ミスティア9
Megalith 2011/01/11
「いたた……また今日はパックリといったな………」
そう呟いてる俺の視線が向かう先には、
赤い筋が数本走っている指の節目。
継続的に伝わってくる小さな痛みには、まだ慣れることができないものだ。
「まぁ、冬の冷たい水であれだけ洗いものしてたら当たり前か」
掻い摘んで行ってしまえば、そういうことである。
手伝うようになって半年ほど経った屋台での仕事。
俺には八目鰻を売り物として出せるほど上手に焼くことはできない。
更に言ってしまえば、人に出せる様な料理も作れる自信もない。
そんな人間が飲食店で確保できる居場所と言えば、専ら注文聞きか掃除か皿洗い位なものだ。
だが手伝っている場所は屋台。
注文を伝えるほどの距離なんてあるわけがない。
結果として残る労働は、洗いものと掃除。
そしてそれらの労働は、水を触らねば始まらないのである。
そうした結果が、目の前に点在する生乾きのかさぶたということだ。
できることならゴム手袋でも使いたいところだが、
残念なことに"こっち"では手に入り辛いものとなっている。
森の外れにある雑貨屋だか古道具屋だかには「探せばあるかもしれないぜ」と聞いたが、
同時に「あいつはふっかけてくることもある」とも言われた。
二人で仕事をしても雀の涙ほどの収入な屋台なのだ。
こんな事で大事なお金を変に使いでもすれば、
文字通り雀の涙を見る様な貧しい生活になるかもしれない。
そうなるくらいであれば、こんな傷どうとでもなるというもの。
と言いたいところだが、小さな悩みの種くらいにはなってしまったようだ。
今一歩のところで我慢が足りない自分に、少々情けなく感じる。
「○○~、そっちはもう片付いたの~?」
「うおぉぅ!?」
突如真後ろから掛けられた声に、俺の口から上ずった声が飛び出してくる。
「何してたの?……って、ちょっとその手!」
「えっと……あぁ、いや、このくらいどうってこと無いから」
屋台の店主-ミスティア-は、俺の手をとり声を荒げ始める。
「こんなに割れちゃって……血もいっぱい………」
「大丈夫だよ、見た目ほど痛くはないから」
そう言いながら、ミスティアへと笑いかける。
なんでもない痛みと、なんでもない痩せ我慢。
そういうことでこの件を片づけるために。
「えっと……あ、そうだ!」
途端に何かを思い至ったのであろうか。
彼女は身につけている割烹着のポケットから何かを取り出した。
差し出された手は、とても屋台で鰻を焼いている手とは思えないほど綺麗に見える。
普段の快活な彼女の物とは想像し辛いほど、肌は白くきめも細かい。
そんな掌を広げた上にあったのは、ガラス製の小瓶が一つ。
一般的な形とは外れ、平べったくやや薄い印象のある形。
意匠などは全く感じられないが、ある種の精巧さを感じる作りが見てとれる。
「それは?」
「今日薬師さんの所の兎さんからもらったの。
火傷とか傷によく効く軟膏だって」
言われてみれば、確かに"外"で見た軟膏の入れ物によく似ている。
素材が器用にガラスで作られていたため、
外にあったのと同じものとは考えも及ばなかった。
「ほら、こっち手出して」
「…え、っとと」
そう言いながら、ミスティアは俺の手を半ば強制的に引き寄せる。
引っ張られた右手の先では、鋭い爪が伸びる彼女の左手が、
いつの間にか開けられていた軟膏の小瓶を器用に摘まんでいる。
そして右手の人差し指で軟膏を一掬いし、それを引っ張ってきた俺の指へと向かわせる。
「もう…こんなひどくなるまで放っておいたなんて……」
どこか悲しそうな、はたまた痛々しそうな眼差しで、
ミスティアは俺の手に軟膏を塗り始める。
彼女の細い指が、優しい動きで傷へと薬を擦り込ませていく。
そっとした力加減で、傷口の周りを優しく丹念に。
「いや、ミスティア、自分でできるって……」
「いいのっ!じっとしててっ!」
気恥ずかしさから交代を申し出たが、
もはや捲し立てる様に大声でそれを棄却するミスティア。
こううまでされてしまえば、こちらとしてはもう何もできない。
言われるがままに手を差し出し、大人しく傷口の手当てを受けることにした。
「…………ねぇ」
ふと掛けられた声は、消え入りそうなほど弱々しく。
「……あんまり、無理しないでね?」
切なそうな、悲しそうな眼差しが、俺を見上げる。
「…けど、俺はこのくらいしかできないからさ。
ミスティアみたく、料理のことはできないし」
「それは、そうだけど……」
苦々しく笑う俺に、少しムスッとした表情のミスティア。
「ずっとお客さんの相手もしながら料理もしている君に比べれば、
俺のやっていることの方がずっと楽だよ」
「…………けど」
幾らか視線をそらし、数泊の間を置いて彼女は次の言葉を出す。
「○○がこんな手じゃ……手、繋げられないじゃない………」
いつも買い出しや材料の調達に行くとき、
人目につかないところで俺たちは手を繋いで歩いている。
彼女から言いだしたことだが、今となっては習慣に近いものとなった。
繋いでいる時の彼女がとても楽しそうに微笑んでくれるため、
俺の方がそれ目当てで楽しみにしているのかもしれないけど。
そんな彼女も、今はうっすらと赤らめた顔を伏せる様に下げ、
それでも手だけは尚薬を塗り込んでくれている。
そんな仕草が、どうしようもなく愛おしくて。
こういう所を見せられるたびに、俺はまた彼女しか見えなくなっていく。
半年前からずっと一緒にいるというのに、
まだまだ俺は深く沈んで行くことができる。
それが、どうしようもなく幸せで仕方ない。
「って、ちょっとぉ………」
既に塗り終わった方の手で、ミスティアの頭を撫でる。
ただただ、何があるわけでもなく、そうしたいから。
ふわふわとした薄紅色の髪が、くしくしと音を立てて揺らぐ。
「手は繋げられないかもしれないけど……」
彼女の頭に乗せた右手を動かしながら、俺は続ける。
「だからって、何も触れられないわけじゃないからさ」
切れたのは指の節目であり、掌の方はなんともない。
手を繋ぐとなると、どうしても指を握らざるを得ないため、
傷口に圧力がかかり、結果として多少の痛みが出てしまうかもしれない。
だがこうして掌で触れる分であれば、何も痛くはない。
「……もぅ…………はい、終わりっ」
少し拗ねたような声を漏らし、ミスティアは薬瓶の蓋を閉める。
幾らか赤みの増した頬を見る限り、照れているという方が正しいだろう。
反らした顔とは正反対に、背中の羽は小さく動き続けているのも、照れ隠しにしか見えない。
薄々ニヤけつつも処置の終わった自分の両手を見てみると、ひび割れにしっかりと軟膏が馴染んでいた。
大して傷に沁みることもなく、既に痛みも引き始めているような気もする。
流石は幻想郷一の薬師ということか。此処まで効き目がすごいと、少しだけ恐ろしくさえ感じる。
「どう?効いてる?」
「うん、流石は八意先生の薬だね。ちょっとは沁みるけど」
「自業自得よ。そんなになるまで放っておいたんだもん……」
「いや、まぁ………うん、ごめん」
そっぽを向いて怒っているようにしている彼女も、
その表情には何処か寂しそうな色が窺えた。
一人だけ変な意地を張って頑張って、結果としてミスティアを心配させてしまった。
彼女の役に立つためと頑張って、結果として彼女に悲しい顔をさせてしまった。
悪いのは俺だ。
そう思った次には、口から謝罪の言葉が出ていた。
「……よしっ!」
突然すっくと立ち上がり、気合を入れるミスティア。
「明日から私も洗い物するからっ!」
「………って、えぇ!?」
一・二拍程の間を挟み、俺の口は驚愕の声を上げる。
「だ、だって君は調理と接客があるじゃないか!
その上洗い物までなんて……」
「もとは全部一人でやってたのよ?だいじょーぶっ!」
「いや、だけどさ………」
「いいのっ!その代わり……」
「○○も、明日から八目の焼き方しっかりと覚えてもらうからね!」
太陽と見間違う程の、底抜けに明るい笑顔を向けているミスティア。
ニィと開いた口元からは、鋭そうな八重歯が二つ顔を覗かせている。
「それで、早く料理の方も一緒に手伝ってもらうんだから!」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女はそう言い放った。
あぁ。
こりゃ、一手やられたな。
そんな風に言われてしまえば、もっと頑張るしかないじゃないか。
"一緒に"手伝う為。
彼女らしい、実に可愛い提案だ。
「……うん。明日からしっかり教えてもらうよ、ミスティア」
「あいさ!ただし、私は厳しくいくからね~」
「できるなら、手取り足取りしっとり優しく、の方がいいなぁ」
「な、なによそれ!」
「いや、冗談冗談。…ね、冗談だから爪向けないで!?」
互いに冗談めかして、ドタバタとふざけあって、一緒に笑いあって。
今日もまた、いつも通りに時が過ぎていく。
冷たい風が吹く森の一角、小さな屋台でのとある一コマ。
勢いに任せて書き綴っただけの物を読んで頂きありがとうございます。
軟膏を塗る、というシチュが真っ先に浮かんだのがみすちー。
私のイメージとしては、一緒に屋台を手伝って、一緒に笑いながら料理やお酒を出して、
店の準備をしているときにこぅ甘い雰囲気になるっていう感じです。
みすちー可愛いよみすちー。
31スレ目 >>421(2011/02/14)
去年は何もできなかったけど、今年のこの日はこれくらいはできるようになった。
来年はもっとかわいく嫁を描けるようになりたいってことでバレンタインみすちーです。
文章はかけないが絵は修練あるのみ
Megalith 2012/01/02
「ねぇ…どう?」
何かを問われている。それはわかる。
目の前で座っている彼女が俺に意見を求めているのだ。
では、その意見と言うのは何を言えばいい。
何について、俺は言及すればいい。
新年の挨拶を交わして、その次の瞬間には正座を強いられ、
いつの間にやらこうして畳の上で向き合わさせられている。
二人の間に挟まれているのは、広げられた漆塗りの重箱。
広がった二つの額縁に納められていたのは、見事なまでの"作品"。
水気を帯びた鮮やかな光を返す黒豆と、白と黄の対比が映える錦玉子。。
紅白の彩りが目を惹く蒲鉾と、焼き目の色合いが絶妙な加減で付いている伊達巻き。
その隣に飾られているのは、数の子の代わりのとんぶりだろうか。
飾り切りの人参や筍に、大根と里芋が出汁の香りを漂わせる見事な煮しめ。
その存在感を惜しげもなく放っているのは、
輝かしいばかりの照りと甘く香ばしい匂いが食欲をそそる鯉の煮付け。
見事としか言いようがない、幻想郷流のお節料理が広がっていた。
目の前に広がっているものがそれだけであれば良かった。
屋台を抱えている彼女が手塩にかけて作ってくれた御馳走に対して、
先ほどから唸っている胃の感想を代弁すればいいだけなのだから。
だがその少し先に広がる光景に目が行かぬほど、俺は食欲だけに傾倒しきった人間ではない。
大部分を占めるのは、日に焼けた畳の青さとは対照的な、風格の漂う桔梗色。
女性としての淑やかさや奥ゆかしさが、余すところなく引き出される染め具合の絹の生地。
所々に鏤められた金糸がその輝きで縁取るのは、風に浚われゆく桜花の図柄。
桔梗色の濃淡がたゆたう中、その儚さを糸の一つ一つが語りかけてくる。
帯締めは雰囲気を引き締める様な、清らかな新雪の如き銀白。
遠目では気付かないほど謙虚に、しかし精巧にあしらわれた、淡い桜色の菊花と銀糸で織られた大輪の雪花。
銀白の帯地とやや淡い紫とが隣り合い、互いが互いをそっと引き立て合う。
それを一欠けらの不自然さもなく身に纏うのは、いつもいつも屋台で隣り合っている筈の彼女。
普段こそ明るくて、快活で、勝気で、意味もなく強気である夜雀の彼女が、
今は見目麗しいなどと言う表現では最早足り得ぬほどの艶やかな姿ではないか。
決して長くはない薄紅色の後ろ髪を結い上げ、それを留めた一本挿し簪の先で小さく踊る梅の花。
露になった首筋とうなじが、ひどく煽情的で艶めかしい色香を放つ。
薄化粧の施された顔を覗き込むと、頬の朱が増し毛に覆われた尖り耳が忙しなく動き回る。
しゃなりと流れるような姿勢で座った背後から覘く翼も、落ち着きが無いのか時折パタパタと風を切っていた。
世話になっている屋台の店主であり、少なからず好意を寄せている女性であり、
人の視界を奪い狂わせる夜雀、
ミスティア・ローレライの圧巻ともいえる艶姿に茫然とせざるを得なかった。
「その、ね……だからあの…どう、かな?」
変わらず、何かを問われている。それはわかるのだ。
だがもじもじと落ち着きを失いながら要領の全くつかめないミスティアの問に、
この状況をたたみ掛けられ混乱している俺の脳味噌では解答するのは困難のようだ。
こういう時にとっさに良解答が出せる者を甲斐性のあるものと呼ぶのだろうが、
残念なことに俺には甲斐性など無いとすっぱり周囲に言い切られている。
だからこうして大切な女性がこうして何かをしてくれている時に、ぼうっと呆けることしかできないのだろう。
段々と不安そうな色に変わってきたミスティアの表情に気付き、そこでなんとか意識をしっかりと立て直す。
ここで言を発し状況を動かすべきは男であり、それができてこそ男と呼ばれるのだ。
一つ息を吐いて腹を括り、動きの鈍い頭を無理やりにでも動かして紡いだ言葉を率直に告げる。
「うん、綺麗だ。本当に。今まで見た何より綺麗だよ、ミスティア」
吐き出した言の葉に多少の恥ずかしさは込み上げてくるものの、
こうして少なからず俺の為に着飾ってくれた彼女の心を思えばこの程度と言うものだ。
ミスティアの努力と思いにきちんと答えるためにも、真っ直ぐに目を見て、真っ直ぐに言葉を発する。
ほんの数瞬の間を挟み、ミスティアは顔を伏せ頬を完全に紅潮させる。
やがて幾らかの時間を挟み顔を戻した彼女の表情は、何処か困ったような笑い顔だった。
「なにさ、やればできるじゃない…この甲斐性なし」
「これでも本当に必死なんだけどね…」
「……まぁいいや。今日は許したげる」
深く、呼吸を一つして、再び顔を上げるミスティア。
「へへ…今年もよろしくねっ」
浮かべていたのは、太陽と見まごうようないつもの明るい彼女の笑顔だった。
Megalith 2012/05/07
暮六つ時、人里近くの湖畔。
いつもの散歩道を歩いていると、僕にとっては聞き慣れた、
しかしいつまでも聞いていたくなる歌声を耳にした。
彼女は今日も来ているらしい。少しだけ歩く速度を早める。
「~♪~~♪ ……ふぅ」
一通り歌い終わったのか、一息ついて水筒を手に取る少女に、拍手を送る。
「いつ聞いても大したもんだね、やっぱり」
「あ、○○……聞いてたんだ?」
「途中からだけど」
すたすたと湖畔を歩き、彼女から少し離れた木の幹にもたれる。
僕と彼女の間に築かれた、微妙な距離。
「もう……言ってくれればよかったのにー……」
「真剣に歌ってる人の邪魔なんて出来ないよ」
ジト目で睨んで来るが、元々目尻が下がり気味の彼女がやってもあまり怖くない。
半分本気で思っていた理由を口にして、やり過ごす。
「別にそこまで気にしなくていいんだよ?○○になら止められても怒らないから、私」
「僕がしたいからしてるんだ。そっちこそ気にしないでよ」
無条件に信頼してくれている事にむず痒さを覚えつつ、定型的な返答をしておく。
彼女との会話も楽しいが、彼女の歌を聞く事もまた楽しみの一つだからだ。
「うーん……○○が聞いてくれてるんだって知ってたら、もうちょっと気合入れたのにな」
「……あれで真剣じゃなかったと仰いますか」
「真剣だよ? ただ何ていうのかな、真剣を注ぎ込む割合というか、うん。そんな感じ」
一人で結論付けて頷くミスティア。彼女の歌はどこまで伸びるというのだろうか。
僕の予想する天井をさらに突き破ろうとする彼女に、思わず苦笑してしまう。
「ただでさえ聞き惚れるくらい上手いのに。
セイレーンよろしく僕を虜にするつもりかい?」
「セイレーン?」
古今東西の異形が蔓延る幻想郷においても通じないのだろうか。
首を傾げるミスティアに軽く悲しき歌姫の話をしてやる。
※
「――とまあ、こんな感じなお話なわけ。……ミスティア?」
一通りの逸話を話し終えると、ミスティアは何故か慌てたように僕へと詰め寄る。
「わ、わたしは……っ」
元々木に寄りかかる姿勢だった為、僕には逃げ場所なんてモノは元々無く。
僕と彼女の距離は最早子供一人挟めない程になってしまっていた。
視界に映るミスティアの表情は、どこか必死さを含んでいる。
「わたしは、○○の事を殺したりなんて、しないよ……っ!
