紫20



新ろだ2-167


「あ~あ……。いつになったら止むのやら……」

幻想郷にあるとある森林の大樹の下で、黒い蓬髪の青年が困ったような呟きとともにため息をついた。

先日、幻想郷は梅雨に入り、人里では洗濯物が乾かないという声が多く上がっている。今日は午前中から晴れていたので大丈夫か、などと思っていたが、仕事を終えた途端に雨が降り出してしまった。

小雨と言えるようなものではなく、土砂降りとも言えるような勢いの雨だが、この中を飛んで帰るのは
あまり体に良くない。

「雲は薄くなってきたか……」

空を見上げると、日の光を遮っていた雲は少しだけ薄くなってきたが、これでもいつ雨が止むか予測が
つかない。

(下手すると日が暮れちまうな……。妖怪が活発になる前に帰りたいんだけど……)

不安げに時間を気にする青年。彼の仕事は妖怪に関係した揉め事処理や、普通の人間では行くことのできない場所などに行って物を獲(採)ってくる事だ。

だったら余程力があるようにも見えるが、ガチの殺し合いになったら中級妖怪を相手にすると勝率は半分ほどになってしまうのが青年の実力である。いや、下手をすると半分未満になる場合もある。

それでも仕事をしているのは、外界からやってきた彼の『幻想』に対する憧れと、とある1つの想いが
あるからだ。そのために、彼はハイリスクなこの仕事をし続けている。

正直、日が暮れる前に人里に戻りたいのが本音だ。中級妖怪が出てきたら、十分に死ぬ可能性があるのだから。

(むぅ。ここは我慢して帰るべきか?背に腹は変えられないしな……)

眉間にしわを寄せ、足を地から浮かせて飛ぼうとした瞬間、目の前に見慣れた現象が現れた。

縦に楕円形のように広がった黒い空間。その奥からはいくつもの人の目のような物がこちらを覗き見ており、思わず気味が悪くなってしまう。

とは言っても、それは彼が愛する妖怪の能力であるのだが。

「よぉ、紫。昼間から起きてるなんて珍しいな」
「ちょっと仕事をしていたから、目が覚めていてね。あなたの様子を見たら何やら困っている様子だったものだから、お節介をかけに来たわ」

空間の裂け目、スキマと呼ばれるモノから、妙齢の女性の声が聞こえた。透き通った声で、それでいて
妖しげな声色だ。

スキマから現れたのは、金紗の長髪をたなびかせ、白い傘を差した少女、八雲紫だ。幻想郷でも最上位の力を持つ妖怪であり、この箱庭の管理者。

そして、青年の恋人だ。

「そりゃありがたい。ちょうど、傘が欲しかったところなんだよ」

大樹の木陰に入ってきた紫に向かって、青年が朗らかに笑いかけた。彼は紫の傘の下へと入ると彼女と肩を並べ、彼女に目を向けた。

「相合傘、といったところかしら。雨には困ったものだけど、こういう事ができるのなら悪くは無いわね」

普段、胡散臭いと評される笑顔を浮かべず、紫は嬉しそうな微笑みを浮かべ、そう彼に語りかけた。

彼女の言に、青年も全くだ、と同意した。

「今日はどうする?折角だし、うちに泊まってくか?」
「それも良いのだけれど、あなたの家に帰る前に見せたいものがあるのよ」
「見せたいもの?」

首を傾げる青年に対し、紫は悪戯気に微笑み、唇に人差し指をつけ、

「着いてからの秘密よ。行きましょ」
「お、おう」

紫の意図が掴めないまま青年は彼女に連れられて、雨の中を歩きだした。




雨が降っており、尚且つ相合傘ともなると、歩く速度というのは遅くなる。紫がどこかへ自分を連れて
行こうとしているのはわかっているが、それならスキマを使えば良い、などとは口にできない。

女心的に相合傘をしたいから、わざわざ歩いて移動しているのだろう。それを邪魔するような無粋な真似はしない、というかできない。

「そういえば、あんな所にいたのはやっぱり仕事で行ってたのかしら?」
「うん?ああ、昨日、人里の住人に頼まれてさ。人里周辺に現れた妖怪を退治してほしいってな。その妖怪を追ってたら、ここまで来ちまったってわけだ」

