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ひかり




 泥のような空気を裂きながら進む。まったく暑苦しい。日が暮れたというのに、制服の半袖から晒された腕に纏わりつく空気は生温く、不快にさせる。新学期が始まってもう何日も経つというのに、秋の気配は一向に感じられない。今日も日中は入道雲が青空を謳歌していた。昼過ぎ、きまぐれに雨が少し降ったけれど、涼しくなんてなりやしなかった。むしろ湿気が増して、ますます鬱陶しくなるばかりだ。じんわりと額に滲む汗を腕で拭いながら、僕は少しぬかるむ畦道を、修也の後ろに続いて校舎裏の裏山へ向かった。

「今日、満月なんだ」
 だから裏山に見に行こうぜ、一緒に。今日も修也は唐突に話しかけてきた。放課後、学園祭準備の掃除をしていたときのことだ。この学校の裏山の頂上は少し開けていて、夜空を眺めるのには絶好のスポットなのを、知っているのは修也と僕の二人だけだ。要はこの煩雑な学園祭の準備を抜け出したいだけなのだろう。それは僕とて同じだ。何と言ったって面倒くさい。ならば決まった。僕は適当に頷いて、彼の帰りを待つことにしたのだった。

 幽霊が出るとか何だか言われる校舎裏の蓮池を横目に、僕らは歩き続ける。何の変哲もないただの蓮池で、人気もなく、存在意義がいまいちわからない。だが珍しいことに、学園祭の衣装らしき着物を着た女子生徒がうろついているのが見えた。
 遠くからにぎやかな歓声が聞こえる。まだ学校には多くの生徒や教員が残っているらしい。この学校は基本的に教員と生徒間の壁というものがあまり無く、こういったイベント事は勿論のこと、普段から積極的に交流が行われている。あの笹川目当てで理科準備室に押しかけている奇特な女子生徒が居るという噂も聞いた。全く殊勝な人たちだ…そんなことを考えているうちに、ようやく裏山の裾に辿りついた。

 何も変わらない黒い森。自分がちっぽけに見える、森。この裏山には古い神社があり、幼い頃はそこの娘もまじえてよく遊んだものだ。そういえば、最後にここに来たのはいつだったろうか。確か――いつだったか。思い出せない。倦んだ日々にいつの間にか呑み込まれていた自分に、愕然とした。
「なあ、あの空き地、俺らが昔よく遊んださ。あれ、来年宅地に造成されるんだってよ。」
 自分の心を見透いたかのように修也が言う。来年。近いが、漠然として霞んだ未来。少なくとも僕には見えない。卒業、進学、就職……不確定で曖昧すぎる言葉たちが脳裏を渦巻く。しかし確実に言えるのは。
「その頃、僕たち居ないんだよな。ここに。」
 前方で修也が苦笑するのが見えた。つられて僕も苦笑した。未来など、誰にも分からない。知らない。よく言うじゃないか、「神のみぞ知る」と。僕の神様は、僕の未来をどう描いているのだろうか。でも、何があろうと、僕は大人になっているだろう。必ず。時というものには逆らえないのだから。

 坂を登る。辺りは真っ黒に塗られたように暗い。鈴虫の鳴く声がかすかに聞こえた。ふと前方で足音が途切れる。
「…俺は大人になっているのか。」
 修也の呟くような口調に、思わず足を止める。
「俺が大人か…信じらんねえ。」
彼は継ぎ足した。まったく珍しい。彼が感傷的になるなんて――
「想像できないな」
 何だか珍しいものでも見たようだ。修也は思ったとおり、うるせー俺はガキじゃねえと反論した。面白い。どうやらそれが僕の顔に出てしまっていたらしい。彼は少し驚いた顔をした。ふと懐かしさが胸にこみ上げる。驚いた時の顔なんてもう、猫のようだ。今はちょっと、何か背伸びして見せてるけど、まるで昔と変わらない。だけどほら、こうしている今も過去になってゆくのだ。何だか空しい。僕らはまた歩きだした。もう少しで頂上だ。