だって……だって、わたしは、わたしは――」
「あの、み、ミスティア……ちょっと、ちょっと落ち着いて!」
何とかミスティアを押し留めようと試みてはいるが、
彼女の耳には僕の声が届いていないようである。
(歌姫の話だから喜んで聞いてくれると思ったんだけどな……どうしよう)
内心焦り始めた○○に、彼女の口から漏れでた一言が追い打ちをかける。
「――わたしは、○○の事が好き、だから……殺したりなんて、するわけ、ないじゃない……」
それだけ言い切ると僕の胸に顔を埋めて泣き始めるミスティア。
本来なら嬉しさのあまり有頂天になっていても可笑しくはないシチュエーションではあるのだが、
如何せんこうなるに至ったまでの経過で、頭の中は混乱の局地にあった。
(え、ええー……? ちょっと待って、ちょっと待ってってば……
ミスティアが焦ったのは人を引き寄せて殺してしまうセイレーンに例えられた事についてで……
それが僕に何故か繋がり、僕を殺すわけなんてないと否定してくれた、と。
それはとても嬉しいんだけど、殺さないに至る理由が――)
「僕が……好き……?」
半ば呆然と呟いた僕の言葉に呼応して、腕の中のミスティアが頷く。
何かを口にしようとしてはいたみたいだが、ぐしゅぐしゅと鼻声で喋るに喋れなかったようである。
自身の呟きと、彼女の応答。
それは、つまり――。そっと腕の中のミスティアを抱きしめる。
びくりと彼女越しに見える翼が震えたように見えた。
「……ごめん、さっきは嫌な想いさせちゃったね。それと、有難う。
――こういうのは男から言うもんだって、自分で決めてたはずなんだけどなぁ……先を越されちゃった」
相変わらずぐしゅぐしゅと鼻を啜りながらも、ようやく僕を見上げてくれた。
目元が早くも赤くなりつつあるミスティアに、今出来る精一杯の微笑みを返す。
「言うのが遅れちゃったけど、僕はずっと、ずっと前から君の事が好きだった。
それでその、色々と順番とか、そういうの滅茶苦茶になっちゃったけど。
……僕と、付き合ってくれませんか、ミスティア」
「……うん……うん!」
その時僕の目に映っていた彼女がどんな表情をしていたかは――僕だけが知り得る秘密である。
セイレーンの話というものは、正確にはもっと違う内容であります。
しかし、○○が知っているのはラノベやゲーム等に付随する改変されたお話や設定。
共通項は、歌う事で個人や船舶を引き寄せ、海の底へと沈めてしまう事。
Megalith 2016/02/03
「この辺で良いかなー」
魔法の森と人間の里の間にある街道沿いで、引いていた屋台を停める。
太陽は西へと沈みかけており、辺りは薄暗く、日が短くなっている事を実感する。
うだるような暑さが続いた今年の夏も、気が付けば秋へと移り変わっているみたい。
「さて、準備準備ーと」
車輪に車止めを噛ませて固定、今日の営業の準備を始める。
「~♪」
歌を歌いながら準備を進めていく。
仕込みは日中にほとんど終わらせているが、日替りの献立はいつも開店準備中に決めている。
今日は山菜が沢山採れたから、炒め物にしようかな。
でもでも、天ぷらも捨てがたい。
こうして悩んでいる時間はとても楽しく、あっという間に時間が過ぎてしまう。
気が付けば日は完全に落ち、周囲は暗闇に包まれている。
そろそろ開店としよう。
のれんを掛けに表に回った所で、人間の里方面からふらふら歩いて来る人影を目にする。
顔は俯いており、表情は見えないが、足取りに力強さは感じられず、今にも膝から崩れ落ちそう。
どこを目指しているのかな。
太陽が落ちた後、多くの妖怪が活動を始める。
このままほっつき歩いていたら、間違いなく妖怪の餌食になるだろう。
まあ、この辺は街道も敷かれており、周囲も開けている為、そうそう妖怪に襲われる事はないと思うけど。
この先森の入り口に近づくにつれて危険は増してくる。
もしかして死にに行くつもりなのかな。
そうであったとしても、自分には関係のない事。
早々にのれんを掛け、調理場へと戻る。
仕込みの続きをしないとね。
歌いながら仕込みを続けている私の耳にも、微かな足音が聴こえてくる。
近くを先程の人間が歩いているのかな。
気にせず仕込みを続けていると、先程まで聴こえていた足音が止んでいる事に気付く。
ふと気になって調理台から顔を上げる。
のれんの先に人影。
さっきの人、お客さんだったのかな?
だけどのれんの下から見える足は一向に動かず、立ち止まったままだ。
初めてだから入り辛いとか。
もしお客さんだったとしたら、わざわざ人間の里から歩いて来てくれたんだ。
出迎えなければ失礼というもの。
「よいしょっ……と」
歌を中断し、調理台を離れる。
外に出ると、屋台の前には一人の男性が立っていた。
月明かりに照らされた顔は、頬がこけており瞳に生気はない。
まるで、世の中の全てに絶望してしまっている様な表情だった。
目の前に現れた私に対して、彼は虚ろな視線を寄越す。
よく見ると、瞳に涙が浮かんでいた。
……どうしよう。
大人の男の人が泣いている場面に遭遇した事がない為、どう対応していいのかがわからない。
と、とりあえず商売の基本は笑顔って言うし、笑っとこうかな。
私が混乱に陥っている最中、不意に彼が言葉を発する。
「さっきの歌は君が歌っていたの?」
「う、うん」
いきなりの質問に驚いてしまい、少し返答に詰まってしまう。
「そうなんだ……」
それきり顔を俯かせ、黙ってしまう。
えぇっ!? 私何か変な事言った?
これ以上彼を刺激してはいけないと思い、しばらく立ち止まっていると、
微かに鼻をすする様な音が聴こえてくる。
「……くっ……ひっく」
「!!?」
どうしよう!? 事態が悪化した!!
流れる涙を拭う事もせず、ただ泣き続けている彼と、呆然と突っ立ってる私。
こんな所、誰かに見られたら……
噂は尾ひれが付きまくった上で、幻想郷中を駆け巡るに違いない。
それだけは何としても阻止しなければならない。
それに、何となくだけど、この人を放っておいてはいけない様な気がした。
まずは人目のつかない所へ連れてこう。
「あの……とりあえず、座らない?」
何とも締らない誘い文句で、私は屋台へと案内した。
客席に座った彼と、調理台を挟んで正対する。
嗚咽を漏らす程に泣いていた彼も、少し落ち着きを取り戻したみたい。
ただ、表情は依然暗いままだ。
「どうぞ」
酒を注いだ徳利を渡す。
「……あ、ありがとう」
何か考え事をしていたのか、少し間を置いてから返事をして、酒を受け取ろうとするが、
「ありゃー」
「ご、ごめん」
彼は手を出す際に目測を誤ったのか、徳利に手をぶつけてしまう。
衝撃で私の手から離れた徳利は、調理台の先にある客席の天板に落下する。
「大丈夫? 服に掛かってない?」
「大丈夫。ごめんなさい、折角注いで貰ったのに……」
「気にしないで良いよー。私のおごりだし」
幸いな事に中身が零れただけで、徳利自体は割れていない。
布巾で濡れた部分を拭いながら、改めて酒を注いで渡す。
「どうぞー」
「ありがとう」
今度はしっかりと受け取り、猪口へと注いだ後、一口含む。
「……おいしい」
「でしょう? この前お客さんから貰ったんだー」
「お客さんに貰ったもの商売に出すのか……」
「えっ、普通じゃないの!?」
「普通ではないかな……おいしいけどね」
余程気に入ったのか、彼は徳利をすぐに空にしてしまう。
「おかわりいる?」
「いいの?」
「もちろん。徳利、取って貰っていい?」
彼は周囲をきょろきょろと見回している。
徳利ならすぐそこにあるのに……って、あ。
自分の能力を今更になって思い出す。
「あのさ、もしかして目が見えづらくなってたりする?」
「!? うん……」
「あーやっぱりかー」
「どうしてわかったの?」
「実はね……」
私は自分が妖怪である事と、私の歌の効果について説明する。
聞いている間、特に驚いた様子は見せなかった。
急に目が見えづらくなったら、もっと動揺するかと思うんだけど……
元々目が悪かったとかかな?