素気なく答える青年だが、それが普通の人間にとってどれだけ危険な行為なのかわかっているのだろう
か。

「相変わらず危ない真似をするわね。いつも言っているけど、危険な事をするのだったら私を頼りなさい。
あなたに呼ばれれば、いつでもどこにでも助けに行くのだから」

心配げに、心底青年の身を案じる紫の気遣いに、彼は困ったように乾いた笑みを漏らす。

「いや、紫に頼ってばかりじゃいけないと思ってさ。今は中級妖怪にだって勝つのが難しいけど、ずっと戦っていけば、いつかは隣に立てるかもしれないし」

隣に立つ。青年はわざと主語を抜かしているが、それは『紫の』隣に立つという意味だ。
大妖怪、八雲紫の隣に、同等の存在に人間がなるなど、大概の妖怪は嘲笑とともに一蹴してしまうだろう。

だが紫は、青年の言葉を否定することなどできない。そう語る彼の目はどこまでも真っ直ぐで、そして
力強い意志に満ちているのだから。

「……無理しなくても、良いのよ?私は、妖怪と戦えなくてもあなたの事が好きだから」
「幻想郷はどこまでいっても弱肉強食、実力主義だ。そんな世界で紫と一緒に、どこにでも気軽に行けるようになるには力を持たなきゃいけない」

淡々と、それでいて力のこもった言葉を口にする青年は、それに、と会話をつなげ、

「紫に釣り合うような男にならないと、俺が満足できない」

雨の勢いが徐々に弱まり、しとしとととした雨音が傘から聞こえる。
2人は靴を泥と雨で少しだけ汚しながら、土が均された道を歩いて行く。傘の中に収まるように2人は
身を寄せ合い、互いの温もりが服を通して僅かに感じられる。

「自己満足と、つまらない意地ね。そんな物のために身を危険に晒すなんて」

若干刺々しい、突き放すような紫の言葉。青年のその意地のせいで、自分がどれだけ心を乱され、不安に陥ってきたのか彼はわかっているのだろうか。

ある時は妖怪の山にいる白狼天狗に戦いを挑み、またある時は紅魔館の門番と手合わせをしたりして、
その度に怪我を負う彼の姿を見て、紫は不安と心配に心を占めつけられるのだ。

だというのに彼は強くなることを諦めない。そんなに、私と同じ強さが必要だというのだろうか。
私はもう、今のままの彼で満足なのに。

彼は紫の言葉に対して小さく微笑み、気に障るような様子は見せない。

「そんなもんさ、男なんて。意地を張るか夢を持つか、大概の男はどっちか持ってれば生きていけるよ

「……度し難いわね、男の人って」

呆れたように呟く紫だが、表情はそこまで固くはない。最早青年に何度、強くならなくても良いと言っ
てきただろうか。毎回刺々しく、もしくは突き放すような物言いで彼に釘を刺そうとしてきたが、どう
やら彼の心は鋼鉄でできているようだった。

紫の釘は寸分も刺さることは無く、今に至ってしまった。
こうなったら、彼は自らの意地を通すまで諦めないだろう。多分、寿命を迎えても亡霊にでもなって強
さを求めるはずだ。

「……寿命なんて迎えさせる気は無いけど」
「何か言ったか?」
「何でもないわ」

紫の小さな呟きは、雨音に紛れて青年にはハッキリと聞こえなかった。何事かと訊き返した青年に、紫
は首を横に振ると、青年はそれ以上追及はしなかった。

「なあ、紫。結構歩いたけど、目的地とかはまだ秘密なのか?」

雑談を交えながら歩くこと数十分。そろそろ紫の見せたいものの正体を知りたくなってきた青年は、試
しに紫にそう訊ねてみた。

「そうね。目的地だけは明かしておきましょうか。私達が目指しているのは、霧の湖よ」
「霧の湖?」

聞き慣れた単語に、青年は逆に首を傾げる。
霧の湖なら彼もよく言っている。あそこにいるチルノと時々戦ってあげたり、時たま訪れる危険性の低
い妖怪と交流をしているのだ。

