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【何もない話】

 ――空に堕ちる夢を見た。
「あー?」
 どこまでも無限に広がる空のクセに、何故か空には底が在る。
 自分が堕ちているという感覚がなくなったから、そう判断しただけだけど。
「いや、夢だけど」
「何が?」
 彼女が不思議そうに言うから、頭をなでた。気持ち良さそうに目を細める彼女は、猫のようだと思った。
「空は何だと思う?」
「空?」
「そう、空」
 そんな彼女の意見を聞きたかった。きっと彼女からは、とても素敵な言葉が聞けると思ったから。
「空イコール、堕ちるだと思う」
「空は、堕ちるものなの?」
「空に、堕ちる。空が、堕ちる。空で、堕ちる。そんな感じ」
 ……言いたいことはよく判らないけど、何となく彼女の視線から意図を読み取る。
「じゃあ、僕は君にとっての空なのかな」
「そうだね。ジュンは、私にとっての空かもしれない」
 彼女は、とても愛くるしい笑顔で言った。……ただ、それだけだった。

「例えば、眠くなる時だって在る。それは、どうしてなのかな」
「人間は、退屈で死ねるから。だから、じゃないかな」
「退屈で死にそうだから、眠くなるの?」
「そうだね。きっと、そうに違いない」
 人間は生きているから、停まることが出来ないんだ。退屈と言うのはつまり、停まる状態に近づくこと。
「じゃあ、死んだ人間はどうなのかな」
「知らない。私、死んだことないから」
「そう。僕もまだ、死んだことがないよ」
 穏やかな時間。窓から温かい日差しが差し込む、とても緩やかな時の流れ。
 彼女と居るからこうなのか。あるいは、彼女が望むからこんな時間なのか。
 それは、自分にはわからないことだった。
「薔薇水晶は、死にたい?」
「ジュンが死にたいのなら、死にたい」
「……僕は、わからないよ」
「じゃあ、きっと私もわからない」
「でも、空は飛びたいんだ」
「空に、何があるの?」
 何があるんだろう。知らない。もしかしたら天使が居るのかもしれない。
「神さまを信じる?」
「神さま? 神さまの何を信じるの?」
「空が素敵なところであるように」
 それは、彼女の願いだった。


「ねえ、ジュン」
「うん」
「何を悲しんでいるの?」
「何も、悲しんでなんか居ないよ」
 別に、空が飛びたくなっただけ。空に還ると言って、微笑んで消えた彼女に逢いたくなっただけ。
 ……だから僕は、悲しんでなんか居ないはず。だって、今こんなにも薔薇水晶と一緒の時間を過ごせている。
「彼女に、逢いたい?」
「彼女に、逢いたいよ」
「空に堕ちた彼女に?」
「空に堕ちた彼女に」
「天使になっていそうな彼女に?」
「天使になっていそうな彼女に」
「――私よりも?」
「薔薇水晶とは、今一緒に居るじゃないか」
 そういうことじゃなくて、と薔薇水晶は拗ねたように口を尖らせた。
「まあ、いいかな」
「うん、いいかもしれない」
「空は遠いね」
「こんなにも近いのにね」
「それだけの話かな」
「きっと、それだけの話だよ」
 そして、僕たちは目を瞑った。一緒に、眠りたかったから。

