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世に居る 何ぞ独り然るや


 私は何を欲しているのか。

 濡れたような眼か
 柔な腕か
 それとも肉厚な唇か。

 否、否、
求めるは、何にも屈しない清廉な瞳。
そう、私が嘱望するのはただ一人。


おまえだ、


 わが弟――イナセ…!


***

夜半、堰月の夜。
ここ数日は噎せ返るような熱気は影を潜め、日が暮れると虫の声が夜の帳を震わせるようになっていた。とはいっても背中や腋はじっと湿っていることが多かったが。
 今宵は夜風が心地よい。風のおかげか空には雲一つ無く、煌々と輝く月が東の山々〔変更可〕の合間から見えた。ひゅう、と吹いた風が篝火を揺らす。そして献上された酒を呷ったためか赤らんだ頬を、鎮めるように撫ぜた。酒――今夜は遠縁が執政をしているクニからの使者との親睦会、もとい宴会が開かれている。遠路、まだ日中は日が燦々と照る中、その使者一行は大量の献上品を曳きやってきた。
 妹が嫁ぐのだ。
そのクニの後継者の后として。妹は後室として嫁ぐのだ。先の后は数年前に亡くなったらしい。しかし――
二十も離れているのだ…まるで父子ではないか
だが父は答えた。ムラには必要な繋がりなのだと。血で家を繋ぐ。その繋がりは鎖の如く両者を拘束するが、拘束は調和をもたらす。「ムラ」の存続は、果ては「イエ」の存続に繋がると。わが一族、殊に父は己の血統を絶やさぬことに只ならぬ執念を見せている。

なぜなら、父はこのクニの王であるからだ。

父の祖父にあたる人が、当時ムラを治めていた長からその座を奪取したのだ。つまり、下剋上であった。
以後この父の代まで、いわゆる世襲で王の地位を我々の一族が務めてきた。しかし時がまだ浅い。私――イズミにとって曾祖父にあたる「初代」が奪った地位、家、命…争いの火種は完全に消されたわけではない。野放しにされた火種が権力や何もかもを揺さぶるということを、「初代」はまさに体現した。つまり、何をもってもそれら禍根を絶やさなくてはならないということだ。武力による駆逐は武力による報復を招く。平和的な殲滅手段…父は徹底的に相手方の盟友を寝返らせる方法を採った。妹の場合、相手は敵の盟友ではないが、他国の王の後継者に嫁がせるということはそれなりの意味を有するだろう。
「権謀術数…なんとやら」
 所詮は動いて喋る駒扱いか、と先刻より少し冷えた空に一人呟いた。それは同時に自嘲でもあった。他人事ではない。自分自身にも間もなく訪れるだろう――唯一の弟、イナセとの後継者争いが。


〔ここ何か繋ぎ入れます。足音が…とか。〕


「イナセ!」
「…まったくあの類の宴は疲れてしまいます…兄上も抜けてきたのですね」
 ああ、と答えつつイズミはあたりに目配せをした。家臣や、そして父親が居ないか。その仕草にイナセは悲しく笑った。
彼もわかっているのだ。彼は異母弟だ。父は、側室にあたるイナセの母親を寵愛している。イズミと年齢もさして変わらない。ゆえに後継者に推しているのだ。父が老齢なのも拍車を掛けた。しかしそううまくは行かない。イズミの母――正室の外戚を中心とする重臣は自己の権威を守るため半旗を翻した。彼らは血統を護る、と主張し、嫡子であるイズミを後継者に推した。もちろん、そのようなものにイズミとイナセの意思など関係無い。そこにあるのは権力の行く末、それだけだ。そして、決裂した後継者問題は、日に日に悪化の一途を辿っていたのだ。

