『パステル』 -9-
薄っぺらなガラス一枚で隔てられた向こうは、宵の口。引きも切らさず車窓を過ぎゆく光華は、夜の訪れるにつれて数を増してゆく。 薔薇水晶と、雛苺――疾駆する車内に、2人だけ。ジョナサンの駐車場を出てから、もう相当な時間が経っていた。助手席に座る雛苺は、窓越しの景色に、そわそわと目を彷徨わせるばかりで。その落ち着きのなさは、隠し事が下手な彼女の、逡巡の表れだった。 薔薇水晶が見せてくれた、携帯電話の待ち受け画像――たおやかな乙女の微笑みが、雛苺のアタマに焼き付いて離れなかった。 あの銀髪の女性が、水銀燈その人であるなら……真紅に教えれば、すべての予定をキャンセルしてでも、同行を申し出たに違いない。彼女は、それこそ無我夢中で、幼なじみの行方を探していたのだから。 けれど……そうと知っていながら、雛苺は敢えて、真紅に伝えなかった。正確には、言い出す余裕がなかった。いきなりのことでアタマが働かず、金糸雀かサラに、伝言を頼む発想もなくて。 「あの、ね」 信号待ちで停車したのを見計らって、雛苺は切り出す。「なに?」と、ハンドルを握る薔薇水晶が、不思議そうに首を捻った。「おトイレ……行きたくなった? なら、どこかのコンビニに――」 そうじゃなくて。雛苺は、頭と手を横に振って、続けた。「訊き忘れてたのよ」 さらに言いかけたところで、間が悪く、信号が青に変わる。薔薇水晶は前に向きなおると、徐に、アクセルを踏み込んだ。思いがけず急な加速が、彼女たちの痩身を、ぐん……と、シートに沈み込ませる。いつもより重たく感じるアタマを、ヘッドレストに預けたまま、雛苺は口を開いた。 「薔薇水晶の、お姉ちゃんのことだけど――」 運命の糸車は、この車のタイヤと同じ速さで、目まぐるしく廻りだしている。それによって紡がれる糸は一体、どのような未来を、たぐり寄せているのだろう。およそ考えにくいことだが、他人のそら似という可能性は、捨てきれない。本人だったとしても、決別の理由が理由だけに、いきなり引き合わせるのは、どうか……。 やはり、実際に会って、確かめてからにしよう。再会の席は、日を改めて設ければいい。――と、さんざん悩んで辿り着いた結論ながらも、雛苺は依然、迷いを払拭できずにいた。進むべきなのか。今更ながらでも、取って返すべきなのか。 雛苺は、頬に不自然な強ばりを感じた。携帯電話を握る手にも、チカラが入っている。ひとつのことに気を取られると、知らず、胸に蟠る煩悶が顔に表れてしまう。巧く立ち回れない自分。自嘲めいた作り笑いで、強ばりを突き崩し、雛苺は続けた。 「お名前は、なんていうなの?」「有栖川アリス」 目の覚めるような即答。「推理作家みたいで、かっこいいでしょ」言って、薔薇水晶は「でも、文章は苦手らしいけど」と、口元を弛めた。 一方、雛苺は『鍵姫物語』という漫画を想像していたが、その話題を出汁にして、薔薇水晶と一緒になって笑う気には、なれなかった。真に欲する答えを得られなかった憤懣が、そうさせていたのだ。 「水銀燈……じゃなくて?」試みに、彼女は手の内にあるカードを一枚、明かしてみる。――が、薔薇水晶は、きょとんとした面持ちで、素っ気なく「誰、それ?」と。 しらばっくれている風ではない。少なくとも、雛苺には、そう感じられた。大体、それらしい嘘を吐くのなら、答えるまでに不自然な間が空きそうなものだ。それがない……と言うことは、本当に知らないのか。さもなくば、どんな時でも自然体を装えるように、普段から訓練されているのか。 雛苺は、我ながら荒唐無稽な発想に、微苦笑を禁じ得なかった。まったくないと言い切る根拠もないが、それにしても、後者の線は考えにくい。やはり、本当に知らないと見るのが正解だろう。 と言って、有栖川アリスという女性が、赤の他人と断定するのは早計にすぎる。水銀燈が身分を隠すために、名を偽っているのかも知れない。はたまた、別の理由だって考えられる。たとえば、花瓶をぶつけられた後遺症で、記憶障害を引き起こしている……とか。 挙げようと思えば、推測の2、3は列記できた。だが、それらはすべて雛苺の勝手な見解であり、およそ適正とは言い難い。話したことは疎か、会ってさえないのだから、率直に言えば中傷の類だ。真紅に聞かされた話だけでは、水銀燈の本当の姿まで見抜けるはずもなかった。 「うっと……ね。ちょっと、失礼なコト訊いてもいい?」「……程度にもよるわ」 いきなり、薔薇水晶の声に、不穏な響きが宿る。 