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第十六話  『出逢った頃のように』」(2008/02/03 (日) 20:29:03) の最新版変更点

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<p> <br>  <br> なんとしても、喉から手が出るほどに、この身体が欲しい。<br> それも、なるべく綺麗な状態で。<br> 故に、彼女は、このまま喉を噛み続けて、縊る手段を選んだ。<br>  <br> ナイフで急所を突いたり、喉笛を斬るなんて、まったくもって問題外。<br> 手や荊で絞め殺すのも、頸に一生モノの痣が残ってしまうかもしれない。<br> その点、ちょっとくらいの噛み傷なら、数日もすれば癒えて、目立たなくなろう。<br> 喉元なら、チョーカーなどのアクセサリで隠すことも可能だ。<br>  <br> 程なく、コリンヌが痙攣を始めた。<br> 肌に食い込ませた歯に、なにかが喉を駆け上がってゆく蠕動が伝わってくる。<br> 密着させた下腹部にも、温かい湿気が、じわり……。<br> 嘔吐と失禁――窒息から死に至る際の、典型的な兆候だった。<br> ここまでくると酸欠で脳が麻痺するので、苦しみはもう感じず、むしろ気持ちいいのだとか。<br>  <br> 実に上々。もうすぐ、コリンヌの息吹は永久に絶えて、理想の器が手に入る。<br> あまりにも思惑どおりに運びすぎて、どうしても、彼女の頬は緩んでしまう。<br>  <br> 「くっ……うふっ」<br>  <br> 我慢できずに、つい噴き出してしまった、その一瞬――<br> 吐瀉物で詰まっていたコリンヌの喉が、僅かな隙間を得て、ひゅうと鳴る。<br> そして、少女はひどく咽せながら、短く……嗄れた声を吐いた。<br> たった一言。しかし、彼女たちにとっては、大きな意味を持つ名詞を。<br>  <br> 途端、内側から胸を強打されて、彼女はホウセンカの実が弾けるように仰け反った。<br> それでも、突然の動悸は止むことを知らず、彼女の呼吸を苛みつづけた。<br>  <br>  <br>  <br>   第十六話 『出逢った頃のように』<br>  <br>  <br>  <br> 息ができない。喘ぐのに必死で、涎を垂らすことさえ、羞恥と感じなかった。<br> 鬱血のためか、闇に慣れた彼女の視界が、さらに濃い黒へと収束する。<br> それは圧倒的な重力を持つブラックホールのように、彼女を引きずり込んだ。<br> どこまでも真っ黒な、原油を彷彿させる、無意識の溜まりへ――と。<br>  <br> ふと気づくと、彼女は闇の淵のほとりに、ぽつんと立ち尽くしていた。<br> ここに至って、彼女は初めて、底知れない怖れを抱き、震える歯を食いしばった。<br> 早く逃げなければ。そう思うのに、根を張ったみたいに、足が竦んでいる。<br> ばかりか、いつの間にか、黒い荊が身体に絡みついて、彼女の動きを妨げていた。<br> 胸裡からの殴打が、先へ……闇の淵に踏み込めと、彼女に強いる。<br>  <br> ぷかり……。黒の水面に、小さな白い瞬きが、ひとつ。<br> それを端緒に、幾つもの水泡が生まれては消え、その数だけ白い波紋を描きだした。<br> 彼女は、頬を引きつらせた。来る! あいつが来る! 全てを奪い返しに来る!<br> 絶望という盤石に押し潰されて、ココロの深淵――無意識の中に沈んだ娘が。<br>  <br> 冗談じゃない。気合い負けを嫌うように、揺らぐ深淵を睨み、彼女は毒づいた。<br> 名前を呼ばれたぐらいで、性懲りもなくしゃしゃり出てくるなんて……<br>  <br> (ばかじゃないの! まるで犬ね。この娘のペットってわけぇ?<br>  だったら、今度から『シロ』とか『ユキ』とでも、呼んであげましょうか!)<br>  <br> 果敢な罵詈も、怯えを滲ませていては、ただ嘲弄を誘うだけ。<br> けれど、白の自己(ゼルブスト)は黙っていた。