彼の眠り
深くまどろんでいる。
沼の底に沈み蕾む蓮の眠りだ。
手指に絡まる汚泥が、柔らかく蓮を包んで守る。
とぐろを巻いた時の中で、覚醒のときをただ待っている。
そういう場所だ。
四角に区切られた空を見ていた。白くなびく雲が残っている。風はない。鳥も飛ばない。変化に乏しい景色に飽きた直衛は、頬杖を突いた右手の指で、かさついた唇をなぞってから、机に顔を伏せた。この休み時間くらいは、放っておいてくれればいい。心の中でそう祈って、瞼を下ろす。しかし無駄なことだ。
「直衛」
一度目は無視するのが定法だ。「直衛」二度目は身じろぎ。三度呼ばれたら起き上がってやる。
「直衛」
「……全然気がつかなかった」
薄く開けた視界で、ぼやけた肌色が空気を震わせる。
「うそ。起きてたくせに」
蜂巣が笑うと、彼の肩まである金色の細い髪が揺れて、空気を鳴らすようだ。いつも思い、そして口にしては笑われるのだけれども、その透けるような色が人工的な染料によるものだとは、直衛にはどうしても信じられなかった。
「マジでわかんなかったって。で、なに」
「なにってこともないけど」
蜂巣はちょっと困ったような顔をした。
「直衛が寝てるから、起こしてやろうと思って」
「びっくりするほど大きなお世話だよ。バカ」
できるだけ穏やかに言ったつもりだったが、彼は犬のように身を縮こまらせた。背の高い蜂巣がやると、そのしぐさは輪をかけて情けない。
ため息を吐いて、それから肩に触れてくる手を払い落とした。
「とにかく、おれは眠いんだから、邪魔すんな。戻れよ」
「えっと」
「も、ど、れ」
子どもに言いやるように一語一語はっきりと発音し、目を見つめて言うと、渋々ながら頷いて、蜂巣は直衛の席を離れた。
蜂巣の戻る先は、男女の入り混じった明るい集団だ。直衛は目の端で、彼がそこに迎えられるのを見届け、また机に突っ伏した。
強烈な光を見たように、その背が瞼の裏に焼きついて離れない。直衛は、それを打ち消すようにきつく目を閉じ、眠ることに専念した。
ふつうよりも少しだけ行事の催行が早いこの高校では、夏休みの残滓をそこ此処に感じるまま、学園祭の準備期間に入ることになる。忙しげに行き来する生徒たちをぼんやりと遠く眺めながら、直衛は蓮池の傍の長いすに腰掛けていた。四時間目の授業が休講になったのを利用して食堂に走り、数ヶ月ぶりに名物「月餅」を手にすることができたのはいいのだが、教室で食べれば間違いなく恨みを買う。それで、ふだんから誰も近寄らない蓮池に来たのだった。何年抜いていないのか判らないような深緑の水もさることながら、そこにまつわるたわいもない逸話が、何とはなしに生徒の足を遠ざけているらしい。直衛は、むしろそのために人の来ないこの池を、気に入っていた。幽霊のほうが、触れられない分いくらか人間よりましかもしれない。
「月餅」は相変わらずうまかった。一年生に、茶道の家元の息子がいて、そこで仕入れているお菓子をこちらに毎日少しずつ回してくれているのだった。卒業してしまえば、もう「月餅」は食べられなくなる。今のうちに堪能しておかなくてはならない。直衛は一口一口、ゆっくりとその感触を確かめるようにして咀嚼した。
「直衛」
突然呼ばれた名前に、思わず噎せる。最後のひとかけらが喉に詰まった。
「わ、ごめん」
身体を折って咳き込み続けるのに、蜂巣はおろおろしながら背に手を滑らせた。
「大丈夫」
「大丈夫じゃ、ない。びっくりするだろ」
ようやく嚥下し、振り向きざま睨みつけると、蜂巣はびくっとして泣きそうな顔をした。
「どこ探してもいなくて、やっと見つけたから、大声で呼んじゃった。ごめんなさい」
怒られたら素直に謝る。こういうところが、いつまでたっても憎めない。小さく、しょうがないな、というと、蜂巣は薄茶の目を細めて微笑した。
彼は直衛の前に回り、まともに逆光を受ける位置で立った。金色の髪が光の粒を弾くように輝いて、輪郭を曖昧にする。母が大事にしていた絵の中の天使は、こんな感じだったかもしれない。
「直衛は何やるの」
「何が」
思考を遮られ、とっさに反応できない。
「劇の役。放課後に決めるんだって」
「ああ……」
興味がなかったので、何をやるかも知らない。それを悟ったのか、先回りして、
