心に嘘を吐いてまで偽りの想いを文章にできる程器用じゃありません。長短関わらず自分の想いを文字として表現する場所……それがあのスレです」
「でもあの文章に書かれた事は事実では無い。事実で無い以上酷な事を言うなら、ただの空しい妄想だと笑われてもおかしく無いはずよね? なぜそんな事を続けられるのかしら?」
実存するかどうかも怪しい人物に恋文を書く。
常人達からすればそれはどれほど愚かしい事に見えるか分からない。
実際、この東方界隈では俺達のような存在はひたすら嫌われるだけの存在だ。
しかしそれが何だと言うのだろう。
「ふ、ふふふ……おかしな事を訊くんですね」
図らずして笑みがこぼれていた。
全く、これだから最近の新参は駄目だと言うのだ。
「紫さん……あんたちゃんとあのスレの>>1は読みましたか?」
「>>1? とりあえず、くどくどと長い台詞が書いてあったって事は覚えていますわ」
やはりちゃんと見ていないのか、やれやれ全くしょうがない人だ。
人が折角誘導してやったと言うのに、長いと踏んだらもう見もしないのか。
ま、実際面倒臭がりなのも彼女らしいと言えば彼女らしいが。
「文才・設定は二百由旬へぶっ飛ばし、東方キャラへの口説き文句等を思うがままに書いてみてくれ……これが>>1の頭の文章です」
そう、あすこは己の想いの丈を文字として叫ぶためにある。
「いる、いない? そんな事はどうでも良いんです。俺達にとって大事なのは、そんな些細な事ではありませんから」
現実にはいなくとも、彼女達はいつだって俺達の心の中にいるのだから。
「大事なのは愛……東方キャラに対する確かな愛情なんです。それさえあれば、俺達は多少の困難は苦にはなら無いのですよ」
如何なる作品についても言える事、それは東方のキャラに対する愛を表現している事だ。
そこには優劣など存在はしない、ただ溢れんばかりの愛情があるだけ。
だからこそ各人が己の技量を限界まで駆使して、その愛を極限まで高めて投下し続けるのである。
――××は俺の嫁
それが俺達の間のたった一つの投稿規定だった。
しばらくして紫さんの方を見遣ると、彼女は少し呆れたような顔をしていた。
確かに厨臭い事を言った気はするが、そんな言葉を話す珍獣にでも遭ったような目でこちらを見るのは止めてもらいたい。
「何と言うか臭いわね、本当に。言っていて恥ずかしくないのかしら?」
「まぁ、羞恥心が無い事は無いんですがね……これが俺達の信条だと言う事は確かなのですよ」
「残念ながら私、暑苦しい理論はあまり好きではないの」
「あー……それは困った。恋愛の本質を否定されてはどうしようもないからね」
尤も言葉とは裏腹に、私的な見解で彼女は一種の生体コンピューターの様な性格なのだろうと踏んでいたので、それほど衝撃を受けていなかったりする。
実際こうして話していても、霧か何かに対して語りかけている様な感覚が拭えなかったりするし。
(こりゃあ、この人を嫁と主張する住人達は大変だろうなぁ)
彼女はどうも恋愛の根元を理解できない、と言うか理解できる程の情動があっても理解しようとしない人だと見た。
正直骨の折れる事になるだろう。
俺は何となく『頭が罪の袋の人』の事を考えて、しみじみとそう思わざるを得なかった。
「でもね」
ふいに、紫さんの声で現実に引き戻される。
彼女は妖艶な微笑を口元に乗せて、こちらを見つめていた。
そして魔性の笑みは徐々に近付いてくる。
「――私だって女の子ですもの。だから甘いモノは大好物ですの」
視界から消えたと思ったら、吹きかけるように耳元で囁かれた。
反射的に背筋にゾワゾワしたものが走って俺は思わず身震いする。
が、甘美な感覚の最中においても俺はどこかズレているものだから、
(すげぇ、本当に金髪なんだな……)
と言う至極どうでも良いような事を考えていた。
とりあえずこんなに間近で金髪を見るのは初めてだったんだ、と弁明しておく。
「そうそう、まだ訊いていなかったわね。貴方の名前、教えてもらえるかしら?」
そっと身を離した後、今更のように美人さん聞いてきた。
尤も俺も今の今になるまで自分から名乗る事を忘れていたりする訳だが。
「ああ、そう言えば名乗ってなかった……俺の名前は○○。名も無きただのイチャスレ住人さ」
本来、あのスレでは名乗る名前は要らないのだが、とりあえずリアル(正確には夢の中で、だが)で会った訳なので本名を名乗っておく。
妖怪に対して本名を明かすと何かと不利な事になりそうではあるが、彼女ほどの妖怪になるとこちらが不利なのは最初っから変らないので今更気にする必要も無いだろう。
俺の名を聞いた彼女は満足そうな顔をして言葉を返してきた。
「そう、○○ね。 ……じゃあ特別に貴方には先に教えておいてあげる」
転瞬、彼女の表情がまるで全てを絡めとらんとする様な不気味なものに変わる。
何故か俺はその表情から女郎蜘蛛を連想していた。
「――そろそろあの場所で面白い事が始まるわ。だから……ちゃんとそれを見届けて?」
“何を”と明言しない事が何よりも恐ろしい。
なぜなら彼女は強大な力を持った存在であり同時に、一癖も二癖のある東方のキャラの中でも最も人間離れした思考回路の持ち主だからである。
(これは……本当にリアルな夢である事を願うしか無さそうだな)
何せこれが現実だったら対処のしようが無いからである。
実はこの期に及んでまだ俺はどこか目の前の女性の事を『自分の願望が生み出した虚像か何か』と思っている節があった。
考えても見て欲しい。
目の前に自分が夢見た人物がいて、そいつが自分に対して「特別だ」なんて言い出すのだ。
もしそんな事があったとして、果たして素直にそれを喜ぶ事が出来るだろうか?
いや、きっと出来るはずがあるまい。
人は時として『あり得ないもの』に思いを馳せる事があるが、いざそれが突然叶うと間違いなく当惑するものだから。
そんな事を考えていると唐突に目の奥に閃光を感じた、どうやら朝が来たらしい。
気が付けばすでに周囲の暗闇はホワイトアウトしていて影一つすら見えない状況。
だが一瞬だけ、その白い光の中に彼女の微笑みを見つけられた様な気がした。
やはり嫌な予感と言うものは当たるものらしい。
翌日いつもの様に帰宅してスレに向かうと、そこにはこんな文章があった。
そして同時にその文章は俺の顔から血の気を奪うのには十分すぎる程の内容を持ったものだった。
×××:名前が無い程度の能力:云々
なんつーか、ここに書くのはスレ違いどころじゃないかも知れないが落ち着いて聞いてくれ、兄弟達よ。
今日、俺はいつもの様に(以下数行に渡って個人的な情報があったので削除)。
で、だな。本番はここからなんだが、単刀直入に言おう。
な ぜ か 今、目の前に俺の嫁がいるんだ。
我が目を疑って目を擦ってみたが、ディスプレイに写る文字は変らない。
自分の頬を思いっきり抓ってみたが、やはりディスプレイに写る文字は変らない。
思わずPCを再起動してみたが、やっぱりディスプレイに写る文字は変らない。
遂にこれは幻影でも悪夢でもウイルスでも無いと悟って、生唾を飲み込みその下のレスに注意を向ける。
するとそこにはやはり何かしら批判的、或いは擁護的な内容のレスが幾つか続いていた。
しかし思わずホッと息をつく間も無く、十数個下にあったレスが再び俺の脳を揺らした。
×××:名前が無い程度の能力:云々
>>×××
もしかしてお前もなのか? 実は俺も今日(以下同じ理由につき削除)。
で、結局今は俺の嫁が横で寝転がっているんだけど…どうしよう?