嗤う代わりに、スピードをあげた。<br> 彼女への圧迫が強まる。動悸も、より速く、激しいものへ。<br> 急激な血圧の変化が、眩暈を引き起こし、彼女の意識を白く染めてゆく。<br> なにもかもが霞みゆく中で、彼女はココロの深淵に、闇の雫を滴らせる白い腕を見た。<br>  <br>  <br> そして――背中を打たれた痛みで、彼女が我に返った時……<br> 目の前に、白の自己が居た。彼女は押し倒されて、馬乗りに抑え込まれていた。<br> 完全なマウントポジション。優劣の逆転。<br> 今や、彼女が狩られる側となったのは、歴然にして明白だった。 <br>  <br> ……が、彼女の強すぎるプライドが、無様な敗北を許さない。<br> どうせ捨てる身体の主と言えども、いや、不要なゴミと見なしていたからこそ。<br> 生意気にも刃向かい、僅かでも畏れを抱かせた存在に、温情をかけようとは思わなかった。<br> 精神までも徹底的に壊して、それで生ける屍と化しようが、知ったことではなかった。<br>  <br> けれど、それも所詮は強がり。土壇場での大逆転劇など、虚しい妄想にすぎない。<br> 彼女は承知していた。押し戻すだけの余力が、もう自分に残されていないことを。<br>  <br> 「私は、どうなっても構いません。でも――」白の自己、雪華綺晶の意志が迸る。<br> それは、彼女による支配の終焉を告げる、審判の鉄槌。「コリンヌは渡さない。私だけのものだから」<br>  <br> 決別の言葉が振り下ろされ、雪華綺晶の右手が、彼女の左胸を穿った、直後。<br> 現実世界では、黒い荊の一束が、雪華綺晶の左胸を貫いて突き出していた。<br> 粘っこい血を滴らせたその先端に、弱々しく明滅する結晶――ローザミスティカを携えて。<br>  <br> 二人の間を満たす淡紅色の光によって、凄惨な光景がさらけ出される。<br> 右の眼窩から伸びる、紅い蜜を滴らせた白薔薇。裂けた腹部から這い出した、黒い荊。<br> 酸欠で朦朧としていたコリンヌも、それを目にして、完全に覚醒した様子だった。<br>  <br> 「な……に、こ……れ?」<br>  <br> 雪華綺晶は、問いかけた掠れ声から逃れるように、顔を背けた。<br> それ以上の追求を、暗に拒絶したのか。あるいは、醜く変わり果てた姿を恥じたのか。<br> 緩慢な動作でベッドを降りるときも、ずっとコリンヌを見ようとしなかった。<br>  <br> 「なんなの、これ? どうして、こんなっ」<br>  <br> やはり、答えは返ってこない。雪華綺晶は、なおも遠ざかってゆく。<br> 普通に訊ねるだけでは、答えは返ってこない。コリンヌは一計を案じた。<br>  <br> 「――いいわ。それなら、主人として命じます。雪華綺晶、すべてを話しなさい。<br>  貴女は、なんの理由もなく、こんなコトする娘じゃないわ。そうでしょう?」<br>  <br> 毅然とした声に背中を叩かれて、やっと、雪華綺晶の歩が止まった。<br> あんな恥辱を受けてなお、コリンヌは、自分を信じてくれようとしている。<br> ならば……信用には、誠意をもって応えなければ。それが人の世の礼節と言うものだ。<br> 雪華綺晶はベッドに向きなおり、へたり……と、腰を落とした。<br>  <br>   ~  ~  ~<br>  <br> それから、彼女の口から、洗いざらいが告白された。<br> 二年前に、この世を去った存在であること。<br> ローザミスティカに操られて、槐という人形師を――父を殺してしまったこと。<br> この身体が、あと数日で朽ち果てることさえ、包み隠さずに。<br> コリンヌは雪華綺晶の話を聞くあいだも、聞き終えても、頻りに頭を振っていた。<br>  <br> 「信じられない……そんな話、信じられっこないわ」<br> 「でも、事実なのです。ほら。私の……この醜いさまを、ご覧になって」<br>  <br> その言葉は、容赦なく、惨酷な事実を突きつける。