故にそこまで珍しい場所ではないし、あの湖にあるものは大概見慣れている。それは紫だって知ってい
るはずだが、それでも彼女が見せたいというのだから相当なものだろう。

「何があるのか予想がつかないな。あそこには行き慣れてるし……」
「それでこそ見せる価値があるというものよ。期待してちょうだい」

自信ありげに言って見せる紫に、青年はああ、と期待をこめた短い返事をした。

しばらく歩くと、霧の湖についた。雨が降っていても妖精にはあまり気にならないようで、湖のほとり
で飛んでいる姿が見える。

「着いたぞ、紫」
「わかってるわ。とりあえず、少し経てば雲が晴れるはずよ。それまで待ちましょう」
「ん、わかった」

紫の言うことに従い、青年は紫の腰に手を回して体をさらに密着させ、相合傘の下で空が晴れるのを待
ち始めた。紫は急に青年に抱かれた事に驚いたようだが、頬を朱に染めつつも彼に身を任せ、心拍数を
高めたまま大人しくしていた。

やがて、10分は経っただろうか。

急に空が晴れ、雲がいずこかに過ぎ去っていた。陽光が霧の湖を照らし出し、キラキラと湖面が輝きを
放つ。

「そろそろね」

呟きながら紫は空を見上げる。青年も彼女につられて空を見上げ、そこに何かが現れるのを待つ。

直後、2人の視界に虹が現れた。
空にかかる七色のアーチが濃く現れた、見事な大きさの虹だ。天を貫かんとばかりにそびえ、空を刈り
取るように湾曲してかから虹。

「綺麗だ……」

知らず、青年は感想を漏らしていた。

虹は今まで何度も見てきた。だが、目の前に現れた虹は今まで見てきたどの虹よりも雄大で、美麗で、
鮮やかだった。

これほどのものは、幻想郷でも滅多にお目にかかれないだろう。いや、幻想郷だけにしかない虹だ。外
の世界では見られるものではないと、直感が告げていた。

「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。虹を構成する色はこの七つで、私の家族にも同じ名前をつけているわ

「なるほど。そんな共通点があったのか……」

初めて聞いた事実に、青年は軽く驚きながら虹を見つめ続ける。言われてみれば紫と藍、それに橙と、
どれも虹色の1つだ。

彼の横では紫が語りかけるかのように話を続ける。

「正直に言うと、結婚した暁にはあなたを私の式にして、七色の一色に加えようと思っているの」

さらなる発言に青年は目を丸くして、隣にいる紫へと目を向けた。

「できるのか?そんな事」
「ええ、問題無いわ。そうすればあなたと永い時を過ごせるし、いつまでも幸せでいられるわ」
「まあ、そうだろうな」

紫の言う通り、人間をやめて彼女の式になれば妖怪並に長寿になれるはずだし、そうすればいつまでも
紫と一緒にいられる事も可能だ。

できれば寿命を延ばしたいと、青年だって思う。紫と一緒の時を過ごせないのは辛い。彼女を残して先
に死ぬのも嫌だ。人の理から外れるような事になっても、寿命を延ばしたいという気持ちはある。

死ぬ時は一緒に死にたい。それが青年の、未だ紫に明かしていない思いだ。

「けど、何で式にしようと思ったんだ?俺が紫と結婚して名前を変えるだけでも意味はあるだろ?」

青年の唯一の疑問。家族になって名前を変えるのは構わないが、寿命を延ばす方法なら他にもある。な
ぜ紫は式になるという選択肢だけを出したのか。

紫は困ったような笑みを浮かべながらも、青年の問いに答える。

「本音を言うと、独占欲が強いからかしら。式になってくれれば、私だけのあなたっていう感覚が強い
から」
「何だ、俺が他の女になびくとでも思ってんのか?」
「そんな事微塵も思ってないわ。……でも、愛している人とはあまり離れたくはないのよ」

気恥ずかしそうに俯いた紫に、青年は快活に笑ってみせた。

「大妖怪と言っても、紫も女だよな。可愛いところをまた見つけちまった」

笑いながら紫を抱きしめ、やや力強く頭を撫でる。紫は穏やかな顔でそれを享受すると、青年を見上げ
るようにして見つめ、

「式になるのかはどうでも良いわ。けど、いつか結婚する時、あなたの名に虹の色を加える事を許して
もらえないかしら?」
「――――1つ、我がままを言っても良いか?」
「な、なにかしら?」