こう言った匿名掲示板において、斯様な文章が現れる事はそれほど珍しい事では無いだろう。
しかしそれが全く同日に、それも殆ど似た内容のものが現れると言う事はそんなに頻繁に見られる事では無い。
無論、荒らしだと切って捨ててしまえば事は簡単だ。
しかし荒らしにしてはその文面からはどこか切羽詰った感じが漂っているし、相当当惑しているのか片方は殆どリアルの立場が分かりそうな情報まで書いてあった。
もっともそれぐらいの自己設定を捏造できる様な悪質なものもいるのかも知れないが、何せ昨日の今日である。
だから、俺は彼等が嘘を言っているようには思えなかった。
念のため更に下の方にも目を通すと、やはり住人達も単純に荒らしとして批難する事ができないのか曖昧なレスが続いている。
一応、夢の中であるとは言え実際に八雲紫にあった身である以上、何か書き込みをするべきかとも考えたが、それはこのスレの主な内容にから著しく外れてしまうと思い止めておく事にした。
それに、確認をするのならばもっと効率的な方法がある。
「……八雲紫。これがあんたの言っていた『面白い事』なのか?」
そう、当事者に直截訊けば良いのだ。
その晩もこちらの気持ちを読んでいたのか、八雲紫はやはり俺の夢の世界へと入り込んできた。
そして俺が少しだけ語気を強めて問い詰めると、特に隠す事も無く割りとあっさり自分がやったと言う事を白状した。
半ば予想通りだったとは言え、ただの夢だと信じていた身には些か応えるものがあったのが事実である。
紫さんはそんな俺の様子を見てクスクスと小さく笑うと、スキマからテーブルを一台と椅子を二脚、そして真っ白なポットと二つのティーカップを取り出した。
どうやら夢の中でお茶でも飲むつもりらしい。
そのまま呆然としていると彼女は「まぁ掛けなさい」と言って俺を椅子に腰掛けさせた。
ちなみに俺は動いていない、気が付いたら椅子の上に座っていたのである。
どうやらスキマを利用して一種の瞬間移動をさせられたようだ。
必然的に対面席になってしまった事に兢々としている俺を尻目に、彼女は優雅にカップの中身を一口含んだ後ゆっくりと口を開いた。
「皆様が嫁などと仰っているから、実際に会わせて差し上げたのです。勿論これは私の善意ですから、代わりに何かを頂くと言った真似はしていませんわ」
「何か問題でもおあり?」と言外に漂わせながら、こちらに一瞥を投げてくる。
俺もとりあえず彼女の真似をして一寸カップに口をつけてから言葉を紡いだ。
「幻想郷にいるはずの人物が実在する……その事が公に露見したらどうするつもりなのでか?」
今はまだこのスレの住人達が半信半疑だから良い。
しかしもしこの事が他のスレなどに漏れだしたりしたらどうなるか。
正直ちょっと想像しただけでもゾッとする話だ。
彼女はふむと小さく息をつくと、カップの中を見つめたまま答えた。
「当然それは困りますわね。外の世界の人間に興味があるとは言え、あまり一気に来られたのでは色々とバランスが崩れてしまいますもの」
「ならばやはり……」
「彼女達を幻想郷に戻すべきだ、と?」
そう言ってカップから俺に視線を移す。
「そうそう、これはまだ言っていなかったから今教えて差し上げましょう。彼女達、つまり現在外の世界に来ている数名の“あなた方の嫁”は、みな自分の意思でこちらに来ているのよ」
「……どういう事ですか?」
緊迫した空気が場に立ち込めて、俺は緊張をほぐす為に紅茶に口を含む。
そしてその緊張がついに頂点に達しようとしたその時、紫さんはようやく口を開いた。
「簡単に言うと、貴方達の恋文を読んだ子達の中に、実際に作者に会ってみたいと思う子が出てきちゃったって事♪」
「――ごふぅ!!?」
あまりのその落差に思わず俺は紅茶を吹き出しそうになり、必死にこみ上げるものを堪える。
その甲斐あって何とか女性に紅茶を吹きかけると言う失態は免れたものの、紅茶が少し気管に入った為盛大に咳き込む事となってしまった。
「あらあら、大丈夫? 背中叩いてあげましょうか?」
「ゲホッゲホッ……い、いえ、お気になさらずに。それより、冗談ではなく本当の事を教えて下さい」
「私は冗談なんて言っていないわ。本当に何人かの子達が『会ってみたい』と言い出したのよ」
「そりゃまた何で急に……」
ニコニコと、それはそれは楽しそうな表情で紫さんが答えを口にする。
「最近幻想郷でもネット環境が整い始めたと言う事は以前教えたわよね? 実は現在そう言ったものを実際に扱っているのは殆ど貴方達が嫁嫁言っている連中なの」
ついでとばかりに「どこぞの蓬莱人はもっと前から使っていたみたいだけどね」と付け加えてくる。
……やっぱりNEげふんげふん説って正しかったのだろうか。
「つまり、俺達を監視しているのは彼女達って事ですか」
「そうよ。そして同時に彼女達は閲覧者でもあるの。さっき言った様な子が出てきたのは多分その結果ね」
それってもしかしなくても、俺達の恋文が彼女達の心を動かしたって事になるのでないだろうか。
だとしたらこれは物を書くものとしては喜ばざるを得ない事だ。
しかし、その反面やはりさっき言ったような問題がある手前、手放しで喜ぶ事はできない。
「貴方の言わんとする事はご尤もよ。だからちゃんと対策も打ってある」
「おお、対策があるんですか。して、その内容は?」
「そうねぇ、別に教えてあげても良いけど……その前に一つ教えてくれないかしら?」
カップの中で匙をくるくると弄びながら、紫さんがまたしても楽しそうな顔で提案してくる。
何だろう、無駄に嫌な予感がするんだけど。
「貴方の嫁って誰なの?」
これはまた随分な難問だ。
普通の人からしてみれば実に容易い問い掛けなのかもしれないが、正直俺にとってこの問題はどこぞの難題とも変わらない程難物にしか感じられない。
まぁ、それは偏に俺の性質に問題があるだけなのだが。
「どうしたの? 私そんなに難しい事を訊いたかしら」
「あー……そんな事を訊いてどうするつもりですか?」
「会わせてあげようかな、と思ったのよ♪」
な、何ていらないサービスだ……
そもそも学生の身分である俺にどうしろ言うんだ。
養っていける自信なんて殆ど無いんですけど。
「ほらほら、さっさとゲロっちゃいなさい♪ 今ならマジカル☆ゆかりんが叶えてあげちゃうから」
マジカル☆ゆかりんって……少しは自重しろよ、スキマバb
「――何か仰りました?」
「…………いえ、何も」
ヤバイ、今の視線は相当マジだった。
背筋が凍るような寒気が走ったけど、あれが所謂殺気って奴なのか。
と言うか人の心を読むのは反則だと思うんだけど。
それにしてもこのままでは拉致があかないだろうから、そろそろ彼女の問いに答える事にする。
「まぁ、その……気持ちは大変ありがたいのですけど、残念ながらその問いには答えは持ち合わせておりません」
「あら、それはなぜかしら? もしかして私に言いたくない理由でもあるの?」
やはり意外だったと見えて、紫さんは匙を回す手を止めて目を丸くしていた。
まぁ、至極当然の反応だろう。
俺は紅茶を一口含んだ後軽く息をついて言葉を続けた。
「正直に言うと、俺には嫁と呼べる程の人がいないんですよ」
