薔薇乙女家族その二
薔薇乙女家族その二僕がまだ幼稚園に通っていた頃の話だ。いつも先生が手入れしていたお花畑。そこに彼女がいる。黄色や赤の花が咲き誇る中、お日様の光を受けて彼女はやさしく笑っていた。彼女が微笑みを浮かべながら花と戯れるその様子を僕はずっと見ていた。別にそんな珍しくもない、ほんとに何気ない光景であったが、それに釘付けだったのをよく覚えている。 君がこれを聞いたらきっと笑うだろう。だから君には聞こえない様にそっと囁く。「あの頃から、すでに君に惚れていたんだよな…」一つのベッドで今日も今日とて愛の営みを終え、ぐっすりと眠りにつく彼女の頬に軽く口付けをする。あの頃は清純そうな女の子だと思っていたが、まさかここまで扇情的な女になるとは予想できなかったなと、今さっきまでの彼女を思い出す。そのセックスアピール満点の体で誘惑し、銀色の髪を振り乱して男に跨り、快楽を貪り喰らうその姿はまさにサキュバスを彷彿とさせた。月明かりを身に受けてる白い肌は妖しく光り、目は僕の目を常に捉えていて視線を外せない。まるで金縛りにあったかの様な感覚に陥る事もあり、濃密なフェロモンが脳を過度に刺激しているのがひしひしと伝わる。 男の本能を刺激するその恵まれたボディを、男の本能を以て彩りたい、侵したいと脳がオーバーヒートを起こす。そして気づいた時には全てが終わっているといった事もあり、結婚する前の若かりし時は相当肝を冷やしたもんだった。 おまけに「サキュバス」は一度だけでは満足できず、繰り返し求めてくる。その都度に応じる体に鞭を打ちつけるハメになるのも多々あるが、彼女の誘いを断るほどの精神的な強さは持ち合わせていなかった。 「ふぅ…」体の所々が筋肉痛の兆候を見せ始めているのを五感で感じつつベッドを後にしようとした時、足が何かを踏んづけた。彼女の下着だ。…ついでに床に散らかった彼女の服を畳んでおいてやろう。畳んだ服をベッドの枕辺りに適当に置いておく。彼女が相変わらず心地良さそうに寝ているのを確認してからドアに手を掛けた。部屋を抜けて階段を下り、歩を進めた先は台所だ。冷蔵庫を開けてみる。ヤクルトにオレンジジュース、紅茶のボトルが何本か…ヤクルトが無くなってきたな。今日買ってくるか…。後はハムやらソーセージやらがある。 僕は適当にジュースと肴になりそうな物を取り出してパタンと閉めた。テーブルに冷蔵庫からくすねた物を広げる。後は適当に喉を潤わし、適当に腹を満たす。ふと窓を見ると、綺麗な満月が顔を出しているのが分かる。そう言えば昔はよく夜間に家を抜け出して、月明かりの下で散歩をしていたものだった。警察に見つかれば即補導されていただろうに違いないが。 テーブルの上で食い散らかした物をまとめて片付けて、フラフラとした足取りで玄関に向かう。たまには昔みたいに、満月の下で歩くのも悪くないだろう。「…結びかねたる露営の夢を、月は冷たく顔覗き込む…♪」タイトルは忘れてしまったが、確かこんな歌だったよなと思い出しながら口ずさむ。メロディーラインも不確かなので音もテンポもずれているだろうが、誰が聴いているわけでもない、気にする事は無い。 歌詞すら分からない部分を適当に不格好なハミングでごまかしながらのらりくらりと歩く。この道は朝は学校へと登校する子供達で賑わい、夕方は帰宅する子供達の楽しげに話す…内容は様々だ。恋愛話にテストの点数の競い合い、時折喧嘩する様子も伺える…声で冷たいコンクリートを和ませるが、日中は静かな通りだ。 民家が並ぶだけで、店という物も無いからだろうか。街灯の数が少なくなってきた。頼りの明かりが無くなって、行く先が暗闇に包まれている。そう、何も見えないはずなのだ。そのはずなのに、何故僕の目前の暗闇に「彼女」が見えるのか。「彼女」は暗闇の中にぼうっ…と浮かびあがって見える。暗闇というスクリーンが「彼女」を映写機で映しているかの様に。