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春暁




 春だ。
 先日、入寮式があった。入学式のあった日の、午後のこと。こういうイベント事の為にあるんじゃないかと思われるような広さの、寮内の食堂で行われた。新しい風が吹き込み活気が漲る。初々しい、下ろしたての制服を身に纏った生徒で食堂は溢れかえっていた。希望を目に湛えた者、だだっ広い食堂に当惑し自分の席を見失う者。四年前の自分自身の姿が見えた気がした。…ただシュウヤには希望なんて無かったが。


 実は当初、こんな特別課に入学するつもりなんて毛頭無かった。シュウヤは軍人が嫌いだった。理由は単に、姉を悲しませたからだ。姉の恋人は軍人だった。しかしある日突然出征命令がかかり、激戦の北方へ赴いた。それ以後、音信不通、消息不明。しかし姉は彼の帰りを待っている。生きているのか、そうでないのかすらわからないというのに。
 それはもう何年も前の話だ。
 あの軍人は姉から笑顔を奪った。だからそんな軍人に自分がなるだなんて、考えたくも無かったのだ。中途半端に出来た自分の頭を恨んだりもした。
 そんなシュウヤを変えたのは、キョウスケだった。風薫るこの時節になるといつも思い出す。彼、つまりキョウスケとシュウヤが出会ったのは四年前の、ちょうど入寮式の日だった。

 入寮初日、シュウヤは案の定迷路のような廊下で迷った。茶色い個室のドアが、全て同じに見えてどうしようもない。
 しかしオレンジ色の明かりの下、途方に暮れていた時に手を差し伸べてくれた先輩が居た。向けられる柔和な笑み、落ち着かせるように背を撫でる暖かな掌――シュウヤの中で、凝り固まった冷たい何かが溶け出したのが分かった。彼に興味が湧いた。
 そして後日、シュウヤはその先輩の名前を知ることになる。名前はホンジョウキョウスケ、学年はシュウヤより一つ上、貴血の家柄…
 それ以来今日まで、同じ特別課として、そして先輩後輩として、他の同輩より友好的な関係を築いてきたとシュウヤは自負している。だからこれまでに、他にも色々なこと――例えば一人っ子であることや、第三学年のとき、両親を北方戦線で亡くしたこと――を話してくれた。シュウヤも姉のことを話した。キョウスケとの会話は、シュウヤの学園生活に彩りをもたらした。

 そんな、十七歳の、春の出来事。


 開け放たれた、教室の窓からゆるやかに流れ込む春の香りに鼻腔を擽られる。窓の外から聞こえる女子生徒の笑い声に、四年前の記憶から急に現実に引き戻された。長い間その思い出に浸っていた気がする。夢に区切りをつけるように目を擦り、次の講義は何だったかと丁度傍に居た友人に尋ねた。しかしどうやら、今日は今から臨時の全校集会が開かれ、次の講義は繰り下がって行われるらしい。シュウヤは急いで机の上に軽く荷物を纏めると、会場となる講堂へ向かった。

 全校生徒を集めての集会は今年度二回目、始業式以来だ。それにしても異様にスパンが短い。何か非常事態か…いや、そうならこんな暢気に集合などかけないだろう。現に、この空間は驚くほど緊張感が感じられない。それを示すかのようにあたりは生徒たちの話し声でざわついていた。隣の女子生徒達なんて、話題の俳優がどうだの何だの、全く緊迫感の欠片も無いような話題で盛り上がっている。だが。
――そうではない…何かが起こっているのではないか。
 暫し記憶を辿る。以前にも何か――漸く思い出した。そういえば過去にも同じようなことが一度だけあった。徴兵だ。三年前、最高学年の優秀生数名が徴兵され、全校集会の檀上で挨拶をした。確か今朝の朝刊にも、北部の戦況が悪化したので新たに徴兵を行うと記してあった。この学校からも徴兵されるのか…キョウスケはどうなる。彼は…
 彼は、最高学年の首席だ。間違いなくその対象だ。
「――んなわけ無いよな」
「シュウヤ?」
「え、あ、いや、何でもない」
 独り言に返事をされて少々困った。
 どうにもシュウヤには、軍に関することになると辺りを見失う癖がある。しかし不審に思われても仕方ない。シュウヤが物思いに耽っているうちに、先程の喧騒が嘘のように辺りは静まり返っていた。最高学年が入場したのだ。直に集会が始まる。
 シュウヤは推測の結果浮かび上がった考えたくもない結論を頭の隅に押しやり、檀上を見据えることにした。