別段東方のキャラに魅力を感じないと言っているのではない。
これはむしろ自分が優柔不断過ぎる結果に生じた状態なのだ。
そもそも『嫁』と言う表現は『そのキャラクターを嫁にしたい程好き』といった意味合いを含んでいるものらしい。
であるからして、この言葉を使う上で最も重要視されるものはやはりそのキャラクターへの愛なのだろう。
だがそれはあくまで一般論に過ぎない。
そして全ての人間に一般論が適応できるかと言えば、決してそんな事は言えないだろう。
事実、俺はそう言った例外の中の一つなのだし。
「……それはつまり魅力的な子が見当たらない、と言う事かしら?」
「とんでもない……俺にとって貴女達は十二分に魅力的な女性ですよ。できる事ならば、お付き合い願いたいくらいだ。でも、嫁と呼べる程の人はいないんです」
「言っている事が矛盾していますわ」
なぜか紫さんはもどかしそうな視線を向けてくるが、俺はその矛盾を解消するべく自分の心情を口にする事にした。
「まぁ、なんつーかですね。俺は『嫁』って言葉をそんなに軽く扱っちゃいけないと思っているんですよ。……ほら、例えば『愛している』って言葉も何度も何度も使っていると、それだけ胡散臭く感じるようになるものじゃないですか」
これは極めて個人的な思想なのだが、俺は言葉と言うものを『使いすぎるとその分だけその言葉の本来の意味が失われてしまうもの』だと思っている。
だから、やはり取って置きの言葉は取って置きの時に使うべきだと信じているのだ。
その結果として、俺は無闇矢鱈に好きなキャラを『嫁』と言わないようにしている訳である。
紫さんはまたしばらくの間目を丸くしてこちらを見ていたが、やがて真面目に働く巫女を見た様な顔をして言った。
「随分とまた生真面目な殿方ですこと……」
生真面目、と口では言っているものの、実際には『馬鹿』とか『糞』とかあまり宜しくない様な言葉で評されているような気分である。
しかしそんなに俺の態度は珍しいものなのだろうか。
むしろただ単に優柔不断と言われたくないが為に、敢えて『嫁』を決める事を放棄したようなものであるから罵倒されてもおかしくは無いのだが。
再度カップに口をつけながらそんな事を考えていると、紫さんはどこから扇子を取り出して口元を覆う。
そして、二人きりだからこそ届くほどの声で彼女は呟いた。
「でも、そう言う殿方は嫌いじゃありませんわ」
妖艶な、それこそ男殺しとでも称しても良さそうな艶美な視線。
脳髄まで侵されそうな程甘美で蠱惑的な声色。
恐らく正常な男ならば例外無くその気なってしまうだろう。
しかし、それはあくまで無知な者のみに適応できる話である。
幸い俺は彼女が何者であるかを知っていたので、揺らぎそうにはなったもののどうにか平常心は保つ事ができた。
「……そいつはどーも」
尤も動揺自体は完全に抑えられなかったので、少々言葉がつかえてしまった。
そんな俺の様子を見ていた紫さんが、また扇子の向こう側でクスクスと微笑む。
「本当に面白い人だこと……言っている事は酷く矛盾していて、あまつさえ自分でもその事に気が付いていると言うのに、それでも矛盾を解消しようとしないなんて。……ある意味普通じゃないわ」
「はは、ただの根性無しとも言いますがね」
「それを言ったら博愛主義者なんてみんな甲斐性無しになってしまうわ。それに貴方はちゃんと悩んでいるじゃない」
「悩んでいる、ね……」
とは言うが、実際には悩むと言う程深刻に考えた事などは無く、せいぜい気に掛ける程度だった。
目の前の彼女を始め、幻想郷と言うもの自体についてある程度半信半疑だったからである。
尤もそれが実在だと知った以上、多分これからはそれなりに本腰で悩み始めるのかもしれないが。
「……ん、そろそろ御開きの様ね」
「あれ、もうそんな時間ですか? あまり長くいた気がしないんですけど」
「夢の中の世界は時間の流れ方が違うからね。貴方って寝ると次の瞬間には朝って人でしょう?」
「あー、そう言えば昔からあまり夢も見たこと無かった気がする……」
よく人は見た夢の内容を覚えていないと言うけれど、俺はそもそも夢自体を見ていないような気がする。
ちなみに今まで見た夢の中で唯一鮮明に覚えているのは死刑を受ける夢だ。
我ながらあまり縁起の良くない夢だが、その分まざまざと思い出すことができる。
まぁ、どうでも良い事だが。
「夢の世界って言うのは人のよって色々と差があるの。多分貴方の場合、レム睡眠の時間でも意識のレベルは低い方なのでしょうね。だからここで過ごせる時間もそれほど永くは無いのよ」
「……そうなんですか?」
「概要はね。詳しく言いだすとキリが無いの。……さて、兎に角今日はこれでお暇させてもらうわ。もうそろそろ私も眠くなってきたし」
「あ、おやすみなさい」
「ええ、おやすみ○○……ふぁ~」
彼女が眠そうに欠伸をしている最後に認めて、俺の意識は徐々に浮上し始めた。
目の前の光景が薄れ始め、全てが白一色に染まっていく。
ふと、これからまた一日が始まるのだと思うと不思議な感じがした。
そう、よくよく考えてみると俺は夢の世界でも意識を保っていた訳だから、実質上眠っていないのと変わらなかったのである。
それから数週間、俺はまだ夢と現の間を行ったり来たりする生活を続けていた。
イチャスレでの事件はどうやら徐々に終息に向かい始めているようだった。
現在あれらのレスの殆どは光学迷彩を施され、管理者以外には見ることができない様にされている。
しかしそれ関連のネタを扱ったSSなどが割りと頻繁に投下される様になってきていた。
その中でも最近始まった連載物の『嫁日記』が非常に人気を博している。
そしてその内容を読む限りでは、やはり『彼女』の言っていた事は未だ続いているらしい事が窺えた。
もしかすると、誰も言い出さないだけで嫁に出会えた人は着実に増えてきているのかも知れない。
『彼女』、八雲紫はやはりあれからもほとんど毎晩の様に俺の夢の中に現れる。
よほど暇なのか、或いは俺との邂逅を楽しんでくれているのか、そのどちらであるのかは俺の思慮の及ぶ範囲では無い。
ただ一つ気になる事と言えば、彼女のSSは結構な数上げられているのにも関わらず、未だそう言った話が彼女の口から出てこない事だ。
やはり彼女ほどの妖怪にもなると、並みの文章では心揺らがないと言う事なのだろうか。
まぁ、目の前で惚気られても俺が困るだけだと思うので、内心ではちょっとだけ感謝しているのだけど。
ふとそれで思い出したのだが、東方のキャラの数に限界がある以上全ての住人が己の『嫁』に出会えるとは限らないはずだ。
ならば間違いなくどんなに『嫁』に対する愛を書いたとしても、報われる事のない人も出てくるはずだろう。
その事に勘付いた俺は自身がこの事件について知ること一切を住人には教えないことに決めた。
第一彼等が俺の言葉を信じてくれるとは限らないし、何よりも板違い発言になるだろうからだ。
同時に、八雲紫との興味深い会話もいつの日か終わりを告げるであろう事も理解した俺はそこはかとない寂寥を感じた。
「ねぇ○○、今度一度現で会ってみない?」
彼女がこんな事を言い出したのはまさに俺がそんな時だった。
