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【愛か】【夢か】」(2009/03/14 (土) 00:51:49) の最新版変更点

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    「おかえりなさい」   夜更けの非常識な来客を、凪いだ海のように穏やかな声が出迎えてくれた。 僕の前に佇む君に、あどけない少女の面影は、もうない。 けれど、満面に浮かぶのは、あの頃と何ひとつ変わらぬ夏日のように眩しい笑顔で。   「疲れたでしょう? さあ、入って身体を休めるかしら」   そんなにも屈託なく笑えるのは、なぜ? 君が見せる優しさは、少なからず、僕を困惑させた。     ――どうして?   僕のわななく唇は、そんな短語さえも、きちんと紡がない。 でも、君は分かってくれた。 そして、躊躇う僕の手を握って、呆気ないほど簡単に答えをくれた。   「あなたを想い続けることが、カナにとっての夢だから」   なんで詰らないんだ? 罵倒してくれないんだ? 僕は君に、それだけのことをした。殴られようが刺されようが、文句も言えない仕打ちを。 ここに生き恥を曝しに戻ったのだって、たった一言、君に謝りたかったからだ。 君の手で、僕を罰して欲しかったからなのに――   「……僕を……恨んでないのか?」   君との愛よりも、身勝手な夢を選び、飛び出していった愚かな男。 その夢も破れ、なにもかも失い――ボロ布みたいになって、おめおめと戻った僕を。   「本当に……まだ、想ってくれてたのか?」   君は、笑顔を崩さなかった。無垢な少女のような笑みを。 けれども、君の大きな眼からは、もう大粒の涙が零れだしていた。   「ずっと、待ってた」 「……すまない」   もう、なにも言わせたくなかった。 君の唇から、「嘘よ」という単語が紡がれるのが、今の僕には怖ろしかった。 だから、僕は君を抱きすくめて、強引に唇を重ねた。   「あなただけを――」   ほんの息継ぎの合間に、君が言いかけた想い。 それが、再び触れ合った唇の中に広がってくるのを感じた。       ▼  ▲       「お腹、減ってるでしょ?」   玄関で、どれほど長く抱き合っていたのか―― 時間を忘れて続けられた抱擁は、恥じらい混じりの問いかけで終わりを迎えた。 僕としても、歩きづめで疲れ切った脚を休めたかったから、いい頃合いだ。 それに、実のところ、彼女の言うとおりでもあった。   「うん……腹ぺこで倒れる寸前なんだ」   情けない話だが、今日は朝から、なにも食べていない。 ここ数日は一日一食にありつければマシで、明日の食い扶持にも困る有り様だった。 野草や木の根の味は憶えた。遠からず、昆虫の味すら憶えることにもなっただろう。   都会に出て大金持ちになって、故郷に凱旋する…… そんな野心を抱いて故郷を飛び出したのは、もう何年前になるのか。   あの頃の僕は怖い物知らずな子供で、頑張れば、どんな夢も叶うと思っていた。 いや、違うな。子供なりに現実は知ってた。叶わない夢もあるってことは。 ただ、その現実が自分の身に降りかかるとは思ってなかっただけだ。   「待っててね、ジュン。残り物しかないけど、すぐに温めなおすかしら」   もう一度、やりなおせたら……。 彼女――金糸雀の朗らかな表情を見ていると、虫のいい考えが脳裏に浮かぶ。 そんなこと望めた義理でもないのに、君の好意に甘えてしまいたくなる。   「ん? どうかした?」   むっつりと黙り込んだ僕を見て、金糸雀の顔に不安の色が広がる。 僕は繕い笑って、ゆるゆると頭を振った。   「いや、別に。それより、君の料理は久しぶりだからな。すごく楽しみだよ」 「またまたぁ~。お世辞がうまいんだから~」 「本当だって」   僕が真顔で返すと、金糸雀は頬を上気させて、はにかんだ。 目まぐるしく変わる彼女の表情の中でも、特に好きな顔だった。   「ホントに……ホント?」 「ん……実はウソ」 「もぅ、からかって! どーせ、そんなコトだろうと思ったかしら」 「――と言うのもウソだよ。本当に、楽しみにしてるって」 「もう怒った。お料理に毒盛ってやるかしら!」   可愛らしくむくれて、金糸雀は厨房に駆け込んだ。 その後ろ姿が可愛らしかったから、抱きすくめたくて追いかけたけれど……   「ジュンは、あっちで待ってるかしらっ!」   うーん。追い返されてしまった……。       ▼  ▲     温めなおすと言う割に、金糸雀は二品ほど新たに調理してくれた。 久しぶりに食べる彼女の手料理は、数年前とは比べ物にならないほど美味しかった。 でも、頬が溶け落ちるくらいに甘いタマゴ焼きは、相も変わらず。 懐かしい味に心が震えて、途中から、微妙に塩味が加わった。   「うまいよ、すごく」 「泣くほど嬉しいかしら? ま、当然ね。なんてったって愛情という妙薬入りだもの」 「ドーピング料理でも構わないよ。毒食らわば皿までだ。死んでも悔いはないさ」 「ふふ……たぁ~んと召し上がれ」   食事をしながらの他愛ない会話も、僕を心地よく癒してくれた。 時間を忘れて語り合ううちに、時計の針は、いつしか午前二時を指していた。   「あ……もう、こんな時間かしら」 「うん。もっと話してたいけど……ちょっと眠いかな」   僕は疲れ切っていた。そこに満腹とくれば、辿り着く先は明らかだ。 食卓に頬づえを突いて頭を支えるが、ウトウトと船を漕ぎだすのを堪えきれない。 ここで気を緩めれば、五分と要さず眠れる自信があった。   「待ってて。今、お布団を敷くかしら。一組しかないから、ジュンが使って」 「でも……それじゃ、君が……」 「いいから、いいから」   歌うように応じると、金糸雀は軽い足どりで布団を敷きに行った。 そして、気がつけば僕は彼女の肩に担がれ、寝室に運ばれていた。   「……ねえ」   布団に僕を横たえながら、金糸雀が囁く。「あっちで、恋人はできたかしら?」 寝物語としては、適切じゃないように思えるが、隠し立てすることでもない。 街での生活を思い出すと胸が苦しいけれど、その痛みもまた罪滅ぼしだろう。 