快諾してもらえると思っていた紫は青年の切り返しに虚を突かれ、ややどもってしまった。
青年は珍しくどもった様子の紫に苦笑いをしながら、『自分の我まま』を口にした。

「結婚するのは、俺が紫の隣に立てるようになってからでも良いか?」

彼の言葉に、紫は一瞬きょとんとした顔をするも、すぐに呆れたような表情になった。

「……それ、何年待たせるつもりかしら?」
「寿命を延ばしても、百年単位でかかるだろうな」

それだけ紫が強い事は青年にもわかっている。仮に自分が人間をやめても、彼女のいるところまで最低
でも数百年、長ければ数千年とかかるだろう。

おくびもなくそんな事を言った青年に対し、紫は仕方がないと小さなため息をついた。

「仕方ないわね。まあ、数百年程度、私にとってどうという時間ではないわ。あなたの我まま、聞いて
あげるわ」
「ありがとう、紫」
「その代わり」

ピシッ、と鋭い声とともに紫は青年を見つめ、

「結婚時のお願い、許してもらえるかしら?」
「ああ、もちろん。結婚した暁には、お前のものになるよ」

さらりと承諾の言葉を口にした青年に対し、紫は満足げに微笑む。

「ふふ。嬉しい事を言ってくれるわね」
「と言っても、もうお前の虜になっているんだけどな」
「……真正面から言われると、ちょっと恥ずかしいわね」

青年の偽りのない想いに、大妖怪は頬を赤く染めた。


Megalith 2011/08/23


「あら? まだ頑張ってらしたの?」

 その声に、文机上の原稿用紙との睨み合いを止めて顔を振り向けると、ちょうど湯浴みを終
えたらしい妻が、湯気を含んで瑞々しく艶めいた金髪を拭きながら、私達二人の居室へ入って
くるところだった。薄紫の生地に胡蝶の舞う意匠の浴衣が、原野に積もった雪の如く瑞々しい
白肌をゆったりと包み隠し、得も言われぬ妖女の色気を彩っている。
 私の妻は、人間ではない。名を八雲紫という、この幻想郷でも特に長く生きる部類の、底知
れない魔性を身に宿した大妖怪である。

「ああ。どうも少し、煮詰まっていてね。いい加減書き上げなきゃいかんのだが……」

 妻の、妖しの者がまとう激烈な艶気を感じ、私は思わず、妻の浴衣越しに覗える豊満な肉体
から目を逸らす。ちらりと垣間見えた一組だけの布団が妙な生々しさを感じさせ、心の動悸を
ひた隠すよう平静を装いながら応えた。
 彼女のような力ある大妖にとっては、夏の羽虫も同然であろう一介の凡夫であるこの私が、
如何なる因縁や神仏のご加護に由るものか、儚く散るはずだった恋を実らせ、曲がりなりにも
所帯らしきものを持ったのが、ほんの数年ほど前の事である。当時こそは、不思議と非常識に
満ち溢れた幻想郷での暮らしに不安を感じ、自ら捨て去ったはずの外の世界をどこか恋しがる
向きもあった私だが、人としての一生を抛っても構わないほどに惚れ込んだ八雲紫の導きもあ
り、とうとうこの郷を終の住処と定め、彼女の伴侶として生きる誓いを立てた。今となっては
もはやここ以外に帰る家は有り得ず、また傍らに彼女がいない人生など思いもつかぬほどにな
っている――つもりである。
 だが、それでも生来の気弱な性質故か、時折言い知れぬ不安に駆られる時期があり、今日は
まさにその時期に当たっていたのだ。

「まぁ。〆切なんて無粋なものが、いつの間にこの郷へ入り込んだのかしら?」

 言いながら、妻は私の背後にすっと腰を降ろしたようだった。間もなく、私は背中に彼女の
体と髪が感じて、また密かに息を詰める。未だ慣れない臆病さ加減が、如何にも私らしい。

「本当に、分かりやすい人ですこと」
「な、なにが?」
「暗鬱に沈んでいく気分であればこそ物書きは筆を執るべきであると、以前どこかの誰かさん
が息巻いてましたわ」

 背中越しに聞こえてくる妻の言葉は、ころころと鈴を転がすが如く玲瓏として、私の心に響
きわたっていく。夫となっても所詮は大妖と只人、敵う相手では決してない。

「それは、その、酒に呑まれて口走った戯れ言であって――」
「そうでしょうね。さっきから、筆は回れど跡につかず、だったようですし」
「うっ……見ていたな、スキマで」

 彼女は、境界を操る妖怪である。私は今、彼女がスキマを使ったのではないかと考えたのだ
が、ひょっとしたら心の境界すら操って、私の中を覗いているのかもしれない。いくら何でも
と思う反面、彼女ならば、その気さえあれば容易いであろうとも思う。
 八雲紫とは、それほどに強大なあやかしなのだ。

