ハビラール・サムソラー伝 > 生涯(800.1~802.7)

800年1月勢力図(サムソラー国は大陸北東部の緑色)

800年1月、当時 54歳だった彼は東方よりきた蛮族の首領であり大陸に勢力を誇る群雄の一人であった。
彼の率いるバエント族は戦闘能力が高いわけでもなく大陸暦にして150年ほど前に侵入してそのまま定住していた民族だった。

800年5月、ベイシンフェルト領ケルンラークへ侵攻。後にケルンラーク山の攻防戦と呼ばれる戦において、ベイシンフェルト軍と対戦。
ベイシンフェルト軍は隣国セウェルス軍と交戦しておりその隙にケルンラークをかっさらおうと画策したものだった。
作戦通りケルンラークには大した兵力がなく楽々と侵攻作戦は成功。ベイシンフェルト領ケルンラークを制圧した。
800年6月、継嗣のなかった彼はエトティッチ・ガイウス・サムソラー(旧姓不明)を養子に迎える。
800年9月、同年の5月に不戦条約を結んでいたベイシンフェルト国を奇襲。
ベイシンフェルト領オフェンケルンへ侵攻。
油断しきっていたベイシンフェルト国はオフェンケルンへ救援に迎えずオフェンケルン城はJ.オルテンメッツ地方司令の奮戦虚しく落城、オフェンケルンを占領した。

801年2月、配下のアンリム・ジムルクの忠誠を得る。
武芸一辺倒の猛将である彼は同年の9月のセウェルス軍との戦で戦死するまで彼の元で大きな武功をあげた。

801年3月、セウェルス国のプルラーニへ侵攻。
不戦条約をまたしても反故にしての奇襲だったためアフリート・バートマイヤー地方司令は奮戦するも救援がくる前にプルラーニ城は落城。バートマイヤー地方司令は自害した。
また同年の6月、マクスボルク領への侵攻、ウェスバイド国の侵攻からの防衛で他方面に目を向けていたセウェルス国へ侵攻、ケルンラーク城攻略戦に着手。
この月のセウェルス軍は救援どころではなくケルンラークは抵抗せず降伏してしまった。

801年9月、セウェルス軍が拠点であったプルラーニへ侵攻。
サムソラー軍はプルラーニ城へ立て籠もったものの落城。
養子であったエトティッチ・サムソラーは捕らえられて処刑されてしまう。

801年12月、部族内の有力者の次男坊であったフィオツィオ・マルクス・サムソラー(旧姓不明)を養子に迎える。

しかし、数々の卑怯や姦計を用いてきた彼にも最期の時がくる。

802年7月、セウェルス軍が自領のジムソンへ侵攻。
自軍はその前にセウェルス軍が攻めてきたケスライターへ救援に向かっていたため君主直属の少数の兵で迎え撃つことになった。
後にジムソン南の攻防戦と呼ばれる戦において、セウェルス軍と対戦。
陣頭に立ち指揮するものの圧倒的な武力を誇るセウェルス軍南東方面軍の前に自軍は崩壊。
ジムソン城へ敗走し籠城した。
しかし、消耗しきったサムソラー軍は士気に乏しくセウェルス軍の猛攻を防げず落城。
首都ジムソンを制圧された。
彼は女装して脱出しようとしていたところを捕らえられて降伏。
醜態を晒した上で捕虜となりセウェルス国首都のハスウィルへ連行されて処刑。その首は晒し者にされ死体はハスウィル川へ捨てられた。

享年56歳、卑怯者の無惨な最期であった。

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最終更新:2012年12月05日 00:48
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