今回我々は、ボランティアで手すり拭き職人をしている伊尻 英樹(いじり ひでき)さんに話を聞くことができた。

―手すり拭きを始めたきっかけは?
「もともと美術の学校に通っていて、色々な物の加工が得意だったんです。神絵師じゃないですけど」
伊尻さんは得意げに語った。
「中でも表面に満月のような丸い筋を入れる満筋(まんすじ)加工が得意でした。その手法を当時アルバイトでやっていた手すり拭きに取り入れたところ、絶賛されまして。それからですね」
人々を魅了する繊細な手すり拭きの技術、そのルーツは確かな美術の経験に裏打ちされたものだった。

―仕事のやりがいは?
「たまにお子さんとかにね、声をかけてもらえるんです。ありがとうって。それが何よりのやりがいですね」
伊尻さんは屈託のない笑顔でそう答えた。
「ただすぐに親御さん連れていかれてしまうんですよね。近寄っちゃいけませんって。仕事の邪魔をしないように気遣ってくれてるんでしょう」
人との繋がりが希薄になっている現代社会の闇。それはここ群馬県高崎でも顕在化していた。

―仕事道具はどのようなものを?
「掃除道具一式、それからPlayStation(R)Vitaですね」
―なぜゲーム機を?
「主に連絡ツールとして使っています。始業連絡はおちごと、終業連絡はしごおわと言う決まりですね」
スマートフォンでも良いのではと聞いたが、それは使えないという。
「繊細な作業ですからね、途中で着信などあれば手元が狂ってしまいます。それにネットや電話から離れられるのでリフレッシュできますし、結構いいですよ」
職人は道具にも強いこだわりを見せるという。
伊尻さんの要求に完璧に答えられるのがこのPlayStation(R)Vitaなのだろう。

―仕事の同僚は?
「いません、私一人です。まぁ単純作業ですからね、毎日同じことの繰り返しで、皆耐えられずに辞めていってしまうんです」
単純作業の繰り返し、例えるなら、国民的ゲームであるドラゴンクエストⅢのアリアハン周辺で、何年も同じ魔物を狩り続けるようものだろう。
その苦痛は想像に難くない。
「昔は8000人もいたんですけどね」
そう語る伊尻さんは、どこか寂しそうだった。

―生活資金はどのように調達を?
「恥ずかしながら親の援助ですね。こんな年まで夢を追うことを応援してくれて、親には感謝しかありません」
今年で40歳になるという伊尻さん。
普通ならとっくに自立していてもおかしくない年齢だが、家族も応援してくれているという。
「うちの家族はすごく仲良いんですよ。一緒にケンタッキーを食べて涙を流すほどの仲です」
伊尻さんは食事に対しても情熱的だ。
きっと親御さんも、彼の手すり拭きにかける真っ直ぐな情熱に胸を打たれたのだろう。

―仕事以外で趣味は?
「PSO2というゲームをプレイしています。ですが、ただの娯楽というわけではなく、これも手すり拭きを続ける上で大切なことなんです」
伊尻さんは語る。
「デイリークエストというものがありまして、毎日同じことを繰り返すんですが、私はそれを常人の30倍こなしています」
常軌を逸した行動に、我々は困惑を隠せなかった。
「これは言わば忍耐力を鍛えるための訓練ですね。決して自己顕示欲や承認欲求を満たすためではありません」
ゲームと手すり拭きの意外な接点、そしてあまりにもストイックな私生活。
彼の存在そのものが手すり拭きのためにあると言っても過言ではなかった。

無給で手すりを拭き続ける伊尻さんの姿勢、それは現代社会にとって、やがて大きな流れとなり、人々に大切なことを気付かせる、そのような微かな兆しを、我々は感じ入ったのだった。
最終更新:2020年11月22日 13:54