あんまり詮索するのも失礼だと思い、口には出さなかった。
しかし、まさか自分の能力すら忘れてしまうとは……
鳥頭などと周りからからかわれているが、こうなると認めない訳にはいかなくなってくる。
これも全て紅白の巫女の所為だ。
月が隠れた夜以降、夜に人前で歌う事を禁止されている。
まあ、誰かに聴いて貰う為に歌っている訳じゃないし、聴かせた所で煙たがられるだけだから、困る事はないんだけどね。
ただ、頭ごなしに命令された事が腹立たしかったので、腹いせに人間の里で歌いまくってやったら、
速攻で霊夢に見つかり酷い目に遭わされた。
以降、人間の里は出入り禁止になり、人前で歌う機会は失われた。
それから、この能力を意識する機会はほとんどなくなってしまっていた。
足音が聞こえた時点で歌うのやめておけば良かったな。
霊夢にばれたらただじゃすまないだろう。
「さっきうまく受け取れなかったのも目が良く見えなかったからだよね? ごめん、謝るから霊夢にだけは言わないで~」
泣きそうになりながらに懇願する私に、
「えーと、大丈夫、だよ?」
何とも頼りない語調で、約束をしてくれた。
「そういえば、さっき私の歌について聞いてきたけど、何かあった?」
屋台の外で遭遇した際、開口一番に問われた事を疑問に思い訊いてみたら、
「げほっ、がはっ、ごふ」
おもいっきりむせさせてしまった。
「大丈夫!? ごめん、訊いちゃ駄目な事だった?」
「うはっ、いやっ、全然……」
あらら、お酒が変な所に入っちゃったかな。
「お水いる?」
食器棚から取り出した湯飲みに水を注ぎ、彼に手渡す。
「かはっ……ありがとう」
咳が止んだ所で、水を口に含む。
だいぶ落ち着いてきたみたい。
ただ、彼はそれきり黙り込んでしまった。
あーまずったなー。
普段は一見さんへの干渉は最低限に止めている。
話し掛けられるのが嫌な人も居るしね。
ただ、今回は状況が特殊だったし、自分の歌に関係している所にも興味を引かれて、つい訊いてしまった。
「ごめんね。言い辛いなら無理して言わなくても大丈夫だよ」
少し残念だったけど、無理矢理聞くのは趣味ではない。
私の謝罪に対し、彼は少し驚いた顔をした後、
「ええっと、そうじゃなくって……」
恥ずかしそうに瞳を逸らせながら、
「君の歌声がすごく綺麗で、もっと聴きたいなって思ったから……」
私の歌を褒めてくれた。
私の歌、褒められちゃった。
妖怪達からは疎まれ、人間には聞いて貰う事すら許されない。
そんな生活が続いていた為か、誰かに自分の歌を肯定して貰う事なんて考えもしなかった。
元々誰かに聞かせる為に歌っていた訳ではないから、周りの反応にはそんなに興味がないつもりだったんだけど……
こんなにもまっすぐに、自分の歌を受け入れられたのは初めてだ。
褒められるのって、こんなに嬉しいんだ。
頬の筋肉が言う事を聞かず、勝手に緩んでいくのを感じる。
「あの、えっと……ありがと」
嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになってしまい、気の効いた言葉を返せない。
客商売、そろそろ馴れてきたと思ってたんだけどなあ……
私は恥ずかしさのあまりに黙り込んでしまう。
向こうも同じ気持ちだったのか、しばらく無言で互いの顔をちらちら伺う様な時を過ごす。
いい加減何か言わないと。
うまく働かない頭を無理矢理動かして出てきた言葉は、
「えっと……もし良かったら、もっと聴いてく?」
恥ずかしさを更に助長させる様な内容だった。
とは言え、一度出てしまえば引っ込める事はできない。
どうしよう……
何とか誤魔化そう、と考えていると、
「うん、是非」
笑顔で頷いてくれる彼。
出会ってから四半刻程。
憂いを帯びていた表情を、ようやっと変える事ができた。
それから、私は歌を好きなだけ歌いながら酒を出したり料理を作ったり、楽しい時間を過ごす事ができた。
いつもは普通のお客さんが居るから歌えないけど、今日は違う。
だって、目の前に居る彼は、私の歌を聞きたがっている特別なお客さんなのだ。
自分の歌を望んでいる人に聞いて貰う。
今まで知らなかった喜びを前に、自然と歌にも力が入る。
こんなに楽しく仕事ができたのは初めてだ。
彼も私の歌を聞きながら笑ったり、聞き入ったりしていた。
時折泣きそうな表情にもなっていたから、感受性が豊かのかな。
彼は最近ご飯もまともに食べられていないという事だったので、沢山の料理をご馳走した。
調子に乗って大量に作ってしまったが、綺麗に平らげてくれた。
相当お腹減ってたんだなあ……
今日、他のお客さんは誰も来なかった。
開店してからずっと、彼と二人きり。
とっても楽しい時間。
気が付けば、夜半に差しかかろうか、という時間になっていた。
そろそろ閉店しないと。
胸に湧き上がる名残惜しさ。
他のお客さんに対して感じるものとは、同じ様で少し違う感覚。
何が違うのかは、考えてもわからなかった。
「ごめんね、そろそろお店閉めないと……」
折角楽しんでいた所に水を差してしまう形となり、声が段々尻すぼみになってしまう。
「そっか。ごめんね、長居しちゃって」
残念そうな表情を浮かべたのは一瞬で、
「今日は本当にありがとう。凄く、楽しかった」
満面の笑顔を向けて、お礼を言ってくれた。
その表情を見て、少し安心する。
「元気になった?」
「うん。えっと、そんなに元気なさそうに見えたかな?」
「見えたよ。放っておいたら死んじゃいそうだったもん!」
「そっか……ありがとう、助けてくれて」
「なにそれ? へんなのー」
軽口を叩ける程には回復したみたいだね。
彼は上着から財布を取り出し、勘定を払おうとする。
「お勘定は良いよ。今日は私のおごりだから」
「いや、悪いよ……料理もお酒も沢山頂いちゃったし」
「いいからいいから」
元々は私が連れ込んだんだ。
ここでお勘定を頂く訳にはいかない。
「でもなあ……」
「いいから! じゃあさ、今度また遊びに来てよ。その時はちゃんとお勘定頂くから」
「わかった。必ず来るよ」
「うん。私の歌、聴きに来てね。屋台、しばらくこの場所で営業してるから」
「わかった。今日はありがとう。ご馳走様でした」
のれんを掻き分けて外へと出て行く。
「ありがとうございましたー……って、名前、まだ聞いてない!」
大事な事を忘れていた。
急いで調理台を離れ、帰路についた彼を追い駆ける。
これは出会い頭に泣かれるという事件の所為で忘れてしまっただけだ。
私が鳥頭だからという理由ではない。断じて。
屋台から少し歩いた所で、改めて名前を聞く。
「ごめん、忘れてたね。僕の名前は○○だよ。君の名前は?」
「私はミスティアよ。宜しくね、○○!」
去り際の自己紹介。
本来なら一番最初にするべきなんだけど、出会いからして普通ではなかった私達にとって、とてもふさわしい形だと思えた。
「ありがとうございましたー」
今日は珍しく開店からずっとお客さんが途切れなかった。
商売しているとは言え、半分は趣味みたいなもの。
お客さんを積極的に呼び込む努力はしていないから、一日通して誰も来ない日も珍しくないんだけど、今日は特別忙しかった。
久し振りに繁盛したという事もあり、少し疲れたな。
「さて、片付けないと」
お客さんが使っていた食器を片付ける。
水がそろそろなくなりそうだから、汲んでこないと。
あれこれ考えながら食器を洗っていると、お客さんがのれんを潜って入ってくる。
「こんばんわ」
「いらっしゃいませーって、○○じゃん! こんばんわ」
○○を屋台に連れ込んでから二週間。
あれから週に一、二回程の頻度で遊びに来てくれている。
「ごめんねー今食器片付けるから、お酒先に出しちゃうね」
一升瓶から徳利に酒を移し変え、猪口と共に渡す。
「ありがとう」
にこりと笑って受け取る○○。
初めて会った時に比べて、表情は大分明るくなっている様に見えた。
「最近ちゃんと笑える様になってきたね」
「そうだね。これもミスティアのお陰かなあ」
「えぇ? 私何もしてないよ」
「何というか、ここに来る為に毎日働いている様なものだし」
「うちの屋台、そんなに気に入ってくれたんだ」
「うん。料理もおいしいしねー」
そうなのか。他の屋台に行った事がないから、自分の屋台がどれ位良いものなのかよくわからない。
でも、自分の料理の腕を褒められて、悪い気はしない。
「まあ一番大きな理由は、可愛い店主の歌が聞けるってとこだけどねー」
さらっと恥かしい事を言う○○。
うまそうに酒を飲んでいるその顔は、普段のそれと変わらない。
恥ずかしい事言ってるって、自覚してないのかな?
臆面なく口に出す事が良いかどうかはさておいて、せっかく褒めてくれているんだ。何か反応しないと。
「え、えと……ありがと」
こんな時に限って口がうまく回らない。
なんだよ! これじゃあ私が恥かしがっているみたいじゃん!
仕事をしている上で、酔っ払った客に容姿を褒められるという事は割と多い。
いつもみたいに適当にあしらえば良いはずなんだけど……
なぜか、他の人と同じ対応が、できなかった。
私の様子がおかしい事に気が付いた○○。
心配そうな視線を寄越してくるが、何か思う所があったのか、顔を俯けてしまう。
どうやら自分の発言が今更になって恥かしいものだと気が付いた様だ。
片や無言で洗い物を続け、片や無言で酒を舐める。
以前もこんな事あった様な……
一向に成長しない自分達に、少し可笑しくなってしまう。
○○も同じ事を考えていたのか、同じ間で吹き出していた。
場に漂っていたこそばゆい空気が緩和される。
洗い物も丁度終わったし、改めていつもの流れに戻すとしよう。
「お待たせ。さて、今日は何にしますか?」
私の料理をおいしいって言ってくれたんだ。
折角だから、存分に味わって貰おう。
にこにこしながら品書きを眺める○○。
その姿を見て、私の表情も自然と緩んでいった。
「ミスティア、酒が空だぞ~」
「あ、私も」
「あんた達もう少し慎ましやかにできないのかしら」
今日は魔理沙、霊夢の二人が来店している。
二人共たまにふらっと訪れる事があるけど、二人一緒に来るのは珍しい。
態度はふてぶてしいが一応お客さんだ。
徳利に酒を入れて二人に渡す。
「ありがとう。そういや最近店の場所変えないのね。何かあったの?」
酒を受け取った霊夢が何となしにという様子で聞いてくる。
私の屋台は場所を変えながら営業している。
場所の選定に明確な基準はない。なんとなくで決めている。
営業する期間も特に決まっておらず、飽きたら別の場所に移動する、という感じだ。
通常なら遅くても二週間に一回は移動している為、常連の人達は普段と周期が違う事に気づいている様だ。
理由は……○○にしばらくここに居るって言ってしまったから、移動し辛いという所が大きい。
ただ、場所を変える事に拘りはないので、居続けても別に問題はないんだけど。
「どうした? 男でもできたか?」
魔理沙が左手の小指を立てながら、下品な笑みを浮かべている。
一つ問題があるとしたら、ことあるごとに理由を聞かれる事ぐらいかな。
この手の質問はこの一週間で片手で足りない程されている。
以前別のお客さんに○○の事を素直に教えた時は、変な方面に話が行ってしまった。
最近はめんどくさいので、適当な事を言って流しているのだけど。
「だんまりか? 実はなあ、この前見ちゃったんだよなーお前が男と二人で居る所」
「いや、一人で来るお客さんも居るから、よくある事だよ」
常連客の中には、一人で来店する方も多い。
中には、楽しく話ができる関係の人妖も、結構居たはずだ。
私の反論を聞いても、魔理沙はにやついた表情を崩さない。
気持ち悪いなあ……
「いやー私は屋台の外で二人で話してる所を見たんだよ。お前、普段客が帰る時、わざわざ外に出て挨拶しないだろ?」
「んなっ」
○○を見送っている所を見られてたのか。
最初の来店の時、たまたま外に出て別れの挨拶をした事が、以降も私達の中で習慣となっている。
さすがに他のお客さんが居る時はしないが、○○は遊びに来た時大体閉店まで居てくれるので、何回もそのやりとりをしている。
その内の一回を、魔理沙に見られてしまったのだろう。
不覚だった……いや、別に何もやましい事はないから良いはずなんだけど。
二人の間の秘密めいたやりとりを暴かれてしまった事が、何故か面白くなかった。
「なんだよ! 見てたんなら声掛けてくれれば良いのに」
心がざわついていたのが言葉に出てしまったのか、少し口調が乱暴になってしまう。
そんな私を見て、魔理沙はおろか、霊夢までにやにやしている。
底意地の悪い奴等だ。
「そう怒んなって。相手は人間? それとも妖怪?」
「相手って何だよ……○○は普通の人間だよ」
「うっわ○○って……名前で呼び合う仲なの!?」
「向こうが○○って名乗ったから呼んでるの! いちいち突っかからないでよ……」
魔理沙が質問して、霊夢が私の発言の揚げ足を取る。
こうなるからこの話題には触れたくなかったのに……
「そんで、お前はその○○ってえののどこに惹かれた訳?」
「だからそんなんじゃないって! えっと、ここで初めて屋台を開けた時に辛そうな顔して前を通ったから、元気付けようとしたの」
「それからそれから?」
魔理沙、霊夢共に興味津々という感じで質問してくる。
魔理沙はともかく、霊夢もそういう話題に興味がある事が少し意外だった。
「その時に屋台を気に入ってくれて、それからちょこちょこお店に顔を出してくれる様になっただけだよ」
「「へぇ~」」
二人揃って同じ相槌を打つ。
うざったいなあ……
「じゃあ、あんたはその○○さんの事、悪く思っている訳じゃないのね?」
霊夢が少し身を乗り出し、興奮気味に聞いてくる。
「まあ、そりゃあね……私の料理も好きだって言ってくれてるし……」
「そっかそっか」
魔理沙がにやにやしながらしきりに頷いている。
絶対何か勘違いしてるだろ。
「はいはい! もうこの話終わり! 今日はもう閉めるよ!」
疲れてきたからそろそろ追い出してやろう、と声を上げた所で、のれんが掻き分けて新しいお客さんが入ってくる。
「こんばんわ」
「あ……○○! いらっしゃい!」
噂をすれば、という所か。遅い時間ではあるが、○○が来てくれた。
「ミスティア、今日はもう閉店かな?」
どうやら私の声は外まで聞こえていたらしい。
話がどの辺りから聞こえていたのかは、怖くて訊けなかった。
「ううん、まだ大丈夫だよ。いつものお酒で良い?」
徳利にお酒を注いで猪口と共に渡す。
「ありがとう、ミスティア。あの、お隣大丈夫ですか」
「どうぞー」
うちの屋台は手狭な為、客席は三人入れば一杯になってしまう。
○○は空いていた霊夢の隣の席に、相伴を断って腰掛けた。
「ミスティア、こちらのお二人は?」
「そっか、○○二人に会うのは初めてだもんね」
先に座っていた魔理沙、霊夢を紹介する。
「私は霧雨魔理沙だ。あんたがミスティアのつがいって噂の○○かい?」
「そんな噂流された覚えはない! んで、こっちが……」
「博麗靈夢よ。里の地鎮祭とかで、顔は見た事あると思うのだけれど」
「ああ、やっぱり博麗の巫女様だったんですね。いつもお世話になってます」
「こちらこそ」
狭い客席で互いに頭を下げ合う二人。
「二人は知り合いだったの?」
「僕の仕事の関係でね。まあ、直接お話するのは今日が初めてだけど」
「ふうん」
そうだったんだ。
そういえば、○○がどんな仕事をしてるか、知らなかったな。
「どうした? やきもちか?」
手酌で並々注いだ酒を一気に煽りながら、魔理沙が口出ししてくる。
「もうその話いいから……それよか、あんた達ももう少し呑んでくでしょ?」
「○○さんが来た途端にこの反応」
「やっぱりあやしいな……」
霊夢と魔理沙が肩を寄せ、ひそひそと囁き合っている。
「……」
距離近いんだから丸聞こえだってのに……
聞かせるつもりなのか? これ、そろそろ本気で怒っていいやつだよね!?
