ragtimemaの日記
2008年04月21日
いつも間にこんな『軍事オタク』に・・・ その1 |
[ ラグタイム ]
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≪リカルドくんとの会話≫
ラグタイム・マーは実は男の子だった(うふふ)!!!!
↓↓↓↓
●貴族の家系のチャーチルの館は如何に?お城?
◎チャーチルは『ブレナム宮殿』というオックスフォード北部の宮殿に住んでおりまし
たよ。チャーチルの寝室まで見てきたのに、チャーチルをよく知らなかったのでその後
は猛勉強でした(笑)。
●チャーチルは、戦争には勝ったけど、大英帝国を滅ぼしました。チャーチルでなかっ
たら、ドイツと早めに講和し、帝国を維持できたと思います。いずれは解体するでしょ
うが‥‥
◎チャーチルはジュリアス・シーザーやナポレオンに憧憬を抱いていた程の帝国主義者
でした。ですから、大帝国を滅ぼしたのは無論彼の意ではないと感じます。戦争での勝
利は彼の卓越な戦略法の御蔭、大帝国解体は中近東での石油問題と植民地での紛争勃発
が原因、また、同時期に彼自体の病症悪化と避けることができなかった事態だったと思
います。それでも尚、彼は現在でも英国民より偉大な人と見做されている程、国家の為
に貢献した人であります。
●でも、彼は第一次世界大戦のときガリポリの戦いの責任をとって辞任していますし、
第二次のときもナチスの柔らかい下腹部作戦は、失敗と言えます。彼の軍事的才能は?
です。でも、第一次大戦のときに、戦車を考案させたのは大したものといえるでしょう
!
◎『ガリポリの戦い』ではトルコ側の頑強な抵抗によりチャーチル作戦は失敗に終わり
ましたが、それでも尚、陸・海・空の三軍総力を結集させた大規模上陸作戦は世界初の
試みであり、オーストラリア、ニュージーランドの連合国軍参加もこれが初、国際的舞
台で繰り広げられた戦闘に於いては失脚に終わったが、後のノルマンディー上陸作戦で
も分かるように成功に繋がる基礎を築いた戦いであったと言えるでしょう。これに関し
てはメル・ギプソン主演の『GALLIPOLI』とう映画が実に印象的。
第二次世界大戦では、チャーチルは自ら戦時指導に当たり、総力戦を組織化して『バト
ル・オブ・ブリテン』を勝利に導くなど、強力な指導力を見せたと思います。イギリス
海軍は第一次大戦から第二次大戦まで精強な艦隊を維持しており、ドーバー海峡とイギ
リス海峡にドイツ海軍の艦艇を派遣させませんでした。それ故にドイツはライン河内陸
河川用運搬船を上陸用舟艇に転用していたくらいです。また空軍輸送機で地上部隊を輸
送させなければならないという困難にも追い込まれました。
連日のイギリス船団攻撃にも関わらず比較的少ない被害で済んだのはドイツ空軍が雷撃
機の開発を怠っていたからでしょう。一方、イギリス空軍はレーダー網、防空ダウディ
ング・システムをフル活用し、港湾の上空で迎撃、待ち伏せするという巧みな戦略法を
使用しております。この戦闘ではイギリスよりもドイツ側の被害の方が明らかに大きか
ったです。
因みに1940年5月1日から1945年5月9日までナチス・ドイツに占領されていたジャージー
島を昔見に行ったことも御座います。洞窟の中にあるナチスの病院は鳥肌ものでした。
ここは未だに脱税者の集合場所、租税回避地とはすごいですよね。
●イギリスの防空システムはチャーチル登場以前にすでに確立されていました。ローマ
は1日してならずです。ナチスの病院が鳥肌ものとはどういうことですか? ドイツ海
軍には、航空隊がなく、雷撃の発想じたいありませんでした。真珠湾の成功によって、
初めて雷撃を検討しはじめたというていらくでしたから。空軍元帥ゲーリングに言わせ
ると、なんで船の上に落とすことができるのに、海に投げ出すんだと‥‥‥
◎『バトル・オブ・ブリテン』の趨勢を決したのはイギリス空軍のパイロット養成シス
テムだったと言われております。この時、ロンドンをドイツ空軍から護ったのはアック
スブリッジ戦闘指揮所のキース・パーク空軍少将率いる第11戦闘機群です。ロンドン周
