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【何もない話】」を以下のとおり復元します。
【何もない話】<br>
<br>
<p> ――空に堕ちる夢を見た。<br>
「あー?」<br>
 どこまでも無限に広がる空のクセに、何故か空には底が在る。<br>

 自分が堕ちているという感覚がなくなったから、そう判断しただけだけど。<br>

「いや、夢だけど」<br>
「何が?」<br>
 彼女が不思議そうに言うから、頭をなでた。気持ち良さそうに目を細める彼女は、猫のようだと思った。<br>

「空は何だと思う?」<br>
「空?」<br>
「そう、空」<br>
 そんな彼女の意見を聞きたかった。きっと彼女からは、とても素敵な言葉が聞けると思ったから。<br>

「空イコール、堕ちるだと思う」<br>
「空は、堕ちるものなの?」<br>
「空に、堕ちる。空が、堕ちる。空で、堕ちる。そんな感じ」<br>

 ……言いたいことはよく判らないけど、何となく彼女の視線から意図を読み取る。<br>

「じゃあ、僕は君にとっての空なのかな」<br>
「そうだね。ジュンは、私にとっての空かもしれない」<br>
 彼女は、とても愛くるしい笑顔で言った。……ただ、それだけだった。<br>

<br></p>
<p>
「例えば、眠くなる時だって在る。それは、どうしてなのかな」<br>

「人間は、退屈で死ねるから。だから、じゃないかな」<br>
「退屈で死にそうだから、眠くなるの?」<br>
「そうだね。きっと、そうに違いない」<br>
 人間は生きているから、停まることが出来ないんだ。退屈と言うのはつまり、停まる状態に近づくこと。<br>

「じゃあ、死んだ人間はどうなのかな」<br>
「知らない。私、死んだことないから」<br>
「そう。僕もまだ、死んだことがないよ」<br>
 穏やかな時間。窓から温かい日差しが差し込む、とても緩やかな時の流れ。<br>

 彼女と居るからこうなのか。あるいは、彼女が望むからこんな時間なのか。<br>

 それは、自分にはわからないことだった。<br>
「薔薇水晶は、死にたい?」<br>
「ジュンが死にたいのなら、死にたい」<br>
「……僕は、わからないよ」<br>
「じゃあ、きっと私もわからない」<br>
「でも、空は飛びたいんだ」<br>
「空に、何があるの?」<br>
 何があるんだろう。知らない。もしかしたら天使が居るのかもしれない。<br>

「神さまを信じる?」<br>
「神さま? 神さまの何を信じるの?」<br>
「空が素敵なところであるように」<br>
 それは、彼女の願いだった。<br>
<br>
<br></p>
<p>「ねえ、ジュン」<br>
「うん」<br>
「何を悲しんでいるの?」<br>
「何も、悲しんでなんか居ないよ」<br>
 別に、空が飛びたくなっただけ。空に還ると言って、微笑んで消えた彼女に逢いたくなっただけ。<br>

 ……だから僕は、悲しんでなんか居ないはず。だって、今こんなにも薔薇水晶と一緒の時間を過ごせている。<br>

「彼女に、逢いたい?」<br>
「彼女に、逢いたいよ」<br>
「空に堕ちた彼女に?」<br>
「空に堕ちた彼女に」<br>
「天使になっていそうな彼女に?」<br>
「天使になっていそうな彼女に」<br>
「――私よりも?」<br>
「薔薇水晶とは、今一緒に居るじゃないか」<br>
 そういうことじゃなくて、と薔薇水晶は拗ねたように口を尖らせた。<br>

「まあ、いいかな」<br>
「うん、いいかもしれない」<br>
「空は遠いね」<br>
「こんなにも近いのにね」<br>
「それだけの話かな」<br>
「きっと、それだけの話だよ」<br>
 そして、僕たちは目を瞑った。一緒に、眠りたかったから。<br>