「……はい?」
「だから一度リアルで会いましょうって言ったのよ。今まで私達は夢の中でこそ幾度も会っているけれど現実で対面した事は一度も無いでしょう?」
「それはそうですけど……別にこのままでも良いのでは?」
俺は確かに夢の中でしか会っていないのだろうけど、彼女は夢の中に『入ってきている』のだからある意味『リアルで会っている』と言ってもおかしく無いはずだ。
「だって今のままでは互いにリアルで対面した事にはならないじゃない。私はそれをとても不平等な事だと思うの」
「そうですかね? 別にリアルであるとか無いとかはそれほど関係無いように感じますが……」
「いいえ、そんな事は無いわ。私は私の目で貴方を見ているけれど、貴方はその目で私を見てはいないのですもの。貴方達には理解できないだろうけど、それはとても大きな差を生むものなのよ?」
「もしかしてビジュアル的に劣化したりするんですか? だとしても俺が見た感じでは、今のままでも十分貴女は美しいので何も問題なんて無いと思うんですけど」
他の問題をあげるとすれば精々風景が黒一色なので、猛烈に殺風景であると言う事ぐらいか。
でもその分彼女の白い服は闇の中でも映えるので、かえってその存在が際立っているのも事実だ。
丁度その姿は闇夜に咲き出でた白百合を連想させてくれる。
ああ美しい、ただ美しい。
「いや、そう言う事では無いのだけれど……兎も角、一度リアルで会いましょう? ついでに外の世界には様子も見てみたいし」
一瞬だけたじろいだ後、彼女は有無を言わさぬ様子で言った。
僅かに顔が赤らんでいる様にも見えたが、多分気のせいだろう。
「分かりました……でも会うと言ってもどこで会うんですか? そもそも俺が住んでいる場所を知っているんですか?」
「任せなさい、それぐらいの事はとっくに調べ上げてあるわ。私を誰だと思っているの?」
「……それもそうですな。では明日の23時に××公園にて待ち合わせと言う事でどうでしょう? その時間帯なら多分空いていると思います」
どれくらい彼女と過ごすのかは分からないが、一徹ぐらいならば翌日は持ちこたえられるだろう。
「決まりね。では明日の夜にその場所で待ち合わせましょう」
「今から楽しみだわ」と続けた後、彼女は本当に楽しそうに笑う。
不覚にもその笑顔に魅入られた俺は彼女が去っていくのをただ茫然と見送った。
朝が来て学校に向かい、昼にはぼんやりとしたまま昼食を食べて、そのまま午睡に身を委ねる。
全部いつもと何ら変わらない事なのに、なぜだか今日に限って長く感じるような気がする。
長く感じる時間を苦痛に思った俺は携帯でイチャスレに入ってその様子を窺ったりもした。
しかし結局スレを眺めていても時間経過の感覚を早める事はできず、かえって経過しない時間を意識せざるを得ない様な状況になるだけに終わった。
学校での講義が終わり、ようやく家についた俺はとりあえず地元の事に調べる事にした。
八雲紫に自分が住まう世界の事をよりよく知ってもらおうと思ったからである。
とは言っても元よりあまり特徴の無い地元であるから、特に何かを見つける事が出来た訳では無い。
その分時間の経過が早く感じられた事だけが唯一の救いだった。
かくして予定の時刻が近付いてきたので、一度だけ姿身の前に立って自分の姿を確認してみる。
ちょっとばかりいつもより洒落っ気を出してみたものの、そもそもが特徴の無い自分であるから大して変わった気がするはずもない。
俺は自分の代わり映えの無さを痛感した後、そのまま家を出ることにした。
下手に特徴付けるのが趣味では無かったからである。
基本的に10分前行動を心掛けている俺は、待ち合わせの場所にもそれぐらいの余裕を持って到着した。
そしてしばらく経って携帯に内蔵されたデジタル時計が23:00を示した頃、ふいに周囲を一陣の風が吹きぬけた。
「こんばんは、○○」
涼しげな声が聴こえたと思った途端、目の前の空間が奇妙に歪んだ。
この世のものとは思えない様な奇妙な音を立ててその歪みは広がり、やがてその向こう側から一人の女性が姿を現す。
「こんばんは、紫さん」
そこに立っているのは幾度と無く夢の中で邂逅した女性にして、遥々幻想の世界からやって来た美しいお客様。
少し冗談交じりに芝居めいた会釈をしてみると、彼女もお返しとばかりにスカートの端をチョンと摘まんでお辞儀してきた。
今日の彼女はいつもの豪奢なドレスは着ておらず、チュニックブラウスの上にジャケットを羽織、長めのフレアスカートを穿き、編み上げブーツを履いている。
そうして片手にちょっとしたバッグを持って微笑みを浮かべている様子は、どう見ても大妖怪には見えない。
「あら、○○ったらどうしたの? 心ここにあらずって感じね」
彼女はそう言ってクスクスと悪戯っぽい視線を向けてきた。
服装も所為もあって、いつも以上に女性である事を意識せざるを得ない。
出会って数秒、すでに俺のペースが乱されつつあった。
「い、いや、しかしよく似合っているなぁと思いましてね」
悔し紛れに言った言葉だったのだが、案外いい逃げ台詞だろう。
そう言えばどこかで彼女はその時代にあった服装で姿を現すとか聞いた事がある。
だとしたらなるほど見事なものだ。
「ふふ、ありがとう。そういう貴方もなかなかにいいセンスね」
「え、ああ……ありがとうございます。でもそんなにいつもと変わらないでしょ」
「下手に飾り立てるよりはマシよ。そもそも人間大事なのは中身じゃない」
それを言ったら彼女いない歴=人生の俺はどんだけ中身が腐っているんだろう。
しかし紫さんはそんな事などお構い無しに俺の手を取ると、いつもの胡散臭さが見当たらない笑顔で言った。
「さぁ行きましょう、○○。そして貴方が生きる世界の事を私に教えて頂戴」
まったく卑怯な人だ、俺が恨み言を言う前にこんな笑顔を見せるなんて。
そんな顔をされたら何も言う事が出来なくなってしまうじゃないか。
でも――
「どこへなりでもお連れいたしますよ、お嬢さん」
「こんなのも偶には悪くないかも知れない」と、心のどこかで思っている自分がいたのも事実であった。
とは言っても真夜中と言っても過言ではない時間である上に、学生の身分である俺には金が無い。
したがって本当に俺が思い描いていたように、初めての現実世界での邂逅は殆どただの散歩と変わらないものになってしまった。
だが彼女はそんな事などどこ吹く風と言わんばかりに楽しんでくれた。
すれ違う人を一々観察しては面白そうな顔をしていたし、途中で鯛焼きを買ってあげると物珍しそうな顔で食べて、あれこれと批評してくれた。
だから俺は自分が知る限りかつ行ける場所に彼女を案内した。
ネオンサイトで輝く繁華街、人の気配の無くなりつつある駅前、閑静な住宅街、自分の住んでいる辺り、最寄りの神社、幼い日を過ごした母校。
彼女はどこも興味深そうに、時に感慨深そうに見て回り、その都度何かしら考えさせられる事を言っていた。
ただ俺の母校を見た時、
「○○の幼少期……ちょっと見てみたい気もしますわ」
と言っていたのだがこれはどう取るべきなのだろう。
……えーっと、貴女は諸多恨なんですかね紫さん?