<br> 雪華綺晶を家族の一員のように想っていたコリンヌには、到底、受け入れがたい現実を。<br> だから、彼女は顔を伏せるに留まらず、両手で目を覆って、イヤイヤをした。<br> 幼子が駄々をこねるように、ずっと。<br>  <br> 雪華綺晶は、絶え間ない激痛に苛まれながらも、呻きひとつ漏らさずに立ち上がり……<br> ベッドに歩み寄って、コリンヌの頭を愛おしげに抱き寄せ、艶やかな金髪に鼻を埋めた。<br>  <br> 「叶うものなら、出逢った頃に戻りたい。私だって……いつまでも、コリンヌのそばに居たい」<br> 「じゃあ、そばに居てよ! これからも、一緒に暮らしましょう。ね?」<br> 「……できませんわ。私は、まぼろし。この身は、二年前に死んだ娘の蜃気楼。<br>  あなたは、束の間の仮寝していただけ。夢の中で、私と戯れていただけ。<br>  そして、悪い夢も、楽しい夢も……どんな夢も、すべからく醒めるべきものなのです。<br>  ――ほら。窓の外を、ご覧になって。空が白み始めています。<br>  あなたと私の、夢の劇場も……そろそろ、幕を引く時間ですわ」<br> 「それなら、わたしは眠り続けたっていい! 貴女を失わないで済むのなら」<br> 「わがまま……ですのね」<br>  <br> 仕方のない人。雪華綺晶は淋しげに微笑み、コリンヌの柔らかな頬に、そっと口づけた。<br> そして、雪の結晶を模したネックレスを外して、少女の手に預けた。<br>  <br> 「ふたつだけ、私のお願いをきいてください。あなたにしか、頼めないことなの。<br>  これを……私の代わりとして。いつも、ね。片時も離さず、身に着けていて。<br>  そして、どうか、あの人と……二葉さまと、幸せになって。私の分まで、いっぱい。<br>  私が、この胸で温めていながら孵せなかったら想いを、あなたが叶えて、育ててください」<br> 「待って、雪華綺晶っ! わたし、イヤよ! こんな物いらない!」<br> 「……では、捨ててくださいな。夢のカケラなんて――」<br>  <br> くるり、と。コリンヌに背を向けた雪華綺晶は、足早に窓に向かい、開け放った。<br> 夜露を吸った重たい風が、部屋の中に流れ込んできて、雪華綺晶の長い髪を靡かせる。<br> 彼女は、そこでもう一度だけ、涙顔の微笑みを、コリンヌに向けた。<br>  <br> 「私を……私なんかを、お友だちと呼んでくれて……本当に、嬉しかった。<br>  あなたと出逢い、普通の女の子として過ごせた日々は、本当に、楽しくて――<br>  いつまでも、このままで……って、ずっと祈っていたのですけれど」<br> 「主人の命令よ、雪華綺晶っ! 待ちなさいっ! 戻ってきてっ!」<br> 「お別れ、です。<br>  <br>  いつか、また、夢で逢えたのなら――<br>  もう一度、可愛がってくださいね。マスター。<br>  <br>  ――好き、でした」<br>  <br> 少女の悲痛な叫びも、雪華綺晶を繋ぎ止める楔とは、なり得なかった。<br> 窓辺に白い影だけを残して、彼女は、朱に染まりだした世界へと身を投げ出していた。<br>  <br>  <br></p> <hr>  <br>  <br>   第十六話 終<br>  <br>  <br>  【3行予告?!】<br>  <br> もしも願いが叶うなら、吐息を白い薔薇に変えて――<br> 還るべき場所を思い描きながら、私は今日も、彷徨い続ける。<br> いつか、花咲き乱れる楽園に辿り着けると淡く期待しながら、歩き続けている。<br>  <br> 次回、幕間4 『Old Dreams』<br>  <br>  