「兄弟が争うなんて――こんな馬鹿げたことを。兄と弟が会うのに、何の問題があるのでしょうか」
「…。連中は自己保身しか考えていないのさ。おまえも気をつけろ――特に父上が死んだ後はな」
「解っています…私は、兄上と争うつもりなど毛頭ないというのに…私は王の器じゃない。王には、兄上がなるべきです。その為なら、私は、」
「…皆まで言うな――すまない」
 イナセの瞳は篝火を映し揺れていた。その痛々しい表情をこれ以上見たくない。そんな顔をさせている原因が己にあることも、イナセの話を遮った理由だった。風で焚かれた篝火が揺らめき、俯いたイナセの顔に翳りが生まれる。それを振り払うように彼は頭を振り、そして何か言うことを思い出したかのように顔を上げた。
「…ええと、それでですね、兄上。実は使者の方がお持ちした品を持って来ました」
「!?」
「大丈夫です。父上はお酒の飲みすぎで前後不覚ですよ」
文字通りね、と付け足し、イナセは笑った。少し気分は戻ったようだ。しかし足元が少し覚束ない。どうやら彼自身相当酒がまわっていることを棚に上げている。普段は父に似て比較的鋭い目つきも、面白いことに台無しになっていた。そうは雖も、先ほどまで酒で火照って夜風に当たっていた自分も言えた義理ではないが。
「大変美しくて興味深かったので…あと、兄上が好きそうだと思って…これです」
イナセは手にぶら下げていた麻袋から慎重に褐色の塊を取り出し、イズミに差し出した。
「こうして蓋を取ると…」
 翡翠だ。入れ物は何の変哲もない、褐色の蓋物。しかしその中には、対になった翡翠の勾玉が収められていたのだ。対の勾玉…何を示すのか。イズミはこういった骨董品が好きだった。ゆえにイナセはわざわざ持ってきたのだ。
「使者の方が、古くから伝わる御守だろうとおっしゃっていました」
「対の勾玉は…まじないの類か」
「もしかしたら、ずっと、死んでもふたりで一緒に居られますように、というお願いかもしれませんよ。夫婦(めおと)とか、恋人とか…」
「なんだ、それは」
そう口では言いつつも笑いが零れる。イナセはたまに突拍子もないことを口に出す。大概、今のように酔っ払っている時だ。こう二十数年生きていると、酔った時ほど人間は素の姿を見せることがわかる。普段、イナセは弓の形がどうだの槍先の強度が何だのとか言っているが、もしかしたら色恋に興味があるのかもしれない。世間で言う「そういう年ごろ」だ。意中の女性は居ないのかと聞いてみようかと思ったが、聞いたら聞いたで「兄上こそ何時妻を迎えるのですか」と逆に聞かれるので黙っておくことにした。それに、意中の相手が居たら居たで、どう返答して良いか困る。イズミはあまりそういったことに関心がなかったのだ。イズミは少し取り繕うように言った。
「ああ、もしかしたら、転生という教えかもしれないな」
「転生?」
「渡来の者が以前言っていた…人は死んだら、また生まれ変わって生を授かるそうだ。大陸(むこう)ではよく知られているらしい」
「素敵な考え方じゃないですか。そしたら、私の考えはあながち間違っていたわけではないかもしれませんね」
「まあ、そうだな」
「それなら、これを作った二人も、もしかしたら生まれ変わって今一緒に暮らしているかもしれないということですか…」
 いつになく楽しそうに話をするイナセの姿を見ながら、こんな安穏で幸せな日々が続けば良いのにと思う一方、それが単なる夢想でしかないことをイズミは知っていた。