「諸多恨? ああ、1990年代半ばから一部の人間の間で使われるようになった造語の事ね。本来は少年に対する愛情、及びそう言った感情を抱く者以外に対してはあまり厳密に定義されていない用語、だったかしら。確か狭義には二次元世界の少年に対して愛情を抱くもの、広義には三次元世界の少年に対して愛情を抱くものともされていたかしらね。でも類似語の801とかとは区別をつけられていて…………」
もう良いです、はい……
もう十分分かりましたよ、貴女に余計なツッコミを(心の中でも)入れると碌な事にならない事は十二分に分かりました、ですからもう止めてください。
「あら、折角懇切丁寧に教えてあげようと思ったのに……じゃあこんどは露理恨について「 止 め て く だ さ い 」……なによぅ」
確かに彼女の知識は底知れぬほどのものだが、如何せん尾鰭がついてくる事も多い様に思えてしょうがない。
放置しておくと、最悪表記不可能な事まで喋りだしかねない気がするのだ。
同じ博識にしても、白沢の方や七曜の人とは偉い違いがある。
ただガチガチの知識人よりも、彼女ぐらい茶目っ気がある人の方が好ましく感じているのも事実なのだが。
時計の針が2時を指す頃、俺達は集合場所に戻ってきていた。
そもそもちっぽけな街だから、どんなに努力しようとも歩き回れる場所には限界がある。
お金が掛かるような場所には行けないとなると尚更だ。
「すみません、あまり面白そうな場所には連れて行って上げられなくて……」
「あら、これはこれで面白かったわよ? 別に謝る必要なんて無いわ」
そうは言うが、俺が彼女にしてあげられた事なんて俺がいなくとも簡単にできるような事ばかりだった。
強いて言うなら鯛焼きとこの温かい缶コーヒーを奢ってあげたぐらいだろう。
正直それは男として情けなすぎる様な気がして仕方が無い。
「もう、そんなに気に病まないの。第一、デートはお金が掛かっていれば良いと言うものではないわ。一番大事なのはその内容よ」
「でもその内容だって散歩とほとんど変わらないようなものじゃないですか」
すると彼女はノンノンと指を振った。
「貴方がいたじゃない。散歩は本来一人でするものだと思えば、それだけでも十分価値のあると言えるわ。それも貴方は殿方だったのだから尚の事よ」
殺し文句だ、と思った。
だから俺は平静を保つために、コーヒーに口をつけた。
茶褐色の液体を口内に流し込み、浮ついた感情を苦味でもって押さえつける。
勘違いをしてはいけない、彼女はきっとただ俺の失態のフォローをしてくれているだけなのだから。
「殿方とは……俺はまだそう言われる評されるには程遠い存在ですよ、なんと言ったってまだ書生の身分ですからな。世の中と言う大海についてまだ毛ほどにも知らない、そんな人間を殿方とは呼べますまい」
「ふふ、でも素晴らしい殿方になる素質は十分ありますわ。この私が言うのだもの、自身をお持ちになって」
「止して下さい、そんなに煽てても何も出ませんから」
「こう見えて私根拠の無いことは言わない主義なのよ」
ベンチに座ったまま、コーヒーを片手にそんな事を言い合う。
互いに顔も合わせる事無く、言葉だけでの淡々としたやり取り。
傍目に見たらどんな風に見えることだか。
結局そんなやり取りを三十分ぐらい続けた後、思い出したように紫さんが言った。
「ねぇ、○○。貴方以前『自分には嫁と呼べる人はいない』と言っていたわよね?」
「ああ、確かにそんな事を言いましたね。でもそれがどうかしたんですか?」
俺の問いに彼女は形の良い眉を少しだけ寄せた。
「貴方、本当にそれで良いの?」
質問の意味がイマイチ理解できなかった俺は、失礼を承知で質問を返すことにする。
「……と、言いますと?」
「このままだといずれみんな誰かの元に行ってしまう、と言っているのよ」
イチャスレが現在幻想郷の少女達によって監視されていて、興味を持った人に会いに行くような事が続けば、いずれは彼女達全員が想い人を見つける日が来るのは間違いない。
つまり彼女は『のんびりしていると他の連中に先を越されるぞ』と言いたいのだろう。
生憎だが、それぐらいの事はすでに十分理解しているつもりだ。
「……まぁ、それはそうでしょうね。急がねば俺はこの事件の真相を知りながらも何も変わらないまま事件の終息を見る事になるんでしょう」
「その割には随分と落ち着いている様ね」
「俺には嫁なんていませんから。みんなのイチャつく姿を見られればそれで十分なんですよ」
空を見上げてぼんやりと呟く。
快晴の夜空には星が青々と冷たく輝いていた。
「ならば○○。私が×××の元へ行くと行ったらどうする?」
そんな夜空に、彼女の言葉は酷く澄んで聞こえた。
いや、むしろそんな事は関係無かったのかも知れない。
×××とは、ここ最近イチャスレに紫さんを扱ったSSを書いた人の番号だ。
彼が書いた文章は尋常ではなくレベルが高く、そのSSについては10を超える数のレスが付いたぐらいである。
そして彼女は今その×××の元に行く、と言った。
つまりその真意は恐らく、俺が想像したものと殆ど同じものだろう。
「……貴女がそれを望むのなら、そうしたらいい」
言ってからコーヒーを思いっきり呷ってみる。
苦味が一気に喉を通過したが、ざわついた心は一向に収まる様子を見せない。
胸焼けのような気持ち悪さがしたが、それはきっと缶コーヒー独特のものだと思い込むことにした。
「…………そう」
心なし沈んだ彼女の声に一層心が掻き乱される。
でもきっとこれが正しい判断のはずなのだ。
俺の様な中途半端な人間などと一緒にいるよりは、きっと×××さんの様な凄い人と一緒にいた方が彼女にとっても良い事のはずだから。
「今日はありがとう。そして――さようなら」
そう言って彼女は席を立った。
頬に柔らかな感触、風の通る音がして、隣にいたはずの気配が消え去った。
微かに残る彼女の匂いと温もりが、今更の様に夜風の冷たさを強調してくる。
真夜中人のいない公園と一人っきりの静寂は、それこそ腑抜けた俺の心の内を投影したように見えて仕方が無かった。
そして愚かな俺はこの時初めて気がついたのだ。
――自分は彼女が好きだったのだと言う事に
