蓮の脈




 駆の通う高校では、学園祭が九月末に開催される。夏休みの予定表を白紙で提出した駆は、「これっていつでも学校に出てこられるってことでいいのよね」と学園祭の実行委員に詰め寄られ、夏休みの後半を大道具の作成に費やすこととなった。「末光ってそういうとこ要領悪いよなあ」友人の達山が言った。「あんなの、まだ分かりませんとかイナカに帰りますとか、適当に誤魔化しときゃいいんだよ」名物の月餅をぱくつきながら、達山は呆れたように笑った。彼はこの夏休み、カバディ同好会の合宿で屋久島に飛ぶのだという。

 駆がその蓮池を初めて訪れたのは、夏休みの最後の日のことだった。一緒に作業を進めていた生徒たちが各々の用事で散ってしまい、駆はひとり教室に残された。波のような蝉の合唱にやる気を削がれた駆は、教室を後にした。

 蓮池のある小さな空間は、ひんやりとした空気に包まれていた。周囲の木々が夏の熱気と蝉たちの喧騒を吸収し、やけに静かだった。やわらかな風が日光にほてった頬を撫で、駆はほっと息をつく。
 作りつけの長椅子に腰を下ろし、池を覗き込んでみる。池を囲うコンクリートはやけに冷ややかだ。繁茂した蓮には、花はついていなかった。葉の合間から覗く水は静かにゆらめいている。底の見えない深緑色に、駆はこの蓮池にまつわる噂を思い出した。『池で溺れ死んだ生徒の幽霊が出る』というありがちなその噂を、実際に信じる者はほとんどいないだろう。駆だって信じてはいない。だが、校舎やチャペルのある区域からは少々離れていることもあり、何の手入れもされていないこの場所に足を踏み入れる生徒は滅多にいなかった。
「…カケル?」
 突然名前を呼ばれ、弾かれたように背後を振り返ると、浅黒い肌の男子生徒が駆の顔を覗き込んでいた。自分を呼んだ声はもっと遠くから聞こえたと思ったのに。今にも鼻が触れそうな距離に駆が身じろぐと、その生徒は「カケルじゃないのか」と小さくため息をついた。
「おまえ、誰」あからさまに落胆したその様子にムッとして、硬い声で問い掛ける。
「あっ、ごめん、いきなり」
 ぱっと表情を明るく一転させた彼は、成見と名乗った。
 新学期が始まり学園祭期間が近づいてくると、校内は独特の活気に包まれる。生徒達は夏休みの余韻に浸っている余裕もなく祭の準備に明け暮れ、教室は段ボールと布とペンキに浸食されていく。
 成見に出会った日から、駆は蓮池に足を運ぶようになった。夏休み中に任された大道具が出来上がったため、劇に出演しない駆は今となっては用済みだったのだ。人が作り出す熱気とざわめきから逃れるように、そそくさと教室を抜け出す。見咎める者はいない。

駆が蓮池に行くと、いつも成見がいた。「あ、駆」今日も成見は池の傍の長いすに腰掛けている。水面を見つめ物思いに耽っている様子だったが、駆の足音に気付くと、にこやかに手を振ってきた。
「今日は早いんだな。サボり?」
「休講だよ。おまえこそ、いつもここにいるじゃん。ちゃんと授業とか出てんのかよ」
 真面目そうな顔して、結構いい加減な奴だと思う。まあどうでもいいけど、とひとつ息を吐いて、駆は持っていたレジ袋から月餅を取り出した。昼休みに食堂に行くといつも売り切れの人気商品だ。包み紙を剥がして一口かじる。上品な砂糖の甘みが口中に広がり、思わず頬が緩んだ。月餅を食べるのはこれが三回目だが、やはり美味い。
「美味そうに食べるなあ」
「…ひとくちやるよ」そうまじまじと見つめられては、落ち着いて味わえない。
「いや、俺はいいよ。なんか食欲ないし」
「そうか」
「でも、ありがとう」
本当に嬉しそうに、屈託なく笑う。その表情に何故か胸がざわつく。駆は動揺を隠すように、残りの月餅を一気に頬張った。