<p align="left"> <br />  <br /> なんとしても、喉から手が出るほどに、この身体が欲しい。<br /> それも、なるべく綺麗な状態で。<br /> 故に、『彼女』は、このまま喉を噛み続けて、縊る手段を選んだ。<br />  <br /> ナイフで急所を突いたり、喉笛を斬るなんて、まったくもって問題外。<br /> 手や荊で絞め殺すのも、頸に一生モノの痣が残ってしまうかもしれない。<br /> その点、ちょっとくらいの噛み傷なら、数日もすれば癒えて、目立たなくなろう。<br /> 喉元なら、チョーカーなどのアクセサリで隠すことも可能だ。<br />  <br /> 程なく、コリンヌが痙攣を始めた。<br /> 肌に食い込ませた歯に、なにかが喉を駆け上がってゆく蠕動が伝わってくる。<br /> 密着させた下腹部にも、温かい湿気が、じわり……。<br /> 嘔吐と失禁――窒息から死に至る際の、典型的な兆候だった。<br /> ここまでくると酸欠で脳が麻痺するので、苦しみはもう感じず、むしろ気持ちいいのだとか。<br />  <br /> 実に上々。もうすぐ、コリンヌの息吹は永久に絶えて、理想の器が手に入る。<br /> あまりにも思惑どおりに運びすぎて、どうしても、『彼女』の頬は緩んでしまう。<br />  <br /> 「くっ……うふっ」<br />  <br /> 我慢できずに、つい噴き出してしまった、その一瞬――<br /> 吐瀉物で詰まっていたコリンヌの喉が、僅かな隙間を得て、ひゅうと鳴る。<br /> そして、少女はひどく咽せながら、短く……嗄れた声を吐いた。<br /> たった一言。しかし、『彼女』たちにとっては、大きな意味を持つ名詞を。<br />  <br /> 途端、内側から胸を強打されて、『彼女』はホウセンカの実が弾けるように仰け反った。<br /> それでも、突然の動悸は止むことを知らず、『彼女』の呼吸を妨げつづけた。<br />  <br />  <br />  <br />   第十六話 『出逢った頃のように』<br />  <br />  <br />  <br /> 息ができない。喘ぐのに必死で、涎を垂らすことさえ、羞恥と感じなかった。<br /> 鬱血のためか、闇に慣れた彼女の視界が、さらに濃い黒へと収束する。<br /> それは圧倒的な重力を持つブラックホールのように、『彼女』を引きずり込んだ。<br /> どこまでも真っ黒な、原油を彷彿させる、無意識の溜まりへ――と。<br />  <br /> ふと気づくと、『彼女』は闇の淵のほとりに、ぽつんと立ち尽くしていた。<br /> ここに至って、『彼女』は初めて、底知れない怖れを抱き、震える歯を食いしばった。<br /> 早く逃げなければ。そう思うのに、根を張ったみたいに、足が竦んでいる。<br /> ばかりか、いつの間にか、黒い荊が身体に絡みついて、『彼女』の動きを妨げていた。<br /> それなのに、胸裡からの殴打が、先へ……闇の淵に踏み込めと強いる。<br />  <br /> ぷかり……。黒の水面に、小さな白い瞬きが、ひとつ。<br /> それを端緒に、幾つもの水泡が生まれては消え、その数だけ白い波紋を描きだした。<br /> 『彼女』は、頬を引きつらせた。来る! あいつが来る! 全てを奪い返しに来る!<br /> 絶望という盤石に押し潰されて、ココロの深淵――無意識の中に沈んだ娘が。<br />  <br /> 冗談じゃない。気合い負けを嫌うように、揺らぐ深淵を睨み、『彼女』は毒づいた。<br /> 名前を呼ばれたぐらいで、性懲りもなくしゃしゃり出てくるなんて……<br />  <br /> (ばかじゃないの! まるで犬ね。この娘のペットってわけぇ?<br />  だったら、今度から『シロ』とか『ユキ』とでも、呼んであげましょうか!)<br />  <br /> 果敢な罵詈も、怯えを滲ませていては、ただ嘲弄を誘うだけ。<br /> けれど、白の自己(ゼルブスト)は黙っていた。嗤う代わりに、スピードをあげた。<br /> 『彼女』への圧迫が強まる。動悸も、より速く、激しいものへ。<br /> 急激な血圧の変化が、眩暈を引き起こし、『彼女』の意識を白く染めてゆく。<br /> なにもかもが霞みゆく中で、『彼女』はココロの深淵に、闇の雫を滴らせる白い腕を見た。