あの夜を境に、彼女は俺の前に現われる事は無くなった。
夢の中で人と会って話をしたのに眠気も残らず身体の疲れも取れていると言う、ある種の異常な状態から開放されたのだから、普通なら喜ぶべき事なのかも知れない。
だが俺は決して喜ぶような気持ちにはなれなかった。
むしろその逆に、つかの間の暗闇の後に訪れる朝日に酷く違和感を覚えるくらいだった。
それほどまでに俺はあの奇妙な生活に、何より『彼女』に馴染んでしまっていたのだろう。
でも、もう彼女は俺の元には訪れない。
きっと彼女は×××の中の人の元へ行ったのだろうから。
どんなにそれを悲しもうとも、結局手遅れになってしまった事はしょうがないのだ。
しかしこの遣る瀬無い気持ちをこのままにして風化させるのは勿体無い。
そう考えた俺は早速PCを立ち上げ、Wordを開いた。
そして今まで彼女との間にあった事に多少脚色を加えて、イチャスレに投下できるものへと改造する事にする。
いざ書き始めてみるとこういった実体験に基づくものは何かしら勝手が違うのか、執筆を始めてから僅か2週間弱でその半分近くが完成してしまった。
しかしその残り半分がどうにもうまく書けない。
それもそのはず、残りの半分はつまり俺と紫さんの別れを扱うパートだったからだ。
「……流石にこのパートは一筋縄では行かんよなぁ」
デスクの前に座ったまま、俺はぼんやりと呟いた。
とりあえず書く気が起こるまで現状完成した部分までをざっと見通して灰汁を除く作業を行う事にする。
しかしそれすら済んでしまってもなお、残りのパートを書き起こす気にはなれなかった。
結局俺は分量的な問題からこの文章を前半と後半に分け、まだ書き起こす気になれない後半は追って上げることにする。
奇しくもこの作品の前編をスレにあげたのは『彼女』が俺の前から姿を消した一ヵ月後の事だった。
作品を投稿してから数日後、久しぶりにイチャスレを見に行くとそこには俺の作品について様々なレスがついている。
その大半が「後編楽しみ」と言った内容のものだったのを見て、俺は内心で「きっと彼等は後編が別れ話になるなんて知らないのだろうな」と苦笑した。
尤も実際俺も本当なら別れ話なんて書きたくはなかった。
しかしこの作品が『彼女』と共有した僅かな時間をできるだけ忠実に再現したものである以上、そのエンディングが別れ話となるのは必然なのだ。
残念ながら、それをハッピーエンドに持っていく様な技量を俺は持ち合わせていない。
「……未練たらしいなぁ、俺は」
だがそれ以上に馬鹿らしい。
「嫁はいない」などと言っておきながら、いざ目の前の人が消えた途端この様だ。
情けないにも程がある。
もしかしなくても俺は気付けなかったのではなく、認めたくなかったのだろう。
それこそきっとガキみたく下らないプライドの為に。
冷静になった、いや終わってしまったからこそ客観的に見られるようになったのか。
今更ながら馬鹿馬鹿しい自分の言動に嫌気が差す。
俺はそんなモヤモヤから開放されたくて、ぶらりとそのまま外へ出た。
まだ夜の風は十分に肌寒い季節だが、ジャケットを着ればなんて事は無い。
むしろその寒さこそが、今の俺はありがたかったのだから。
外に出て数十分後、気が付けばまた懐かしい所に来ていた。
そう、そこは最後に彼女と別れた場所、つまりは地元の公園である。
平日と言う事もあってか人の気配はほとんど無い。
「…………ふう」
俺は適当なベンチに腰掛けると、懐からタバコを一本取り出して口にくわえた。
これはあの日を境に俺の中で変化した事の一つだ。
そして今ではもうある種の生活習慣にもなってきている。
「まったく何もかも懐かしいねぇ……」
紫煙を口から吹かしながら、ぼんやりと夜空を見上げた。
何を隠そうこのベンチは、あの時彼女と腰掛けたベンチだったのだ。
もっとも、今俺の隣に座る人はいないけど。
そのまま目を閉じれば今でも思い浮かべられる鮮やかな思い出。
波乱万丈な事ばかりだったけれど、今思えばそれも全て輝かしい記憶だ。
――だからこそ、今も忘れられずに引きずってしまっている
「本当に……大馬鹿者だよ……俺ってやつは……」
ああ、上を向いていて良かった。
上を向いていれば、きっとこの瞼の奥から湧き出る熱いものは零れないから。
「……ちくしょう……何で俺ってやつは馬鹿なん、だ……どうして、こうも……間抜けなんだ……!!」
好きだという気持ちに気が付けなかった自分が憎かった。
言葉の裏に込められた彼女の気持ちに気付けなかった事が悔しかった。
そしてもう彼女には出会えないという現実が悲しかった。
――後悔
流れていった過去の中にやり残した事は決して取り戻せない。
その真理が今の俺には何よりも苦しい事だった。
「っとと、ついつい感傷的になってしまった……」
だがその無限の苦しみをも人は時として超えなくてはならない。
そして今こそまさにその時であるから、俺はこの思い出と後悔を胸にしっかりと抱いて痛みと共に歩いていこうと思う。
――だから
「ま、何せよ一つだけ言える事は……」
――せめて
「俺は八雲紫が好きだったって事だな……」
――今はもう届かない貴女へ、愛の言葉を
「あら、好き“だった”なの?」
…………ワッツ?
今、何か声が聞こえた気がするのだけど気のせいか?
もしかしてアレか、遂に後悔のあまりに俺は発狂してしまったのか?
いやいや俺はきっと狂おうにも狂えない常人だ、それは無い。
だとしたら一体……
「ちょっと、人の話を無視するなんてどういう了見よ」
幻聴じゃない。
そう悟った俺は反射的に声のする方に首を向けた。
そこに立っていたのは……
「――お久しぶりね、○○」
果たしてもう二度と会えるはずのない人だった。
「い、一体いつから其処にいたんですか!?」
「此処に来たのはついさっき。今日はちょっと驚かそうかと思ってPCのディスプレイから登場してみたのに部屋の中は真っ暗、おまけに会いに来た本人がいないのだから吃驚したわ。出掛けるなら書置きくらい残していきなさい」
「は、はぁ……すみません」
腰に手を当ててプリプリと怒る彼女に何となく平謝りする。
……さっきまでのシリアスな空気は一体どこへ?
