鈴仙9



うpろだ1281


 姫は突然こう切り出した。
「ところで○○、貴方も因幡たちと同じように私のペットよね」
 私は答える。
「申し上げるまでもなくそのとおりにございます、姫様」
 姫は間髪いれずにこのように仰った。
「外の世界ではペットには首輪を着けるんでしょう?」
 硬直している私を尻目に、姫の、その細く美しい手が、着物の懐に差し込まれ
 リールと錠前のついた赤い皮製の首輪を取り出したのであった。
「……」
 私は言葉を失った。それはあまりにもあんまりな光景であった。
美しく、知的で、清潔で、私のような愚鈍な凡人には手が届かないような
高嶺の花を絵にかいたような輝夜様が、こともあろうにかくのごとき
変態的な意味でマニアックなアイテムを嬉しそうに見せ付けながら
期待に満ちたような眼で私を凝視なさる。
それはまるで『有無は言わせない』と無言で語っているかのようであった。
「わー。○○にドン引きされちゃったわ」
 私が固まっていると姫様は目を細めて口を隠し、お茶目にもそう言われた。
 私は、脂汗をかきながら絶望的な反論を試みる。
「姫様、そんなものを何処で入手されたかはともかく、廊下で他者の視線をはばからずに
 そういった行為に及ぶのはやめていただけませんか」
 しかし当然ながら姫様はそんな私の意見に耳を貸すことはない。
「ねぇ○○、他人の性癖をとやかく言うのは許されざることだと思わない?」
 姫は真紅のリールを人差し指にぐるぐる巻き、首輪の末端部を唇に近づける。
それはあまりに扇情的な光景で、私の中では、姫に抱いていた神聖なイメージが
一段と崩れると同時に、短絡的にも、姫と低俗な行為に及ぶ想像が脳裏をかすめた。
「それより、またそんなものばかり買って、八意先生に怒られますよ」
「大丈夫、永琳も首輪の○○を見たいと言ってはばからなかったわ」
 なんと、この問題はすでに永遠亭のトップ二人のコンセンサスの得られたところであるようだ。
私の逃げ道は封じられた。カンナエ殲滅戦でのローマ軍のように、
私はじわじわと近寄ってくる姫を退けることかなわず、こんなことなら
姫のパソコンのセットアップのとき反対を押し切ってでも保護者機能をインストールして
オンラインショッピングなど不可能ならしめるのだったと後悔したが、後の祭りだった。


「愉しいわ」
 姫様の声は心底うれしそうだった。
「愉しいですか」
 その時の自分の声色は、おそらく不機嫌を直に出したような
そんなものであったはずだ。
姫は私がそんなとき、決まって、からかうように言うからだ。
「ええ、とても愉しいわ。貴方はそう思わないの?○○」
つまり、その言葉は私が心底滅入っているようなときに使われる。
 例えば今、私の首には真新しい、赤い革製の首輪が装着されており
灯篭に照らされた銀色の金具の照り返しは、妙に妖しい雰囲気を醸し出し
その首輪から伸びるリールが、姫様の手に握られているのだ。
場所は廊下、それも厨房と食卓を繋ぐ部分である。
姫様と私は、晩餐に出向くために歩みを進めているのだが、
よりにもよって、そんな時に、こんな場所を歩けばどうなるか
私も、おそらく姫様も、口に出しこそしないが、理解していたろう。
「私は不愉快です」
 あまり姫様に、というよりも、女性に対して強くものを言うのが
得意な性分ではないのだが、そのとき私ははっきりと告げた。
「不愉快?」
 姫様の歩行が停止した。その長く、美しい髪が揺れ、端正な御顔が
こちらを向く。
私はこの時の姫様の表情をどう表現したものか迷う。
嘲っているようであり、同時に自らの不満に同意を求めるような
そんな眼で、姫様は私を見つめていたのだ。

 灯篭に照らされたその表情は妙に艶かしく、私は一瞬言葉を続けるのを
躊躇ったが、ようやく出た搾り出すような声に対して、姫様は
「……ええ、私が恥ずかしいのも勿論ですが、姫様が―」
「それは」
 姫様の右の人差し指が私の唇を封じた。左手はリールを掴んでいるからだが
その右人差し指は、まるで蛇か蝸牛が這いずるがのごとく
「なぞる」というよりはもはや「なじる」というべきような積極性でもって
 私の顎を、喉を、胸を伝い、そしてそこで右に回り、来た時よりもやや
横にずれた軌跡をとりながら、私の頬に戻った。
「いいの」
 姫の細い指が私の首筋を伝うだけで、私は反論する気力、勇気、使命感
それらをすべて奪われた気がした。
姫様の手は冷たく、その接触はくすぐったかったが、同時に私に
何か後ろめたい悦楽を与えもした。
よくわからないが私は既にその虜であり、ものを考えるのも困難だった。
「……いい……の、ですか?」
 答えはすぐには返ってこない。姫様は私の頬で少しの間遊ばれていた。
あるいはそれだけであれば、死力を尽くして『もうおやめになってください』
の一言くらいはなんとかなったのかもしれない。
だが、腕一本の距離にある、姫様の、だが普段の姫様のものではない眼が
私を束縛していたのだ。

