120 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:10:53 ID:myf3F2GY0
「おーっす」
「あ、遅いです律先輩!」
「えー、そんなことないって。澪たちだってまだだろー」
言われて気付いた。
真っ赤になった私に、律先輩は「ほう」ニヤリと笑って。
「さては私に会いたかったな」
答えられなかった。図星のような気がして。
今まで意識したことなんてなかったはずなのに、どうしてだか最近の私はとんと律先輩に弱い。
いつからだったか、律先輩と一緒にいると心拍数が急上昇して体温は沸騰し溶けてしまいそうになって。
「ばーか、冗談だよ」
およおよと視線を泳がせた私に、律先輩は苦笑すると頭を軽く小突いてきた。
「な、なにするんですか!」と軽く睨みつけると、「はいはい」とあしらわれる。
けれどそんな関係が今じゃすっかり当たり前になっていて、軽音部入部当初、どうしてこんな人を怖いと思っていたのか甚だ不思議。
それもこれもあの日からだ、なんて明確なものはなくって、だからこそ私の戸惑いは尚更大きくなって不安に陥ることもしばしばだった。
「……もう」
好きなのだと、思う。
自分でも驚くくらいに、本当に自然と、律先輩のことを意識し始めた。それもいつのまにか、だ。自分で自分を笑ってしまう。
121 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:12:53 ID:myf3F2GY0
「おいーっす!」
律先輩のときとはまた違う騒々しさでドアが開き、二人の時間は終わりを告げる。
ほんの短い間だけ。
私は、なぜだかこの人と通じ合えた気になってしまう。二人きりが終わってしまうその一瞬前、律先輩はいつも私と同じ、残念そうな顔をしているから。
「あー、りっちゃんだけあずにゃんといるのずるい!」
「ちょ、ちょっと唯先輩くるしいですっ」
「今日の紅茶はいつもと少し変えてみたのー」
「わ、私今日はケーキやめとこう、かな……」
「澪しゃんダイエット中でちゅもんねー」
唯先輩に抱き着かれる私、それを楽しそうに見ているムギ先輩の横に澪先輩に殴られる律先輩。
いつもの光景、なにも変わらない。
なんだか少しもどかしい律先輩との距離は、私たち五人である軽音部の中で成り立っている。
もし私と律先輩の二人が変わってしまったら、どうなるだろうか。
そんなの、考える意味もないと思う。
一瞬の、律先輩との時間。一瞬の言葉や仕草。それだけで私は全部満足してしまう。
122 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:14:33 ID:myf3F2GY0
「律、最近よく一人で部室来てるよな」
「あー、いや、その」
「別にいいんだけど、律のことだから変なことでもしてるんじゃないのか」
「いやいや、ないない!なんもしてないって!」
満足、して――
ムギ先輩のケーキに釣られてようやく私から離れてくれた唯先輩が、「あずにゃーん?」と呼んでくる。
幼馴染の距離。勝てるはずもない、大きな大きな時間の差。澪先輩と律先輩のやり取りが、なぜだかひどく辛い。
「律のことだから」という澪先輩の声や、多彩に変化する律先輩の表情。
もやもやとした気持ちが、身体中を駆け巡っていく。
気付いたら私は後ずさっていて、なにかに足を引っ掛けて身体を揺らしていた。
「わ、わっ……」
このままじゃ後ろに倒れて。「あずにゃん!?」私は咄嗟に手を伸ばした。慌てて駆け寄ってきてくれた唯先輩の手が私の手を掴み、私は唯先輩の胸に倒れこんでいた。
かっこよく私を助けてくれたはずの唯先輩は、支えきれなかったのか尻餅をついてしまったが頭をぶつけなくて済んだだけ良かったと思う。
「いたた……」
「すみません、唯先輩!」
「へ、へいきへいき。あずにゃんは?」
「おかげさまで……」
よろよろと立ち上がった私たちに、「だ、大丈夫?二人とも」「怪我してない?」澪先輩とムギ先輩が手を貸してくれる。
律先輩は。
思ったところで、ぐいっと手を引っ張られた。
123 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:17:50 ID:myf3F2GY0
◆
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば!」
強く握られた右手が痛い。
その小さな身体のどこからと疑問に思うくらい強い力で律先輩は私の手を引っ張っていて、
私はつんのめりそうになりながら着いて行くしかなかった。
「せんぱい……っ」
何度か名前を呼んだところで、ようやく律先輩は立ち止まった。
けれど先輩は前を向いたままで、今どんな顔をしているのかなんてわからなかった。
驚く先輩たちをよそに、律先輩は私の手を引いて部室を飛び出した。
もう一度「律先輩」と呼べばこちらを向いてくれると思う。
だって、律先輩のことだ。わかっている。わかっているからこそできなかった。
私は怖かったのだ、律先輩の顔を見たくなくて、だから俯いた。
そっ、と。
手が離される。名残惜しげに最後まで触れていた小指は、私から離した。
「……あずさ」
「なんですか」
どうしてこんな言い方しかできないのだろう、私は。
律先輩を傷つけたことは明白だった。
望んだことであるはずがなかった。それでもどうすれば律先輩が傷付くのかを、私は知ってしまっていた。
ごめんなさい。
心の中で、私が叫ぶ。けれど声にはならずに、不自然な沈黙は、放課後の校舎をどんより曇らせていくようで。
124 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:19:55 ID:myf3F2GY0
唯先輩に抱き着いたのは不可抗力だった。
――なんて、不可抗力というのはただの言い訳。
本当は少し、少しだけ、期待していた。
律先輩がそれを見て妬いてくれるんじゃないか、なんて。
けれど実際律先輩にさせてしまった顔は。
私は、どうすれば律先輩が傷付くかを知っていたのに。
「……ごめん、な」
「せんぱ」
「ごめん、梓」
好きだ。
ガツンと頭を殴られたような感覚がした。
それと同時に、心臓の音がうるさく鳴り始める。顔を上げて、見えた律先輩の表情が歪んでいく。
「……わたし」
私、も。
言いたいのに、声が出なかった。
だったら、ごめんなさい?それも、もっと違う。
125 :軽音部員♪:2012/08/08(水) 21:21:37 ID:myf3F2GY0
私も、好きなんです。
けれど伝えてしまったら、律先輩はもっともっと辛そうな顔をして、笑うだろう。
「……梓、好き」
「……はい」
「……好きだ」
「……はい」
離れた指先が、また触れ合う。
変わらない、変えてはいけないものがあって。私たちは、誰よりもそれをよく知っていて。
「どうして泣くんだよ」
「それは、律先輩も、です」
伝えたら実るはずの想いは、決して伝えてはいけない。
私たちの関係を、このまま、断ち切ってしまうから。
だから私たちはただ、いつのまにか引き寄せあった指先を握り合って、「ばーか」「律先輩には言われたくないです」なんていつもみたいな会話を繰り返す。
それが少しおかしくて笑い合い。笑い合って、泣いていた。
最終更新:2012年09月16日 23:38