「ふふふ、そういうところが分かりやすいと言ってますの」

 耳元に感じた吐息に、私はいよいよ目に見えて動揺し、まるで無理やり怪談話を聞かされて
いる子供のように全身をびくつかせる。
 本当に彼女と寄り添って暮らすためには、何年寿命があっても足りやしない。

「スキマを使わずとも手に取るようですわ。不安で不安で仕方がない。解き消そうにも不安の
根源が分からない。だから、とりあえず筆を執って心の内側を書き写そうとする。けれど正体
不明の不安は、文字に起こそうにも形が分からない。それで筆は動きを止めたまま――いかが
ですか、わたくしの名推理は?」
「……君と暮らす人は、本当に苦労するだろうね」

 またしても私は、この妖怪の術中にまんまと嵌ってしまったようだ。
 元より勝てるなどとは微塵も思わないが、こうまで易々と誑かされるようであっては、人間
としての沽券に係わる。だからと言って、悲しいまでの種族としての格の違いがあるために、
結局のところ陳腐な皮肉ぐらいしか返せないのだから、全く情けない。
 ふぅ、とわざとらしいほど大きく嘆息して、私は彼女の背中に身を預ける。

「ああ、そうさ。まるで芥川の遺言だよ。ただぼんやりとした不安。いや、実は本当に不安か
否かさえ、僕にはどうも分からなくなっている。とにかく気が滅入るだの暗鬱だのと、自分は
今そういうネガティヴ状態であると、自分自身に言い聞かせているようだ。実を言えば、気が
滅入るとか暗鬱だとか、それも全ては僕の少ない語彙からひねり出した、自己防衛の言い訳で
しかない。今の自分自身がどういう精神状態であるのか、僕は自信を持って説明する事ができ
ない。何故説明できないかと言えば、僕の精神が、僕自身の意識だか自我だかにとって、全く
正体不明であるからさ。つまり――」

 彼女が何も言わずにいるのをいいことに、私はさらなる不毛な言葉を、どこでもない虚空の
果てへ解き放っていく。

「つまり、僕は今や自分の本当さえも分からなくなった、間抜けな鵺の化け物なのさ。ああ、
鵺と言っても命蓮寺のあの子じゃないよ。もっと醜くて薄汚れた、そう、荘子に出てくる渾沌
の如きカオスそのものな化け物だ。視るにも聴くにも嗅ぐにも味わうにも何も感じない、七孔
を塞いだ奇獣の如し――ってね」

 そこで私は、まるで蟇が怒鳴りを挙げるような、がわがわと薄気味悪く嗤いを立てた。いつ
だったか、この嗤い声を聴いた妻の式の式である黒猫が心底より怯えだし、その保護者である
九尾の狐にかなりの殺意を込めて睨みつけられた事がある。
 妻の感想を聞いたことは無いが、少なくとも好意的には思っていないだろう。しかし、流石
は齢千年を軽く超越した大妖の背中は、私の奇ッ怪な自嘲にも微動だにせず、ただ黙って私の
姿勢を支えていた。
 ひとしきり蟇の怒鳴りを挙げた私は、また、ふぅ、と大きな溜息を吐き、呼吸を整えながら
言葉を紡いだ。

「……すまない。また君に、下らない愚痴を聞かせてしまった。許してくれ」

 散々にわめき散らした挙げ句、出てきた謝罪の言葉はこんなものでしかなかった。風呂上が
りの良い気分であったろうところに、一応は亭主である男から斯くの如き仕打ちを受けたとす
れば、愛想を尽かされたとしても文句を言えたものではない。何しろ相手は大妖怪、某天狗の
新聞によると、あの九尾の狐を"お仕置き"と称して傘でぶっ叩いた事もあるというから、今度
こそ命は無いかもしれない。
 先ほどまでの負の方向へと暴走した威勢はどこへやら、閻魔の法廷に立った幽霊も斯くやと
思える神妙な態度で審判を待っていた私の耳に、いよいよ妻の言葉が入り込む。

「あら? もうおしまいですの?」

 飄々としていて妙に胡散臭げな印象を抱いてしまう声音は、間違いなく妻のものだった。
 それを理解した途端、急に目の前が眩しくなって、私は思わずよろめいてしまう。いつの間
にか両目を固く瞑っていたらしい。
 無様にバランスを崩して身体の左側へ倒れそうになった私の顔を、何か柔らかく温かい感触
が覆った。畳ではない、それは妻の膝枕だった。