私が苛立ちのあまり手を震わせていると、二人が生暖かい視線を寄越して来る。
ああーーもーーーっ!!
「あんた達いい加減に……!」
「おおっとそろそろ時間なんだぜ!」
「じゃあ、後は若い二人におまかせして」
「「ごゆるりと」」
勘定を置いて早々に去っていく二人。
あんた達の方がよっぽど年下だろ、という言葉を掛ける間もなく行ってしまった。
逃げやがったな……
「ごめんねー騒がしい連中で」
「ううん、大丈夫。面白い人達だねえ……」
状況から取り残された○○は、苦笑いを浮かべながら曖昧な感想を述べてくれた。
今日は開店直後に○○が来てくれていた。
最近は仕事の都合で来られる時間が遅かったり、誰かが乱入してきたりで二人で居る時間が取れていなかった。
久し振りに、思う存分歌おう。
○○も今日はそれを楽しみにして来てくれている様だ。
早速いつもの酒を出しながら、歌を歌おうとしていた時、一人のお客さんが来店する。
「げ……射命丸文」
「げ、とはなんですか! 一応お客さんなんですよ!」
ぷりぷり怒りながら席に着く文。
『文々。新聞』の取材で訪れて以降、たまに顔を出してくれる常連さんの一人。
私は文字があまり読めないので記事は見ていないが、どうやら好意的な内容を書いてくれていた様である。
新聞を読んで来てくれたお客さんも居るので、感謝してはいるんだけど……
「あなたが○○さんですね! 私は烏天狗の射命丸文と申します。お噂、聞いていますよー」
突然現れて急に名乗りだした文に混乱しながらも、自己紹介をする○○。
ああ、やっぱり。
恐らく魔理沙辺りがあることないこと吹き込んだのだろう。
瞳が「何かあるんだろ? さっさと聞かせろよ」と輝いている。
「あ、一枚失礼しますね」
言うが早いか、私達二人をカメラを向ける。
「うーん、記事の表題は、『夜雀の密会!? 秘めやかに行われる真夜中のコーラスマスター』でどうでしょう!?」
「どうでしょう、って言われても、まず意味がわからない……」
来店して数分も経たない内に、場の空気を引っ掻き回し始める。
関わって良い事がある方が少ない妖怪だ。さっさとお暇願おう。
「あのー、食事されないなら帰って頂きたいのですが……」
「そんなに邪険にしないで下さいよー。ちゃんと頂きますって」
とりあえず、と言いながら酒と八目鰻の蒲焼と筑前煮を注文する文。
「どうぞ」
酒を徳利へ移し、文の前へと置く。
「ありがとうございます。それで~、実際の所、お二人はどういう関係なんですか?」
手酌で酒を注ぎながら、猫を撫でる様に甘やかな声で訊いてくる。
どういうって言われても、屋台の店主とお客さんとしか説明しようがない。
っていうか、今鰻焼いてんだから話しかけないでよ
「じゃあ○○さんにお聞きします。ミスティアさんの事、どのように思ってらっしゃいますか?」
文は私から視線を外し、隣の席に座っている○○へと体を向ける。
黙り込んでしまった私に見切りをつけ、○○に矛先を向けた様だ。
「そうだねえ……歌が上手とか」
「えーあれがですかー?」
「あれとはどういう事だよ! 失礼な天狗だな!」
「そういう事じゃなくって! ○○さんとミスティアさんはお付き合いされてるのかを訊いているんです!」
「あの質問からどうやってそれに繋がるの!?」
内容の飛躍っぷりに、思わず反応してしまう。
本人は面白そうににやにや笑っている。
どうして幻想郷の連中はこんなんばっかりなんだろう……
「ああ、そういう事ね。お付き合いはしてないよ」
「なるほど。その辺はまだこれからって感じですね?」
「うーん。僕は誰かに好かれる様な、大層な人間じゃないからなあ」
「……」
文は何とか言質を取ろうと質問を繰り返すが、全て同じ様な答えを返されていた。
なんだよ……その言い方。
なんでそんなに、自分を貶めるんだよ。
なんか、胸の辺りが、締め付けられる感覚。
これ以上聞いていたくなかったから、調理に集中し、彼等の会話から意識を逸らす。
黙々と工程をこなしている内に、あれだけ騒がしかった文は質問を止め、押し黙っていた。
期待していた様な話が聞けなかったのかな。
少し気まずい空気が流れる中、丁度良く蒲焼が焼きあがる。
「どうぞ」
文の席に八目鰻の蒲焼を出す。
「ありがとうございます。って、あ……」
私からの助け舟に、文が心底感謝した様な声を上げる。
ただ、何故か私の顔で視線が止まっていた。
「どうかしたの?」
「いいえ……えっと、○○さん、ちょっとミスティアさん借りて良いですか?」
「えっ? いや、僕は別に大丈夫だけど……」
おでんを夢中で頬張っていた○○は、虚を突かれた様な生返事を返す。
借りるって何よ?
そもそも、本人に許可取るのが一番最初でしょうが。
「じゃあ行きますよミスティアさん」
「ちょ、ちょっと」
客席を離れた文は裏側に回り込み、私の手を掴んで歩き始める。
「○○さーん、覗いたら二、三日立てない体にしますからねー」
しれっと恐ろしい事を言っている。
○○が顔を青ざめさせて、高速で頷いているのが見えた。
理由は良くわからないが、私は文に連行される事になってしまった。
「この辺で大丈夫でしょうか」
「いきなり連れ出してなんなんだよ、もう」
文に連れて来られたのは、屋台から一分程歩いた所にある木の下。
こんな所に連れてきて何をするつもりなんだろうか。
「ミスティアさん、顔、すごい事になってますよ」
こんなんなってますと、両手の人差し指で、自分の左右の瞼を思いっきり引き下げている。
「どうしたの? 何か嫌な事でもあった?」
「それこっちの台詞ですよ!! そうじゃなくて、ミスティアさん、○○さんの事好きじゃないんですか?」
「だからなんで皆そういう風にしたがるかなあ……」
「茶化してるんじゃないです。真面目に訊いてます」
普段の様子からは想像もつかない様な、真剣な表情。
そんな顔されたら、こっちもちゃんと答えなきゃいけないじゃん……
「えっと、正直な所、良くわからないよ……」
出会い方も普通とはかけ離れていたし。
「○○と一緒に居ると楽しいよ。でも、それが好きって事になるのかは、よくわかんないかな……」
私の言葉を聞いた文は、
「……はぁ」
表情にありったけの呆れを含ませながら、溜息を吐きやがった。
「何だよ! 真面目に答えたのに!!」
「全く二人揃ってそんなんだから進展しないんですよ!」
謝る所か逆に怒られる始末。
理不尽だ!
「いいですか良く聞いて下さい!? ○○さんはあなたにベタ惚れです。ほんっとどうしようもない位にあなたの事が大好きです!」
「はあぁっっ!? あんたが作ったあの最悪の流れから、どうしてその答えに行き着くんだよ!」
「あれ程わっかりやすい人間久しぶり見ましたよ。自分は駄目だから~とか言っていたのは、
あなたの事が好きだけど自分からは言い出せないからあの様に言っているだけです」
「ええと……」
「自分から言い出す勇気がないからって、あんな遠回しに好意を伝えるなんて。全く最近の人間は意気地がありませんね」
「あの……」
「あなたに関しては……まあ、浮いた話は今までもなさそうですし、気が付かなくても仕方がないでしょうね」
「失礼だな!」
「事実でしょう」
「む……」
「そんな事はどうでも良いです。ただ、彼に関しては、意気地がない以外にも何かしら事情はありそうですね」
「そうなの?」
「彼の話ちゃんと聞いてました? 彼、あなたの事こちらが引く位に褒めてましたよ」
そうだったのか。私が作業に集中して耳を塞いでいた時、そんな話になってたんだ。
「本人に聴こえる様な状況で周りが引く位に褒めちぎる事はできるのに、好意を伝える事はできない、というのは少しおかしいです」
「え、なんで?」
「一概に言う事はできませんけど、普通は相手が自分の事を褒めてくれたら、その人は自分の事を悪く思っていないって考えますよね?」
「うんうん」
「つまり、褒めるという事は、相手への好意の発露と捉える事ができます」
「ほうほう」
「これをさっきの○○さんに当てはめると、○○さんはあなたに好意を持っていると考える事ができますよね?」
「うん……」
「ここが要点になるんですが、あなたへの好意をあなたが聞こえる状況で話しているんです」
「……というと?」
「つまり、あなたに好意を抱いている事が伝わってしまっても問題ないと考えているんです」
「そうなの?」
「いい加減理解して下さいよ……」
「ごめんなさい……」
「あなたから行動して欲しいから、あえて聞こえる状況で話しているのかとも考えたんですが、それにしては言葉選びが直接的でした。
好きである事を隠さない上に、言葉にもできる。でも、相手に伝える事はしない。
ここから、何かしらあなたに好意を伝える事ができない理由を抱えている、と推測できる訳です」
「なるほど!」
そうだったのか!
やっぱり幻想郷最速ともなると頭の回転も速いみたい。
「あなたが彼の事情を垣間見た時、自身の心にどんな感情が湧いてくるのか。ここ大事なんで、覚えておいた方が良いと思いますよ」
○○の事情か……
最初屋台に引っ張り込んだ時も、酷い顔してたもんな。
それを知った時、私は何を思うんだろう。
「まあ、何にしても彼の事が嫌いでないのなら、しっかり捕まえておく事をおすすめしますよ」
気づいた時には、どこかに姿を消してしまっているかもしれませんしね、と小声で呟く文。
文としては可能性の一つを口にしただけだったのだろうが、何故かその言葉が耳から離れなかった。
「さて、せっかくの鰻が冷めてしまいます。そろそろ戻りましょう」
伝えるべき事は伝えたと言わんばかりに、私に背中を向け、そそくさと屋台への道を戻る。
勝手に連れて来た上に自分が戻りたいから戻るって、なんて自分勝手なんだろう。
でも、これだけは言っておかなきゃ。
「ありがとう文。私、ちゃんと考えるよ」
先を歩く文に、少し大きめの声で感謝を伝えた。
「どういたしまして。でも、あなた場合下手に考えても良い事がないので、直感に従って進んだ方が良いと思いますよ」
最後まで失礼な奴だった。
「あー酷くなってきちゃったなー」
猛烈に降る雨が、屋台の屋根を強か打つ音が聴こえる。
開店した頃はぱらつく程の小雨だったが、時間を追う毎に勢いを増していった。
風は弱い為、営業に支障はないが、こんな天気じゃあお客さんも来ないだろう。
今日は早めに店じまいしようかな。
のれんを回収する為、調理場を離れる。
傘を差して客席側に回ると、人間の里方面の街道に人影が見える。
その人物は傘も差さずにふらふらとこちらへ歩いてくる。
背格好に見覚えがあるな、と認識した瞬間、身体は勝手に動いていた。
一目散に駆け寄る。
途中水溜まりを思い切り踏みつけ、靴の中に大量の水が入ってしまったが、気にしていられない。
光が失われたと錯覚してしまう様な暗闇の中を走り続け、ようやく人影の下へとたどり着く。
「○○!」
「ミスティア……?」
全身ずぶ濡れになっている○○は、私に呆けた視線を寄越して立ち止まった。
「どうしたんだよ!? こんな天気なのに傘も差さないで!」
のれんをしまう時に傘を持っていて良かった。
○○の体を傘の下へと持ってくる。
最早下着まで濡れている様な状態だが、何もしないよりはましだろう。
足取りの覚束ない○○を引っ張って、屋台へと連れて行く。
まずは濡れた体を拭かないと。
九月も下旬となれば、朝夕は寒さを感じる程の気温になる。
このまま放って置けば、間違いなく風邪を引いてしまう。
寒い日に備えて、予め火鉢を用意しておいて良かった。
調理用のかまどから、火箸を使って木炭を移す。
熱を発した火鉢を持って、急いで客席へ。
「○○、服脱いで」
「……え?」
「いいから早く!」
もそもそと緩慢な動作で体を動かす。
服が水を吸って重くなっている所為か、思う様に服が脱げないみたい。
このままだと体力は奪われる一方だ。
恥かしがってなどいられない。
私は上衣の裾を掴み、勢い良く引き上げる。
○○はされるがままに万歳の体勢を取って、どうにか脱がす事ができた。
次は、濡れた体を何とかしないと。
「はい。これで体拭いて」
大きめ手拭を手渡そうとするが、○○は手を出してこない。
ただ、呆けた様に私を見つめている。
生気の感じられない瞳に、初めて会った時の事を思い出す。
せっかく、元気になってきたのに。
一向に動こうとしない○○に痺れを切らし、私は手拭を使って彼の頭を拭う。
体には力が入っていない様で、まるで抵抗が感じられない。
頭を拭き終え、顔を拭い、上半身へ。
一通り拭き終えるまで、彼は一切の言葉を発しなかった。
調理台へと戻り、自身の防寒用として常備している小さい毛布を取り出して、客席へと戻る。
毛布を○○の上半身に巻き付ける。
とりあえずこんなもんか。
さすがに下半身は、自分で何とかして貰おう。
「どうしたの○○? 何かあったの?」
○○の隣に腰掛け、正面から顔を見て問い掛ける。
「家族が、いなくなっちゃったんだ」
「え?」
「仕事クビになって、実家に帰ったら、もう帰ってくるなって」
「……」
「まともに仕事もできない様な人間は、もう必要ないって事なのかな」
「そんなこと……!」
○○の瞳から、はらはらと涙が零れる。
その姿を見た瞬間、私の意識は熱病に浮かされた様な感覚に陥った。
両手で○○の頬を挟み、自分の胸へと引き寄せる。
抵抗はない。
額を私の胸に寄せた後、両腕を頭へと回し、しっかりと抱き締める。
なんでこんな事してるんだろう。
自分が取った行動に対して、理由をうまく説明する事ができない。
ただ、この瞬間、○○を離してはいけない様な、そんな気がしただけだ。
今はまだ、それでいい。
○○がこの場から消えてしまわない様に、自身の手で捕まえていられれば、それで。
「……くっ」
私の胸の中で、震えながら嗚咽を漏らす。
ほんと、いっつも泣いてばかりなんだから。
泣いている○○を私が慰める。
なんか、初めて会った時とおんなじ状況になってるな。
あの時と同じ様に、彼が好きだと言ってくれた歌を歌い上げる。
いつもより曲調はおとなしめで、囁く様に。
私の歌で、どうか元気になって。
○○を抱きしめながら、泣き止むまで、ずっと歌い続けた。
「落ち着いた?」
「ああ……ごめん。君の歌を聴いて、少し落ち着いた」
「そっか。私の歌が、少しでも役に立ったみたいで良かったよ」
思わず口をついて出た言葉。
今まで生きてきて、誰かの役に立てて嬉しいなんて、思った事あったかな。
毎日暗がりで歌を歌っていた日々。
霊夢に調伏されて以降、人間を襲わなくなったり、屋台を開店したりと生活に変化が現れた。
でも、それらも全て外圧や自分の思惑が大きな理由を占める。
誰かの為に行動を起こすという事は、今回が初めてだった。
どうして○○の為に歌いたいって思ったんだろう。
「ありがとう、ミスティア。君のお陰で、僕はまだ生きていたいって思えるよ」
瞼は腫れ、目尻に泣き跡が目立つ、酷い笑顔。
そうか。
私は○○の事、守ってあげたいんだ。。
彼に仇なす全ての障害から、守ってあげたい。
○○には、ずっと笑っていて欲しい。
これが、好きって事なのかな?