【からっぽの僕たちは、別に何でもなく、一緒に居るだけだ】




 眠れない夜が続く。身体はだるいんだけど、疲れているともまた違う、精神のたるみ。
 何となく、胸の中がもやもやして眠れないんだ。眠りは、一番の逃避だと知っているからだろうか。
「薔薇水晶は、眠れるのに」
「……ん」
 横で眠る彼女の髪を梳く。さらさらと、まるで清らかな水みたいに指の隙間から流れていく髪。
 この髪は薔薇水晶の自慢で、そして彼女の自慢だった。だから、どうというわけではないのだけど。
 強いて言うなら、僕もこの髪の感触が好きで、さらに言うのなら、この髪に触れる人間が僕だけであることに優越感を覚える。
「まあ――どうでもいいけど」
 いつからか、それが口癖になった。特にやりたいことがなくなったからだろうか。
 ぼけーっとする。日溜まりがあるだけの世界。白いカーテンに、白いベッド。その上で僕たち二人は、一緒に居る。
 だから、夜は違う世界に居るみたいだった。薔薇水晶は眠り、僕と違う世界に行き、そしてやさしい日溜まりは、真実を映してしまう月明かりに変わる。
 夜は、怖い。いつあの綺麗な星々が見惚れるほど美しいナイフを手に取るか、怖くて仕方ない。
「彼女は、どうだったのかな」
 彼女は、昼の空に堕ちたかったのだろうか。それとも、夕暮れの空? あとは、夜の空。
 でもきっと、彼女は何と聞かれたって、こう答えたに違いないのだ。
 ――空が、好きなの。
 その一言だけだった。だから、空に堕ちたのだ。天使は地上に堕ちるけど、人間は空に堕ちるらしいから。
 まあ、これも彼女の受け売りなんだけど――
「ん……、ジュン?」
 ああ、薔薇水晶を起こしてしまった。きっと、良い夢を見ていたに違いないのに。



「おはよう、ジュン」
「うん、おはよう、薔薇水晶」
「ああ、夜だね」
「うん、夜だよ」
 そういえば、彼女は、夜を何と称していただろう。
「――黒い楽園みたい」
「黒い、楽園?」
 思わず、聞き返してしまった。何でかは、よくわからない。多分、彼女と違う答えだったと思う。
「うん。真っ黒で、真っ黒で、それなのに月と星が居るの。だから、黒い楽園。月はあそこに居るしかないし、星はあそこで集まるしかないの」
「それは、楽園?」
「きっと幸せなんじゃないかな」
「何で、幸せなの?」
「空に居るから」
 空に居るのが、幸せ? じゃあ、彼女も、幸せを求めていたのだろうか。
「薔薇水晶は、幸せ?」
「私は、幸せ。でも、私は、幸せで居たくはないよ。ジュンが、幸せそうじゃないから」
「僕は、幸せそうじゃない?」
「私と居るのにね」
「それは、どうしてかな」
「……空に、堕ちればいいのかな」
 答えず、薔薇水晶は真っ黒な楽園を見上げた。誰もが孤独の中輝く楽園を。
「あんな寂しい楽園、消えちゃえばいいのに」
 薔薇水晶が言うけど、だけど、別に薔薇水晶が言わなくてもきっと隠れただろう。だって、明日が来るから。


「薔薇水晶は、空、好き?」
「私の好きなものは、ジュンの好きなものだよ」
「でも、彼女は好きだったよ」
「――じゃあ、私も好き。大嫌いだけどね」
 くすくす、と幸せそうに笑う薔薇水晶は、かわいかった。
「ジュンは、だから空が嫌いなの?」
「夕暮れの空は、好きだけどね」
「空は、嫌い?」
「……夕暮れの空は、好きだよ」
「――じゃあ、空、好き?」
「さあ、どうだったかな」
 薔薇水晶の言葉は、綺麗だった。きっと、薔薇水晶の言葉はあの星々と変わらない輝きを持っている。
 ――からっぽの、誰もがわからない輝き。
「ねえ、ジュン」
「うん?」
「私は、ジュンが好きだよ」
「僕は、僕のことを好きでもなんでもない」
「私は、ジュンが好きな薔薇水晶が好きだよ」
「僕も、僕の好きな薔薇水晶が好きだ」
「――私、からっぽだった彼女が好きだよ?」
「そんなこと、僕は知らない」
 僕のその言葉を聞いて微笑む薔薇水晶



