アットウィキロゴ



③  中世(衰退期)~現在


中世において雅楽は全くふるわず、庶民とのつながりがあった天王寺楽所のみがなんとか命脈を保っていた。さらに応仁元(1467)年、応仁の乱が起こると京都は主戦場になり、そのため京都の楽人が四散し、雅楽は伝来以来最大の危機を迎えた。この危機を救ったのは豊臣秀吉であった。秀吉は京都方の楽人を補うため、天王寺楽所より楽人を召しだし、雅楽の復興とその保護を行なった。この結果京都・南都・天王寺の楽所は全く対等な立場となり、これ以後この3楽所は三方楽所と呼ばれた。

話は飛んで明治時代。明治三(1870)年、明治政府は三方楽所の楽人を東京に呼び寄せ、宮内省雅楽局を編成した。この頃、楽家(雅楽を代々受け継いでいる家)以外の者が雅楽を習うことは禁止されていた。こうした状況下で三方楽所の楽人ほとんどが東京に参向したため、近畿の雅楽界は人手不足になった。そこで明治六(1873)年、雅楽の一般人への教習が認められたのである。

現在、三方楽所は平安雅楽会(京都)、南都楽所(奈良)、雅亮会(大阪)となり、伝統を引き継ぎつつ一般の人を受け入れ教習している。他にも民間の雅楽団体も数多く、大学で雅楽を演奏するクラブがあるところもある。雅楽の演奏は神社や寺の行事や結婚式など、耳にする機会も以外と多い。このように雅楽は現在まで確実に伝わっている音楽なのである。






当時の宮中雅楽が拠点となり今日の雅楽繁栄を見るのであるが、当時は宮中でのみ演奏が許されるという極めて閉鎖的な扱いで、一般庶民に開放されるのは明治を待つことになる。その間、雅楽に替わるものとして庶民には田楽、猿楽などが伝わるが、宮中雅楽とは厳然たる隔壁に阻まれ、その揺るぎなき地位を譲られることはなかった。

 譜や楽器も宮中ゆかりの宗家特有に限られ、明治を待っての選定譜創作による統合でやっと一般神社への解放に及び、宮中秘楽が庶民の知るところとなった。かの高邁な伊勢神宮でさえ例外は許されず、当時の雅楽が如何に特別の処遇を得ていたかが知れよう。そうした経緯ゆえに、一般開放の後も雅楽界特有の風潮は師弟関係にも温存され、庶民への伝播力は稀薄といわざるを得ない。







●元正(がんしょう)・・・元旦節会ともいいます。楽の調子は双調です。曲は「胡飲酒破」(こんじゅのは)・「酒胡子」(しゅこうし)の二曲を立楽(たちがく・節会の時、楽人が庭に立ったまま演奏すること)を、必ず奏していました。


●白馬節会(あおうまのせちえ)・・・正月七日、天皇が左右馬寮(さうめりょう)の引く「あおうま」を見る儀式。嵯峨天皇の時から儀式として、整うようになったようです。平安末期より儀式は衰退してゆき、応仁の乱以降は途絶えて、代わって七草の節会が盛んになりました。
調子は平調で、曲は「三台塩急」(さんだいえんのきゅう)と「鶏徳」(けいとく)を、毎年奏していました。



●上元(じょうげん)・・・中元、下元と共に三元の一つで、正月十五日を指します。いわゆる七種粥の日ですが、昔は草ではなく、米や大豆など、七種類の穀物だったようです。 「平調の中から四・五曲を用いる」とあって特定の曲はありません。


●踏歌節会(とうかのせちえ)・・・天皇が紫寝殿(ししんでん)で踏歌を観て、そのあと五位以上の群臣(いわゆる貴族)に宴を賜った行事。立楽と舞楽の両方あり、立楽は「賀殿急」(かでんのきゅう)・「酒胡子」(しゅこうし)又は「胡飲酒」(こんじゅ)。舞楽は、「振鉾」(えんぶ)・「万歳楽」(まんざいらく)・「延喜楽」(えんぎらく)・「桃李花」(とうりか)・「登殿楽」(とうてんらく)・「陵王」(りおう)・「納曽利」(なそり)の七曲で、退出音声(まかでおんじょう・舞人が退出するときに奏する曲)には、「長慶子」(ちょうげいし)を奏していました。


●賭弓(のりゆみ)・・・朝廷で正月十八日に、近衛(このえ)・兵衛(ひょうぶ)の舎人の弓射を試みる(競う)儀式です。儀式が終わった後、勝った方の大将の邸で行われる饗宴を、賭弓の還饗(のりゆみのかえりあるじ)と言います。舞楽だけで、「陵王」(りおう)・「納曽利」(なそり)を奏していました。


少し興ざめしますが、藤原摂関家、又は地方の受領の私服を肥やすために、庶民が厳しい生活を余儀なくされていた平安時代。一方の宮中では、貴族達が節会、宴に明け暮れていました。その行事には、音楽が付き物だったようですね。斉の管仲が言った、「衣食満ち足りて礼節を知る」・・平安の雅楽とは、貴族達だけのものだったのでしょうね・・・。






最終更新:2010年08月23日 15:53