<br>
【からっぽの僕たちは、別に何でもなく、一緒に居るだけだ】<br>

<br>
<br>
<br>
<br></p>
<p>
 眠れない夜が続く。身体はだるいんだけど、疲れているともまた違う、精神のたるみ。<br>

 何となく、胸の中がもやもやして眠れないんだ。眠りは、一番の逃避だと知っているからだろうか。<br>

「薔薇水晶は、眠れるのに」<br>
「……ん」<br>
 横で眠る彼女の髪を梳く。さらさらと、まるで清らかな水みたいに指の隙間から流れていく髪。<br>

 この髪は薔薇水晶の自慢で、そして彼女の自慢だった。だから、どうというわけではないのだけど。<br>

 強いて言うなら、僕もこの髪の感触が好きで、さらに言うのなら、この髪に触れる人間が僕だけであることに優越感を覚える。<br>

「まあ――どうでもいいけど」<br>
 いつからか、それが口癖になった。特にやりたいことがなくなったからだろうか。<br>

 ぼけーっとする。日溜まりがあるだけの世界。白いカーテンに、白いベッド。その上で僕たち二人は、一緒に居る。<br>

 だから、夜は違う世界に居るみたいだった。薔薇水晶は眠り、僕と違う世界に行き、そしてやさしい日溜まりは、真実を映してしまう月明かりに変わる。<br>

 夜は、怖い。いつあの綺麗な星々が見惚れるほど美しいナイフを手に取るか、怖くて仕方ない。<br>

「彼女は、どうだったのかな」<br>
 彼女は、昼の空に堕ちたかったのだろうか。それとも、夕暮れの空? あとは、夜の空。<br>

 でもきっと、彼女は何と聞かれたって、こう答えたに違いないのだ。<br>

 ――空が、好きなの。<br>
 その一言だけだった。だから、空に堕ちたのだ。天使は地上に堕ちるけど、人間は空に堕ちるらしいから。<br>

 まあ、これも彼女の受け売りなんだけど――<br>
「ん……、ジュン?」<br>
 ああ、薔薇水晶を起こしてしまった。きっと、良い夢を見ていたに違いないのに。<br>

<br>
<br>
<br>
「おはよう、ジュン」<br>
「うん、おはよう、薔薇水晶」<br>
「ああ、夜だね」<br>
「うん、夜だよ」<br>
 そういえば、彼女は、夜を何と称していただろう。<br>
「――黒い楽園みたい」<br>
「黒い、楽園?」<br>
 思わず、聞き返してしまった。何でかは、よくわからない。多分、彼女と違う答えだったと思う。<br>

「うん。真っ黒で、真っ黒で、それなのに月と星が居るの。だから、黒い楽園。月はあそこに居るしかないし、星はあそこで集まるしかないの」<br>

「それは、楽園?」<br>
「きっと幸せなんじゃないかな」<br>
「何で、幸せなの?」<br>
「空に居るから」<br>
 空に居るのが、幸せ? じゃあ、彼女も、幸せを求めていたのだろうか。<br>

「薔薇水晶は、幸せ?」<br>
「私は、幸せ。でも、私は、幸せで居たくはないよ。ジュンが、幸せそうじゃないから」<br>

「僕は、幸せそうじゃない?」<br>
「私と居るのにね」<br>
「それは、どうしてかな」<br>
「……空に、堕ちればいいのかな」<br>
 答えず、薔薇水晶は真っ黒な楽園を見上げた。誰もが孤独の中輝く楽園を。<br>

「あんな寂しい楽園、消えちゃえばいいのに」<br>
 薔薇水晶が言うけど、だけど、別に薔薇水晶が言わなくてもきっと隠れただろう。だって、明日が来るから。<br>

<br>
<br>
「薔薇水晶は、空、好き?」<br>
「私の好きなものは、ジュンの好きなものだよ」<br>
「でも、彼女は好きだったよ」<br>
「――じゃあ、私も好き。大嫌いだけどね」<br>
 くすくす、と幸せそうに笑う薔薇水晶は、かわいかった。<br>

「ジュンは、だから空が嫌いなの?」<br>
「夕暮れの空は、好きだけどね」<br>
「空は、嫌い?」<br>
「……夕暮れの空は、好きだよ」<br>
「――じゃあ、空、好き?」<br>
「さあ、どうだったかな」<br>
 薔薇水晶の言葉は、綺麗だった。きっと、薔薇水晶の言葉はあの星々と変わらない輝きを持っている。<br>

 ――からっぽの、誰もがわからない輝き。<br>
「ねえ、ジュン」<br>
「うん?」<br>
「私は、ジュンが好きだよ」<br>
「僕は、僕のことを好きでもなんでもない」<br>
「私は、ジュンが好きな薔薇水晶が好きだよ」<br>
「僕も、僕の好きな薔薇水晶が好きだ」<br>
「――私、からっぽだった彼女が好きだよ?」<br>
「そんなこと、僕は知らない」<br>
 僕のその言葉を聞いて微笑む薔薇水晶<br>
<br>
<br>
<br></p>
<p>
 夕暮れは切なさを運ぶ。見ているものの胸を締め付け、憂いを誘う。<br>