「侮辱するなら、友だちでも許さない」「ち、違うの! そういう意味じゃなくて」「じゃあ……なに?」「2人は、実の姉妹なのかなって」「違う」 またもや即答。しかも、えらく端的だ。人見知りとまでは言わずとも、口数の少なさが、内向的な感じを醸している。雛苺は薔薇水晶に対して、会話慣れしていない印象を抱いた。友だちが少ない……と言っていたのは、紛れもない事実なのだろう。 「それじゃ、お隣とか、ご近所の人? いつから知り合いなの?」 こういうタイプは、趣味とか、共通の話題になると、急に多弁になったりする。それを知っていた雛苺が水を向けると、案の定、薔薇水晶は滔々と語り始めた。彼女の話によれば、2年ほど前の事件が、発端だという。 「うちの前で倒れていたの。ひどく衰弱してて――昏睡状態だった。 お医者さまにも、あと少しで手遅れだったって言われた」 しかも、この行き倒れ娘は、一冊の小説と、わずかな小銭しか持っていなかった。名前はもちろん、どこの誰とも判らず。外国人である可能性も、否定できない。と言って、瀕死の病身と知りつつ厄介払いするなんてワケにもいかず……やむを得ず、薔薇水晶の父親が、医療費などを肩代わりしたとのことだった。 「警察には、通報しなかったなの?」「そのつもりだった。なにかの事件に、巻き込まれたのかも知れないから」 それが当然の判断だし、常識的な対応だ。身元の証明が為されれば、そちらの親族に、立て替えた医療費も請求できる。 ところが、薔薇水晶は「でもね――」と。そう簡単な話ではなかったことを、暗に告げた。 「話を聞いたら、お姉ちゃんには、身寄りがないことが判って」「それなら、なおさら警察に任せたほうが、よかったんじゃないの?」 だのに、有栖川女史は今なお、『お姉ちゃん』のポジションに収まっている。警察への通報が、なされなかった証拠だ。どうして? 雛苺が問うと、薔薇水晶は当時のことを思い出したらしく、声を落とした。 「だって……お姉ちゃん、泣きながら縋りついてきて、お願いするんだもの。 それだけは、やめて。なんでもするから、そばに置いてください……って」 なぜ、そこまで警察沙汰になることを嫌がるのだろう。事件に巻き込まれているのか訊くと、それについては、きっぱり否定したという。薔薇水晶も、彼女の父親も、理解に苦しんだろうことは想像に難くない。 「仕方ないから、お医者さまとも相談して、うちで預かることになった。 症状が快復して、気持ちが落ち着けば、彼女の考えも変わるだろうと――」 そして、2年を経てなお、家族ごっこは続いているワケだ。ぬるま湯に浸かるような生活の心地よさに溺れ、闖入者への警戒心さえ忘れて。それほどまでに、有栖川と名乗った女性は、出来た人物なのだろうか。 「お姉ちゃんって、どんな人なの?」 ややあって放たれた雛苺の問い掛けに、薔薇水晶は一転して、声を弾ませる。「とってもステキな人! 優しいし、知的だし……私にとって憧れの存在よ」 随分とまあ、懐いている。人づきあいに奥手らしい薔薇水晶をして、ここまで慕わしめるのだから、確かに、並大抵の女性ではないようだ。少なくとも、人心を掌握する術には長けているみたいと、雛苺は推察した。 如才ない才媛――真紅の自宅で、初めて水銀燈の写真を見たときの直感が、胸に甦る。よく言えば怜悧。悪く言えば狡猾。考えれば考えるほど、まだ見ぬ『お姉ちゃん』に、水銀燈のイメージが重なる。 「ヒナも、早く会ってみたいのよ。とっても楽しみなの」 雛苺は、胸の動悸を抑え込むように手を当てながら、にこやかに返した。その言葉も、笑顔も、決して社交辞令のお愛想などではなかった。 ~ ~ ~ ――右肩を揺すられ、雛苺は、「ぴゃぁっ」と息を呑んで仰け反った。いつの間にか、微睡んでいたらしい。指先で目元をこすりつつ、左に顔を向けた彼女の視界を、コンクリート壁が遮った。 「着いた……なの?」「うん。車庫入れが済んだとこ」 皓々たる蛍光灯の明かりが、彼女らの置かれた世界の全貌を、露わにしている。薔薇水晶の言葉どおり、ガレージなのだろう。車のボンネットの先には、頑丈そうなシャッターが降ろされていた。 「ここから、すぐ家に入れる」 ついてきて、と。買い物袋を手にして、薔薇水晶は車を降りた。彼女を追いかけて、雛苺もドアを開ける。あらためて見渡すガレージは、意外に広く、物置も兼ねているらしかった。 「……こっちよ」「あっ、待ってなの」 薔薇水晶は既に、ガレージの片隅に設けられたドアのノブに、キーを差し込んでいた。そこが、本来の玄関に抜けるための通路なのだろう。