T県A市近郊は、古来より度々大規模な水害に見舞われるため、非常に痩せた土地であったが、
佐渡から関東に金を輸送するための街道にほど近かったため、宿場を中心とした集落が点在していた

兆しが入り始めたのは天下分け目の大戦、豊臣方に付いた雲影の国の大名「酒井詐斗士之上何是(さかいさとしのかみなにこれ)」が
敗軍の将として領地没収の憂き目に遭い、この地に流れ着いたことに由る
痩せ衰え、実りのない土地ではあったが、江戸に幕府が拓かれ栄えるに従って金の流通も増え、街道に側していたこの地での生活も
徐々に安定したものとなっていった

生活基盤が出来上がると、各地より様々な素性の者が流れ着くようになった
ある者はその大うつけぶりにて、またある者は傍若無人の限りを尽くし、村八分となって住処を追われた農民たちである
この者らは皆一様に、農地の開闢をするでもなければ労働に精を出すわけでもなく、ただただ宿場町のアガリを食いつぶす、
文字通りの穀潰しであったという

やがてこの地は、他方にて田を追われた者の流れ着く地、すなわち「追田の地」と呼ばれるようになった
「追田の地には碌な者がいない」ということわざは、この地の興りに由来するのである
最終更新:2020年03月09日 22:19