「ノーストリリア」読書会レポート
今回の読書会はケッコーためになった。当たり前だけど、作品を振り返ることで理解が深まる。しかし、よほど好きになった作品でなければ一人で読んで作品を振り返るって機会はそうそうない。そういう機会を与える意味で読書会はヒジョーに有意義であると改めて実感した次第。
ノーストリリアは実質的には短編連作。瞬間風速を楽しむバキやジョジョみたいな読み方をするものだと思った。中二病、萌え、人間ドラマ。各人が好きな要素を一瞬一瞬に見出して楽しむことが出来る。しかし、全体を通して見ると、そもそも人類補完機構シリーズが本質的にディストピアを描いた作品であることから、否応なく悲劇的・風刺的なブラックさが浮かび上がる。「これただの美人局じゃん!」という感想はおそらく間違ってない。これは大義のために利用された少年のお話だったのである。本当の主人公は「少年」でなく「大義」であり、それ故の悲劇が本作のラストで顕著に示される。もっとも、スミスが存命であったら、本作の続編において、その悲劇を引き起こした問題も解決するところまで書くつもりだったのだろうが……。個人的にはこのラストにとても惹かれて、心底惜しい人を亡くしたものだと今更実感しました。
この作品について強く印象に残るのは、社会構造というものがいかに強固なものであるかということだ。少年少女が手に手を取り合い世界を変えるストーリーとは、対極にあるものだと思っていい。
主人公ロッド・マクバンは家柄正しく、特異なテレパシー能力を有し、健康的な精神を持つノーストリリア人である。そんな彼が莫大な財産で買い取った地球へと赴き、一体どれほど偉大なことを成し遂げたのだろう?結論から言えば、何もしていない、である。確かに、地球で彼は下級民のために「百五十基金」を設立した。しかしこれは彼の意思というわけではなく、長官ジェストコースターの思惑に乗せられたと見るのが普通だろう。別の見方をすれば、ロッド・マクバンは、ロマンスや自己改革といったあやふやなものと引き換えに財産の大半を狡猾な役人に搾り取られた哀れな少年だ。
物語の最後に、「死の館」から帰った息子の片割れを受け入れるロッド・マクバンの姿が描かれる。“善良”なノーストリリア人となってしまった彼の姿に、私は個人の無力さをつくづくと思い知らされるのだ。
読書会について:他人の感想や解釈を聞けるってのが一番ですかね。普通に感想を言い合うんじゃなく、詳しく内容を振り返って行くからみんなの意見も出やすいですし。特に今回のような設定が各所に散りばめられている場合だとなおさら自分が見落としていた点などに気付いたりして面白い。毎回恒例となりつつある人気キャラ投票なんかのくだけた雰囲気も大好きです。
ノーストリリア:細かな設定を散りばめている(悪く言えば投げっぱなしな)所が好きでした。個人的に読んでてつらかったのはキャラ名が覚えにくいこと。これは大体の外国人作家の小説に言えることなんですがキャラの名前が印象に残りずらくてすぐに忘れてしまうのです。日本の小説だとキャラ数が多くても割と覚えてたりするんですが……。価値観のちがいですかね。あと、ノーストリリアにだけは住みたくねーなと思いました。ミクさんのいない人生なんて!!(言いたいだけ)
主人公がかっこ良くないとこんなにも面白くねぇのか、と思いました。
付け加えるなら、俺はディストピアってそんなに悪くないよねとか考えてる善良な市民なので、その辺の価値観の違いが読後感にも影響したのかなぁと。
マクバン少年から絞りとった資金が社会構造の改善に役立つならそんなにバッドエンドでもないよね! とかそんな感じ。
クメルちゃんペロペロしたいお(^ω^)ぐらいしかろくに覚えてないのでこれからはもっと真面目に読もうと思います。
最終更新:2010年12月28日 20:35