***
 イナセの視線の先には、寝かされた父の姿があった。目は開かない。先ほど下女から知らせがあったときは、どうやら一時的に意識が戻っていたらしい。しかし今はただの横たわる肢体でしかない。言葉を交わすこともできず、だからといって来てすぐ帰るわけにもいかず、イズミは何とも居心地の悪いままそばに腰をおろしていた。
 先日、父が病に倒れた。
 傍から見ても多忙を極める生活だった。それに年が年だ。
 下女や祈祷師が言うには、病は殊に篤いらしい。素人眼の己にも、その先が案じられる程の容体であったから、余程悪いのであろう。
(先は、あと幾許かといったところか)
 ふと脳裏に浮かんだその思いに、己の非情さを垣間見て嫌気がさす。どうも父を見ているのが苦しくなり、入ってきた出入り口に目をそらした。
 開け放たれた戸から、西日が差しこむ。日が沈むのは大分早くなった。もう、夏のように背中や腋が汗ばむことも無い。むしろ夜になると肌寒いほどだ。夜風は火照りを冷やすものから体の熱を奪うものへと変わっていった。そのうち木々が色づくだろう。秋になると政(まつりごと)が一段と忙しくなる。そういえば、去年の秋はイナセが珍種の豆を興味本位で持ってきたのだったか。結局、これは食べ物ではないと一蹴した記憶がある。イナセは笑っていた。まるで十日ほど前の出来事のように思えた。
(案外、私があのようになるのもすぐかもしれないな)
(いや、ああなる前に私にはすべきことがあるのではないか)
(ただ、年を重ねるごとに時というものが希薄に感じられる)
(それは単に、生への執着が薄らいだからだとは言えまいか)
(己にとって生きるとは、己は何のために生きるのか…)
「兄上?」
「!」
 急に意識が現実に引き戻される。背後からイナセが顔を覗き込んでいた。思い耽っていた表情を見られていたかと思うと少々気恥ずかしい。
「あの、兄上、大丈夫ですか」
「ああ、少し疲れていた。すまない」
 我ながらあんまりな言い訳だと思いながらも返答するしかなかった。疲れているのは事実だ。父が倒れたので代行で政務を行っていたのだ。だが、代行といえばイナセもそうだ。イズミ程ではないが、父が行っていた執務の一部を引き継いでいる状態である。疲れていると言っている場合ではない。
「私は大丈夫だ、イナセ。おまえもゆっくり」
「…。兄上、良い機会です。気分転換に久しぶりに行ってみませんか――蓮池に」
 

 西に日が沈む頃の誰も居ない蓮池は、もう残り少ない西日を浴び何とも非現実的であった。池に広がる蓮の葉はもう殆ど茶色く萎れ、青い部分を見つける方が困難な位だ。しかし、不思議と侘しい思いにはならなかった。
 この蓮池はクニの外れにあり、支配身分の人間は来ることは稀だった。蓮池以外、周辺には何もないのだ。それゆえ、幼い頃は口うるさい父から逃げるようにして二人でよくここまで来たものだ。最近は来る機会なんてめっきり減ってしまっていたが、このように来てみると、じわりと心に何か広がるものを感じた。まるで時が逆戻りするかのような錯覚。己の地位や身分を感じさせない空気が漂う。イズミとイナセ、ここでは何でもない、ありふれた兄と弟の関係でいられる気がした。
(おまえはどう思う、どう感じる…?)
 イナセは蓮池の傍にある少し大きめの石に腰をかけ、イズミに背を向けたままどこか茫洋と遠くを見ている。気分転換に、とイズミを誘った当の本人が、まるで夢うつつであるかのようだった。ふと、兄上、と呼ぶ声がする。
 おもむろにイナセが口を開いた。
「父上は死にます」
「そうだろうな。先は長くないだろう」
「忙しくなりますね」
「おまえも仕事が増えるぞ、忙しいどころでは済まされなくなる」
「え、ああ、そうでしょうね」
 珍しくイナセの歯切れが悪い。未だ背を向け蓮池を眺め続ける姿に近づいて、軽く背を叩く。イナセは「すみません、私も疲れていたみたいです」と苦笑いし、話を続けた。
「父上が倒れてから、私は父上が死ぬだろうと考えています」
「そうなるだろうな」
「薄情な息子でしょうか」
「俺だってそうだ…気にすることはないさ、あれは寝ていれば治るといった類のものでもあるまい」
「そうですね、って、あ…」
「どうした」
「いや、その――やっと、言ってくれたと思いまして」
「何をだ」
 そう言うと、イナセはくるりと首だけをこちらに向けて微笑んだ。
「俺、って言ったのですよ。兄上はまじめですからね、ずっと執政者の顔であろうとし続ける…私の前でくらい、王族でない兄上でいてください。悪い癖ですよ、兄上。」
 昔からそうです、と付け加えられ、イズミは何も言えなかった
 確かにそうだ。初めてイナセと会ったとき、どう接して良いのか分からず、無表情のまま挨拶を交わすだけに終わってしまった。
「俺だって驚いたりすることもあるんだがな」
「そういうの、兄上はあまり顔に出しませんからね。兄上が驚いているの、わかるのは私くらいですよ。――おっと」
 突如風が吹く。夜の風だ。来た時にはまだかすかに残っていた太陽も、いつの間にか沈んでしまっていた。
「冷えてきたな…戻るか」
「ええ…そろそろ戻りましょうか。夕餉が始まってしまいます」
 