 学園祭まであと二週間前。クラス全員参加のリハーサルまでいくらか時間があったため、駆は席を立った。教室の戸に手をかけたところで達山に引き止められる。両肩をがっちりと捕まれ、そのまま教室後方のロッカールームに引きずり込まれた。
「なんだよ」
「お前、またあの蓮池行くのか?」
 神妙にひそめられた声が耳にかかり、駆は眉をひそめた。
「…そのつもりだけど」
 達山にあの蓮池で過ごしていることを話した覚えはない。見ていたのか。駆の疑念を読み取ったように、達山はぼそぼそと話し始めた。 「オレの知り合いが超研…超常現象研究会に入ってんだよ。聞いたことぐらいあるだろ?部員が夜中の校庭に集まってUFO召喚したって話。ま、実際はなんも来なかったみたいだけどな…で、そいつが噂の幽霊検証するっつって、火曜日に蓮池行ったらしいんだけど」
 達山はそこで一旦言葉を切り、駆の顔を見つめた。勿体ぶらずにさっさと話せ、と目で促す。
「…そいつ、蓮池で何かと喋ってるお前を見たって」
「何かって」まるで話し相手が人間でないような言い方をする。
「だぁから、誰もいないとこでお前が一人で喋ってんのを見たって言ってんだよ」
「はあ?」突拍子のない言葉に、間の抜けた声が出た。達山は更に早口で続ける。
「出るって噂の蓮池で、一人で喋ってるなんてハマりすぎだろ。お前、あそこで一体何してんだ」
「別に何もしてねえよ。確かにあそこ行ったらいつも会う奴がいるけど、普通に喋るだけだし。幽霊なんかじゃねえって」
「そういうことじゃなくてさ。お前のこと、もうちょっとした噂になってんだぞ。そいつがどんな奴は置いといてさ、しばらくあそこ行くのやめとけよ」
「置いといてって…なんだよそれ」
「オレ、末光がそういうふうに変な噂に巻き込まれるとこ見たくないんだって」
達山の一方的な言い方に無性に腹が立った。
「おまえには関係ないだろ…ッ」
「待てよ!」
焦った声を背に浴びながら、駆は教室を飛び出した。
「お前のことが心配なんだよ…」達山の呟きは、教室のざわめきにかき消された。

 教室を飛び出した駆の足は自然と蓮池に向かっていた。蓮池はいつもの静けさでそこにあり、まるで周囲の空間から切り取られたかのようだった。そしてそこにはやはり成見がいた。駆の存在に気付くと、池を指さして笑いかけてくる。
「駆、見てみなよ。ほら、あそこ、蕾がつきかけてる」
 達山の話を聞いた今、その笑顔がなにか異質なものに感じられた。
「おまえ、いつもここで何やってるわけ」
「…友達、待ってるんだ。約束してたのにこの間来なかったんだよなあ、あいつ」 「…」毎日毎日こんなところで友達を待ち続けている。今まで成見が何故ここにいるのかなんて気にならなかったが、こうして聞いてみるとやはり異様だ。
「なあ、それ、ちょっとおかしいだろ」
「何が? 俺、夏休み前に引っ越してさ。別れるときに、八月三十一日にここで会おうって約束してたんだよ。でもあいつ来なくて、だから」
「朝から晩まで、ずっと待ってるってのか?その八月三十一日って、何年前の話だ?」
「何年前って…言ってる意味がよく分からないんだけど」
「こんなこと言って、バカだと思われるかもしんねえけど」
 冷たく汗ばんだ掌を握りしめ、言葉を紡いだ。
「おまえって幽霊なんじゃねえの…?」
 言ってしまった瞬間、駆は後悔した。やはり言わなければよかった。思わず目を伏せる。
「なんてな、んなことある訳ねえよな。悪い、変なこと言って」
 笑おうとしたが、声が掠れて上手くいかなかった。成見はどんな顔をしているのだろうか。呆れているのか、それとも、いつものように笑っているのか。どんな答えが返ってくるのか怖かった。早く否定して、笑い飛ばして欲しい。だが、恐る恐る顔を上げて見上げた成見は、思い詰めた表情をしていた。
「成見…?」
「そういえば俺――最後にあいつと会ったの、いつだったか思い出せない。ここに来てる他に自分が何してるのかも、何も分からない―――」