 夕暮れは切なさを運ぶ。見ているものの胸を締め付け、憂いを誘う。
 何がこんなに懐かしいのか。何がこんなに悲しいのか。それは、儚い光景だから、そう思うのだろうか。淡い茜色がそう思わせるのだろうか。
「僕はね、いつだったか、世界が終わるんじゃないかって空を見たことがある」
 印象だけだった。情報がダイレクトに脳に伝わって、認識より先に理解が来た、あの赤い空。
 何の疑いもなく、ああ、世界が終わるんだな、と、受け入れた。こんなに綺麗な空なんだから、それも仕方ない、とも。
「だから、かな。夕暮れの空を好きなのは」
「ふぅん……。それで、世界は終わった?」
「覚えてない。いつの間にか、夕暮れでなくなっていたからね」
「そんなものなの?」
「そうだったんだから、そうなんじゃないかな」
 実際、それだけだった。いつの間にか、世界は赤色から青色に変わっていた。全然別の色。きっと、僕は終わった世界からはみ出たんだろう。
「赤色」
「ん?」
「赤って、結構特別な色だよね?」
「そうかな」
「そうだよ。私たちの中に流れている命も、赤色だよ?」
 血のことだろうか。血は、命なのか。依の血? ……ああ、ダメだ。上手い言葉を思いつかない。
「だから、赤は刺激色なのか」
「そうだね。赤は命だから、命が目から入ってくれば怖いよ」
 確かにそうだけど、きっとそうじゃないだろう。薔薇水晶は、そんなことを怖がるはずもないから。
「そういえば、薔薇水晶って何を怖がるの?」
「私の、怖がるもの?」
 薔薇水晶は、不思議そうに首をかしげた。僕も、同じように首をかしげる。
 自分で聞いておいてなんだけど、薔薇水晶に怖いものなんて、あるのか。自分に置き換えて考えてみれば、わかる。
 ――世界なんて、夕暮れで終わってしまう程度のものなのに。



「ああ、あったよ」
「あるの?」
「うん。空、飛べなくなること」
「また、空?」
「そう、空」
 いつだって空は僕たちと居る。いい加減空もうんざりしているんじゃないだろうか。
「でも、薔薇水晶は空を飛べるの?」
「ジュンは飛べないし、だけど、だから私は飛べるんだよ」
「空を飛んで、どこに行くの?」
「真白な世界」
「今思ったんだけどさ、世界に真白も真黒もあるの?」
「あるよ。――だって、私たちの世界だもの」
 薔薇水晶の言うことは、いちいちもっともだ。世界は、夕暮れ程度で終わるものだから、僕たちの世界がある。
 もし、夕暮れを過ぎても世界がそこにあるのなら、きっと夜が訪れるのだ。深い、黒の楽園が。
 ……じゃあ、僕はどこに居ればいいのだろう。この夕暮れの世界に、留まりたいとさえ思う。
「ねえ、薔薇水晶。僕は、空に堕ちれると思う?」
「堕ちれるよ」
「ありがとう」
 簡潔な一言で充分だった。とても、嬉しい。
「でも、ジュン。一つ知っておいて」
「うん」
「私はね、ジュンが傍に居てくれるなら――」

「――空だって、飛んでいける」

 ああ、と思う。薔薇水晶がそういうんだから、きっと薔薇水晶は飛べるんだろう。
 きっと、どこまでも。



【――――】

 彼女は微笑む。僕に向かって、どこまでも純化されて、どこか人間味を失ってしまった、その綺麗な微笑を、向ける。
「ジュン」
「…………」
「私は、ジュンが傍に居てくれるなら」
「…………」

「――空にだって、堕ちていける」

「……………………………………………………………………………………………
 ……………………………………………………………………………………………
 ……………………………………………………………………………………………
 ………………………………………………………………………………………ああ、」





                           ノイズ。







「空は、何て綺麗なんだろう」
「そう? 私には、穢いようにしか見えないよ」
「見てきたの?」
「ないしょ」
「隠し事をするんだ」
「そうだよ。ジュンにすら隠し事をするんだもの。なら、きっと空だって穢れてるよ」
 僕は、どうだろう。薔薇水晶に隠し事をしているのだろうか。そう、少し考えて、ないな、と思う。
 そもそも、隠し事をするようなことがないのだ。もしあるとしたら、それは自分が忘れていることで。
「……でも、綺麗だなあ」
「綺麗だね」
「さっきと言っていること、違う」
「ジュンが綺麗だというなら、それはきっと綺麗なものなんだよ」
「そうなのかな」
「違うと思うよ」
「どっち?」
「どうでもいいよ」
「それ、僕の台詞」
「あは、ごめん」
 同じようなことを、同じようなやりとりで、同じように対処していく。
 別段変化はない。それが、心地よくも感じるが、しかしまどろみのような気だるさも感じる。
 なら、今の自分に、どうすればやる気とか、そう言ったものが出るんだろう。
「どうすればいいのかな」
「じゃあ、そろそろ、空に堕ちる?」
「堕ちれば、彼女に逢える?」
「逢えるよ。……でも、そうだな」
 この時だけは、きっと僕たちの知っている薔薇水晶じゃなくて。
「私は、ジュンに堕ちて欲しくない」
 なら、どうしろと言うんだ。僕は、からっぽなのに。