 暫く歩くと、鬱蒼としていた木々が突如消え、視界が開けた。頂上だ。頂上といっても、単に斜面だったのが平らになっただけだ。裏山というより、スケールの大きい丘といった方が語弊は少ない。少し息を弾ませながら、僕はその草地の中央に寝転がった。雑草が頬や肘に触れてくすぐったい。横に修也が座る。夜空には満天の星、そして満月。ここは外灯も少なければ民家も少ない。田舎に生まれたことに少し感謝した。

 思っていたより、夜空は美しかった。月光が僕らを照らす。沈黙が心地よい。時間が少し、ゆっくり流れている気がした。

 月が、雲に隠れた。一瞬にして世界が黒くなる。 

「お前、東京の大学だったっけか?」
 それを待っていたかのように突然修也が口を開いた。
「え、ああ。お前は就職だったっけ。こっちで。」
 不意打ちだった。取り繕うように答えて、思わず修也を見る。

 らしくない、表情をしていた。

「電話ぐらい、しろよ――メールでもいい、だから」
「…ああ」

 じれったさに、吹っ切れなさに、何かが苛立つ。
 焦っているのか。何に?離れることに?卒業することに?…大人になることに?

 生温い学校という温室で僕らは育った。「おとな」なんて、いつかは来るけど、遥か先のことでしかないと思っていた。だけどどうだ、この年になってやっと気づく。自分自身の弱さに、そして芯の細さに。そんな温い生活に馴れていた自分に嫌気がさす。あがいても無駄なことと自覚しつつも、あがき続ける惨めな自分。どんだけもがいてもいつかは、大人になってしまうのに。惨めで、また悔しい。戻らぬ過去に思い馳せても、残るのは過去という無でしかない。そんな虚しさ。ちょうど僕らはその過渡期だ。僕にも心当たりがあった。進路。結局、あまり自分でもよく考えないうちに、担任に言われるがままに決めてしまった。痛いほど修也の心がわかった。

 これ以上修也の顔を見ているのが辛くなり、逃げるように夜空に視線を向ける。月はまだ、隠れたままだ。どうやら西から雲が流れてきているらしい。明日は曇りなのだろうか。あさっては?……曇り続けるのはいただけない。何たって気が滅入る――ならどうだ、必ず晴れる。そうに違いない。突如、視界がぱっと開けた。そうだ。そうならば。

「修也、明日は晴れると思うんだ。今は月、曇って見えないけど。」
 そう言って視線を彼に向ける。案の定、修也は何を言っているのかわからない、という顔をしていた。君らしくない。本当に。
「…だから修也も、前、向けよ」
 君にそんな湿気た面は似合わないよ、と心の中で付け足す。彼は昔から単細胞だが勘は鋭い。僕の言ったことは理解できるに違いない――修也なら。

 しばらくして、修也が立ち上がった。思わず顔をめぐらし、修也を見る。そこには見慣れた修也が居た。尻に付いた草を豪快に払う姿はいつもの彼そのものだ。ふっと頬が綻びる。無駄の無い、思わず触れたくなるような体躯が視界に入る。修也は寝転がっている僕に手を差し出しながら言った。
「恭介」
「なに?」
「卒業まで、あとどんくらいかわかるか?」
 指折り数える。
「…多分、あと五ヶ月」
 手に掴まりながら僕も立ち上がり、同じように尻と背中に付いた草を手で払う。湿った背中が風に晒されて気持ちがよかった。歌うように修也は続ける。
「そう、そうだ五ヶ月、俺らはまだ、」
「高校生だ」
 修也が人の悪そうな笑みを浮かべながらこちらを向く。こうでなければ。
「まだ、大人じゃない」
「こども、だ」
 そう言った修也の顔には、もう迷った影など無かった。湿った草いきれのかおりに混じって、涼しげな秋の風が吹いた気がした。

 少なくとも今は、同じところに立って、同じ空気を吸って、同じように生きている。それだけでいい、満足だ。
あたりが少し明るくなった。

 月が、雲から顔を出した。



 そうだ。明日はきっと、晴れる。
最終更新:2007年11月18日 18:28