 学園祭が一週間後に迫り、クラスの中も祭一色に染まった。放課後は居残りを強制され、クラス劇の同じシーンばかりを繰り返し練習する。今は町人Cが演出責任者にしごかれているところだ。「そんな気合いじゃ、蜂巣くんのクラスには勝てないのよ!」ヒステリックな声にうんざりして、駆は教室の隅で頬杖をついた。隣では達山がカバディを連呼している。いつでもテンションの高い友人に更にうんざりしたが、言わないでおいた。
 一週間前のあの日を境に、駆は蓮池に行かなくなった。もう一度、成見とちゃんと話をしたいという気持ちはあった。しかし、成見の最後の表情を思い出すと躊躇してしまう。蓮池を離れて、駆は成見に会うことを楽しみにしていた自分に気付いた。今思うと、他愛のない会話を交わす中で、彼の穏やかさや、自分にはない素直さに少なからず惹かれていたのかもしれない。  暗い窓の外を眺めていると、目の端でひらりとプリーツスカートが揺れた。
「達、山、くん」
「お、新城。何か分かった?」
「もちろん!大変だったのよ~、伝説の旧生徒会長にお話を伺うのはっ」
 感謝してよね、と大袈裟な素振りでそう言って笑う彼女は、同じクラスの新城明美だ。交友関係が広く好奇心の強い彼女は、自らを情報通と豪語している。達山が彼女に何か調べてくれるよう頼んだのだろう。
「さっすが新城! で、どうだった?」
 近くの席から椅子を引き寄せて腰掛けながら、新城は声を落として話し始めた。
「まず、あの蓮池で生徒が死んだっていうのはガセだよ」
 それまで我関せずとぼんやりしていた駆は、蓮池という言葉にちらりと目をやった。

「でもね、四年前にここの生徒が亡くなったのは本当だった。事故だったらしいんだけど、夏休み中のことで一部の生徒以外には伏せられてたみたい。でも、やっぱりそういう話ってどこからか漏れるものでしょ。口コミで話が広がるうちに、あの蓮池とミックスされちゃったんじゃないかな――あそこ、ちょっと気味悪いしね」
「なるほど…じゃああの噂って、結構新しいネタだったんだな」
 達山は得心した様子で頷く。我慢できなくなって、駆は身を乗り出した。
「おい…その話」
「ああ、超研の奴にお前の話聞いてから、新城に頼んで調べてもらったんだ。やっぱお前のことほっとけないし。蓮池の噂のこと調べたら、何か分かるんじゃないかと思ってさ」
 早口でそう言い終えると、達山は照れくさそうにぽりぽりと頬を掻いた。
「新城、その亡くなった生徒の名前、分かるか」
「無視かよ!」
「え? ああ、えっと…なんて言ったっけ。確か、星野カケル、だったかな」
 ―――カケル。
 瞬間、駆は初めて成見に会ったときのことを思い出した。あのとき、成見は自分のことをなんと呼んだだろう。
『…カケル?』
 どういうことだ。死んだのは成見じゃなかったのか。じゃああいつは、成見は一体何なんだ――訳も分からないまま、駆は教室を飛び出した。
「あっ、おい、末光!」
「…なんだか妬けちゃうわあ」
「え?」
「達山って、ホント末光くんのことばっか見てるんだもんなぁ」
 階段を二段飛ばしで駆け下り、蓮池へと向かう。途中で理科教師の笹川とぶつかった。彼の持っていた試験管から緑色の液体が撥ねたのが視界の端に見えたが、今はそれどころではない。
「…ッ…成見!」
 数日ぶりに訪れた蓮池は、夜の闇に黒く沈んでいた。成見の姿は見当たらない。
「成見!いるんだろ!出て来いよ!」
 張り上げた声が、鬱蒼と繁った木々に吸い込まれていく。幾度か呼びかけたが、答える者はない。このまま成見は現れないのだろうか。半ば諦めかけたとき、背後から聞き慣れた声がした。
「駆」
 月の出ていない夜なのに、成見の姿ははっきりと見える。駆は、成見の身体が仄かな光を放っていることに気がついた。
「…成見」
「もう、来ないかと思った」そう言って笑う成見の寂しげな表情に、何故か目の奥がじわりと熱くなった。早く伝えなければ。
「成見、聞け。おまえの待ってるカケルはもういない。…四年前に事故で亡くなったんだ」
「…そうか…」
「驚かないのか…?」
「カケルがもうどこにもいないってこと、なんとなく気付いてたのかもしれない。俺、最後にカケルと会ったときの他に…何度かここに来たような記憶があるんだ。八月三十一日に。でも何回来てみてもあいつはいなかった。あいつは約束を破るような奴じゃないし、何かあったのかもしれないって思った。それに気付かないふりしてたんだ」
「…」
「でも今年、俺が毎日待ってたのはカケルじゃない、お前だった」
「は…?」
 思いも寄らない言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。こいつは何を言っているんだ。目を丸くする駆に構わず、成見は続けた。
「愛想なくてなんかキツくて、でも実は優しいんだよな…月餅くれようとしたりさ」
「いや、あれは…」成見は少し笑って、すぐに表情を引き締める。
「駆。俺、もう戻らなきゃいけない気がするんだ」
「なんだよそれ…!どこ行くんだよ…」
 行くなよ、と小さな声で呟く。
 二人の間の空気が微かに動き、駆の身体をやわらかな光が包む。不思議とあたたかいその光の中で、駆は成見の腕の中に抱かれているのだと気付いた。
「駆、―――ありがとう」
 成見の輪郭が光に溶けてゆく。光は夜空に舞い上がり、星に紛れて次第に見えなくなった。
 全ての光が消えた後の蓮池には、一輪の蓮の花が咲いていた。