 定型文を並べただけのような教務の挨拶に始まり、校旗の掲揚やその他諸々が何の滞りなく行われる。何の変哲もない、いつも通りの全校集会。差し込む日差しはまどろみを誘うようだった。…そしてようやく、校長の「おはなし」が始まった。
 重い、鉛のような、耳に突き刺さるような声。

「北部戦線の戦況が芳しくないので、全国的な徴兵を行うことにした。本校もその対象に選定され、第六学年の優秀者数名を北方軍部に派遣することが決まった」…シュウヤの予測通と寸分違わぬ内容。
体中から嫌な汗が垂れ流れる。制服の胸元が苦しい。頭と体が燃えるように熱かった。
校長の話はまだ続いている。
 話の続きを聞きたくなくて、考えたくなくて、いっその事この空間から逃げ出してしまいたかった。校長が次に何を言うかなど、火を見るより明らかだった。誰を派遣するか――いつもは脳裏に甘く広がる彼の名を、今だけは聞きたくない。

 そして次の瞬間、校長の口からキョウスケの名前が呼ばれる。
 派遣団の、代表者。頭を横殴りにされたようだった。

 代表者としてキョウスケが壇上に呼ばれる。挨拶でもするのだろう。何も考えられないまま、呆然とその後ろ姿を見つめた。年の割には脆弱な背丈。なのに彼の操る魔法能力は群を抜いていて、他を圧巻していた。シュウヤもその力を知っている。彼は強い。だが、駄目だった。駄目だと知りつつも、自分の姿を姉に重ねてしまった。彼を失いたくない。闇の中で彼を待つなんて、耐えられない。キョウスケのスピーチが始まっても、暫くの間は声も内容も頭に入ってこなかった。
 しかしふと、壇上で話すキョウスケの声が耳に入る。一気に頭が醒めた。
――……命を尽くして、精一杯……――
「…」
(死ぬ気なのか)
 確かに軍人である以上、生きて帰るということなどただの希望でしかない。棺桶は予め用意しておくものだ。
(死ぬことを、恐れてはいないのか)
 そんなことを気にするなど、仮にも軍人の端くれとして失格なのは分かっている。しかし、気になった。
(生きたいと思うのは、人間の理ではないのか)
 生きたいと思って何が悪い。だが間違いなく、それは不毛な疑問だった。シュウヤにとっても、キョウスケにとっても。
(出征の挨拶としては常套句、か)
 そんなところだろう。ある種の言葉の綾だ。そうであるに違いない。そうだと思いたい…
 これ以上考え出すと途方も無い渦に巻き込まれそうな気がして、シュウヤは漸く開かれる次の講義内容に頭をシフトチェンジすることにした。


 かすかに橙色を西空に残すだけで、空は紺色に姿を変えていた。あたりが漆黒になるのも時間の問題だ。
 あっという間に時計の針が進んだ、怒涛のような一日。余計な事を考えないように、いつも以上に講義に打ち込んだ。自分の為だと、将来の為だと言い聞かせながら。本当は今朝から動揺し続けている自分を隠したかっただけなのに。頭に引っかかった、くだらない疑問――キョウスケは何を思ってあの言葉を言ったのか――は消えることなく脳裏を渦巻いている。
(聞くしかないか…)
 最早、それ以外に手は無かった。