苦い想いに溺れかけながら、彼女の質問に、僕は答えた。   「いいや。そんな余裕なかったよ」 「でも、気になるヒトは居たんじゃないかしら?」 「……それは、まあ……片想いくらいならね」 「ホントに片想い?」 「本当だよ。挨拶を交わすことさえなかった。あっちは深窓のご令嬢だったし」 「世が世なら、王侯貴族のお姫様だった……ってトコ?」 「だな。流れるような長い金髪が綺麗でさ、深紅のドレスがとても似合ってて……  絶世の美女って表現がピッタリの乙女だったよ」   あまりに僕が絶賛したからだろう。夜の暗がりにもハッキリと、金糸雀の表情の翳りが見て取れた。 つまらなそうに。哀しそうに。そして、口惜しそうに。   「もし――」 「ん?」 「そのヒトと仲良くなれていたら、ジュンは戻ってきてくれなかったかもね」 「可能性は否定しない。でも、所詮は希望的観測だよ。仮定は、どうあっても仮定でしかない」   言って、僕は布団から手を出し、金糸雀の手を握った。 心の底から沸き上がる感情が、僕を衝き動かしていた。   「こんなの柄じゃないって自覚してるけど、これだけは言わせて欲しい。  僕は一日たりとも、君を忘れなかった。他の誰に対しても、強い感情は生まれなかったよ」   本当だろうか? 胸裡で反芻するほどに、白々しさが増幅される。 けれど結局、僕は強い力で、それら白けた気配を残さず押し潰した。 そう。あの美しい令嬢への想いは、突き詰めれば羨望の一形態でしかない。 しかしながら、金糸雀への気持ちは……。   ずっと意識していた。もっと有り体に言えば、好きだった。 気の合う仲間としても、異性としても。 それ故に、夢を選んで金糸雀を置き去りにした僕の胸には、深い傷が残った。 喪失感なんて陳腐な言葉に変えられないほどの、深く大きな傷が。   でも、あの頃とは違う。夢は潰え、二択ではなくなった。 だからって、今更やりなおせるハズもないけれど、それでも…… 僕は、伝えようと思っていた。そう。どんなに遅かろうとも、伝えなきゃならない。   ところが――   「はぁ~。今日はもう疲れたから、カナも一緒に寝ちゃうかしら~」   おいおい、そりゃないだろう。せめて、僕の話を聞いてからにしてくれよ。 そう告げようとしたけれど、僕の唇は金糸雀の指に封をされてしまった。   「ジュンも、もう休んで。あなたは充分に闘ったかしら。だから、もういいの。  大切なお話なら、また明日……ゆっくりと聞かせてちょうだいね」   金糸雀の囁きは、まるで睡魔の歌のようで、僕を朦朧とさせる。 もう限界だ。意識を手放して、意識が閉じかけた一瞬、金糸雀の声を聞いた。   「おやすみなさい、ジュン。ずっと愛してる。ずっとずっと――」   夜闇の中、眠りに落ちる寸前の、低く澱んだ囁き。 それは、なぜか、地の底から響いてくるようだった。   「ずぅっと、ずぅっと」       ▼  ▲     眩しい日射しが、僕の顔に照りつけていた。 もう朝か。それとも昼ちかくだろうか。ずいぶん眠った気がする。 その証拠に、身体の疲れは、すっかり抜けていた。   「そうだ……金糸雀は!」   我に返って身を起こした僕は、そこで自分の目を疑った。 僕の目の前に、一面の草むらが生い茂っていたからだ。 布団も、部屋も、家そのものが消失していた。   なんだ、これ? 呆然と立ち上がって、また呆然とした。 そこで改めて、自分の居る場所を知った。 僕は、腰ほどまである夏草の藪の、ど真ん中に居た。   「どうなってるんだ? 金糸雀! おい、金糸雀っ! どこに居るんだよ」   叫びながら、辺り構わず藪を掻き分ける。 草の端で指が切れて、血塗れになろうとも、腕は止めない。 そして――僕は、見つけてしまった。すべてを理解してしまった。   草に埋もれた石碑。 金糸雀と刻まれた、小さな小さな墓標。   金糸雀……君は……ずっと、僕を待っててくれたんだな。 姿が変わっても、僕だけを想い続けてくれてたんだ。   「ごめんよ。こんなにも待たせて、ごめん」   僕は、墓標にすがりついて、泣き濡れた頬をすり寄せた。 そして、心の中で誓った。もう、どこへも行かない。 彼女が僕を待ってくれていたように、僕もまた、ここで彼女を待ち続けるのだ。 たとえ運命の気まぐれに過ぎなくても、夢幻で再会を果たせるまで、ずっと――     それが、僕の見つけた『夢』と言う名の新しい希望だから。          『蛇足という名のエピソード』     いきなり肩を叩かれて、僕は我に返った。 半ばまで出た欠伸が引っ込むように、意識が身体に飛び込んでくるのを感じた。   僕は今、人も疎らな博物館の館内に立っている。 高校の夏休みも、残すところ僅かとなった日の午後一時。 だらだら先延ばしにしてきた自由研究を、ここらで片づけてやろうと一念発起したのだ。 ちなみに、僕らは郷土史についてのレポートを書く予定だった。     それにしても、誰なんだ。人が妄想に耽っているところを驚かせやがって。 苛立ちも隠さず振り返ると、人好きのする陽気な笑顔にぶつかった。   「……おまえかよ」   彼女――幼なじみにして腐れ縁の金糸雀は、僕に仏頂面を向けられるや、ぷぅっと頬を膨らませた。   「まっ! 曲がりなりにも共同研究者に対して、ヒドイ言い種かしら。  なんか難しい顔してるから、心配してあげたのに」  「はいはい、そりゃどうも」   こいつは下手に突っつくと、口喧しく反撥してくる。根が負けず嫌いなのだろう。 いい加減、こっちも長い付き合いなので、その辺のあしらい方は心得ているつもりだ。 暖簾に腕押し。のらりくらりと躱すに限る。   案の定、金糸雀は吊り上げた眉毛を、すぐに弓張り月へと戻した。   この気の変わりようの早さはどうだ。いつもながら感心してしまう。 そのくせ、譲れないことは頑として譲らない、一本気な性格ときている。 敢えて一言で表すなら、『健気』が最適だろうか。   「ところで、ジュンは何を見てたかしら? かなり真剣な表情だったけど」   そんな顔してたかな? 思わず頬に手を遣った直後、「ええ、とっても」 金糸雀に心を読まれていた。いつもながら、察しのいいやつだ。 それとも僕は、自分で思っている以上に、感情が仕種に現れる質なのか。   