確信は持てないが、恐らくそれに近い何かなんだろう。
漠然と、そう思えた。
「あ……」
うるさい程に響いていた雨音が聴こえなくなっている。
歌うのに夢中で気が付かなかったが、雨はもう上がっている様だ。
のれんを掻き分けて外へ。
厚く垂れ込めていた雨雲はどこかへと去り、空には大きな月が浮かんでいる。
明日は満月だっけ。
辺りに雲はなく、この調子なら明日は最高の月見日和となりそう。
そうだ、せっかくだから……
妙案を思いつく。
これで○○元気出るかも、と考えると、つい表情が綻んでしまう。
「どうしたの?」
そんな様子を見られたのか、○○は訝しんだ顔で私を見ている。
少し、恥かしかった。
「なんでもないよ。○○、明日の夜ってお店に来られる?」
「うん、大丈夫だと思う」
「そっか。じゃあ、明日のこの時間にお店に来て」
「わかった。でも、どうかしたの?」
「くふっ、秘密」
どうやって喜ばせてあげようかな。
明日の事を考えると、頬が緩むのを止められない。
そんな私を見て、○○は目を細めて笑っていた。
「こんばんわ、ミスティア」
「こんばんわ。ごめん、少し待たせちゃった? 」
「ううん、大丈夫。丁度来た所だよ」
約束の時間より少し早めに屋台に着いたはずなのに、○○はもう来ていた。
この手の約束事で、時間通りに来られた試しがない為、少し驚いてしまう。
○○真面目だなあ……
「今日はお店は休みなの?」
「うん、たまには休まないとねー」
私の屋台は基本的に定休日がない。
やりたければ休みなしで営業するし、面倒だったら休む、という感じだ。
趣味でやってるようなものだし、周りから文句を言われた事もないのでそのままにしている。
「今日は○○に私のとっておきを見せたげる!」
「とっておき? 何だろう、宝物とか?」
「ふふっ、まだ内緒。じゃあ、早速行こう?」
「わかった」
二人で夜の街道を進む。
並んでみて、○○とは身長が頭二つ分も違う事に気がついた。
話す時は、自然と見上げる形になる。
いつもとは違う距離感に、何故か恥ずかしくなってしまう。
道は街道を反れて鬱蒼とした森の中へ。
夜の森は多くの妖怪が活動しており、人間が一人で入ろうものなら、命の保証はできない。
そんな中でも、○○は文句一つ言わずに付いてきてくれる。
私の事、信頼してくれてるのかな。
そんな小さな事が、とても嬉しい。
「さて、そろそろかな」
木々の間を抜けると、
「……すごい」
視界の全てが、鈴蘭の花に彩られた。
月明かりに照らされた鈴蘭畑。
周囲は開けており、視界の全てが鮮やかな白と緑に覆われる。
花が咲き乱れた春に見つけて、幻想的な風景に心を奪われて以来、度々訪れている。
まさに私のとっておきである。
まあ、別に私が管理している訳ではないんだけどね。
一応畑の主みたいな妖怪には、今日来る事は話してある。
私達が来ている最中は、人払いしておいて欲しいとお願いしているから、今この光景は私達だけのものだ。
「どうよ○○!?」
並び立っている彼の顔を見上げると、
「……」
言葉を忘れてしまった様に、目の前の光景を凝視している。
聴こえるのは、虫達の声と、風が草木を撫ぜる音だけ。
自然が作り出す、圧倒される程の美しさ。
私達はしばらくの間、ただ立ち尽くしていた。
「すごい……すごいよ! ミスティア!」
○○は珍しく興奮しているみたい。
これだけ喜んでくれるのなら、連れて来た甲斐があったってもの。
「でしょ? でもね、まだ終わりじゃないよ?」
「え……?」
「ねえ、目、瞑って?」
顔に困惑の色を浮かべながら、恐る恐るといった様子で目を瞑る。
さて、ここからが本番だよ。
○○の後ろへと回り込み、背中からお腹の方へと腕を回す。
抱きしめられる様な体勢になった為か、○○が何事かこちらへ振り返る。
「まだ目を開けちゃ駄目」
再び前を向いた事を確認し、
「さあ、行くよ!!」
○○をしっかりと抱きかかえ、そのまま中空へと体を浮かせる。
さすがに男の人を一人抱えて飛ぶのはきついなあ……
でも、○○に最高の景色を見て貰う為には必要な事。
気合を入れ直し、高度を上げていく。
「みすてぃあ!?」
地面から足が離れ、上昇していく感覚に戸惑い、体を揺らす○○。
「いいから。私を信じて、目を瞑っていて?」
それきり黙って力を抜く○○。
私を信用してくれるのは嬉しいんだけど、体から力が抜けた所為で余計に重く感じる。
「ごめん、やっぱりちゃんと掴まってて!」
その言葉を聞いて、回された腕をしっかりと掴んでくれる。
前の方からは、くすくすと笑っている様な気配。
なんだよ……こっちは必死だってのに。
まあ、私の力不足が原因なんだから、○○に落ち度は一切ないんだけど……
そのまま上昇を続けて、自分が飛行できる限界に到達する。
さて、そろそろかな。
「いいよ○○。目、開けて?」
「うん……」
眼下には風にそよぐ鈴蘭畑、眼前には星空の海、頭上には満ちた月が浮かんでいる。
○○の息を呑む音が聴こえてくるみたい。
「どう?」
「……すごい」
「さっきからすごいしか言ってないじゃん」
「うん……でも、それしか言えない位、すごい」
「もう」
言葉で飾る事をためらう程の光景。
○○は微動だにせず、目の前を見つめ続けている。
私もここを訪れる度に見ているはずなのに、心の底が震えるのを止められない。
それほどまでに、目の前の存在は美しかった。
「月、綺麗だね」
「ああ……」
「触れちゃいそうだよ?」
「ああ……」
「もう!」
○○は心が完全に持っていかれている様で、生返事を返すばかり。
しょうがないなあ。
「えい」
「ミスティア!?」
○○を抱きしめていた両手の内、左手を離す。
一瞬体がふらつき、○○が不安の声を上げる。
何とか体勢を安定させ、自由になった左手で○○の右手を持ち、前へと伸ばす。
私から見て、右手が月の輪郭を支える様な位置で静止させた。
「月、触っちゃったね」
「……ああ」
私の意図を理解して、○○は輪郭を撫でる様に右手を動かす。
後ろから抱きついている為、表情を見る事はできないが、きっと笑ってくれているだろう。
「ミスティア……」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「最後にこんな景色が見られて、本当に良かった」
「? また連れて来てあげるよ」
「……うん。楽しみにしてるよ」
「うん。じゃあ、そろそろ降りよっか? というより、私そろそろ限界……」
「ご、ごめん!」
「大丈夫だよー。最悪○○を一回手放して、体勢立て直した後拾いに行くから」
「それだけは勘弁して欲しいかな……」
「よいしょっ……と」
ゆっくりと下降し、地上へと降り立つ。
人を抱えながら空を飛ぶのは中々に疲れる。
でも、無理してでもやって良かったと思える程の手応えがあった。
「……?」
気付いたら、○○の右手が私の左手に繋がれていた。
途中で恐くなって、傍にあった私の手を握ったのかな。
ごめんね、怖い思いさせちゃって。
地に足が着いて安心したのか、彼はその場を動かない。
私も、一心地付く為にその場を動かずに居た。
空に浮かんでいた時と同じ体勢で、しばらく時を過ごす。
よくよく考えたら、結構恥ずかしい事してるな。
飛んでいる最中は、○○を落とさない様に気を張っていた為、気にも留めなかった。
意識した途端、顔が急に熱くなってくる。
彼はまだ動く様子を見せない。
どうしよう、早く離れた方が良いのかな。
でも……
今日の私は、思考のねじが数本外れてしまっているみたい。
恥ずかしさを自覚してなお、離れる事ができないんだから。
○○は、嫌じゃないのかな。
繋いだままの左手に、つい力が入ってしまう。
「あ……」
私の不安を察したのか、○○は右手で強く握り返してくれた。
なんか、こういうの、すごくうれしい。
気持ちが通じ合った様な、そんな錯覚に陥ってしまう。
でも、体を離さないでいてくれるっていうのは、嫌じゃないって事だよね?
そんな都合の良い解釈を根拠に、私はしばらくの間、○○の背中に引っ付いていた。
気が付けば月は中天へと差し掛かっている。
夜半を過ぎると、妖怪は活動を活発化させる。
道中の安全を考えると、そろそろ帰らないと。
「遅くなると危ないから、そろそろ帰ろ?」
「うん、わかった」
引きちぎらんばかりの勢いで後ろ髪を引かれるが、諦めて腰に回していた右手を離す。
繋いでいた左手も離そうとするが、○○の右手に強く握られていて、解く事ができない。
「○○?」
「手、繋いだまま帰っちゃ駄目かな?」
「……うん!」
私も再度左手に力を込める。
「ミスティア?」
「なに?」
「ええと……その」
「なになに? どうしたのさ」
恥ずかしそうにそっぽを向きながら、○○は何かを言おうと口をもごもごさせている。
しばらく待っても、彼はあさっての方向を向いたまま沈黙している
握られた手に力がこもる。
緊張してるのかな?