 キョウスケの自室へと足を急かしていると、ドアの前で運良くキョウスケの背中を見つけた。彼も自室へ戻るところだったらしい。シュウヤはその背に声を掛けた。くるりとキョウスケが振り返る。
「キョウスケさん」
「…シュウヤか」
 キョウスケの表情はいつものままだ。しかし食事を摂った後だったせいか、心なしか幸せそうに目じりが下がっているように思えた。
「どうした?おまえがこんな所で俺を呼ぶなんて珍しい。廊下で話すのも何だから…そうだ、部屋、入るか?」
「いえ、ここで大丈夫ですよ…そんな長い話ではないですし」
「そうか」
 そう言うとキョウスケはシュウヤに近づいてきた。彼の顔は逆光のためかで翳っていて、茫洋としている。まるで古からの伝説に出てくる精霊のようだとシュウヤは思った。
(なにを考えている、こんな時に)
 慌てて頭の中で聞きたいことを纏める。
 …キョウスケに腹を立てられるかもしれない、嫌われるかもしれない。恐らくそのどちらもだ。だがここで逃げてしまえば、何ら根本的に解決されない。
「で、どうした」
 腹を括った。キョウスケの目を見据える。
「…失礼な話だと、下らない話だとは存じています…今朝のあの挨拶は、ご本心なのですか」
――死ぬことを、恐れてはいないのですか
「…ただの、出征挨拶の常套句だ」 
 予想されていた回答。
 だがキョウスケの目は泳いでいた。それをシュウヤは見逃さなかった。
「本当に、そうだと」
「言えるのか、って?」
 シュウヤに嘘がばれたことが分かったらしく、キョウスケは少し笑っていた。だが、これは冗談ではない。
「本気なのですか」
 キョウスケは押し黙った。眉間に皺が寄っている。そんな顔をさせたのは自分だ。
――長い沈黙。そして絞られたような声。
「――ああ」
「命を尽くす、と」
「そうだ」
 キョウスケの表情が更に翳った。もう細かい表情を察することは出来ない。
「なぜ、」
「俺にはもう泣いてくれる人も、帰りを心配してくれる人も居ない。分かってんだろ?だから行く。国の為に働いて、その結果がどであろうと俺は満足だ…俺の名前も浮かばれたもんだろ」
 崖の上から、突き落とされた気分になった。

 畳み掛けるように繰り出される光景に、吐き気ともつかない思いが腹から沸き上がる。姉の笑顔――それはもう悲しみに塗れてしまった。仄暗い赤に染まった視界を拒絶するかのように頭を振る。背筋をぞっと何かが駆け抜けた。恐怖だ。そんな体の奥底でうごめく感情をやっとの思いで押し殺し、シュウヤは少しふらつきながら頭を上げて言った。
「わかりませんか」
「…何が」
――ふと向けられた厭世的な笑みに、脳髄が焼き切れる。
 待つ身のこと、絶望に近い希望でさえ縋らなければならないこと、その身を削るような苦しさのこと、
(なぜ、あなたはわからないのか…!)
 激情の赴くまま目の前の薄い胸元を両手で掴み込み、背後の壁に押し当てた。キョウスケの体が壁にぶつかって、鈍い音が鳴る。
「っ…シュウヤ!」
 噎せるキョウスケをそのままに言葉を続けようとしたが、飽和状態の頭ではろくな言葉が浮かばない。なぜ、何で、どうして…まるで駄々をこねている子供のようなざまだった。耐え難い静寂が宵闇を支配する。
 先ほどまで西空に残っていた橙色は、既に消え果ていた。

「…おい」
 訝しむキョウスケの声にはっとして、慌てて手を放した。目の前には胸元があった。シュウヤが掴んでいたせいで皺になった、キョウスケの胸元だ。
 どれほど壁に彼を押し付けていたのか定かではない。ただ置かれた状況のせいか、押し付けていた時間の割には憔悴しているように見えた。
 後悔が波のように押し寄せる。頭よりも体が勝手に動いた。
「申し訳、ございませんでした。すみませんキョウスケさん、俺、」
「――皆まで言うな…かまわない」
「本当に、」
「だから…」
 俺は大丈夫だ、と告げるキョウスケに、情けなさで涙が眦に滲む。落ち着かせるようにシュウヤの肩を摩るその仕草に、入寮式のあの日のことを思い出した。
 涙が臨界点を越えて零れ落ち、視界が歪んだ。まだ肩を摩る手は止まない。居た堪れなくなって面を上げ、相当酷い顔であったろうことは承知の上でもう一度謝った。
 キョウスケは俺の事はいいから早く部屋へ戻って休めと言ってシュウヤを宥めると、今度は背中を摩った。