「今にも頸を吊りそうな雰囲気だったかしら。なんか心配になっちゃって」 「なんか嫌だな、その形容。……まあ、いいけど」   僕は、ショーケースの中にある展示物を指差した。「これなんだけどさ」 江戸時代――元禄の頃の書だというソレは、達筆すぎて簡単には判読できない。 母国語を読めないなんて変な話だけど、良くも悪くも、僕らは活字に慣れすぎているのだ。 たぶん、意外に才女な金糸雀でも、原文は読めないだろう。   僕の見立てはドンピシャで、金糸雀は、くりくりした瞳を注釈へと向けた。 そして、「ああ……夫婦岩のお話ね」と、哀れみを含んだ相槌を打った。   「知ってるんだ?」 「この近所に伝わる民話としては、割と有名な哀話かしら」 「へぇ、そうなのか。恥ずかしながら、僕は、これが初見だよ。  口語訳を読んでたんだけど、なんか感情移入しちゃってさ」   見かけに拠らずロマンチストだねと、冷たい笑みを浴びせられるかと思いきや――   「解るなぁ、それ」   金糸雀は愁いを込めた眼差しを、茫乎として彷徨わせた。   「特に、ラストで男の人が岩と変じて、彼女の墓石と寄り添うところが一途よね」 「だな。ある意味、ハッピーエンドなのかも」   僕としては、あまり好きになれないラストシーンだけど。 だって、そうだろう。人間、いつかは死に別れる。避けようのない現実だ。 そこで後追い自殺なんかするのは、後味悪い想いの転嫁に過ぎないじゃないか。   「ちょっと座らないか」 「……そうね」   いい加減、歩き詰めの立ちっぱなしでくたびれた。気分転換もしたかったし。 僕らはロビーに置かれたベンチに陣取って、肩を寄せ合った。 すると、五秒と経たないうちに、金糸雀が話しかけてきた。   「ジュンは……」 「うん?」 「愛と夢と、どっちかしか選べないとしたら、どうするかしら?」   『夫婦岩』の逸話は、彼女の心理に少なからぬ影響を及ぼしているようだ。 僕は腕組みして、一寸、考えてみた。   「正直、分からないな。そういう状況になってみないと」 「想像もできない?」 「と言うより、する気がない」   どちらを優先するかなんて、その時々の状況で変わるだろう。 だから、僕には、どちらとも言えない。言う気もない。 今ここで真剣に悩むことに、何ら意義を見出せなかった。    金糸雀は、そんな僕をしげしげと眺めて、「ふぅん」と。 ちょっとばかり興を削がれたような面持ちになった。 けれど、すぐに持ち前の性質を発揮して、表情を輝かせた。   「愛か夢か……カナは、好きな男の子には夢を選んで欲しいかしら」 「どうしてさ。『夫婦岩』の話に感化されたか」 「んー、そんなつもりはないけど。強いて言えば、女の子としての望み、かな」 「女の子だったら、普通は愛を優先してもらいたいんじゃないの?」 「そんな女々しいヒトは、願い下げかしら。闘うべき時に、闘ってくれなければ、  百年の恋も冷めるというものよ。頼りないし、応援のしがいもないかしら」 「……なるほどな。歯がゆい気分にはなるかも」   我が意を得たとばかりに、金糸雀は「でしょ」と破顔一笑する。 不思議なもので、いつの間にやら、僕の口元にも微笑が移っていた。   「女の子ってね、本気で好きになったら、全力で支えてあげたくなっちゃうものなの。  本能的なものかも知れない。考えてみたら、損な役回りかしら」 「かもな。結局、『夫婦岩』の女性だって気苦労が祟って、早世しちゃった訳だし」 「でも、彼女は幸せだったと思うかしら」 「そうであってくれたら、こっちも救われるけどね」   帰らない人を待ち続けるなんて、よほど強い想いがなければ、できやしない。 生前だろうと、死後だろうと、健気な想いが遂げられて欲しいと願うのは人情だ。 おそらくは『夫婦岩』の逸話も、第三者の願望と自己満足が生みだした幻想なのだろう。   「ねえ、ジュン」 「なんだよ」 「男の子は、どうなのかしら」 「なにが?」 「だから、愛か夢か。好きな女の子には、どっちを選んで欲しい? 男の子としては」 「ん、そうだな……」   男としては、愛を選んで欲しい……気がする。 無条件で、好きでいてもらいたいと――独占欲が上回ってしまうんじゃないだろうか。 そう答えると、金糸雀は小鳥のように、ちょこんと頸を傾げた。   「そうなのかしら? 女性の夢を応援したいって男性も、大勢いると思うけど」 「上辺の意見じゃないのかな、それって。世間体とか、理解あるフリをしてるとか」 「擦れた見方をするのね、ジュンって」 「ひねくれた性格なんでな。でも、反対のための反対をしてるつもりはないよ」 「……と、言うと?」 「つまりさ、男は根が甘えん坊だから、自分に注がれていた愛を奪われるのが怖いんだよ。  夢だなんて漠然としたモノでさえ、男にとっては恋敵なんだ」   だから、男女の仲は見解の相違から破綻するのだろう。 ――なんて、したり顔で言う僕はまだ、そこまで深い恋愛をしたことがないけれど。 もしも恋人ができたとして、そのヒトが僕よりも趣味の世界に傾倒していったならば、 やはり穏やかでは居られないと思う。 ともすれば、顧みて欲しいばかりに、彼女の趣味を憎悪するかも知れない。   「そっか……そういうものなのね」   金糸雀は、思い出したように呟いて、頻りに頷いた。   「とっても面白い意見だったかしら。また、聞かせてね」 「僕の意見なんか、あんまり参考にならないぞ」 「い~のい~の。お喋りできることに意義があるんだから」 「少しばかり、背伸びしすぎな話題だったけどな」   愛か夢か、だなんて―― 僕らはまだ、それほど多くの選択肢を見出せるほど人生経験を積んじゃいない。 今は、その練習期間の真っ最中なのだ。 けれど、僕も金糸雀も、いつかは想い悩む時がくる。 降りることが許されない勝負で、選択を迫られる時が。 僕はその時、不退転の覚悟を示せるだろうか。 『夫婦岩』の男みたいに、夢に挫け、儚い愛に縋ってしまわないだろうか。     ――まあ、先々のことを不安がっても詮ないことだ。 それより今は、目と鼻の先に横たわる、もっと深刻な問題を片づけなければ。   「さて、と。すっかり話し込んじゃったな。