 数分ほどもそうしていたように感じたころ、ようやく姫様の唇が開いた。
「そう。だから」
 私の頬を撫でていた姫様の手は、あたかも名残惜しむかのようにゆっくりと
私の首筋、そして肩口を伝ってから、主の元へ帰っていった。
「○○、食事にいきましょう」
 そしてその手が戻るのと時を同じくして、姫様の眼からも、あの不満の色は
消えうせ、からかうような、自分の玩具を弄り回すような、いつもの顔に
戻っていた。
 私は姫様の曳くリールに抗うなど、もはや考えもしなかった。


 姫の気まぐれで○○が首輪をつけられて半日、
真紅のレザーがまだ眩しい新品の首輪をつけたまま
○○は夕餉に向かわされた。
 その様子に、永琳は目を丸くした後
変わった趣向ですね、とニヤニヤしながら
短く言っただけだった。
遅れてやってきたてゐは、○○にそっちのケが
あったなんて……と、クスクス笑いながら
いやらしい視線をこっちに向けてくるのであった。

 そして最後にやってきた鈴仙が
「……○○、それ、何?」
 襖を開けるやいなや、硬直し、口をぱくぱくさせてから
乾いた声でたどたどしく述べるのである。
 ○○にはなんとなくわかった。ああ、ここに居る面子で
自分に首輪をかけると予め知っていないのは
鈴仙だけなのだな、と。
「何って、その、姫様が、ペットには首輪をつけるものだからと」
 何かと『地上人の』自分を見下してくる鈴仙には、あまり
弱みを見せたくなかったので、シンプルに答える
つもりだったが、やっぱり恥ずかしくて、視線をそらして
うわずった声で答えるのが精一杯だった。
 顔が熱っているのが嫌でも解る。真っ赤なのだろう。
「首輪……ち、地上人はよくわかんないことするのね……」

 夕餉の間、自分と鈴仙の顔は真っ赤なままだった。
自分と鈴仙だけがちらちらと互いの顔を気にしていた。
両者とも食事がまともに口に入っていないのが明瞭だった。
 そしてそれ以外の面子は、その他の因幡たちも皆が
それを見て憎らしい笑みを浮かべ、押し殺した笑い声すら
発し、われわれ二人の様子を楽しんでいるようであった。

 夕餉が終わり、デザートの人参シェイク白腐乳風味を
どうにか半分ほど食べ終えたところで、何の前触れもなく
姫がこう切り出した。
「ねぇ、因幡。○○の首輪、どう思う?」
 俯いていた鈴仙はその言葉にビクッと身体を痙攣させ、
その真っ赤な瞳を見開いてひきつった声でこう述べた。
「ぇ……ええ!姫が付けられたんですよね、センス
 いいです、○○によく似合ってますよ!」
 姫は間髪入れずに切り返す。
「外の世界ではこうするらしいの。素敵よね」
 鈴仙のぎくしゃくした愛想笑いから勢いが削がれていく。
「外の世界にも素敵な文化があるものよね」
 そ、そうですね!鈴仙はそのように答えた。
○○は鈴仙の受け答えがなにやら罠に嵌められていく
兎のそれに近く思ったが、どうにも、この状況から
話を切り替えるうまい思いつきが出ず、ただ傍観
するに任せていた。それがいけなかった。

「あら、月兎の貴女にもコレの良さが解るの?なら
 話が早いわ。実はもうひとつ用意してあるんだけど」

 姫が取り出したるはもう一セットの赤い首輪。
鈴仙の血の気が見る見る引いていくのがありありと
見て取れる。
 ○○は、他の兎たちのニヤつきの意味を
理解し、そしてこれからどうなるのかもある程度
想像して、今しがた食べたものを戻さないように
するのが精一杯であった。


「なんで」
 鈴仙は問う。
「こんなことになってるのよ」
 震える声で鈴仙は問う。
「いや、それはその、やはり輝夜様と八意先生の命令ですから」
 ○○は慌てた声で応じる。
「やはり私としては逆らうわけには」
 いつ爆発するかわからない鈴仙の怒気を刺激せぬよう下手に応じる。
「冗談じゃないわ」
 鈴仙は震える声のまま、静かに言った。

 ○○と鈴仙は○○の部屋にいた。
いや、この表現は適切でなく、○○は客間のひとつを間借りしているので
ここは○○が寝起きする客間である。
廊下からは因幡たちが夕餉の後始末をしに往来する音が聞こえていたが
しばらく前にそれも止んでいる。
 二人は動こうとしない。動けないのだ。

 ○○の首につながれた真紅にきらめく皮製の首輪。
それと同じものが鈴仙の首にも巻かれ、そしてその両の首輪から
伸びる紅いリールは互いを繋いでいる。
その長さは30センチくらいしかなかった。
これでは、どちらが動いても窮屈でしかたがない。
ゆえに、二人は背中を合わせて座り込んでいた。
「貴方を見ていると虫唾が走って狂気の眼を使いそう」
という鈴仙の脅迫にあわせた結果である。
ゆとりのない拘束がこの形態を完成させた。