「久方振りに、如何にも愚かで自己陶酔も甚だしい、人間らしさに満ち溢れた戯言を堪能して
おりましたのに、存外短く終わってしまったのですね。あーあ、つまらない」
「うっ、むぐっ!?」
「なんですか。まさかこのわたくしが、あんな程度の愚痴で気分を害するとでも? それは何
ともまぁ、八雲紫も随分と安い女に思われてしまったことですわ。ねぇ、貴方?」

 頭上から物凄い圧力をかけ、彼女の膝枕に押しつけられていた私の顔に、ぱあっと再び光が
射し込んで、私はまた反射的に目を瞑ってしまう。一瞬の後、怖々と開いた視線の先には、妻
の、境界に潜む神隠しの主犯の、幻想郷最強たる大妖怪の、八雲紫のまなざしがあった。

「いつも言ってることですけど、貴方は私の夫である前に、物を書くより他に目立った取り柄
もないただの人間。対して私は、貴方の妻である前に、この幻想郷でも賢者の一角に列する、
齢千年を超えた大妖怪です。たかだか二十年やそこらしか生きていない貴方風情に、心配され
るような謂われなどこれっぽっちもありませんことよ。理解して?」

 射抜くような、こちらの心を串刺すかの如き鋭利な視線が、私の眼を捉えて離さない。澄み
わたる金色の瞳に、私は彼女の魔性の真髄を垣間見た――そんな心地がした。
 私は、そんな彼女の光の貫きを前に、ただただ莫迦みたいに頸を縦に振るより他なかった。
正しく有無を言わさぬ圧迫面接である――面白くもない冗句が浮かぶくらい、私の心は彼女の
前に完全に屈服したのだった。
 それから数瞬、彼女はふと表情を和らげ、そっと私を抱き起こしてから、自らの豊満な胸に
私の顔を埋めさせた。為されるがままだった私も、彼女の穏やかな心音を聴いて、ゆっくりと
彼女の背中へ両手を回した。
 妻は、見た目同年齢の女性の中では割りかし上背のある方だが、それでも幾分かは私の方が
彼女より身長が高いため、この状態はいささか奇妙な態勢ではある。が、不思議と息苦しさも
ないままに、私と彼女はしばらくの間、互いに一言も発さず抱き合っていた。
 やがて。
 妻の胸元からふと顔を起こした私は、再び彼女と視線を交わした。私は、何かを求めるよう
に唇を動かし、蚊の鳴くようなか細い声で、彼女の名を呼んだ。妻は、瑞々しく濡れた唇をほ
んの僅かに震わせ、小さく私の名を呼んだ。
 まず妻の方がそっと眼を瞑り、次いで私も眼を瞑って、互いに短く接吻を交わした。
 最初のそれは触れるように。それからもう一度、呼吸を合わせて、互いが互いの唇をついば
むように。そして三度目は、舌先で相手の全てを味わうように。

 ふと、頬に濡れる感触があった。私も彼女も、眼を瞑っている。
 部屋の燈が、少しずつ光量を落とされていく。原理は不思議だが、意図は不思議でない。

 そして――私と彼女と二人だけの――



 夜が降りてくる――





<了>

お目汚し失礼いたしました

紫、愛してる


Megalith 2012/03/22


あら、貴方……また来たのね

前々から思っていたのだけれど、いったいどこから入ってくるのかしら?
まぁいいわ、手ぶらでは無いようですし。ほら、いらっしゃい
……これは「かすてら」かしら?
ちょうどいいわ、小腹が空いてたのよ。お茶を淹れてちょうだい
どうしたのかしら? お茶を淹れるのは殿方の仕事よ

……客? 侵入者の間違いではなくて?
許可も無く女性の間に上がり込み、あげく小言を漏らして、本当に失礼な人間ね
……と言っている内に淹れてくれたのね。やけに早いわね、黙ってやってくれれば良いのだけれども

それで、この私「八雲紫」に何の用かしら?
私の顔が見たかった? とてもそんな風には見えないのだけれど、またからかってるのかしら?
もっと楽しそうな顔をしてほしいわ。貴方よりも霊夢の方がまだ愛嬌あるわよ
他に用があるのでしょう? 正直に言いなさい
私と話がしたい? 私に自分の事を知ってほしい? 私のことがもっと知りたい? 私と………