 何がこんなに懐かしいのか。何がこんなに悲しいのか。それは、儚い光景だから、そう思うのだろうか。淡い茜色がそう思わせるのだろうか。<br>

「僕はね、いつだったか、世界が終わるんじゃないかって空を見たことがある」<br>

 印象だけだった。情報がダイレクトに脳に伝わって、認識より先に理解が来た、あの赤い空。<br>

 何の疑いもなく、ああ、世界が終わるんだな、と、受け入れた。こんなに綺麗な空なんだから、それも仕方ない、とも。<br>

「だから、かな。夕暮れの空を好きなのは」<br>
「ふぅん……。それで、世界は終わった?」<br>
「覚えてない。いつの間にか、夕暮れでなくなっていたからね」<br>

「そんなものなの?」<br>
「そうだったんだから、そうなんじゃないかな」<br>
 実際、それだけだった。いつの間にか、世界は赤色から青色に変わっていた。全然別の色。きっと、僕は終わった世界からはみ出たんだろう。<br>

「赤色」<br>
「ん?」<br>
「赤って、結構特別な色だよね?」<br>
「そうかな」<br>
「そうだよ。私たちの中に流れている命も、赤色だよ?」<br>

 血のことだろうか。血は、命なのか。依の血? ……ああ、ダメだ。上手い言葉を思いつかない。<br>

「だから、赤は刺激色なのか」<br>
「そうだね。赤は命だから、命が目から入ってくれば怖いよ」<br>

 確かにそうだけど、きっとそうじゃないだろう。薔薇水晶は、そんなことを怖がるはずもないから。<br>

「そういえば、薔薇水晶って何を怖がるの?」<br>
「私の、怖がるもの?」<br>
 薔薇水晶は、不思議そうに首をかしげた。僕も、同じように首をかしげる。<br>

 自分で聞いておいてなんだけど、薔薇水晶に怖いものなんて、あるのか。自分に置き換えて考えてみれば、わかる。<br>

 ――世界なんて、夕暮れで終わってしまう程度のものなのに。<br>

<br>
<br>
<br>
「ああ、あったよ」<br>
「あるの?」<br>
「うん。空、飛べなくなること」<br>
「また、空?」<br>
「そう、空」<br>
 いつだって空は僕たちと居る。いい加減空もうんざりしているんじゃないだろうか。<br>

「でも、薔薇水晶は空を飛べるの?」<br>
「ジュンは飛べないし、だけど、だから私は飛べるんだよ」<br>

「空を飛んで、どこに行くの?」<br>
「真白な世界」<br>
「今思ったんだけどさ、世界に真白も真黒もあるの?」<br>
「あるよ。――だって、私たちの世界だもの」<br>
 薔薇水晶の言うことは、いちいちもっともだ。世界は、夕暮れ程度で終わるものだから、僕たちの世界がある。<br>

 もし、夕暮れを過ぎても世界がそこにあるのなら、きっと夜が訪れるのだ。深い、黒の楽園が。<br>

 ……じゃあ、僕はどこに居ればいいのだろう。この夕暮れの世界に、留まりたいとさえ思う。<br>

「ねえ、薔薇水晶。僕は、空に堕ちれると思う?」<br>
「堕ちれるよ」<br>
「ありがとう」<br>
 簡潔な一言で充分だった。とても、嬉しい。<br>
「でも、ジュン。一つ知っておいて」<br>
「うん」<br>
「私はね、ジュンが傍に居てくれるなら――」<br>
<br>
「――空だって、飛んでいける」<br>
<br>
 ああ、と思う。薔薇水晶がそういうんだから、きっと薔薇水晶は飛べるんだろう。<br>

 きっと、どこまでも。<br>
<br>
<br>
<br>
【――――】<br>
<br>
 彼女は微笑む。僕に向かって、どこまでも純化されて、どこか人間味を失ってしまった、その綺麗な微笑を、向ける。<br>

「ジュン」<br>
「…………」<br>
「私は、ジュンが傍に居てくれるなら」<br>
「…………」<br>
<br>
「――空にだって、堕ちていける」<br>
<br>
「……………………………………………………………………………………………<br>

 ……………………………………………………………………………………………<br>

 ……………………………………………………………………………………………<br>

 ………………………………………………………………………………………ああ、」<br>

<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
                           ノイズ。<br>

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<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
「空は、何て綺麗なんだろう」<br>
「そう? 私には、穢いようにしか見えないよ」<br>
「見てきたの?」<br>
「ないしょ」<br>
「隠し事をするんだ」<br>
「そうだよ。ジュンにすら隠し事をするんだもの。なら、きっと空だって穢れてるよ」<br>