 しかし、背中同士が密着するのは、互いの姿が見えないこともあり
窮屈と同時に、二人に妙に官能的な感覚を与えもした。
○○は鈴仙の身体が震えていることを知っており、長い髪の一部が
自分の肩を伝って自らの項にしな垂れかかっている感触がやけに心地よかった。
鈴仙は、○○の呼吸が浅くなっていることを知っており、その自分より
大きな背中に、身体を預けることが、自分の中の何かを満たしながら傷つけていると感じた。

 そして、二人とも、その心音が相手に筒抜けだ。

 部屋は暗くなっていく。日はとうに落ち、障子を通して伝わってくる
やわらかい月の光が、部屋を照らしていた。
その部屋の中で、鈴仙がどんな姿なのか、○○にはわからない。
その光の中で、○○がどんな顔をしているのか、鈴仙にはわからない。
時間だけが過ぎてゆく。

 最初にこの部屋に来たとき、因幡の一匹が
「お二人ではご用意できないでしょうから、敷いておきますね」
といって、二人分の布団を敷いていった。
もっとも、リールでつながれているので、別々の布団が敷いてあっても
実際はかなり近寄らなければ眠れないだろう。
リールの長さは、互いの肩が触れ合う程度に短い。

「○○」
 鈴仙が唐突に口を開いた。
「なんでしょう」
 ○○はなるべく冷静に応じる。
「姫に気に入ってもらいたくて、こんな首輪買ったの?」
 声こそ、いつもの、鈴仙が怒った時聞かせる無感動なものに戻っていたが、
いまだに震える背中が、鈴仙の未だ動揺している心を○○に筒抜けにした。
「いえ、姫様がオンラインショッピングで、勝手に。私も抗議したのですが……」
 後ろのほうは調子が弱くなって、鈴仙に聞こえたか疑問だった。

 確かに、あの首輪を買ったのは姫様だ。
しかし、私は姫様の懐からまろび出たそれを見て、様々な下心を抱いてしまったし
姫様の挑発にも、むしろ快感を得てしまう、抗うことができなかった。
口は否定しても、脳では容認してしまったと言ってもいい。

「○○、嘘ついてる」
 また、鈴仙の声がわなわなと震えだした。
「波読んだ。動揺してる。嘘つくときの波長。どこまで嘘か知らないけど」
 しかし、その震えには、先程のような怒りはなく、むしろ、
「永遠亭の財布は全部師匠が握ってるのよ?姫様だけで買えるわけないじゃない」
 何かを訴えているような、そんな声だった。

「師匠も私の首輪姿が見たかった、と姫は仰いました」
「……今度は本当のこと言ってる」
「実際のところ、私にもわかりません。私の首輪が見たいといったのに、鈴仙様にもつけたり、
客間に放置されたり、お二人が一体何を考えてらっしゃるのやら」

 本音を打ち明けると、鈴仙は口をきかなくなった。これが本当だと解ったのだろう。


 一体どれだけ時間が過ぎたろうか。
やがて遠くの部屋からも、因幡たちの声が聞こえなくなった。
永遠亭が眠りに付く時間に近づいている。
月は相変わらず、障子を優しく照らしていた。

 鈴仙は不貞腐れた声だった。多分口をとがらせているだろう。
「○○」
「はい」
「今変なこと考えたでしょ」
「不可抗力です」

 鈴仙は不機嫌な声だった。多分眉間に皺を寄せているだろう。
「○○」
「はい」
「姫様に興味があってここに来たの?」
「はい。大部分は」

 鈴仙は確認するときの声だった。多分いつもの顔に戻ったろう。
「姫様にしか興味ないの?」
「そんなことはけして。八意先生、因幡の皆、みんな好きですよ」

 鈴仙は不安げな声で短く言った。多分視線を泳がせているだろう。
「私は?」
「好きに決まっているじゃないですか」

 鈴仙は少し苛立ったような声だった。多分いつも見せる困った時の顔だ。
「そうじゃなくて、永遠亭の仲間……じゃ、なくて、同じ姫のペットとして」
「綺麗で知的な先輩がいてくれるのは幸福ですよ」

 鈴仙は不安気な声だった。多分……私はこんな声で喋る彼女を知らない。
「……仲間を見捨てて逃げるような妖怪兎の女でも?」
「私が同じ境遇で逃げないと言い切れませんから」

 鈴仙は必死に隠しているが涙声だった。想像するだけで罪悪感で胸が一杯になる。
「地上人を見下す高慢ちきな月兎でも?」
「輝夜様や八意先生だって月人ではありませんか」

 鈴仙はしゃくりあげながら言うた。もういいよ、もうやめてくれ。
「○○は、私あんなに○○を莫迦にして、苛めてるのに、なんでその言葉が嘘じゃないの?」
「貴方が好きだからですよ」

「好きなの?」
「好きですよ」
「姫は?」
「勿論、姫が大好きです」
「っ……じゃあっ」
「貴方も同じくらい愛しいですね。困ったことに」


 二人はリールで繋がったまま、ひとつの布団で一緒になっていた。
○○の両腕の中で、彼の身体に包まれて、鈴仙はずっと泣きじゃくっていた。

「っ……だ、だって、○○っ……ってばっ、お父さんみた……なんだもん、
わだ……っく、私そん、なの駄目っ……っく、ダメだもん、地獄行きだも……ん、
こ、こんな幸せ……にっ……してたらいけなっ……だも……」