こちらから問い掛けようか、と思った時、
「ええと、ごめん、なんでもない」
「な、なんだよ? 気になるじゃんか!?」
「ごめん。また今度話すよ」
なんだよー。
手をしっかり繋いでるから、恥かしくなっちゃったのかな。
ま、まあかく言う私も、余裕なんて隙間もない程緊張しているんだけどね……
しょうがないから、また今度、ゆっくり聞こうかな。
それにしても、今日は色々な発見があった。
○○と肩を並べて歩いたり、体に触れたりすると、息が苦しくなってくる。
でも、それは嫌な感じじゃなくて、わくわくする様な、むず痒い様な……
今まで経験した事がない感覚に戸惑いを覚えるが、それ以上にこの感覚をもっと味わいたいという欲求が湧き出でている事に驚きを感じる。
もっともっと、○○と一緒に居たい。
もっともっと、○○の事を知りたい。
もっともっと、○○に頼って欲しい。
次々と浮かんでくる想い。
ひとつひとつ叶えた先に、きっと私の気持ちが見えてくるはず。
だから、急がず、ゆっくりと進んでいこう。
まずは、文の言っていた通り、○○がどこかに行かない様にちゃんと捕まえておこうかな。
「○○、明日もお店に来られる?」
「うん、必ず行くよ」
「約束だからね?」
「ああ」
そう、これで大丈夫。
大丈夫だと、思っていたんだ。
翌日、○○は屋台に姿を現さなかった。
以降二週間が経っても、彼の消息はわからずにいる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
里の中を当てもなくふらふらと歩く。
肩に衝撃が走る。
誰かとすれ違い様にぶつかったのか。
後ろで誰かが怒鳴っている。
怒りたいなら勝手に怒っていればいい。
あなたの事も、僕はいずれ見えなくなってしまうのだから。
目の調子が悪く、医者に診せた所、今後ほぼ間違いなく目が見えなくなると宣告された。
徐々に視界が狭まり、見える部分が段々と少なくなっていって、最後は視力を失う。
原因は不明。
同様の症状を訴えていた患者は、全員が最終的に失明したらしい。
最近目の見え方が少し悪くなり、眼鏡の作成を依頼する位のつもりだった。
予想もしていなかった展開に、思考が追い付かない。
医者からは見えなくなった後の事も考えて行動する様にと伝えられた。
何をどうすれば良いのか。
誰かに相談しようか。
上司、同僚、家族。
まだ誰にも話せていない。
話した所で、どうなるというのか。
仕事場に病気の事が露見したら、間違いなく解雇されるだろう。
家族だって……望まれない子供だった僕は、成人した後、すぐに家を追い出された。
普通に帰省したって歓迎されないのに、病気の話なんてしたらそれこそ勘当されるかも知れない。
どうして僕なんだろうか。
僕が何をしたっていうんだ……
やり場のない怒りは、やがて悲しみへと変わっていく。
鼻の奥に刺々しい違和感、視界が涙に濡れる。
大の男が目に涙を溜めながらふらふら歩いている姿は、さぞ滑稽に見えるだろう。
そんな被害妄想じみた思考すら浮かんでくる。
僕はただ、当てもなく歩き続けた。
「ここ、どこだろう」
気が付けば里の外へ出てしまっていた様だ。
日は沈みかけ、辺りは宵闇に包まれようとしている。
街道は続いているものの、この先は妖怪が跋扈する森へと続いている。
森へはまだ距離があるとは言え、安全の保証はされていない。
戻ろうか、とも思ったが、家に戻った所で陰鬱な思考に囚われ続けるだけだろう。
もういっそ、妖怪にでも喰われてしまおうか。
破滅的な願望が頭を過ぎり、思考能力を奪っていく。
街道沿いを歩いていると、途中で怪しげな建物がある事に気が付いた。
あれは、屋台かな。
こんな辺鄙な所に店を構えるなんて、店主は相当な酔狂者なんだろうな。
店構えからして、恐らく赤提灯だ。
今はもう、何も考えたくない。
酒を呑んで、全て忘れてしまおう。
屋台へと歩みを進める。
近付いていくと、人の声の様なものが聴こえてくる。
これは……歌?
調子っぱずれで、歌詞も理解し難いが、心に染み渡ってくる様な歌声。
聞いているだけで、心の中にわだかまっていた感情が解けていく様な、そんな歌声。
先程とは違う目的で屋台へと近付いていく。
距離が近くなる毎に、よりはっきりと聞こえてくる。
どうやら女の子が歌っている様だ。
のれんを隔てて聞き入っていると、突然歌声が止んでしまう。
終わっちゃったのかな。
もっと聴いていたかったのだが、仕方がないか。
本来の目的を達成すべく、のれんを潜ろうした時、自分の視界がぼやけている事に気が付く。
ああ、僕は今泣いているのか。
意識した所で、次々と溢れてくる涙を止める事ができなかった。
こんな顔で屋台に入るのはためらわれる。
しかし、歌声の主と、一言でも良いから話をしたかった。
そんな折、割烹着を着た少女が屋台の裏手側から歩いてきた。
彼女の背中には小さな羽がある。
恐らく妖怪の類いだろう。
少女は僕の顔を見て静止している。
どうしていいかわからないと、顔に書いてある様な表情だ。
まあ、号泣している成人男性と遭遇したら、普通驚くよな……
この少女が歌を歌っていたのかな。
このまま何も言わないと、追い返されてしまうだろう。
声を掛けないと。
「さっきの歌は君が歌っていたの?」
「う、うん」
こちらの質問に、おっかなびっくりという様子で答えてくれる。
どんな表情をしていいのかわからなかったのか、顔は半笑い。
視線は外されている。
店の前をうろつく怪しげな男に、前置きもなしに質問をされたら、誰でもそんな表情になるだろう。
「そうなんだ……」
恐らく不審がられている。
それでも僕は、彼女に伝えたかった。
あの歌声が、もう一度聞きたい。
あの歌声を聴き続ける事ができるのであれば、この目と引き換えにと言われても、きっと後悔しないだろう。
思いを言葉にしようと試みるが、出てくるのは涙ばかり。
「……くっ……ひっく」
「!!?」
ついには嗚咽さえ漏れる始末。
彼女もこちらを凝視して、瞳には驚きの色を浮かべている。
少女を前にして大人の男が声を上げて泣いている姿は、さぞ情けなく見えるだろう。
でも、どんなに情けなくてもいいから、早く、彼女に、伝えないと……
喉から声を絞り出そうとした時、
「あの……とりあえず、座らない?」
彼女の方から、手を差し伸べてくれた。
彼女の表情は相変わらず半笑いだったが、相手に対する思いやりが、確かに存在していたと思う。
少なくとも、僕は感じる事ができたんだ。
その後屋台で酒や料理をご馳走になり、歌も存分に聴かせて貰う事ができた。
今後も是非店に来て欲しいとも言ってくれた。
これからもあの歌声が聴けると思うと心が弾む様だ。
しかし、一つ気掛かりがあった。
妖怪である彼女の歌を聴くと、鳥目になってしまうらしい。
僕の場合は病気で視野が狭まっている為か、歌を聴く前後で目の見え方はほとんど変わらなかった。
彼女にはまだ病気の事を伝えていない。
酒を受け取り損ねた時も、彼女は自分の歌で視野が狭まっている所為だと思った様だ。
問題なのは、彼女の歌の能力が、病気の進行に影響があるかどうか。
僕は彼女の歌が原因で進行が早まったとしても構わないと考えている。
しかし、向こうが僕の思いを納得するとは限らない。
もし彼女が僕の病気の事を知ってしまったら、もう歌を歌ってくれないかもしれない。
僕が相手の立場だったら、少なくとも歌う事をためらうと思う。
彼女の歌は、最早僕にとって生きる希望と言って差し支えない。
それが聴けなくなってしまうのは、僕の精神に悪影響を及ぼすだろう。
この件は保留にしておこう。
いつか、必ず伝えられる時が来るはず。
僕は、この時問題を先延ばしにした事を、後に後悔する事となる。
当初考えていたものとは、別の理由を伴って。
それから、僕はミスティアの屋台に通い続けた。
本当なら毎日でも行きたい所だが、幾ら商売とは言えさすがに迷惑だろうと思い止まっている。
それに、自分の目の状態を考えると、少しでも蓄えは残しておいた方が良い。
無理にならない程度に通う様自制していた。
この数週間、ミスティアを通して色々な人と出会う事ができた。
何の能力もないただの人間である僕にとって、妖怪と話す事ができたのは非常に貴重な経験だ。
様々の人達と言葉を交わすのと平行して、ミスティアとも沢山の話ができた。
彼女の素敵な所を、知る事ができた。
日に日に彼女の事を考える時間が長くなる。
同時に、彼女に隠し事をしているという罪悪感が大きくなる。
ただ、罪悪感以上に心に引っ掛かる何かが存在していた。
恐らく、僕はミスティアに対して特別な想いを抱いているのだろう。
そういった経験は少なかった為、明確な答えは出なかったが、僕の心は間違いなくミスティアに惹かれていた。
いっそ想いを伝えてしまおうか、と毎日の様に考える。
しかし、もし断られた時、僕はどうなってしまうのか。
目の病気を抱えた上に、ミスティアという心の支えまで失ってしまったらと考えると、先に進む事ができない。
じゃあ、僕の想いを受入れてくれた場合は?
もしそうなったとしても、僕の目は近い将来見えなくなる。
その時、彼女はどう思うだろうか。
それでも共にあってくれるのか、拒絶されるのか。
それがわからないから、恐い。
出会った時から先延ばしにしていた問題に、こんな形で苛まれるなんて。
当初は考えもしなかった。
目が見えなくなる時がわかれば、覚悟が決まるかも知れないとも考える。
心の弱さを病気で埋め合わせ様とする自分に、愚かしさを覚えた。
ああ、ミスティアの歌が聞きたい。
今日も僕は、屋台へと赴く。
止まる事なく近づく刻限から、目を背ける為に。
今日、僕は大事なものを二つ失った。
一つは仕事。
ついに病気の事が露見した。
切っ掛けは日々の積み重ねだった。
視界の狭窄は、日常生活に少なくない影響を及ぼす。
小さな違和感も積み重なれば大きな歪みへと変化する。
不審に思った上司から問い詰められ、ついに白状する事となった。
その後、経営者へと報告が行き、即日解雇となった。
上司は猶予を頂ける様に進言してくれたが、却下された。
一ヶ月近く隠匿していた事が、悪質であるという理由で。
僕は反論する気も起きなかった。
ただ、僕を心配してくれた上司、同僚に対して申し訳なかった。
隠し事をしていた僕に対して、最後まで優しくしてくれた。
もしかしたら同情も含まれていたのかもしれない。
それでも、嬉しかったんだ。
もう一つは家族。
仕事を解雇され、収入の当てがなくなった僕は、実家へと戻る事に決めた。
僕を追い出した母も、事情を話せば家に置いてくれるかもしれない。
距離を取った事で、母も心境が変化している可能性もある。
職場での皆の優しさが、僕の気を大きくさせていた。
そんな浅はかな思惑は、鮮やかなまでに一蹴される。
門戸を叩くと母親が出てきて、こちらの話を聞くまでもなく、勘当を言い渡される。
何とか事情を説明しようと声を上げるが、無情にも戸は閉められる。
数時間粘ったが、二度と戸は開けられる事はなかった。
目的も当てもなく里を彷徨う。
思考が全く働かない。
意識は朦朧とし、これが夢であると言われても疑いなく受入れられる様な浮遊感。
しかし、門扉を叩き続けて腫れ上がった右手の鈍痛が、現実である事を痛切に訴えていた。
事実上崩壊していた家族関係に、明確な答えが提示されただけ。
傍から見れば、その様にしか映らないだろう。
僕としても、もう家族に未練はないつもりでいた。
拒絶される事も、想定していたはずだった。
ただ、そんなものは単なる虚勢でしかなかった事を、今更になって思い知らされた。
気が付いたら、全身が濡れていた。
どうやら雨が強く降っているらしい。
辺りは暗く、豪雨も相まって、一寸先も見えない。
視力を失ってしまったと、錯覚してしまう程に。
どこをどう歩いているのかもわからない状態。
それでも、進むべき道は、体が覚えている。
一つの想いを胸に、ただ歩き続ける。
暗闇の中でぼんやりと光る、その場所へと。
「○○!
「ミスティア……?」
「どうしたんだよ!? こんな天気なのに傘も差さないで!」
ああ、そうだ。
僕にはまだ、生きる理由がある。
慌てた様子で僕の腕を引っ張るミスティアを瞳に映しながら、僕はただ、涙を流していた。
目の前に広がる満点の星、風に揺れる鈴蘭、視界に入りきらない程の大きな満月。
昨日見せて貰った光景は、夢に見てしまう程、僕の記憶に焼き付いた。
最後に素敵なものが見られて良かった。
そんな僕の意識に同調するかの様に、僕の視力は失われた。
目の前に広がるのは、光すら届かない純粋な闇。
昨日ミスティアと別れて帰路に着き、布団に入って就寝したはずだが、視覚情報が全く入ってこず、どこに居るのかもわからない。
「結局、打ち明けられなかったな」
胸に湧き上がる罪悪感と後悔。
最後まで隠し事をしたまま、この時を迎えてしまった。
もう、会う事はできないのだろうか。
でも、今更会って何を伝えるというのだ。
仕事はない、生活の当てもない、目も見えない。
こんな自分に好きだと言われた所で、ミスティアとしても困るだけだろう。
このまま、死ぬまでじっとしていよう。
そうすれば、誰に迷惑を掛ける事もない。
全身から力を抜く。
もう意識が戻らない様願いながら、眠りに就こうとした時、
「○○、明日もお店に来られる?」
「うん、必ず行くよ」
「約束だからね?」
「ああ」
彼女との最後のやりとりが、脳裏を掠めた。
そうか、今日、店に顔出す約束してたんだった。
必ず行くと答えた時の、彼女の嬉しそうな顔。
あの笑顔を、僕は今、裏切ろうとしている。
「ミスティア……」
彼女と出会ってからの出来事が、頭の中で再生される。
その中で、彼女はいつも、僕に向かって笑いかけてくれていた。
あの笑顔を、僕自らが壊すのか。
そんな事、
「許されるはずがない……」
僕は何の為に生きていた?
目が見えなくなると宣告され、仕事を失い、家族にも見放された僕は、何に希望を見出していた?
全てに絶望していた僕を、心配して、元気付けて、寄り添ってくれたのは、一体誰だ?