ぼちぼち再開するか」   勢いつけて立ち上がった僕を追って、金糸雀も腰を浮かせた。 そして、僕の肩に手を乗せ、耳元に囁きかけてきた。   「もし……もしもね、ジュンが愛か夢かで悩んだ時は……  カナよりも、夢を選んでね」 「はあ? なにトチ狂ったこと言ってんだ、おまえ」   いきなりな台詞だったので、僕も意地悪く、ぶっきらぼうに応じた。   「おまえが僕の彼女になるだなんて、想像もできないっての」 「んもう、ジュンったらイケズぅ~」 「それにな、幼なじみは大概、親友どまりなんだよ。はい残念でした!」 「えぇ~、そんなぁ」   金糸雀は瞳を潤ませて、さも残念そうに肩を落とした。 さすがに、ちょっと冗談が過ぎて虐めになったかも知れない。 僕は、「けどな」と切り出すなり、金糸雀の頭をぽんぽんと叩いた。   「もし……もしもだぞ、僕とおまえが付き合うようになったとして、だ。  そんな選択を迫られた時には、約束するよ。お前の願いどおりにするって」 「ホントかしら?」 「ああ。ただし、僕はこれで意外に欲張りなんでな」 「……だから、なに?」   僕の言わんとすることが本気で理解できないらしく、真顔で訊ねてくる。 普段、必要もない場面では察しがいいくせに、なんでこう肝心なところで鈍いかな、こいつは。 それとも、分かっていながら、トボケているとか。   案外、ありそうなだけに、うまうまと踊らされるのは癪に障るが―― まあ、いい。ここで意地を張り合っても仕方がない。 金糸雀の深く澄んだ瞳を、まっすぐに見つめて、僕は言った。   「僕が夢を追う時には、おまえも連れて行く。引き摺ってでもな」 「カナが、嫌だって言っても?」 「応援してくれるんだろ?」 「それは、まあ……かしら」 「じゃあ問題ないじゃん。ま、もしもの話だよ。あんまりムキになるなって」 「……そうよね。もしもの話だったかしら」   金糸雀はコツンと自分のおでこを叩いて、ちらと舌を出して見せた。   こいつの、こんな陽気な仕種が、僕はとても気に入ってたりする。 口に出したことは、一度としてないけれど。   「さっ! そろそろレポート書き始めなきゃね」 「ああ。できれば今日中に終わらせたいな」 「それはちょっと無理っぽいかしら」 「ズバッとテンション下がること言うなよ。気の持ちようが大事だぞ」 「あははっ。ごめ~ん」   ――なんて。 僕らは軽口を叩きながら、また、展示されている民俗学の資料を見て回った。 その途中、金精さまを見た金糸雀が茹でダコみたいに真っ赤になったりもしたけど、 基本的には、普段どおりの一日だった。   帰り道でも、いつもと同じポジション。歩調を合わせ、ふたり、並んで歩く。 世界が焼け色に染まっていく中で、僕は徐に切り出した。   「あ、そう言えばさ」 「なぁに?」 「さっき説明書きを読んで知ったんだけど、『夫婦岩』って割と近所にあるのな」 「そうね。カナたちの町からだと、自転車で三十分くらいの距離かしら」 「明日、どうかな」 「えっ?」 「だから、見に行ってみようかと思ってさ。明日、暇か?」   いきなりの誘いで呆然とするかと思いきや。 金糸雀は、瞬時にして満面の笑みを湛え、僕の腕に抱きついた。「もちろんっ!」   「カナは、いつだって付き合ってあげるかしら」 「……微妙に言葉のニュアンスが違ってるような気が、しないでもない」 「気のせい気のせい。うふふ……明日、晴れるといいなぁ」 「ああ、そうだな」   過ぎゆく夏の夕暮れ。街にはまだ、昼間の熱気が居座っている。 そんな時に抱きつかれたら、正直、暑苦しくてかなわない。 実際、触れ合っている箇所は、もう汗ばんでいた。   でも、どうしてだろう。 今日に限って、汗をかいた素肌がぺたぺた吸い付く感触が、不思議と心地よかった。 こういうのも悪くないかな……と、素直に思えた。       ▼  ▲     あの頃の僕らは、想像さえしていなかったよな。 数年後に、『もしも』と茶化していた話が、こうして現実となっているだなんて。   ひょっとしたら……そう、これは僕の勝手な思い込みに過ぎないのだけれど。 僕らは、超自然的なナニかで結びつけられた、空前絶後の腐れ縁だったのかも知れない。 抱き合って、ひとつの岩に変じてしまうほどに強力なナニかで――     「ジュン。そろそろ時間かしら」   僕は回想を中断して、傍らに佇む金糸雀へと、顔を向けた。 当時を知る友人たちに言わせると、こいつは見違えて美人になったそうだけど……本当かねぇ? 毎日のように顔を合わせてる僕には、よく分からない。   高校を卒業してからも、僕らは自然と近くにいて、いつの間にか交際していた。 愛の告白とかラブレターを書いたとか、そんなのは一切なかった……と思う。 それなのに、なんでだろう? これもまた、今もって分からない。   ただ、あの時、博物館で語ったとおり、金糸雀は僕を支え続けてくれている。 夢を掴むべく邁進するあまり、たまに辛く当たったりもしたのに。 それでも、ここまで付いてきてくれた。   「本当に、ありがとな。マジでさ、感謝してる」   今日、僕らは夢に向かって、さらなる大きな世界へと羽ばたく。 そのスタートラインに立って、僕は素直な気持ちを伝えた。 金糸雀は、意表をつかれたように、ぱちくりと瞬きをした。   「どうしたの、急に。ちょっとセンチメンタルになったかしら?」 「ん、いや……今まで、ちゃんと言ったことなかったから、それで」 「へぇ~。一応、気にしてくれてたんだ?」 「当然だろ。そこまで人非人じゃないって」 「うん……知ってる。ずっと前から、ね」   こんな風に、僕らは語り合ってきたし、これからも語り合っていくのだろう。 七十億に達しようかという人類の中で巡り会った、奇跡のふたり。 この縁を愛おしく思えないのなら、それは究竟の不幸と言わざるを得ない。   「愛か夢か、じゃないよな」 「愛も夢も、でしょ?」 「ああ! これからも、よろしくな」 「こちらこそ、よろしくお願いするかしら。ずぅっと、ずぅっと、ね」   ずぅっと、ずぅっと―― なぜだろう。遥かな昔にも、誰かに囁かれた憶えがある。 あれは、いつのこと?     まあ、それは機内で思い出せばいいか。先は長いのだから。 僕らは荷物を手にして、国際便の搭乗口へと向かう。 いつものように、ふたり、肩を寄せ合いながら――           〆  
