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669 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:43:58 ID:rX.sZrgk0
『あなたは優しすぎるから』 前編


自分でも、思い切ったことをしたと思う。

洗面台の鏡に映る自分の顔を眺めると、寝ぼけ眼もすっきり覚める。
歯を磨いていた手を止めて、肩まで切りそろえられた髪を掻き上げる。

乾燥機がごうごうと回っている。
その耳障りな騒音の上に、蛇口の水を流す音を重ねる。

窓の外は灰色で、朝にしては日差しが少なかった。


「行ってきまーすっ」

ドアが大きく閉まる音。
アスファルトが雨の降る日特有の臭いを放っている。

早歩きのサラリーマン。道をふさぐように横並びで歩く小学生。
ちりんちりんとベルを鳴らした自転車に乗る女の子は、私の中学時代の制服を着ていた。

学校に近づくと、桜ヶ丘高の制服を着た人が多くなる。

初めて律先輩以外の人に自分の髪を披露する時が来た。
自意識が過剰になっているのかもしれないが、他人のちらちらとした視線を感じる。

目を伏せ、視線から逃れるように歩く調子を速めた。

髪を切れば世界が変わるというのは本当だった。
他の人からどんな風に見られているのか、その感じ方がまるで違った。
昨日までの、髪が長かった頃の私のようには見られない。
あの時の私はもういないのだ。ここにいるのは、ばっさり髪を切った私。

小学生の頃からずっと伸ばしてきた。綺麗だねと褒められると、すごく嬉しかった。
今まで背中にあった感触は、もうない。

肩にかけたギターケースがいつもより重かった。

天気は曇り空。湿っぽい風が通り抜けても、私の髪はもう吹き流れなかった。


670 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:45:28 ID:rX.sZrgk0
あまり知り合いに会いたい気分ではないけれど、こういう時に限ってよく出くわすものだ。
それも、なるべく会いたくない人に。

靴箱は雑多な人で溢れかえっている。
あちこちで朝の挨拶が交わされる。

上履きに履き替えた直後に、人混みの中に二人の姿を見かける。
律先輩と澪先輩だった。

「おはようございます」

談笑する二人に話しかける。
話が止まると、二人の視線がぴったり同時に私に移った。

「あ、梓……?」

澪先輩は目を丸くして、しなやかな眉を寄せ上げた。
びっくりされるのは当たり前だけど、澪先輩にそんな顔をしてほしくはなかった。

「おはようございます。今日は雨でも降りそうですね」

言葉を詰まらせる澪先輩を尻目に、律先輩が口を開く。

「おはよ梓。調子はどうだ?」
「大丈夫ですよ。この通り」

手を横に広げて、笑顔を見せた。

「そっか。良かった」

律先輩は口元を緩めて、私の頭に手を置いた。

「律先輩こそ、昨日はよく眠れましたか?」
「そりゃもうぐっすりと」

律先輩が悪戯っぽく笑った。
そこに澪先輩がゆっくりと近づいてくる。

「髪、切ったんだな」
「はい。どうですか?」
「……似合ってるよ、とても」

澪先輩は一瞬、表情を曇らせた。

「嬉しいです」

顔が引きつらないようにしつつ、私は何とか自然な笑顔を作った。

「澪、そろそろ行こうぜ」
「あ、うん……そうだな」
「じゃあな、梓。また部活で」

軽く会釈をして、自分の教室に向かう二人を眺めた。
二人の会話が聞こえなくなるまで、私はじっとその場に佇んだ。


671 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:46:58 ID:rX.sZrgk0
教室に入った途端、クラスみんなの視線が私に集中する。
一斉に静まりかえったかと思うと、転校生でも見るかのような視線を送ってくる。

私は脇目もふらずに自分の席へと着くと、机に突っ伏した。

ひそひそと話し声が聞こえる。
十中八九、内容は私のことだ。あまり耳に心地良いものではない。
頭の中を空にして、時間が経つのを待つしかない。

学校に着いたのは八時を過ぎた頃だった。
後十分以上はこうしていないといけないだろう。

「梓ちゃん、おはよう」

聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、憂の笑顔がすぐ目の前にあった。

「おはよう、憂」

前の席のイスを引いて、憂は私と向き合って座る。

「髪、切ったんだ」
「ちょっと気分を変えようかと思って」

憂がしげしげと見つめてくる。
そっと私の髪に触れて、櫛で梳くように手を上下させた。

「とても可愛いよ。梓ちゃんはどんな髪型でも似合うから羨ましいな」

憂が言うとお世辞でも嬉しく聞こえる。
流れるように動かされる憂の手が心地よかった。

「一時間目は数学だったよね。宿題あったっけ?」
「ううん、なかったと思う」

憂はすぐに話題を切り替えた。

何があったのかなんて深く聞くことはしない。

私から話せば親身になって相談に乗ってくれるだろう。
けれど、自分からずけずけと聞き出そうとすることはない。

私が話を切り出すそのときまで、ずっと待ってくれる。

憂を親友に持てて私は幸せだと思う。


672 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:48:28 ID:rX.sZrgk0
ばたばたと大きな足音がしたと思えば、直後にドアが勢いよく開かれた。
時計をちらりと見ると、チャイムが鳴る五分前を切っていた。