「結局それが狙いだったのですか?」
 朝ごはんの席で、輝夜にお吸い物を奪われながら○○は尋ねた。
「はい、大部分は」
「……盗み聞きしていらしたのですか」
 ○○はあからさまにいやな顔をする。
リールは外れたが、その首にはいまだに紅い首輪。
風呂に入るときくらい外して欲しいが、鍵は輝夜が握っているのではずれない。
 ピッキングでも練習したものか。
「ふふ、悪かったわね。でも、あの因幡には少し温もりが必要だったのよ」
 ○○の食器に箸を伸ばして、更に漬物を奪う輝夜。
○○は諦めたふうに、皿ごと輝夜に渡しつつ尋ねた。
「私からは八意先生にたっぷり甘えていらっしゃるように見えますが……」
 輝夜が眼を細める。
「ねえ○○。永遠亭に無いものって何だと思う?」
「ローカルエリアネットワークです」
「……貴方が仕事に欲しがってるものじゃなくて。わかった、今度曳いていいわ。
ヒントはね、○○、男性よ。それもある程度大人びた、他者の支えになれる」
 ○○は、解っている答えを更に適切なものにしようと、少し顎に手を当てて眼を瞑り、
開いたときには自分の食器から、果物が輝夜の皿に移動したことに気づいた。
「父親?いや、父性ですか」
「あたり。こんな広い屋敷に女ばっかり。あとは性別不詳の毛玉だけ。どう思う?」
「少女に適切な生育環境ではなさそうですね」
「そう。だから貴方が必要なのよ。私にはからかい相手として、あの因幡には支えとして。
そのためにはこの首輪、3980円以上の価値があると思わない?」
 具体的な値段を出されて、案外安物だったことに気づいた○○は少し残念な気がした。
しかし、いつものシニカルな顔にすぐもどり、苦笑しながら感想を述べた。
「まったく、姫様にはかないませんな」
「当たり前よ。私を誰だと思っているの」


「○○」
 背中からふいにかけられた声は、瞬時に実体として現れ、そして足音を小刻みに刻みながら
彼の背中へと飛び込んできた。胴を抱きしめた手がぐるりと半回転して、彼の前に現れる。
○○は、愛おしい彼女を抱き返し、頭を撫でながら尋ねた。
「何の御用ですか、鈴仙」
「少し甘えたかっただけ。いけない?」
「まさか」

fin







「え?姫がそんなことを言ってた?」
 永琳はびっくりして振り返った。
「ええ、朝食のときにそのように」
 永琳はあっちを向いたりこっちを向いたりしておかしいわねたしかとかブツブツと
呟きながら百面相していたが、10秒ほどで○○に向き直り、いつもの顔で言うた。
「一体何をお隠しに」
「なんでもないわ。お使いのメモは……」
「何をお隠しに」
「メモはかごの中よ」
「わかりました。いってまいります」
 詮索無用。いつものことだ。

「おかしいわね……姫確か『因幡も人間もすぐ死んじゃうから子孫作らせておこう』とか言って
名案だと思ったからセッティングしたのに、あれ、じゃあこの新郎新婦の衣装はどうすれば?」

 机に卒塔婆が叩きつけられた。
緑色の髪をした閻魔が永琳に向けて怒鳴る。
「オーケー永琳、そこを動くな!」
「ざ、ザ……ビショップ!?」

END


うpろだ1311


 まだまだ暑い夏が続く。
 暑い日が続くと、当然のように体調不良を起こす者も増える。
 今日も薬局は忙しい。
「こっちが解熱剤、こっちはビタミン錠剤です。
 食後に服用してくださいね」
「栄養剤十本と湿布薬、消毒液に包帯、あと塩タブ一瓶と。
 夏場の大工さんは大変ですねぇ」
「精力剤とゴムと…って、旦那、ちょっと消費早くないか?」

 午前の客もはけた頃、珍しい客がやってきた。
「いらっしゃい…あれ、サボさんが薬局に来るの、初めてじゃ?」
「あんたまでサボマイスタ呼ばわりかい?まあいいけど」
 夜に飲みに出ると、そこそこの確率ででくわす死神、小野塚小町だ。
 サボリ癖があるため、霊夢にサボさんやサボマイスタなどと呼ばれている。
「ははは、まあ、そのへんの文句は博麗神社にでも言ってくれ」
「やっぱり広めてるのは霊夢か…やれやれ。
 ああ、それはそうと、目薬をくれるかい?
 目に入ったゴミが取れなくってねぇ」
「あ、それでさっきから右目がぴくぴくしてたのか。
 どれ、ちょっと見せて」
 小町の目を覗き込み、ゴミを確認するが見当たらない。
 細かすぎるのか、よく見えない位置にあるのか…                                                                ガタン
「うーん、ちょっと見当たらないな…
 目薬よりも洗眼薬の方がよさそうだ」
「なんでもいいからさくっと頼むよ、これじゃ昼寝もできやしない」
「いや幽霊運べよ…」
 突っ込みを軽く入れながら、目にフィットする形の小さな器に薬を注ぐ。
「さ、こいつを目に当てて、上向いてまばたきして」
「ん…おお…これは気持ちいいねぇ」
「何気にうちの人気商品だったりするんだ。
 川とか湖で泳いだ後なんかに目を綺麗にするのにね」
「おっ、ゴミが取れたみたいだ、すっきりしたよ」
「そりゃよかった。
 他にも何か買って行くかい?」
「いやあ、とりあえず入り用なもんはないねぇ。
 体には自信があるからねぇ、両方の意味で」
 そういって、腕を組んで胸を持ち上げる。
「ははは、確かに見事だな。
 サボリに効く薬以外は必要なさそうだ」
「えっ!?ま、まさかそんなもんがあるのかい!?」
「あったらとっくに閻魔様が買いに来てると思うがね」
「あー、そりゃそうか……今日は真面目に仕事しとくか。
 それじゃ失礼するよ、ありがとさん」
「毎度。またそのうち屋台で」