 僕は、どうだろう。薔薇水晶に隠し事をしているのだろうか。そう、少し考えて、ないな、と思う。<br>

 そもそも、隠し事をするようなことがないのだ。もしあるとしたら、それは自分が忘れていることで。<br>

「……でも、綺麗だなあ」<br>
「綺麗だね」<br>
「さっきと言っていること、違う」<br>
「ジュンが綺麗だというなら、それはきっと綺麗なものなんだよ」<br>

「そうなのかな」<br>
「違うと思うよ」<br>
「どっち?」<br>
「どうでもいいよ」<br>
「それ、僕の台詞」<br>
「あは、ごめん」<br>
 同じようなことを、同じようなやりとりで、同じように対処していく。<br>

 別段変化はない。それが、心地よくも感じるが、しかしまどろみのような気だるさも感じる。<br>

 なら、今の自分に、どうすればやる気とか、そう言ったものが出るんだろう。<br>

「どうすればいいのかな」<br>
「じゃあ、そろそろ、空に堕ちる?」<br>
「堕ちれば、彼女に逢える?」<br>
「逢えるよ。……でも、そうだな」<br>
 この時だけは、きっと僕たちの知っている薔薇水晶じゃなくて。<br>

「私は、ジュンに堕ちて欲しくない」<br>
 なら、どうしろと言うんだ。僕は、からっぽなのに。<br>
<br>
<br>
<br></p>
<p>「からっぽになったことはある?」<br>
 彼女が僕に唐突に聞いたことがあった。それはいつだったか覚えていないけれど。<br>

「からっぽ?」<br>
「えっと、何もない状態」<br>
「僕は、多分、何かがあると思うよ」<br>
「うん。よかった。ジュンは、そうだよね」<br>
 それが寂しさを伴っていたことに気づいていたが、気にしなかった。僕たちの世界は、そんなことを気にしない。<br>

「世界が、赤いよ」<br>
「このまま、赤に染まったらどうなるのかな」<br>
「きっと、世界が終わるんじゃない?」<br>
「世界が終わったら、どうするの?」<br>
「私は、ジュンと一緒に居たい」<br>
「世界が終わっても?」<br>
「世界が始まる前からでも」<br>
「僕と?」<br>
「ジュンと」<br>
「……なのに、“       ”は、僕を、」<br>
<br>
 ノイズ。<br>
<br>
「――空にだって、堕ちていける」<br>
 君が堕ちていけるのなら、僕だって、きっと堕ちていけるに違いない。<br>

「それじゃあ、ばいばい」<br>
「うん、ばいばい」<br>
 ホント、意味わからないけどさ。<br>
<br>
<br>
<br>
<br></p>
<p>「……あ、」<br>
 忘れていた何かを思い出した気がした。<br>
「どうしたの?」<br>
「頭の中で、過去が見えた気がした」<br>
「それで、どうしたの?」<br>
「ん、何もしなかった」<br>
「……つまんない」<br>
 予想通りの答えを返してくれた。いつもより、少しつまらなそうな表情で。<br>

「こんな会話、つまらない」<br>
「うん、でも、きっと必要なことなんだよ」<br>
「世界に?」<br>
「そう、この物語に」<br>
「そんなの、いらないのに。私は、ジュンが居れば、何もいらないのに」<br>

「おかしなことを言うね。僕以外、誰も居ないのに」<br>
「二人だけの世界?」<br>
「二人だけしか居ない世界だよ」<br>
「……ねえ、ジュン。空に堕ちよう」<br>
 薔薇水晶から誘ってきたのは、初めてだった。<br>
「もう、いいや。飽きちゃった。ジュンは、きっといつまでもここに居るつもりでしょう」<br>

「うん、そうだよ」<br>
「――それは、ダメな事だってわかってても?」<br>
「うん」<br>
「私が、頼んでも?」<br>
「だって、空を飛べる薔薇水晶と、空に堕ちるしかない僕とでは、全然違うじゃないか」<br>