「彼女」はその黒色のスクリーンの中で、膝を抱くようにうずくまっている。「彼女」は泣いていた。きれいな銀髪の女の子、どうして泣いているの?口が勝手に動いた…ような気がした。「彼女」は膝の中から顔を出した。涙で頬をすっかり濡らしている。みんなが私をいじめるのぉ…。みんなが…私の大切な…お人形さんを…壊しちゃった…のぉ…。涙が止まらない。嗚咽を上げながら「彼女」が言う。…見せてごらん。そのお人形さんを。「僕」が言うと、「彼女」はお人形さんを見せてくれた。お人形さんとは、背丈三十センチ程のくまのぬいぐるみの事であった。所々が破れて綿を覗かせおり、右腕に至っては肩の辺りから千切れてしまっていた。 …少し待っててね。「僕」はポケットから絆創膏を取り出した。お母さんが怪我をした時に使いなさいと言って持たせてくれた物だ。それを傷付いたくまのぬいぐるみ…特に、綿が露出している所…にペタペタと貼り付ける。腕は白いビニールテープで無理やりではあるがくっつけた。 かくして、(良かれと思ってした事ではあったのだが)くまさんは絆創膏だらけ、おまけに右肩に包帯ぐるぐる巻き状態という、マシになったのか余計酷くしちゃったのか分からない様な状態になってしまった。 ごめん…僕、ぬいぐるみのお医者さんって初めてだから…「僕」が「彼女」に申し訳なさそうに謝る。女の子を助け、守らなければならない男としての面子は丸つぶれだった。だが「彼女」は笑ってくれた。きっとこの子は喜んでくれているわぁ。そう言ってくれた。 ありがとぉ…。くまのぬいぐるみを抱きしめながらお礼を言ってくれた。その途端、「僕」はその可愛い笑顔に胸を射抜かれた感覚を覚えた。カッと頬を紅に染めた「僕」は、彼女にある約束をする。僕、いつか服を作る人になるんだ。その時、そのくまさんを綺麗に直してあげられるかも…。あ、もちろん、君にもたくさん服を作ってあげる!「彼女」はボッと頭に火がついた様に真っ赤な顔をした。「僕」は全く無自覚で、しどろもどろになる「彼女」を不思議そうに見つめていた。………約束よぉ?うん。約束するよ!気づけば僕は、公園のど真ん中に立っていた。右を向いても左を見ても、公園の遊具…子供達の遊具による事故が多発したせいか、一部は撤去されたみたいだ… しかない。「彼女」も「僕」もいない。…夢でも見ていたのか…それとも…。夜空を仰ぐと、星空を統べる満月がこちらの顔を覗き込んでいた。僕は満月に化かされていたのかもしれない。「…帰るか」公園に背を向けて、また歩きだした。帰り道が妙に明るいと思ったら、行きの時は消えていた街灯が機能を取り戻していた。これも満月のせいだったのかは分からない。知る由もなかった。 帰り道を歩いている時、昔の記憶が頭の中に次々に流れてきた。約束の指切りをした後、彼女は花畑にとてとて走り出して、僕の方へ振り返った。彼女は頬が濡れたままだったがもう泣いていなかった。花畑の真ん中で微笑みを浮かべていた。綺麗だと子供心にそう感じた。 その日から彼女と親しくなった。クラスは違ったものの、時間があれば彼女に会いに行ったし、彼女も会いに来てくれた。毎日毎日、彼女と話をしていた。そう言えば、こんな話もしたなとふと頭に思いつく。…コウノトリって知ってるぅ?コウノトリ…?コウノトリは幸せな恋人同士の所に赤ちゃんを持って来てくれるのよぉ。…へぇ…そうなんだ…。…私…の…にも…時か…。……?!何でもないわぁ!!…??…あの時彼女はなんて言っていたのかはよく聞こえなかった。だがこんな昔の事、彼女自身だって忘れているに違いない。もう確かめる術はない。溜め息を一つすると、突然目の前が眩しくなった。そして、例の愛しい人の声がした。「どこ行ってたのよぉ!」懐中電灯片手に、彼女がそこに立っていた。彼女は一度寝たら朝まで起きないはずだ。それを知ってるから僕は度々台所の冷蔵庫をこっそり漁ったりするし、今回の様に深夜の散歩に出る事を決めた。