 キョウスケの部屋の前から自室まで、どうやって辿り着いたか記憶が曖昧だ。ただ、触れた壁の冷たさは覚えている。無機質な木の壁は朦朧とした身に堪えた。そのうえ今夜は新月らしい。ただでさえ昏い廊下は深淵のようだった。
 また、あの時と同じようにキョウスケに宥められてしまった。四年前と全く変わらない状態に、少しは成長したと驕っていた自分を恥ずかしく思う。
 キョウスケがああ言うことは分かっていたはずなのに、酷く動揺してしまった。我を忘れた自分自身にも動揺した。あんな姿の彼を、キョウスケを見ると、いつものように冷静な自分を保つことが出来なかった。
 なぜだ
 彼は自分の、何だというのだ
 自分は彼に何を求めているのか
――執着
 …この感情を以って彼を傷つけたことは、己の彼に対する独占心の表れか。知らぬうちに堆積していた、その感情そのものがそれか――一瞬、その感情に下心が透けて見えた。シュウヤはそれに嫌悪した。それが自分の本心のようで、鬱々とした。

 それから暫くじっとしていたと思う。そんなに長い間ではなかった。振り返るように両の掌を眺める。
――そういえばあのとき
 キョウスケの胸倉を掴んだとき、思い切り自らの拳を胸に押し付けてしまったのではないか…新たな不安が脳裏を過ぎる。有り得すぎる話だ。更に鬱々とした。
「痣…」
 痣にはなってはいまいか。いや、あれだけ力を込めれば確実にそうなっているに違いない。シュウヤは文字通り頭を抱えた。あまりに大人気ない自分自身に辟易する。
 だが、何もかも明日以降だ。今日、今からもう一度会って、冷静でいられる自信がシュウヤには無かった。更に彼を傷つけてしまいそうだった。
 開け放たれた窓から、温い夜風が頬を撫でる。
「…」
 落とした視線の先には、嬉しそうに微笑む姉の写真があった。


 数日間、考え抜いた。
 もう逃げるのも、誤魔化すのも懲り懲りだ。現実からも、彼からも、そして自分からも。

 今日で、キョウスケら派遣生に課せられた朝から晩までの校外演習は終わりだ。今夜はキョウスケと話せる、そう思うだけでシュウヤの心は軽くなった。実はあの晩以来、その演習やシュウヤのスケジュールも相成って、キョウスケと顔を合わせることが出来なかったのだ。会って、とにかく話がしたい。
 そろそろ食事も済んだ頃か、と手元の参考書を閉じると、シュウヤは食堂へと向かった。

 食堂からキョウスケが出て行く姿を見たということを聞きつけ、シュウヤは小走りで食堂から伸びる廊下へと向かう。
 あのままで終わらせるのは嫌だ。
 許してもらおうなんて、そんな都合の良いことは思ってはいない。ただ、会って謝りたかった。あの呆然とした表情を思い出すだけで泣きたくなる。
 そして、残っているであろう胸の痣。個人的な激情に駆られ、大切な人を傷つけてしまった自分の弱さも耐えられなかった。自己中心的な思考であるとは分かっていたが、せめて、その傷だけは自分の手で治したい。 
 まだ会ったわけでもないのに、次々とキョウスケに会って話したいことが浮かんでくる。まるであの時とは違う、そんな自分に溜息が漏れた。

 食堂から伸びる廊下で漸く姿を捉える。あの晩とは違い、廊下の窓からは月光が差し込んでいた。お久しぶりです、とその後姿に声を掛ける。振り返った姿はいつもと変わらない、そのままのキョウスケだった。
「シュウヤ」
「…お話したいことが」
 キョウスケが軽く瞠目する。が、予期せぬ言葉が続いた。
「…ちょうど、部屋に戻るところだったんだ――おまえも来るだろ?部屋」
 次はシュウヤが目を瞠る番だった。
 キョウスケがこんなに強引な姿を見せるのは珍しい。しかし頷くしかシュウヤに術は無かった。キョウスケは既に自室へ向け再び歩き出している。慌てて後ろを追いかけ彼の自室へと向かった。