「からっぽになったことはある?」
 彼女が僕に唐突に聞いたことがあった。それはいつだったか覚えていないけれど。
「からっぽ?」
「えっと、何もない状態」
「僕は、多分、何かがあると思うよ」
「うん。よかった。ジュンは、そうだよね」
 それが寂しさを伴っていたことに気づいていたが、気にしなかった。僕たちの世界は、そんなことを気にしない。
「世界が、赤いよ」
「このまま、赤に染まったらどうなるのかな」
「きっと、世界が終わるんじゃない?」
「世界が終わったら、どうするの?」
「私は、ジュンと一緒に居たい」
「世界が終わっても?」
「世界が始まる前からでも」
「僕と?」
「ジュンと」
「……なのに、“       ”は、僕を、」

 ノイズ。

「――空にだって、堕ちていける」
 君が堕ちていけるのなら、僕だって、きっと堕ちていけるに違いない。
「それじゃあ、ばいばい」
「うん、ばいばい」
 ホント、意味わからないけどさ。




「……あ、」
 忘れていた何かを思い出した気がした。
「どうしたの?」
「頭の中で、過去が見えた気がした」
「それで、どうしたの?」
「ん、何もしなかった」
「……つまんない」
 予想通りの答えを返してくれた。いつもより、少しつまらなそうな表情で。
「こんな会話、つまらない」
「うん、でも、きっと必要なことなんだよ」
「世界に?」
「そう、この物語に」
「そんなの、いらないのに。私は、ジュンが居れば、何もいらないのに」
「おかしなことを言うね。僕以外、誰も居ないのに」
「二人だけの世界?」
「二人だけしか居ない世界だよ」
「……ねえ、ジュン。空に堕ちよう」
 薔薇水晶から誘ってきたのは、初めてだった。
「もう、いいや。飽きちゃった。ジュンは、きっといつまでもここに居るつもりでしょう」
「うん、そうだよ」
「――それは、ダメな事だってわかってても?」
「うん」
「私が、頼んでも?」
「だって、空を飛べる薔薇水晶と、空に堕ちるしかない僕とでは、全然違うじゃないか」
「私が、ジュンに空に堕ちてほしいと思ってると思う?」
「……きっと、それには答えられない」
 誰よりも近い他人のことなんて、誰も答えられるはずがない。自分のことが、一番よくわからないんだから。



 流れる雲を数える。暇つぶし。何もすることがないし、何もしたいことがないから。
 私は、ジュンが居なければ何も意味がない。そんな存在。ジュンが居るから世界に意味は生まれるし、ジュンが居るから世界を認識できる。
 この、白い部屋と、変わらず変化する空だけの世界。それだけが、私たちの世界だったに違いなかった。
「夕暮れだ」
 夕暮れだった。ジュンは眠っているけど、でもきっと私が夕暮れを見ているなら、ジュンだって夕暮れの夢を見ているのかもしれない。
 ジュンは、夕暮れを世界の終わりと例えた。それはきっと、正しい。もし一日ごとに世界が生まれ変わるとしたら、世界の終わりの象徴は、陽の沈むその時だ。
 だから、彼女はその空に堕ちることを選んだ。夕暮れが好きで、……夕暮れが、とても想い出深いから。
 でも、一歩間違えば、彼女のしたことは、想い出を穢してしまうことに他ならない。彼女とジュンが過ごした夕暮れ。
 彼女とジュンが出逢ったのは、とても綺麗な夕暮れの景色の中で、彼女とジュンが結ばれたのだって、忘れられない夕暮れの景色だった。
 ――そう、忘れられない。どんなことがあったって、忘れることなんてできない。
 本当に大切な想い出というのは、そういうものなんだ。私は、ずっとそう思う。
「だから、見失ってしまえばいい」
 そんなもの。大切だから、腐っていってしまう、白亜の夢。白い白い霧に霞む夢幻。
 白はあかに染められる。あかい色。吐き気がするほど綺麗に見える、黒よりも黒いあか。
 ジュンは、あかをどう思ったのだろう。あか。あか。まっか。私は、きっとあかが嫌いなんだろうな。そう思う。
「でも、そもそも、」
 私って、誰なんだろうね。ねえ、ジュン。横で眠るジュンの頬に触れる。とても、愛しい。