    「おかえりなさい」   夜更けの非常識な来客を、凪いだ海のように穏やかな声が出迎えてくれた。 僕の前に佇む君に、あどけない少女の面影は、もうない。 けれど、満面に浮かぶのは、あの頃と何ひとつ変わらぬ夏日のように眩しい笑顔で。   「疲れたでしょう? さあ、入って身体を休めるかしら」   そんなにも屈託なく笑えるのは、なぜ? 君が見せる優しさは、少なからず、僕を困惑させた。     ――どうして?   僕のわななく唇は、そんな短語さえも、きちんと紡がない。 でも、君は分かってくれた。 そして、躊躇う僕の手を握って、呆気ないほど簡単に答えをくれた。   「あなたを想い続けることが、カナにとっての夢だから」   なんで詰らないんだ? 罵倒してくれないんだ? 僕は君に、それだけのことをした。殴られようが刺されようが、文句も言えない仕打ちを。 ここに生き恥を曝しに戻ったのだって、たった一言、君に謝りたかったからだ。 君の手で、僕を罰して欲しかったからなのに――   「……僕を……恨んでないのか?」   君との愛よりも、身勝手な夢を選び、飛び出していった愚かな男。 その夢も破れ、なにもかも失い――ボロ布みたいになって、おめおめと戻った僕を。   「本当に……まだ、想ってくれてたのか?」   君は、笑顔を崩さなかった。無垢な少女のような笑みを。 けれども、君の大きな眼からは、もう大粒の涙が零れだしていた。   「ずっと、待ってた」 「……すまない」   もう、なにも言わせたくなかった。 君の唇から、「嘘よ」という単語が紡がれるのが、今の僕には怖ろしかった。 だから、僕は君を抱きすくめて、強引に唇を重ねた。   「あなただけを――」   ほんの息継ぎの合間に、君が言いかけた想い。 それが、再び触れ合った唇の中に広がってくるのを感じた。       ▼  ▲       「お腹、減ってるでしょ?」   玄関で、どれほど長く抱き合っていたのか―― 時間を忘れて続けられた抱擁は、恥じらい混じりの問いかけで終わりを迎えた。 僕としても、歩きづめで疲れ切った脚を休めたかったから、いい頃合いだ。 それに、実のところ、彼女の言うとおりでもあった。   「うん……腹ぺこで倒れる寸前なんだ」   情けない話だが、今日は朝から、なにも食べていない。 ここ数日は一日一食にありつければマシで、明日の食い扶持にも困る有り様だった。 野草や木の根の味は憶えた。遠からず、昆虫の味すら憶えることにもなっただろう。   都会に出て大金持ちになって、故郷に凱旋する…… そんな野心を抱いて故郷を飛び出したのは、もう何年前になるのか。   あの頃の僕は怖い物知らずな子供で、頑張れば、どんな夢も叶うと思っていた。 いや、違うな。子供なりに現実は知ってた。叶わない夢もあるってことは。 ただ、その現実が自分の身に降りかかるとは思ってなかっただけだ。   「待っててね、ジュン。残り物しかないけど、すぐに温めなおすかしら」   もう一度、やりなおせたら……。 彼女――金糸雀の朗らかな表情を見ていると、虫のいい考えが脳裏に浮かぶ。 そんなこと望めた義理でもないのに、君の好意に甘えてしまいたくなる。   「ん? どうかした?」   むっつりと黙り込んだ僕を見て、金糸雀の顔に不安の色が広がる。 僕は繕い笑って、ゆるゆると頭を振った。   「いや、別に。それより、君の料理は久しぶりだからな。すごく楽しみだよ」 「またまたぁ~。お世辞がうまいんだから~」 「本当だって」   僕が真顔で返すと、金糸雀は頬を上気させて、はにかんだ。 目まぐるしく変わる彼女の表情の中でも、特に好きな顔だった。   「ホントに……ホント?」 「ん……実はウソ」 「もぅ、からかって! どーせ、そんなコトだろうと思ったかしら」 「――と言うのもウソだよ。本当に、楽しみにしてるって」 「もう怒った。お料理に毒盛ってやるかしら!」   可愛らしくむくれて、金糸雀は厨房に駆け込んだ。 その後ろ姿が可愛らしかったから、抱きすくめたくて追いかけたけれど……   「ジュンは、あっちで待ってるかしらっ!」   うーん。追い返されてしまった……。       ▼  ▲     温めなおすと言う割に、金糸雀は二品ほど新たに調理してくれた。 久しぶりに食べる彼女の手料理は、数年前とは比べ物にならないほど美味しかった。 でも、頬が溶け落ちるくらいに甘いタマゴ焼きは、相も変わらず。 懐かしい味に心が震えて、途中から、微妙に塩味が加わった。   「うまいよ、すごく」 「泣くほど嬉しいかしら? ま、当然ね。なんてったって愛情という妙薬入りだもの」 「ドーピング料理でも構わないよ。毒食らわば皿までだ。死んでも悔いはないさ」 「ふふ……たぁ~んと召し上がれ」   食事をしながらの他愛ない会話も、僕を心地よく癒してくれた。 時間を忘れて語り合ううちに、時計の針は、いつしか午前二時を指していた。   「あ……もう、こんな時間かしら」 「うん。もっと話してたいけど……ちょっと眠いかな」   僕は疲れ切っていた。そこに満腹とくれば、辿り着く先は明らかだ。 食卓に頬づえを突いて頭を支えるが、ウトウトと船を漕ぎだすのを堪えきれない。 ここで気を緩めれば、五分と要さず眠れる自信があった。   「待ってて。今、お布団を敷くかしら。一組しかないから、ジュンが使って」 「でも……それじゃ、君が……」 「いいから、いいから」   歌うように応じると、金糸雀は軽い足どりで布団を敷きに行った。 そして、気がつけば僕は彼女の肩に担がれ、寝室に運ばれていた。   「……ねえ」   布団に僕を横たえながら、金糸雀が囁く。「あっちで、恋人はできたかしら?」 寝物語としては、適切じゃないように思えるが、隠し立てすることでもない。 街での生活を思い出すと胸が苦しいけれど、その痛みもまた罪滅ぼしだろう。 苦い想いに溺れかけながら、彼女の質問に、僕は答えた。   「いいや。そんな余裕なかったよ」 「でも、気になるヒトは居たんじゃないかしら?」 「……それは、まあ……片想いくらいならね」 「ホントに片想い?」 「本当だよ。