 夕方、今日の仕事も終わろうかという頃、てゐがやってきた。
「あれ、どうしたんだ、こんな時間に」
「昼に鈴仙、来た?」
「いや、来てないよ。
 次は薬の補充のある明後日まで会えないんじゃ?」
「今日は永遠亭の方がお休みでさ、鈴仙がお弁当作ってこっちに来たはずなのよ」
「そんなおいしいイベントは無かったよ…」
「…○○、あんた死神と付き合ってたりする?」
「なんで俺がサボさんと…?」
「鈴仙が泣いてた。○○は兎よりも死神がいいんだって…」
「いやいや妖夢じゃなくててゐ、それがありえない事は…」
「分かってるけど、私じゃなくて鈴仙が思い込んじゃってるからさ。
 死神と何かあった?」
「んー…確かに昼頃に店には来てたけどな。
 目に入ったゴミが取れなくて昼寝も出来ないとか言ってたが」
「あのさ、○○…そのとき、小町の目を見た?近づいてじっくりと」
「ああ見た…って、え、まさか、そんなベタな!?」
「ベタだ!間違いない!とっとと誤解解いて来なさい!」



 まさかのベタ展開。
 波長を見ればすぐに分かるだろうに、そんなことにも気付かないとは…。
 急いで来たものの、永遠亭に着いた時には既に辺りは真っ暗だった。

「ハァ…ハァ…着いた…鈴仙…」
「あら○○、こんなところまで、のこのこ何をしに来たの?」
「ハァハァ…れ、鈴仙に会いに…って、姫さま顔が能面みたいn」
 ズダーン!
 いきなり足払いをかけられ、うつ伏せに倒されてしまった。
 普段ならなんてことはないのだろうが、ここまで走ってきたために足の踏ん張りが効かなかった。
「いたた…な、なにを゛っ゛!」
 そのまま俺の上に姫様が乗っかってきて、両手で俺の顎を思いっきり引き上げる…
 こ、これは機矢滅留・苦落血(キャメル・クラッチ)!
「ぐえええええ…」
「私のペットを弄んでくれたそうね?
 これはそのお礼よ!」
「ち、ちが…う…けふっ!」
「……」
 ドサッ
 とりあえず開放してもらえたようだ…。
「三途の川を彼女に渡してもらう前に、言い訳ぐらいは聞いてあげるわよ」
「実は…かくかくしかじかうーうーうまうま」
「…嘘よね?」
「つくならもっと現実的な嘘をつきますが」
「波長を見れば分かるはずよね?」
「それは本人に聞かないと…」
「…分かったわ」



 鈴仙の部屋の前に来た。
 中からはすすり泣く声が聞こえる。
 胸が、痛い。
 二度ほど深呼吸をして、中にいる鈴仙に声を掛けてみる。
「鈴仙、○○だけど」
 …返事は無い。
「鈴仙、入るよ」
 襖に手を掛けた時だった。
「ごめんね、○○…」
「え?」
「私ね、○○のこと好きだったの。
 毎週薬を補充しに行くのが待ち遠しかった。
 お祭のとき、肩を抱かれて、もしかしたら両思いなのかなって思っちゃった。
 今日なんて久々に平日休み貰えて、お弁当作って会いに行ったんだよ。
 あはは、馬鹿だよね、私。
 ○○には、ちゃんとした彼女いたんだもん。
 勝手に舞い上がって、何してんだろ、私…」
「鈴仙…」
「ごめん、○○…今日は帰って…ちゃんと薬の補充の仕事はするから…」
「黙って聞いてれば好き勝手言いやがって…」
「えっ…」
「いいか鈴仙!
 俺はお前が好きだ!
 この世界で一番お前が好きだ!
 お前の綺麗な赤い瞳が好きだ!
 長く輝くような髪が好きだ!
 すらっとした細い体が好きだ!
 ちょっとくしゃっとした長い耳が好きだ!
 普段しっかりしているお前が時折見せる暢気さが好きだ!
 からかった時の、ちょっとふくれてるお前が好きだ!
 時々物憂げに月を見つめているお前が好きだ!
 お前の一挙手一投足が俺の目を惹き付けて離さないんだ!
 俺にはお前しかいない!
 鈴仙、俺はお前を誰よりも愛している!」
「嘘…じゃあ何で…」
「…あー、勢い良く告白した後でなんだけど…店に来たときに波長ちゃんと見なかっただろ?」
「あ…うん…」
「あの時な、目にゴミが入って店に来た小町の目を覗いてただけ」
「え……ええええええええええええええええええええええええええええええええ!?!?」
「まあなんだ、いまどきそんな誤解する奴は漫画にだって居やしないぞ…。
 あ、気になるならサボさん本人に聞いてくれ。
 どうせ昼間はどっかで昼寝してんだろうし」
「ううん…○○は嘘ついてないもの。
 ○○…こんな天然ボケでも、私のこと好き?」
「そこも含めて大好きだよ、鈴仙」
「ありがとう、○○…
 …でも今日は帰って」
「え…」
「…さっきの告白、みんなで聞いてるんだもん、恥ずかしくて出られないわよ!」
「あ…」
 周りを見回すと、人型ウサ型のイナバに姫様、永琳先生、てゐ、文がニヨニヨとした顔で俺を見ていた。
「!!!!!!!!!!!!!!!
 こ、こっちみんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 顔からフジヤマヴォルケイノとは正にこのことだ。
「あはは、そういうわけだから、ね?」
「ん…わかった。
 それじゃ、明後日な。
 愛してるよ、鈴仙」
「私も、○○のこと愛してるよ」