ベースのケースが肩からずり落ちそうになっている。
二つに丸められた団子状の髪が、少し乱れていた。

予鈴が鳴る間際になって駆け込んできた子は、私のもう一人の親友だった。

「純ちゃん、ぎりぎりセーフだね」
「うっひゃあ、遅刻しかけたよ。おはよ、憂に……」
「おはよう、純」

純は肩で息をしながら、目をぱちぱち瞬かせる。

「イメチェンしたんだ、梓」
「ちょっと気分を変えたくてさ」
「すっきりしたね、新鮮だこりゃ」

私の短くなった髪がなで上げられた。

「でも、よく似合ってる」

純は白い歯を見せた。

「先輩にはもう見せた?」
「うん、律先輩には昨日のうちに」
「……何て言ってた?」

純は手を止めて、私の顔を覗き込む。

「よく似合ってるって」
「そっか。良かったじゃん」

私は小さく頷いた。

昨晩、あんなに遅い時間だったのに律先輩はすぐに来てくれた。
そして思いっきり、怒ってくれた。
私のことを心配して、怒ってくれた。

怒られたのがあんなに嬉しかったのは初めてだ。

髪を切った私を見ると何も聞かずに抱きしめてくれた。
あの時の安心感、律先輩のあたたかさが今でもはっきり蘇る。

優しい律先輩。優しすぎるくらい優しい。
でもその優しさが今の私には辛い。

だって私は、律先輩の気持ちを裏切っているのも同然なのだから。

「おーい、あずさー?」

目の前でちらちら振られる純の手に気がつくと、ちょうど始業のチャイムが鳴り響いた。


673 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:50:01 ID:rX.sZrgk0
昼休みともなれば、みんなの好奇心に満ちた視線も落ち着いてくる。

「ごめんね、ちょっと先生に呼ばれてて」

憂はそう言って、教室から出て行った。
ジャズ研の昼練だとかで、純も見かけない。

ふと目に付いたご飯粒をぴんと指ではじく。
机の上に肘をついて、次の授業は何だったかとか、今日の部活はちゃんとできるかなとか、頭に思いめぐらせる。

部活、か……先輩たちはどんな反応をするだろう。

「すいません、憂はいますか?」

後ろから、おっとりと間延びした声で話しかけられた。
こんな特徴のある話し方をする人を、私は一人しか知らない。

振り返ると、惚けたように呑気な顔をした唯先輩がいた。

「憂は今、先生に呼ばれていますよ」
「そっかあ。ありが……」

唯先輩は口をぽっかり開けたまま、目を白黒させた。

「あずにゃん……?」

唯先輩はその場に棒のように立ちつくした。
通路をふさいだ唯先輩の後ろを、クラスメートが申し訳なさ気に通り抜ける。

「気づきませんでしたか? 髪切ってみたんです。似合ってます?」

何も反応がない。ぱちくりと瞬きをするだけだ。
驚くのも無理はない。澪先輩ですらあんなに驚いていたんだ。
軽く流してくれたらいいのだけど。

そう思ったときだった。

「かっわいぃっ!!」

唯先輩は教室中に響き渡るような大声を上げると、周囲の視線をまるで気にする様子もなく、私を抱きしめて頬を寄せた。

「ちょっと唯先輩!?」

がっしり掴んで放してくれる様子のない唯先輩。
クラス中の注目を浴びていた。恥ずかしくて居ても立ってもいられない。
律先輩に見られたら怒られるだろうなと思いつつ、首に掴まる唯先輩を引きずるようにして教室を後にする。

「唯先輩、いい加減にしてくださいっ」

廊下に飛び出ると、唯先輩を無理矢理に引き剥がす。

「あうぅ~~」
「そんな悲しそうな顔してもダメです」
「うぅ~、りっちゃんになら黙って抱かれるくせに」
「そういう問題じゃありません」
「せっかく可愛いのに……」

唯先輩はなおも名残惜しそうに唇を突き出した。


674 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:51:34 ID:rX.sZrgk0
ぽつりぽつりと雨が降り出して、校庭から人が退散を始めた。
廊下にはあいにくの天気に恨み辛みを述べる人で溢れる。
帰る時間には本降りになっているだろう。

