その遠く狭い視界の中で
失言だった。どうしようもない失言だ。一番分かっていたはずの自分が、何故あんなことを言ってしまったのか。
「噂になってますよ。」
言われて、足元に突き刺さっていた視線を彷徨わせてから、やっと前を行く彼女に行き当たる。
先程の一般課の授業の後、壇上からよろよろと降りた自分に、「委員長のシイナです」と自ら紹介した少女の顔を、俺はろくに見もしなかった。自分の歩幅で進んでしまえば一歩で足りるほどの距離をいそいそと先に進む彼女の表情は、後ろからは見えない。女性にしては低い声音だ、と思い、それから膨らんだ頬の柔らかいラインを見つめて顔を思い出そうとして―――、途端に気恥ずかしくなって止めた。
「先生、いつからここですか?」
噂とは何の、という問いかけを挟みそびれた。自分の愚鈍さにうんざりしながら、問われるがままに答える。
「一週間と、ちょっと前、かな」
「道理で。休み中、寮に残ってる生徒によく目撃されてたんで、ちょっとした噂になってたんですよ。」
今度こそ、聞く。
「・・・何が?」
「先生が。」
にっこりと振り向いた彼女の表情は、あいつのそれと重なった。
俺が持っていないものを、あいつが全部持っていた。月並みだけれど、そういうことだ。
じゃあまた、と先に駆けていった彼女をぼんやりと見送ってから、ようやく自分の足で歩き出す。吹きさらしの渡り廊下を通り抜ける風の冷たさにはまだ慣れない。
離れたグラウンドでは、特別課の生徒が訓練でも行っているのか、光が舞っているのが見える。そこから無理矢理視線を引き剥がして、自分を階下へと運ぶ箱を動かすための紐を力任せに引っ張った。
目を凝らしたとして、その姿が見えるはずもない。その遠い距離。
開かせてしまったのは、俺だ。
日が暮れてから、見回りと称した逃亡のために、軽く上着を羽織って外に出た。やけに長かった一日の間に溜まった疲れのせいか、地面を踏みしめて歩いているつもりが、どんどん身体が傾いていくようだ。
ひっそりと静まり返ったその場所に適当に腰を下ろし、その冷たさに一人で肩を震わせる。加えて、またそういうものたちが足元を走り抜けていったのか、その固まった肩に鳥肌がたった。
「先生」
顔がよく見えない。浮かび上がったのは、横に大きく微笑んだ口元だけだ。
「…シイナ、か。」
覚えたての名前を頭の中で反芻しながらゆっくりと口に出すと、彼女は意外なほどに嬉しそうな顔をした。
「覚えててくれたんですね。」
何となく視線のやり場をなくして、開いた足の隙間へとため息を送った。本格的に冷えてきたのか、吐く息が白い。
「そんなわざわざ冷たいところに座らなくても。水際は寒いでしょう?」
水、と言われて振り返る。池だった。真っ黒で大きな水溜り。辺りが暗くなってきているとはいえ、今まで気が付かなかったなんてやはりどうかしている。膝に被せた両腕に顔を埋める直前、彼女が一歩こちらに踏み出したのが見えた。
「…悪かったと思ってるよ。」
答える気配はない。
初めての授業で気が昂ぶっていた俺は、足元を徘徊するものたちの感触に、いつもより過敏になっていた。そうして見つけたのが、その甘い匂いだ。生徒が紛らわしに口に放り込んでいた、一個の飴玉。注意しても口を尖らせたままだった彼に、呑気だな、となんとはなしに呟いた。いや、なんとはなしということはない。あいつのことを考えていたから、出た言葉だ。
「でもよく分かりましたよね」
顔を上げると、いつの間にかすぐ隣に座っていたシイナがその大きな瞳を見開いて、覗き込んでいた。
「匂いがしたから」
「匂いなんて。…それが先生の魔法?」
唐突に髪の中に手を入れられる感覚に、上半身を後ろにそらせた。何とも情けない。
「違う…」
ふうん、と彼女は髪から首へ、肩へと手を滑らせた。不思議と不快感はない。
「ま、気にすることないですよ」
肩に手を置かれたまま、すぐ横から声がする。頑固に前を向き続けていると、宥めるように、そのまま軽く叩かれた。
「みんなすぐに忘れます、多分。時々いつまでもしつこく覚えてるけど。先生はもしかしたら、その「時々」にあたっちゃっただけで。」
