第十話 『fragile』
針葉樹の森が落とす濃い影の中、抗議するような悲鳴を放って、自転車は停まった。いい加減、ブレーキシューの交換時期なのだろう。どうにも止まりが悪い。雛苺が鞄を抱えたまま、自転車の荷台から、身軽にすとんと飛び降りる。それを待って、脚を踏ん張って支えていた雪華綺晶も、サドルから腰を浮かせた。 アルプスから吹き下ろす冷風に晒されて、2人揃って身震いする。ごしごしと二の腕をさすりながら、雪華綺晶は両の肩を竦め、顔を上げた。彼女の眼差しの先には、廃屋かと疑わしくなるほど古びたログハウスが在る。屋根の煙突から僅かに吐き出される白煙が、辛うじて、住まう者の気配を漂わせていた。 それにしても――雪華綺晶は、針葉樹に囲まれたログハウスのドアを凝視したまま、回想した。さっき、雛苺が口にしていた、とある秘密結社の話を。 (よりによって、薔薇十字団ですって? あんなもの、ただの都市伝説でしょう) まことしやかな噂話ほど、実のところ、アテにならないものだ。人里離れて暮らす偏屈な人形師に、意地の悪い誰かが、脚色を加えたのだろう。きっと、その程度のこと。風聞には良くあることだと、彼女は一笑に付した。 「あ……鞄は、私が持ちますわ。こうなったのも、私の失態ですから」 雪華綺晶は鞄を受け取ると、雛苺に扉を開けさせて、ログハウスに足を踏み入れた。ここは、ただの工房――そう思い込んでいた彼女たちは、次の瞬間、異様な光景に息を詰まらせ、言葉を失うこととなった。夥しい数の人形が、一斉に、2人を無機質な瞳で見つめていたのだから。 第十話 『fragile』 ジュモー、ブリューを初め、製造元や大きさも様々なビスクドールが、何十(或いは百を数えるほど)となく、壁に設えた棚に陳列されていた。どの人形も抱っこしたくなるほど愛嬌たっぷりなのだが、こうも数が揃うと、威圧的でさえある。異様な雰囲気に圧されて、雪華綺晶たちは表情を堅くしていた。 ぱさぱさ――開け放したドアから吹き込んだ風が、テーブルに広げられた新聞の端を巻き上げる。ル・モンドだ。開かれていた紙面には、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、ドイツの総選挙で第一党となったことが報じられていた。……だが、今は外国の政治についてなど、どうでもいい。 「何か、用なのかい?」 不意に奥の部屋から問われて、娘たちは慌てた。人形にばかり気を取られるあまり、注意が疎かになっていたらしい。もし彼が黙ったままだったら、居ることにすら気づかなかったことだろう。声のした方を窺い見れば、この家の主たる人形師の男性の背中が、目に留まった。よほど作業に没頭したいらしく、振り返るどころか、手を止めようともしない。 「あの……お仕事中、失礼します」雪華綺晶は人形師の背中に、丁寧に話しかけた。「お人形の修理を、お願いしたくて」 『人形』と耳にして、やっと人形師は作業の手を止め、徐に立ち上がった。思いがけず大柄な男性だった。身長は2メートル近い。 「どれ? 見せてみて」 声の響きは若々しいが、なんとなく物憂げな口調。実際、億劫なのだろう。そうガツガツ仕事をこなさずとも、生活には困らないらしい。いいご身分だ。 クセのある金髪を手櫛で撫でつけながら、男性が溜息まじりに振り返った。その面差しは、意外なほど若い。お世辞抜きに、かなりの美青年だ。人形師という職種から、もっと頑迷で厳つい中年の職人を思い描いていただけに、彼の端正な顔立ちを目にするや、雪華綺晶たちは暫し見惚れてしまった。落ち着いた物腰から察するに、歳の頃は30前後といったところか。 だが、雪華綺晶を見た瞬間、それまで鷹揚に構えていた青年の様子が一変した。切れ長で涼しげな双眸を、いっぱいに開いて……明らかな動揺を浮かべている。彼の青い双眸は、雪華綺晶に釘付けとなっていた。 「お…………おお……」 青年の半開きになった唇から、低い呻きが零れだす。そして、2人の娘たちが訝しく思うよりも早く、彼は雪華綺晶に掴みかかっていた。 「ば……薔薇水晶っ!?」 突如として、全く面識のない者に迫られたら、誰であれ身を引くだろう。それが、自分より遙かに身長が高く、腕力に勝る相手だったなら尚のこと。 「きゃぁ! イヤぁっ!」 ただでさえ華奢な雪華綺晶は、すっかり脅えて顔面蒼白となり、さっきまで重そうに抱えていた鞄を、軽々と青年に叩き付けた。しかし、鞄に胸を強打されようと、青年は決して、掴んだ彼女の腕を離さなかった。 「や、やめてなのっ! きらきーを苛めちゃダメなのよーっ!」 雛苺は小柄な体躯にも拘わらず、ガムシャラに青年の脚へと飛びかかる。人形師の青年は動じず、憑かれたような眼で、雪華綺晶を凝視していた。 「きみは、薔薇水晶だ! 生まれ変わった、僕の大切な一人娘だ!」 衝撃の言葉を、口にした。ビクリ……と、雪華綺晶と雛苺が、身体を震わせる。雛苺は、彼の言葉を胸裡で反芻しながら、怖々と話しかけた。 「ホントに……きらきーは、貴方の娘なの?」 青年は、ああ……と。返答とも溜息ともつかない呟きを放って、重々しく頷いた。彼の青い瞳は、雪華綺晶の胸元に輝くペンダントを、ひたと見据えている。「その、雪の結晶を象ったペンダント――薔薇水晶のために、僕が作ったものだ。 それこそ、きみが僕の娘であることの、なによりの証だよ」 「ウソ…………ですわ」ペンダントを手で覆い隠して、雪華綺晶は呟いた。「私は、雪華綺晶! あなたなんて知らないっ! 薔薇水晶なんて……知らな……い」 その言葉は、しかし、徐々に尻すぼみとなってゆく。コリンヌに出逢うまでの記憶がない。そのことが、彼女に断言を躊躇わせていた。雪華綺晶は、かつて無いほどの頭痛に襲われ、頭を抱え、蹲ってしまった。 「き、きらきー?! 大変……お顔が真っ青なのよ。早く帰らなきゃ! お人形の修理代は、受け取るときに払いますなのっ」 二人の間に割って入った雛苺が、青年に睨みを利かせながら、雪華綺晶を連れ出す。が、彼は追いかけてこなかった。遠ざかる娘たちを、悲しい眼で見送っていただけ。 小屋を出るなり、雪華綺晶は激しい頭痛に堪えきれず、その場に跪いて吐瀉した。胃酸に喉を灼かれ、激しく咽せる彼女の背中を、泣きそうな顔した雛苺が撫でさする。そんな2人を、季節風に揺さぶられた木々のざわめきが、不気味に取り巻く。まるで、平凡な日常という砂上の楼閣が崩れゆく音のよう。雪華綺晶は咽びながら、そう思った。
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