「……私は、だぁれ?」

 きっと、ジュンは答えてくれない。

「おはよう、薔薇水晶」
「おはよう、ジュン」
「……ああ、夕暮れだ」
「そうだよ。ジュンの好きな、回顧すべき夕暮れ」
「回顧するの? 懐古じゃなくて?」
「ん、回顧、かな」
 流れる雲を数える。空を見る。空に流れる雲を、数える。
「そうだなぁ」
 ジュンは、いつものように、何も変わらず、空を見上げ、そして空に見入った。
「過去なんて、狂う材料でしかないと思うけど」
「狂うの?」
「過去がなければ、狂わない」
「過去があるから、甘美な夢を見れる」
「狂っているから、甘美に感じる」
「じゃあ、ジュンは想い出が欲しくないの?」
「……薔薇水晶が居れば、別にいい」
「彼女は?」
「彼女は――」
 どうせ、答えは同じなのに。どうして私は聞いてしまうのだろう。何も、返ってこないのに。
「彼女は、空に堕ちたから」
「それは、答えてないよ」
「彼女は、空(から)でなくなったから」
「ジュンは、空(から)なの?」
「何もない話だ」
「……何もない、話だね」
 ジュンは、空に堕ちたいんだ。だけど、堕ちる空はない。ジュンは、空だから。

「禁忌という言葉があるよね」
「やってはいけないこと」
「そう、やっちゃいけないことだ」
「空に堕ちるのは、禁忌かな」
「地上に堕ちるのは、禁忌に触れたからだよ」
「……なら、禁忌に“なる”のは」
「禁忌じゃないよ」
「そっか」
「そうだね」
「意識したことないけど、僕たちはどちらがどちらでもいいのかな」
「それは違うよ。私はジュンでもいいけど、ジュンは私ではいけないもの」
「それは、何故?」
「ジュンは、空に堕ちたいから」
「薔薇水晶は、空に堕ちたいの?」
 ジュンが気づくまで、この会話が続く。ずっと、続く。
「――さあ? 彼女に聞いて。そんなことは」
「そっか。逢いたいな」
「私が居るのに、彼女に逢いたいの?」
「うん」
「……それだけの話なのに」
「それだけの、話」
「なのに、どうして、こんなに繰り返すの?」
「罪だから」
 ……うるさいな。そんなこと言われたら、私、泣きそうになっちゃうじゃないか。バカ。


「最後の話。物語の終焉」
「繰り返される会話。終わらない日常」
「でもそれは、彼の望んだこと」
「彼が罪と思うことは、彼女にとってきっと、罪であるはずがない」
「彼女はきっと赦す」
「それが、彼が好きになった彼女の、優しさ。……ううん。彼女の、罪なのかもしれない」
「でも、彼はどうしても気づかない」
「空に暗い憧憬を向けるしかない」
「空に堕ちても、どうしようもないのに」
「きっと天使になっても、今と変わらない」
「逢いたいと願うのは、もはや祈りでしかない」
「空に堕ちたいという願いだけが、彼の唯一の意志」
「意識は限りなく零に近づき、共に歩むことは奇跡に等しい」
「……ねえ、ほら、聞こえるでしょう。彼女の声が」

『ごめんな、さい。だから、だから、お願いだから、ジュン……っ』

「この声は、きっと彼には届かない。何かある話が、何もない話になるまで、彼は気づくことができないのか」
「彼女のことを」
「とても綺麗な瞳をして、とても純粋に彼を想う、彼女」
「そう、彼女の名前は――」