軍事に携わらない一般課の生徒には、彼らなりのプライドがある。北方戦線のよくない噂が多い現在、特別課の生徒たち―――つい先日も、その内の優秀な何人かが召集されたという通達があった―――よりも安全圏に置かれているとみなされることの多い一般課の生徒たちは、自分たちの役割を果たそうと必死なのだ。
痛いほどよく分かる。そう、俺こそ理解してやれるはずだった。
あいつに、何もしてやれなかった俺だからこそ。
「先生、貴血ですか?」
また何の前触れもなく放り投げられた問いに、鼓動が早くなったのを自覚する。
「…なんでまた」
「この学校の教師は、大体みんなそうですよ。それに、」
と、淡い色をした俺の髪を手に散らばらせて、また笑う。
「というかね、先生、私達のクラスに気使うよりも、次の大教室の黒板、なんとかした方がいいですよ。上の方背が届かないのか知らないけど、字、汚すぎ。」
「…なんで知ってる」
シイナたちの教室と、俺が二限目に向かった大教室は校舎が違う上に、そこそこ距離も離れていたはずだ。
「さあ」
答えを得られなかった悔しさに、未練がましくその横顔を見続けた。シイナはそ知らぬ顔で振り返り、池の冷たい水に手を浸す。意気込みの割りにはあっさりと諦めて、前に向き直った。膝の上で組んだ拳が冷たくなっている。…これは、何の時間だろう。
あ、と彼女が唐突に声をあげて立ち上がる。
「どうした、」
「先生、そろそろ行った方がいいです。」
呆けてシイナを見上げると、見かけにそぐわない強い力で引っ張りあげられた。というより、こんな女の子に好きなようにされてしまう自分の身体の貧弱さを反省した方がいいのだろうか。
ほら、と背中を押されて立ち上がる。躊躇っていると、再び乱暴に力が込められた。
女の子の機嫌というのは、どうにも分かりにくい。
「先生、いつまでも気分が悪いようだったら頼んどいてあげますから」
「何を?」
ぐいぐいと前に押し出されながらも聞くと、
「薬。園芸部の先輩の、よく効くって評判なんです。」
まるで内緒話のような声音で返ってきた。
分かった分かったと、適当に後ろに手を振って、そのまま自室のある建物に向かう。随分遠くなってから振り返ると、自分が座っていたあたりに新しい人影が見えた。寮を抜け出してきた生徒だろうか。
いつの間にか闇に溶けていたシイナの姿を探し出すことはできなかった。
「先生」
そう呼ばれるだけで、反射的に振り返ることのできた自分に驚く。
通りやすいその声が誰のものかを思い出す前に、彼女、シイナは俺の前に立ち塞がって、もう既に見慣れたものになりつつある笑顔を向けた。
「元気ですか?」
頭の高いところでまとめた髪を「元気に」振らせている。睡眠不足でぼんやりする頭を傾げながら、元気だよ、とぎこちなく微笑んで返すと、満足そうに頷いた。
「昨日の晩、早めに帰らせておいて良かったです。風邪もひかなかったみたいだし。」
「ああ、あれ風邪ひかないようにってことだったのか。」
妙に感心して言うと、
「いや、まあ、人が来たからなんですけど。」
と照れたように笑った。
「そういや、あれ、なんで気づいたんだ?君が俺急かしたの、誰かがこっちまで来る随分前だったろ」
「見えたから。」
その声音の真面目さに、こちらも慎重に視線を返す。
「私の魔法。千里眼なんです。」
阿呆みたいに口を開いてしまった俺に、そんなに驚くことですか、と笑いを堪えながらシイナがしてくれた説明によると、彼女の持つそれは、文字通り「千里眼」、どこまでも見渡すことができる能力のようだった。
「そんなに珍しくないでしょう」
「珍しいよ。…いや、どうなんだろうな。少なくとも俺は一度も会ったことはない。」
訳の分からない気恥ずかしさに、もそもそと言い訳のようなものを口走る。何となく、隣にいる彼女はこういった話し方を嫌うのだろうな、と思う。
昨日の生徒のようだ。飴を頬に押しやって、何とか言葉を紡いでいたあの滑稽さ。
そう、やはり自分はあれを「滑稽」だと感じたのだ。自分が一番よく分かるはずだの、失言だったのだのと、言い訳しながら。
「…じゃあ、あれだな。」
抱えていた本の類に目を落とすと、手がまた無意識に揺れている。のせいか、緊張のせいなのかは分からない。ぼんやりと彼女の話を聞いている間にいつの間にか、渡り廊下まで出てきてしまっていた。