「私が、ジュンに空に堕ちてほしいと思ってると思う?」<br>

「……きっと、それには答えられない」<br>
 誰よりも近い他人のことなんて、誰も答えられるはずがない。自分のことが、一番よくわからないんだから。<br>

<br>
<br>
<br>
 流れる雲を数える。暇つぶし。何もすることがないし、何もしたいことがないから。<br>

 私は、ジュンが居なければ何も意味がない。そんな存在。ジュンが居るから世界に意味は生まれるし、ジュンが居るから世界を認識できる。<br>

 この、白い部屋と、変わらず変化する空だけの世界。それだけが、私たちの世界だったに違いなかった。<br>

「夕暮れだ」<br>
 夕暮れだった。ジュンは眠っているけど、でもきっと私が夕暮れを見ているなら、ジュンだって夕暮れの夢を見ているのかもしれない。<br>

 ジュンは、夕暮れを世界の終わりと例えた。それはきっと、正しい。もし一日ごとに世界が生まれ変わるとしたら、世界の終わりの象徴は、陽の沈むその時だ。<br>

 だから、彼女はその空に堕ちることを選んだ。夕暮れが好きで、……夕暮れが、とても想い出深いから。<br>

 でも、一歩間違えば、彼女のしたことは、想い出を穢してしまうことに他ならない。彼女とジュンが過ごした夕暮れ。<br>

 彼女とジュンが出逢ったのは、とても綺麗な夕暮れの景色の中で、彼女とジュンが結ばれたのだって、忘れられない夕暮れの景色だった。<br>

 ――そう、忘れられない。どんなことがあったって、忘れることなんてできない。<br>

 本当に大切な想い出というのは、そういうものなんだ。私は、ずっとそう思う。<br>

「だから、見失ってしまえばいい」<br>
 そんなもの。大切だから、腐っていってしまう、白亜の夢。白い白い霧に霞む夢幻。<br>

 白はあかに染められる。あかい色。吐き気がするほど綺麗に見える、黒よりも黒いあか。<br>

 ジュンは、あかをどう思ったのだろう。あか。あか。まっか。私は、きっとあかが嫌いなんだろうな。そう思う。<br>

「でも、そもそも、」<br>
 私って、誰なんだろうね。ねえ、ジュン。横で眠るジュンの頬に触れる。とても、愛しい。<br>

<br>
「……私は、だぁれ?」<br>
<br>
 きっと、ジュンは答えてくれない。<br>
<br></p>
<dl>
<dd>「おはよう、薔薇水晶」<br>
「おはよう、ジュン」<br>
「……ああ、夕暮れだ」<br>
「そうだよ。ジュンの好きな、回顧すべき夕暮れ」<br>
「回顧するの? 懐古じゃなくて?」<br>
「ん、回顧、かな」<br>
 流れる雲を数える。空を見る。空に流れる雲を、数える。<br>

「そうだなぁ」<br>
 ジュンは、いつものように、何も変わらず、空を見上げ、そして空に見入った。<br>

「過去なんて、狂う材料でしかないと思うけど」<br>
「狂うの?」<br>
「過去がなければ、狂わない」<br>
「過去があるから、甘美な夢を見れる」<br>
「狂っているから、甘美に感じる」<br>
「じゃあ、ジュンは想い出が欲しくないの?」<br>
「……薔薇水晶が居れば、別にいい」<br>
「彼女は?」<br>
「彼女は――」<br>
 どうせ、答えは同じなのに。どうして私は聞いてしまうのだろう。何も、返ってこないのに。<br>

「彼女は、空に堕ちたから」<br>
「それは、答えてないよ」<br>
「彼女は、空(から)でなくなったから」<br>
「ジュンは、空(から)なの?」<br>
「何もない話だ」<br>
「……何もない、話だね」<br>
 ジュンは、空に堕ちたいんだ。だけど、堕ちる空はない。ジュンは、空だから。<br>

<br></dd>
<dd>「禁忌という言葉があるよね」<br>
「やってはいけないこと」<br>
「そう、やっちゃいけないことだ」<br>
「空に堕ちるのは、禁忌かな」<br>
「地上に堕ちるのは、禁忌に触れたからだよ」<br>
「……なら、禁忌に“なる”のは」<br>
「禁忌じゃないよ」<br>
「そっか」<br>
「そうだね」<br>
「意識したことないけど、僕たちはどちらがどちらでもいいのかな」<br>

「それは違うよ。私はジュンでもいいけど、ジュンは私ではいけないもの」<br>

「それは、何故?」<br>
「ジュンは、空に堕ちたいから」<br>
「薔薇水晶は、空に堕ちたいの?」<br>
 ジュンが気づくまで、この会話が続く。ずっと、続く。<br>

「――さあ? 彼女に聞いて。そんなことは」<br>
「そっか。逢いたいな」<br>
「私が居るのに、彼女に逢いたいの?」<br>
「うん」<br>
「……それだけの話なのに」<br>
「それだけの、話」<br>
「なのに、どうして、こんなに繰り返すの?」<br>
「罪だから」<br>
 ……うるさいな。そんなこと言われたら、私、泣きそうになっちゃうじゃないか。バカ。<br>

<br></dd>
<dd><br></dd>
</dl>

復元してよろしいですか?