 学園祭が始まった。二年生の行事は初日に行われる。駆のクラスの劇もつつがなく終了した。クラブによっては出店を開くところもあるようだが、帰宅部や弱小部員はクラスでの役目が終わってしまえば気楽なものだ。駆と達山も例に漏れず、残りの学園祭を満喫していた。
「末光、焼きそば食おうぜ焼きそば!オレ、実は食券二枚買ってあんだよ」
「マジか。じゃあ、金払う」
「いいよいいよ。これはオレのオゴり…」言いかけたところで、達山は背中をばしりと叩かれた。新城だ。
「ねえ達山、茶道部のお茶会つきあってよ~。一年の家元の子が準備に協力してて、お茶がすっごく美味しいんだって!」
「はあ? 唐澤と行けよ。お前らいっつもつるんでるだろ」
「晶子は今取り込み中なのよ。ほら、行こ行こっ! 末光くん、達山借りるねー」
「あ、ああ」
「おい、ちょ、待っ…末光!こいつを止めてくれええ!」
 新城は女子とは思えない腕力で達山を引っ張っていき、あっという間に人波に消えた。焼きそばー、と情けない声が廊下の向こうから響いてきたが、聞こえないふりをしてふらふらと歩き出す。特に行くあてはなかった。どこもかしこも人だらけで酔いそうになる。どこか静かなところに行きたい。駆は蓮池へと足を向けた。
 成見が消えた後、毎日蓮池を覗いたが、もう彼が現れることはなかった。達山は何かを察しているようだったが、何も聞いてはこない。
 結局、成見がどうなったのかは分からないままだ。彼は一体どこへ戻ったのだろうか。学生名簿でも調べれば何か分かるかもしれないと思ったが、駆はそうする気にはなれなかった。

 理科棟の標本館の前を通りかかったところで大学生の集団とすれ違った。どこかのクラブのOBだろうか。さっさと通り過ぎようと足を速めたそのとき、その大学生たちの会話が耳を掠めた。
「成見、そろそろ行こうぜー」
「あ、俺ちょっと行きたいとこあるんだ。後で追いつくから、先行ってて」
 自分の聞き違いだろうか。今、成見と聞こえた気がする。心臓が早鐘を打ち始める。大学生たちは成見と呼ばれた人間を残してどこかへ行ってしまった。かける言葉も思いつかないままに走り寄り、その腕を掴む。
「あの…!」
 駆の記憶よりも少し背が高くなっていたが、きれいな黒い瞳は変わらないままだった。
その瞳が駆の姿を認めて見開かれ、言葉を発するために唇が動く。その一瞬が、やけに長く感じられた。
「…駆…?」
 少し低くなった声が駆の名を呼ぶ。覚えていてくれた―――
「成見、」
「駆に会いに来たんだ」
 そう言って頬に伸ばされた手は、あの夜の光のようにあたたかかった。
最終更新:2007年11月18日 18:29