スカートからはみ出した足を剥き出しにしたシイナは、寒そうな様子など欠片も見せずに、ずんずん歩いていく。背筋の伸びたその凛々しい後姿と、ついて歩く情けない教師。自分の方がそれを見てごちゃごちゃと考え事をしているということを除けば、昨日と何ら変わりのない。
「君には、授業中の俺のみっともない震えなんかも見えてる訳だ。」
「視力がいいってこととはちょっと違うんですけどね。…でも、まあ、先生の場合、魔法なんて使わなくても動悸まで聞こえてきそうだけど」
軽く目の端で睨むと、彼女はあははと軽やかに笑う。
「なんで君は一般課なんだ。千里眼なんて、歓迎される能力だろう」
「歓迎?」
「もってこい、というか…」
何故自分が気弱になっているのか。不快にさせたかと思って黙り込む。が、俺の心配を他所に、俺の顔を覗き込む彼女の瞳は相変わらず面白がるような光を帯びていた。
「先生、なんで先生になったんですか?」
「なんでって」
「だって向いてない。」
自覚はあるが、傷ついた。
「選別されるときには特別課でしたよ。断りましたけど。」
さらりと為された告白に、思わず目を剥いた。
「お前、そんな、異例だったろ」
「いいえ、別に。」
「そんはずはないよ、」
「そんなはずはあります。」
そうは言うが、こればかりは俺が正しい。特別課への誘いを断る奇特な生徒はごく稀にしかいない。選ばれることは名誉でもある。
「先生が珍しいと思ってることが、みんなにとっても珍しいとは限らないでしょ。」
そう、名誉だ。誰も彼もが俺に期待したことだ。
足元を這いずり回る生き物たちの吐息を感じ、伝えられるという能力しか持たない俺にはできないことだ。
俺には望んでもできなかったことを、彼女は「望まなかった」。
「心配だったんだ」
いきなり立ち止まったせいか、シイナがゆっくりとこちらを振り向いたのが分かった。階下では、次の授業のためか、鞄を振り回しながら中庭を駆け抜けていく生徒たちがいる。
その、明るい、表情。
「あの娘は、優秀だから。」
訝しげに見つめてきたシイナの瞳を、俺もしっかりと見返す。その瞳が見つめるものが俺でなくても、俺の遥か後ろにあったとしても、どちらにせよ、伝える気にはなっていた。
「優秀なんだよ。」
君みたいに、と続ける。自然に出てきた言葉だ。そう、君によく似ていた。溌剌として、成績もよい、よくできた娘だ。君と違うのは、あの娘は特別課で、君は一般課だってこと。
それから、あの娘が貴血だったということだけだ。
「俺の代わりに行かされたようなもんだ」
期待に応えられなかった俺を、あの娘は笑って優しく慰めた。
あの娘が持っていたもの。そして、俺が与えられなかったもの。
「心配だったんだよ…」
大きく息を吐く。シイナには見えているのだろうか。俺の内側の震えが。
「それが、理由?」
頷いて、欄干に突っ伏した。顎の先から、鉄の匂いがする。嫌な匂いだ。
少しでも近くにいたかった。自分には、あれらの気配を感じ取ることぐらいしかできないけれど、それでも、何かが役に立つのを期待していた。
だから、酷く落胆したのだ。分かったのが、生徒が口の中に入れていた飴玉の甘い匂いでしかなかったということに。
それ以外に俺にできることなんて、惨めったらしく、焦がれるように、離れた校舎や、窓や、その中なんかを見つめるだけだ。その遠い先に、あの娘の姿を探して。
「じゃあ、私が見ててあげる。」
俺はこんなに必死で、でも彼女にはその先が見えているのか。
「え、」
「先生が心配なその子を、代わりに見守っててあげる。」
「見守るって」
それは俺の頭の中には無かった言葉だ。
「そうしたいんじゃないの?」
そうしたら、先生も、もう少し綺麗な字を書けるようになるかもしれないでしょう?
この学校に来てから、俺はシイナの顔を食い入るように見つめるばかりだ。
「君が、一般課を選んだ理由ってのは、」
「多分、あなたと同じ。」
その微笑みは、初日のそれを思わせる。
欄干に凭れかけさせていた身体を起こして、シイナは腕を突っ張った。俺の行く手を遮るように。
「私が先生の、」
――――になってあげる。
その瞳が貫く一筋の強さは、多分、俺の何もかもを見抜いてしまっているのだろうから。
真っ直ぐに、目蓋へと伸ばされるその腕を、諦めたように受け入れた。
最終更新:2008年08月16日 23:49