 部屋へ入り、キョウスケが口を開くより先に全てを謝った。途中から涙が止まらなくなり鼻声になったが、それからもキョウスケは耳を傾けてくれた。それだけで良かった。
「泣いてくれる人が居ないだなんて、そんなこと言わないで下さい」
「…悪かった」
「心配してくれる人も居ないだなんて、そんなこと言わないで下さい」
「…すまない」
 少し呼吸を置く。
「――それと、胸の痣、治させて下さい」
「何で、おまえ、それ」
「…私の専門は治療魔法です…自分が付けたであろう傷の具合くらい見当はつきます」
 そうか、と照れたように俯く仕草が不謹慎ながら可愛らしかった。思わず頬が綻ぶ。
「…それで、俺はどうしたらいいんだ」
「――…上着を脱いで、胸元を少し開けて下さい」

 ぼぅ、と青白い光珠がシュウヤの指先から溢れる。そしてそのまま指先でなぜるように痣になった胸を辿ると、ベッドに肘をつけ座り込んでいるキョウスケが少し呻いた。
「あの、今、」
「…!何でもない、続けてくれ」
 たかが二、三分のことだ。普段の治療訓練に比べたら、このような手当てに手間取るはずも無い。だが、今晩はやけに緊張した。先輩であるキョウスケを目の前にしているせいか、それとも…。
 次第に薄れていく痣が、この世のものとは思えないように見えた。
 神秘的、とも言えようか。
――どうかしている
 邪念を振り払うかのように、シュウヤは軽く頭を振った。もう少しで治療は終わる…シュウヤは指先に全神経を集中させ、治療を続行した。

「…すまなかった」
「それはこちらの台詞です」
 治療が終わった後、キョウスケの計らいで何故か二人して椅子に座って紅茶を啜っている。開け放たれた窓から吹き込む夜風は爽やかで気分が良かった。暫く経ってキョウスケがぽつりぽつりと言葉を吐き出す。
「――俺のために泣くだなんて、おまえ、本当に…」
「お節介、ですか?」
「いや、そういうわけではなく、ただ、」
「…お節介でも何でも構いません。だけど大切な人が傷ついてしまうかもしれないというのに、黙ったままでいることなんてできませんよ」
 言い終えるなり突然キョウスケの目から涙が零れた。そしてそのまま俯いてしまう。普段はあまりこういった感情を出さない彼だけに、シュウヤは当惑した。
 嗚咽の合間から、押し殺したような声が漏れる。
「――おまえ、本当にばかだよ…」
 暫くの間、キョウスケは俯いたまま肩を震わせるだけだった。シュウヤはその小さな背中に自分の上着を掛けた。

 本当に今日は迷惑掛けっぱなしだったな…と苦笑いを浮かべるキョウスケから上着を受け取り、シュウヤは椅子を戻した。迷惑だなんてとんでもない、寧ろ何に感謝をして良いのやら分からない。シュウヤが悶々としているとキョウスケがおもむろに口を開いた。
「北方から、帰れそうになったらおまえに手紙を送る」
「…!」
「だから、それまで待ってろ…俺が帰ってくるまで病気になることも、怪我することも禁止だ!分かったな!」
 もう口角が上がるのを抑えられない。相当だらしない顔をしているだろう。
「わかりました。必ず」
「…そう言ってくれると嬉しい」
 ドアノブに手を掛け、キョウスケの顔をもう一度見る。夜も更けた。後ろ髪を引かれるが、そろそろ自室へ戻らねばならない。
「明日も早いでしょうし、それではキョウスケさん――おやすみなさい。また、明日」
「ああ…おやすみ、シュウヤ」
 そういった瞬間、キョウスケは花のように微笑んだ。
「!」
 その笑顔は一生、忘れることができないと思った。


 春の風に夏の香りが混じり始めた頃、キョウスケは北方へと赴いた。出征する日の朝の彼は、彼らしくまったくいつも通りだった。
(良かった)
 あのまま現実から逃げていたら、きっと後悔で死にそうになっていただろう。あの夜、本当に彼に会うことが出来てよかった。自室へ帰る間際、見せてくれた笑顔は心からのものに違いない…シュウヤはひっそりと微笑んだ。


 北はまだ春を迎えた頃だろうか。
 肌の白い彼には、南より遅れて訪れた、北の春も似合うかもしれない。
最終更新:2008年08月16日 23:52