「本当に会わなくていいの?」
 帰り際、姫様が俺に尋ねてきた。
「いいんですよ。
 泣き顔なんて、見ても見せてもお互い辛いだけだから」
「本当にそう思ってる?」
「…本当は、告白の時、襖開けていきなり抱きしめようかとも思ったんですけどね。
 でも、鈴仙の泣いてる顔なんか見たら、何も言えなくなりそうで。
 そしたら誤解も何も解けなくなる。
 でも正直、よく理性が持ったもんです。
 鈴仙に、とにかく早く会いたいって思ってたから」
「そうね、よく踏みとどまったと思うわ。
 なかなか出来る事ではないもの。
 しっかりした彼氏じゃない、鈴仙」
「えっ?」

 ぎゅっ

「○○…やっぱり我慢できなくて…」
「鈴仙…」
 後ろから抱き付いてきた、愛しい人。
 一目見たいのだが…
「あ、後ろは見ないで!
 今の私の顔、すごいことになってるから」
「目が真っ赤になってたり?」
「それはいつもどおり!」
「じゃあ月みたいにクレーターが?」
「泣いただけでどうしてそうなるのよ!」
「ははははは、良かった、いつもどおりだ」
「…うん、もう大丈夫。
 明後日、私のお弁当食べてよね」
「ああ、楽しみにしてる」
「それじゃあ、名残惜しいけど今日はこれで、ね」

 頬に感じるやわらかい感触。
 心臓がはちきれるかと思うほどの勢いで高鳴る。
 同時に離れていく、背中の愛しい人。

「後ろは見ないで帰ってよ?
 見られたら恥ずかしくて死んじゃうかも」
「それは困るな、俺の人生終わりじゃないか」
「もう、いちいち大袈裟なんだから…」
「そんなことはないけどな…ま、愛する人の頼みだからな。
 またな、鈴仙」
「うん、またね、○○」


 その日はどこをどう歩いて帰ったかも覚えていない。
 そんな状態で、よくも迷わず竹林を出られたものだと思った。
 だがそんなことよりも、鈴仙の手作りの弁当が気になって夜は眠ることが出来なかった。

 …あれ…何か心に引っかかってる…
 鈴仙のことじゃない…けど…すごく嫌な予感が…





 次の日の文々。新聞の一面は、俺の告白が丸々書き出されていた。
 薬局は臨時閉店せざるを得なかった。
 主に羞恥心的な意味で。





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「どうよ、今回のネタは?」
「いやぁ~、凄い反響で売上倍増でしたよ!
 また何かありそうな時は教えてくださいね!
 あ、これ今回の情報料です!」
「おーけーおーけー、まかしとくウサ」
 ひょい
「これは○○へのプレゼントに使わせてもらうわよ」
「「あ゛」」
「それはともかく、二人とも覚悟はいいわね?」
「「イエス、マム」」

「 幻 朧 月 睨 ( ル ナ テ ィ ッ ク レ ッ ド ア イ ズ )」

「こ、この程度で新聞が売れるなら安い…もの…で…(ガクッ)」
「な…んという…記者…根性…(ドサッ)」


新ろだ107


「ねぇ○○、今日はポッキーの日なんだって」
「鈴仙、幻想郷にポッキーは無いと思うんだが…」
「今朝の文々。新聞に載ってたよ?
 今日だけ香霖堂で売るんだって」
「はぁ、紫さんの気まぐれか。
 しかし、何だってポッキーなんか…」
「ところでさ、ポッキーゲームって何?」
「は!?」
「…新聞に名前だけ書いてあるんだけど、驚くようなことなの?」
「んー、まあ、ちょっと…」
「へぇ…そういえば、こないだ外から持って帰った中に、このポッキーってなかったっけ?」
「あ…あるけど…」
「じゃあ、やって見せてよ、ポッキーゲーム」
「…………」
「○○?」
「あー、て、手伝ってくれるか?」
「いいけど…?」