 世界が、夕暮れに染まる。

「……あれ、薔薇水晶?」
「おはよう、ジュン」
「うん、おはよう」
「夕暮れだよ」
「夕暮れか」
「最後の夕暮れに限りなく近い、夕暮れ」
「最後?」
「そうだよ。……私が、そんなことを言うのは、おかしいんだけど」
 目を伏せながら、言った。それが、ジュンにはどうしようもなく嫌だった。心が、黒に塗りつぶされていく錯覚すら覚えた。
「どうしたの?」
「ねえ、ジュン。部屋から、出よう?」
「え……?」
「早く」
 彼女のその口調は、拒否を認めない、確かな意志があった。
「わかった、けど」
 部屋から出る? とてつもない違和感を、ジュンは覚えた。
 部屋とは、今居る場所。でも、僕たちの世界は、それだけで完成していたはずなのに――。
 それが、違和感。いや、齟齬と言った方が正しい。ジュンは、気づかない。だけど、気づく人が居た。それだけ。
「でも、外に何をしに行くの?」
「覚えてる? 最後の夕暮れを」
 答えず、ジュンを優しい瞳で見た。その瞳が、ジュンは何よりも好きだった。だから、わからなかった。
「……わからないよ」
「あの屋上も?」
「あの屋上も」
「彼女の微笑も?」
「彼女の、微笑みも」
 じゃあ、思い出してね――その言葉と共に、ドアは、開かれた。

 場面が変わる。二人は、屋上に居た。
「……あ、ああ?」
 身体が震えた。立っていられない。足が使い物にならない。息も上手くできない。何だ、これ。何なんだ、これは――。
「最後の夕暮れだよ、ジュン。世界が終わってしまうような、夕暮れ」
「――薔薇、水晶?」
「ねえ、思い出して。ううん。そんなこと、私が言えないんだけど。だけど、言うよ。私はジュンのことが好きだから」
 そして、目を瞑る。眠るときのように、静かに、安らかに。想いが、届くといいと、祈りながら。
「からっぽになったことはある?」
 それは、あの時、“彼女”がジュンに聞いたことで。
「え……」
「つまり、何もない状態」
「何を、言って、」
「うん。よかった。ジュンは、そうだよね。ねえ、世界が、赤いよ」
「違う、ダメだ、」
「きっと、世界が終わるんじゃない?」
「話を、聞いてくれ」
「私は、ジュンと一緒に居たい」
「一緒に、居てくれ……っ」
「世界が始まる前からでも」
「あ、ああ、」
「ジュンと」
 ただ、“彼女”との一方的な会話が繰り返される。
「だからね、ジュン――」
 言葉が、彼に届く。
「ジュンが居てくれるのなら」

「私は、空にだって堕ちていける」

 そして、“彼女”の身体が、空に堕ちた。

 ジュンは、必死に手を伸ばす。身体を、動かす。
 何も考えない。何も考えることが出来ない。ただ、間に合いたい。もう、嫌だ。もう、失いたくなかった。
 思い出したのだ。“彼女”の、微笑み。空が好きで、空に憧れて。それなのに、空(から)になって、空を飛ぶことが出来ず、空に堕ちた少女のことを。
 ジュンは、“彼女”が好きだった。“彼女”が、好きだったのだ。
「そうだよ! 僕は、僕は――君が好きなんだ!」
 叫ぶ。ただ、それだけを伝えたいから。
「――“薔薇水晶”のことが、好きなんだ!」
 そして、ジュンは“彼女”の名前を思い出した。そして。

「――――ッ!」
 “彼女”を、取り戻した。

「あは……やっと、思い出してくれた」
「薔薇、水晶……」
「そうだよ。ジュンが好きだった薔薇水晶を、ジュンがそうだったらいいな、と想う薔薇水晶となったのが、私」
「ここは、僕の世界なんだ」
「そうだよ。だから、何もない話なの。私は、偽者。……ふふ、偽者なのに、心の底から、ジュンのことを、想っていたけど」
「うん。伝わった。君のおかげで、伝わった」
「――あーあ。ホントは、私だって、ずっと一緒に居たかった」
「ごめん」
「いいよ。ジュンのこと、好きだから、赦してあげる」
「ごめん」
 そして、“彼女”は、笑った。
「ねえ、もう、聞こえるでしょう? 薔薇水晶の、泣き声」