挨拶を交わすことさえなかった。あっちは深窓のご令嬢だったし」 「世が世なら、王侯貴族のお姫様だった……ってトコ?」 「だな。流れるような長い金髪が綺麗でさ、深紅のドレスがとても似合ってて……  絶世の美女って表現がピッタリの乙女だったよ」   あまりに僕が絶賛したからだろう。夜の暗がりにもハッキリと、金糸雀の表情の翳りが見て取れた。 つまらなそうに。哀しそうに。そして、口惜しそうに。   「もし――」 「ん?」 「そのヒトと仲良くなれていたら、ジュンは戻ってきてくれなかったかもね」 「可能性は否定しない。でも、所詮は希望的観測だよ。仮定は、どうあっても仮定でしかない」   言って、僕は布団から手を出し、金糸雀の手を握った。 心の底から沸き上がる感情が、僕を衝き動かしていた。   「こんなの柄じゃないって自覚してるけど、これだけは言わせて欲しい。  僕は一日たりとも、君を忘れなかった。他の誰に対しても、強い感情は生まれなかったよ」   本当だろうか? 胸裡で反芻するほどに、白々しさが増幅される。 けれど結局、僕は強い力で、それら白けた気配を残さず押し潰した。 そう。あの美しい令嬢への想いは、突き詰めれば羨望の一形態でしかない。 しかしながら、金糸雀への気持ちは……。   ずっと意識していた。もっと有り体に言えば、好きだった。 気の合う仲間としても、異性としても。 それ故に、夢を選んで金糸雀を置き去りにした僕の胸には、深い傷が残った。 喪失感なんて陳腐な言葉に変えられないほどの、深く大きな傷が。   でも、あの頃とは違う。夢は潰え、二択ではなくなった。 だからって、今更やりなおせるハズもないけれど、それでも…… 僕は、伝えようと思っていた。そう。どんなに遅かろうとも、伝えなきゃならない。   ところが――   「はぁ~。今日はもう疲れたから、カナも一緒に寝ちゃうかしら~」   おいおい、そりゃないだろう。せめて、僕の話を聞いてからにしてくれよ。 そう告げようとしたけれど、僕の唇は金糸雀の指に封をされてしまった。   「ジュンも、もう休んで。あなたは充分に闘ったかしら。だから、もういいの。  大切なお話なら、また明日……ゆっくりと聞かせてちょうだいね」   金糸雀の囁きは、まるで睡魔の歌のようで、僕を朦朧とさせる。 もう限界だ。意識を手放して、意識が閉じかけた一瞬、金糸雀の声を聞いた。   「おやすみなさい、ジュン。ずっと愛してる。ずっとずっと――」   夜闇の中、眠りに落ちる寸前の、低く澱んだ囁き。 それは、なぜか、地の底から響いてくるようだった。   「ずぅっと、ずぅっと」       ▼  ▲     眩しい日射しが、僕の顔に照りつけていた。 もう朝か。それとも昼ちかくだろうか。ずいぶん眠った気がする。 その証拠に、身体の疲れは、すっかり抜けていた。   「そうだ……金糸雀は!」   我に返って身を起こした僕は、そこで自分の目を疑った。 僕の目の前に、一面の草むらが生い茂っていたからだ。 布団も、部屋も、家そのものが消失していた。   なんだ、これ? 呆然と立ち上がって、また呆然とした。 そこで改めて、自分の居る場所を知った。 僕は、腰ほどまである夏草の藪の、ど真ん中に居た。   「どうなってるんだ? 金糸雀! おい、金糸雀っ! どこに居るんだよ」   叫びながら、辺り構わず藪を掻き分ける。 草の端で指が切れて、血塗れになろうとも、腕は止めない。 そして――僕は、見つけてしまった。すべてを理解してしまった。   草に埋もれた石碑。 金糸雀と刻まれた、小さな小さな墓標。   金糸雀……君は……ずっと、僕を待っててくれたんだな。 姿が変わっても、僕だけを想い続けてくれてたんだ。   「ごめんよ。こんなにも待たせて、ごめん」   僕は、墓標にすがりついて、泣き濡れた頬をすり寄せた。 そして、心の中で誓った。もう、どこへも行かない。 彼女が僕を待ってくれていたように、僕もまた、ここで彼女を待ち続けるのだ。 たとえ運命の気まぐれに過ぎなくても、夢幻で再会を果たせるまで、ずっと――     それが、僕の見つけた『夢』と言う名の新しい希望だから。          『そして、蛇足という名のエピソード』     いきなり肩を叩かれて、僕は我に返った。 半ばまで出た欠伸が引っ込むように、意識が身体に飛び込んでくるのを感じた。   僕は今、人も疎らな博物館の館内に立っている。 高校の夏休みも、残すところ僅かとなった日の午後一時。 だらだら先延ばしにしてきた自由研究を、ここらで片づけてやろうと一念発起したのだ。 ちなみに、僕らは郷土史についてのレポートを書く予定だった。     それにしても、誰なんだ。人が妄想に耽っているところを驚かせやがって。 苛立ちも隠さず振り返ると、人好きのする陽気な笑顔にぶつかった。   「……おまえかよ」   彼女――幼なじみにして腐れ縁の金糸雀は、僕に仏頂面を向けられるや、ぷぅっと頬を膨らませた。   「まっ! 曲がりなりにも共同研究者に対して、ヒドイ言い種かしら。  なんか難しい顔してるから、心配してあげたのに」  「はいはい、そりゃどうも」   こいつは下手に突っつくと、口喧しく反撥してくる。根が負けず嫌いなのだろう。 いい加減、こっちも長い付き合いなので、その辺のあしらい方は心得ているつもりだ。 暖簾に腕押し。のらりくらりと躱すに限る。   案の定、金糸雀は吊り上げた眉毛を、すぐに弓張り月へと戻した。   この気の変わりようの早さはどうだ。いつもながら感心してしまう。 そのくせ、譲れないことは頑として譲らない、一本気な性格ときている。 敢えて一言で表すなら、『健気』が最適だろうか。   「ところで、ジュンは何を見てたかしら? かなり真剣な表情だったけど」   そんな顔してたかな? 思わず頬に手を遣った直後、「ええ、とっても」 金糸雀に心を読まれていた。いつもながら、察しのいいやつだ。 それとも僕は、自分で思っている以上に、感情が仕種に現れる質なのか。   「今にも頸を吊りそうな雰囲気だったかしら。なんか心配になっちゃって」 「なんか嫌だな、その形容。……まあ、いいけど」   僕は、ショーケースの中にある展示物を指差した。