<br />  <br /> そして――背中を打たれた痛みで、『彼女』が我に返った時……<br /> 目の前に、白の自己が居た。『彼女』は押し倒されて、馬乗りに抑え込まれていた。<br /> 完全なマウントポジション。優劣の逆転。<br /> 今や、『彼女』が狩られる側となったのは、歴然にして明白だった。 <br />  <br /> ……が、『彼女』の強すぎるプライドが、無様な敗北を許さない。<br /> どうせ捨てる身体の主と言えども、いや、不要なゴミと見なしていたからこそ。<br /> 生意気にも刃向かい、僅かでも畏れを抱かせた存在に、温情をかけようとは思わなかった。<br /> 精神までも徹底的に壊して、それで生ける屍と化しようが、知ったことではなかった。<br />  <br /> けれど、それも所詮は強がり。土壇場での大逆転劇など、虚しい妄想にすぎない。<br /> 『彼女』は承知していた。押し戻すだけの余力が、もう自分に残されていないことを。<br />  <br /> 「私は、どうなっても構いません。でも――」白の自己、雪華綺晶の意志が迸る。<br /> それは、『彼女』による支配の終焉を告げる、審判の鉄槌。「コリンヌは渡さない。私だけのものだから」<br />  <br /> 決別の言葉が振り下ろされ、雪華綺晶の右手が、『彼女』の左胸を穿った、直後。<br /> 現実世界では、黒い荊の一束が、雪華綺晶の左胸を貫いて突き出していた。<br /> 粘っこい血を滴らせたその先端に、弱々しく明滅する結晶――ローザミスティカを携えて。<br />  <br />  <br /> コリンヌと、雪華綺晶。<br /> 二人の間を満たす淡紅色の光によって、凄惨な光景がさらけ出される。<br /> 右の眼窩から伸びる、紅い蜜を滴らせた白薔薇。裂けた腹部から這い出した、黒い荊。<br /> 酸欠で朦朧としていたコリンヌも、それを目にして、完全に覚醒した様子だった。<br />  <br /> 「な……に、こ……れ?」<br />  <br /> 雪華綺晶は、問いかけた掠れ声から逃れるように、顔を背けた。<br /> それ以上の追求を、暗に拒絶したのか。あるいは、醜く変わり果てた姿を恥じたのか。<br /> 緩慢な動作でベッドを降りるときも、ずっとコリンヌを見ようとしなかった。<br />  <br /> 「なんなの、これ? どうして、こんなっ」<br />  <br /> やはり、答えは返ってこない。雪華綺晶は、なおも遠ざかってゆく。<br /> 普通に訊ねるだけでは、答えは返ってこない。コリンヌは一計を案じた。<br />  <br /> 「――いいわ。それなら、主人として命じます。雪華綺晶、すべてを話しなさい。<br />  貴女は、なんの理由もなく、こんなコトする娘じゃないわ。そうでしょう?」<br />  <br /> 毅然とした声に背中を叩かれて、やっと、雪華綺晶の歩が止まった。<br /> あんな恥辱を受けてなお、コリンヌは、自分を信じてくれようとしている。<br /> ならば……信用には、誠意をもって応えなければ。それが人の世の礼節と言うものだ。<br /> 雪華綺晶はベッドに向きなおり、へたり……と、腰を落とした。<br />  <br />  <br />   ~  ~  ~<br />  <br />  <br /> それから、彼女の口から、洗いざらいが告白された。<br /> 二年前に、この世を去った存在であること。<br /> ローザミスティカに操られて、槐という人形師を――父を殺してしまったこと。<br /> この身体が、あと数日で朽ち果てることさえ、包み隠さずに。<br /> コリンヌは雪華綺晶の話を聞くあいだも、聞き終えても、頻りに頭を振っていた。<br />  <br /> 「信じられない……そんな話、信じられっこないわ」<br /> 「でも、事実なのです。ほら。私の……この醜いさまを、ご覧になって」<br />  <br /> その言葉は、容赦なく、惨酷な事実を突きつける。