開けられたドア越しに、上へと続く階段が見えた。ガレージ内の消灯と、ドアの施錠を済ませて、薔薇水晶が先に立つ。 「足元、気をつけてね」「うい」 雛苺はデイパックを背負いなおして、しっかりと足を踏みしめる。「んしょんしょ」そうして、コンクリート製の階段を十段ほど登ると、やおら視界が開けた。小さなロビー。足元は、茶褐色のタイル張り。重厚なウッドのドアが、ひとつ。早い話が、この家の玄関だった。 「ただいま」 薔薇水晶の呼びかけに、家の奥から、ぺたしぺたし……。小走りに近づいてくるスリッパの音と、鈴の音を思わす女性の声が、2人を出迎える。 「お帰りなさぁい」 瞬間、雛苺の全身を、電気が駆け抜けた。その声の主こそ、彼女が会いたいと切望した人だと、直感で悟っていた。おずおずと顔を上げれば、銀糸のような髪をリボンで束ねた、エプロン姿の女性が……。 やっと会えた。興味本位で先走った感はあるが、それ以上に、歓喜の念が勝っている。逸る気持ちが、雛苺の足を、前に出させたがっている。だが一方で、緊張のあまり身体が竦み、腰が引けるのを抑えきれない。――結局、雛苺は薔薇水晶の背に隠れて、固唾を呑むことしかできずに。 「ただいま、お姉ちゃん。友だち……連れてきた」「あらぁ、珍しい。その子ね? いらっしゃぁい」 口振りこそ大仰な感じだけれど、その表情は、とても嬉しそうだ。「こんばんわぁ」と向けられた笑顔に勇気を得て、雛苺もはにかみ、進み出た。 「う、と……こ、こんばんわ、なのよ。雛苺っていいます、よろしくなの」「私の名前は、有栖川アリスよ。こちらこそ、よろしくねぇ」 歌うように言って、有栖川は、たおやかにお辞儀をした。なんとも落ち着いた物腰だ。親しげで、取っつき難さや、壁を感じさせない。その割に、押しつけがましさや、ベタベタした馴れ馴れしさなどなくて……雛苺は、沢を吹き抜ける風に包まれたような、爽やかな心持ちにさせられた。 「さぁさぁ。挨拶は、このくらいにしておきましょう。 お客さまを、いつまでも玄関に立たせてるなんて、失礼にも程があるわぁ」「そだね。雛苺……遠慮なく上がって」 そこへもって、2人から誘われれば、断れるはずもない。もっとも、雛苺とて最初から、すんなり引き上げる気ではなかったけれど。 「それじゃ……ちょっとだけ、お邪魔しますなの」「ちょっとだなんて言わず、お夕飯、食べていかない?」 三和土に腰を降ろした薔薇水晶が、靴を脱ぎながら、雛苺に訊ねる。そして間髪いれず、振り返って、もう一言。「いいよね、お姉ちゃん?」問われた有栖川は、慌てた様子もなく頷いた。 「ええ。材料なら残ってるし、もう1人分くらい、すぐに用意できるわ。 貴女は先に、お風呂に入ってきちゃいなさぁい」「そうする。これ……ローザミスティカ。教えてもらったお店で、買ってきた」 ずい、と。薔薇水晶が、紅茶の缶が詰まった袋を差し出す。その思いがけない量には、さすがの有栖川も目を丸くした。 「あらまぁ。随分と、まとめ買いしてきたのねぇ」「7種類もあったから……ひととおり揃えてみたの。こんぷりーと」「それじゃ、食後に頂く紅茶は、先生に選んでもらいしょうねぇ」 くすくす……。有栖川は、幸せそうに微笑みながら、袋を受け取った。こうして見ると、お姉ちゃんというより、むしろ若いお母さん、みたいな印象だ。些細な立ち居振る舞いにも、大きな包容力を感じとれた。 軽やかに階段を昇ってゆく薔薇水晶を見送ると、有栖川は、その笑顔を雛苺へと向けた。 「さ、貴女も、上がってちょうだぁい。すぐに、お茶を煎れるわね」「あの……ホントに、お構いなくなのよ」 もちろん、それは建前。本音は、大いに構ってもらいたかった。理想は、2人っきりで話せる状況だけれど……どうやって、そこまで誘導したものか。 雛苺のアタマに、あのパステルが思い浮かぶ。……が、悠長に絵を描く暇があるなら、折を見て、直撃リポートするほうが早かろう。声を掛けるキッカケを見つけたら、それらしいネタ振りで――たとえば、彼女が倒れるときまで持っていたという、小説についてでもいい。 チャンスは食後の、わずかな時間。それまでは、自然な動作を心がけなければ。くれぐれも、意識しすぎてボロを出さないように。 前を行く有栖川の、さらさらと揺れる銀髪と腰つきに目を注ぎながら、雛苺は、それに向けてのディスカッションを始めていた。 -to be continued-
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