正直、彼女がこんな時間に起きてくるとは誤算だった。 僕は彼女に詫びると、彼女は溜め息を軽くついた。「せめて、メモくらいはしてほしいわぁ…」なんだか、母親とその子供の会話みたいだ。思わず鼻で笑ってしまう。聞こえない様にしたつもりだったが、彼女の耳にははっきりと届いたらしい。頬をふにっと摘まれた。「本当に心配したんだからぁ…」彼女の瞳に、少しだけ潤いを見た。「…ごめん。ごめんよ…水銀燈」僕はただ、彼女に詫びるだけだった。それからしばらくは沈黙が続いた。時折彼女の顔を覗き込んでみるが、少し俯いていて表情が読めない。彼女は何か考え込んでいるみたいだが、一体何を考えているのかはさっぱり分からない。かと言って、自分の落ち度もあって、彼女に尋ね訊くのも憚られた。 苦し紛れに周囲を見渡す。街灯には蛾や小さい羽虫が灯りに群がっている。一匹一匹の羽虫が街灯を中心に旋回飛行を続けているその様子は、一つの灯りの奪い合いをしている様にも見えた。 相変わらず民家しかないこの通りに、光を灯した建物は無い。みんな夢に浸っている頃なのだから当たり前なのだが、みんなが寝ている頃にただ僕達だけが起きて、こうして外を歩いているというのはなんだか不思議な気分になる。まるで世界が変わって見える。 今この一時だけは僕達二人だけの世界。そう言うと聞こえは良いが、この沈黙をごまかしてくれる人の登場にも期待できないのだから考え物だ。空を見上げてみる。街灯があるせいで幾分かの星は光に隠されて見えないが、相変わらず満月はそこにあった。何も口を利く事もなく、ただこちらの様子を見守っているだけだった。 …それにしても、この気まずい時間は何時まで続くのか。そう思った矢先の事だった。「私、夢を見たわ…昔の夢…」心臓がドキッとした。「あなたはもう覚えてないでしょうけどねぇ…。コウノトリの話、覚えてるぅ?もう十何年も前の話だけどぉ…」僕は軽く頷いた。確かに今まで忘れてしまっていたが、満月のいたずらのおかげでしっかりと思い出した。「あの時の私ったら…「コウノトリさんは、私達の所にも何時か来てくれるかな?」だなんて言ってたのよぉ。私「達」よぉ?全く、ませたガキだったわぁ」苦笑いして彼女が言った。図らずも、頭の中の欠損したジグソーピースが見つかった。僕は「そうか、そうだったのか」と一人納得していた。「でも…」彼女が続ける。「結局、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるってのは嘘だったわねぇ」僕はそれに直ちに答えた。「でも、僕の所にはちゃんと来てくれたよ。コウノトリが」彼女が合点のいかない様な顔をした。「僕にとってのコウノトリは、水銀燈、君だ」我ながらクサい台詞を吐いてしまった。それを聞くや、案の定彼女が吹き出した。「じゃあ私のコウノトリさんはあなただった…と言うことねぇ、ジュン♪」彼女が腕に抱きついてきた。結局、幼い子供であった二人が夢見たコウノトリは、自分自身であり、彼女自身だった。すでに出会えていたのに、それが来てくれるのを僕達は待ち望んでいたのだから何だか皮肉な話だ。 「そういえば…水銀燈」「なぁに?」「よくこんな時間に起きたじゃないか。普段は…」彼女が僕の唇を人差し指でおさえる。「私が眠れるのは、あなたのぬくもりを感じられるからよぉ♪」………それは卑怯じゃないか?そんな事言われたら…僕は…。「やだぁ、顔真っ赤じゃなぁい♪」「………うるさぃ…」何だか悔しいので、蚊の羽音よりも小さい声でささやかな抵抗をしてみる。無駄な抵抗そのものだった。恥ずかしくて堪らなく…本日何度目かも分からないが…天を仰ぐ。コウノトリがくちばしに揺りかごをくわえて、流星の如く駆け抜ける姿を見た様な気がした。終
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