………ッ!! いっ、いったい何を言っているのかしらこの人間は! それよりもこれはなに!?
お茶を淹れてと言ったはずよ!? 誰も牛乳なんて頼んでないわ!
……「かすてら」にはミルクが一番? 
貴方の好みなんて聴いてないの。そもそもどこからこんな物を取り出したのよ!
……夢だから何が起きるか分からない? また訳の分からないことを……
なぜ言ったとおりに動かないのかしらね、この人間は
その上、つまらない言い訳を口々と……貴方はいつもそうね
時々現れては、心にも無い事を口にして私をからかい……
いなくなったと思えば、いったいどこからなのか、貴方を感じて……

そう。わかったわ。やはり貴方は私を辱めて遊んでいるのね
人の分際でどこまでも無礼な……どうやらあの天人以上に厳しい教育が必要なようね

なにかしら? いまさら命乞いをしても聞こえないわ
……たかがミルクで怒るな? 
…………この期に及んで貴方は……!! しかもその様子だと話を聴いていなかったようね!
本当に亡き者にしてくれようかしら? 最後に聴きましょう、あなたはなぜ私の元に……

………ッ!! また……貴方はそうやって………!!
……はぁ、もういいわ
こんな人間相手に興奮して、どうしたのかしらね、私は
ごめんなさい。今日は何かおかしい……いえ、貴方が来るといつもおかしくなってしまうのよ
私で無くなる……そんな気がしてくるのよ。だから……
だから今日はもう帰りなさい。そして、もうここには来ないこと

良い子になったら来てもかまわないけど、それは無理なのでしょう? 
わかります。何故なら、貴方は何度叱られても反省せず同じ行為を繰り返し
そして……あんな……その、ありえない言葉ばかりを口にしているからです
あのような言葉ばかり聴いていたら、そのうち私は貴方に酷いお仕置きをしてしまうわ
私は貴方に酷い辱めを受けているのだから、おあいこで丁度良い気もするけど
だから早く帰りなさい、貴方のいるべき場所へ

本当に帰るのよ? 貴方はいつも帰ったふりをして、どこかに隠れているのだから
ああ、今思い出したけど、霊夢と異変の解決に向かった時にも貴方の視線を感じたわ。あれはどういう事なのかしら
……見守っていた? そう言えば響きは良いわね
でも、貴方がいた外の世界では、それをストーカーと呼ぶのではなくて?
貴方はストーカー。ストーカーは悪い人。悪い人にはお仕置き。お仕置きが必要なのは貴方
やっぱり私の教育を受けてから帰りなさい。私は貴方を甘やかしすぎた

いったいどこから隠れて見ていたのかしら、お答えなさい
……外の世界から? ……違う?
……そう、あなたは幻想郷が存在しない、私の知らない外の世界から来たのね
夢の中でしか私に会いに来れない? でも見守ることは出来る……そうだったのね
どうして今日の今までそれを黙っていたのかしら? いえ、それよりも……
なぜ、そこまで私のことを気にするのかしら、ストーカーさん?

………そう、本当に私のことが……その……好きだったのね。私を辱めて遊んでいるのかと思ってたわ
フフフ……いいわ。その信仰心に免じて許してあげます
そのかわり、こちら側の世界に……この幻想郷に移りなさい。どんな手段を講じてでも、よ
ストーカーなんて嫌よ。堂々と側にいなさい
そうしてくれれば、私の……この訳の分からない感情も……

……いえ、なんでも無いわ。それよりも貴方、どうにかしてこの幻想郷に移り住めないの?
無理? ……そうね、なら私の能力で貴方の存在を幻想に……
……時間? ああ、夢から覚めてしまうのね、残念だわ
さっきはもう来るな、なんて言って御免なさい
また来るのよ。絶対によ? せっかく貴方を理解できたのだから
……それに自分の気持ちにも……あっ!