「……それよか紫さん、どうしてここに? てっきり×××さんのところに行ったのかと思っていたんですけど」
とりあえず俺はもっとも気になる疑問をぶつけて見る事にした。
ある意味いきなりこう言った事を訊くのは鬼門かも知れないが、どうしてもその点だけは最初に確認したかったのだ。
しかし俺の懸念もどこへやら、彼女は不思議そうな顔で答えを口にした。
「何を言っているよ、あれは例え話じゃない。私は実際に会いに行くだなんて一言も行っていないわ」
……つまり、それは俺の今までの悲しみが全て杞憂であったと言う事なのか。
何だろう、心が荒むほどにまで気に病んだのが馬鹿みたいだ。
もっとも内心ではありがた過ぎて涙が出そうなくらい嬉しいのだが。
「ところで○○。貴方がさっき言った事は本当なの?」
そうだ、何よりもそれが問題だ。
遅かれながらもようやく俺は自分の気持ちを見つける事が出来たのだから。
今こそが、この真心を彼女に伝えるべき時なのだ。
「勿論、本当です」
「……それは私が妖怪である事を理解した上での事?」
無言のまま力強く頷く。
「私はとっても気紛れよ? だから気紛れに貴方の事を食べてしまうかも知れないし、気が立っていたら八つ当たりするかも知れない。……それでも貴方は良いと言うの?」
値踏みする様な視線、試すような態度。
細められた目の奥には妖怪としての本性が揺らめいている。
なるほどこれより先に踏み込めば、俺はもう普通の人間としては生きていられないだろう。
だが、来る年月を後悔の海に沈めるくらいなら、それぐらいの代償は大して苦にはならない。
「俺が好きになったのは八雲紫その人なんです。だから貴女が貴女らしくあってくれればそれで良い」
気紛れで胡散臭くて信用ならなくて、意外に茶目っ気があって意地悪で、それでも時々可愛らしい。
それこそ例えるのならこの大きな空の様な女性。
俺が惚れたのはそんな人。
「――ただありのままでいて下さい。俺が貴女に望む事なんて、きっとそれぐらいです」
ずっと前に言えなかった事、それは多分ずっと前から言いたかった事。
今その念願は叶って、ようやくこの胸の内をあるがままに伝えられた。
その喜びが全身を駆け巡り、自然と微笑みを浮かんでくる。
これで、もう俺は彼女が何と言おうとその答えを受け入れられるだろう。
伝えるべき事はちゃんと伝えられたのだから。
「――――ようやく素直になってくれたわね」
そして彼女は、俺が今まで見てきた彼女の笑顔の中で一番綺麗な笑顔を見せてくれた。
「まったく、この一言の為にどれだけ待たされた事か……」
「……すみません、今まで気付いてあげられなくて」
本当に、この一言の為にどれだけの時間を無駄にしてきた事か。
思い出しただけでも自分で自分に呆れてしまう。
「……もう良いわよ。元よりこうなるかなとは思っていたから」
苦笑を浮かべた後、彼女はゆっくりと俺に歩み寄って来た。
「でも勘違いしないでちょうだい。私は貴方の嫁なんかじゃないの」
そして俺の前に立つと、どこか勝ち誇るような様子で彼女は言ったのだ。
「――貴方が私の『嫁』なのよ」
/エピローグ
「……これでよしっと」
そう小さく呟いてデスクから身を離し、俺は椅子の背もたれに寄り掛かった。
疲労感が身体を包み込んでいるが、それもあまり不快には感じない。
と言うか、これからの事を考えると疲労など感じている余裕はあまり無いのだ。
「あー……そろそろ時間かな」
壁に掛かった時計を見遣ると、そろそろ予定の時間である事が判明した。
何とはなしに、俺はそのままカウントを開始した。
「……10……9……8……7……」
カチ、カチ、と秒針の進む音と俺の声が規則的に部屋に響く。
「……6……5……4……」
長針と短針はいよいよ共に天を仰がんとし、秒針もその意思を増長する様に刻々と天を目指して進んでいく。
約束の時はもうすぐそこまで迫ってきた。
「……3……2……1……」
言いながら身構える。
こうしないと毎度の事とは言えども、その衝撃に耐えられないからだ。
尤も、命に関わるような程の事では無いのだが、いかんせん肝が冷えてしまってしょうがない。
そしてついに時計の針がカチリと音を立て、
「ゼロッ!!」
――ぎゅむ
「こんばんは、○○っ♪」
やっぱり予想通りの事が起こった。
「……あの~、紫さん?」
「“さん”だなんて他人行儀ねぇ。呼び捨てにしないとこのまま絞め殺しちゃうわよ?」
「あー、じゃあ紫。君は今一体何をしているのかな?」
天井をぼんやりと見つめながら、溜息混じりに問い掛けてみる。
「○○の事を抱きしめているの。それこそ恋人らしく」
そう言って抱きつく力を強めてくる。
確かに嬉しい状況なのだけど、デスクとの間は殆ど無いのにどうやって俺の前面に入り込んだのかがイマイチ分からない。
いや、おそらくスキマを用いての犯行なのだろうが。
「う~ん、頼むから来るなら普通に来てくれないか? 毎度の事だけど心臓に悪くて敵わない」
「あら、何事もサプライズは必要なものよ。マンネリ化は恋人達の大敵なんだから」
「それにしたって、ディスプレイから来るのはまだしも、いきなり空中から逆さ吊りで出てきたり、窓の向こうに張り付いていたり、股の間から顔を出すのはどうかと思うんですが……」
ちなみに今のあげたような登場方法はまだマシな方で、これよりも酷いものも幾らかあったりする。
最近ではいつか彼女のサプライズによって、心臓発作でも惹起してしまうんじゃないか心配だ。
「……お気に召しませんでした?」
途端、顔を上げて上目使いにこちらを見つめてきた。
不安な心の内を表すように瞳が微かに揺れている。
以前の俺ならば「この味は! ……ウソをついている『味』だぜ……」とでも言っていたかも知れない。
しかし、今の俺にはもう少し別の方法で彼女の往なそうとする程の余裕があった。
――ぎゅ
「……あ、あら?」
軽く彼女の身体を抱き寄せて、耳元で優しく囁いてやる。
「今日みたいなサプライズならばいつでも大歓迎だ」
「……っ!!」
ピクリと華奢な肩が跳ねて、腕の中で紫が縮こまった。
普段は彼女の方が俺を翻弄している事が多いだけに、こう言った時の仕草は殺人的に可愛らしい。
「もう……いきなり耳元で囁くなんて反則よ。少し本気にしそうになっちゃったじゃないの」
桜色に頬を染めて、彼女は羞恥心とその他諸々の感情が入り混じった複雑な顔をした。
もし彼女の式が主のこんな姿を見たら一体どんな顔をするだろう。
もしかすると主と共に面白い反応をしてくれるのではなかろうか、などとついつい邪推してしまいそうになる。
「なりそう“だった”……ですか? むしろ抱きついてくるぐらいならマジで歓迎しますが」
「言うようになったわね、貴方も。…………でも、今度から本当にそうしようかしら」
「互いの温もりを確かめ合うって意味でも最適ですしね」
どこぞのCMにもあったように、ただ抱きしめるだけでも伝わるものはあると思うのだ。
そして場合によってそれは言葉で伝える以上に大きな意味合いがあったりする訳で。
やはり肌と肌との触れ合いと言うものも大切なコミュニケーションの一つなのだ、と密かに俺は考えている。
と、そんな事を考えていると、ふいに見上げてくる彼女と目が合った。
その名の通りの深い紫色の瞳が熱を帯びて妖しく濡れている。
俺はその輝きに誘き寄せられるように顔を近付けていき……
「ん――ふぅ」
「――っはぁ」
気が付けば、俺も紫もまるでそうするのが当然とばかりに口付けをしていた。
ああ、いけない、これから彼女に見せなければならないはずのものがあるのに。
このままでは、また『いつものように』泥沼になってしまう。
「ふぁ――○○……」