「ミスティア……!」
このまま全てを諦めて死んでしまえば、彼女に対して不実極まりない。
生きなければ。
地面を這いつくばってでも、泥を啜ってでも。
僕を救おうとしてくれた彼女に、申し訳が立たない。
霞がかっていた思考が、急速に明瞭になっていく。
これからを生きる算段をつけると同時に、ミスティアに会いに行く手段を考える。
会って、今まで助けてくれた礼を言って……
そして、ミスティアに、想いを伝えなければ。
方針が決まった瞬間、体が動いていた。
布団から這いずり出て、周辺を手探りしながら玄関へと向かう。
「誰か……誰か、居ませんか!?」
ミスティアに会いに行く。
たとえどんなに時間が掛かっても、どんなに辛い思いをする事になったとしても、必ず。
僕は、これから為すべき行動を頭に描きながら、大声で助けを求めた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
○○が店に顔を出さなくなって二週間が経った。
始めのうちは、何か都合が悪くなって来られなくなったのかと思っていたけど、時が経つに連れて不安が増していく。
来店するお客さんに知り合いがいないか聞いてみても、色好い返事は帰って来ない。
必ず行くよって、言ってたのに。
○○の性格から考えると、その場だけ調子を合わせたとは考え辛い。
知り合ってからの期間は短いが、人となりについては理解しているつもりだった。
やっぱり、何かあったんだ。
そう結論付けた私は、自ら行動を起こす。
翌日、太陽が空に顔を出した頃合いを見計らって、私は○○を探し始める。
普段であれば眠りに就いている時間帯。
しかし、○○がどこで何をしているのかわからない以上、早い時間から行動した方が良いと考えた。
睡眠不足で力が入らない体を無理矢理動かし、朝靄の立ち込める空へと飛び立つ。
人間の里には実質出入り禁止になっている。
姿を見られるわけにはいかないから、高い位置からの目視しか探す方法はない。
見つけられる可能性が限りなく低い事は承知している。
それでも、このまま不安を抱えたまま生活するよりかは、行動を起こした方がましだ。
「○○、今どこに居るの?」
空高くから里を見下ろしながら、祈る様な言葉が唇から漏れ出ていた。
捜索を始めてから一週間。
人間が活発に活動する時間帯を中心に探すものの、それらしい影すら確認できない。
夜になれば高度を下げて探す事ができるが、出歩く人間自体が少なくなる。
成果は全く上がっていない。
今日も何の手がかりも見つからないまま、夜を迎えていた。
「少し休もうかな……」
細長く頼りない光を発する月の下、人家の屋根を借りて体を休める。
やっぱり、無理だったのかな。
空から探すのが難しい事位理解はしていた。
里に潜り込んで探す事も考えたが、人間に見つからずに探すのは困難だろう。
もし妖怪である事が露見すれば、何をされるかわからない。
どうしよう。
朝早く棲家を出て、一日中飛び回り、夜遅くに帰る生活を繰り返す。
それだけで、自分の体にも少なくない疲労が溜まっていた。
どうしてこんな思いをしてまで、○○を探してるのかな。
彼との関係は、あくまで屋台の店主と常連さん。
こんな血眼になって捜す程の関係性ではないはず。
お店に顔を出してくれると約束はしたけど、強制ではない。
○○にも事情があるだろうから、少し位顔を出せない時期があってもおかしくはない。
だから、わざわざ辛い思いをしてまで探しに出なくても良いんじゃないかな?
もしかしたら明日にでもひょっこり顔を出すかもしれないし。
この一週間は屋台も営業していないから、入れ違いになってる可能性もある。
当てもなく探したって、見つからなければ意味はない。
だったら、普通にお店を営業して、待っている方が賢明なはず。
十月半ばの涼やかな夜風が、私の頭を冷やしていく。
一人で勝手に盛り上がって、騒ぎ立てて、無駄な事しちゃったな。
今日はもう帰ろう。
そんで、明日はゆっくり休んで、明後日から屋台を再開して……
頭の中で明日からの行動を考える。
よし、じゃあ今日は帰ろう。
帰ろう。
早く……帰ろう。
早く……
早く……
「早く……○○に会いたいよ……」
頭ではこんな事しても意味がないって、無駄だってわかってるのに。
心が、全く言う事を聞かない。
早く、○○に会いたい。
会って、顔を見て、何でもいいから、話したい。
○○声が、聴きたいんだ。
会えなくなってもう三週間も経っている。
妖怪の永い永い生涯からすれば、一瞬とも言える時間。
だけど、今まで過ごした時の中で、最も長く感じられた時間だった。
○○と過ごした日々を思い浮かべる。
尋常な雰囲気でなかった出会い。
守ってあげたいと思った笑顔。
約束を破られた時の衝撃。
時を追う毎に増してくる焦燥。
そして、会いたくなる気持ち。
自己主張する様に脈動する心臓。
瞼の裏が熱くなる感覚。
そうか、
これが、
「好きって事なんだね……」
私の頬に、涙が一筋伝っていった。
○○の捜索は諦められない。
でも、このまま闇雲に探し続けていても、体力を消耗するだけだ。
何か、次の手を考えないと。
そんな事を考えていた折、どこからか弦を爪弾く様な音が聴こえてくる。
音は対面の建物から聴こえてくる。
どうやら酒場の出し物として演奏をしている様だ。
独特の調子に合わせ、歌声が聞こえてくる。
「そうか、歌だ」
○○が好きだと言ってくれた私の歌。
歌が聴こえれば、どこに居ても私を見つけてくれるかもしれない。
歌を、歌おう。
里の敷地内で歌うなんて、自らの存在を喧伝する様なものだ。
恐らく、霊夢の耳にも届いて、また私を調伏しに来るだろう。
それでも、もうこの方法しか、私には残されていなかった。
だるさを訴える体に鞭を打ち、勢い良く空へ飛び立つ。
なるべく広い範囲に聴こえる様に、思い切り息を吸い込んで下腹部に力を込める。
今日は月明かりが穏やかだから、星が良く見える。
あの人に届く様祈りを込めながら、私は空に向かって声を張り上げた。
「とぅいんくーとぅいんくーりーるすたー」
○○、聴こえてる?
「はうあーわんどゅーわっとゅーあー」
もし聴こえているなら、顔を見せに来て?
「あっぷあーばぶだ、をるどそぉはーい」
ここから私は、歌い続けているから。
「らいかーだいめん、いんだーすかーい」
想いを声に託し、星空へ祈り、願う。
「とぅいんくーとぅいんくーりーるすたー」
届くと信じて、この空に歌声を響かせる。
「はうあーわんどゅーわっとゅーあー」
あなたに聴こえるまで。
人間の里で歌を歌い始めてから数日。
予想していたよりも早く、事態が動き始めた。
早朝、棲家から出た私を、霊夢が尋ねてきた。
「おはようミスティア」
「おはよう。こんな朝早くにどうかしたの?」
用件なんて聞かなくてもわかっている。
恐らく里から苦情が入ったのだろう。
「あなた、夜に人間の里で歌を歌っているのは事実なの?」
前置きなしに問い質される。
まあ予想はしていたし、驚く事でもない。
ただ、思っていたより早く来られちゃったから困ったものだ。
まだ、○○がどこにいるかわかってないのに。
「沈黙は肯定と受け取るわよ」
終わらない夜の騒動以来見ていなかった、巫女としての一面。
声の調子は普段と変わらないのに、恫喝されている様な恐怖を覚える。
交戦もやむなし、かな。
私がどんなに頑張った所で、霊夢を退ける事はできない。
ここで下手に逆らって怪我をしたら、○○の捜索に遅れが生じる。
ならば、事情を話して、霊夢に見逃して貰う様頼んだ方が賢明だ。
「聞いて! ○○が最近店に顔を出さなくなったの!」
「それと里で歌う事に何の関係が?」
表情を全く変えずに切り捨てられる。
霊夢は両手に針と札を大量に握り締め、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
何だよ! まるで私がしょうもない言い訳をしようとしてるみたいじゃん!
「だから聞いてってば!!」
おっかない顔をしてこちらへと向かってくる霊夢を何とか宥める為、私は大声で説明を始めた。
「なるほどね。それで歌を」
説明する事十数分、霊夢はようやく矛を納めてくれた。
辺りは木々が倒れ、危険を察知して逃げ出した動物達の阿鼻叫喚が木霊している。
私自身は何とか無傷で切り抜けられた
抵抗しなくて本当に良かった……
「やっとわかってくれたね……」
「まぁ、あんたの言う事だしね……」
「どうして私の評価ってそんなに低いのかな……」
「まぁ、あんただしね」
「さっきと言ってる事が変わらない上に理由になってない!」
「まぁ」
「もういいから! それより、里で歌う事、見逃して欲しいんだけど……」
「それは駄目よ」
「えぇ!」
さっきは何か事情を理解してくれていた雰囲気だったのに。
「当たり前でしょ。鳥目になったって苦情がひっきりなしに届いてんだから」
「やっぱり駄目?」
「駄目よ」
まあ、そうだよね。
でも、これからどうやって探そう。
また空から地道に探すしかないのかな。
落胆を隠せずに肩を落としていると、
「あんたが自分で探しに行かなくても、私が見つけてきてあげるわ」
思わぬ所から、救いの声がもたらされた。
「いいの!?」
「いいもなにも、人間の事は人間に任せておきなさい。というより、何であんた早く相談しないのよ?」
「だって……自分の事は、自分でやらないと……」
「変な所真面目なのね……あんたみたいに群れをなさない妖怪は、誰かに助けて貰うっていう感覚が理解できないのかしら」
「そうなの?」
「そうなの。だから、あんたはここで待ってなさい」
「私も行きたい!」
「あんた話聞いてたの? あんたが里でどんな目にあっても、私は助けられないんだから」
「でも……」
「あんたの身に何かあったら、○○さんだって心配するわよ」
「……わかった」
「わかったのなら、大人しく待ってなさいな」
「うん。でも、ここじゃなくて屋台の方で待ってても良い?」
「里に近づかないのならどこでもいいわ。見つけたら、屋台に連れて行けばいいのね?」
「うん!」
「今日中に見つかるかはわからないわ。二、三日猶予を頂戴。あと、夜はさすがに探せないから、
陽が暮れてしばらくしたら棲家に帰りなさい」
「うん。ありがとう、霊夢」
「大人しくしてなさいよ」
そう言い残して、霊夢は人間の里方面へ飛び立っていく。
霊夢に助けて貰おうなんて、今まで誰かを頼った事がなかったから、全く思いつかなかった。
頼りにできる相手がいるっていうのは、とっても素敵な事なんだね。
胸の中に感じた事のない暖かさを抱きながら、私は霊夢が飛び去った方向を見つめ続けていた。
夜になった。
私は屋台の前に椅子を引っ張り出してきて、二人が来るのを待つ。
霊夢に捜索を依頼してから半日、未だ姿を現していない。
今日はもう無理なのかな。
そろそろ帰ろうか考えている時、
「待たせたわね」
「!!」
声が聴こえて振り向くと、霊夢が誰かの手を引いて歩いて来ていた。
「霊夢!」
思わず声を挙げながら全速力で近づく。
あの手を引かれている男の人……○○だ!
良かった、無事だったんだ。
彼は相変わらず顔を俯けながら、霊夢と共にゆっくりと近づいてくる。
まず何を話そうかな。
私との約束破った事、謝ってもらわないと。
それから、それから……
頭の中に次々と話したい事が浮かんでくる。
久し振りに会える期待感で、心がどうにかなってしまいそうだった。
「止まりなさい!!」
「……え?」
もう少しで顔が見られる、という距離に差し掛かった所で、霊夢に静止させられる。
聞いた事もない様な、大声で。
霊夢は○○を守る様に、私と○○の間に立ち塞がっていた。
「どうしたんだよ……○○と話がしたいんだ」
「落ち着きなさいミスティア」
霊夢は理由を説明せず、ただ私を諭すばかり。
どうして邪魔するんだよ!
○○が目の前に居るってのに!!
苛立ちを隠せない私に対し、霊夢は冷静に話し掛けてくる。
「いい、ミスティア? あなたはそこから動いては駄目よ」
「なんでさ!?」
「理由は今から○○さんが説明するわ」
そうだ、○○は……
霊夢の後ろに佇んでいる彼は、ただ前を向くばかりで、こちらとは目も合わせ様としない。
どうして……?
彼と過ごした日々が、頭の中に次々浮かんでくる。
もう、顔も見たくないって事なのかな……?
全身を駆け巡る血が、急速に冷やされていく感覚。
私は、その場から一歩も動けなくなっていた。
こちらの様子を見て、飛び出して来ないと判断したのか、霊夢が○○の前から退く。
そのまま、私を一瞥した後空へと飛び立って行った。
残されたのは、立ちすくんでいた私と、眼前を見据えるのみの○○。
どうすればいいんだろう。
私から話しかける事は、できそうもなかった。
「ミスティア……」
止まってしまった様にも感じられた時間を、○○が動かした。
「ミスティア……そこに居るの?」
○○は私の居る方向から、少しずれた所を見ながら、呼びかけている。
どういう……事?
「ミスティア?」
「○○!!」
背中に氷柱を差し込まれた様な寒気が走る。
先程とは、別の理由を持って。
「ミスティア、聞いて欲しい」
「うん」
早鐘を打つ心臓。
彼の状態から、一つの推測が頭を過ぎる。
どうか、間違いであっていて。
「ミスティア、僕は今、君の姿を見る事ができない」
ああ、やっぱり。
「目が、見えなくなったんだ」
私の予想は、裏切られなかった。
「初めて会った時から、僕は目の病に冒されていた」
出会った当初を思い出す。
「視界が徐々に狭まっていく病気で、やがて光を失ってしまう」
酒を渡した時、鳥目になっていただけではなく、元々目が悪かったからなんだ。
「大事な事を隠していて、本当にごめん……」
頭を垂れて、一心不乱に謝罪する○○。
驚愕、怒り、落胆、安心。
私の胸に様々な感情が去来する。
それら全てに答えを出す為に、どうしても聞いておきたい事があった。
「ねえ、○○」
「……うん」
「○○は、どうして私に病気の事、話してくれなかったの?」
「君に、迷惑を掛けたくなかった」
その言葉を聞いて、
「なんだよ……」
心を押し止めていた堰が壊れ、感情が奔流となって溢れ出した。
「なんだよ……○○にとって、私はその程度の存在だったって事?」
「ミスティア?」
「心の内も見せられない、大事な事も打ち明けられない、上辺だけの付き合いだったって事なの?」
「ミスティア、違うんだ」
「違わないじゃん!! 屋台に通ってくれたのも、料理とか歌とかが目的で、私の事なんて別になんとも思ってなかったって事なんでしょ?