「あずにゃん、髪切ったんだね」
「さっきから言ってるじゃないですか」

全くマイペースな人だ、と私はため息をつく。

「髪を切ったあずにゃんもすごく可愛いよ」

唯先輩は悪びれる様子もなくさらりと言う。
だけど、褒められるのは満更でもなかった。

「どんな髪型でも似合っちゃうから、羨ましいよ。私なんか癖毛だからさ」

似たようなことを妹にも言われたような気がする。
やっぱり姉妹だなとしみじみ思った。

「だけどあずにゃん、何だか元気ないよね。何かあったの?」

はっと息を呑んだ。
この人はいつも惚けているようで、人の心の奥底を見透かしてしまう。

心臓がどくどくと拍を打つ。どう反応するべきか、戸惑った。
少なくともこの思いだけは隠し通さなければならなかった。

「何もありませんよ」

今の私にはそう返すのが精一杯だった。

「いつもと雰囲気が違うんだけどなぁ」
「髪を切ったんだから当たり前です」
「そっかあ、そうだよね。えへへ」

唯先輩は恥ずかしそうに頭を掻いた。
いつもの唯先輩か。ほっと息を吐くと、胸に手を当てて鼓動が収まるのを待った。


675 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:53:44 ID:rX.sZrgk0
昼休みが終わるまでは、まだもう少しだけ時間がある。

「憂、遅いなあ」
「用事が立て込んでいるんじゃないでしょうか」

雨足は速くなっているが、校舎の中はまだお昼の落ち着いた雰囲気を留めていた。
隣には気兼ねしない先輩が一人。そのせいもあってか、私はぽつりと本音を漏らしてしまった。

「髪型が変わると、自分が自分でなくなるような気がするって本当なんですね」

言った瞬間、慌てて口を押さえる。
唯先輩はきょとんとした顔を浮かべていた。

「うーん……私は経験ないけど、やっぱりそうなのかなあ」
「そ、そうなんですよ。ほんのちょっとだけですけど」

慌てふためいて要領を得ない言葉をひねり出す。
何とか話を変えようと別の話題を考えるが、こういうときに限って何も思い浮かばない。
唯先輩は顎に手を添えてじっと考え込んでいる。

「でもきっと慣れるでしょうから。ちょっと不安ですけど一時的なもので……」
「大丈夫だよ、きっと」

私の話をぶった切るように、唯先輩が言葉を発した。

「髪型が変わっても、あずにゃんはあずにゃんだもん。だから、大丈夫だよ」

唯先輩は時々何の前振りもなく核心を突く。天然なようでいて、その辺りの鋭さはピカイチだ。
にっこりと微笑みかける唯先輩に、私は何もできずにいた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」
「あ、憂! ちょっと用事があったんだ」
「そうだったんだ。ごめんね待たせちゃって」
「ううん、あずにゃんが相手してくれたから」

二人が私に視線を移した。

「ありがとね、あずにゃん」
「私からもありがとう」
「い、いやそんな大したことじゃ……」

私は慌てて頭を振った。
唯先輩と憂はにこにことそっくりな笑顔を浮かべていた。

「それでね、憂……」


676 :軽音部員♪:2011/04/19(火) 00:56:05 ID:rX.sZrgk0
唯先輩の言葉を反芻する。私は私、か。
髪を切ったところで私であることには変わりない。
心にうっすらと芽生えて久しい不安も、いつか必ず消えてくれるはずだ。
だから、気に病む必要なんてないんだ。

心の中で自分に言い聞かせた。

昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

「ごめん憂、また次の休み時間に」
「うん、分かった」
「二人ともばいばい!」

唯先輩は後ろ手を振って走り去っていった。

「お姉ちゃん、廊下で走ったら転んじゃうよ」
「憂は心配性だって。大丈夫だよ」

唯先輩なら、という言葉を飲み込む。唯先輩がつまづいて転びそうになっていた。
私と憂は顔を見合わせて、苦笑した。

「私たちも、戻ろっか」

私はこくりと頷いた。
憂が教室に入る。廊下で駄弁っていた人たちもぞろぞろと教室に戻っていく。

その時、ポケットに入れていた携帯が震え始めた。
立ち止まって、携帯を開く。
澪先輩からのメールだった。

『ちょっと話があるんだけど、部活前に少しだけ時間をくれないか?』

短く文字を打ち込む。

『分かりました』

最低限の絵文字だけを入れて返信すると、携帯の電源を切ってポケットに押し込んだ。
雨はいよいよ激しくなって、窓ガラスが曇り始めていた。

To be continued

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最終更新:2011年06月06日 17:34