我々は再び、ボランティアで手すり拭き職人をしている伊尻 英樹(いじり ひでき)さんの元を訪れた。
今回はその作業風景に密着した。

伊尻さんの朝は早い。
早朝6時、職人は目を覚ました。
―おはようございます。
「おはっぱい」
我々と軽く挨拶を交わすと、手際よく身支度を始めた。
伊尻さんの髪は男性にしては長い方で、前髪は綺麗に同じ長さで揃えられている。
―長いと手入れも大変そうですね。
「大変ですよー。すごく短い人はそうでもないですけどね」
だが髪型を変える気は一切無いという。いつも切ってくれている母親を気遣ってのことだ。家族思いな人柄が伝わってくる。

ほどなくして、作業場となる群馬県高崎市のイオンモールに到着する。伊尻さんはここで手すりを拭き続けて20年になる。
「おちごと」
作業開始の合図だ。
この広大なイオンモールの手すりを、すべて一人で担当する。
伊尻さんは手すり拭き能力の高さゆえ、単独任務を任されることが多いという。

伊尻さんの作業速度はまさに神業だ。
その手元は速すぎて、常人には目視することすら難しい。
まだ人もまばらなイオンモールの外観を背に、シュババッという軽快で小気味良い音が鳴り響く。
「初心者さんだと、1日に2~3本拭ければ良い方です。まぁ私ぐらいになると、大体10分に1本のペースで拭けますけどね」
さすがは手すり拭き世界ランク5000位の猛者だ。しかしこれでも全盛期は過ぎており、衰えが見えてきているという。
「若い頃は6分に1本のペースで拭けたんですけどね。年は取りたくないものです」
そう呟いた背中には、どことなく哀愁が漂っているようだった。

日が昇り、仕事も中盤に差し掛かった頃、一人の子供が作業中の手すりに走り寄ってきた。伊尻さんの目の色が変わる。
「はいブロック」
そう呟くや否や、伊尻さんは鬼の形相で走り出し、身を挺して子供から手すりを守り抜いた。
「たまにいるんですよね、こういう輩が。作業中の手すりは危険ですから、観覧を制限してます」
伊尻さんはブロックの技術も超一流。どんなに遠く離れた手すりでも、最速23秒でブロックできるという。この記録は今後も塗り替えられることを期待したい。

そうこうしているうちに、最後の一本を磨き上げ、本日の作業は完了した。
「しごおわ」
まだ午前中。広大なイオンモールの手すりを、この短時間ですべて仕上げた。
まさに伊尻さんの神業による奇跡だった。
しかし、そんな職人にもさすがに疲れの色が見える。
「今週は4連勤なのできついですね」
我々は伊尻さんに労いの言葉をかけた。

―お疲れ様でした。
「おつありよー」
すると伊尻さんは突然、自分の両胸を激しく揉み始めた。
「ぱいもみ回復」
その唐突な奇行は、いとも容易く我々の思考を置き去りにした。
しばらく呆然としていると、伊尻さんはゆっくりと語り出す。理解不能なその行為にも、きちんとした意味があるという。
「乳腺を刺激して体をリラックスさせるんです。そうすると、セロトニンという脳内物質が分泌されるんですね。これは疲労回復に効果抜群なんです」(※諸説あり)
天才の行動は時として、我々凡人にとっては奇抜で突拍子もないことに映る。しかしそのような奇人こそが、歴史に名を残してきたのだ。
ぱいもみ回復と称した行為をしている伊尻さんの姿に、いつしか我々は偉大なる奇人、スティーブ・ジョブズの姿を重ねていたのだった。

「世界中の人々が、安心して手すりを握れる、そんな世の中にしたいんです」
伊尻さんの夢は果てしない。
まずはイオンモール側に、この活動を認めてもらうことを目指す。現状は店舗内に入れてもらうことすらできないからだ。
「私への軽い嫉妬みたいなものだと思います。ですが、いつかきっと分かってくれる日が来ると、そう信じています」
そう呟いた伊尻さんの瞳は、未来への希望に満ち溢れていた。

自らの人生を犠牲にし、無給で奉仕する偉大なる職人―。
我々は敬意を込めて、彼をこう呼ぶことにした。
無償の職人、“無職人”と。
最終更新:2020年11月24日 00:27