 俺は神無月に外界から持ち帰ったお菓子を入れている箱から、ポッキーを取り出した。
 封を開け、一本取り出す。

「で、どうやるの?」
「あー、とりあえず、そっち側咥えて」
「ふぁい、ほれへ?」
「で、このポッキーをだ、その、両側から食べ進む…」
「ふぇ!?」
「先に放したほうが負けな…」

 もう一方を咥え、食べ始める。
 鈴仙も素直に食べ始める。
 …どちらもポッキーを口から離す気は無く…

 ちゅ

「…まあ、こういうことだ。わかった?」
「……まだちょっと分かんないから、もう一回…」
「ん、そうか…」

 再び一本のポッキーを食べ始める俺と鈴仙。
 やはりどちらも離すことは無い。

「…ねぇ、まだ分かんない…」
「仕方ないなぁ…」

 三十分後、ポッキーはカラッポになっていた。

「ねぇ○○…」
「…さすがに分かったろ?」
「分かんないから、エアポッキーで…」
「それじゃあ、分かるまでしようか?」
「…うん」

 そしてまたたっぷり三十分、鈴仙とのキスは続いたのであった。



新ろだ112


昨日は夜遅くまで仕事をしていたせいか、強烈に頭が痛い。近頃はずっとこんな生活である。
今日も頭痛から始まる憂鬱な一日が始まる……はずだった。
「あ、おはよう○○。いつもこんな時間に起きてるの?もっと早く起きなきゃダメだよ?」
自分一人しかいないはずの家の中なのに、自分以外の声がする。しかも女性の。おまけに何やら良い匂いがする。
動かない頭を無理矢理回転させて考えていると、声の主が台所から姿を現した。

……俺はまだ寝ぼけているのだろうか。それとも徹夜のし過ぎで頭が限界を突破したのだろうか。
今、目の前に兎の妖怪がいる。腰の辺りまで伸びた銀色のような何とも言えない不思議な色をした髪と、狂気を操る赤い瞳を持つ月の兎。もっと言えば、自分の意中の女性。
鈴仙・優曇華院・イナバである。何故彼女がいるのか全く理解出来ない。
自慢じゃ無いが、自分は外の世界では今まで数えきれない位女性に告白されてきた。……罰ゲームという名目で。
そんな、悪い意味で女性に人気だった俺の家に女性がいる。しかも食事を作っているのである。今日中に幻想郷が消滅しないか心配だ。
「ねえ○○。聞いてるの?」
「いや、ちょっと待て。何故あんたがここに居る。」
「それはもちろん玄関から。」
「いや、そうじゃなくてだな。鍵掛けてあった筈なのに何故家の中に居るんだ。」
「鍵の波長をずらして逆位相をとって消しちゃいました。」
「そんなことも出来るのか。とか言ってる場合でも無くてだな。何勝手に人の家に入ってきてんのさ。それも無許可で。」
せめて許可ぐらいは取ってからにしてもらいたい。どこぞのパパラッチじゃあるまいし。
「え?許可なら貰ったよ?」
「いやいや、嘘はあきませんて鈴仙さん。」
「この前一緒にアクセサリー買いに行ったでしょ?その帰りに『俺と結婚してくれ。』って言ってきたじゃない。凄い真剣な顔で。」
「ああ……あれか……思い出しただけでも恥ずかしい……」
「あの時、考えさせて欲しいって言ったじゃない?その返事を言いに来たんだけどね……
 あの……私なんかで良ければ……ふ、不束者ですが……その……宜しくお願いします……」
「……マジ?」
「……うん。」
「……よかった……てっきり断られるかと……」
「うん……これからも宜しくね?あなた……」
「ああ、宜しくな。鈴仙。」


新ろだ171


今日の月は、見すぎるとちょっと危ない事になってしまう丑三つ時の永遠亭。
師匠の手伝いが終わって自分の部屋に帰る時だった。
廊下の奥に小さな人影。一瞬てゐかと思ったけど、感じる波長が違うし、長い耳が無い。
って、事は――

「○○?」
「ぁ、れーせんお姉ちゃん……」
「どうしたの? もう寝る時間でしょ?」
「うん、でも眠くなくて」
「それでも寝なきゃダメ。夜は危ないんだから」

特に、今日は満月だから妖怪も活発だし。
○○に限って外に出る事は無いと思うけど、あまり夜遅くまで起きていられると誰も面倒を見てあげられない。

「…………」
「……○○?」

○○の様子がおかしい。
眠くないと言うわりにはどこかぼんやりとしていて、それでいて視線はある一点を見つめている。
視線の先を追っていくと、永遠亭の窓を通して丸い月がこちらを照らしていて――っ!