<br /> 雪華綺晶を家族の一員のように想っていたコリンヌには、到底、受け入れがたい現実を。<br /> だから、彼女は顔を伏せるに留まらず、両手で目を覆って、イヤイヤをした。<br /> 幼子が駄々をこねるように、ずっと。<br />  <br /> 雪華綺晶は、絶え間ない激痛に苛まれながらも、呻きひとつ漏らさずに立ち上がり……<br /> ベッドに歩み寄って、コリンヌの頭を愛おしげに抱き寄せ、艶やかな金髪に鼻を埋めた。<br />  <br /> 「叶うものなら、出逢った頃に戻りたい。私だって……いつまでも、コリンヌのそばに居たい」<br /> 「じゃあ、そばに居てよ! これからも、一緒に暮らしましょう。ね?」<br /> 「……できませんわ。私は、まぼろし。この身は、二年前に死んだ娘の蜃気楼。<br />  あなたは、束の間の仮寝をしていただけ。夢の中で、私と戯れていただけ。<br />  そして、悪い夢も、楽しい夢も……どんな夢も、すべからく醒めるべきものなのです。<br />  ――ほら。窓の外を、ご覧になって。空が白み始めています。<br />  あなたと私の、夢の劇場も……そろそろ、幕を引く時間ですわ」<br /> 「それなら、わたしは眠り続けたっていい! 貴女を失わないで済むのなら」<br /> 「わがまま……ですのね」<br />  <br /> 仕方のない人。雪華綺晶は淋しげに微笑み、コリンヌの柔らかな頬に、そっと口づけた。<br /> そして、雪の結晶を模したネックレスを外して、少女の手に預けた。<br />  <br /> 「ふたつだけ、私のお願いをきいてください。あなたにしか、頼めないことなの。<br />  これを……私の代わりとして。いつも、ね。片時も離さず、身に着けていて。<br />  そして、どうか、あの人と……二葉さまと、幸せになって。私の分まで、いっぱい。<br />  私が、この胸で温めていながら孵せなかったら想いを、あなたが叶えて、育ててください」<br /> 「待って、雪華綺晶っ! わたし、イヤよ! こんな物いらない!」<br /> 「……では、捨ててくださいな。夢のカケラなんて――」<br />  <br /> くるり、と。コリンヌに背を向けた雪華綺晶は、足早に窓に向かい、開け放った。<br /> 夜露を吸った重たい風が、部屋の中に流れ込んできて、雪華綺晶の長い髪を靡かせる。<br /> 彼女は、そこでもう一度だけ、涙顔の微笑みを、コリンヌに向けた。<br />  <br /> 「私を……私なんかを、お友だちと呼んでくれて……本当に、嬉しかった。<br />  あなたと出逢い、普通の女の子として過ごせた日々は、本当に、楽しくて――<br />  いつまでも、このままで……って、ずっと祈っていたのですけれど」<br /> 「主人の命令よ、雪華綺晶っ! 待ちなさいっ! 戻ってきてっ!」<br /> 「お別れ、です。<br />  <br />  いつか、また、夢で逢えたのなら――<br />  もう一度、可愛がってくださいね。マスター。<br />  <br />  ――好き、でした」<br />  <br /> 少女の悲痛な叫びも、雪華綺晶を繋ぎ止める楔とは、なり得なかった。<br /> 窓辺に白い影だけを残して、彼女は、朱に染まりだした世界へと身を投げ出していた。<br />  <br />  <br /></p> <hr />  <br />  <br />   第十六話 終<br />  <br />  <br />  【3行予告?!】<br />  <br /> もしも願いが叶うなら、吐息を白い薔薇に変えて――<br /> 還るべき場所を思い描きながら、私は今日も、彷徨い続ける。<br /> いつか、花咲き乱れる楽園に辿り着けると淡く期待しながら、歩き続けている。<br />  <br /> 次回、幕間4 『Old Dreams』<br />  <br />  

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