なんだよそれ……私、一人で舞い上がって馬鹿みたいじゃん……」
「ミスティア、聞いほしい」
「聞きたくないよ!! ○○は私の歌が聴きたいだけだったんでしょ!? お店で話をしたり、一緒にお月見に行った事も、
全部、全部、迷惑だったんでしょ!?
「聞いてくれ!! ミスティア!!」
「っ……」
初めて聞いた○○の大声に、私は身を竦ませてしまう。
「ミスティア、僕は、君の事が好きだ」
「ふえええぇっっ!!?」
話の流れをぶった切る告白に、変な声を上げてしまう。
先程まで私を支配していた黒い感情達が、一瞬でどっかへ行ってしまった。
「君の歌声が本当に好きだったんだ。毎日聞いていたい程に」
「う……うん」
「でも、君の歌を聞くと鳥目になってしまう。もしかしたら、僕の目に悪影響を及ぼすかも知れない」
「……」
「それでも、僕は聞いていたかったんだ。君の歌が聞けるのなら、僕の目がどうなっても構わないと思った」
「そんなの……!」
「そう。君は優しいから、僕の目の病気を知ったら歌ってくれなくなると思って、言えなかったんだ」
「あ……」
そうだったんだ。
もし病気の事がわかっていたら、影響があるかも知れないと考えて、歌う事を拒否していただろう。
「伝えるのが遅くなってしまって、本当にごめん、ミスティア」
○○は私の方へ一歩一歩、確かな足取りで近づいてくる。
まるで、私の姿が見えているかの様に。
「目が見えなくなった時、ようやく気が付く事ができたんだ。君が支えてくれたお陰で、僕は生きる意味を見出せた」
顔がはっきり伺える距離まで近づいてくる。
その瞳は、蝋燭の様に白く濁っていた。
「僕は、君の事が好きだ。多分、初めて君の歌を聞いた時から、ずっと」
「~~~~~っっ!!」
目の前ではっきりと好意を伝えられる。
あまりの嬉しさと恥かしさに、脳が沸騰しそうだ。
でも、一つだけ気がかりがあった。
「約束……明日もお店来るって」
月見をした後に交わしたささやかな約束。
そして、その後の音信不通。
会えなくなってからの三週間、どうしていたのかが知りたかった。
「店に顔出すって約束、破ったままにしてごめん。翌朝起きたら目が見えなくなっていて……
それから、身体障害者の寄り合いで職業訓練を受けてるんだ。ここで手に職を付けてから会おうって思っていたんだけど、
時間が掛かってしまって……」
○○は私から二歩程の距離を開けた所で静止した。
改めて顔を見る。
こけた頬、窪んだ目。
表情は、初めて出会った時のそれより酷くなっていた。
目が見えなくなった事や、私との約束を破ってしまった事が、彼の精神に大きな重圧を与えてしまったのだろうか。
また、こんな顔にさせちゃった。
守ってあげたいって、ずっと笑っていて欲しいって、思っていたのに。
○○を守る為には、どうすれば良いんだろう。
私が傍に居て支えてあげれば良い?
それは当然だ。もう彼の事を離すなんて考えられない。
それだけでいいの?
まだ足りない。この世の全ての害悪、苦痛から、彼を遠ざける必要がある。
それを叶える為には?
……
私の中に一つの案が思い浮かぶ。
でも、これを実現させれば、○○の自由を全て奪う事になる。
しかし、私にはそれしか思い浮かばない。
○○は私の事を好きだって言ってくれた。
だから、私を、受入れてくれるはず。
「○○!」
「ミスティア!?」
地面を強く蹴り、離れていた距離を一気に詰める。
棒立ちになっていた○○を、正面から抱きすくめた。
「私、○○を攫う」
「えぇっ!?」
「○○はもう何もしなくて良い。私が生活の全てを面倒見る。お金だって私が稼ぐ。だから、○○は私の傍で、ずっと笑っていて?」
二人分の食い扶持位なら、私の屋台で稼げる。
目が見えなくたって、その分は私が支える。
決して不自由はさせない。
「おねがい、だから……」
「……」
「お願いだから……私の傍に居てよ!!」
「……ごめん、その提案は受入れられない」
「っ……」
明確な拒絶の意思。
心臓が鷲掴みされた様な狭窄感を覚える。
「どう、して……?」
絶望と焦燥が血流と共に全身へと広がる中で、何とか最低限の問いを言葉に出せた。
「ミスティア、僕は、君と並んで歩きたいんだ」
「……」
「しっかり働いて、お金稼いで、君と一緒に暮らしたい。胸を張って、一緒に生きてるんだって、実感したいんだ」
「でも、それじゃあまた辛い目に遭っちゃう……」
「それは仕方がない事だと思ってる」
「だって○○、今まで酷い目にいっぱい遭ってきたんだよ? もう、○○の悲しそうな顔、見たくないよ……」
「辛い事は沢山あったけど、そのお陰で今ミスティアとこうしていられるんだと思うんだ」
○○の両手が私の背中に回される。
抱きしめた事は数あれど、抱きしめられる事は初めてな気がする。
「目が見えなくなった時は本当に絶望したよ。でも、その時一番最初に頭に浮かんだのが君の事だったんだ。
君に想いを伝える為に、もしかしたら必要な事だったのかなって、今はそう思えるよ」
「何でそんな所だけ前向きなんだよ……泣き虫の癖に」
「そんな事もあったね」
「なんだよ! ○○の馬鹿! バカ! ヘタレ!!」
「全部事実だから返し様がないな……」
さっきまでの緊迫した雰囲気が、嘘の様に霧散していた。
背中に回されていた両手が肩に移動し、体が離される。
緊張した様な面持ちで、○○が口を開いた。
「ミスティア、ありがとう。君が居てくれたから、僕は今生きていられる」
「うん……」
「改めて、ミスティア、君の事が好きだ。伝えるのが遅くなってしまって、本当にごめん」
「本当だよ……」
「で、ミスティア。その……」
私の肩を掴んでいる○○の両手が、微かに震えている。
「どうかしたの?」
「えっと、君の答えが聞きたいんだけど……」
そっか、まだ言葉で伝えてなかったんだっけ。
というより、ここまでしてるのに気が付かないのかなあ……
「○○、鈍感さん?」
「ミスティアには言われたくないかなあ」
「なにそれ、失礼だよ」
「ごめんって。それで……」
「もう……」
いっつも暗い顔しててすぐ泣いて、大事な事言わないで一人で抱え込んで、女の子待たせて。
素直で優しくて、私の歌を誰よりも愛してくれる、そんなあなたが。
「大好きだよ。○○」
「……ありがとう」
目尻に涙を湛えながら微笑み、再び私の頭を胸に抱いてくれる。
やっぱり、泣き虫なのは変わんないね。
「そろそろ時間よ」
背後から聞こえてきた声に、思わず高速で振り向く。
「うえぇ、霊夢!? いつからそこに?」
私の後ろから五歩程離れた距離に、霊夢がしかめっ面で仁王立ちしていた。
「最初っから近くに居たわよ。もとより、あんたが変な事しない様に見張ってるつもりだったしね」
じゃああんな紛らわしい去り方しないで欲しいかな……
「はい。霊夢さん、色々ありがとうございました」
何事もない様に返答する○○。
気付いてたのなら教えてくれればいいのに……
「いいのよ。これで厄介事が一つ片付いたのなら、安いものだわ」
「あの……」
「ミスティア、あんたいつまで引っ付いてるの? ○○さん里に送らなきゃいけないんだから、さっさと離れなさい」
「えぇっ!? ○○、一緒に住みたいって言ってくれたじゃん!」
「それは仕事が見つかった後の話だよ……」
「そうなのっ!?」
「話の流れからわかるでしょ……」
霊夢が辛辣な横槍を入れてくる。
折角会えたのに、もうお別れしなくちゃいけないなんて。
そんなの、辛すぎるよ。
「やだ」
「え?」
「いーーやーーだっ!」
私を離そうとする○○の背中に手を回し、頑として抗議する。
「もう○○と離れるのやだ! ずっと一緒にいる!!」
○○の胸に頭を擦り付けると、くすぐったそうに笑う声が頭上から聞こえてくる。
なんだよ! 笑い事じゃあないんだよ!
「いい加減にしなさい」
「あいたぁっ!!?」
後頭部に鈍い衝撃。
あまりの激痛に背中に回していた腕を離してしまう。
「○○さんの話ちゃんと聞いてたの? 仕事が見つかったら一緒に暮らせるんだから、我慢なさい」
「わがまま言ったのは謝るけど、さすがに握り拳で殴るのは酷いと思う……」
「馬鹿は殴って言う事聞かせろって、昔の人も言っていたわ」
「昔の人乱暴だな……あと馬鹿じゃないし!」
「大丈夫?」
霊夢に涙目で抗議をしていると、見かねた○○が頭を擦ってくれる。
殴られた場所とは違う位置だったけど、それだけで痛みが引いていく様に感じた。
「大丈夫だよ! うへへー」
○○に慰めてもらっただけで、殴られた怒りも霧散してしまう。
やっぱり私馬鹿なのかな?
「さて、そろそろ行くわよ」
霊夢は○○の傍まで近づき、彼の腕を掴む。
「はい」
「……」
「じゃあ、またね、ミスティア。必ず迎えに行くから」
霊夢に引かれて歩き出そうとする○○。
もう、いっちゃうの?
でも、また会いに来てくれるって約束してくれたから、我慢しないと。
相反する思考がせめぎ合う中で、私の手は反射的に彼の上着の裾を掴んでしまう。
「ミスティア……」
「ごめん、ごめんね○○。わかってるよ、次はちゃんと来てくれるってわかってる。でもね……」
また、会えなくなってしまったら。
今度こそ、本当に攫ってしまうかもしれない。
「大丈夫だよ」
「ふぁ……」
裾を掴んでいた私の手を優しく握り、もう片方の手で頭を撫ぜてくれる。
「大丈夫」
○○の両目は、まるで見えているかの様に、しっかりと私の瞳を捉えていた。
たとえ視力を失ってしまっても、私を見つめてくれているんだ。
心にわだかまっていた不安が、ほろほろと解けていく様な感覚。
強張っていた私の手から、自然に力が抜ける。
「わかった、待ってるからね、○○」
「うん。必ず迎えに行くよ」
霊夢に手を引かれて、ゆっくりと歩き出す。
私は、二人の姿が見えなくなるまで、その場に立ち続けていた。
「ありがとうございましたー」
今日最後のお客さんを見送って、店を閉める。
「ううっ、今日寒いなー」
辺りに林立する木々は徐々に葉を減らし、本格的な寒さの到来を予感させる。
身に染みる様な寒さは、屋台の営業からすれば大歓迎だ。
あったかい料理と酒を求めて、赤提灯に引き寄せられる季節。
本来だったらこれからが繁盛する時間帯だ。
稼ぎの事を考えたら営業した方がもちろん良いんだけど、今日はもう閉店。
私の屋台は、二月程前から営業時間を変更している。
理由はごくごく個人的なものだったので、お客さんの反応が恐かったが、事情を説明したら皆あっさり納得してくれた。
寧ろ、屋台なんてやっている暇じゃないとか言われる始末。
食い扶持も稼がなきゃいけないし、好きでやってるからやめないけどね。
食器を片付け、余った食材を保存用の器に移し替える。
これは今日の晩御飯かなあ。
店内の清掃をしていると、のれんを分けて人が入ってくる。
あ、のれんしまい忘れてた。
「ごめんなさい、今日もう終わりなんだー」
声を掛けた後、入ってきた人影に顔を向けると、
「こんばんわ」
「なんだよー帰ってきたらちゃんと声掛けてよー」
私の最愛の人が、嬉しそうに笑っていた。
私達が再会した日以降も、○○は里の寄り合いで職業訓練を続けた。
週に二回程霊夢や魔理沙に連れられ、私の店を訪れる生活が一月程続き、ようやく仕事を得る事ができた。
目が見えない感覚への慣れや、新しい仕事を覚える事に苦労していた様だけど、お店に来た時はいつも楽しそうにしてくれていた。
やっぱり、○○は笑っている顔が一番かわいい。
その事を本人に伝えたら、真っ赤になって俯いてしまった。
そんな所もかわいいんだけど。
これを伝えたら顔を見せてくれなくなりそうなので、黙っている。
晴れて手に職を付けた○○は、約束どおり私の棲家で一緒に生活する事になった。
誰かと一緒に暮らすのは初めてなので、中々思い通りに行かない事は多い。
目が見えない人に対して、生活面で何を手伝う必要があるかについても、まだまだ試行錯誤が必要だ。
それでも、私は今、すごく楽しい。
一人では知る事のできなかったもの、体験できなかったことに溢れる毎日。
何より、○○といつも一緒に居られる事が、嬉しくてたまらない。
○○は、どう思っているのかな?
少し、聞いてみたくなる。
「ねえ、お仕事今日はどうだった?」
「うん、今日はね――」
はちきれそうな笑顔で、今日あった出来事を話してくれる。
私は、お店の掃除をしながら耳を傾ける。
こういうの、良いな。
これは、○○が頑張って仕事を勝ち取ったから、実現しているんだ。
もし私のわがままで彼を連れ去っていたら……
恐らく、彼の笑顔を二度と見る事ができなくなっていたと思う。
○○がどう思っているかなんて、こんな笑顔みたら、聞かなくてもわかっちゃうね。
「そうだ○○、帰ってきたらまずなんて言うんだっけ?」
「え? えっと……何か、恥かしいな」
「いいから! 早く、ね?」
「ただいま、ミスティア」
「おかえりなさい、○○」
軒先に隠れて見えないけれど、今日は綺麗な弓張月が空に浮かんでいる。
私は、満ちない月に祈りを捧げる。
こんな素敵な日々が、いつまでも続きますように。
最終更新:2016年11月02日 22:44