消えちゃったわね。でも次に会った時は貴方を………フフフフフ……



一昨日だったかな、紫様の歯を超音波で掃除する夢を見たんだ。
それにしてもこの紫様、感情の起伏が激しくて紫様っぽくないや。精進します。


Megalith 2012/04/13


 「こんなところに居たのね」

 振り返った先には、見なれた顔。
 けれど、決して見飽きることのない顔だ。

 「今日は満月だからな」

 一緒にどうだ、と言う前にもう隣に座っているところからして、もう最初からそのつもりだったのだろう。
 何も言わずに酒瓶を手渡した。

 「お酌してくれないのかしら?」

 「自分でやってくれ」

 仕方ないわね、とスキマを使ってグラスを2つ取り出した。
 自分で動けよ、また太るぞ。なんて口にした日には口きいてもらえなくなるので気をつけましょう。

 「何か言った?」

 「いいや」

 案の定問いかけてくるが、何もなかったかのような態度をとる。
 目線を合わせると、間違いなくばれるから。

 「はい、あなた」

 「……ありがとう」

 片手で渡されたグラスを片手で受け取る。
 濁りのない透き通った水のような液体が、一杯にそそがれていた。
 表面張力ギリギリまで注がれた酒は、少しでもグラスを傾ければ重力に引かれて落ちるだろう。

 「おい、嫌がらせか?」

 「ふふふ」

 からかっているつもりなのだろう。
 恐らく酒をこぼす光景を期待してのことだとは容易に想像できた。
 残念ながら、そのご期待には添えることは出来ないが。
 いちいち酒をこぼさないように少しずつ飲むのではなく、一気にぐいっと飲みにかかる。

 「……器用ね、あなた」

 「一滴も零さずに飲むことくらい出来ないようじゃな」

 ただ、一息で飲みきったせいか少し酒がまわった気がする。
 紫は感心したみたいだから、まあいいかとは思うが。

 「つまらんことするな。ほら、団子だ」

 甘味亭で購入したものを、紫に差し出す。
 赤、黄、緑の三色の形の整った団子が立ち並ぶその姿は、かつて紫のスキマで見たあの三色を思い浮かべた。

 「また頂いたの?」

 「違う、ちゃんと買った」

 まるで俺を乞食か何かと勘違いしていないかと睨みつけるのだけど、どこと吹く風と言うようにそれはさらりと流された。
 もうそれは今更言っても治るものじゃないし、どうでもいいことだ。
 …………次のささやかな抵抗が、成功すればいいだけのこと。 

 「ぶっ!!」

 「おやおや、紫さん。どうしたのかな?」

 俺の横に置いていた串団子の山から、紫が一つ手に取り。
 一口団子をほおばり、咀嚼しようとしたその時のこと。
 数瞬固まったかと思えば、紫がいきなり吹きだした。 
 俺は作戦が成功した喜びからニヤニヤと紫を見つめる。

 「な、何よこれ!」

 「ばくだん、というものだ」

 買った団子のうちの一本に、"アタリ"が付いているというものだ。
 "アタリ"というのはもう一本サービスというのではない。むしろ、この場合は"ハズレ"を引いたと同義だ。
 緑には山葵、黄には激辛マスタード、赤には唐辛子と嫌がらせのオンパレードで作ってある。
 それ以外の普通の団子と見比べても完全に判別不能という素敵な商品だが、どうもコストが高いので完全に裏メニューと化してしまっているのだが。

 「は、嵌めたわねぇ……!」

 見たところ最初に食べたのは唐辛子の団子らしく、その辛さに身もだえている紫。
 涙目になりながらこちらを睨もうとするけれど、それはかえって嗜虐心を刺激された。

 「ははは!」

 けれど、実際のところは紫の団子と俺の団子を入れ替えただけだ。
 これ以上は後が怖いから、もうやらない。

 「……え?」

 「そっちは大丈夫だ、安心してくれ」

 「……………」

 未だに信じられないのか、口をつけようとしない紫。
 当然と言えば当然か、と考えて紫の手に持っていた団子を勝手に口にした。

 「ほら、大丈夫だろ?」

 何も細工はしていない、と証明するために団子を食す。
 それを見て安心したのか、団子を食べ始めていった。

 「……全く、あなたって子供ね」

 「悪いね、好きな子ほどいじめたくなるんだ」




 「――――――――――ばか」





 月夜に照らされた紫の顔は、わずかに蒸気していて。
 そんな拗ねたような顔が、出会った当時を思い起こさせるような顔で。
 ドキリ、とさせられてしまった。


 ―――――――――――そんな、満月の夜。


なんとなく好きな人の前では無防備なゆかりんを書いてみたくなったんだ、後悔はしていない。



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最終更新:2022年07月07日 05:48