「『ロミオとジュリエット』やるんだよ」
「ベタだな」
「そうかな。おれは好きだけどな」
ちょっと不満そうに言って、蜂巣は直衛の隣に腰を下ろした。
「なんで座る」
「座っちゃだめ」
いやな訊き方をする、と苦々しく思う。蜂巣は口の端を上げて、息を洩らした。
「あのね、学校の裏に、チャペルあるでしょ。あそこ使ってやろうって話になったんだよ。恋愛ものの劇やるのに、ロマンティックで、最高だからって」
直衛はため息ともとれるような相槌を打って、空を見上げた。
「直衛も出るよね。久しぶりに同じクラスになったんだし、おれ直衛と出たいよ」
「おまえが出るなら出ない」
「なんでそういうこと言うの」
責めるような声色に、視線を遣ることで答えて、直衛は立ち上がった。
「次、移動だ。早く行かないと教室が閉まる」
伸ばしすぎた黒い前髪を斜めに払って、顎を逸らす。
数羽の鳥の群れ――烏が、不意に空を横切って、羽を落としていった。
蜂巣が物言いたげに見つめているのは判っていたが、それを無視して、直衛は校舎の中に入った。
放課後、面倒事に巻き込まれる前にさっさと帰ろうとした直衛は、あっさりと学園祭の実行委員に捕まった。
「今日は劇の役決めするから、絶対にいてね」
美しく笑い、直衛よりも強い力で肩を掴んだ彼女は、校内でも一目置かれる有名人のひとりだ。もちろんそれは彼女自身の能力によるところも大きいが、何より、その姉、旧生徒会長でもあった人が、この世の総てを超越したような伝説の人物だったということがある。
逆らうには恐ろしすぎる。それで、直衛はおとなしく席に着いたのだった。
蜂巣は努めて無関心を装っていたが、彼女とやりとりしていたほんの一、二分の間ですら、幾度も身体の表面を撫でていく視線を感じた。いすを蹴り上げてこっちを見るなと言ってやりたい衝動を押し殺して、腕の中に顔をうずめる。
どうせ、すぐに終わる。ロミオは蜂巣。ジュリエットはクラスで一番かわいい子。おしまい、だ。こうして頭を下げていれば、ただその上を通り過ぎていくだけの出来事だ。
ほんの数分もしないうちに、予想したとおりの結果になったらしい。我がジュリエットの、わざとらしい謙遜を遠く聞く。
「村尾さんは、これでいいとして、蜂巣くん、どうですか。やってくれますか」
クラス中の女子が、期待を込めた目で蜂巣を振り向く。薄い唇が開いた。
「……おれは、直衛がいい」
「なんですか」
ぼんやりと融解した意識に、聞き馴れた遣り取りが溶け込む。
「ロミオは直衛がいいと思う」
一瞬の沈黙ののち、教室はざわめきに呑み込まれた。
「ていうか、直衛がロミオで出ないならおれも出たくない」
がたがたうるさいな。さっさと決めればいいのに。直衛は、深い眠りに落ちられない不快感に眉を寄せた。まどろみの淵にいて、そこをさまよっているみたいだ。
「ね、直衛。えっと……直衛……」
「ちょっと、起きたほうがいいよ」
前の席の女子に肩を揺すられた。伸ばされ、きれいに整えられた爪が肌に食い込む痛みで、ようやく顔を上げた。
「なに」
「直衛、やってよ。直衛がいやなら、おれ、出ないから」
何の話をしているのか、全くつかめない。
「ごめん、どういうこと」
蜂巣はこそこそと近付いてきて、直衛の髪を耳にかけ、ささやいた。
「うんって言って。明日から、毎日お昼に『月餅』買ってきてあげるから」
「うん」
「……では、外に立候補はありませんし、ロミオも決定ということで。村尾さん、ともどもよろしくお願いしますね」
ジュリエットは机の上に崩れ落ちた。
直衛は、未だにまどろみの淵から脱け出せないまま、微笑する蜂巣を見上げる。
絶対に許せない。追い縋ってくる蜂巣にブレザーの裾を掴まれたのを、乱暴に振り払って足を速めた。
「待ってよ、直衛」
「最低だ。ああいうやり方が、おれは大嫌いだ」
「ごめんなさい」
焦燥した声が背を打つ。いつも穏やかな蜂巣が顔色を変えて取り乱しているのを、幾人かの生徒が物見高く振り返った。
二年生の教室が並ぶ新校舎を抜けると、第二部室棟に繋がる渡り廊下に出る。目的地などないままに飛び出してきたのだが、いまさら引っ込みがつかず、直衛は歩き続けた。明かりのわずかな建物を少し奥まで入ると、煙草の匂いが充満している。そういえば、この不便な立地の部室棟には、落ちこぼれの集まる同好会ばかりが入っているのだった。ふと目を滑らせれば、『超常現象研究会』、『お手伝いクラブ』、『カバディ同好会』。