「これなんだけどさ」 江戸時代――元禄の頃の書だというソレは、達筆すぎて簡単には判読できない。 母国語を読めないなんて変な話だけど、良くも悪くも、僕らは活字に慣れすぎているのだ。 たぶん、意外に才女な金糸雀でも、原文は読めないだろう。   僕の見立てはドンピシャで、金糸雀は、くりくりした瞳を注釈へと向けた。 そして、「ああ……夫婦岩のお話ね」と、哀れみを含んだ相槌を打った。   「知ってるんだ?」 「この近所に伝わる民話としては、割と有名な哀話かしら」 「へぇ、そうなのか。恥ずかしながら、僕は、これが初見だよ。  口語訳を読んでたんだけど、なんか感情移入しちゃってさ」   見かけに拠らずロマンチストだねと、冷たい笑みを浴びせられるかと思いきや――   「解るなぁ、それ」   金糸雀は愁いを込めた眼差しを、茫乎として彷徨わせた。   「特に、ラストで男の人が岩と変じて、彼女の墓石と寄り添うところが一途よね」 「だな。ある意味、ハッピーエンドなのかも」   僕としては、あまり好きになれないラストシーンだけど。 だって、そうだろう。人間、いつかは死に別れる。避けようのない現実だ。 そこで後追い自殺なんかするのは、後味悪い想いの転嫁に過ぎないじゃないか。   「ちょっと座らないか」 「……そうね」   いい加減、歩き詰めの立ちっぱなしでくたびれた。気分転換もしたかったし。 僕らはロビーに置かれたベンチに陣取って、肩を寄せ合った。 すると、五秒と経たないうちに、金糸雀が話しかけてきた。   「ジュンは……」 「うん?」 「愛と夢と、どっちかしか選べないとしたら、どうするかしら?」   『夫婦岩』の逸話は、彼女の心理に少なからぬ影響を及ぼしているようだ。 僕は腕組みして、一寸、考えてみた。   「正直、分からないな。そういう状況になってみないと」 「想像もできない?」 「と言うより、する気がない」   どちらを優先するかなんて、その時々の状況で変わるだろう。 だから、僕には、どちらとも言えない。言う気もない。 今ここで真剣に悩むことに、何ら意義を見出せなかった。    金糸雀は、そんな僕をしげしげと眺めて、「ふぅん」と。 ちょっとばかり興を削がれたような面持ちになった。 けれど、すぐに持ち前の性質を発揮して、表情を輝かせた。   「愛か夢か……カナは、好きな男の子には夢を選んで欲しいかしら」 「どうしてさ。『夫婦岩』の話に感化されたか」 「んー、そんなつもりはないけど。強いて言えば、女の子としての望み、かな」 「女の子だったら、普通は愛を優先してもらいたいんじゃないの?」 「そんな女々しいヒトは、願い下げかしら。闘うべき時に、闘ってくれなければ、  百年の恋も冷めるというものよ。頼りないし、応援のしがいもないかしら」 「……なるほどな。歯がゆい気分にはなるかも」   我が意を得たとばかりに、金糸雀は「でしょ」と破顔一笑する。 不思議なもので、いつの間にやら、僕の口元にも微笑が移っていた。   「女の子ってね、本気で好きになったら、全力で支えてあげたくなっちゃうものなの。  本能的なものかも知れない。考えてみたら、損な役回りかしら」 「かもな。結局、『夫婦岩』の女性だって気苦労が祟って、早世しちゃった訳だし」 「でも、彼女は幸せだったと思うかしら」 「そうであってくれたら、こっちも救われるけどね」   帰らない人を待ち続けるなんて、よほど強い想いがなければ、できやしない。 生前だろうと、死後だろうと、健気な想いが遂げられて欲しいと願うのは人情だ。 おそらくは『夫婦岩』の逸話も、第三者の願望と自己満足が生みだした幻想なのだろう。   「ねえ、ジュン」 「なんだよ」 「男の子は、どうなのかしら」 「なにが?」 「だから、愛か夢か。好きな女の子には、どっちを選んで欲しい? 男の子としては」 「ん、そうだな……」   男としては、愛を選んで欲しい……気がする。 無条件で、好きでいてもらいたいと――独占欲が上回ってしまうんじゃないだろうか。 そう答えると、金糸雀は小鳥のように、ちょこんと頸を傾げた。   「そうなのかしら? 女性の夢を応援したいって男性も、大勢いると思うけど」 「上辺の意見じゃないのかな、それって。世間体とか、理解あるフリをしてるとか」 「擦れた見方をするのね、ジュンって」 「ひねくれた性格なんでな。でも、反対のための反対をしてるつもりはないよ」 「……と、言うと?」 「つまりさ、男は根が甘えん坊だから、自分に注がれていた愛を奪われるのが怖いんだよ。  夢だなんて漠然としたモノでさえ、男にとっては恋敵なんだ」   だから、男女の仲は見解の相違から破綻するのだろう。 ――なんて、したり顔で言う僕はまだ、そこまで深い恋愛をしたことがないけれど。 もしも恋人ができたとして、そのヒトが僕よりも趣味の世界に傾倒していったならば、 やはり穏やかでは居られないと思う。 ともすれば、顧みて欲しいばかりに、彼女の趣味を憎悪するかも知れない。   「そっか……そういうものなのね」   金糸雀は、思い出したように呟いて、頻りに頷いた。   「とっても面白い意見だったかしら。また、聞かせてね」 「僕の意見なんか、あんまり参考にならないぞ」 「い~のい~の。お喋りできることに意義があるんだから」 「少しばかり、背伸びしすぎな話題だったけどな」   愛か夢か、だなんて―― 僕らはまだ、それほど多くの選択肢を見出せるほど人生経験を積んじゃいない。 今は、その練習期間の真っ最中なのだ。 けれど、僕も金糸雀も、いつかは想い悩む時がくる。 降りることが許されない勝負で、選択を迫られる時が。 僕はその時、不退転の覚悟を示せるだろうか。 『夫婦岩』の男みたいに、夢に挫け、儚い愛に縋ってしまわないだろうか。     ――まあ、先々のことを不安がっても詮ないことだ。 それより今は、目と鼻の先に横たわる、もっと深刻な問題を片づけなければ。   「さて、と。すっかり話し込んじゃったな。ぼちぼち再開するか」   勢いつけて立ち上がった僕を追って、金糸雀も腰を浮かせた。 そして、僕の肩に手を乗せ、耳元に囁きかけてきた。   