追田の地はその大半が平野部であるが、領内の東西には広大な山岳地帯が横たわっている
とりわけ西の山々は非常に険しく、古来より死者の絶えない危険地帯であった
その厳しい環境から修験者の修行地となっていたこの山々は、常に緊張の糸を張りに張りつめて
挑むべき山という意を込め「張々山(ばりばりやま)」と呼ばれていた
900年代半ば頃、その山中奥地に高野の僧らによって修行堂が建立される
「張々我阿論堂(ばりばりがあろんどう)」と名付けられたこの堂は、関東一円の修験者たちの目標となっていた
だが時代が進み、鎌倉時代後期にもなると、登山道が整備され、修験者の練度も上がり、登山技術の向上も重なり、
修験者たちは我阿論堂では物足りなくなってきてしまっていた
こうして、一部の卓越した修験者たちは険しい山々のさらに奥地、「漆黒之毘蘭(しっこくのびらん)」(日も差し込まぬほどに鬱蒼としていることからこう呼ばれる)
へと足を踏み入れて行き、高みを求める修験者たちもこれに続いた
やがて彼らはさらなる極地、「淵渡崑典津(えんどこんてんつ)」(この世の淵の向こう側の意、人間の域を超えたことを指す)へと至った
そんな中、未だに我阿論堂で足踏みして高みを目指すでもなく、ただただ惰生を貪る修験者もどきが存在した
我阿論堂への道が険しく危険であったことなど遥か過去のこと、今では村の若者が山菜採りに登るような難度であるのだが
修験者もどき共は「辛く険しい堂へと至った自分は凄い修験者なのだ」と言って憚らず、ふもとの里の者らに傍若無人な振舞いをする
そのような恥知らずな修験者もどきを、山のふもとの里の大字の名をとって「伊桐我阿論奴(いきりがあろんど)」と呼ぶようになり、
「低い次元で満足して自画自賛する行為は卑しく恥ずかしい」という意味をもつ故事成語として現在まで伝わっているのである
最終更新:2020年03月13日 12:20