「だ、だめっ!」

満月から○○を隠すように思いっきり抱きしめる。
師匠の手伝いをした後だったし、疲れていたんだと思う。無我夢中だった。
満月の妖気の影響力は人間にはそこまで無い、と言われていたけどすっかり忘れていた。
そもそもそんな事するくらいならば、光の当たらない陰に移動する方がよっぽど効率的だ。

「……っ」

急に○○が聞き取れない程の声をあげた。
気になって○○の方を見るけど、私が抱きしめているせいで顔が見えない。
でも引き離す気は起きない。引き離したくない。

「○○? どうしたの?」
「……ぉ……かぁ、さ……ん……」

――おかあさん。

確かにそう聞こえた。
○○は元々外の世界から迷い込んできて、里の方で保護されていたらしい。
それを師匠が里の診察に行った時に聞いて、そのまま引き取ってきた。
それからは私も含めて、永遠亭の皆が○○と一緒に楽しく過ごしてきた。

「……っ、ぅ……」

でも、○○は泣いている。私の胸の中で、お母さんを求めて泣いている。
私では、○○の寂しさは埋められない。
少しだけ、悲しい気持ちになった。

しばらくして、○○が私の胸から離れていく。私の服が涙でびしょびしょだ。

「落ち着いた?」

こくん、と頷いてくれた。

「……月を見てたら、おかあさんのことを思い出しちゃった」

そう言って、無理に笑う○○。泣いたせいで目が赤くなってて、私と同じになった。
やっぱり月のせいだった。
母親に会わせる事は出来るかもしれない。
でも、それは同時に○○を向こうの世界に帰すという事。
それを許すには、○○はここに長く居過ぎたと思う。
皆、泣いてしまうと思う。
私も、姫様も、師匠も、てゐも、イナバたちも、他の人も。
とても、悲しい気持ちになった。

「……○○」
「お姉ちゃん?」

○○から離れていったのに、私はまた抱き寄せてしまう。
月の光を受けているからか、今日の私は少しおかしい。

「……帰りたい?」
「え?」
「向こうに帰りたい? 帰ればお母さんに会えるよ。でも、私たちとはもう会えないよ」
「え、あ、う……」

意地悪な質問をしている事は自分でも分かっている。
私だってこんな質問されたら答えられない。

「○○がいなくなったら、寂しいよ……」

お姉ちゃんと呼びながら私の所に来て、構ってあげると嬉しそうな顔をしてくれる。
私だって嬉しいし、楽しいし、何より心が温かくなる。
だから、この温もりを離したくない。
○○を抱きしめる腕に力が入る。

「……だいじょうぶだよ」

○○がこちらに顔を向ける。
目が合った。

「――」

○○の眼は、綺麗だった。
何の濁りも無い、透き通った瞳。
自分のやろうとしていた事の過ちに気付かされた。
私と同じような罪を、○○と共有しようとしていた。純粋な○○に、罪を着せようとしていた事に。
私は、最低だ。

「……ごめん、忘れて」
「ふぇ?」
「部屋、戻ろっか」
「あ、うん」

○○から離れて、手を引いて部屋へと向かう。
二人で、ゆっくりとした足取りで廊下を歩く。
そんな中で突然、○○が私の方を向いた。

「僕、帰らないよ」

初めは何を言っているのか理解できなかった。

「れーせんお姉ちゃんと会えなくなるとさびしいから」

これはさっきの意地悪な質問の答えなのだと、理解するのに時間がかかった。

「だから、だいじょうぶだよ」


「それに、れーせんお姉ちゃんのこと大好きだもん」


彼の眩しいくらいの笑顔が、私の波長を乱した。
思わず目を逸らす。心臓がうるさいくらいに高鳴っている。顔だって何だか熱い。

――え、嘘。私、こんな小さな子にドキドキしてるの?

みんなが寝静まってる深夜で本当に良かったと思った。
この瞬間をてゐに見られたら、この先ずーっとからかわれるかもしれない。
意味だってそういう意味じゃない事だって分かってる。
大好きっていうのはほら、あの、友達的な意味、とか、家族的な意味、とか。
だから、私が最初に思ってしまったような"大好き"の意味とは違うって事は――違う。
何もおかしくない。私も今までどおりに○○を愛してあげれば良いだけ。
応えなきゃ。○○の"大好き"に応えてあげなきゃ。

「……うん。私も○○の事、大好きだよ」

握っていた手に力を込めながら応える。
返って来たのは、満面の笑み。
あぁ、だめ。一度意識してしまうと、どうしても頭から離れない。
何だか○○の笑顔を見ると変な幻覚を患ってしまったように、心臓がドクドクと大きく脈打ってしまう。
きっと満月の妖気のせいだ。そうでも考えないと私がおかしい事になってしまう。

「お姉ちゃん、おやすみなさい」

○○が立ち止まってそんな事を言い始めた。
何事かと思った。ここで寝てしまうのかと思った。

しかし、彼の後ろにあるふすまを見てやっと理解する。
気付けば○○の部屋に着いていたんだと。
握っていた手が離れていく。

「う、うん、おやすみなさい」

○○が部屋の中に入ってふすまを閉めるまでずっと眺めていた。
短い動作だったけど、○○は最後まで私に笑顔を向けてくれた。
そこでふと浮かんだのが、"大きくなったらお姉ちゃんと結婚する"って言葉だった。
○○と出会ってからは、その言葉を聞いた事が無い。
小さな子なら高い確率で一度は口にすると里から聞いてきた、と師匠が言っていた。
聞いた当初は、何て軽はずみな言動なんだろうと思っていた。
でも、今は。例えば○○が私にそんな事言ってきたら。

「……本気にしちゃうんだから」

自分で言っていてこれではまるで恋する乙女だと思ってしまった。やっぱり今日の私はどうかしている。
部屋に戻って早く寝た方が良いと思い、自室に向かう。
その足取りは、何故か軽かった。


最終更新:2010年05月27日 23:21