追田の地にある阿李亜(ありあ)集落にはかつて、いつからあるのかすら定かではない古い荒れ寺があった
守り人もおらず参拝する民もおらず、ただ時の流れのままに朽ち行くだけであった

だが寺の周辺に大豆畑を拓くようになると、この場所は近隣の農民たちの休憩地として賑わうようになり、
彼らはこの荒れ寺を「阿李亜半壊寺(ありあはんがいじ)」と呼び親しんだ


とはいえ、水害の絶えない追田の地である
この阿李亜集落も例外ではなく、いかに強靭な作物である大豆とて、痩せた土では十分な収穫も見込めず
たびたび食糧難に見舞われていた

これに胸を痛めた、歌人にしてこの地を治める庄屋である「伊桐 俳滅句(いきり はいめっく)」は、大豆の品種改良に乗り出した

痩せた土地でも十分な実りを得られる品種、根を深く広く張る水害に強い品種、それらを幾度も掛け合わせ続ける
そんな気の遠くなるような地道な作業を数十年と続けた結果、ついに理想的な大豆が完成した
伊桐俳滅句晩年のことである

のちに伊桐大豆(いきりだいず)と名付けられたこの大豆は、阿李亜集落のみならず、追田の地全域までまたたく間に広まり
以降、この地の食糧事情は大きく改善され、経済活動を活性化、主要街道として賑わっていくこととなるのであった

そんな強勢な伊桐大豆ではあるが、塩害に弱いという以外な短所があり、「伊桐大豆 大海を知らず」ということわざの元ともなっている


現在、阿李亜半壊寺の跡地には伊桐大豆発祥の地の碑が建てられており、その傍らに小さなお堂がひっそりと佇んでいるのみである
最終更新:2020年03月09日 19:36