「――そう言えば、こういうのもある意味ある意味互いの体温を感じるって言ってもおかしくはないですよね」
「……それもそうね。それにこっちだと触れ合う面積は少ないけれど、感じあえる温もりは倍以上に感じられる」
「――ならば」
みなまで言う必要など無い。
俺達は互いに小さく笑って、再びどちらかともなく唇を合わせた。
「はっ――キス、巧くなったわね」
「紫には負けるけどね――ん」
とりあえず今はこうしていられればそれで良い。
夜はまだ始まったばかりなのだから。
俺はまだ外の世界にいる。
ただし、半ば幻想の世界に足を踏み入れた状態で、だ。
八雲紫と言う強大な力を持った妖怪を共にあるからなのか、俺は最近五感では感じられないものを認知できるようになりつつある様なのだ。
多分、彼女と言う存在に中てられて徐々に俺も幻想郷に引き込まれてきているのだろう。
でも以前言った通り、俺はまだ学生の身の上であるからやらなければならない事も沢山ある。
だからまだ本格的に彼女の元へと赴く事は出来ないのだ。
仕方なしに普段、俺と彼女はネットを通じてコミュニケーションを交わしている。
無論彼女の方から直截会いに来ることもあるのだが、それも博麗の巫女によって幾らか制約を受けているからあまり自由が利かない。
その制約はきっと大妖怪にして妖怪の賢者の一角である彼女が、頻繁に幻想郷と外の世界とを行ったり来たりするのはマズイと判断した為に生じたのだろう。
とは言っても、やっぱり人肌の温もりに勝るものは無い訳で、彼女は結構規約違反をしてまで俺の元にやって来てくれる。
不思議に思って「何故そこまでしてくれるのか」と訊いたら、彼女は「嫁を寂しがらせる訳にはいかないでしょう?」と楽しげに笑うばかりだった。
ちなみに「俺は男だから婿ですよ」と言ったら「百年早い」と一蹴されてしまった。
何だか物凄く男として馬鹿にされたような気がしたから、その晩はいつもよりちょっと激しめにしておいた。
「あら、これは……」
「ん、ああ、気が付いた?」
それからしばらく二人で睦んだ後、ようやく彼女はPCのディスプレイに映った文章に気が付いた。
「紫が来る直前にね、ようやっと書きあがったんだよ。前編を投稿してからかなり時間が経つから、もう覚えている人がいるかどうかも分からないけれど」
そう、それはかつて彼女が俺の前から姿を消した時に書き始めたあの文章だ。
恋人同士となってしばらくの間は、兎に角浮かれまくってしまっていたのでこの作品の事なんて考えている余裕なんて無かった。
だが最近になってこうして幾らか心に余裕が出てきたので、とりあえず完結させるべく密かに執筆を再開したのだ。
「…………」
真剣な様子で、彼女は液晶画面に映る文字列を読んでいる。
この作品はそもそも俺が彼女、紫との思い出にケリをつけようとして書き始めたものだ。
でもこうして想いが通じ合った今、その題材となってもらった彼女には絶対に読んでもらわなければ困る。
なぜならこれは、俺が彼女に宛てた『ラブレター』の様なものなのだから。
「…………ふぅ」
「あー、できれば感想を頂戴したいんですが……」
総ページ数40超の大作だ、読み終わった後の疲れもあるかもしれない。
でも、俺はできるだけ早く彼女の口から感想を聞きたかった。
ラブレターの返事を待つ心情を想像していただければ、俺の気持ちは多分みんなにも理解できるだろうと思う。
しばらくの間、彼女は目を閉じたまま黙していた。
程なくして沈黙が室内に充満してそこはかとなく重苦しい雰囲気が漂い始める。
当然の事ながら、俺も徐々に緊張が高まってきて落ち着かなくなってくる。
もしかして、駄作過ぎて呆れているんじゃないのか。
いよいよそんな心配が確信に変わろうかと言う瞬間、彼女はようやっと口を開いた。
「……ごめんなさい」
「駄作過ぎてごめんなs……って、はい?」
てっきり辛辣な言葉が来るものだと身構えていた手前、突然の謝罪の言葉に拍子抜けしてしまう。
言葉の意味と文章との関連性が理解できずに呆然としていると、紫はそっと俺の胸元に顔を埋めてしまった。
ますます混乱して俺は自分でも何を言っているのか分からないまま必死に慰めの言葉を唇に載せる。
「あ、いや、その……文章力が無くて申し訳ない。本当はもっと紫に対する気持ちを前面に出して書こうと思ったんだけれど、俺如き凡才に書ける文章なんて高が知れていたんだよ、きっと。でも紫に対する俺の気持ちはきっとこんな文章よりもずっと強いはずだから…」
「…………違うの」
慌てふためく俺を、紫の静かな声が制する。
「私……貴方がこんなに心配していたなんて思っていなかった……」
「……心配?」
「ほら、貴方の前から姿を消していた時期があったでしょう?」
「ああ、あの時の事か……」
確かに紫が姿を見せなかったあの頃、俺は彼女の事で色々心配したし、不安にもなった。
でもそれら全ては俺の無知な言動が原因なのだから、当然の報いと言っても過言ではなく、彼女が謝罪する必要は無いはずだ。
「あの時私は貴方の心を掴みたくて、わざと姿を消していたの……素直でない貴方を振り向かせる為にはそれぐらい必要だと思ったから……でも、こんなに貴方に心配な思いをさせていたなんて思わなかった……」
なるほどそう言う事だったのか。
あの時の彼女は俺に自分の気持ちを確認させるべくわざと空白の期間を作っていた、つまり『押して駄目なら引いてみろ』の理論を実践しようとしていた訳だ。
ところがこの作品に書き込まれた俺の気持ちを見て、その方法が想像以上に功を奏してしまった事を知ってしまった。
だから必要以上に俺に心配を掛けてしまった事に対して謝罪の意を述べたのだろう。
「だから……ごめんなさい、○○……」
まったく、つくづく俺には過ぎた恋人だと思わざるを得ない。
俺もいつかは彼女に釣り合う様な良い男になろうと思っているのだが、これはなかなかに難しい事になりそうだ。
「ありがとう……紫」
「……え?」
「君がそうやって空白の時間を作ってくれたから、俺は自分の気持ちに気付く事ができたんだ。それこそ、気が狂いそうなくらいに紫を恋い慕う自分の気持ちに」
痛かったからこそ、苦しかったからこそ俺は、今こうして彼女の事を全力で愛してやれる。
俺が感謝する必要こそあれど、彼女が謝る必要なんてどこにも無い。
「だから、この作品がGOOD ENDINGを迎える事ができたのもきっと紫のおかげさ」
思えばこの作品のシナリオを握っていたのは彼女だったのだろう。
だから彼女の采配がなければ、この物語はこういう結末にはならなかったはずだ。
「いいえ、それは違うわ、○○」
だが、彼女は俺の目をしっかりと見つめて言った。
「確かに私は貴方が自分の感情に気が付くように導いたわ。でも私がやったのはあくまでそこまで……そこから先の事は全て貴方次第だった……」
少しだけ咎めるような口調。
ああ、そうか……そうだったな。
「これは貴方と私とで作り上げた物語なのよ」
そうだ、俺一人でも彼女一人でもこの物語は作れなかった。
そして俺達二人が揃って初めて、この物語は完成した。
「――ならば、差し詰めこの作品は俺達の愛の結晶だな」
「ええ――でもまだまだ物語は終わらない」
この作品はここで終わってしまうけれど、俺達の物語に終わりなどは無いんだ
二人でなら、きっとできる
「――ずっと一緒に歩いていこう、紫」
「ええ、○○。貴方とならどこまでも――」
願いと誓いの両方を込めて
――今二つの影が重なった
Fin
───────────────────────────────────────────────────────────
最終更新:2011年02月26日 22:08