「うん、聞こえる」
 ずっと、聞こえていた。きっと、薔薇水晶は、空に堕ちて、だけど帰ってきたのだ。帰ってきてくれたのに、今度は自分が、空(から)に堕ちてしまった。
 それだけの、話。
「ねえ、ジュン。最後のお願い。一緒に、空を飛ぼう?」
「この、夕暮れを?」
「そうだよ。一緒なら、きっと飛んで行ける」
 そう言って、“彼女”は手を差し出した。その笑顔は、何故か涙を誘った。遠い昔、どこかで見たことがあるような気がして。
「――うん。行こう」
 だけど、ジュンはそれを無視した。……本当は、判っていたけど。それが、“彼女”の願いだったから。
 だから、昔と同じように、“彼女”の手を、握る。
「あは、嬉しい」
「僕も、嬉しいよ」
 幸せだった。この世界で、自分が壊れることがなかったのは、今手を握っている、“彼女”のおかげに違いないのだ。
「……僕は、君のことが好きだった」
「私も、ジュンのことが好きだよ」
「過去形になっちゃったよ」
「いいよ。しょうがないもの」
「だけど、忘れないから」
「知ってるよ」
「空、飛べたの?」
「飛べたよ。ジュンのことを捨てたくらいだもん。飛べたに決まってるじゃない」
「……僕も、飛びたかった」
「だから、一緒に飛ぼう」
「うん。飛ぼう」
「「――あの日に出来なかったことを、今、しよう」」

 そして、二人は、空を飛んだ。

「ジュン……っ」
 薔薇水晶は、ずっと泣き続けていた。ずっと。薔薇水晶が空から帰ってきてから、ずっと。
「お願いだから、起きてよぅ。もう、あんなこと、しないから。謝るから。ごめんなさい。ごめんなさい! だから、だから――」
「……ああ、うん。いいよ、別に」
「え……?」
「だから、いいって。そんなに泣かれると、困る」
 そして。薔薇水晶は――
「――ジュンっ!」
「……ただいま、薔薇水晶」
「おか、おかえ、」
 もう、言葉にならなかった。だから、泣いた。泣いて身体を抱きしめて。
 ジュンも、薔薇水晶の身体を抱き返したから、きっと、想いは伝わったと想う。
「……ねえ、薔薇水晶」
「う、あう、え……?」
「空、綺麗だね」
 言われ、見上げる。そこには、とても綺麗な、いつだったかよりも綺麗な、茜色の夕暮れ。
「うん、綺麗――」
 ああ、それだけなんだ。気づく。きっと、二人はそれだけで、充分。
 からっぽとか、そんなことはどうでもよくて。二人で居られれば、それで満たされる。
「ねえ、ジュン」
「うん」
「幸せだよ」
「僕も、幸せだよ」
 もう、言葉は要らなかった。ただ、唇をよせた。

【からっぽの僕たちだけど、でもそんなの、幸せでない理由になんて、ならない】

 だってほら。今、こんなにも二人は笑顔で居られてるから――。

end.

【“彼女”の、話】

 “彼女”は、空を飛んでいた。
「あはは……」
 だから、幸せだったはずなのに。どうしてか、涙が溢れてくる。
 それは、どう考えたって、彼のせいだ。“彼女”の大好きな、彼が、最後の最後に、あんなことを言うから。
「何で、呼ぶかなぁ、名前……」
 自分の、名前。彼を、苦しめて、忘れさせてしまった、名前。
『僕は、僕は、君のことが好きだから――』
 一緒に空を飛んで、そして別れが訪れる、直前に、彼は言ったのだ。

『――ずっと、いつまでも好きだからな、雪華綺晶!』

 ……もう、それだけで、充分だった。何もかも、満たされた。
 ここは、彼の世界。だけど、意志はある。だから、私は、彼が作った幻影かもしれない。彼が、遠い昔に失った、“彼女”の幻影。
 だけど、彼を想えた。薔薇水晶を想えた。二人を、大好きだと心の底から言えた。
 それを、彼の言葉が証明してくれたように思える。彼が、名前を呼んでくれたから。彼が、決して言葉にしていないのに、わかってくれたから。
 ――彼を残して、空を飛んでいってしまった、私を。
「ああ、」
 幸せだった。だから、空を飛ぼう。世界が終わる、その時まで。
「……あのね、ジュン」
 世界が赤く染まっていく。……もう、世界は終わる。
「私は、あなたのことが――」

「世界で一番、好きでした」

 そして世界には、何もなくなった。

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最終更新:2006年05月05日 22:53