「直衛、教室に戻ろう。謝るから。ごめんね」
蜂巣は、速度を緩めた直衛の腕を掴んだ。黒い髪が一度跳ね、そして振りかえる。
「おれに触るな。追いかけるな。独りにしてくれ」
奇妙に冷静な言い様だった。その冷たさに、直衛自身が驚いた。蜂巣は、はっとしたように手を離し、唇を噛んでうなだれた。その髪に手を伸ばしかけ、ふと我に返る。
立ち尽くす彼を置きざりに、直衛は歩き出した。部室棟の端、薄汚れた白衣の男がにやにや笑いながら二人のやり取りを眺めていたのは知っていたが、無視してその前を通り過ぎた。
「青春だなあ」
フラスコのコーヒーを揺らし、男は感懐した。無視する。
コンクリート打ちの廊下から、草いきれのする地面へ降り、少し歩くと、蔦の絡まる旧校舎にたどり着く。ここには今は生徒会室だけがあって、外の教室は総て使用不可になっているが、その肝心の生徒会の人間を、直衛は知らない。知らないのは直衛のせいではなく、彼らの影が薄いためだ。旧生徒会長の強い光が、彼らを翳ませている。
戦前、創立者の知人が設計したという旧校舎は、赤茶けた煉瓦で組まれた、ロマネスク風の建物だ。建てられた当時には、さぞ珍しい意匠だったに違いない。直衛は白土のステップを上がり、重い木扉を押し開けて中へ入った。ステンドグラス様の窓から降る自然光が木目に複雑な模様をつけている。ランプが淡く灯るだけの廊下を軋ませ、まっすぐにエントランスへ向った。
二階から吹き抜けになったその場所に、直衛は好んで訪れた。冷たい石の床に寝転んで天井を眺めるのが好きだった。そこで目を閉じてまどろむのが好きだった。深く汚泥の沈む自分の心が、濾過される気がする。
「直衛」蜂巣の切羽詰った声色を反芻する。昔からずっとそうだった。蜂巣は、直衛に心を砕き続ける。
直衛は目を開けたまま、記憶を反芻する。右手を持ち上げ、目の前に翳した。夕焼けの赤光を遮って、影が落ちた。強い輝きは小さなものを翳ませる。
瞼を下ろす。星の瞬きのように蜂巣の髪が揺れ、そしてまた直衛は小さくなっていく。
「直衛」
優しい声が、耳の傍で聞こえた。まなじりの熱い衝動を堪えて、直衛は口を開いた。
「追いかけるなって言ったのに」
「追いかけてないよ。おれが勝手にここに来ただけだもん」
へりくつだ、と一言呟くと、戒めるように指が唇に落とされた。
「ごめんね。お詫び」
柔らかなものが押し当てられる。戸惑って目を開けると、細い髪が頬に掛かった。
「先輩……ほら、裏山の、あの人、イエモトさんと仲良しでさ、いっつもこれ神社にお供えしてるんだよ」
「月餅」だった。思わず半身を起こして蜂巣を見つめた。
「直衛のために一つだけって神さまにお願いして取ってきちゃった」
白い歯をこぼして微笑する。
「さっきは本当にごめんね。独りになって考えてみたら、おれ、ほんとに勝手なことしたから。やっぱり戻って、おれがやるって」
首を振って遮った。
「おれ、やるよ。やるって一度言ったし。約束は守りたい」
蜂巣は大きな目を見張って、それから泣きそうに潤ませた。
「直衛」
「なんで泣くんだよ」
「だって、これから直衛と思い出作れるんだって思ったら……」
「おまえ馬鹿だろ。思い出って」
「だって……」
柔かな髪を乱暴にかき混ぜると、蜂巣は本当に泣き出した。
「……」
何でもできて、優しい蜂巣に、気に掛けられる。そのことを何よりも許しがたく感じていたのは、直衛のつまらない矜持のためだ。
直衛の小さな世界の中で、彼は確かに神さまだったのだと思う。ずっと、彼我の距離に苛立ち、怯えていた。
ずっと彼を神座から、遠い銀河の星図から、直衛の沈むまどろみの沼地の淵まで引きずり下ろしたかった。
それはたぶん、彼と同じ場所に立ちたかったからだ。
まつげを震わせて息を吐く蜂巣に、わざと呆れた顔を作ってやる。
「友だちなんだから、いつでも作れるよ、そんなの」
「直衛」
しがみついてきた蜂巣の頭を撫でて、直衛はふと空を見上げた。
朽ち、小さく穴の開いた天井の隙間から、星のかけらが零れ落ちて、沼の上澄みを揺らす。
最終更新:2007年11月18日 18:26