「もし……もしもね、ジュンが愛か夢かで悩んだ時は……  カナよりも、夢を選んでね」 「はあ? なにトチ狂ったこと言ってんだ、おまえ」   いきなりな台詞だったので、僕も意地悪く、ぶっきらぼうに応じた。   「おまえが僕の彼女になるだなんて、想像もできないっての」 「んもう、ジュンったらイケズぅ~」 「それにな、幼なじみは大概、親友どまりなんだよ。はい残念でした!」 「えぇ~、そんなぁ」   金糸雀は瞳を潤ませて、さも残念そうに肩を落とした。 さすがに、ちょっと冗談が過ぎて虐めになったかも知れない。 僕は、「けどな」と切り出すなり、金糸雀の頭をぽんぽんと叩いた。   「もし……もしもだぞ、僕とおまえが付き合うようになったとして、だ。  そんな選択を迫られた時には、約束するよ。お前の願いどおりにするって」 「ホントかしら?」 「ああ。ただし、僕はこれで意外に欲張りなんでな」 「……だから、なに?」   僕の言わんとすることが本気で理解できないらしく、真顔で訊ねてくる。 普段、必要もない場面では察しがいいくせに、なんでこう肝心なところで鈍いかな、こいつは。 それとも、分かっていながら、トボケているとか。   案外、ありそうなだけに、うまうまと踊らされるのは癪に障るが―― まあ、いい。ここで意地を張り合っても仕方がない。 金糸雀の深く澄んだ瞳を、まっすぐに見つめて、僕は言った。   「僕が夢を追う時には、おまえも連れて行く。引き摺ってでもな」 「カナが、嫌だって言っても?」 「応援してくれるんだろ?」 「それは、まあ……かしら」 「じゃあ問題ないじゃん。ま、もしもの話だよ。あんまりムキになるなって」 「……そうよね。もしもの話だったかしら」   金糸雀はコツンと自分のおでこを叩いて、ちらと舌を出して見せた。   こいつの、こんな陽気な仕種が、僕はとても気に入ってたりする。 口に出したことは、一度としてないけれど。   「さっ! そろそろレポート書き始めなきゃね」 「ああ。できれば今日中に終わらせたいな」 「それはちょっと無理っぽいかしら」 「ズバッとテンション下がること言うなよ。気の持ちようが大事だぞ」 「あははっ。ごめ~ん」   ――なんて。 僕らは軽口を叩きながら、また、展示されている民俗学の資料を見て回った。 その途中、金精さまを見た金糸雀が茹でダコみたいに真っ赤になったりもしたけど、 基本的には、普段どおりの一日だった。   帰り道でも、いつもと同じポジション。歩調を合わせ、ふたり、並んで歩く。 世界が焼け色に染まっていく中で、僕は徐に切り出した。   「あ、そう言えばさ」 「なぁに?」 「さっき説明書きを読んで知ったんだけど、『夫婦岩』って割と近所にあるのな」 「そうね。カナたちの町からだと、自転車で三十分くらいの距離かしら」 「明日、どうかな」 「えっ?」 「だから、見に行ってみようかと思ってさ。明日、暇か?」   いきなりの誘いで呆然とするかと思いきや。 金糸雀は、瞬時にして満面の笑みを湛え、僕の腕に抱きついた。「もちろんっ!」   「カナは、いつだって付き合ってあげるかしら」 「……微妙に言葉のニュアンスが違ってるような気が、しないでもない」 「気のせい気のせい。うふふ……明日、晴れるといいなぁ」 「ああ、そうだな」   過ぎゆく夏の夕暮れ。街にはまだ、昼間の熱気が居座っている。 そんな時に抱きつかれたら、正直、暑苦しくてかなわない。 実際、触れ合っている箇所は、もう汗ばんでいた。   でも、どうしてだろう。 今日に限って、汗をかいた素肌がぺたぺた吸い付く感触が、不思議と心地よかった。 こういうのも悪くないかな……と、素直に思えた。       ▼  ▲     あの頃の僕らは、想像さえしていなかったよな。 数年後に、『もしも』と茶化していた話が、こうして現実となっているだなんて。   ひょっとしたら……そう、これは僕の勝手な思い込みに過ぎないのだけれど。 僕らは、超自然的なナニかで結びつけられた、空前絶後の腐れ縁だったのかも知れない。 抱き合って、ひとつの岩に変じてしまうほどに強力なナニかで――     「ジュン。そろそろ時間かしら」   僕は回想を中断して、傍らに佇む金糸雀へと、顔を向けた。 当時を知る友人たちに言わせると、こいつは見違えて美人になったそうだけど……本当かねぇ? 毎日のように顔を合わせてる僕には、よく分からない。   高校を卒業してからも、僕らは自然と近くにいて、いつの間にか交際していた。 愛の告白とかラブレターを書いたとか、そんなのは一切なかった……と思う。 それなのに、なんでだろう? これもまた、今もって分からない。   ただ、あの時、博物館で語ったとおり、金糸雀は僕を支え続けてくれている。 夢を掴むべく邁進するあまり、たまに辛く当たったりもしたのに。 それでも、ここまで付いてきてくれた。   「本当に、ありがとな。マジでさ、感謝してる」   今日、僕らは夢に向かって、さらなる大きな世界へと羽ばたく。 そのスタートラインに立って、僕は素直な気持ちを伝えた。 金糸雀は、意表をつかれたように、ぱちくりと瞬きをした。   「どうしたの、急に。ちょっとセンチメンタルになったかしら?」 「ん、いや……今まで、ちゃんと言ったことなかったから、それで」 「へぇ~。一応、気にしてくれてたんだ?」 「当然だろ。そこまで人非人じゃないって」 「うん……知ってる。ずっと前から、ね」   こんな風に、僕らは語り合ってきたし、これからも語り合っていくのだろう。 七十億に達しようかという人類の中で巡り会った、奇跡のふたり。 この縁を愛おしく思えないのなら、それは究竟の不幸と言わざるを得ない。   「愛か夢か、じゃないよな」 「愛も夢も、でしょ?」 「ああ! これからも、よろしくな」 「こちらこそ、よろしくお願いするかしら。ずぅっと、ずぅっと、ね」   ずぅっと、ずぅっと―― なぜだろう。遥かな昔にも、誰かに囁かれた憶えがある。 あれは、いつのこと?     まあ、それは機内で思い出せばいいか。先は長いのだから。 僕らは荷物を手にして、国際便の搭乗口へと向かう。 いつものように、ふたり、肩を寄せ合いながら――           〆  

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