辺空域を7個のセクターに分け、各セクター毎に中隊は配置されており、担当セクター
から敵機を排除することを任務としておりました。
勿論、戦闘機軍団の前進であった訓練軍団は1926年に既にありましたし、チャーチル内
閣発足以前に軍用機の近代化や量産は施されておりました。それが正に司令官ヒュー・
ダウディング大将が航空省と練ったイギリス本土防空計画です。これにより戦闘機スー
パーマリン・スピットファイアと戦闘機ホーカー・ハリケーンからなる46個戦闘機中隊
が見積もられ、1939年中には部隊編成の達成が成されておりました。通常ならば世界恐
慌の影響を受け、大戦勃発の直前になって焦り出したのですが、仰る通りこの計画は時
間を掛けてじっくりと練られたものでした。
チャーチル首相の戦闘機派遣命令で前進攻撃隊での損失があったのは確かですが、民間
企業に委託して新造機の生産や定数確保に貢献したのも真実、ここでは手際よくアメリ
カに協力を求めたところも勝利に繋がった重要な要素だと信じております。
ナチスの軍隊病院は外部からは絶対に確認不可能な岩の中にあり、その中に自分が居る
だけでもぞくぞくするような負傷兵たちのフェイクが展示されてあったのです。普通の
美術館や博物館を鑑賞するのとはまた違った真実味と生臭さがそこにはありました。
●ドイツ空軍の敗因として、戦闘機の足の短さが大きいです。このため爆撃機の護衛も
まままらなかったし、英本土の滞空時間も制限されました。ドイツに航続距離の長い零
戦があったなら、世界史が変わっていたかも?あと、ヒトラーがベルリンを空爆された
のに激怒して、英本土の飛行場の破壊を取り止め、ロンドン空爆に方針を変えたのが、
英国の危機を救ったと言われています。 話は違いますが、英国留学は、親の薦めから
ですか?貿易を家業にしてるからかな?自分はシェフィールド大学に夏季語学研修にい
ったことあります。 チャーチルの政界デビューのきっかけとなった彼のボーア戦争の
体験記を読んでみたいのですが、日本語訳になったものあるんでしょうか?
◎いつも込み入った情報を有難う御座います。お話していると男の子になた気分でオネ
エサン(決してオバハンではない)はとても嬉しいです。このヒトラーを激怒させた原
因がアレェクスェイのおじいちゃんだったりして・・・(????)当時のナヴィゲー
ターでベルリン爆撃に配置されておりました。もしかしてもしかすると英国の危機を救
った当の本人かもしれないですね。
自分の人生の決断は全て自分で下しておりますので、英国留学は勿論、私本人の強い意
志からです。御先祖様はまちまちなのですが、家業は大雑把に分けると建設業全般と美
容業全般です。私は完全フリーですから、業種を問わず何でもやりますけどね。国際人
脈は私一代で築いたものでして、親は外国人とは全く無縁、海外とも全く無縁、外国語
とも全く無縁です。
シェフィールドは何気に私が今住んでいる川崎市と姉妹都市ですね。大聖堂の綺麗な街
ですが、自分自身が行ったかどうか記憶に薄いです。何となくですが、スケート・リン
クにアイス・スケートをしにいたった気もしないでもないですが・・・(????)
『ボーア戦争』に関しては岡倉登志の『ボーア戦争』が山川出版社から、瀬戸利春の『
ボーア戦争 金とダイヤが引き起こした帝国主義戦争』が学習研究社から出ております
。私はチャーチル自身の本を海外から取り寄せましたが、読まずじまいで本当に残念。
引っ越しの際に屋根裏に放置したままです。その後、誰の手に渡ったのかすら分かりま
せん。全財産放棄してロシアへ行きましたからね。救えたのは衣装と楽器と自分の命だ
けでした。国境を無事超えられたのはこの頭脳と数々の経験談のみです(笑)。まぁ、
それで充分ですけど・・・
●なるほど、ボーア戦争で、ロンドン株式市場は、高騰し、株主は大儲けしたわけた!
まさに、資本主義的戦争!
◎これは戦争というよりは金とダイヤが大量に出た植民地の単なる所有権争いでしたか
らね。
めでたし、めでたし!!!
裕美・ルミィヤンツェヴァ

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