 少々後ろ髪をひかれながら、蓮池を後にする。
 風はまだ強い。イズミは肩からもう一枚薄手の麻を羽織っているが、イナセは麻の衣一枚で肩を震わせていた。イズミが羽織っているものを脱ごうとすると、それに気づいたイナセにやんわりと押し留められる。
「私は大丈夫です…兄上こそお体に気を付けてください。父上が――父上が万が一の際には兄上がこのクニには必要なのですから」
「おまえだってそれはそうだろう」
「…。いえ、私はよいのです」
 イナセの瞳が少し翳った気がした。
「そうではない、俺はおまえが」
「必要なのは、兄上です。私はそう感じるのですよ」
 迷いのない瞳をさし向けられ、イズミはもう押し黙ることしかできなかった。すでに、イナセの視線は前を向いている。そこに先ほどの翳りなどは見当たらない。
(何を必死になる)
(何をそこまで俺を必要としていると言うのか)
(なぜそこにおまえが存在することを否定するのだ)
 しこりの様に、胸の底に残る違和感。
 終結点の見えない、どうどうめぐりの思案。
 お互いの居宅への岐路に着いた時も、イナセは軽くいつものように別れの挨拶をして、なんら変りなく去っていった。
(……)
 イズミはそっと踵を返し、己が居館に向かう――夜陰に紛れゆく寒さに震えた後姿。その心までが暗闇に呑まれてしまうことのないよう祈りながら。


***

 あれからほどなくして、父は死んだ。
 父の死によって雑務としか言いようがない仕事が増え、そのうえ普通の政務もあるのだから首が回らない。それはイズミに限らず、イナセ、そして家臣たちも同様だ。漸く落ち着いたのは、父がこの世を去ってから二カ月が過ぎた頃である。
 身を裂くほど清冽な風が吹き付けていた。
 後継者の趨勢は、代行の際行っていた政務の軽重からイズミになる線が濃厚になっていた。しかしそれは表面上のことで、父が死んでしまった以上、イナセの母方が口を出せる状況ではなかったというのが真相に近い。しかし権力という言葉にはその文言以上に意味――喩えるなら地位や名声――がある。
 側室方にあたる外戚の動向が俄かにうるさくなり始めた、そんな時期にイズミに変報がもたらされた。


 イズミは頽れそうになる膝を叱咤し眼前の光景を呆然と見ていた。
 燃え上がる火の粉。燃え盛る炎の中心にあるのは、イナセの居宅であった。
 先刻、近侍から立て続けに二つの知らせが届けられた。ひとつはイナセ方の外戚が離反したとのこと、もう一つはイナセの邸から突如火が出たとのものだ。イズミは知らせを聞くや否や館を飛び出して来たのだ。後ろで己の名を呼ぶ家臣の声がしたが、振り返る余裕も無かった。
(蜂起勢が火を放つとは考えにくい。ならば)
(イナセ…おまえなのか)
 イナセは、イナセは、イナセは、
 己がこのような立場でなかったら――もし、単なる兄と弟であったなら、一目散に水を被って燃え上がる屋敷に入っていっただろう。
 しかし、この立場が枷となる。
 いや、それは言い訳にすぎない。この心が行ってはならないと言っているのだ。
 なんて冷徹なのか、なんて理性の○○なのか、イズミは自分で自分の心を詰った。しかし、いくら詰っても心は動かなかった。
 
 現場に来た際に、すでに消火とイナセ母子の捜索をさせる命令は出してある。だが、この燃え尽きた木材が煙を上げながら火の海の中崩れていく様を見る限り、望みをかける方が逆に苦しい。
(クニ――いや俺の妨げとなる身は進んで捨てたというのか)
 この後継者問題が不安定と言ってよい中、彼の存在は危ないといえば危なかった。現に外戚が動きを見せているのだ。
 胃の腑からせり上がるものを何とか堪える。
 あの夜、そう宴を抜け出してきたイナセが己にこう言ったのだ。兄上が王になる為なら…、と。
「おまえは、俺が、王になるためになら死さえ厭わないというのか?」
 自然に零れ落ちた声は掠れていた。あの夜のように、そして以前蓮池で過ごしたような日々はもう無いのだと悟った。
「俺が王になろうが、おまえがそばにいてくれなければ、俺は、本当の俺自身を見失ってしまう」
(おまえもそう言ったろう、私の前では素の姿でいてほしいと)
 イズミは傍にいた家臣に少し休むと告げると、重いどころでは済まされない足を引きずりながら、未だ燃え盛るイナセの居館を背に自室へと戻った。

「イズミ様!」
 もう何も考えられない頭で帰路の途中、先ほどイナセの邸へ向かう際に背後で己の名を呼んだ家臣がイズミを引き留めた。
「何だ」
「先刻、イナセ様のお屋敷に火が上る前のことなのですが、」
「!」
 茫々とした脳が一気に覚醒する。火が上る前、つまり、イナセがまだ――
「イナセ様がこちらにいらっしゃいまして、そして、イズミさまに「蓮池」とだけ伝えてくれと…」

 そこからは心を縛る枷も何もなかった。もしかしたら己の名を呼ぶ声があったかもしれなかったが、それがイナセでない限りどうでもよかった。
 ただ、蓮池――最後に二人で語らった場――とだけイナセは言ったのだ。


 こんなに必死になって走ったのはいつの頃だろう。
 もしかしたら今まで、無かったのかもしれない。
 そもそも、誰かのためにこんなに必死になったことがあっただろうか。
 
 縺れる足を引き摺るように蓮池にたどり着いた頃には、日は暮れかかっていた。最後にふたり語り合った、あのときと同じ。橙色をした水面。もう、蓮は完全に枯れてしまっているが。

 蓮池、とだけイナセは伝えたらしい。他には何も言わなかったという。
 しかし、わかる気がした。
 ――あの日、ふたりが居た――

「!」
 目に入るはいつかの麻袋。あの日イナセが座っていた石の傍に何気なく置かれていた。
(もしや…!)
 駆け寄り中を見る。
 そこには、あの、翡翠が入った褐色の蓋物。
(そうか…)

 蘇るあの夜の記憶。イナセはこう言っていた。
 ―――生まれ変わっても、一緒に…
 
 殺そうとしても出る呻き声。
 膝が地面に崩れる。
 視界が霞んだ。
 頬を伝う生ぬるい液体。
 もう何も逃がさないよう、イズミはその盒子を抱きしめた。
「死ぬことは別れではないと、そう言いたいんだな」
 涙は止まらない。悲しみも癒えない。心も軋んだままだ。
「またいつか必ず逢える…だから、俺には王として生きろと言うのだな」
 頬から零れおちた滴が地面に染みを作る。眦からはとめどなく涙があふれる。しかし、悲しみの底に光が射し込んだ気がした。
「…生きよう。生きてみせよう。おまえが命を差し出して、俺、いや、私に託した王として」
 
 精一杯生きて、それでもって死んでやろう。
 そしておまえに会いに行く。
 一人の兄として会いに行く。
 今度は豆でも作って暮らそう。
 おまえは狩をするのも良いかもしれない。
 
 だから、私をみていろ、イナセ。
 
***


 私はその後、妻を娶った。
 皇后に相応しい、美しさも器量も申し分ないひとだ。
 ただ――

「翡翠?」
「ああ、中にはな、対の翡翠が入っている」
「対の翡翠…素敵」
「そうか…気に入ってくれて嬉しい」
 嬉しそうに微笑む彼女を横目に、ふと罪悪感に駆られる。
 
 もう幾度この感情に囚われたかわからない。
 私は彼女の姿におまえを重ねてしまう。
 おまえは笑っているかもしれないな。
 しかし、どれだけ時が経とうと私の心を捉えて離さないのは、
 

 わが祝人――イナセ、おまえだけなのだ。
 

完
最終更新:2009年02月15日 00:28